勘定場の坂から来て大原家の前を過ぎると十字路に出る。
左に折れると杵築を代表する坂のひとつ、酢屋の坂。
右に折れるとバスターミナル方面へとつながる番所の坂。
杵築を日本一の城下町たらしめる景観が楽しめる交差点。
だが、ここは直進して佐野家へ向かうことにする。
佐野家は代々御典医として杵築藩に仕え、高名を馳せてきた名門医家。
徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8(1603)年、佐野家の始祖徳安は伊賀国で誕生。
徳安は元和元(1615)年に勃発した大阪夏の陣の騒乱を避けて豊後岡藩へ。
藩医で伯父の佐野卓節の許で医学を修めた後に独立し、杵築へ移り開業。
その医療技術は「刀圭(医術のこと)ノ妙、神ノ如シ」と謳われたほど。
噂を聞きつけた時の藩主小笠原忠知は徳安に宅地を与え、侍医として召し抱えた。
以来約400年、佐野家は御典医として数多くの名医を輩出してきた。
現在では管理者が佐野家から杵築市に変わり、平成2(1990)年11月から一般公開されている。
佐野家の母屋は天明2(1782)年に建築されたのもので、木造建築物としては杵築市最古。
その割に旧状を良好に留めているのは、昭和末期に13代当主の雋一氏が亡くなるまで現役の病院だったからだろう。
中津市の村上と大江の両医家資料館が完全に文化施設化しているのと比べ、まだ佐野家には病院としての名残が残っている。
病院として機能していた古民家の構造を、武家屋敷と比べながら観察してみるのも面白いかも知れない。
藩主の学問好きが影響したのか、杵築城下には学問や芸術に高い関心を持つ風土が醸成された。
佐野家の歴代当主も医師である傍、詩文や書画、茶道、俳諧などの分野で優れた業績を残している。
また、三浦梅園や田能村竹田といった豊後の文人たちとも篤く交流を重ねてきた。
医学を究める傍で風雅を愛してきた佐野家の伝統が、この邸内に今も静かに息づいているかのよう。
ちなみに14代当主の佐野武氏は現在、杵築を離れて東京にいる。
胃がん手術で世界トップクラスの技術を駆使するリアル“スーパードクター”。
佐野医家400年の歴史は、今でも連綿と受け継がれているのだ。
佐野家のある北台から「ひとつ屋の坂」を下りて谷底にある商人の町へ。
昔この坂の近辺に家が一軒しかなかったことから、こう呼ばれるようになったそう。
ただ現代では武家屋敷の風情は若干残しつつも、普通の住宅街っぽくなっている。
坂の真ん中に立つキリスト教の大きな教会が異彩を放っているせいかも知れない。
武家屋敷に比べて商人の町は車道も歩道も道幅が広い。
最近、都市計画で大規模に拡張したからだという。
無論、自動車などなかった江戸時代の道は今よりも細かった。
バスターミナルから杵築城まで通った道がそうかも知れない。
沿道に並ぶ商店は瓦葺に白壁という城下町っぽいデザインを踏襲している。 だが、どの建物も新たに作られたことが一目で分かる。
都市改造前は重要伝統的建造物保存地区に指定されてもおかしくない町並み。
しかし、指定されると保存が優先され日常生活に支障が出てくる。
住人たちは文化財保護より日常生活の利便性を選択したに違いない。
[旅行日:2016年4月11日]