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一巡せしもの[水無神社]07

飛騨一ノ宮駅

跨線橋を経て再び駅舎の前へ戻り、水無神社の方角を見る。

まだ「臥龍桜」駅と改名したほうが、観光客にアピールできるのではないか? と思ったが。

鉄道の、特に各駅停車の普通列車に観光アイテムとしての役割を期待する時代など既に終わっている。

莫大な費用をかけて改名したところで、観光に寄与する効果などタカが知れているのかも知れない。

そんなことを思いながら飛騨一ノ宮駅を後にした。

源流の里

駅前に「源流の里」と刻まれた大きな石碑が立っている。

宮川の源流は、ここから約20kmほど南の川上岳[かおれだけ]。

北に向かった宮川は富山県に入ると神通川[じんづうがわ]と名を変え、日本海へ注ぐ大河となる。

ここに「神使味女[アジメ]」という言い伝えがある。

「味女[あじめ]」とは宮川に棲んでいた水無大神の使い。

だが味女といっても人間の女ではなく川魚の泥鰌[ドジョウ]である。

その味女に水無大神が、一面の葦原だった御座山[みくらやま]一帯から水を抜くよう命令。

御座山、別名御旅山は水無神社の奥宮がある位山[くらいやま]の遥拝所。

古墳のような形状をした人造の丘陵で、いろいろと謎に包まれているという。

それはともかく、葦原が一転して農地になれば門前一帯は経済的に潤う…と思いきや。

味女が熱心に土を掘り過ぎたのか、川の水そのものが地下へと潜り「地下水流」に。

つまり水無神社の前を流れる部分だけ水流が消え、地上から見えなくなってしまったのだ。

この様子を当地では「水無河原」「覆河原」「鬼河原」「安河原」などと呼んでいたそう。

水無17-018

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]06

水無16*017

幹の根元を見ると小さな五輪塔が三基、横に並んでいる。

また、臥龍桜を囲む仕切りロープの右脇には小さな祠が。

五輪塔は三木國綱[みつぎくにつな]が葬られた墓、祠は三木家の祖霊社という。

國綱は戦国時代の武将で官途名[かんどな]を入道三澤[さんたく]、別名を一宮國綱とも言った。

別名の通り水無神社の神官の家に生まれ、宮司の職を継いでいた。

しかし社家を他に譲り、飛騨を治めていた姉小路家の家臣となり武将に転身。

天正13(1585)年、豊臣秀吉の命を受け飛騨に攻め入った金森長近の軍勢に敗北。

これに水無神社の氏子連が助命を嘆願、それが通って命拾いすることに。

それから暫く後、國綱は金森家に反旗を翻し「三澤の乱」を起こす。

ところが今度は長近の養子可重[ありしげ]の返り討ちに遭い、あえなく戦死。

その亡骸が臥龍桜の下に埋められている…というわけだ。

梶井基次郎作の名フレーズ「桜の樹の下には屍体[したい]が埋まっている」は、この故事が元に…なっているわけではない。

だが毎年秋には水無神社の宮司、大幢寺の住職、そして三木家ゆかり縁の人たちが集まり、祖先を供養する「三木祭り」を催行しているそうだ。

水無15*016

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]05

水無14-015

入口横の石に刻まれた「臥龍公園」の文字。

国指定天然記念物「臥龍桜」のために整備された公園だ。

今でこそ周囲は小綺麗な公園として整備されているが。

もとは大幢寺[だいどうじ]の境内にあった。

なので往古は「大幢寺の大桜」と呼ばれていた。

昭和6(1931)年に同寺の第二十世住職、道仙和尚が「臥龍桜」と命名。

この名称は桜の幹枝が龍の姿に似ていることに由来するそうだ。

臥龍公園

臥竜桜は推定樹齢1100年を超える江戸彼岸桜[エドヒガンザクラ]の老木。

高さ20m、目通り(目の高さでの幹の直径)7。3m、枝張りは南北30mにも及ぶという大樹である。

母樹から伸び過ぎた枝が垂れて地に着き、そこから発根してもう1本の幹ができた。

新しい幹は母樹から養液を摂取する必要がなくなったため、中間の部分が枯れ落ちてしまった。

さらに昭和34(1959)年、伊勢湾台風の被害に遭い龍の首に相当する部分がポッキリ。

このため現在は母樹と新しい幹の2本の桜で龍を形どっている。

ちなみに枯れ落ちた部分の木は今でも地面に転がっていた。

臥龍桜に近寄り、枝張りを見上げる。

桜花の美しさは「飛騨・美濃さくら三十三選」にも選ばれるほど。

見頃は4月の中旬~下旬とのこと。

冬真っ盛りの現在では当然ながら蕾すら膨らんでいない。

水無15-016

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]04

水無12-013

山間の長閑な土地にヒッソリと根を下ろし。いつ来るとも知れない参拝客を待つ飛騨一ノ宮駅。

昭和9(1934)年に開業した時分には、水無神社への玄関口として大そう賑わっていたのだろう。

だが、昭和60(1985)年に無人化されてから既に30年以上もの年月が流れた。

現在では停車する列車も1日往復20本程度。

特に午前10時半ごろから午後3時ごろまでは1本の列車も止まらないという“完全”無人駅状態。

世界中から飛騨高山へと押し寄せる観光役をピストン輸送する特急電車を、ただただ見送る毎日。

だが、それもまた水無神社の玄関口に立つ門番の御役目だと考えれば、存在する意義があるというものか。

水無12*013

扉を開けて駅舎の中に入る。

目の前に現れたのは無人駅となって以来、まるで時が止まったかのような空間。

だがノスタルジックとかレトロスペクティヴといった情緒的なものではない。

国鉄が赤字の断末魔に喘いでいた昭和末期の陰鬱な雰囲気がエンバーミングされているというか。

永遠に腐らない死体を見せられているかのような、他に例えようのない既視感を覚える。

駅員のいない改札口を通り抜けてホームに出た。

対岸式のホーム2面を跨線橋が結んでいる。

無人駅なので跨線橋というより自由通路だが。

その橋に上がり周囲を見渡してみると、北側の線路脇に公園が広がっていた。

水無13-014

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]03

水無08-009

看板の麓にあるバス停で下車。

高山駅から20分足らずで着いてしまうのだから、今の高山本線では太刀打ちできない。

というか、高山駅から水無神社に電車で行こうと思う人のほうが少ないか。

益田街道と水無神社の参道が交わる十字路の手前に歩道橋が架かっている。

その上に登り水無神社の方角を眺めてみた。

先刻から舞い続けていた粉雪は本格的な雪となって視界を白く染め、参道奥の山々に囲まれた辺りに佇む黒々とした社殿のシルエットを引き立たせている。

その社殿に背を向け、歩道橋を反対側へと渡った。

車が擦れ違える程度の細い道を歩いていくと眼前に川が見える。

宮川…高山で歓楽街と古い街並みを分け隔てていた、あの川だ。

水無09-010

川岸に沿って歩いていくと橋が見えてきた。

欄干に「一ノ宮橋」とあるが、朱塗じゃなければ擬宝珠もない。

多少デザインは凝っているが、ごく普通のコンクリート橋だ。

橋を渡ると突き当たりに赤い屋根の建物が見える。

JR高山本線、飛騨一ノ宮駅。

駅前へ続く沿道は特に商店街というわけでもなく。

民家やマンションが点々と立ち並ぶ住宅街である。

水無神社の参拝に鉄道は利用されてません…と言外に主張しているかのようだ。

入り口の屋根に鰹木っぽい装飾が施されてはいるが。

他に神社っぽさは特に感じられない、良くも悪くも“普通”の駅舎だ。

今までにも“一ノ宮”の玄関口たる鉄道駅を幾つか訪ねてきたが。

駅舎の規模的には三河や遠江、上総の各一ノ宮駅と同程度だろう。

ただ、外房線の拠点駅として首都圏の鉄道網を支える上総や、構内に本格的な蕎麦屋のある遠江のような華やぎはない。

水無11-012

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]02

水無04-004

暫くウロウロしていたところ、1軒の店にガツン!と行き当たった。

「串焼き かっぱ」。

見た目に風格を感じさせる店構えだが、いまひとつ価格帯が分からない。

それでも間違いはなかろうと扉を開けて中に入ってみると、これが正解だった。

築100年を超えるという建屋は飛騨ならではの建築様式を現代に伝える貴重な文化財的建造物。

ここの名物は飛騨牛の串焼き。

塩でシンプルに焼いた牛肉は柔らかく滋味深い。

朴葉味噌や漬物ステーキなど飛騨地方の名物料理がどれも旨い。

どぶろく特区で醸された地酒の濁酒と共に堪能した。

水無05-005

翌朝、宿で朝食後に庭を眺める。

キレイな箱庭のようにキチンと手入れされた庭は、宿が伝えてきた歴史を感じさせてくれる。

宿に荷物を預けて高山駅へ。

ただ、水無神社へは鉄道ではなく路線バスを利用する。

飛騨一ノ宮駅は高山駅の隣。

だが、高山本線を走る各駅停車が絶望的に少ないのだ。

それに比べて1時間に数本ほど運行されている路線バスは、鉄道を比較にならないほど利便性が高い。

バスは国道41号線、別名「益田街道」をノンビリ走っていく。

「飛騨」という国名は幾重にも連なる山や谷の風景が、まるで衣の「襞[ひだ]」のように見えるから…という説がある。

外は粉雪がハラハラと舞い、低く垂れ込めた雲と稜線の間から差し込む柔らかな日の光を浴びてキラキラと輝いている。

やがて、車窓の先方に「飛騨一宮水無神社」と大書きされた看板が見えてきた。

水無07-008

[旅行日:2016年12月10〜11日]

一巡せしもの[水無神社]01

水無01-001

岐阜駅から高山本線の各駅停車に乗車。

よくローカル線にあるボックスシートではなく、通勤電車にありがちなロングシート。

ボックスシートならアルコール片手にホロ酔い気分で寛げるのだが。

ロングシートとなると途端にアル中っぽくなるので、なかなか手を出せない。

間も無く高山駅、その手前で電車は飛騨一ノ宮駅に到着。

飛騨一宮水無神社の最寄り駅だが今日は素通り。

明日また改めて訪れることにする。

岐阜駅からローカル電車にゴトゴト各駅停車で揺られること3時間半。

高山駅へ到着した頃には既に陽も落ち、ホームは宵闇に包まれていた。

階段を上がると眩い光の中で真新しい駅舎が煌めいている。

その構内にひしめく大勢の外国人観光客。

飛騨高山に海外から観光客が押しかけているとは聞いていたが、これほどとは!

水無02-002

構内の雑踏をすり抜けて駅前に出る

底冷えのする12月の飛騨は雪が降っていないだけ幸いだったか。

駅構内の雑踏が嘘のように閑散としている街頭を北へ向かって歩く。

今宵の宿は「旅館いろは」。

高山の街並みに溶け込むように佇んでいる老舗の宿だ。

水無03-003

食事をするため宿を出た。

街の中心部を東西に貫く国分寺通りを東へ向かうと宮川にぶつかる。

この川を超えた向こう側が、飛騨高山を象徴する古い町並み。

だが今宵は川を渡ることなく、橋の手前で歓楽街へと魅き込まれた。

高山を代表する飲屋街、朝日町は厳冬の夜に訪れる酔客を吸い込んでいる。

だが、心に響きかけてくる店は意外と少ない。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]16

南宮008

南宮大社を後にして、来た道を垂井駅へ。

沿道には民家と空き地が交互に立ち並び、神社の参道というより素朴な田舎道といった風情。

そういえば南宮大社の境内もガランとして殺風景な印象を受けたが、その理由は参詣後に何となく分かった。

かつての南宮大社は神仏が習合した巨大な社寺だった。

そこから明治政府の神仏判然令で寺院の要素が排除され、真禅院として遠くに切り離されてしまった。

仏教の堂宇伽藍が存在した場所は空き地のまま、神社の境内として整備されたのだろう。

視界の遥か先、巨大な鳥居が再び姿を表す。

その存在感は、排除された仏教的色合いが再び帯びることのないよう警戒し、覆い隠しているかのようだ。

南宮042b

国道21号線を渡り、住宅街を抜けて垂井駅へ。

途中、東海道本線の踏切があった。

その上に立ち、垂井駅の方を眺める。

ここまで新幹線の高架下をくぐり、国道を渡り、在来線の駅へと向かって来た。

これら交通の大動脈は南宮大社の北側で次第に接近し、遥か南側を通る名神高速道路も北へカーブして寄り添い、不破の関あたりで交通路“四天王”が集結。

関ヶ原は今も昔も交通の要衝だと実感できる。

昼下がりの垂井駅南口は人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。

改札を抜けてホームに降りると、1枚のパネルが掲げてある。

 垂井が生んだ 戦国の軍師
 竹中半兵衛公の里

垂井町 垂井町が観光の中心に竹中半兵衛を据えている証だろうか。

南宮044

しかし半兵衛一本推しでは弱いような気もする。

そういえば南宮大社では関ヶ原の戦いについて、由緒に「兵火で焼失」としか記されておらず詳細な説明板もなかった。

先述の通り南宮山近辺は戦わずして趨勢を決した吉川広家をはじめ、安国寺恵瓊や長束正家、長宗我部盛親ら西軍の主戦力が布陣した場所。

関ヶ原合戦の南宮山近辺における情勢について解説する施設があってもいいような気もする。

パネルに描かれた軍師半兵衛公の不細工な絵を眺めつつ、そんなことを思った。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]15

南宮039

境内を後にして、来る時に通った門前町の方角ではなく、北側を通る県道に出る。

堀割が境内と道を隔て、短い石橋が両社をつないでいる。

この県道を道なりに進むと、突き当たりに朝倉山真禅院というお寺がある。

元は南宮大社の神宮寺で創建は天平11(739)年、開祖は行基。

当初は象背山[ぞうはいさん]宮処寺[ぐうしょじ]という名だった。

延暦12(793)年、桓武天皇の勅命を受けた伝教大師最澄により南宮大社と両部習合、つまり神と仏が一体化された。

同時に現在の南宮大社の鎮座地に移転し、寺号も神宮寺に変更、天台宗の寺院となった。

それから1000年以上も経過した明治初(1868)年、明治政府が神仏判然令を発令。

廃仏毀釈の荒波に神宮寺も抗うことができず、南宮大社と袂を分かち現在地へ移転。

当然「神宮寺」を名乗ることもできなくなり、寺号も現在の「真禅院」に変更した。

南宮040

南宮大社から真禅院へは道なりに進んでも1km弱程度の距離。

歩けば10数分で到着するだろうが、時間がなくて参拝を割愛した。

余裕があれば合わせて訪れたかったところだ。

南宮大社には江戸時代の社殿の配置を描いた古図が保存されている。

それには三重塔、本地堂、鐘樓など仏教関係の建造物の姿もある。

真禅院も関ヶ原の戦いで炎上した後、南宮神社と併せて家光が再建。

これらの仏教建造物も同時期に建てられた。

梵鐘は岐阜県最古、三重塔と本地堂は国指定の重要文化財。

北条政子が寄進したと伝わる鉄塔も立っているそうだ。

これらの仏教建造物群は廃仏毀釈の嵐をくぐり抜け、真禅院に移築され現在まで受け継がれている。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]14

南宮037

ハイキングコースに背を向けると、目の前にコンクリート製の宝物殿が立っている。

朱で彩られた和風の建物には刀剣や胴丸、駅鈴など数多の宝物が収蔵されている。

特に刀剣類が充実しており、その数は数十振に及ぶという。

中でも「三条」「康光」「鉾(無銘)」の3点は戦前の国宝で、現在は国の重要文化財に指定されている。

南宮大社が刃物の神様という面もあるが、かつて西美濃地方が刀鍛冶の中心地だったことも大きい。

ただ、残念なことに宝物殿が一般公開されるのは年に一度、11月3日の文化の日のみ。

なぜだろう? もったいない気がする。

南宮038

宝物殿の前に旧い社号標が立っている。

「国幣大社 南宮神社」とあるから戦前のもだろう。

この「南宮」という社号については「国府の南に鎮座しているから」という由来を既に記した。

これに対して南宮大社の宇都宮精秀宮司が「朝鮮半島と深い関わりがある」という新説を唱えている。

現在、韓国人の姓は「金」「李」「朴」など漢字一文字が圧倒的に多いが、中には漢字二文字の姓も8つほど存在する。

その中で最も多いのが「南宮[ナムグン]」という姓。

ルーツは古代中国の周王朝文王時代、古代朝鮮へ渡来してきた南宮氏の子孫と伝わる。

その南宮氏は製鉄に関係ある一族とも云われているそう。

大陸から朝鮮半島を経由して日本に鉄器が伝来したのは紀元前4世紀ごろのこと。

その経緯に絡んだ南宮氏が日本に渡来し、南宮大社の創建とも関わった…のかどうか。

ここまでくると考古学と歴史学の専門的な話になり過ぎ、門外漢の私には何が何だかチンプンカンプンだ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]13

南宮036b

石田三成ら西軍の主軸が陣を敷く主戦場は南宮山から遥か北西の彼方にあり、南宮山は位置的に徳川家康本陣の背後に当たる。

毛利軍は戦況を見て南宮山を降り、家康の本陣を背後から攻撃する…というシナリオ。

これが成功すれば形勢は西軍の圧倒的優勢に傾く…はずだった。

しかし、戦が始まったものの毛利軍はピクリとも動かない。

なぜなら広家が毛利家の存続を図るため、秀元や恵瓊には内密のまま独断で家康と内通していたから。

恵瓊や正家、盛親は何度も出陣を促すが、広家は「天気が悪い」「兵が飯を食っている」などと適当にあしらい続けた。

そのうち、これまた毛利家連枝の小早川秀秋が西軍を裏切り、あっけなく天下分け目の戦いが終焉。

南宮山に布陣した軍勢は結局、東軍と一度も戦火を交えることなく戦を終えることとなった。

戦後、恵瓊は石田三成、小西行長とともに京都六条河原で斬首の刑に処せられた。

三成と行長は西軍の中枢だけに無理もないが、なぜ一度も交戦していない恵瓊が処刑されたのか?

西軍の総大将である毛利家が存続したのに比べると、死罪は重すぎる気もする。

毛利側の人間として敗戦の責を一身に背負わされたのだろうか?

ひょっとしたら南宮大社の社殿一切を焼き払った割に一度も戦に参加しなかった咎を「武器の神」でもある金山彦命から誅罰されたのかもしれない。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]12

南宮034b

奉納された刃物が軒下に据えられた木造の大きな建物は神輿社。

先述した5月5日の例大祭で活躍する神輿が安置されている。

この神輿は寛永19(1642)年に社殿が再建された際に家光が寄進したもの。

欅造りで金具には三葉葵の御紋があしらわれているそうだ。

それにしても、なぜ家光は多額の寄進を費して社殿を再建したのだろうか?

彼自身は江戸生まれの江戸育ちで、美濃国とは縁もゆかりもない。

実は寄進の裏にNHK大河ドラマにもなった超有名な乳母、春日局の存在があった。

春日局…幼名お福は天正7(1579)年、斎藤利三[としみつ]の子に生まれた。

利三は斎藤義竜、稲葉一鉄、織田信長と、美濃国に縁の深い武将に長らく仕えてきた。

お福として幼少時を過ごした美濃国は、かけがえのない土地だったに違いない。

春日局が没したのは寛永20(1643)年、南宮大社の再建が成った翌年のことだった。

南宮035

楼門から築地塀の外に出、南端の橋を渡る。

右手前は自動車用の祓所、左手側には「南宮山ハイキングコース」と刻まれた案内札。

南宮大社の背後にある南宮山は標高400m超と、ハイキングにはピッタリの低山だ。

拝殿の前で「安国寺恵瓊が陣を構えるため焼き払った」と述べたが、南宮大社だけでなくこの南宮山自体が毛利の陣営だった。

毛利家当主の輝元は西軍の総大将だったため大阪城に詰めており、関ヶ原の戦場には出陣せず。

代わって輝元の従兄弟である毛利秀元、家臣の吉川広家、それに恵瓊が毛利の軍勢として参戦していた。

毛利軍は南宮山に秀元、南宮大社に恵瓊、そして南宮大社の西、現在は岐阜県立不破高校のある場所に広家が陣を構えた。

このほか豊臣家五奉行の一人である長束正家と、土佐の長宗我部盛親も南宮山に布陣している。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]11

南宮033

両社の他にもう一つ、南宮に関係ある(らしい)神社がある。

平安末期の歌謡集『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』巻二に次のような一文がある。

「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚[おさな]き児の宮」

ここで言う「美濃国の中の宮」とは美濃一宮南宮大社、「伊賀国の稚き児の宮」とは伊賀一宮敢国神社のことではないかと推測される。

これを敷衍すれば「南宮の本山は信濃国」とは信濃一宮諏訪大社を指すことになるのだが。

諏訪大社は追って訪れる予定なので、ここでの詳述は避けることとする。

平安時代中期(905〜967年)に定められた延喜式神名帳に、諏訪大社は「南方刀美神社[みなかたとみのかみのやしろ]」の社名で記載されている。

無論「みなかたとみ」とは主祭神の建御名方[タケミナカタ]神を指しているのだろうが。

「南の方の刀が美しい神社」の名は諏訪大社より、むしろ南宮大社の由来に相応しいように思える。

また諏訪大社では古来、風と水を司る竜神を篤く信仰していたという。

風は砂鉄を精錬・加工するための蹈鞴[たたら]、水は錬鉄の鍛造に必要不可欠な存在。

こうした“状況証拠”からも「南宮の本山は諏訪大社」のように思えるが、これはあくまでも推測。

ただ、諏訪大社は上社に本宮・前宮、下社に春宮・秋宮と、全部で4つの社から構成されている。

大昔そのうちの一つが金山彦命を祀る南方刀美神社だったとしても不思議ではないように思える。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]10

南宮032

南宮大社、古くは仲山金山彦神社と呼ばれており、現在の社号になったのは江戸時代に入ってからのこと。

現在、日本に金山彦命を祀る神社は約三千社あるという。

金山神社など社号に“金”を含む神社が概ねそう。 南宮大社は、それらの総本社に当たるのだ。

ここで話は伊賀一宮敢国神社に飛ぶ。

rj05続敢國4T12

敢国神社の主祭神は大彦命[オオヒコノミコト]だが、そう定まったのは明治時代以降。

それ以前は現在の配神である金山姫[カナヤマヒメ]命と少彦名[スクナビコナ]命の両神が主祭神だった。

金山比咩命は伊邪那美命から金山彦命と一緒に生まれてきた神。

古代の製鉄所「蹈鞴[たたら]」に祀られている金屋子[カナヤコ]神は、金山彦命と金山姫命の御子とされているので、両神は夫婦神と見做されている。

少彦名命は伊賀地方に定住していた朝鮮半島からの渡来人一族、秦氏の信仰神。 海の彼方の常世の国から天の羅摩船[かがみぶね](ガガイモの殻の舟)に乗って現れ、大国主[オオクニヌシ]命と義兄弟となって共に国造りに勤しんだ神だ。

神産巣日[カミムスビ]神の子で、指の間からこぼれ落ちるほど小さかったが、これは指の間からこぼれ落ちる砂鉄のメタファーと見做されている。

つまり少彦名命は鉄であり、伊邪那美命の吐瀉物(=溶解した金属のメタファー)から生まれた金山姫命と併せ祀ることで、秦氏は自ら有する製鉄技術の護持と繁栄を祈念したのだろう。

敢国神社は最初、少彦名命を現鎮座地の背後にある山へ祀っていた。

後に麓の現在地へ遷座し、敢国神社が創建される。 空き家となった山に勧請されたのが当時、南宮大社に祀られていた金山姫命。

貞元2(977)年に金山姫命は麓の少彦名命と合祀。

その山は南宮山、敢国神社は別名「南宮明神」と呼ばれるようになった。

南宮大社と敢国神社は金山彦命と金山姫命という夫婦神の絆で結ばれているわけだ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]09

南宮029

南宮大社には寛永19年に再建された際の造営文書と棟札が今も残されている。

造営文書は623冊が現存。

使用された材木の寸法や値段、神輿、神事用の楽器や衣装などの記録が事細かに綴られており、建築史の側面からも非常に貴重な資料になっているという。

棟札とは棟上げや修理の際、工事の由緒や工匠の名などを記して棟木に打ち付ける木札のこと。

棟札は30枚が現存しており、その中には「征夷大将軍家光造営」と書かれた札もあるそう。

これら造営文書と棟札もまた社殿の付属物として国の重要文化財に登録されている。

南宮030

構造物を眺めていると廻廊の屋根や庇の下に並ぶ、鋸[のこぎり]や鏝[こて]、鋏[はさみ]などを収めた箱が目に付いた。

主祭神の金山彦命が金属の神であるところから奉納されたのだろう。

金山彦命は神武東征の折に金鵄(金色のトンビ)を飛ばし、熊野から大和への進軍を先導する八咫烏を補佐して勝利をもたらす霊験を発揮。

神武天皇即位の年、その功績を以って畿内と東国を結ぶ要衝の地に祀られた。

考古学上この金鵄は鉄製武器のメタファーではないかと考察されているそうだ。

古代において鉄製武器は軍事力の象徴であり、優秀な鉄製武器を製造できる技術を持つことは国家権力の掌握に直結していた。

もともと鉱山の神だった金山彦命が、刃物や包丁の守護神という新たな役割を担うようになった所以だろう。

南宮031

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]08

南宮026

壬申の乱から900年近く時代が下った慶長5  (1600)年、今度は天下分け目の関ヶ原合戦が起こる。

主戦場は現在の不破関跡から北に直線距離で約1km程という至近距離。

南宮大社も無論のこと戦乱に巻き込まれ、兵火で社殿群は焼失した。

というより、西軍の主戦力たる毛利家の総参謀である安国寺恵瓊が、ここへ陣を構えるため焼き払ったからなのだが。

関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わり、徳川の幕政も安定してきた寛永19(1642)年。

三代将軍家光は七千両(現在の貨幣価値に換算すると…約21億円!)もの大金を寄進。

美濃国代官の岡田将監善政を造営奉行に任じ、南宮大社を再建させた。

国重要文化財に指定されている社殿群15棟のほか、2つの石橋と中山道垂井本町に立つ石鳥居の計18棟を建立。

石橋と石鳥居もまた同様、国の重要文化財に指定されている。

南宮027

拝殿の横から伸びる廻廊越しに本殿を覗き込む。

本殿と弊殿は素木造り。

朱塗りも鮮やかな他の社殿群とは対照的なコントラストを描いている。

南宮大社にも屋根を葺き替える式年遷宮があるそう。

周期は51年と定められ、最近では昭和48(1973)年に行われた。

この時は文化庁の指揮下で2年余りの歳月をかけて社殿が修復されている。

本殿の右隣に摂社が立っている。

境内の案内図によると、これは樹下社だ。

南宮大社の摂末社は廻廊の向こう側にあり、築地塀の内側で参拝客が入れるエリアには一社もない。

境内がガランとして殺風景だったのは、ひとつも摂末社がないせいでもあろうか。

ちなみに廻廊の向こう側には本殿を中心に右側には樹下社と隼人社、左側には高山社と南大神社、本殿の奥には七王子社と5つの摂末社が鎮座している。

参拝できない場所にあるのは、なんか理由があるのだろうか?

南宮028

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]07

南宮023

広い境内に手水舎がポツンと立っている。

四方の柱は鉄製で、少なくとも寛永19(1612)年より後の造営だろう。

むしろ国の重要文化財ではない建造物のほうが、この境内では珍しい。

広い空間の中心に舞殿が位置している。

南宮大社では「高舞殿」と呼んでいる。

過去の参詣でも拝殿と舞殿が相対している一宮は数多かった。

それらと比べても高舞殿は大きい部類に入るようだ。

江戸時代に造営された割に手入れが行き届き、

綺麗に保存されている。

特に軒下の蟇股に刻まれた十二支の彫像が繊細で美しかった。

南宮024

高舞殿にクルリと背を向け、相対して立つ拝殿へ向かう。

頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打って手を合わせる。

南宮大社の鎮座地は東国と西国の要衝に位置している。

両国を分けるのは西へ10kmほどのところにある「不破関[ふわのせき]」。

8世紀初頭、律令体制の整備に伴い設置された古代三関のひとつで「関ヶ原」という地名の由来になった施設だ。

もとは古代史上最大の内乱となった壬申の乱(672年)で、大海人皇子[おおあまのおうじ]が本営を設置した場所とされる。

不破関を抑えた皇子が壬申の乱に勝利し、その翌年、天武天皇に即位すると恒常的な関所として整備された。

ちなみに古代三関の他の2つは東海道の鈴鹿関と北陸道の愛発[あちら]関。

この三関から東の地域を東国とか関東と呼ぶようになったという。

つまり当時の感覚から言えば現在の岐阜県や愛知県も「関東」になるわけだ。

南宮025

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]06

南宮020

楼門は朱塗で、見上げていると首が痛くなるほどの巨大さ。

左右両袖には矢大臣と左大臣の木像が鎮座しており、随身門だと言えなくもない。

楼門をくぐって中に入る。

振り返ると矢大臣と左大臣の裏側に狛犬が配置されていた。

狛犬といえば拝殿の前に腰を落ち着け、参拝客に睨みを効かせているものだが。

ここでは目立たない場所にヒッソリ佇んでいる。

狛犬の存在に気づかないまま帰っていく参拝客も多いことだろう。

南宮021

楼門から内側も外側と同様、思いのほかガランとしている。

楼門と拝殿の間に建築物は手水舎と舞殿ぐらいしかない。

南宮大社の社殿群は和様と唐様が混在した「南宮造」という独特の様式。

本殿
弊殿
拝殿
樹下社
高山社
隼人社
南大神社
七王子社
回廊(左右)
勅使殿
高舞殿
楼門
神輿舎
神官廊

以上の15棟から構成され、すべて国の重要文化財に指定されている。

南宮022

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]05

南宮015

南宮大社の主祭神は金山彦命[カナヤマヒコノミコト]。

伊邪那美命[イザナミノミコト]が火の神である迦具土神[カグツチノカミ]を産んだ際、女陰に大火傷を負って苦悶する最中の嘔吐物から生まれた神とされている。

金山彦命は鉱山をはじめ金属一切を司る神。

しかし、なぜ嘔吐物から?

それは炎で融解した鉱物の姿が嘔吐物に似ているからとの説がある。

楼門の前には川が流れ、3本の橋が架かっている。

楼門の正面に架かるのが石輪橋。

造営時期は寛永19(1612)年で花崗岩製。

輪のようなアーチを描いていることから「そり橋」とも呼ばれている。

どこの神社でもそうだが、こうした高い円弧の神橋は神様専用で人間が渡れない場合が多い。

南宮017b

石輪橋の下手に架かる、同じ花崗岩製の橋が石平橋。

ほぼ平らで、人間はこちらを渡ることになっている。

5月5日の例大祭で神輿が下向する際この橋を渡ることから「下向橋」とも呼ばれているそうだ。

石輪橋と石平橋の真ん中に、もう1本の橋が架かっている。

天板こそ木製だが両端のスローブはコンクリート製、朱塗りの欄干は金属製としっかりした造り。

石平橋が老朽化してきたので急遽、拵えたのかも知れない。

石平場が解体修理されたら取り壊される運命なのだろうか?

ただ現在のところ石平橋は通行可能で、どちらでも渡れる。

橋を渡ると正面の築地塀の前に石灯籠が立ち並んでいる。

他に目立った構造物のない境内で、塀の前に整然と並ぶ石灯籠は目を引く存在だ。

南宮018

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]04

南宮010

大鳥居から南へ向かって参道を進む。

沿道には商店なども特に見当たらず、いたって普通の住宅街。

突き当たると道がフワッと広がり、一本道だった参道が松並木で左右に分け隔てられる。

道の右手は南宮大社の専用駐車場、左手には数軒の店舗が立ち並んでいる。

料理店や雑貨店、その看板には「南宮大社御用達」の文字。

これらの店舗もまた南宮大社の施設の一部なのかも知れない。

南宮011

右側の道を先に進むと正面の入り口に出る。

五段ほどの短い石段を上がると社号標と一対の石灯籠。

その奥には幅広い参道が続くも両側には木々が疎らに立ってるだけ。

 境内は飾り気もなく非常にシンプルだ。

「南宮大社」という社号は美濃国府から南の方角に鎮座していることに由来する…と、境内の御由緒に記されている。

美濃国府は鎮座地から2kmほど北、現在の垂井町府中に8世紀中頃から10世紀中頃にかけて存在していた。

遺構の残存状況も良好で、平成18(2006)年1月26日には国府跡が国指定史跡となっている。

「五月大祭神事舞奉奏市場」の項でも触れた通り、もともと南宮大社は現在南宮御旅神社の所在する地に鎮座していた。

それが人皇十代崇神天皇の時代に現在地へ遷座して今に至るわけだ。

参道を進むと意外なことに気付く。

 鳥居が立っていないのだ。

 南宮大社の鳥居は中山道垂井本町と新幹線脇の2カ所だけ…ということになる。

石灯籠の間を通って境内に入っていく。

ガランとした敷地に乗用車が数台停車しているだけ。

これといって目を引く構造物は他にない。

良く言えば飾り気がなく、悪く言えば殺風景な空間が広がる。

南宮012

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]03


南宮007


祭礼の行列が大鳥居まで来ると、神輿は舞台の「神輿上がり」に安置される。

そして道を挟んだ向かい側に立つ「だんじり」で、男児による還幸舞が始まる。

こちらも国の重要無形文化財に指定されている。

「蛇山神事」は五穀豊穣を願う農耕信仰の神事で、こちらも国指定の重要無形文化財。

「神幸式」と平行して行われる 5日の午前1時、南宮山の奥にある蛇池より降神した蛇頭を宮代の市場野の祭礼場に運び、蛇山という高さ役十三㍍の櫓の上に取り付ける。

明け方から神輿が還幸するまで「ドンドコドンドコ」の囃子に合わせて蛇頭を上下左右に勢いよく揺り動かし、口を開閉して舞い続ける。

五人囃子の音色が一段とせわしくなると、蛇山の上の蛇頭と、だんじりの竜子舞が激しく乱舞して祭りはフィナーレを迎える。

例大祭の前日である4日には農作物の豊穣を願う「御田植祭」、別名「お田植え神事」が行われる。

3~5歳の少女たちが境内に仮設された斎田に、苗に見立てた松の葉を植え付け豊作を祈願するお祭り。

実際の田植えではなく松葉で模擬的に動作を行うスタイルは「庭田植え」というそう。

祭礼の形式は室町時代に完成したといい、現在では国の重要無形文化財に指定されている。

関ヶ原合戦で中止されたものの、江戸時代の寛永年間(1624〜1645)に社殿が再建された際に復活したという。

「お田植え神事」のメインキャストが幼い「稚児」や「早乙女」なのは、純粋な女児にこそ神様のエネルギーが乗り移れるため。

「神は稚児に宿る」という、日本に古くから伝わる神話の真髄が反映されたお祭りと言えるだろう。

南宮009

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]02

南宮005

参道を進むと東海道新幹線の高架が目前に立ちふさがる。

その向こう側に聳立する朱塗りの大鳥居。

高架の脇だけに、ここなら新幹線の車窓からでも間近に見えるだろう。

大鳥居は鉄製で高さは21m。

東山道は無論、日本全国でもトップクラスの大きさを誇っている。

南宮006

鳥居をくぐった先の右手すぐのところに巨大な石柱と石造りの舞台が設えてある。

石柱に刻まれている文字は「五月大祭神事舞奉奏市場」。

ここは毎年5月5日に行われる例大祭の舞台となるところ。

例大祭は国の重要無形民俗文化財に指定されており「神幸式」「還幸舞」「蛇山神事」などが奉納される。

「神幸式」は南宮大社から北へ約2km、南宮御旅神社に至る道のりを三基の神輿が練り歩くお祭りだ。

もともと南宮大社は旧美濃国府に近い御旅神社に鎮座していたのが、後に現在地へ遷座したと伝わる。

年に一度、御祭神が神輿に乗って旧鎮座地へ帰還する神事が「神幸式」であり、別名「神輿渡御式」とも言われている。

「還幸舞」は御旅神社に到着した神輿が南宮大社へ戻る途中で行われる舞のことで「羯鼓舞」「脱下舞」「竜子舞」と3種類ある舞の総称だ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]01

南宮001

石山駅から乗車したJR西日本の新快速は適度な混雑ぶり。

ほぼ満杯の乗客で埋まっていたが幸い空席をゲット。

昨夜の高速バス移動のせいか即、眠りに落ちた。

目覚めたら彦根駅。

次はJRの西日本と東海の結節点、米原駅だ。

乗り継いだ大垣行き普通列車も結構な乗客の数。

だが途中駅は降客ばかりで席がアッサリと空く。

もったいないことに30分弱で垂井駅に到着した。

南宮002

駅の北口を出ると駅前に銅像が立っていた。

「竹中半兵衛重治公」
 
戦国時代きっての軍師と謳われた竹中半兵衛は天文13(1544)年、美濃国大御堂城の生まれと伝わる。

大御堂城は現在の岐阜県揖斐郡大野町にあった古城で、現在は跡地に八幡神社が立っている。

永禄10(1567)年頃、織田信長に仕えて以来の働きぶりは衆知の通りだ。

駅前から町役場の前を経て,垂井の街並みを散策する。

垂井は中山道六十九次中、日本橋側から数えて57番目の宿場町。

垂井宿は現在でも往時の雰囲気が比較的残っており、宿場の趣を堪能できる町だ。

どこをどう歩いたかも分からないまま、東海道本線の踏切を渡り国道21号線に出ると、御所野交差点に参道への案内看板が立っていた。

交差点から南宮大社の門前まで約700m強。

徒歩なら15分弱で到着する距離だ。

南宮004

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]17

建部067

再び京阪石山坂本線の唐橋前駅まで戻って来た。

石山坂本線は文字どおり石山寺駅と坂本駅を結ぶ路線。

坂本駅は比叡山への玄関口であり、延暦寺の守護神である日吉大社[ひよしたいしゃ]が鎮座している。

近江国には多賀大社や近江神宮など大きな神社が幾つもあるが、中でも日吉大社は延暦寺の存在を背景に強大な力を有していた。

建部大社も日吉大社から政治的経済的に圧迫され、所領争いも絶えなかったそう。

中世を過ぎる頃には建部大社も日吉大社の勢力下に飲み込まれていたという。

石山坂本線の両端に鎮座する建部大社と日吉大社。

今なら電車で1時間かそこらで行き来できる両大社。

だが、その距離には千年以上にも亘る深い因縁が横たわっているわけだ。

建部068

往路を忠実にたどりながら石山駅へ戻る。

フィルムを逆回転させたかのように風景が巻き戻っていく。

国府の近くに鎮座していたことから一之宮となった建部大社。

古来より交通路の要衝に位置していたことから、幾度も大きな戦乱に巻き込まれた。

そのたびに社殿は焼失し、社宝や古文書は失われ、社域は削られていった。

ちなみに近江国の二之宮は日吉大社、三之宮は多賀大社。

日吉大社は前述の通り比叡山延暦寺の守護神として権勢を誇ってきた。

多賀大社は現在、滋賀県で最も多くの初詣客を集める大神社である。

過去に両社が建部大社から一之宮の座を奪い取っても不思議ではなかったろう。

それでも近江の一之宮は今もなお、建部大社である。

苛烈な歴史に翻弄されながらもシブトく生き延びてきた術はどこにあったのか?

その秘訣を知ることができれば、自分の人生にも活かせることができるかも知れない。

石山駅のホームに立ち、行き交う列車の姿を眺めながら、そんなことを想った。

建部069

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]16

建部063

再び瀬田唐橋へ戻ってきた。

往路は建部大社への道を急ぐことしか頭になかったので、復路は欄干から瀬田川を眺めてみる。

言うまでもなく琵琶湖は日本最大の湖。

その湖水は119本もの河川から注ぎ込まれる水により満たされている。

一方、琵琶湖から流れ出ている河川は、この瀬田川だけだ。

橋の欄干にもたれて川面を眺めていると、こちらに向かって琵琶湖方面から練習中のボートが一列になってやってきた。

琵琶湖との境目のあたりに県営の琵琶湖漕艇場がある。

思えば関西には琵琶湖より大きな湖はないのだから、滋賀県のみならず関西一円の漕艇界にとっても貴重な練習場になっているのだろう。

建部065

瀬田唐橋には「俵藤太[たわらとうた]伝説」なる言い伝えがある。

俵藤太とは平安前期の鎮守府将軍、藤原秀郷[ひでさと]のこと。

平貞盛[さだもり]と協力して平将門の乱を鎮圧し、東国を平定したことで知られる。

秀郷が橋を渡ろうとしたときのこと。

その上に全長約66mにも及ぶ大蛇が横たわっていた。

近郷の者は恐れ慄き誰一人として近寄らなかったほどの大蛇

たが秀郷は、その背をやすやすと踏み越えた。

すると大蛇は爺さんに変身し、秀郷に語りかけてきた。

話によると、七回り半もトグロを巻いた巨大ムカデが夜な夜な三上山から降りてきては琵琶湖の魚を食い尽くすので、人々が大変困っているという。

そこで爺さんは大蛇に姿を変え、勇気ある豪傑を待っていたのだそうだ。

快く引き受けた秀郷は巨大ムカデの眉間を矢で射貫き、成敗に成功。

爺さんは秀郷の武勇を讃え、瀬田橋の下へと招待した。

そこは…なんと竜宮!

爺さんは琵琶湖に暮らす人々を見守るべく千年余の昔から竜宮に住み、漁師の暮らしや近江国の農作を見守り続けてきたという。

秀郷はムカデ退治の功績により釣鐘、刀、鎧などを贈られた。

さらに、山海の珍味の尽きぬ鍋、織っても尽きぬ絹、食べても尽きぬ米俵を土産に持たされ、竜宮を後にした。

その米俵が「俵藤太」という名の由来になったそうだ。

建部066

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]15

建部060

大野神社の隣に複雑に絡み合った木の根が置かれている。

その名を「彌栄[いやさかえ] のご神木」、又の名を「産霊[むすび]の樹」。

境内で数百年もの間,樹勢を張り続けてきた松の根っ子。

松の根…つまり「松根」、転じて「商魂」。

今では商売繁盛の神として崇められている。

大切そうに屋根が架けられ、奥には祠も設えてあり、御利益の程がうかがえる。

建部061b

神門を出て左側へ向かうと参集殿。

その前庭に一本か細い幹が伸びている。

日本武尊[ヤマトタケル]が東征した折、甲斐国の実相寺に手植えしたという「山高神代桜[やまたかじんだいざくら]」を移植したもの。

平成25(2013)年3月31日に植樹されたばかりだ。

オリジナルの実相寺「山高神代桜」は樹齢1800年とも2000年とも云われ、大正11(1923)年には国指定天然記念物に指定されている。

ちなみに本家「山高神代桜」は磐城国「三春滝桜」、美濃国「根尾谷淡墨桜」と並ぶ日本三大桜のひとつだ。

神代桜の隣では紅葉が燃え上がるように色づいている。

葉も花も落ち、身を縮めて春が来るのをひたすら待っている神代桜とは対照的だ。

紅葉の奥に句碑が立っている。

大きな石板に3つの俳句が刻まれているが、その良し悪しは分からない。

建部062b

境内を後にして再び参道へ出る。

ここから東へ約1kmのところに近江国庁跡がある。

奈良時代中期から平安時代前半、8世紀中葉から10世紀後半の200年余りにかけて近江国府が置かれていた場所だ。

建部大社が近江国一之宮になったのも国府の近くに位置していたことが理由だろう。

近江国庁は平安時代半ばに使われなくなってから、その所在地が分からなくなっていた。

それが見つかったきっかけは昭和35(1950)年のこと。

神領団地の造成中に地中から数多の土器や瓦が出土。

本格的に発掘調査を行ったところ大規模な遺構が発見され、後に近江国府の跡だと正式に確認された。

ちなみに日本で初めて発見された国庁遺跡であり、昭和48(1973)年には国の史跡に指定されている。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]14

建部056b

その横に水琴窟が据えてあった。

 水琴窟とは小さな穴を開けた甕を底に伏せて埋め、蹲踞[つくばい]や手水鉢からこぼれた水が穴から雫となって落ち、底に溜まった水面に当たって弾ける音が甕の空洞で共鳴するように工夫した音具。

その音が琴の音に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになった。

現在でこそ広く知られているが、その名が聞かれるようになったのは実はつい最近のことだ。

発祥は江戸時代と推測されているが明治時代以降は次第に廃れ、戦後は完全に忘れ去られた存在に。

昭和50年代、水琴窟の発掘調査をマスコミが取り上げて始めてからのこと。

今では全国に様々な水琴窟が設えられ、日本中で琴に似た音色を奏でている。

建部058

社務所から三本杉の前を横切り境内の東南方面へ。

小綺麗な庭が整備され、池では噴水から水飛沫が勢いよく噴き出ている。

大正4(1915)年の御大典記念と大正5(1916)年の創立1800年祭のために整備された庭という。

 鳥居をくぐりと石橋を渡ると左手に巨大な石灯籠が立っている。

もとは瀬田城にあった膳所藩家老の別邸「臨江庵」の庭に立っていたもの。

古代、百済から渡来した大友氏一族が瀬田唐橋の安全を祈念し、彼らの持つ先進の土木技術を以って建造、奉納したものと伝えられている。

庭から境内の東南の角に向かうと「大野神社」という摂社が鎮座している。

建部大社が神埼郡建部郷千草嶽から遷座する以前、瀬田の地主神として祀られていた神社という。

祭神は草野姫命[かやのひめのみこと]。

伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた、屋根を葺くためのための萱や薄を称える神である。

建部059

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]13

建部053

拝殿と幣殿を間に挟み、東西に4社づつ摂末社が鎮座している。

西側の上座4社には日本武尊の父母である景行天皇と皇后、御妃と御子。

東側の下座4社には日本武尊の遠征に付き従った家臣が、それぞれ祀られている。

豊穣満帆の庭を神門の方へ向かうと社務所に突き当たると、その前庭に水関係の施設を集めた一角。

信楽焼の大鉢を満たす御神水は本殿奥の森にある「エンコ」から自噴している。

この「エンコ」とは地下約100mの水脈から湧出する自噴式井戸のこと。

古来より伝わる独特の呼び名で、昭和30(1955)年ごろまで瀬田のあちこちにあり、共同で利用されていたという。

ただ、現在は地下から直接ポンプで汲み上げている。

この御神水は希望すれば持ち帰ることができるそうだ。

建部054

御神水の隣に「頼朝公の出世水」が湧いている。

これまでにも頼朝と縁の深い一宮は幾つかあった。

相模一宮鶴岡八幡宮はもとより、伊豆一宮三島大社、安房一宮洲崎神社など。

建部大社もまた、源頼朝の間に深い縁がある。

源頼朝が14才の時、平家に捕われ伊豆へ流罪となり京都から関東へ下向の折。

永暦元(1160)年3月20日に参篭し、前途を祈願した由が平治物語に記されている。

それから四半世紀が過ぎ、頼朝は平氏を打ち倒して源氏再興の宿願を達成。

右大将となり上洛した建久元(1190)年11月。

途上で再び立ち寄り、数多の神宝と神領を寄進して祈願成就の恩に報いたという。

建部055b

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]12

建部047

宝物殿の隣に神馬舎があり、中に馬が繋がれている。

といっても本物ではなく、木造の白馬像だ。

境内の北東の角に宝物展がある。

社宝の木造女神坐像や古文書、出土品などを展示保管している建物。

平安時代作と伝わる木造の女神坐像と脇を固める小神坐像2体の計3体が国の重要文化財に指定されている。

像高41.2cmの女神坐像は右袖で口元を覆う仕草から恥じらっている姿と思われていた。

しかし女神は日本武尊の妃と伝えられることから、武尊の死を嘆き悲しむ妃とお子たちを象ったものではないかとする説もあるという。

本殿の裏手に回り、社殿を後背部から眺める。

耐震性を向上させるため本殿と権殿の地下には免震装置が設置されている。

神社では初の試みとして内外から注目を集めているそうだ。

建部048

本殿の後ろに「菊花石」という不思議な石が展示してある。

自然のパワーで菊の紋様が刻まれた自然の化石。

これほど鮮明で巨大な化石は珍しく、鑑賞石の最高峰とされているそう。

菊花石の隣には、菊の紋が入った信楽焼の古壺「菊紋壺」が展示されている。

伝承の由来や年代などの記録は残っていないが、社宝として長年にわたり伝承されてきた。

本殿の裏手からグルリと回り込み再び正面へ出た。

幣殿の西側に「豊穣満帆の庭」という小綺麗な庭園が整備されている。

大海原を一艘の船が大漁旗をなびかせ建部大社へ向かう姿を表現しているという。

建部050

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]11

建部045

元々この社は建部氏が氏神を祀った神社だといわれている。

建部=タケルベに因んで日本武尊を祭神に祀ったものと思われる。

一方、右側の権殿に祀られているのは大己貴命[オオナムチノミコト]。

言うまでもなく、大国主命[オオクニヌシノミコト]の別名。

三本杉のところで触れたが、建部大社に大己貴命が祀られたのは天平勝宝7(755)年のこと。
 
建部氏の祖先は稲依別王[イナヨリワケノミコ]。

古事記には、近淡海(近江)の安(野洲)の国造の祖先、意富多牟和気[オオタムワケ]の娘、布多遅比売[フタヂヒメ]と日本武尊の間に生まれたのが稲依別王と記されている。

つまり、元の祭神は稲依別王だったのが、孝徳天皇の詔により大己貴命に変えられたのかも知れない。

建部044

終戦直後の昭和20(1945)年8月に発行された旧千円紙幣に、

建部大社の本殿と主祭神の日本武尊が描かれている。

日本初の千円紙幣で当時最高額の日本銀行券。

それだけに寸法は縦10cm×横17.2cmと超巨大。

しかも従前の紙幣に比べ最多の刷色を用いて作成された。

正式には「日本銀行兌換券 甲 千圓券」という。

兌換券とは券面に記載された金額の金貨と交換できるよう保証された銀行券のこと。

この紙幣も表面に「此券引換に金貨千圓相渡可申候」とあるように、千円金貨との交換が保証されていた。

しかし通用期間わずか7ヶ月間と短く、発行枚数が極めて少なかったため、今では「幻の千円札」といわれている。

通貨管理制度に移行している今では、もちろん金貨との交換は不可能な不換紙幣。

 とはいえ古銭商では高額で取引されているようなので、現代では現代なりの価値があると言えよう。

建部046

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]10

建部037

神門の前に来た。
ここから先が神域ということになる。

手水舎の奥に横書きの社号標。
「御鎮座壱千参百年式年大祭記念」とある。

白鳳4(675)年4月、近江国府があった瀬田の地に遷座してから約1300周年を記念してのもの。

それ以前は景行天皇46(西暦316)年に日本武尊の后である布多遅能伊理毘売命[フダヂノイリビメノミコト]が創建した神埼郡建部郷千草嶽に鎮座していた。

建部040

巨大な提灯の下をくぐって内側に入る。

目の前にあるのが御神木の三本杉。

建部大社の神紋は、この三本杉をデザインしたものだ。

天平勝宝7(755)年、孝徳天皇の詔により大和一宮大神神社から大己貴命を勧請した際、一夜にして成長したと伝わっている。

三本杉の先に拝殿。 ここは祈祷所としても使われている。
拝殿を祈祷所に用いるのは他の神社と同じだが、その割に拝殿は小さ目だ。

拝殿と本殿を幣殿が結んでいる。

だが“殿”と呼べるほどの規模ではなく、壁がない切妻屋根の東屋のような形状をしている。

近寄れるのは拝殿までで幣殿から奥には立ち入れない神社が多い中、ここは本殿まで肉薄することが可能だ。 幣殿の奥に本殿が鎮座している。

だが、ここは他の一宮と異なり本殿に建物が2つあり、左右に並んで立っている。

これまで両殿を合わせて“本殿”と呼んでいたが、正式には左側が本殿、右側は権殿という。

ちなみに両殿の大きさは全く同じだ。

左側の本殿には主祭神の日本武尊が祀られている。

ただ、和泉一宮大鳥大社とは異なり、薨去した日本武尊が白鳥に姿を変えて飛び立って行ったという「白鳥伝説」とは直接の関係はないという。

建部043

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]09

参道の右側に主祭神ヤマトタケルの生涯を解説したパネルが並んでいる。

シャープな絵柄で描かれたイラストをもとに5段階に分けて解説している。

建部032
〔1〕ヤマトタケルの西征 オウスノミコトと呼ばれていた若き頃、九州の熊襲健[クマソタケル]兄弟を女装して成敗した章。

熊襲兄弟から「タケル」の名をもらい、日本武尊[ヤマトタケルのミコト]と呼ばれるようになった。

建部033
〔2〕ヤマトタケルと草薙の剣 東国征伐を命じられたヤマトタケルが相武国造の罠に嵌められて暗殺されそうになった章。

天叢雲剣[アメノムラクモノツルギ]と火打石で起死回生した逸話は相模一宮寒川神社の項で紹介。

建部034
〔3〕后・オトタチバナヒメの入水 今の神奈川から千葉へ船で渡ろうとしたヤマトタケルが嵐に巻き込まれて立ち往生した際、后の弟橘比売命[オトタチバナヒメノミコト]が海に身を投じて嵐を鎮め、無事に渡海することができたという章。

ヤマトタケルがオトタチバナを偲んで叫んだ「吾が妻よ!」という言葉が、この一帯の地名に。

浅草駅前、隅田川に架かる「吾妻橋」の名は、この故事に由来している。

建部035
〔4〕ヤマトタケルと伊吹山の神 東国を平定したヤマトタケルが、今度は伊吹山に棲む悪の神を退治に出向く章。

ところが悪神の返り討ちに遭い、這々の態で脱出する逸話は和泉一宮大鳥大社の項で紹介。

建部036
〔5〕ヤマトタケルと白鳥伝説 大和国へ帰還する途中で力尽き、伊勢の能褒野で息を引き取るの章。
ヤマトタケルの魂は白鳥となり、西へ翔び立ったという逸話も和泉一宮大鳥大社の項で紹介。

このようにヤマトタケルの生涯については主に和泉一宮大鳥大社の項で触れているので、そちらを参照頂けるとありがたい。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]08

建部023

道の先に社号標が見えてきた。

左側手前に立つ細い標柱は「官幣大社建部神社」と刻字された古いもの。

明治初頭に制定された近代社格制度で建部大社は官幣大社に分類されていたわけだ。

建部024

右側奥には新しい社号標が立ち、その脇にある一ノ鳥居から奥へと参道が伸びている。

旧社号標の「官幣大社建部神社」から新社号標は「近江國一之宮建部大社」へ。

戦後に近代社格制度が消滅した折、神社の名称のほうを「建部神社」から「建部大社」に変更することで、かつて官幣大社だった証を現代に伝えようとしたのだろうか?

一ノ鳥居は石造りのシンプルな明神鳥居。

その華美な装飾のない佇まいは武神として崇められてきた歴史の顕れだろう。

建部神社の「建部」とは古代の軍事的な部民「建部[たけるべ]」(武部とも書く)に由来する。

「たける」は勇者の意味。

「べ」は大化の改新以前、ヤマト王権に属し、朝廷や豪族の支配下で労力や貢物を提供した人々の集団のこと。

部の前に職能名を付けて呼ばれることから、建部(武部)は軍事に従事する人々の集団ということになる。

一ノ鳥居をくぐり参道を進む。

参道が尽きるあたりで左折すると正面に二ノ鳥居が聳立していた。

二ノ鳥居は一ノ鳥居を少し小さくした感じで石造りの明神鳥居。

形状は全く一緒だが、扁額はなく額束になっている。

二ノ鳥居をくぐると両側に石灯籠と松の木が立ち並ぶ玉砂利の参道。 その奥に神門が姿を見せている。

建部029

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]07

建部020

建部大社に向かって進むと道の右側に空き地が広がっている。

入り口の標柱にある文字は「御旅所」。

祭礼で神社を出発した神輿を仮に奉安する場所だ。

さらに先へ進むと今度は道の左側に「たにし飴」の看板。

たにし飴? 「たにし」とは田んぼに生息する淡水巻貝「田螺」のことか?

だとしたら、この飴は田螺のエキスを練りこんであるのか?

調べてたら田螺そのものとは何の関係もないそう。

製造元の辻末製菓舗は1880(明治13)年創業の老舗。

原料は黒糖とニッキ(肉桂)で田螺関係は入っていない。

田螺のような円錐形をしているので「タニシ飴」と命名したという。

だが今や田螺を見かける機会もまずなく、タニシそのものの意味が通じにくい時代になったようだ。

建部021

「たにし飴」の看板を見上げながら三叉路を渡ると、信号機の上に「神領」の文字。

建部大社が鎮座する土地の名だ。

昔この一帯が建部大社の神料田[しんりょうでん]だったことに由来するという。

建部022

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]06

建部019

瀬田唐橋を渡り東詰へ。

既にお天道様は頭上にある。

大津駅へ未明に到着してから随分と回り道したようだ。

「急がば回れ」という諺が生まれたのはココ、瀬田の唐橋。

「もののふの 矢橋の舟は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」

室町時代、連歌師の柴屋軒宗長[さいおくけんそうちょう]が詠んだこの短歌に由来している。

矢橋[やばせ]とは草津宿にある矢橋港のこと。

琵琶湖を横断して大津宿石場港と結ぶ渡し舟を利用すれば、陸路を唐橋経由で行くよりも遥かに時間を短縮できたという。

ところが、もののふ(武者)の漕ぐ渡し舟は比叡山から吹き下ろす突風で転覆する確率も高かった。

このため瀬田唐橋経由の陸路を選んだほうが、リスクの高い航路よりも安全確実に大津へ到着できるというのが、この句の意味。

やがて近江国限定の内容から「何が起こるか分からない危険な近道より、遠回りになっても安全確実な道を選んだほうが、逆に早く目的地へ着ける」という普遍的な意味の諺となり。

さらに道路の選択から転じて「リスクを冒すより手堅い安全策のほうが早く目的を達することができる」という社会的な意味合いにも使われるようにもなった。

一之宮巡礼なぞ自家用車でビューッと回ればアッという間に終わるだろう。

バスや電車など公共交通機関での巡礼なんて単なる時間の無駄かもしれない。

ただ、先ほど京阪電車に乗車した石場駅が「急がば回れ」因縁の地だったのは、公共交通機関による巡礼が「急がば回れ」的に間違っていないという神の啓示なのかもしれない…と、勝手に思った。


[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]05

建部016

朝の通勤通学時間帯とあってか、土曜日とはいえ交通量は多い。

学生たちの自転車を避けつつ、短い橋を渡る。

瀬田唐橋は中洲を間に挟み大橋と小橋の2つの橋で対岸と結んでいる。

小橋を渡ると中洲に建部大社への案内板が立っていた。

風光明媚な景勝地だけに中洲や川辺には宿泊施設や料亭などが立ち並んでいる。

 だが瀬田唐橋が観光名所になったのは実は江戸時代に入ってからのことである。

1950年代末に瀬田川大橋が竣工するまで、瀬田唐橋は瀬田川に架かる唯一の橋だった。

このため東国から京へ陸路で入るにはここを通る以外なく、まさに京都防衛の“要”。

「唐橋を制するものは天下を制す」と謳われるほど、たびたび歴史の節目となる“戦場”となった。

その嚆矢は天武元(672)年の「壬申の乱」にまで遡る。

承久3(1221)年の「承久の乱」や元弘3(1333)年「建武の新政」など、幾度となく戦乱に巻き込まれ焼け落ちてきた。

「瀬田の唐橋に風林火山の旗を立てよ」

戦国時代の元亀4(1573)年、天下統一を目指して上洛の途上で病没した武田信玄が今際の際に残したという有名な遺言だ。

信玄が本当に言ったかどうかは分からないが「ここを押さえれば天下を取ったも同じ」という意味では、瀬田唐橋が持つ地政学的な重要性を十分に言い表しているように思える。

建部017

織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしてから4年後の天正3(1575)年。

信長は瀬田城主の山岡景隆[かげたか]に命じ、上流にあった橋梁を現在地に付け替えさせた。

景隆は長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)の一本橋を3ヶ月という突貫工事で完成させたそう。

ところが、それから7年後の天正10(1582)年に起こった「本能寺の変」で明智光秀軍は安土城へ進攻。

それを阻止するため、皮肉にも景隆自身が瀬田唐橋と瀬田城に火を放ち焼き払う羽目となった。

その明智光秀を豊臣秀吉が討ち、天下を統一。

このとき瀬田唐橋は現在の“二重橋”状態に整備されたという。

徳川幕府の治世に入り天下泰平の社会が訪れると、瀬田唐橋は血で血を洗う戦場から風光明媚な景勝地へと姿を変える。

歌川広重は浮世絵に描き、松尾芭蕉は「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」と句に詠み、唐橋の名は全国に知れ渡ることになった。

建部018

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]04

建部013

旧東海道を南進し鳥居川交差点へ出る。

ここを左折すれば正面に瀬田(の)唐橋。

宇治川の宇治橋、淀川の山崎橋(現存せず)と並ぶ「日本三古橋」のひとつ。

その歴史は古く日本書紀にも「瀬田橋」「大橋」「長橋」の名称で登場している。

橋の手前に踏切がある。

先ほど石山駅で下車した京阪石山坂本線。

その左側に小さな駅、唐橋前駅が見える。

次が終点の石山寺駅。

天平19(747)年創設の古刹、石山寺の最寄り駅だ。

東大寺の大仏造立で黄金の不足に悩んでいた聖武天皇が、夢のお告げを受けて建立。

奈良時代から観音信仰の聖地として朝廷や公家から篤く崇拝されてきた。

また、ここで紫式部が「源氏物語」の着想を得たことでも知られている。

源頼朝や足利尊氏、淀君らも後ろ盾になっており、おかげで戦国時代も災禍の被害が比較的少なかったとか。

戦乱で幾度も落橋した瀬田大橋とは対照的だ。

このため国宝の多宝塔をはじめ数多くの文化財が残されているという。

ただ今回は時間が割けず、拝観は残念ながら断念した。

建部014

踏切を超えて古風な木造建築の前を通り過ぎ、瀬田唐橋の西詰に出る。

様々な名称で呼ばれていた橋が「唐橋」と呼ばれるようになったのは鎌倉時代.

中国風の橋に架け替えられたことがきっかけだったという。

さらに「瀬田」という地名も昔は「勢多」「勢田」「世多」など様々に表記されていた。

それらが行政上の地名として「瀬田」に統一されたのは明治22(1889)年と意外に最近。

とはいえ眼前に架かる橋は擬宝珠こそ古風だが、何の変哲もないコンクリート製の橋。

現在の橋梁は昭和54(1979)年に架け替えられたもの。

擬宝珠は旧橋のものを再利用し、緩やかな反り具合は往時の姿を反映しているそうだ。

建部015

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]03

建部009

踏切を渡って大津警察署の角を曲がると湖岸道路に出た。

左側に見えるNHK大津放送局の方角へ歩くこと数分。

小さな無人駅、京阪石場駅に着いた。
ホームに上がって電車の到着を待つ。

緩やかなカーブを描いた線路の彼方から2両編成の小さな電車が現れた。

土曜日とあってか車内は空いている。
部活動へ向かう中高生の姿が目立つ程度だ。

10分ほどで京阪石山駅に到着。
階段を登りつつホームを振り返る。

建部010

「石山坂本線へようこそ!」
二次元の美少女「鉄道むすめ」石山ともかが挨拶してくれた。

「鉄道むすめ」とは全国各地に実在する鉄道会社の職場で実際に活躍している様々な職種をキャラクター化したコンテンツ。

彼女の職業は運転士で、名前は石山坂本線の両端、石山寺と坂本の両駅名に由来するそう。

 石山駅は京阪とJRの接続駅。
ペデストリアンデッキが両駅を結んでいる。

改札を出、まずは駅前商店街へ向かった。
朝から何も食べておらず、とりあえず何か食べたい。

幸いなことに角を曲った途端「めしや宮本むなし」と出くわしたので嬉々として入店。

ここは中部と関西を中心に展開する定食屋チェーンで、逆に首都圏には一軒もない。

関西の人間にはお馴染みでも、関東の人間にとっては非常に珍しい存在。
朝食の和定食を有難く頂いた。

石山駅前から南へ伸びる旧東海道を歩く。
沿道に旧街道の面影は全く残っていない。
だが、五街道筆頭という格式の高さだけは感じられる気がした。

途中「TORAY」の看板を掲げた石柱を発見。

大正15(1926)年創業の化学繊維メーカー「東洋レーヨン」の歴史は、ここに建造した滋賀工場からスタートした。

その後は社名を「東レ」に変更、現在では化繊の範疇を超えた総合化学メーカーに。

歴史がスタートした滋賀工場は後に滋賀事業所と名を変え、現在でも国内の生産拠点として稼働している。

建部012

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]02

建部004

大津駅から10分も歩けば琵琶湖の湖岸に出る。

湖面は夜明け前の闇に溶け込み、濃紺の空色の中で穏やかな波が岸辺に打ち寄せている。

滋賀県の面積の1/6を占める琵琶湖。

その大きさは地図を見れば理解できるが、直に見ると印象は全く違う。

これはもはや、海。

ただ、磯の香りがしないだけだ。

建部006

琵琶湖から大津駅に戻る途中、旧東海道と交差した。

東海道五十三次のうち大津宿は江戸から数えて53番目、つまり最後の宿場町。

ここまで来たら、いっそ京都へ直行すればいいのに…と現代人の自分は思うのだが。

ところが大津宿、実は東海道五十三次中でも最多の人口を有する最大の宿場町だった。

 江戸時代の大津は宿場町に加え、琵琶湖水運の要となる港町の機能も併せ持っていた。

「津」という言葉は「舟着き場」とか「渡し場」という意味。

まさに「大津」という地名は、街の体を表しているわけだ。

宿場と港、両方の機能が大津を東海道五十三次最大の宿場町に押し上げる要因になったといえる。

 東海道を西へ進むうち、次第に夜が白々と明けてきた。

新聞配達の自転車とすれ違い、一日が始まる息吹を感じる。

この狭い道幅は自動車でなく歩いて旅する人々に合ったサイズ。

古街道ならではの歴史を今に伝えているかのようだ。

先方に京阪石山坂本線の踏切が見えてきた。

中央大通りからここまで1キロ弱。

僅かな距離ながら東海道の風情を味わえた…ような気がする。

建部008

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]01

建部001

深夜23時を少し回ったあたり。

紫の灯りに包まれた東京スカイツリーの麓にある停留所から、滋賀の県都大津行きの高速バスに乗り込む。

本来は京都と東京ディズニーリゾートの往来が目的のバス。

だが、ありがたいことに当方の乗下車地である東京スカイツリーと大津に停車してくれる。

東京スカイツリーでは半分程度しか埋まっていなかった座席も上野で満席に。

漆黒の闇の中を、バスは西に向かって走り出した。

建部002

翌朝5時30分ごろJR大津駅前に到着。

本来なら55分ごろの到着予定だったので、かなりの早着だ。

早く着いてくれるのは有難い話だが、時は真冬の早朝。

逆に少し遅延してもらったほうが…というのは贅沢か。

バスからは、こちらが想定していたより多くの乗客が一緒に下車していく。

大津というディスティネーション、想像以上に需要が旺盛なのかも知れない。

夜明けの大津駅前には驚くほど何もない。

たぶん夜が明けても驚くほどの何かは姿を現さないだろう。

そのくせ駅の構内外にはコンビニ(しかも同じチェーン店)が二軒もある。

このアンバランスさこそが大津の魅力なのだろうか?

それはともかく、まだ目を覚ましていない大津の町へ足を踏み出してみた。

暗闇の中にクラシカルな巨大建造物のシルエットが浮かんでいる。

滋賀県庁。 もちろん開庁してない。

最近の県庁庁舎はどこも無機質なビルに建て替えられ、こうしたクラシカルな建物が現役で稼動している県はメッキリ減ってしまった。

建部003

[旅行日:2016年12月10日]

「一巡せしもの」再開します

建部風景

ご愛読ありがとうございます、「RAMBLE JAPAN」管理人です。

平成27(2015)年10月17日からお休みしてました「一巡せしもの」。

1年10ヶ月にも及ぶ中断期間を経て、明日から再開いたします。

まず参詣するのは滋賀県大津市の「近江国一之宮建部大社」。

それでは変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

耽よ!城下町[豊後杵築城]14

②98城下町資料館

庭園を通り抜けると小径は「きつき城下町資料館」に続いている。

杵築の城下町全体を歴史公園に見立て、その中核的機能を担う施設として建てられたもの。

鉄筋コンクリート3階建てで各階に常設展示が設けてある。

②99御所車

中へ入ると1階ロビーには天神祭で用いられる巨大な御所車が展示されている。

あまりにも大き過ぎ、そのままでは搬入口を通らないので、分解して運び出すそうだ。

その奥には「坂のある城下町」をテーマにした常設展示室。 中央には城下町を復元したジオラマがデンと鎮座している。

古地図を基に武家屋敷や町家などが連なる江戸時代の街並みを立体的に再現したもの。

杵築の特徴である「サンドイッチ型」という城下町の特徴がひと目で分かる。

2階は「武士のくらしと文化」「杵築の生んだ先人たち」の2大テーマの常設展示。

「武士の〜」では町役所日記や町人の文化に関する品々、「杵築の〜」では三浦梅園や重光葵などに関わる各種資料が、それぞれ展示されている。

2階には企画展示室もあり、年2回、文化財や旧家の収蔵品などをテーマに企画展を実施。

3階には杵築歌舞伎、漁業の歴史と漁具、畳の材料となる七島藺[しっとうい]の歴史と生産用具などが紹介されている。

②101松樹

城下町資料館を出て海の見える高台へ向かうと、途中に「松樹」という食事処がある。

看板に「田舎料理」とあるように地元の食材を使った郷土料理が自慢の店。

杵築市がご当地メニューとしてプッシュしている「杵築ど~んと丼」にも参加。

「炭火焼せせり丼」は希少部位である鶏の首の肉「せせり」を塩コショウだけで焼き、ご飯にドーンと乗せた丼。

「超やわらか牛すじ丼」は県内産の牛筋を柔らかく煮込み、甘辛醤油で味付けしてご飯にドーンと乗せた丼。

だが時間がなかったので、どちらも賞味できなかったのが残念。

②102一松邸外観

松樹から緩やかな坂を登ると、丘の上に堂々たる和風建築が立っている。

かつて政界で活躍した一松定吉氏の邸宅「一松邸[ひとつまつてい]」。

杵築市の初代名誉市民となった故・一松定吉氏の邸宅。
従って江戸期の武家屋敷ではなく昭和初期の建物である。

昭和32(1957)年に杵築市へ寄贈され、公民館「一松会館」として市民に利用されてきた。

市役所の新築移転に伴い、庁舎の前にあった一松会館も併せて移転することに。

平成12(2000)年、杵築城と杵築湾、八坂川を一望するこの高台へ移築された。

この邸宅は昭和2(1927)年から2年もの歳月をかけて建てられ、同4(1929)年に落成。

高級な木材をふんだんに使った贅沢な造りで、建築費用は今の金額に換算すると5億円相当という。

②105一松邸内観1

欄間は杉の柾目板に透し彫りを施したシンプルなものだが、当時この欄間1枚で家一軒が建ったほどのお金が掛かっているそうだ。

客人用トイレの天井は、二条城や日光東照宮など著名な寺社で多く見られる格天井[ごうてんじょう]。

ほかにも長さ8mもある杉の一枚板を敷いた縁側、戸袋を減らすため雨戸を直角に回転できるよう細工をした「回り戸」など。

江戸時代の武家屋敷と昭和初期の大豪邸を見比べてみるのも面白いかも知れない。

江戸時代、一松家は杵築藩の剣術や槍術の指南役を務める武門の家だった。

明治になって養子に入った定吉氏は上京し、法曹界で活躍した後に政界へ転身。

昭和3(1928)年に衆議院議員に当選して以来、34年間にわたり国会議員を務める。

戦後の混乱期には3つの内閣で国務・逓信、厚生、建設の各大臣を歴任。

この邸宅を見ていると、いかに昔の政治家は豪快だったことか。 それに比べて最近の政治家がすっかり小粒に見えてくるから不思議だ。

②108展望台

一松邸の玄関を出ると正面には杵築城の天守閣が大海原をバックに聳立している。

八坂川が杵築大橋の下を通り、守江湾へと流れ込む風光明媚な景色。

いよいよ杵築の町とお別れする時が来たようだ。
この町で出会った人たちの顔を思い浮かべつつ、バスターミナルへ足を向けた。


[旅行日:2016年4月12日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]13

②89南台裏丁2

天神坂を上り切り、鍵形交差点を左に折れると「裏丁」と呼ばれる通りに出る。

北台のように江戸時代の古い屋敷はあまり残っていない。
つまり住宅街なのだが、よくある一般的なそれではない。

土塀や白壁、石垣が連なり、間に長屋門や薬医門が立っている。
通りそのものは城下町の面影を良く留める「江戸時代」なのだ。

②90飴屋の坂b

裏丁が尽きるあたりに小さな鍵形の十字路がある。
左折すると緩やかにカーブした急傾斜の石段があり、その先は商人の町へ。

杵築には坂が結構あるが、曲がり坂とは珍しい。
ここは「雨夜の坂」とも「飴屋の坂」とも呼ばれている。

雨に打たれた石畳が夜ともなると暗闇の中で白く浮かび上がったので「雨夜の坂」。

坂の下に本当に飴屋があったから「飴屋の坂」。
どちらが本当の由来なのかは…わからない。

最初は「塩屋」「酢屋」があるなら「飴屋」も…という安易なネーミングだったのが、いつしかロマンチックな「雨夜」にすり替わったのではないか…と勝手に思っている。

雨も降っておらず夜でもないので、ここは「飴屋の坂」と呼ぼう。
その坂を往復している途中、犬を散歩させている初老の夫婦とすれ違った。

「こんにちわ」
お互い挨拶を交わす。

そういえば今朝、酢屋の坂で杵築小へ通う小学生からも、すれ違う際に挨拶された。
古き良き城下町には丁寧な挨拶がよく似合う。

②91中根邸長屋門

飴屋の坂を再び登り崖沿いの細い道を進むと、塩屋坂上の広い通りに出る。

「家老丁」といって江戸時代は多くの家老屋敷が軒を連ねていたところだ。

南台武家屋敷の東端に位置し、藩主御殿に近いため登城に便利だったからだろう。

道の向こう側には分厚い築地塀の真ん中に堂々たる白壁の長屋門が見える。

「家老丁」に唯一残る家老屋敷、中根邸の長屋門。
慶應3(1867)年に建築されたことが分かっている。

②92中根邸玄関

長屋門をくぐって玄関へ。
玄関前には武家屋敷の象徴ともいうべき堂々たる蘇鉄。

その鮮烈な緑の生命体を眺めつつ邸内へ。
ここは休憩所として無料で公開している。

中根家の祖先は三河国中根村出身の中根長兵衛末治。
能見松平家五代重忠(初代藩主英親の祖父)に召し抱えられた。

能見松平家が杵築に移封されたのに随伴し、正保2(1645)年に定住。
やがて杵築藩の筆頭家老にまで出世した。

現存している母屋は平成4(1992)年度の解体保存修理の際に発見された棟札などから、 文久2(1862)年に中根家九代家老源右衛門が建築したものと判明している。

②93中根邸内観1

邸内で印象的なのが茶室。
6畳の茶室のほか、10畳の座敷にも炉が切られて茶室としても使用できる仕様になっている。

座敷と隣接した3畳ほどの小部屋は茶の控え室に使われ、たびたび大規模な茶会を開催していた模様。

茶の湯の文化が浸透していた杵築の地で、隠居後の暮らしに茶の湯が大きな楽しみになっても不思議ではない。

現役家老の屋敷だった大原邸と比べると、邸宅の持つ役割の違いが見えて興味深い。

中根邸は余生を過ごすために作られた隠居宅。
それだけに老人でも無理く暮らせるようユッタリと設計されているのが特徴だ。

②96中根邸外観

江戸時代の中根邸は杵築最大の武家屋敷だったそうだが、現在は隠居宅を残すのみ。

残念ながら往時の規模は想像に任せるしかないようだ。
庭園は他の武家屋敷と異なり、どこか優しさが感じられる。

重責から解き放たれたご隠居の「静かに余生を過ごしたい」という思いが反映されているのだろうか?


[旅行日:2016年4月12日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]12

②82長昌寺

最後に訪れたのは寺町坂で最も麓にある長昌寺。
ここには2つの市指定有形文化財がある。

ひとつは元禄時代の作「当麻曼荼羅」。
能見松平家二代重栄公のころ、殿中で幽霊騒動が起こった。

そこで奈良の極楽院にある当麻曼荼羅を縮小のうえ模作。
これを長昌寺に奉納して幽霊供養に供したと伝わっている。

もうひとつも元禄時代の作「弥陀三尊仏」。
二代重栄公が両親の冥福を祈って長昌寺に寄進…というが。

実は先述の幽霊騒動の際、鎮魂のため寄進したものとも伝わっている。

逗子外箱の裏側に、こう記されている。

「この尊像は仏師浄慶が南都(奈良の)大仏遺材を以って作ったもの」
「納塔赤布は久能山東照宮御帳の余裔で造ったもの」

奈良の大仏と東照大権現のダブルパワー、よほどの御利益があるのか?
ただし残念ながら、いずれも拝観することは叶わなかった。

②83松平家奥方墓所

長昌寺は能見松平家奥方の菩提寺でもある。
墓所には正室や実母の、結構な数の墓が並んでいる。

鬱蒼とした木々の緑に包まれた藩主の墓に比べ、奥方たちの墓は見晴らしの良い高台にあり開放的な印象を受ける。

②84長昌寺庭園

長昌寺もうひとつの見所は市指定名勝の庭園。
江戸時代初期の作庭で面積は約1650平方m。

九州における枯山水庭園の白眉と評され、水前寺成趣園と並び称される名園。

ツツジの刈込に巨石を組み合わせた築山の前面に砂を敷き、池泉を表しているそうだ。

②85裏寺町

長昌寺の境内を通り抜けると裏側を通る細い坂道に出た。
坂の上に鳥居が見え、行って社号を見れば「貴布称神社」とある。

小さな社殿の横に併設された集会所から、小母さんたちの嬌声が聞こえる。

その声色に宗教っぽさは感じられない。
たぶん地域の趣味の集まりか何かだろう。

②86天満橋

貴布称神社横の坂を越え、再び谷間の商人の町へ。
きつき衆楽観の前から鍵形交差点へと至る天神坂を登る。

坂の入り口に「天満橋」という小さな木の橋が架かっている。
昔、商人の町に流れていた谷川に架かっていた土橋を偲ぶモニュメント。

現在では区画整理のため谷川は姿を消してしまった。
しかし、暗渠化されて今でも地面の下を流れているのだそう。

谷間を通る細い道と脇を流れる細い川。
その両脇に連なる昔ながらの商店街。
都市計画で消滅する前に生で一度、この目で見たかったものだ。

②87b天満社

天神坂の途中に名前の由来となった「天満社」が鎮座している。
申すまでもなく“天神様”菅原道真公を祀った神社だが、由来は少し複雑だ。

元和年間(1615-24)、安住寺の諸富某が四国へ向かう途中で暴風雨に遭遇。

近くの岩山に見えた天満宮に祈願したところ無事に帰国できた。
そこでに杵築にも天神様を祀ったのが起源の由。

その後は歴代藩主に篤く信仰され、町方総町の氏神として奉祀されてきた。

毎年7月24・25日の両日は300年以上の歴史を誇る「杵築天神祭り」が開催される。

25日の大祭では幾つもの山車が町中を練り歩き、美しい神輿が川を渡る。

ちなみにこの神輿、本来は杵築大社…つまり出雲大社に送られるはずのものだった。

それがどう間違ったのか、杵築の天満社に運ばれてきたのだそう。
以来、ここ杵築の地に据え置かれている。

幕府ですら木付と杵築を間違えるのだ。
杵築大社と杵築天満社の間違いぐらい可愛いものだろう。


[旅行日:2016年4月12日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]11

②73南台桝形

本丁を東に行き当たると鍵形になった十字路に出る。

一見すると最近の都市計画で偶然生まれた交差点のようにも思えるが、町の入り口にあたる西端にあり寺町とも隣接していることから、城下町の構造として誕生した往時から整備されていたのではないか?

それと、ここは裏丁と寺町、天神坂がクロスする交差点。
真ん中に立てば天神様、お釈迦様、イエス様を一同に拝むことができる

生まれたら神社へお宮参りに行き、結婚したら教会で式を挙げ、死ねばお寺でお葬式。

まさに日本ならではの宗教的「三位一体」観を具現化した交差点と言えよう。

②74教会門

交差点の角、寺町の坂を上りきったところに十字架を高々と掲げた教会が立っている。

昭和28(1953)年に開かれた「杵築カトリック教会」。
教会とはいえ門は瓦屋根の和風建築、まるで武家屋敷のよう。

建物も衒いのない白壁で過剰な装飾も施されておらず、まことにシンプルだ。

門が開いていたので中に入ってみる。
広い庭は丁寧に整備され、桜の木々は満開の花で彩られている。

②75教会内庭

庭の中央に巨石を組み合わせたモニュメントが築かれ、その中央にはマリア像。
ここがカトリックの教会であることを静謐に主張しているかのよう。

ちなみに「ひとつ屋の坂」にあった杵築教会はプロテスタントの教会である。

教会から寺町通りの坂を下っていくと最初にあるのが養徳寺。
能見松平家の菩提寺で、通りから山門まで参道の両脇に聳える杉並木が美しい。
 
②76養徳寺

この寺は映画「男はつらいよ」第30作「花も嵐も寅次郎」のロケに使用されている。

沢田研二演じる三郎が亡くなった母を供養する…というシーン。
マドンナ役を演じた田中裕子は本作での共演が縁で、実生活で沢田と結婚している。
養徳寺、意外と「縁結び」な寺なのかも知れない。

②77a歴代藩主墓所

境内には杵築松平藩六代藩主親貞[ちかさだ]と、同七代藩主親賢[ちかかた]の墓がある。

境内は土塀の漆喰が所々落剥して黄土色の土が露出し、ほどよい寂れ感を醸し出している。
藩主が眠る霊廟にピッカピカの過剰な装飾は似合わない。

養徳寺の隣にある正覚寺には、全国的にも珍しい鉄製の大仏が鎮座している。

この大仏、名を「鉄鋳盧遮那仏坐像[てっちゅうるしゃなぶつざぞう]」という。

②79日本最大の鉄製大仏

延享元(1744)年に府内(現在の大分市)で作られたもの。
現在、市の有形文化財に指定されている。

門をくぐり境内に入ると、左手にこじんまりとした仏殿があった。
正面奥に大仏が鎮座し、両側に鉄製の小さな仏像が幾つも並んでいる。

確かに鉄の大仏を見たのは初めてかも知れない。
ただ、全体的に赤錆が浮き、大仏というより赤鬼っぽく見える。

よほどこまめに手入れしなければ、アッという間に錆び落ちてしまうだろう。 鉄で大仏を作るのは現実的ではないのかも知れない。

正覚寺の2つ隣に安住寺という古い禅寺がある。
鎌倉時代の正元元(1259)年、木付氏初代の親重が創建した。

代々の菩提寺となっていたが、木付氏滅亡とともに極度に衰微。
一時は消滅しかけたところ、能見松平氏が再興した。

②81大分県最古の鐘

ここには県内最古の梵鐘がある。
鋳造は文和2(1353)年というから優に650年は超えている。

総高100.4cm、胴部周囲152cmと堂々たる梵鐘。
大分県の有形文化財に指定されている。


[旅行日:2016年4月12日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]10

②65bいな里バス

ホテルに戻り、部屋のバスルームへ。

どこか変に甘ったるい匂いが漂っている。
何の匂いだろう? 

そう思いつつバスタブを見ると蛇口が2つあり、うち1つには「天然温泉」と表示してあった。

通常の蛇口のほか温泉専用の蛇口があり、各客室に天然温泉が引かれているのだ。

おかげで大浴場へ再訪することなく、ユニットバスで温泉に浸かることができた。

②66酢屋の坂

翌朝、ホテルをチェックアウトして再び番所の坂を上る。
そのまま直進すると、目の前に美しい風景が広がる。

幾度目かの「酢屋の坂」。
谷町通りを挟んで正面には「
塩屋(志保屋)の坂」。

まさに杵築を象徴する風景。
ここは昨夜も通っているが、さすがに闇の中では分からなかった。

酢屋の坂は直線の長さ約90m、高低差約7mという急坂。
その中ほどに「ご休憩所」と書かれた小さな看板が立っている。

②67酢屋坂休憩所1

休憩所というより、ちょっとした公園。
 
ベンチに座って古い井戸を眺めていると、この坂が江戸時代と現代を結んでいる…そんな錯覚を覚える。

酢屋の坂下に創業明治33(1900)年という老舗の味噌蔵が
店を構えている

建物は「塩屋の坂」の由来となった豪商志保屋の屋敷で、18世紀の建築と推定されている。

町家としては杵築最古の部類に属し、典型的な商家の構造を有する建物。
平成8(1996)年には市の有形文化財に指定されている。

②69綾部みそ屋

味噌の材料には大分県内産の大豆、国産の米、九州産の大麦を使用。
地下の天然水で仕込み、全工程を手作業で製造している。

それゆえ、ここで作られる味噌の多くは地元だけで流通。
店舗の建物も販売されている味噌も、いずれも文化財級の希少さだ。

②70塩屋の坂下

「酢屋の坂」を下って谷町通りを渡り「
塩屋の坂」を登って南台の武家屋敷へ
長さは約100mで高低差が約8mと、こちらも急坂だ。

この二つの坂は映画やテレビの時代劇ロケでもよく使われる杵築の名所。

杵築は日本で唯一の「サンドイッチ型城下町」と呼ばれているが、それは2つの高台(北台と南台)の間に谷間(谷町通り)が通る構図に由来している。

江戸時代、杵築城から西に伸びる二本の高台上に武士たちは屋敷を構え、その谷あいで町人たちは商いを営んでいた。

塩屋の坂から酢屋の坂を眺めると、まさに「凹」の形状がサンドイッチのように見えるようだ。

「塩屋の坂」という名称の由来は谷町の豪商、塩屋長右衛門と深く関わっている。

谷町から南台へ続く坂の下で長右衛門は「塩屋」という酒屋(ややこしい!)を繁盛させていた。

ならばと今度は谷町から北台へ続く坂の下で酢屋の商売を始め、またも成功。

各々の商いから「塩屋の坂」「酢屋の坂」と呼ばれるようになったそうだ。

②71a塩屋の坂上

「塩屋の坂」から右に曲がると、もうひとつの武家屋敷「南台」。
表通りの本丁と裏通りの裏丁があるが、まずは本丁へ。

寺町にある菩提寺の養徳寺まで
藩主が駕籠で往来できるよう、道幅を広くとってあるのが特徴だ。

南台は北台と違って公開された武家屋敷はなく、すべて一般の民家。
それでも生垣や土塀が綺麗に整えられ、住民の城下町に対する矜持がうかがえる。


[旅行日:2016年4月11〜12日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]09

②60岩鼻の坂

天理教会の前から右に坂が続いている。
岩鼻の井戸と北台武家屋敷を結ぶ「岩鼻の坂」。

上水道など存在しない江戸時代、武家屋敷で働く人々は井戸水を運搬するため、この坂を幾度も往復したのだろう。

そう考えながら上ると、水の有り難みが身に染みる坂かも知れない。

②61北浜口番所

再び北台に戻り、番所の坂へ。
商人の町ではなく、その反対側、バスターミナル方面へ下りていく坂だ。

その名の通り、ここは江戸時代「北浜口の番所」があった跡。
城下町に通じる道に設けられた6ヶ所ある番所のうちのひとつ。

番所とは城下への人馬の往来を監視する施設。
明け六つ(午前6時)と暮れ六つ(午後6時)に開閉されたという。

ほかに魚町口、寺町ロ、馬場尾口、清水寺口、城鼻ロとあったが、現在あるのは復元されたここのみ。
 
入り口には冠木門が設けられ、坂の両側は鬱蒼とした竹林で、下界と隔てる「結界」っぽさが漂う。

江戸時代は坂の下に番屋があり、目の前は海。
瀬戸内を渡ってきた船が乗り付け、物資が城下に運び込まれたという。

それだけでなく、大坂や高松から文化や情報を受け入れる窓口ともなった。
杵築の町の形成に大きな役割を果たした坂と言えよう。

②62番所の坂

番所の坂を下りると正面に「ホテルいな里」が立っている。

もともと杵築は宿泊施設が少ない町で、大きなホテルはここぐらい。
建物自体は少々古く、フロントも“受付”と呼んだほうが相応しいほどこじんまり。

接客対応もチェーンホテルの画一的な対応に慣れている向きには面喰らうかも知れない。

が、ホテルだと思うから面喰らうのであり、旅館だと思えば「こんなもんか」という感じ。

ハードウェアはホテルでも運営しているソフトウェアは旅館だと思えば逆に面白い。

チェックインして一休みした後、上階の展望大浴場へ。
杵築の町を眺めながら、天然温泉に身を沈めてみる。

窓が武家屋敷と反対側を向いており、眺めが少々味気ない。
それでも杵築に到着した段階では宿も決まっていなかった状態。

温泉までは期待していなかったので、ある意味で嬉しい誤算だ。

②65aホテルいな里

夜、夕食がてら街へ繰り出す。

先ほど訪れた商人の町は昼間の観光用繁華街で、夜に関してはホテル近辺が繁華街の中心っぽい印象を受ける。

だが、ここは敢えて番所の坂を上り、大原邸の横を通り過ぎ、酢屋の坂を下り、谷町通り商店街へ足を向けた。

案の定ほとんどの店はシャッターを下ろし、時おり通り過ぎる車のヘッドライトが暗闇を切り裂いていく。

とはいえ飲食店が皆無というわけでもなく、灯りが漏れている店がいくつかある。

そんな中で「遊 ゆとり」という居酒屋が気になり、フラリと入ってみた。

②63遊ゆとり外観

江戸時代というより、大正から昭和初期のカフェーっぽい外装が気に入ったのだ。

店内は意外に広く、しかも結構混んでいるが、団体の客らしく賑わいはテーブル席だけ。

誰もいないカウンター席にスッと座り、ビールと大分からあげを注文する。

大分からあげはベースのしょうゆだれが程よく効いた、ビールに合う一品。

続いて、麦焼酎「とっぱい」のお湯割を注文する。
「とっぱい」は国東市にある南酒造の本格麦焼酎。

製造量が少ないためか、いいちこや二階堂に比べて見かける機会が少ない。

これに合うアテは何かと品書きを眺める。
そこで目に止まったのが「砂ずり唐おろしだれにんにく風味」。

「砂ずり」とは砂肝のことで、唐辛子と大根おろしと大蒜を混ぜたタレで和えてある。

砂肝のシャリシャリした歯触りと甘辛いタレが麦焼酎と絶妙なマリアージュを描く。

この店を選んで正解だったと思う。

②64遊ゆとり料理


[旅行日:2016年4月11日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]08

②58商人の

城下町には和服が似合う…ということで杵築は全国で初めて「きつき和服応援宣言」を実施した自治体。

平成21(2009)年には全国初の「きものが似合う歴史的町並み」に認定された。

このため市内には着物や浴衣のレンタルショップがある。

さらに和服で散策すると公共観光文化施設の入館料を全館無料にするサービス。

しかも協賛店では食事代の割引やソフトドリンクサービス、お土産プレゼントなどの特典もある。

②56さつき衆楽観

新町に「きつき衆楽観」という芝居小屋がある。

江戸時代、諸国を巡業しながら歌舞伎や人形劇を演じる「杵築芝居」があった。

杵築芝居は専用の劇場を持たず、筵で囲った簡便な小屋で行われていたという。

年を追うごとに人気は高まり、明治時代には6つの劇団がしのぎを削っていた。

明治20(1887)年、全盛期を迎えた杵築芝居に専用劇場「衆楽観」が誕生。

600人以上収容できる大劇場で、杵築芝居の盛り上がりはピークを迎える。

しかし昭和に入ると次第に衰退の一途をたどり、昭和28(1953)年に閉館。

それから56年後の平成21(2009)年、市役所の向かいに復活したのがここ。

市と文化庁の町並み保存事業として、大正時代の酒蔵を改修した劇場という。

柱や梁は「衆楽観」のものを用いていて、往時の雰囲気が味わえる。

また、舞台以外にも食事処やギャラリー、売店や観光交流センターを併設。

大衆演劇の新たな拠点として機能しているそうだ。

②57杵築市役所

きつき衆楽館の向かいにある杵築市役所。

その前に「カブトガニの里」なる碑が立っている。

カブトガニは古生代から姿が変わっていない「生きる化石」。

瀬戸内海から九州北岸にかけて無数に生息していたが環境破壊によって激減。

現在では非常に限られた地域にしか生息が確認されていない。
そのひとつが杵築の守江湾。

絶滅が危惧されたカブトガニを保護するため、市では産卵場所を増やすために砂地の工事を行ったという。

ただ、佐賀県伊万里市や岡山県笠岡市の繁殖地と異なり、守江湾は国の天然記念物に指定されていない。

それはカブトガニの硬くてギザギザした甲羅が漁網を破るなど漁業関係者から目の敵にされているため。

漁業関係の市議会議員らがカブトガニの保護に強硬に反対しているのが原因とか。

食べて美味いわけでもないカブトガニ、それはそれで理解できない話ではないが。

豊後の海には関サバや城下ガレイ、鱧や河豚といった美味が揃っているのだから。

一か所ぐらい「食べられない海の幸」を売り物にした町があってもいいように思うのだが。

②59岩鼻の井戸

天理教会が立つ石垣の下に井戸があり、その横に小さな祠が祀られている。

「岩鼻の井戸」といって、この町筋で唯一の井戸という。

江戸時代は武士も町人も農民も利用でき、町民は藩の命令で井戸を浚っていた。

それほど岩鼻の井戸は町にも藩にも重要な存在で、井戸の守護に祠を建立するのも当然だろう。

「岩鼻」という地名は凝灰岩が突出しているところから命名された。

確かに井戸のある場所だけ歩道が多少狭まっている。

都市計画も大きな岩までは動かせなかったようだ。


[旅行日:2016年4月11日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]07

②50a酢屋の坂

勘定場の坂から来て大原家の前を過ぎると十字路に出る。

左に折れると杵築を代表する坂のひとつ、酢屋の坂。
右に折れるとバスターミナル方面へとつながる番所の坂。

杵築を日本一の城下町たらしめる景観が楽しめる交差点。
だが、ここは直進して佐野家へ向かうことにする。

②51佐野家門

佐野家は代々御典医として杵築藩に仕え、高名を馳せてきた名門医家。
徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8(1603)年、佐野家の始祖徳安は伊賀国で誕生。
 
徳安は元和元(1615)年に勃発した大阪夏の陣の騒乱を避けて豊後岡藩へ。
藩医で伯父の佐野卓節の許で医学を修めた後に独立し、杵築へ移り開業。

その医療技術は「刀圭(医術のこと)ノ妙、神ノ如シ」と謳われたほど。
噂を聞きつけた時の藩主小笠原忠知は徳安に宅地を与え、侍医として召し抱えた。

以来約400年、佐野家は御典医として数多くの名医を輩出してきた。

②53佐野家玄関


現在では管理者が佐野家から杵築市に変わり、平成2(1990)年11月から一般公開されている。

佐野家の母屋は天明2(1782)年に建築されたのもので、木造建築物としては杵築市最古。

その割に旧状を良好に留めているのは、昭和末期に13代当主の雋一氏が亡くなるまで現役の病院だったからだろう。

中津市の村上と大江の両医家資料館が完全に文化施設化しているのと比べ、まだ佐野家には病院としての名残が残っている。

病院として機能していた古民家の構造を、武家屋敷と比べながら観察してみるのも面白いかも知れない。

②54佐野家内観

藩主の学問好きが影響したのか、杵築城下には学問や芸術に高い関心を持つ風土が醸成された。

佐野家の歴代当主も医師である傍、詩文や書画、茶道、俳諧などの分野で優れた業績を残している。

また、三浦梅園や田能村竹田といった豊後の文人たちとも篤く交流を重ねてきた。

医学を究める傍で風雅を愛してきた佐野家の伝統が、この邸内に今も静かに息づいているかのよう。

ちなみに14代当主の佐野武氏は現在、杵築を離れて東京にいる。

胃がん手術で世界トップクラスの技術を駆使するリアル“スーパードクター”。

佐野医家400年の歴史は、今でも連綿と受け継がれているのだ。

②55ひとつ屋の坂

佐野家のある北台から「ひとつ屋の坂」を下りて谷底にある商人の町へ。

昔この坂の近辺に家が一軒しかなかったことから、こう呼ばれるようになったそう。

ただ現代では武家屋敷の風情は若干残しつつも、普通の住宅街っぽくなっている。

坂の真ん中に立つキリスト教の大きな教会が異彩を放っているせいかも知れない。

武家屋敷に比べて商人の町は車道も歩道も道幅が広い。
最近、都市計画で大規模に拡張したからだという。

無論、自動車などなかった江戸時代の道は今よりも細かった。
バスターミナルから杵築城まで通った道がそうかも知れない。

沿道に並ぶ商店は瓦葺に白壁という城下町っぽいデザインを踏襲している。 だが、どの建物も新たに作られたことが一目で分かる。

都市改造前は重要伝統的建造物保存地区に指定されてもおかしくない町並み。

しかし、指定されると保存が優先され日常生活に支障が出てくる。
住人たちは文化財保護より日常生活の利便性を選択したに違いない。

[旅行日:2016年4月11日]

耽よ!城下町[豊後杵築城]06

②41台の茶屋

邸宅は平成19(2007)年3月、能見家の当主マサさんから杵築市に寄贈された。

翌20(2008)年度から2年に渡って総費用7000万円を超える大規模な保存解体修理を実施。

敷地面積1440平方m、延べ床面積250平方m、屋敷内に玄関の間や上段の間など12部屋を持つ、建築当初の姿が復活した。

同22(2010)年4月1日から市の観光施設として一般公開された。

改修に伴いギャラリーや喫茶コーナー、物販スペースなどを新設。

武家屋敷が街歩き途中の休憩所として生まれ変わった。

食事や甘味などを楽しめる和風喫茶コーナー「台の茶屋」に入ってみる。

1世紀を超えた建造物で味わう抹茶の味、もはや“和風”喫茶ではなく“純和”喫茶の世界。

なかなか貴重なひとときだった。

②42大原邸長屋門

能見家を出ると、隣にひときわ大きく立派な武家屋敷が立っている。

藩の上席家老を務めた大原家の屋敷。

全体的に上級武士の屋敷構造を良好に留めているのが特徴だ。

門は磯矢邸や能見邸のような簡素なものではなく堂々たる長屋門。

これだけで住居の主が並の家臣ではなかったことが一目瞭然。

長屋門は幅八間半(15.46m)、奥行二間(3.64m)もの大きさ。

しかも往時は左側に桁行四間半(8.18m)の建物が付属していたという。

その規模からして藩主御殿に準ずる家老屋敷だったのだろう。

②43大原邸玄関1

長屋門を通って敷石伝いに進むと真正面に式台を備えた玄関が現れる。

式台とは玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分で、客に送迎の挨拶をする場所のこと。

入母屋造の屋根を備えた式台は幅二間(3.64m)、奥行一間(1.82m)もの広さがある。

そして玄関前には、ここにも巨大な蘇鉄。

こうした重厚な玄関構造を備えていることもまた、格式の高い家の証だろう。

式台玄関から邸内に入ると八畳の「次の間」を経て十畳の座敷へとつながる。

他の屋敷に比べて壁が赤いのが特徴で、下級武士との差別化を図っているからだそう。

②46大原邸内観2

大原家の特徴は、こうした接客用の表部分と、 居住用のプライベート部分が完全に分離されている点。

単なる個人宅ではなく、藩の重職が公務に使用する公邸としての性格も持ち合わせていたことが分かる。

他にも畳の縁に家紋が入っていたり、室内から弓の練習をするため天井の一部を凹ませてある「弓天井」がある等。

質素堅実な屋敷でありながら随所に格式の高さが見え隠れする点が面白いところだ。

大原邸は最初から大原家の邸宅だったわけではないそう。

宝暦年間(1751~1764)の頃は藩士相川東蔵の屋敷。

東蔵が知行を返上した後は家老新知・中根斎、岡三郎左衛門を経て御用屋敷「桂花楼」に。

天保3(1832)年に桂花楼は大手広場にあった牡丹堂に移り、その後は御用屋敷として続いていた。

嘉永年間(1848~1853)の頃には既に家老上席・大原文蔵の屋敷となっていたという。

いつから大原家がこの屋敷の主人になったかは不明だが、文政年間(1818~1830年)以降と思われる。

それから1世紀以上の時を経た平成元(1989)年、観覧のため一般に開放された。

②49大原邸庭園

656坪の敷地には母屋と、その東側には回遊式の庭園が広がる。

寄棟造の茅葺屋根を見上げると昔の面影が今でも伝わってくる。

この主屋がいつごろ建てられたのかは資料がないので不明とか。

桂花楼時代の建屋が今でも残っているのだとしたら、牡丹堂に移転した天保3(1832)年には既に存在していたことになる。

築山に接して八間ほどの池を掘り、真ん中に中島を築き、石橋が渡してある。

池の周囲には飛び石が配置され、築山と池と中島を回遊できる構造だ。

杵築の武家屋敷の中でも最も整った庭園であり、そこがまた大原家の格の高さを窺わせる。


[旅行日:2016年4月11日]

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