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一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]13

諏訪下春45*

その隣が万治の石仏のところで岡本太郎の言葉を引用したみなとや旅館。

岡本以外にも小林秀雄、白洲次郎・正子夫妻、永六輔といった著名人に愛されてきた宿である。

みなとやの前に「右甲州道 左中仙道」と刻字された小さな石碑が、ひっそりと佇んでいる。

この文字は白樺派の作家、里見弴が逗留した際に寄贈した書を基に刻んだものという。

万治の石仏といい綿の湯といい、偉大な先達が石碑に揮毫を残しているところに下諏訪という街の懐深さが垣間見える。

道を挟んだ向かい側にある「しもすわ今昔館おいでや」は、下諏訪観光協会が入居している大きなビル。

館内には時計博物館の「儀象堂」と、星ヶ塔黒曜石原産地遺跡など埋蔵文化財を展示する「星ヶ塔ミュージアム矢の根や」、館外には「御柱神湯」という足湯もある。

たかだか100m程度の小径ながら、これだけの歴史と文化がギュッと凝縮されているところが下諏訪という町の凄み。

とても駆け足では全て見尽くせないので、ここはザッと紹介するだけに留めて残念ながら素通りだ。

諏訪下春46*

八幡坂を下りきったところに下諏訪宿の高札場を模した広場がある。

高札場とは幕府や諏訪藩が決めた法度や禁令、犯罪人の罪状などを記した木の板札を、人目を引くよう高く掲げておく場所のこと。

中山道に限らず、特に大きな宿場町には旅人の往来が多いことから必ずと言っていいほど据えられていた。

目の前にあるのは最近できたレプリカだが、記されている内容は江戸時代のもの。

博打ダメ、人身売買ダメ、鉄砲撃つな、切支丹や放火魔を突き出せば高額の報奨金を進呈…といった項目がタップリ列挙されている。

現代は博打(公営競技に限る)や切支丹が許されているだけマシなのか? いや、それほど単純な話でもないか。

裏路地をブラブラしつつ、朝に出立した下諏訪駅へ再び戻ってきた。

ホームに出ると御柱祭で実際に用いられた「古御柱[ふるみはしら]」が横たわっている。

平成22(2010)年の御柱祭で秋宮に建てられた三之柱で、今年の御柱祭で「御柱休め」により役割を終え、払い下げられたものだ。

おんばしら館よいさに据えられていた御柱はレプリカだけに、こうして“本物”を至近距離で拝めるのは有難い。

その横に置かれているのは綱の巨塊。

今年の御柱祭で用いられる曳綱の予備として作られた、いわば“未使用品”だ。

かつて多くの氏子衆の魂が込められた御柱が今、こうして駅のホームで静かな余生を送っている。

その姿は、まるで下諏訪の街から身を挺して邪気の侵入を防いでいる古老の“衛士”のよう。

来訪時に改札口で出迎えてくれた万治の石仏のレプリカに別れを告げ、上諏訪方面行きの電車に乗り込んだ。

諏訪下春44*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]12

諏訪下春043*

「児湯」の先に下諏訪宿の旧本陣が遺っている。

大名が宿泊する本陣の岩波家は江戸時代、ここに約1800坪の敷地に300坪の建物を構えていた。

当時の下諏訪宿は中山道最大級の宿場町であり、本陣の庭園は中山道随一とも謳われたほど。

現在では建物こそ半分程度になったが、庭園は江戸時代の優雅な景観を今なお披露し続けている。

また文久元(1861)年11月、皇女和宮が徳川将軍家へ御降嫁のため江戸へ向かう際ここに宿泊され、寝所となった上段の間もまた保存されている。

これらの諸施設は入館料を払えば見学できる、全てとはいかないが。

その本陣宿の系譜を継ぐ老舗旅館「聴泉閣かめや」の前に一本の縦に細長い石碑が立っている。

「甲州街道 中山道合流之地碑」

…ここは中仙道と甲州街道の「街道分されの地」。

下諏訪宿は中山道六十九次のうち、お江戸日本橋から数えて29番目の宿場町であると同時に甲州街道の終点でもある。

甲州街道は甲府で終わりだとばかり思っていたが、実はここまで延びていたのだ。

日本橋から甲府までは慶長7(1602)年に開通し、下諏訪までは同15(1610)年に延長された区間。

そのため甲府と下諏訪の間は甲州街道としての印象が薄いのだろう。

諏訪下春042*


分されの碑の奥に「綿の湯」と刻まれた石碑が立っている。

揮毫は永六輔。

八坂刀売神が諏訪大社上社付近で沸いた温泉を化粧用に使おうと、真綿に浸して桶に入れ小舟で諏訪湖を渡りここまで運んで来た。

ところが温泉は桶から諏訪湖へポタポタと漏れ続け、ここへ到着する頃には一滴もなくなっていた。

しかし漏れた温泉のおかげで諏訪湖近辺から温泉が豊富に湧き出し、それが今日の上諏訪温泉郷の基となったという。

一方、下諏訪に着いた八坂刀売神は「これじゃ化粧なんて…」と真綿を捨てたところ、そこから温泉が湧き出した。

それが「綿の湯」の起源であり、下諏訪温泉郷の基となったそう。

なお「綿の湯」は現役の公衆浴場ではない。

現在、源泉には上屋が建てられ大切に保存されている。

諏訪下春43*

両街道合流の碑から駅方面に「八幡坂」という細い下り坂が伸びている。

入口右側に立つ「まるや」は江戸時代の元禄年間創業で往時は脇本陣を務めていた老舗。

反対の左側に立つ「桔梗屋」も元禄3(1690)年創業という、これまた老舗の旅館だ。

少し先の左側には下諏訪町立歴史民俗資料館。

明治時代に建てられた商家を改修し、1階を無料休憩所として解放、2階は下諏訪宿に関する展示室になっている。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]11

諏訪下春38*

再び石鳥居の前へ戻り、手水舍の前から秋宮へと繋がる細い横道に入る。

先へ行くと三叉路…というか“音叉路”があり、先端部分に道標の石碑が立っている。

「左 諏方宮 右 中山道」

右の坂を登っていくと中山道に出るが、それは国道142号線…

つまり新道で、この古びた細い道こそ本来の旧中山道なのだ。

諏訪下春39*

三叉路の少し先に石塚が立ち並ぶ一角。

「白華山慈雲寺」の寺号標が立ち、参道が奥へ続いている。

石塚の中に龍の形状をした水口がある。

江戸時代中期、慈雲寺への参拝者のために作られたもので、同時に中山道を往来する旅人の喉も潤していたそう。

諏訪下春040*

龍の口を過ぎたその少し先に、木造二階建ての古い日本建築が見えた。

伏見屋邸という旧商家で、建てられたのは1864(元治元)年。

これを復元、修理して観光客の休憩や住民の交流の場として無料開放しているそうだ。

とはいえ旧中山道沿いには神社仏閣を除けば、これといってクラシックな建物は見当たらない、近代的な住宅が立ち並ぶごく普通の一般道。

だが、道端に立つ「番屋跡」という小さな石碑を過ぎると、道の両脇に古風な建物が姿を現し始める。
下諏訪の温泉街に入ったようだ。

諏訪下春041*

緩やかな坂道の途上に「旦過[たんが]の湯」という外湯がある。

八坂刀売神が上社からお湯を運んで来た桶が壊れてしまい、外れた箍[たが]が転がってきた場所が「タンガ」と呼ばれるようになったというのが名の由来。

また、龍の口のところで登場した慈雲寺の寮「旦過寮」がこの辺りにあり、そこから「旦過の湯」と呼ばれるようになった…とも伝わっている。

坂道を登りきったところで旧道は国道142号線と合流し、一本の中山道となって秋宮へ続く。
ただし道幅は旧道の狭いままだが。

諏訪下春41*

交差点を渡った先に「遊湯ハウス 児湯」という外湯がある。

名称こそスーパー銭湯のような俗っぽさだが、開湯の由来を辿れば和泉式部の伝説に行き着くという由緒ある温泉だ。

児湯の裏手にある来迎寺の境内に「銕焼[かなやき]地蔵尊」というお地蔵さんが鎮座している。

平安時代、顔に大ケガを負った「かね」という少女が来る日も来る日もお地蔵さんにお参りしていた。

そんなある日、かねの顔の傷が突然お地蔵さんの顔に移り、かねのケガがキレイに完治。

その後かねは美人に成長し、その噂は都まで轟き、時の帝から召し出されることに。

その少女かねこそ平安中期の女流歌人、和泉式部その人だった…という伝説。

とはいえ和泉式部の伝説は日本各地に数多く存在し、どれも実在した本人とは無関係な話とか。

だが、そんな瑣末なことなどどうでもいい話。

肝心なのは児湯が美人の湯、子授けの湯、そして立身出世にもご利益がある有難い温泉ということだ。

諏訪下春42*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]10

諏訪下春31*

その隣の間には御柱祭で実際に用いられた騎馬行列の衣装や道具が展示してある。

御柱祭の起源については諸説いろいろあって定かではなく、遡れば縄文時代の巨木信仰にまで行き着くという説まであり思わず気が遠くなる。

実在する記録としては室町時代の文献『諏訪大明神画詞』にある、桓武天皇御代(781~ 806)の「寅・申の干支に当社造営あり」という記述が最古とのことだ。

諏訪大社は江戸時代まで密教寺院の性格を併せ持つ神仏習合的な存在だったため、御柱祭も仏教行事のひとつとして解釈されていた。

ただし、いかなる仏教の経典にも御柱の存在など見当たらないため、起源が仏教にないことだけは確からしい。

ひととおり館内を見学し終えて外に出た。

一度この目で見てみたいと熱烈に思ったが、直近の御柱祭は今年の5月に終わったばかり。

次回は平成34(2022)年まで待たねばならない。

それまで自分が生きているかどうか…。

何百年も続く御柱祭の野太い生命力に比べれば、自分個人のチッポケな生命など吹けば飛ぶよな儚い代物だ。

建物を出て右側の奥が広場になっていて、さらにその奥に

1本の御柱が据えられている。

これはレプリカで実際に使われたものではないが、実際に乗ったりできるので逆に有難い。

長さ約17m、直径1m余り、重さ約10トン。

実は4本の御柱は微妙に大きさが異なり、一之柱が一番大きく、次いで二、三、四之柱の順に長さも太さも小さくなっていくそうだ。

それにしても、これだけの巨木を社殿の周囲に4本も立てることに、どんな意味があるのだろうか?

個人的には「国譲り神話」で出雲を追われた建御名方神が、武甕槌神に対して立てた「洲羽(諏訪)以外の土地に出ない」という誓いを具現化したものだとばかり思っていた。

しかし実際に諏訪大社へ足を運んでみると、こうした「結界説」以外にも様々な説があることを知った。

例えば、御柱は山から降りてきた神の依り代であり、だからこそ諏訪大社には本殿がないという説。

神仏習合時代、仏教の須弥山[しゅみせん]で四方を司る四王天【東方持国[じこく]天/南方増長[ぞうちょう]天/西方広目[こうもく]天/北方多聞[たもん]天(毘沙門[びしゃもん]天とも)】をイメージして立てられたという説。

太古の昔、諏訪大社にも出雲大社のような天空まで届くかのごとき巨大な神殿が存在していた、その名残という説。

それぞれに説得力があり、どの説が正しいかなんて分かるわけもない。

いつ創建されたか分からないほど悠遠な歴史を誇る諏訪大社だけに、御柱に関する様々な神事や伝承が積層し続けた結果、多様な起源を有するようになったのではないか?

むしろ御柱の起源に関する多様性が、諏訪大社には建御名方神以外にも数多くの神様が潜んでいることを教えてくれる。

御諏訪様の正体とは、そもそも何者なのか?

御柱のレプリカを眺めながらそんなとりとめのないことを考えつつ、おんばしら館を後にした。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]09

諏訪下春30*

コンクリート製の橋を渡ると「おんばしら館よいさ」という看板が見えた。

右に曲がると少し先、公衆トイレの向こう側に真新しい建物が立っている。

平成28(2016)年4月25日にオープンしたばかりの、御柱祭に関する観光施設だ。

御柱祭は7年に一度、十二支の寅と申の年に行なわれる諏訪大社最大の祭礼で、正式な名称は「諏訪大社 式年造営御柱大祭」と呼ぶ。

ちなみに「日本三大奇祭」のひとつとも言われているが、世に奇妙なお祭りは結構あり3つに収まるわけはないので、これはアテにならないだろう。

中に入るとロビーに御柱がたどる経路を説明した巨大な模型がお出迎え。

山奥で伐採されてから山出し、里曳きを経て各宮へ至るルートが記されている。

御柱祭は上社と下社それぞれ独立しており、実施日も伐採地も里引きのルートも全く別々。

つまり上社と下社で年に2回あるということだ。

次の間は祭の模様を大画面で紹介するシアタールーム。

祭の一部始終を追った10分ほどの映像を、椅子に腰掛けて見る。

テレビのニュースでは「木落し」の部分だけを切り取って“奇祭”っぷりをフレームアップする映像ばかり。

だが、こうして全体をまとめた映像に接すると、御柱祭に対する概念が更新される思いがする。

また、このブースには御柱祭の様々なシーンを再現したジオラマも展示されている。

御柱祭は山奥で選び抜かれた樹齢150年を超える樅[もみ]の木の伐採からスタート。

下社の場合は伐採後、下諏訪町大平の山腹にある「山出し」の開始地点「棚木場」で一年間、御柱を「醸成」させる。

山から里へ送り出す「山出し」が4月、各神社までの道中を曳行する「里曳き」が5月。

4社×4本、計16本の巨大な御柱を、氏子衆が地区ごとに別れて曳いていく。そして御柱を各社殿の四隅に聳立させる「建て御柱」という手順を踏む。

実際には、その後に行われる御宝殿の造り替えも含めて「御柱祭」であり、長い期間をかけて行われるのだ。

大勢の氏子が御柱に乗って急な崖を滑り落ちる「木落し」は、棚木場から約3km地点の「木落し坂」にて行われる。

あくまでも「山出し」の一部であり、ここだけを切り取って単なる“奇祭”とレッテル貼りするのは誤った認識なのだ。

とはいえ木落しが最大のハイライトであることにも違いはなく、それを体験できるブースが次の間に用意されている。

実際の御柱を忠実に象ったFRP製の模擬御柱に乗り、実際に滑り落ちていく映像が映し出される前方のスクリーンを見ながら、華乗(柱に乗る人)目線で木落坂を下る躍動感が体験できる大掛かりな装置。

ただ、入館料とは別に体験料が必要とのことで、今回は冷やかして終わり。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]08

諏訪下春033*

そういえば、まだキチンと参拝していなかったことを思い出した。

先出の説明板にお参りの仕方が記されていたので、その通りやってみる。

一 正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。
二 心の中で願い事を唱えながら、石仏の周りを時計回りに3周する。
三 正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。

真冬の平日の昼下がり、周囲には人っ子一人いない中、たった一人で石仏の周りを3べんも回るのは照れるというか。

どうしても叶えたい願い事でもなければ、なかなかに気恥ずかしい。。

訪れる人が多い季節であれば群集心理が働いて「石仏も みんなで回れば 恥ずくない」のだろうけど。

ちなみに、このお参りの仕方は諏訪大社でもどこかのお寺でもなく、下諏訪の観光協会と商工会議所が提唱しているもの。

なるほど、どちらかと言えば宗教っぽさより観光臭の方を強く感じたお参りの仕方だったのも頷ける。

そんな俗世の些事など我関せずと、黙して何も語らない石仏に別れを告げた。

諏訪下春037*

暫くして後ろを振り返ると、冬枯れて寒々とした風景の中に石仏がポツンと座っている。

その姿はまるで、長年の風雪に耐えながら黙々と念仏を唱えているかのようにも見えた。

帰路は浮島を経由せず直進し、自動車も通れる大きな橋を渡る。

その手前にあるのが「万治の石仏」と刻まれた石碑。

揮毫は「芸術は爆発だ!」でおなじみ、故・岡本太郎画伯の手によるものだ。

万治の石仏が世間に広く知られるようになったのは20年近く前のこと。

御柱祭を見学に来た岡本太郎や新田次郎らが偶然この石像を見て驚嘆し、講演や雑誌の記事などで世間に広く紹介したのがきっかけだった。

岡本が万治の石仏を初めて見た時「世界中歩いてみたがこんな面白いもの見たことない」と語ったほどの衝撃を受けた。という

また、下諏訪温泉みなとや旅館の「岡本語録」には、

「奈良の秘仏より万治の石仏を見てると心が豊かになる」
「カッコ良さより内面が問題」

といった言葉が遺されている。

仏教の様式美に則ってカッコ良く彫刻された古都の仏像より、様式美を取っぱらって魂を刻み込んだ野良の石仏にこそ、内面から発せられる「爆発」的な要素を感じたのだろうか?

岡本太郎の専門家ではないので決め付けはできないが、概ねそうじゃないかと個人的には思う。

諏訪下春37*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]07

諏訪下春35*

万治の石仏が誕生したきっかけは明暦3(1657)年、諏訪高島三代藩主忠晴が春宮に石鳥居を奉納しようとした時のこと。

命を受けた石工がこの地にあった大きな石にノミを打ち入れると石から血が流れ出し、驚き恐れた石工は作業を止めた。

その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があるとのお告げが。

行ってみるとお告げ通り良い石材を見つけることができ、鳥居は無事に完成。

この不思議な石に石工たちは阿弥陀様を刻み、霊を納めながら石仏を建立。

それが「万治の石仏」誕生の由来だ。

左袖には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と刻まれている。

このことから名称の「万治」とは願主が刻字した万治3(1660)年に由来。

また、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟か師弟のつながりを持つ2人だと推定される。

実際、万治の石仏は臍の前で印を結んでいる…かのように彫刻されている。

浄土宗の阿弥陀定印[あみだじょういん]なので、願主が浄土宗の僧侶なのは間違いないだろう。

石仏を遠目から眺めてみると、胴体部分と頭部のバランスがチグハグなように見える。

こうも統一感がなくバラバラなのは、万治の石仏が胴体部分の上に別の石で彫られた頭部が乗せられているから。

石仏は普通ひとつの岩から彫り出されるのに対し、なぜ胴と首が別々の石なのか? 

その理由については未だに解明されず謎のままなのだとか。

諏訪下春036*

石仏に近寄り、間近で眺めてみる。

想像している以上に大きく、見た目以上の威圧感がある。

石工たちが夢枕で見た石材の材質は安山岩。

高さは2m60cm、横は3m80cm、奥行きは3m70cm。

胴体の上に乗ってる頭部は縦の長さ65cm、顔周りは1m38cmもある。

顔をマジマジと眺める。

大仏の顔といえばキリッとした表情を連想するが、万治の石仏の表情は穏やか。

ただ、その奥深い目からは何を考えているのか分からない系の畏怖を感じる。

視線を下げると、胸部に謎の文様が彫り込まれている。

太陽、雷、雲、月、磐座[いわくら]などで、これらは大宇宙の真理を現しているそう。

また、胸部の右端には逆卍…俗に言うハーケンクロイツが刻まれている。

願主がナチスの熱烈な信奉者だった…わけは無論なく。

そもそも仏教で卍印は縁起のいい文様で、逆卍も古代から仏教などで用いられており、ヒトラーがデザインしたわけでもない。

「逆卍=ナチス=悪」という全世界的なレッテル貼りには、万治の石仏も名称に「マンジ」を冠しているだけに内心では迷惑がっているかも知れない。

諏訪下春36*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]06

諏訪下春16*

再び神楽殿の前に戻ってきた。

授与所の前で依頼した御朱印を待ちつつ境内の景色を眺めていると、右側の斜面にある急坂の存在に気付いた。

位置的には授与所と縁結びの杉の間。

注連縄で封印され立ち入ることができないようになっており、何らかの神聖さを感じさせる。

御朱印を受け取る際に尋ねてみると、山奥から切り出されて遥々と曳行されてきた御柱を境内へと導く「木落し」の坂とのこと。

この狭い急斜面を春宮と秋宮の御柱8本が次々と滑り落ちていく様は想像するだけでも猛々しい。

春宮の御柱は先端を三角錐に整える儀式「冠落しの神事」が行われた後、何本ものロープが取り付けられ、氏子たちの手で起立させる「建御柱の神事」を以って神の化身へと変貌。

秋宮の柱4本は石鳥居を抜けて下馬橋の前で一夜を明かした翌日、下諏訪の街中をパレードしながら秋宮へと向かう。

何万人もの観衆が押し寄せる御柱祭、春宮の境内も熱狂の渦が巻き起こる。

だが月曜お昼の境内は、そんな熱狂が嘘のような静けさ。

パチパチと爆ぜる焚き火に当たり、木落しの坂を眺めつつ、つい半年ほど前に繰り広げられた御柱祭に思いを馳せた。

境内の西側に立つ「万治の石仏」の案内板に従い、下り坂をユルユル歩いていくと先方に川が流れている。

社殿の西方、境内の脇を流れる清流「砥川」。

朱塗りの細い端を渡ると「浮島」という中洲に出た。

大水が出ても流されることなく、下社七不思議の一つに数えられている。

諏訪下春32*

島の奥…というか上流側に小さな祠が祀られている。

「浮島社」といい、祭神は清め祓いの神様。

今でも毎年6月30日には「夏越の祓」が、ここで行われている。

土色に塗装された金属製のか細い鳥居をくぐり、松の木立を通り抜けて祠のもとへ。

建てられたばかりの細い御柱が四隅に立ち、真新しい瑞垣が社殿の周囲に巡らされている。

ただ、御柱や瑞垣に比べれば小さな社殿自体は相当な年代物のように見える。

鳥居と同じ土色に塗装されているせいかも知れない。

春宮側から対岸へ架かる更に細い橋を渡り、砥川の上流へ向かって歩く。

川べりに設けられた石仏への道は綺麗に整備され、途中には売店もある。

だが、さすがに真冬の平日には開いていない。

暖かい季節には道端の木々も生い繁り、せせらぎをBGMに快適な散歩道になることだろう。

やがて、清流に面した扇状地の一角に巨大な石仏がポツンと佇んでいるのが見えた。

次第に石仏の形状が露わになるにつれ、そのユニークな姿に心が躍る。

石仏の手前まで来ると、三本の説明板が立っていた。

由来、伝説、そしてお参りの作法。

諏訪下春34*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]05

諏訪下春21*

諏訪高島藩は大隅流の宮大工として当初、村田と伊藤の2家を召し抱えていた。

芝宮長左衛門は伊藤弥右衛門の次男として、兄儀左衛門と共に大隅流を継いだ。

最初は村田家の職養子となり村田姓を名乗り、後に芝宮家の養子となり、兄と協力して多くの建築に当たっている。

安永6(1777)年に下社の建て替えが決まり、秋宮を立川和四郎富棟が金80両と扶持米80俵で請け負った。

それに対し長左衛門は代々の宮大工として、また大隅流のためにと特に願い出て35両扶持米なしで春宮を引き受けた。

しかも不足額を自前で工面したうえ、秋宮より一足先に落成させた。

さらに、兄の仕事の邪魔になるからと自ら信州を離れ、上州方面に出て仕事をしたという。

古社ならではの質実な造作の中、幣拝殿の隅々に刻まれた繊細な建築彫像の数々が長左衛門の心意気とプライドを訴えかけてくるかのようだ。

諏訪下春23*

幣拝殿のド真ん中、その奥に垂れ下がる御簾越しに奥の御宝殿を見る。

諏訪大社は四宮とも本殿が存在しない。

その本殿が本来あるであろうという下社で最も重要な位置、御神座とも相殿ともいわれる場所には御神木が立っている。

秋宮の一位の木に対して春宮は杉の木。

平素山上におられると考えられた神々を御神木にお招きし、その神々にお供えする御神宝を祀っていたのが御宝殿。

御神木を中央に挟む形で左右に旧殿と新殿が立っている。

伊勢神宮では遷宮の後に旧殿を取り払うが、諏訪大社では上下社とも旧殿と新殿が平素から並んで立っている。

室町時代の記録によると新築後7年間は風雨に晒し清めてから遷座し、旧殿を解体新築して更に7年を経てから御遷座という形式だった模様。

だが、江戸時代に入ってからは新築の建物へ直ちに遷座するよう形式が変わり、現在に至っているそうだ。

宝殿のすぐ横まで近づき、瑞垣越しに眺めてみる。

妻入造で屋根は茅葺、一見すると本殿っぽい感じもするが、千木が屋根の端だけでなく真ん中にもあり、堅魚木が10本も乗っている点が本殿の造りとは違和感がある。

二之御柱から神楽殿の西側へ回り込むと「筒粥殿」という小さな御社が目に止まった。

ここは毎年正月14日夜から15日朝にかけて行われる「筒粥神事」用の神粥を炊き上げるための社殿。

この神事は神職が囲炉裏を囲み、大釜の中に米と小豆と葦の筒を入れて一晩中炊き続け、筒の中に入った粥の状態によってその年の豊凶を占うというもの。

時代によって作物の種類と品数は異なるが、現在は43種の作物の豊凶と世の中全般を1本の計44本の筒が使われる。

扉が閉ざされて中の様子は伺えないが、説明板には土間の中央にある石製で円形の囲炉裏は江戸時代初期のものとある。

神事なので当たり外れは度外視かと思いきや「その占いの正確なこと、神占正に誤りなし」と諏訪七不思議の一つに挙げられる程の高的中率とのことだ。

諏訪下春19*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]04

諏訪下春15*

その神楽殿の右脇に巨大な杉の木が立っている。

一つの根元から途中で二股に分かれている「連理の木」、別名「木連理」。

「縁結び」や「夫婦和合」の象徴として、よく神社の境内で見かける。

ここの木連理も「縁結びの杉」と呼ばれているそうだ。

その先に、なぜか建御名方神を祀った末社「上諏訪社」が立っている。

諏訪大社は上下社四宮でひとつの神社のはず。

ちなみに上社の祭神は本宮が建御名方神で前宮が八坂刀売神。

いずれも下社でも祭神なので、春宮では建御名方神が重複して祀られていることになる。

小さな末社ではあるが、その存在の陰に諏訪大社の祭神に関するそこはかとない謎が潜んでいるのかも知れない。

諏訪下春26*

神楽殿と結びの杉の間を通り抜けて社殿の前に進むと、そこに一本の巨大な木柱が聳立している。

言わずと知れた諏訪大社の象徴「御柱[おんばしら]」。

右横から奥を覗くと、そこにも同じ柱。

左側を見ると、向こうの端にも同じ柱。

それもそのはず、御柱は御神域を囲む四角形の四隅に配置されているのだ。

目の前にあるのが一之御柱で、社殿を中心に時計回りで二、三、四の順番で取り囲んでいる。

この4本の御柱で御神域を囲む形状は四宮すべて共通だ。

御柱に用いられるのは樹齢150年を優に超える樅[もみ]の大木。

長さ約17m、直径1m余、重さ約10トンにも及ぶ。

確かに御柱を下から仰ぎ見ると相当な大きさ。

木肌は綺麗に磨かれてスベスベだが、枝を切り払った数多の節目が不気味に浮き出し、まるで諏訪の大神が森羅万象を見通している「神の眼」の如き畏怖を感じる。

ようやくたどりついた社殿の前に立ち、改めて仰ぎ見る。

中央に幣拝殿、左右に片拝殿という配置は秋宮と同様。

だが片拝殿は幅が短く、屋根が片切りになっている点が異なる。

秋宮のところでも触れたが、春宮は芝宮長左衛門が請負い、安永9(1780)年に竣工させた。

また、秋宮を担当した初代立川和四郎富棟との間には、人間模様を彩る様々な言い伝えが残されている。

春宮側の人足が和四郎の仕事の邪魔をしようと、闇夜に紛れて秋宮へ忍び込み建材の柱を切った。

すると、それを見越していた和四郎は予め長めに切っておいたため、切られた柱は寸法通りスッポリと目的の場所にハマったと言い伝えられている。

また、先に仕上がった春宮を見に行った和四郎が正面蘭間の竜を見て「死んだ竜が刻んである」と貶した。

すると長左衛門は「悟りを開くと動物でも腹を出して休むのを知らんのか?」と笑い飛ばしたいう。

それから少し後の秋宮竣工の時、長左衛門が脇飾りの竹に鶴の彫刻を見て「竹の下にあるのは筍かと思ったが、葉の重なりが百合の芽だ」と笑い返したそうだ。

諏訪下春20*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]03

諏訪下春10*

正面に石鳥居と社号標、左手に手水舍が見えてきた。

それにしても、秋宮に比べると門前はかなり窮屈だ。

普通なら境内にある手水舍も県道に面して立っている。

もともと春宮の境内だった土地が区画整理で一般の市街地になったのだろうか?

石鳥居を真下から仰ぎ見る。

テッペンまでの高さは8m20cm。

御影石製で建立は万治2(1659)年と推定されるが、施工した石工の名は伝わっていない。

建てる際は片付け賃を入れた土俵を積み上げて足場を築き、その上で鳥居を組み立てた。

工事後、工夫らが土俵をアッという間に持ち去ったので、施工現場はキレイに片付いたそうだ。

鳥居をくぐりつつ下社の祭神について考える。

諏訪大社下社の祭神が秋宮春宮とも建御名方神と八坂刀売神の夫婦神、それに兄神の八重事代主神が配祀されていることは秋宮で触れた。

建御名方神と八重事代主神は「出雲国譲り神話」で中心的な役割を果たした兄弟神だが、妃神の八坂刀売神についてはよく分からない。

もともと建御名方神は古事記にのみ現れて日本書紀には登場しないが、八坂刀売神は古事記にすら登場しない。

諏訪地方土着の神なのかも知れない。

諏訪下春13*

では祭神が下社の秋宮と春宮それぞれに祀られているかというと、そうでもない。

実は半年ごとに祭神は両宮を行ったり来たりしている。

毎年2月1日には御霊代[みたましろ]を秋宮から春宮へ遷す「遷座祭」。

半年後の8月1日、今度は春宮から秋宮へ遷座する「下社例大祭」が、それぞれ行われる。

夏の例大祭は別名「お舟祭」。

遷座の神幸行列に続き、青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、氏子数百人の手で曳行されることが名の由来だ。

柴船が秋宮へ曳航?されると神楽殿を三巡、神事の相撲三番が行われて式は終了、翁媼人形は焼却される。

明治初頭までは柴舟を裸の若者たちが担ぎ街を練り歩いたので「裸祭り」とも呼ばれているそう。

ただ、遷座祭で奉献される玉串は榊ではなく、なぜか楊柳(川柳)。

諏訪大社独特の風習なのだろう。

緩やかな勾配を登っていくと正面に神楽殿が待ち構えていた。

秋宮と同様、軒先には巨大な注連縄が張られている。

ただ、建物そのものは秋宮より小さく、造りも簡素。

石段の数も少なく、秋宮にはあった狛犬も濡縁の高欄もない。

とはいえ春宮の神楽殿は数ある大社の建物の中で最も修改築が多い建物。

天和年間(1680年代)の改修に加え、最近では昭和11(1936)年に大改修が施されている。

諏訪下春17*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]02

諏訪下春05*

県道185号線は春宮大門の交差点から県道184号線、通称「大門通り」に名を変える。

社頭から一直線に伸びる表参道で、その長さは約800mあるそうだ。

大門通りと中山道の春宮大門交差点に巨大な鳥居が聳立している。

扁額や装飾の類は一切なく、全体が薄緑色なのは表面を青銅板で覆っているからだろう。

件のスーパーの前を通り過ぎ、春宮へ近づくにつれて次第に繁華さは薄れ、落ち着いた住宅地の風情が漂う。

この「大門通り」、かつては春宮の専用道路だった。

下社の大祝金刺一族をはじめ多くの武将たちが流鏑馬を競った馬場だったという。

かつては道路の両脇に「さわら並木」と呼ばれた大木が並び、昼でも薄暗いほど鬱蒼としていた。

しかし枯死、風倒、舗装のための伐採などで並木は次第に失われ、昭和39(1964)年に最後の1本が枯死したことで往時の面影は失われてしまった。

諏訪下春8*

大門通りの右側に巨石が並ぶ一角がある。

これらは「力石」と呼ばれ、昔から村の集会場の庭に置かれていた。

重いもので約60kgあり、昭和の初期ごろまで若者たちの力比べに使われていたそうで民俗的にも貴重な資料とのこと。

その先、大門通りの真ん中に、まるで行く手を阻むかのようにドンと立つ古風な建物。

御手洗川に掛けられた「下馬橋」という橋で、その形状から「太鼓橋」とも言われている。

石積みの土台に木製のアーチ橋で、上には大ぶりの屋根。

梁行(横)は1・8間(3・35m)、桁行(縦)は5・5間(9・95m)、棟高(屋根のテッペンまでの高さ)が5・35mというから、そこそこ大きい。

最初に建立されたのは室町時代と伝わるが鎌倉時代の建築様式をもって建てられ、簡素な中にも力強さと美しさを兼ね備えたデザインが特徴的。

現在の下馬橋は元文年間(1736〜1740)に修築されたものだが、それでも下社では最も古い建物にあたるそうで、宮大工の三井伝左衛門の手によるものと言われている。

ただ、本来檜皮葺だった屋根は昭和35(1960)年に銅板葺に改修され、同時に橋の踏み板も取り替えられている。

往時は、たとえ殿様であっても駕籠や馬から下りるよう求められたことが橋名の由来。

同時にここは春宮に参拝する際、下を流れる御手洗川の水で身を清める場所だった。

しかし現在の御手洗川はコンクリートで塞がれ、まるで暗渠のよう。

だが、橋の下の部分だけは溝蓋状で取り外せるようになっている。

現在は原則として通行禁止になっているが、年二度の遷座祭の行列でのみ神輿だけが下馬橋を渡ることができる。

また御柱祭での曳航でも春宮を経由した秋宮の御柱は、一旦ここで一夜を明かして秋宮へ向かう。

諏訪下春09*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]01

諏訪下春01*

下諏訪の駅舎を改めて眺めてみる。

巨大な切妻屋根を頭上に載せた二層の建物で、妻入りの出入口から奥を覗くと改札口が見える。

後ろを振り返ると2本の御柱が、まるで門柱のように聳り立っている。

だが、この御柱は諏訪大社のそれではなく、長野冬季五輪の開会式で用いられたもの。

平成10(1998)年2月7日に“日本演劇界のドン”浅利慶太総合プロデュースのもと、長野オリンピックスタジアムにて日本で2度目となる冬季五輪の開会式は行われた。

雪が降りしきる中を4本の御柱が曳かれて入場し、フィールドの中でキリリと聳立。

そのうちの2本が今ここに保存されているわけだ。

御柱の門柱から駅の外へ踏み出すと、ひときわ大きなビルが視界に入る。

下社秋宮で紹介したオルゴール記念館「すわのね」の日本電産サンキョー本社。

ただ、現在ではオルゴールよりもスケート部のほうが有名で、日本電産と合併する以前の三協精機時代は、あの清水宏保選手も所属していた。

折しも地元開催となった長野五輪で清水はスピードスケート男子500mで五輪新記録を樹立し、日本スピードスケート史上初の金メダリストに。

続く1000mでも銅メダルを獲得する快挙を達成し、長野五輪を象徴する選手の一人になったことを思い出す。

駅前から左に折れて日本電産サンキョービルとの間の道に入り、線路沿いに東へ向かうと県道185号線に出た。

遠くに大きな鳥居を望み、いかにも大神社の門前町といった風情が漂う。

諏訪下春03*

交差点の脇に道祖神が祀られている。

諏訪では街角の小さな道祖神にまでキチンと御柱が祀られているが、トラックで運んできて適当に据えているわけではなく「御木曳」という神事に基づき丁寧に設えてあるのだ。

交差点の脇に立つ大きな石灯籠を眺めていると、見知らぬおじさんが話しかけてきた。

「これは何ですかね?」
「諏訪大社の石灯篭です」
「大したもんなんですか?」
「専門家じゃないのでよく分かりませんが、相当古そうですね」
「近くに住んでるけど、じっくり見る機会がなくてね」
「そうなんですか」

諏訪大社に思い入れがあるわけでもなさそうで、単に話し相手が欲しかっただけのよう。

ただ、おじさんの話相手をしているほうが石灯籠を観察するより面白そうだったので、それから10分ほど他愛のない会話を続けた。

「すぐそこのスーパーまで競馬新聞を買いに行く途中なんだよ」

そう言い残し、おじさんは去って行った。

諏訪大神から遣わされた挨拶の使者だったのだろうか?

諏訪下春06*

[旅行日:2016年12月12日]

「一巡せしもの」再開します

諏訪下春00

ご愛読ありがとうございます、「RAMBLE JAPAN」管理人です。

平成23(2018)年5月19日からお休みしてました「一巡せしもの」。

約6ヶ月間の中断期間を経て、明日から再開いたします。

変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]12

諏訪下秋39

鳥居を出て太鼓橋を渡ると、左側にこんもりとした森がある。

案内地図を見ると「八幡山」とある。

石段を進んでいくと鳥居が2つ。

その奥に小さな御社が2つ、横に並んでいる。

左側が八幡社、右側が恵比寿社。

どちらも秋宮の摂社のようだ。

八幡山から山王閣へ長生橋という陸橋が架かっている。

橋の袂に山王閣の日帰り入浴の案内が立っていた。

諏訪湖を一望できる展望台もあり、秋宮参拝の際は気軽に利用できる便利な施設なのだが。

閉館となれば秋宮を取り巻く環境の魅力が少し削がれることになるだろう。

諏訪下秋44

再び秋宮の正面に出、下諏訪駅の方を眺める。

一直線に伸びる広い道路は一見、表参道のように見えるが。

実は五街道のひとつ中山道であり、今は国道142号線でもある。

緩やかな坂を下っていくと、途中に高札場があった。

高札場とは江戸時代に「高札」を掲げた場所。

高札には法度[はっと]や禁令、罪人の罪状などが記されていた。

世間に広く知らしめるため、人通りの多い街道の入り口などに設けられることが多かった。

下諏訪駅前に出た。

駅前には御柱と曳綱のモニュメントが設置されている。

昨日は暗いうえに急いでいたので気付かなかった。

ここ下諏訪駅から今度は下社春宮へ向かう。

ただ、秋宮ほど近くなく結構な距離がある。

それでも、歩いて行くことにした。

諏訪下秋46

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]11

諏訪下秋34

境内には摂末社が幾つか鎮座している。

拝殿の向かって右側、一の御柱の奥には稲荷社、若宮社(建御名方神の御子神)、皇大神宮社が並んでいる。

一方の左側、二の御柱の手前には奥から八坂社、賀茂上下社、子安社、そして鹿島社が並んでいる。

鹿島社といえば祭神は建御雷神[たけみかずちのかみ]、つまり建御名方神を出雲から諏訪へと追い詰めた神。

その“仇敵”すら一緒に祀るのは調和を尊ぶ「和の心」の為せる技なのだろうか?

鹿島社の隣に奉納された菰樽が整列している。

看板に「諏訪の銘酒」とあるように諏訪は酒どころだ。

中でも特に有名なのが「諏訪五蔵」(舞姫/麗人/本金/横笛/真澄)。

これら五つの酒蔵が鎬を削ってきた。

とはいえ「諏訪五蔵」は全て上諏訪の蔵元。

地元下諏訪町の蔵元は一番左側の「御湖鶴」、菱友醸造のみである。

諏訪下秋35

菰樽と土俵の左隣に立砂が祀られている。

看板に「神宮遥拝所」とあるように、伊勢神宮との間を行き交うホットラインの入り口なのだろうか。

寝入りの松の方へ歩いていくと階段があり、下った先に宝物殿が立っている。

ここには国の重要文化財「売神祝之印[めがみほうりのいん]」が収められている。

これは平安時代の大同年間(806~810)に平城天皇より御下賜されたと伝わる銅製の大和古印[やまとこいん]。

大和古印とは大宝律令のもと日本で独自に作られた官印のこと。

下社では明治初年まで神印として実際に使われてきたそうだ。

他にも武田信玄や松平忠輝の奉納品といった資料が展示されている。

境内を後にしようとネイリの杉の前を回り込むと冠木門があり、その奥から湯気がモウモウと立ち上がっている。

近づいて見ると手水舍。

ただし、温泉が掛け流しの「御神湯」だった。

湯口は竜神伝説に因んでか竜の形に象られている。

掛け流しの温泉は「長寿湯」と呼ぶそうだ。

諏訪下秋38

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]10

諏訪下秋28

神楽殿を過ぎると正面には拝殿がデンと待ち構えている。

二重楼門造りで両側に片拝殿を従えている珍しい構造。

江戸中期の絵図面によると、中央の拝殿は帝屋(御門戸屋)、片拝殿は回廊と記されているそうだ。

幣拝殿は昭和58(1983)年に神楽殿とともに国の重要文化財に指定されている。

向かって左側の片拝殿を見る。

現在の建物は初代立川和四郎富棟の施工で、安永10(1781)年の春に建立された。

一方の春宮は芝宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後に着工したものの、1年早い安永9(1780)年に竣工させている。

春宮と秋宮は同じ絵図面が与えられたようで、大きさこそ違うものの構造は同じ。

立川と芝宮それぞれの彫刻の技量により、両社の建築は競われている。

次は右側の片拝殿へ。

手前に珍しい木が植栽されている。

幹の色から「白松」と呼ばれる三葉の松。

原産地は中国大陸で、初めて日本に入ったのは明治の中ごろ。

諏訪大社の白松は大正8(1919)年、京城(現・韓国ソウル)在住の諏訪出身者から寄贈されたもの。

昭和39(1964)年5月12日、天皇皇后両陛下が行幸啓の際に親しくご覧頂いたという。

昭和天皇還暦のお祝いの折、皇居にも植樹されたそうだ。

諏訪下秋29

諏訪大社は四宮すべてに本殿がない。

その代わりというか、他の神社では本殿が鎮座している場所に「御宝殿」が立ち、その奥にある御神木を御神体としている。

秋宮の御神木は飛騨一宮水無神社の項でも登場した一位[いちい]の木、春宮は杉の木だ。

諏訪神社といえば「御柱祭」。

「みはしらまつり」とも「おんばしらまつり」とも呼ばれる「日本三大奇祭」のひとつ。

ただし、どの祭りを以って「三」というのか諸説あり、定まっていないようだ。

御神木を御神体として崇める形態は、巨岩や大木といった神籬[ひもろぎ]に神が宿るという太古の自然信仰が今に受け継がれているともいえる。

拝殿から奥へグルリと回り込み、塀越しに御宝殿を見る。

茅葺屋根で神明造りの建物が左右に二棟並んでおり、新しい方を神殿、古い方を権殿という。

御宝殿は七年に一度、御柱祭が行われる寅年と申年に建て替えられる。

その際は御遷座祭が行われ、寅年から申年までは向かって右側、申年から寅年までは向かって左側で行われるそうだ。

祀られているのは建御名方神と八坂刀売神の御霊。

本殿ではないとはいえ、社殿には千木もあれば鰹木も乗っている。

実質的に本殿の役割を果たしているかのようだ。

諏訪下秋33

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]09

諏訪下秋25

坂を登り切ると眼前に一本の巨大な杉が聳立している。

「ネイリの杉」と呼ばれる、樹齢600~700年と伝わる御神木。

名の由来は、挿し木に根が生えた杉なので「根入りの杉」…なのだが。

丑三つ時(超ド深夜)になると枝先が垂れ下がり寝入った姿に見え、しかもイビキまで聞こえてくるので「寝入りの杉」だという説もある。

どちらが本当かは知る由もないが、この木の小枝を煎じて子供に飲ませると夜泣きが止む…と伝承されている。

ネイリの杉の先で待ち構えてるのは神楽殿。

三方切妻造りで、軒先には巨大な注連縄が吊るされている。

諏訪立川流二代目和四郎富昌の設計で、完成は天保6(1835)年。

富昌54歳の棟梁で、渋めな意匠は初代である父の立川和四郎富棟が建てた幣拝殿の華麗さと対照的。

だが、その地味なデザインが幣拝殿を際立たせているかのようだ。

諏訪立川流は神社仏閣など楼閣建築を装飾する伝統彫刻「宮彫[みやぼり]」の代表的流派。

二代目である富昌は持って生まれた天賦の才能に加え、父から授かった技能と異常ともいえる努力をミクスチャーし、宮彫の最高峰を極めた。

寛政の改革で有名な徳川幕府の老中松平定信は富昌を特に高く評価。

「内匠[たくみ]」の称号を許された富昌は幕府御用達となり、日本一の宮彫師となった。

諏訪下秋027

神楽殿の前には狛犬。

高さが1m70cmもあり、青銅製では日本一とも言われている。

芸術院会員だった清水多嘉示が昭和5(1930)年に奉納したものが初代。

第二次大戦時に供出され、昭和35(1960)年に再び清水の手で復元されたのが現在の二代目だ。

神楽殿に張られた巨大な注連縄は氏子有志による大〆縄奉献会が出雲から職人を呼んで作らせたという逸品。

大国主神の息子である建御名方神が祭神だけあって、出雲大社の注連縄と形状が良く似ている。

重さは推定500kgほどあり、全長13mは出雲大社型の注連縄では日本一の長さを誇るそうだ。

諏訪下秋27

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]08

諏訪下秋17

社号標の奥に石灯籠を模していながらも、神社とは不釣り合いな不思議な塔が立っている。

下諏訪の地でオルゴールを作り続けてきた三協精機(現・日本電産サンキョー)が建てた「オルゴール塔」。

1時間3回、30弁のオルゴールが音色を奏でるという。

塔の真ん中には御柱祭の「木落し」をイメージしたからくりが装置があり、オルゴールの奏鳴に合わせて動き出すそうだ。

オルゴール塔の隣には手水舎。

その後背に池が広がっている。

「千尋池」といって、水源は御手洗川の清流だ。

この「千尋池」は底が遠江国浜松近辺の海までつながっている…そんな言い伝えがあるそう。

それが「千尋」という名の由来。

社伝によると、火災の際この池の底から宝物が灰に塗れて発掘された。

それが国重要文化財の「売神祝印[メガミホウリノイン]」。

奈良時代に平城天皇から賜ったと伝わる社宝なのだそうだ。

諏訪下秋19

太鼓橋を渡って境内へ。

右手に「下社秋宮」と墨書された看板が掲げられている。

諏訪大社には上社と下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。

つまり四つの神社から一つの大社が構成される珍しい一宮だ。

諏訪大社の祭神は主祭神の建御名方神と妃神の八坂刀売神。

ただ、下社と上社では微妙に異なる。

下社は秋宮春宮ともに建御名方神と八坂刀売神、さらに兄神の八重事代主神が配祀されている。

一方の上社は本宮が建御名方神、前宮が八坂刀売神と分かれている。

鳥居をくぐって境内へ歩を進める。

外側に鳥居は他に見当たらないので、これが一の鳥居に当たるようだ。

緩やかな坂道になっている表参道は中央に石畳、その両脇に石段。

例えれば自転車も通れる歩道橋のようになっている。

諏訪下秋21

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]07

諏訪下秋14

しかし、湖底に泥やヘドロが分厚く堆積し調査は難航。

結局、窪みの正体を突き止めるまでには至らなかった。

今から400年以上も前、湖底に大穴を掘るような土木技術を武田家が持っていたのか?

遺骸を湖に沈めることは可能でも、湖底に墓を築く作業までは不可能な気がするのだが。

そんな歴史ミステリーの存在など我関せずとでも言いたげに、諏訪湖の湖面はキラキラと輝いている。

山王閣の玄関を出ると、前庭に一体の銅像が立っていた。

手塚別当金刺光盛の像。

「山王台」と呼ばれているこの土地は、手塚光盛の居城「霞ヶ城」があった場所だ。

光盛は平安時代後期の武将で、源“木曾”義仲に付き従い、寿永2(1183)年に倶利伽羅峠の合戦に源氏方として参戦。

加賀国篠原の戦いで光盛は敗走する平氏勢の中で踏みとどまった武将の斎藤別当実盛[さねもり]と一騎打ちになり、見事に首級を挙げた。

その実盛、実は「駒王丸」こと幼き日の義仲の命を救った恩人であり、その死に際し義仲は号泣したという。

古式に則った一騎打ちは武士道の鏡とされ、能「実盛」の題材となって現在まで伝わっている。

その光盛は後に源頼朝の軍と戦い、寿永3(1184)年1月に近江国で敗死した。

諏訪下秋15-1

前庭を抜けて道路に出ると、通勤通学の時間帯ということもあってか、ひっきりなしに車が行き交う。

その間隙を縫うように歩いていくと下社秋宮の正面に出た。

丘陵の麓から幅広の道路が緩やかな勾配を描いて伸び、その突き当たりに諏訪大社が鎮座している。

だが、その道路に神社の参道という雰囲気は薄い。

さて、正面向かって札側には「諏訪大社」と大きく刻まれた巨石の社号標が聳立している。

ここは全国各地に約2万5000社あるという、社名に「諏訪」を冠する神社の総本社。

「諏訪」という地名の由来には諸説あるが、沢[さわ]が転訛して「すわ」になったという説が有力なのだとか。

ちなみに「すわ一大事!」の「すわ」とは関係なさそうだ。

諏訪下秋15

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]06

諏訪下秋13

翌朝、大浴場へ向かうためロビーへ降りてみると壁一面に広がる大きな窓から、朝日を浴びてキラキラ輝く諏訪湖が遠くに見えた。

ドアを開けて前庭へ出てみると、冷んやりとした空気に身躯が包み込まれ、一瞬にして目が覚めた。

ここ諏訪湖には「湖底に武田信玄の墓がある」という伝説がある。

信玄は元亀4(1573)年4月12日、信州伊那谷の駒場[こまんば]で病没。

死を3年間隠蔽するよう指示した遺言に従い、天正4(1576)年4月に甲州塩山の乾徳山[けんとくさん]恵林寺(えりんじ)に葬られた。

このあたりの経緯は過去に小説や映画、ドラマなどで幾度も描かれており、お馴染みのストーリー。

ただ、隠蔽期間が3年間もあったため遺骨が散逸し、墓所が恵林寺以外にも高野山など幾つか存在している。

そのうちのひとつが、ここ諏訪湖。

しかも湖底にあるそうだ。

武田家の戦功や武略などを記した軍学所『甲陽軍鑑[こうようぐんかん]』にも「亡骸は甲冑を付けて諏訪湖に沈めよ」という記述がある。

天正4年4月12日の夜中、家臣たちが掲げる松明の赤い炎に照らされ、石棺が赤い泡を吹きながら静かに湖底へ沈んでいった…と伝承されているそう。

本当かどうかは分からないが、一代の英雄武田信玄の存在を誇張するため、多少は大げさに記述されている面もあるのだろう。

ところが昭和62(1987)年、国土地理院が水中ソナーで湖底の地形を調査した時のこと。

人工的に作られた、一辺が25mもある巨大な菱形の窪みと思われる影が映し出された。

東西20m弱、南北20m強、四つの角は東西南北を指しているという。

菱形は武田家の家紋であり、これは『甲陽軍鑑』に記された信玄の墓では? と、世間が大きくザワつく。

その後、平成2(1990)年まで調査が5回行われた。

窪みの内部には3~4m大の穴があり、墓らしき痕跡を示す品も出土したそう。

水中墓の存在が現実味を帯び、否応にも期待感が高まってきた。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]05

ここで注文してあった「海鮮・鶏つくね鍋」が到着。

養老ビールも底を突いたので、地元諏訪の地酒「横笛」の純米酒を注文する。

海なし県の長野で海鮮鍋は野暮かと思えるが、横笛に合うアテという条件を優先した選択。

冷え切った外界を尻目に暖かい鍋を肴に清冽な清酒を舐める至福感は、この季節でしか味わえない。

ここで、今度はRADWINPSの「前前前世」が聞こえてきた。

今年、社会現象にもなった映画「君の名は。」の劇中歌であり、この曲も合わせて大ヒット。

映画の内容について既にご存知の方も大勢いるかとは思うが、内容を明かさないのがルール。

なので、本稿と関わりのあることだけに限って言ってみる。

主人公の一人、宮水三葉[みやみず・みつは]は岐阜県糸守町で暮らす女子高生。

糸守湖という大きな湖の畔りに古くから鎮座する宮水神社で巫女を務めている。

劇中、糸守湖を空中から俯瞰した映像が出てくる。

これを見て「諏訪湖がモデル?」と思ったのだが。

モデルにしたのは別の湖と新海誠監督はコメントしており、結局は自分の勝手な思い込みだったようだ。

それはともかく、こうして神社を巡り歩いている者にとって「君の名は。」は非常に興味深い映画ではある。

神の力とは何か? 

なぜ人は最後の縁[よすが]として、それに縋[すが]るのか? 

俗に言う「パワースポット」的な力は本当に存在するのだろうか?

最後、白飯と生玉子を注文して「海鮮・鶏つくね鍋」に投入、雑炊にして一人きりの宴会を締めくくった。

古神道では山や巨石や大木といった神籬[ひもろぎ]に神が宿る…とされる。

悠久の時が流れる間、そこへ人々の祈りが絶え間なく折り重なり続け、やがて「念」に姿を変えて精霊的な力を持つに至ったのではないか?

帰り道、夜空に輝く月を眺めながら、そんなことを考えてみた。

諏訪下秋11

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]04

諏訪下秋12

夕食を求めて街に出る。

下諏訪温泉は旅館が多く、食事だけという店が意外と少ない。

小規模な温泉場は入浴から食事、飲酒からお土産まで旅館内で済む「オールインワン」が主流。

例えば熱海や別府といった大規模な歓楽地と、隣接する箱根や湯布院を比較してみれば両者の違いは明らかだ。

そんなことを考えながら町中を探し回ったものの、ただでさえ店の数が少ないうえ日曜日の夜でもあり閉めている店も多く、なかなかこれといった食事処に行き当たらない。

結局、駅前に戻ってくると、どこからか桑田佳祐、続いて松任谷由実の歌声が聞こえてきた。

どうやら〝音源〟は駅前で明かりが灯っている唯一の居酒屋「養老の滝」の模様。

BGMの選曲センスが気になったので、ここへ止む無く入ってみた。

止む無く…とは無礼な言い方かも知れないが、なにせ「養老の滝」は日本中どこでも見かける大手の居酒屋チェーン。

なにせ自宅最寄りの駅前にもあるぐらいなので、普通なら選択肢には入れない飲み屋ではあるのだが。

ただ「養老の滝」は昭和13(1938)年、先ほど電車を乗り換えた松本で創業している。

これも何かの縁かも知れないと思い、暖簾をくぐった。

日曜の夜ということもあってか、店内は空いている。

隣接する日本電産サンキョーの従業員と思しき男女グループが一組いるぐらい。

おなじみ「養老ビール」を飲みながら、お通しと「おつまミミガー」をツツいていると、山本彩の「ひといきつきながら」という曲が流れてきた。

山本彩はNMB48のキャプテン。

今春まで放送されていたNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でAKB48が歌っていた主題歌「365日の紙飛行機」のメインボーカルとして、AKBのファン層以外にも知名度が広まった。

しかし、この曲「ひといきつきながら」はAKBグループと全く無関係。

元々JT(日本たばこ産業)のCMソングで、彼女が歌う遥か以前から使われていた。

それだけにAKB的なギミックが一切排除された、彼女本来の歌唱力を堪能できる貴重な曲なのだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]03

諏訪下秋08

ホームに降りると改札口の前で不思議な見た目の仏像「万治の石仏」がお出迎え。

もちろんこれはレプリカで、本物は諏訪大社下社春宮の近くに鎮座している。

駅舎を後にし、駅前から伸びる商店街を歩く。

沿道の店々は古ぼけた表情を見せ、あまり繁盛している活気が感じられない。

鉄道が下諏訪へのアクセス手段としての役割を終えている証なのだろうか?

4~5分ほど歩くと国道142号線、通称「大社通り」という広い道に突き当る。

そこを右折して直進した突き当たりに諏訪大社下社秋宮は鎮座している。

日が傾くにつれて宵闇に溶け込むかのように刻一刻と表情を変えていく下諏訪の町。

その様子を緩やかな坂道を登りながら眺めているうち、下社秋宮の正面に出た。

諏訪下秋09

今宵の宿は境内の裏手にあるホテル「山王閣」。

元は長野県の第三セクターによる国民宿舎として昭和40(1965)年12月、下社秋宮の境内地内に開業。

昭和62(1987)年に下諏訪町の第三セクターへ移管、平成3(2005)年には有限会社化されて民間企業となった。

間口の広い玄関を通ると眼前には広々としたロビー、奥は一面ガラス張りで諏訪湖が一望できる。

何がしかの宴会でもあったのか、ロビーでは正装した人たちが談笑しながら行き交っている。

創業から50年以上も経つが、まだまだ下諏訪町の社交場として現役のようだ。

チェックインの際、フロントマンに訊いてみた。

「来年で営業を終了するって話を耳にしたんですが」

「ええ、そうです。来年3月一杯です」

フロントマンはあっさり肯定した。

「すべて建物を取り壊し、更地にして諏訪大社さんにお返しします」

閑古鳥が鳴いてガラガラだというのならともかく、眼前の結構な賑わいぶりを見ると閉館するのは勿体ない気もする。

予約しておいた部屋は格安の四畳半「訳あり和室」。

なぜ訳ありかというと「アウトバス」、つまり風呂も便所もないため。

室内の造作も古びており、これは閉館も止むなしかな…と一転、気が変わった。

諏訪下秋10

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]02

諏訪下秋05

15時30分、松本バスターミナルに到着。

約2時間半のバス旅は鉄道旅行とは一味も二味も違う、山岳ドライブの醍醐味を存分に味わえた。

松本駅へと歩く途中、頭上には青空が広がっている。

鉛色の雲が低く垂れ込めた高山とは、まるで別世界だ。

松本駅構内の跨線橋から0番線ホームに向かって降りると、階段の影に1軒の立ち食い蕎麦屋が佇んでいる。

名は「山野草」。

店内は程よい狭さで、一見どこにでもある駅そば屋に映るが、正体は知る人ぞ知る名店だ。

ここには通常の立ち食い蕎麦と特上の2種類ある。

特上は生麺から茹でるため、予め茹で済の通常バージョンより時間がかかるうえ、しかも高い。

それでも客の様子を見ていると、ほとんどが特上を注文しているようだ。

もりそばでも40円程度の差額しかないので、たとえ待たされても特上のほうがお得感はある。

食券の自動販売機で暫く品定めした末、いかにも信州っぽい食材が羅列してある「特上きのこ山菜そば」に決めた。

蕎麦粉もキノコも山菜も地元信州産かどうか分からないが、そこは気分というもの。

手頃な価格で信州気分を満喫できるのだから野暮は言いっこなしだ。

諏訪下秋06

黒っぽい醬油味のツユに沈む蕎麦の上に大ぶりのキノコと茎太の山菜、薬味のネギが乗っかった暖かい蕎麦。

一口すすると蕎麦独特の風味が口腔に広がり、立ち食い蕎麦にありがちな「蕎麦風味の細饂飩」みたいな麺とは一線を画している。

それでいて妙な高級感を漂わせることもなく、あくまでも駅そば屋としての立場を弁えたかのような店構え。

旅の合間に心の隙間を満たされた思いで跨線橋の階段を登った。

松本駅5番線ホームから15時55分発の小淵沢行1536M列車に乗車する。

下諏訪駅まで30分余り、運賃ジャスト500円の鉄旅。

だが座席はロングシートで、なかなか旅情に乏しい。

しかも日曜日なのに部活終わりの高校生で車内は結構な混雑ぶりで、さほど平日の通勤通学列車と変わらない。

電車は塩尻駅で篠ノ井線から分かれて中央本線に入り、16時29分下諏訪駅に到着した。

諏訪下秋07

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]01

諏訪下秋01

12時50分、特急バスは高山バスセンターを松本へ向けて出発した。

市街地を抜けて山間いを奥へと進むにつれ、薄曇りの空は鉛色の濃度を深めていく。

山襞が折り重なる隙間を縫うように道が走り、バスのエンジンが唸りを上げて坂を駆け上がる。

1時間弱ほどでバスは平湯バスターミナルに到着し、10分間の休憩。

ここは「アルプス街道平湯」という日帰り温泉施設で、食堂や売店を備えている。

奥飛騨温泉郷の平湯温泉にあり、広い駐車場を備えたドライブイン施設でもあるのだが、見たところ駐車場はそれほど埋まっていない。

それもそうだろう、ここまで雪深い山道をウネウネ登って来なくてはならないのだ。

よほど雪道に自信のあるドライバーじゃなければ、とてもじゃないが怖くて近寄れない。

時間があればゆったり温泉を堪能したいところだが、たった10分では寛ぐどころの話ではない。

諏訪下秋04

しかし、中に入らずとも寛げる場所はある。

それは…足湯。

館外にあるのでサッと入ることができ、しかも無料。

けど、それすらも時間が足らなかったのでパッと眺めて終わり。

売店で唐揚げとサラミ、ビールを購入してアタフタとバスへ戻った。

すると、ターミナルから新たに乗車してきた客が何人かいる。

そうか、ここで下車して温泉や食堂で寛ぎ、高山から来る後続の松本行きに乗れば良かったわけか。

松本へ向けて再び走り出したバスの車窓から常緑樹の緑と雪の白が斑らに入り混じる山肌を眺めつつ、

唐揚げを齧りビールを呷る。

だが、連続するトンネルの壁面を見ている時間のほうが長くて興醒め。

ウトウトしているとバスは松本の都市圏に入っていた。

前方に松本電鉄の新島々駅が見え、やがて新島々バスターミナルに停車。

ここで下車して電車で行こうかと考えているうちにバスは出発してしまった。

諏訪下秋03

[旅行日:2016年12月11日]

「一巡せしもの」再開します

諏訪下秋32

ご愛読ありがとうございます、「RAMBLE JAPAN」管理人です。

平成22(2017)年10月14日からお休みしてました「一巡せしもの」。

約7ヶ月間の中断期間を経て、明日から再開いたします。

変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

一巡せしもの[水無神社]32

水無64*061

国分寺は天平13(741)年、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため勅願を発して各国ごとに建てた官寺。

だが、今でも諸国に存在する一之宮に対し、国分寺は結構な数が既に消滅している。

もともと国分寺は疫病や飢饉、反乱などの厄災を、仏教の力で封じ込めるために生まれたもの。

時代が貴族社会から武家社会に移り、権力者が変転するにつれて国分寺の存在意義も薄れていく。

中には廃寺になるものが現れても不思議ではない。

なお、現存する国分寺の中で創立当初の建築を保存しているものは一つもない。

それどころか、国宝や重文クラスの建築物を有しているのは総国分寺の東大寺を除くと飛騨、信濃、讃岐、土佐のたった4寺しかないのだ。

水無65-062

飛騨国分寺の大銀杏は葉が殆ど枯れ落ちていたが、伝承とは裏腹に積雪はなく、激しい降雪に見舞われることもなかった。

幸いではあったが、いくぶん風情に欠けた感があるのも否めない…そんなことを言ったらバチが当たるか。

いや、雪に邪魔されることなく水無神社へ滞りなく参詣できたのも、水無大神の御加護があってのことか。

そんな適当な考え事をツラツラと脳裏に思い浮かべつつ、高山駅前の濃飛バスターミナルへ戻ってきた。

短いようでいて、体感速度は更にアッという間だった高山滞在。

「今度は、もっとゆっくりいらっしゃい」

旅館いろはから去り際、老女将が掛けてくれた言葉を心の中で噛み締めつつ、高速バスに乗り込んだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]31

水無63-060

境内の西側に三重塔が立っている。

礎石上端から宝珠上端まで高さ22 mという小柄な塔。

だが、飛騨国内で唯一の塔建築だ。

初代七重塔が建立されたのは飛騨国分寺が誕生した天平13(741)年。

弘仁10(819)年に炎上し、斎衡年間(845〜857)に二代目五重塔を建設。

応永年間(1394〜1428)に兵火で焼失し、三代目五重塔が再建されるも、金森長近の松倉城攻めに遭い損傷。

元和元(1615)年、金森可重が四代目五重塔を再建した。

天和年間(1681~1684)に五重から三重に改築され、現在のスタイルに。

四代目も寛政3(1791)年、烈風で吹き倒されてしまった。

その後、庶民から喜捨浄財800両が寄せられ、約5500人もの大工の手により、文政4(1821)年に五代目となる三重塔が竣工、現在に至る。

塔内には本尊の大日如来が安置され、心柱には仏舎利が納めてある。

この塔の北側には初代七重塔の中心礎石だった跡が残されている。

直径約1。8メートル、地上全高約1メートルという巨大な花崗岩製の円筒だ。

中心には直径58センチ、深さ28センチの円孔が開けられている。

ここに仏舎利を納め、穴を石で塞ぎ、その上に塔の心柱が置かれていた。

この飛騨国分寺塔址は昭和4(1929)年、国の史跡に指定されている。

飛騨国に限らず国分寺の一般的な認知度は一之宮に比べて遥かに高いように思われる。

創設の経緯が歴史の教科書に記載され、試験勉強の中で覚えるからだろう。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]30

水無61-058

幹にポッカリ空いた洞 [うろ]に石仏が祀られている。

天平時代、七重の塔が建てられた時のこと。

大工の棟梁が柱の寸法を誤って短く切ってしまい、とても悩んでいた。

一人娘の八重菊は、柱の上に枡組を作って長さを補うことを提案。

塔は無事に完成し、枡組は装飾の役割も果たし、その出来栄えは評判を呼んだ。

しかし父親は「枡組」の真相が漏れて自身の名誉が損なわれることを危惧。

八重菊を口封じのため殺し、人柱として境内に埋めてしまった。

その塚の上に植えられたのが、この大銀杏だと伝承されている。

ただ、そのような事実が本当にあったのかは定かではない。

仕事のためには最愛の娘すら犠牲を厭わないという飛騨匠の謹厳さを喧伝するために創作されたエピソード…というのが真相のようだ。

水無62-059

境内の最奥に、国の重要文化財に指定されている本堂がデンと構えている。

現在の本堂は単層入母屋造りで屋根は銅版葺、昔は杮葺きだった。

昭和29(1951)年に本堂を解体修理した際、室町時代中期以前に建てられたことが判明。

また、正面向拝と東側は桃山時代に修理されていたことも分かった。

本尊の薬師如来像は行基の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。

また、旧国分尼寺の本尊で国重要文化財の聖観世音菩薩も国分寺に所蔵されている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]29

水無59-056

山門をくぐって境内に入ると、正面に鐘楼堂、その左奥に大銀杏、突き当たりに本堂。

大銀杏の左側には庫裏と太子堂、右側には三重塔と枯山水の庭が広がっている。

飛騨国分寺は天平18(746)年に創建された飛騨国最古のお寺さん。

開基は行基菩薩と伝わっている。

創建時は境内に七重塔、金堂、仁王門などが立ち並ぶ壮大な伽藍が広がっていたそう。

だが天正13(1585)年、金森長近の飛騨松倉城攻略に巻き込まれ被災。

その後、飛騨の領主となった長近は高山城を築城する際に国分寺の再興にも助力した。

本堂を大修理し、境内地を寄進、五重塔を再建したという。

水無60*057

参道を進んで鐘楼門を仰ぎ見る。

高山市の有形文化財に指定され、入母屋造りで上下二層に分かれている。

下層は旧高山城の遺構の一部を移築したもの、つまり戦国時代の建物。

上層は宝暦11#(1761)年、梵鐘を改鋳した際に増築されたもの。

上層と下層は全く別の時代に拵えられたものだが、そうは思えないほどの調和を見せている。

鐘楼門の隣に国の天然記念物、樹齢約千二百年という大銀杏[いちょう]が聳えている。

銀杏の葉が落ちれば高山に雪が降る…と昔から言い慣らされているほど、市民から愛されている老木。

樹間に乳のような気根が数多く垂れており、その姿から「乳イチョウ」の異名を持つ。

乳の出ない母親が願かけすると乳の出が良くなるとの俗信があり、今もお参りするご婦人の姿が絶えない。

ただ、この大銀杏は雄[おす]の木なので銀杏の実は出来ないそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]28

水無57-054

平日の真っ昼間だというのに三町重伝建地区は国内外の観光客でごった返している。

江戸時代と変わらない道幅に大勢の観光客が押し寄せているので、明らかにオーバーフロー気味。

ゆっくりと建造物を見て回るどころの話ではない。

高山駅へ引き上げるべく橋を渡ろうとした刹那、袂に佇む石碑が目に止まった。

「高山の夜」と刻まれたその石碑は、昭和45(1969)年に発売された御当地ソングの記念碑。

岐阜県を地盤に活動する演歌歌手、しいの実[みのる]のデビュー曲だ。

作詞作曲は地元高山の人だが、しいの自身は九州の出身である。

それも大分県宇佐市…豊前一宮宇佐神宮の鎮座地。

飛騨と豊前の一之宮の間に結ばれた見えない絆が「高山の夜」を生んだ…というのは、こじつけ過ぎるか。

水無58-055

宮川を渡ると人の群れはまるで霧が晴れたかのようにスーッと消え去った。

「国分寺通り」こと国道158号線を駅の方角へ歩いていくと、右側に寺の入り口が見える。

飛騨国分寺、正式な名称を「金光明四天王護国之寺」という。

山門は国道から一歩奥まったところにあり、よくある普通の寺だと見誤れば何気なく通り過ぎてしまったろう。

この山門が建てられたのは元文4(1739)年、飛騨の名匠松田太右衞門の手によるものと棟札にはある。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]27

水無55-052

現在、三町には6つの造り酒屋が軒を連ねている。

そのいずれもが現役の酒蔵として、古ぼけた重伝建の街並みに生命の息吹を与えている。

ただ、扱う酒は清酒がほとんどで、あってもにごり酒かおり酒、水無神社の特区にあった濁酒はない。

それにしても決して米どころではない飛騨で、なぜ酒造りが盛んになったのだろうか?

酒造りには寒冷地が適していること、飛騨山脈=北アルプスの良質な水に恵まれたこと。

商業が産業の基軸だけに近隣の米どころから余剰米の調達も可能だったろう。

それでも米は貴重品に違いなく、酒にして保存する技術が発達したと思われる。

こうした条件が都合良くマッチし、良質で独特な地酒を生み出すことができたのではなかろうか。

水無56-053

三町重伝建地区の南端に風格のある和風建築が立っている。

明治28(1895)年から昭和43(1968)年まで町役場〜市役所として使用されていた「高山市政記念館」という公共施設。

当時の名工坂下甚吉が棟梁として最上級の官材を相手に腕を振るった総檜造りの建物というから豪奢な代物だ。

市役所としての役割を終えた後は公民館として利用されていたものをリニューアルし、昭和61(1986)年に高山市政記念館としてオープンした。

館内では明治期以降の高山地域の歴史と、平成17(2005)年に平成の大合併で誕生した面積日本一の大都市、新高山市誕生の経緯を紹介している。

悪代官大原親子の時代を例に紐解くまでもなく、江戸から明治にかけて飛騨地方の村々は概ね貧しかった。

そんな中、政治経済の中心地として大いに賑わっていた高山は明治時代初期、人口1万4000人を擁する岐阜県下最大の都市だったという。

その一方、なかなか交通網が整備されなかったため、都市の近代化は県内の他地区より大幅に遅れた。

高山が近代化に着手するのは昭和9(1934)年の高山本線全線開通と高山駅開業まで待たねばならなかったのである。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]26

水無52-049

濃尾バスで再び高山駅に戻る。

昨夜は暗くて分からなかったが、陽光の下で見る駅舎の外観はモダンな印象。

随分と前に訪れた際の記憶に残る駅舎の面目は、どこにも見当たらない。

やはり外国人観光客を意識してのデザインなのだろうか?

次の目的地へはJRを利用しないので、このまま高山駅とはサヨナラだ。

水無53-050

せっかく飛騨高山まで足を運んだことだし、まだ時間にも若干の余裕がある。

そこで三町伝統的建造物群(重伝建)保存地区を散策してみることにした。

駅前から伸びる中央通りを東へ向かってズンズン進むうち、水無神社の前で別れを告げた宮川が再び現れた。

橋を渡った東側が三町重伝建保存地区になる。

高山は臥龍桜の項に登場した武将、金森長近が築いた高山城の城下町として生まれた町。

城郭の周囲を武家屋敷で固め、一段低い場所を町人の町とした。

城下町は一般に武家地が広く、町人地が狭いものだが、逆に高山は町人地のほうが武家地より2割も広いという。

しかも城下町には東西南北から街道が引き込まれ、経済に加えて政治などの面でも飛騨国の“首府”として機能。

狭隘で耕作地に乏しい飛騨だけに、長近は農業より商人の経済力を産業の中心に据えようとしたのかもしれない。

その町人地の一部が重伝建地区として現在にまで遺されているわけだ。

水無54-051

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]25

水無50-047

水無神社を後にし、再びバス停に戻ってきた。

悪代官といえば「水戸黄門」などの時代劇で欠かせない存在。

だが、こうして現実的な存在感を目前に突きつけられると、物語の一要素に過ぎない“敵役”という認識を改めざるを得ない。

というか、現代社会でも社会的地位を利用して私腹を肥やす政治家や官僚は後を絶たないし、むしろ江戸時代に比べても「悪政」に対する罪の意識が薄いのではなかろうか?

切腹とか打首といった命を取られる過酷な処罰がない、執行猶予で何年か我慢すればチャラになる現代のほうが、政治に向き合う姿勢が甘くなるのも無理ないように思える。

水無51-048


バスを待ちながら停留所の窓から国道41号線を眺める。

先ほど訪れた飛騨一ノ宮の駅前から線路沿いを西へ5分ほど歩くと、「御旅山」という標高約20mの古墳状の丘陵がある。

実は人工の丘陵で別名「御座山」といい、古くから位山の遙拝所とされてきた。

一帯は公園として整備され、毎年5月2日の例祭では水無神社の御旅所として神興の御神幸が行われる。

ここで神事芸能(神代踊り、闘鶏楽、獅子舞など)が奉納され、その後は参拝者に御神酒「濁酒[どぶろく]」が振る舞われる。

ちなみに例祭で水無神社の濁酒を使用するのが公認されたのは昭和7(1932)年11月1日のこと。

現在は「構造改革特別区域法による酒税法の特例」という長ったらしい名の法律下で「臥龍桜の里・一之宮どぶろく特区」に認定されている。

ちなみに、どぶろく特区の認定は平成16(2004)年12月と、ごく最近のこと。

だが、飛騨高山における濁酒造りの歴史は“特区”という小手先の政策で括られるほどチッポケなものではない。

水無大神と飛騨国人の間を結ぶ“絆”ともいうべき存在なのだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]24

水無48-045

大原騒動を引き起こした悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれた。

しかも職権濫用によるワルさの度合いがパワーアップ。

例えば過納金(農民に米一俵につき30~50文を過納させ、後で返す金)を返さないとか。

幕府が天明の大飢饉対策として農民に免除した分の年貢を取り上げて私腹を肥やすとか。

あげくに飛騨三郡の村々から総額6000両という大金を借り上げた。

借りた…というより、ハナから返す気などサラサラなかったのだろう。

これには農民はおろか名主や役人も怒りを募らせ、悪代官正純との戦いを激化させていく。

水無49-046

天明7(1787)年、クビにされた役人や失業した名主たちは何度も江戸に代表を派遣。

老中松平定信をはじめ幕閣に密訴状の投入や老中宅の門への訴状の添付を繰り返した。

さすがに幕府も看過できなくなったのか同年12月、代官所のナンバーツーである本締の田中要助が勘定奉行に呼び出されて江戸へ出向く。

そして寛政元(1789)年5月、飛騨に入った料所廻りの巡見史に対し農民が直訴して正純の悪行を糾弾。

さらに江戸で松平定信にも駕籠訴を行い念押し。

同年6月、ようやく重い腰を上げた幕府は高山に検見役を派遣するなど実状の調査に当たるが、ここでも正純は書類を改竄するなど不正を働いたという。

そして同年8月、今度は正純自身が勘定奉行から呼び出しを喰らい江戸表へ。

同年12月、ついに御沙汰が下り、今度は正純に“年貢の納め時”が来た。

まず、郡代大原正純は八丈島へ流罪。

もちろんグルだった他の役人も処罰された。

内訳は本締田中要助の打首をはじめ死罪2人、流罪1人、追放8人。

一方の農民側は駕籠訴の実行者こそ死罪になったものの、他の者はおしなべて軽い罰で済んだそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]23

水無45-042

来た道を引き返し、大鳥居の前をグルリと回り込み、絵馬殿の裏を抜けて境内の北側へと向かう。

奥の駐車場から来る場合この北参道を抜けると、わざわざ正面に回ることなく楼門の前に出ることができる。

参道には資材を積んだ軽トラックが停まり、業者の男衆が来るべき正月の初詣に向けて黙々と作業を続けている。

だが北参道には進まず、山の方角へ続く道に向かう。

水無46-043

ここまでたびたび登場している“聖地”位山。

その名称は樫の木の一種「櫟[いちい]」に由来する。

位山には櫟の原生林があり、天然記念物に指定されている。

その昔、この櫟で謹製した笏[しゃく]を朝廷に献上。

笏というのは束帯で威儀を整えるため右手に持つ細長い板のこと。

聖徳太子の肖像画で手に持っているアレだ。

すると、朝廷から櫟の木に対して一位の官位が下賜された。

そこから木は一位、山は位山と呼ばれるようになったという。

現在でも天皇即位と伊勢神宮式年遷宮には、水無神社から位山の櫟製の笏が献上されているそうだ。

本殿北側にある境内林の散策を続ける。

そこに異形の樹相を呈している木を見つけた。

一つの根から3本の幹が空に向かって伸び、根元には無数の脇芽が噴き出している。

樹齢は推定450年、目通り7。2m、樹高30mとソコソコ大きい。

安永年間に大原騒動で荒廃した社殿を修繕する際、元木の一部を伐採して用材にしたとも伝わる。

その折に裏山が切り開かれ、元木が現在の場所に植え替えられたという。

水無47-044

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]22

水無43-040

大祭の看板や賽銭箱を眺めているうち、いつしか境内から出ていた。

鳥居をくぐった先を左手に向かうと、道標[みちしるべ]が立っている。

    右 位山道
    左 宮峠道

幾度か登場している位山は日本を表裏に分かつ分水嶺。

ここから「水の主」水無大神の坐す聖域と見做され、奥宮が鎮座している。

古来から霊山として名高い位山の山中には巨石群が存在する。

人為的に築かれた遺跡という見方もあるなど、かつては神秘的な霊場だったと考えられている。

これまた幾度も登場している両面宿儺は位山の主。

天舟に乗り雲海を掻き分けて位山に降臨したという古伝説もあるそう。

位山が持っていた宗教的神秘性が「両面宿儺」という伝説上の怪人に具現化されたという見方もあるという。

水無44-041

目の前で左右に別れた道のうち、左の宮峠道を進んでみた。

細い道の境内側には幅の広い側溝のような川が流れている。

木立の向こう側に、うっすらと本殿が見える。

明治時代に飛騨国一之宮と認定された水無神社は、昭和12(1937)年から神祇院の国営工事として莫大な国費を投入し前社殿の大造営を開始した。

昭和14(1939)年に第一期工事が完了するも、昭和20(1945)年の第二次大戦敗戦により造営途中で国家の管理下を離れることに。

神祗院官制の廃止や宗教法人への移行など紆余曲折を経て、ようやく造営工事が完成したのは昭和24年(1949)年のことだった。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]21

水無138

そのルーツは、やはり「大原騒動」。

安永8(1779)年、一揆で荒廃した社殿の大造営竣工を記念して行われた遷座奉祝祭にある。

飛騨国中の代表神社から神輿や祭り行列を招請し、3日間にわたって催行された。

天下泰平や五穀豊穣などを祈願する一方、大原騒動で疲弊した飛騨の人々の心機を奮い起こしたそうだ。

「世相の凶[あ]しきを吉に返す世直しの大まつり」

この謳い文句こそ「飛騨の大祭」の本質を現しているだろう。

以来、飛騨各地の神社で凶時や異変の折に斎行され、今日に至っている。

字が掠れて読みにくい看板に、なぜ「大祭」と書かれているか分かったのか?

それは、全く同じ看板が鳥居の前に立っていたから。

違うのは日付が「平成二十九年五月三日より六日まで」となっていること。

平成二十九年…つまり次の大祭は来年開催される。

前回開催されたのは昭和35(1960)年というから、27年ぶりの斎行になるわけだ。

水無41-039

「大祭」の看板の隣には古い社号標が立っている。

いや、正確には社号標ではなく、表には「國幣小社」と刻まれているのみ。

通り水無神社は明治4(1871)年、近代社格制度の国幣小社に列格した。

翌年には世襲神主である社家を廃絶し、戦後の神社制度改正まで官選の宮司が任命されてきた。

島崎藤村の父正樹も、この官選宮司として赴任してきたことになる。

その隣には古びた木製の賽銭箱。

正面には神紋があしらわれている。

6つの瓢箪を「水」の字に合わせた形状。

安永年間に梶原大宮司が考案したと伝わっている。

瓢箪は古事記にも登場するほど、神代の昔から水を汲む器として用いられてきた。

主祭神の水無大神は水を司る神。

いかにも瓢箪は似つかわしい。

水無42*0039

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]20

水無37-035

境内へ入ってすぐ左側に大きな建物がある。

絵馬殿。

その名の通り内壁には数多くの絵馬が掲げられている。

縦6本×横5本の柱が巨大な屋根を支えている。

壁は上部にしかなく、下部は吹き抜けだ。

棟札によると建造は慶長12(1607)年。

当時の高山城主、金森長近が造営したと記されている。

水無38-036

大原騒動の後遺症で両部神道が唯一神道に改められた際、仏教関係の一切が破却、移転、改築された。

そんな中、取り壊しを免れたのが拝殿だった。

江戸時代が終わって明治3(1870)年、当時の高山県知事は飛騨の国中から醵金[きょきん]を募って新たに社殿を造営。

その際、建築様式を神明造りに統一したため、従来の入母屋造りだった拝殿が不釣合いになり、取り壊されてしまった。

これを惜しんだ氏子衆は解体後の建材を保管。

明治12(1878)年、拝殿の再建を願い出た氏子衆は広く浄財を募り、保管していた建材を用いて元の位置へ復元したという。

その後、昭和に入ると政府の管理下で大造営が行われたが、第二次世界大戦の敗戦で中断。

さらに戦後の昭和29(1954)年、境内を拡張するため前に社家(山本家)の屋敷があった場所に移築。

昭和53(1978)年には柿[こけら]葺きだった屋根が銅板に葺き替えられ、高山市に編入される前の宮村重要文化財に指定されている。

水無39-037

絵馬殿の中に、ひときわ大きな看板が掲げられている。

絵は描かれていないので絵馬ではない。

墨書で大きく「大祭」と書かれているが、古い看板らしく字が掠れて読みにくい。

この大祭とは「飛騨の大祭」のこと。

飛騨地方独特の祭礼で、全国でも他に類を見ない神事という。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]19

水無35-031

楼門の向こう側、左手すぐのところに巨大な老木が立っている。

推定樹齢およそ800年という銀杏[いちょう]の大木だ。

落雷によって上部が欠損しているが、折れた場所から若枝が繁茂。

櫟[いちい]などの宿り木を抱え、もう何の木やら分からないほどの枝ぶりだ。

枝からは銀杏特有の乳[ちち]が垂れ、その姿は優しげな母親の面影を連想させる。

そのせいか古くから子授け、安産、縁結びに霊感あらたかな御神木として信仰されているという。

樹齢800年といえば西暦1200年頃から、この地に根を張っていることになる。

大原騒動の顛末はもちろん、鎌倉時代の神仏習合の頃から水無神社の歴史を見守ってきたのだろう。

余談だが、銀杏の乳は女性の乳房に見立てたもの。

ここだけではなく全国各地の神社で銀杏の乳が同様の信仰を集めている。

ちなみに銀杏の乳は英語でも「ChiChi」というそうだ。

水無36-034

楼門の前を離れ、再び鳥居の方を眺める。

乳白色の雲が空一面を覆い、時折り舞い散る小雪の彼方には、幾重にも連なる飛騨の山並み。

苦難に満ちた江戸時代を思えば、世界中から観光客が押し寄せる現代の飛騨地方は隔世の感がある。

水無神社が飛驒国一之宮に比定されたのは、実は明治維新以降のこと。

実は、どの神社が飛騨国の一之宮なのか記した江戸時代以前の史料が散逸しているため。

明治政府による神仏判然令により、数多くの仏像や仏教関係の古文書などが“廃仏毀釈”された。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]18

水無34-030

拝殿正面の左右に青銅製の灯篭、その外側に狛犬、その更に外側に石灯籠が立っている。

この石灯籠は幾度も登場している代官の大原彦四郎が安永8(1779)年に寄進したものだ。

言うまでもなく彦四郎は江戸時代屈指の百姓一揆「大原騒動」の元凶(?)となった代官。

歴史上の呼称は「安永騒動」だが、代官の姓をとって「大原騒動」と呼ばれているところに一揆の根深さを感じる。

だがしかし、彦四郎は一揆の鎮圧と大増税による年貢収入アップの功績が高評価。

代官より格上の布衣[ほい]郡代に昇進する。

まさに領民を虐げて出世の階段まっしぐら…という悪代官の見本みたいな彦四郎だったが。

農民の苦難を顧みることもなく驕り高ぶった態度を諌めた妻を離縁。

翌日、安永6(1777)年8月15日、妻は自らの手で命を断った。

その後、彦四郎は眼病を患い失明し、神仏にすがる毎日を送る。

そしてこの灯籠を奉納した年、彦四郎は急病を発症。

高熱に魘[うな]される中、この世を去った。

非道の限りを尽くして立身出世を手に入れても、人生への幸福に結びつかなければ何の意味があろうか?

いや、彦四郎は自らの幸福のために圧政を敷いたのではなく。

幕臣として自らの任務を忠実に果たしただけなのかも知れない、多分。

だが、飛騨の苦難は悪代官が亡くなっても終わることはなかった。

悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれていったからである。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]17

両面宿儺
(「両面宿儺」像/円光作/飛騨千光寺蔵)

両面宿儺とは5世紀初頭ごろ、乗鞍山の麓に住んでいたとされる伝説上の怪人。

その姿は『日本書紀』仁徳天皇65年条に描写されている。

    ひとつの胴体と、背中合わせになった前後ふたつの顔面。
    ふたつの顔は頭頂で一つになるので、項[うなじ]はナシ。
    足に膝[ひざ]はあっても膕[よほろ=膝の後ろの窪み]はナシ。
    力持ちで敏捷で、左右に剣を帯び、左右2組(計4本)の手で2組の弓矢を射る。
    天皇の命に従わず、略奪を楽しみ民を苦しめていた。
    このため天皇は難波根子武振熊[なにわのねこたけふるくま]を遣わせ、これを殲滅。
    難波根子武振熊は大和の豪族、和珥臣[わにのおみ]の祖先である。

読むからに容貌魁偉、領民を苦しめる悪の化身みたいなイメージを受けるが。

「両面宿儺」とはヤマト王権がつけた賤称で、正体は古代飛騨地方を支配していた豪族の首長。

中央の支配に抵抗して飛騨を守ろうとした豪族を、ヤマト王権側がデフォルメしたものと言われている。

「両面宿儺」は高度な建築技術を持つ“飛騨匠”の集団を掌握して飛騨を治めていた。

そこには飛騨の風土に生きてきた人々の自尊心や自負心、篤い信仰心が投影されているに違いない。

水無神社と千光寺が密接にリンクしていた神仏習合時代の祭神は両面宿儺だったろう。

それが大原騒動で両部神道から唯一神道に改められた際、祭神が大年神に改められたのではないか?

では、なぜ新たな祭神に大年神が選ばれたのだろう。

飛騨地方は山岳地がほとんどで耕作に適した土地が極端に少ない。

そのため稲作の守護神たる大年神を主祭神に迎え、希少な農業生産を守ろうとしたのか。

しかし、それなら稲作ではなく林業の神を祀った方が理に適うだろう。

水無神社の祭神のことを考え始めると、謎が謎を呼んでキリがなくなる。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]16

水無33*0029

主祭神の御年大神とは大年神[オホトシノカミ]のこと。

古事記には須佐之男命[スサノオノミコト]と、大山津見神[オホヤマツミノカミ]の娘である神大市比売[カムオホイチヒメ]との間に生まれた神と記されている。

大年神の「年」とは祈年祭[としごいまつり]の「とし」を意味し、豊年を司る霊力の象徴。

祈年祭とは神祇官が陰暦の二月四日、国庁で豊作を祈願して催行していた祭りのことだ。

大年神は民俗信仰の「年神様」と、ほぼ同一の神と見做されている。

「年神様」は正月になると各家庭へやって来る、非常にインティメイトな神様。

お正月様、年徳神、恵方神など、地方によって様々な呼び方がある。

もともと「年神様」は稲作を司る神様で、農家が祀っていた風習。

松飾りや鏡餅といった正月行事は、この風習に由来するものが多い。

れが年神様の原始的な姿であり、農耕の神である穀霊[こくれい](穀物に宿る霊魂)的性格がクロスオーバーした神が大年神といえよう。

だが、一之宮の中で大歳神が主祭神なのは、ここ飛騨一宮水無神社のみ。

その大歳神にしても、飛騨地方との間に特定の関係性は見当たらない。

そもそも創建当時から、ここの主だったわけでもないだろう。

では、水無神社の真の主とは誰だったのだろうか?

そのヒントは先述した別当寺、袈裟山[けさざん]千光寺の歴史にあった。

千光寺は今から約1600年前の仁徳天皇治世、両面宿儺[りょうめんすくな]が開山したと伝わる。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]15

水無32-0028

騒動の発端は彦四郎が幕命により検地の強行、年貢の増徴など過酷な圧政を敷いたこと。

彦四郎の度重なる約束の反故もあって農民たちの怒りは沸騰。

直訴や駕籠訴[かごそ]に及ぶも全く聞き入れられず、やがて打ち壊しなど行動が過激化していく。

また、農業生産能力に乏しい飛騨では山に住む領民達が「御用木元伐[ごようぎもとぎり]」といって、幕府の管理する山から材木を切り出す報酬として米や賃金を受け取り生計を立てていた。

ところが彦四郎は支出を引き締めようとしたのか元伐の休止を命令。

おかげで領民達は貧困のドン底へ突き落とされた。

「拗の木」のところで彦四郎が発した神域の大檜供出命令に対し、やんわりと村人達が拒絶したのも根底に元伐休止への反発があったという。

水無33-0029

屋根と賽銭箱の間から奥に鎮まる拝殿を眺めつつ、水無神社に鎮まる神様について考えてみる。

水無神社の祭神は水無神[みなしのかみ]。

主神の御年大神[みとしのおおかみ]外十四柱の神々の総称だ。

社号標のところで「水無」の由来は「水主」、川の水源を司る神という説が有力だと触れた。

宮川の源流川上岳から水無神社へ至る途中の位山[くらいやま]には水無神社の奥宮が鎮座している。

この水主の神が坐[いま]す聖域は日本を表裏に分ける分水嶺。

つまり水源と交通の要衝を鎮める「水の主」、それが水無神というわけだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]14

水無31-028

短い石段を上がると中央に楼門が立ち、左右に透塀が連なっている。

しかし入り口には大きな賽銭箱が立ちふさがり、立ち入れるのはここまで。

さて、新たに高山藩主となった金森長近は水無神社の御神威を崇敬。

慶長12(1607)年には近隣の農民に命じて普請を手伝わせるなどして再興を図ったという。

潮目が変わったのは元禄5(1692)年、六代頼峕[よりとき]の時。

金森家は出羽国上山[かみのやま]へ移封となり、飛騨は天領となった。

転封の理由は頼峕が何かしくじったというわけではもなく。

幕府が財政を安定させるため、飛騨の鉱山資源や山林資源に着目したからだと言われている。

飛騨代官の支配が続いていた安永2(1773)年、水無神社に大きな転機が訪れた。

それは門前に立っていた巨大石碑「大原騒動 一宮大集會之地」にある通り。

飛騨一円を巻き込む一大農民一揆「大原騒動」が勃発したのだ。

これに対して代官の大原彦四郎は武力を以って徹底的に鎮圧。

多数の農民が非業の死を遂げたり島流しに遭うなど、代官と農民の間に深い遺恨が刻まれる。

また、農民側に加担した水無神社への弾圧も例外ではなく。

山下和泉と森伊勢の両神職も騒動に連座した咎で処刑された。

この騒動によって古文書などの史料なども散逸したのだろう。

水無神社の存在は大原騒動によって一度、歴史上から抹殺されてしまったのだ。

安永7(1778)年、新たな神職として信州から梶原伊豆守家熊を招聘。

神仏混淆の両部神道を破棄して唯一神道に改め、阿弥陀堂や鐘堂、仁王門といった仏教的建造物を撤去。

併せて社殿の大改修を行い、祝や社司といった職名も宮司制へと改めた。

こうして面目を一新した水無神社は安永8(1778)年8月13〜15日の3日間。

飛騨国中の神々を招請して太々神楽を催し、新しい水無神社のスタートをアピール。

この太々神楽が今も続く「飛騨の大祭」のルーツだと言われているそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]13

水無29-033

それはさておき、付近の地名を「一之宮町」と呼ぶぐらい、水無神社の歴史は古い。

創建は神代と伝わっているが、太古の記録が散逸しており詳細な歴史は不明だ。

最古の記録は貞観9(867)年に従五位上の神位を授けられた…というもの。

元慶5(881)年には従四位上まで累進。

平安時代中期に編纂された格式『延喜式[えんぎしき]』でも小社に列せられている。

鎌倉時代に入ると神仏習合の影響を受けて「水無[みなし]大菩薩」を称するように。

神仏一体の両部神道を奉じ、本地堂一宇を建てて釈迦像も安置された。

高山駅から直線距離で北北東6。5kmのところにある真言宗の名刹千光寺。

ここは水無神社の別当寺で、社僧も置かれていたそうだ。

手水舎の前に蛙の石像が佇んでいる。

分水嶺に鎮座する水無神社に水棲動物の蛙とは、いかにも相応しい。

水を“支配”する神として祀られているのだろうか?

また、蛙は田んぼの害虫を食べてくれるので農民からも篤く信仰されてきた。

いずれにせよ、なぜここに蛙があるのか?

説明板が見当たらないので、本当の理由は分からない。

話を水無神社の歴史に戻そう。

室町時代の文明年間(1469~1486)頃、水無神社には祝部(はふりべ=古代の下級神職)が十二家あった。

うち棟梁家として山下と一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村3700余石に達していたという。

やがて各祝部が武士化して一宮党を名乗り、戦国時代に隆盛を迎えた。

ここに臥龍桜のところで登場した三木国綱が登場する。

天文~弘治年間(1532~1558)、宮司の一宮右衛門大輔国綱は飛騨松倉城主の三木(姉小路)[みつき(あねがこうじ)]自綱[よりつな]の妹を娶り姻戚関係に。

名を三木三澤国綱と改称し、神職を家臣の森某に譲り、山下城を築いて武将となった。

しかし三木三澤は金森家の軍勢に敗北。

先述の通り、臥龍桜の下へ埋められる羽目ことになったわけだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]12

水無27-026

歌碑の隣に摂社がひとつ鎮座している。

社号は「白川神社」。

この「白川」とは世界遺産にも指定されている合掌造りの里、白川郷。

正確には岐阜県大野郡白川村のことだ。

昭和32(1957)年に白川村で建設が始まった、本格的ロックフィルダム「御母衣[みぼろ]ダム」。

ロックフィルダムとは岩と粘土だけで巨大な壁を築き、水を貯める方式のダムだ。

同35(1960)年、東洋一の規模を誇る「御母衣ダム」は完成。

しかし、偉業への代償とでもいうべきか。

白川村の長瀬と福島の両集落がダム湖の底へと沈んでいった。

その前に、集落に鎮座していた氏神の白山神社を水無神社に遷座。

両神社を合祀し創建したのが、目の前にある白川神社というわけだ。

水無30-027

ようやく楼門までたどり着いた。

“ようやく”と呼べるほど、境内は色濃いエピソードで満ち溢れている。

これといって目につくものがなかった美濃一宮南宮大社とは対照的だ。

しかし、参拝の前に手水舎で両手を禊ぎ、口を漱がねばならない。

ここの水は地下60mから汲み上げた伏流水という。

平成17(2005)年の平成の大合併で新制高山市が誕生。

この折「一之宮町」という地名が復活した際の記念事業だったそうだ。

ちなみに大合併後、高山市の面積は2177.61平方kmとなり日本最大となった。

これは東京都の2190.5平方kmから島嶼部405平方kmを引いた面積よりも大きい。

水無28-032

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]11

水無25-0024

黒駒の隣には木彫りの白駒が立っている。

こちらの作者は飛騨の工匠、武田万匠。

元々は黒駒だったが、明治15(1882)年に宮司が色を白に塗り換えた。

その際、腹部に武田の銘が発見されたという。

その昔、深夜に神社から馬の嘶[いななき]と蹄の音が聞こえる。

様子を見に行くと拝殿に神馬が放っぽり出されいることが度々。

これは「神様が神馬で夜な夜なお遊びなっているのだ」と噂が。

ここから「いななき神馬」という名が付いたそうだ。

神馬とは農耕や軍事への信仰面から神社に奉納されるものだが。

水無神社の神馬は農作業で用いられる牛馬の安全祈願に対する信仰が極めて篤い。

耕作向きの土地が極めて乏しい飛騨で土地生産性を上げるためには、牛馬の役割が極めて重要となる。

その信仰が昂じれば、超人気彫刻家だった左甚五郎に馬の像を作らせることぐらいわけなかったろう。

水無26-025

神馬舎の隣に石碑が立っている。

そばに近づいて、刻まれている短歌を読む。

    きのうけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里

作者の名は島崎正樹…ご存知だろうか?

彼自身の知名度は低いが、息子のそれはすごぶる高い。

その名は…島崎藤村、言わずと知れた明治の文豪である。

国語の教科書にも登場する名作「夜明け前」。

主人公である青山半蔵のモデルこそ、実は父の正樹なのだ。

しかも正樹、ここ水無神社の宮司だったこともある。

明治7(1874)年11月13日の赴任から同10(1877)年12月8日まで約3年ほど、宮司として在職していた。

その「夜明け前」にも正樹が東京から赴任してくるシーンが描かれている。

140年以上も前の水無神社が、名著の中に息づいている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]10

水無23-0023

「拗の木」の奥に太い杉の木が立っている。

推定樹齢およそ800年という老杉ながら、樹高45m、枝張り幅20m、目通り6。45mという巨大さ。

昭和38(1963)年9月10日には県の天然記念物に指定されている。

天然記念物としてより、水無神社の謎に包まれた歴史を見続けてきた生き証“木”としての価値のほうが遥かに高い。

もちろん、もしこの老杉と会話できればの話だが。

水無24-024

老杉の影に、まるで隠れているかのように小さな御社が佇んでいる。

良く見ると摂社ではなく神馬舎で、安置されているのは白黒2体の木像。

この像は古くから語り継がれている伝説「稲喰神馬[いなはみしんめ]」に登場する「稲喰[いなはみ]の馬」だ。

江戸時代、毎夜のように田んぼの稲穂を食い荒らしている黒い馬がいた。

追い払うと駆け出したので後を追ったところ、馬場の納屋のあたりで姿が消えてしまった。

納屋を見ると板戸に黒馬が浮彫の形で貼り付いている。

その馬が神社の黒駒に似ていたので、これは神馬のいたずらであると考察。

黒駒の像から眼球をくり抜いたところ、耕作地が荒れることは以来なくなったという。

黒駒の作者は不詳だが、一説によると伝説の名工・左甚五郎の作とも言い伝えられている。

左甚五郎といえば江戸時代に活躍した伝説の名工。

日光東照宮の「眠り猫」に代表されるように、その作品は余りにもリアル。

それ故、ここの黒駒に限らず、木彫りの動物たちが夜な夜な歩き出したという伝説すらあるほど。

ちなみに納屋の戸板は水無神社に奉納され、明治初年に破却されるまで拝殿に掲げられていたという。

ちなみに、この黒駒は極めて素朴に作られているものの、解体するのは至難の業なのだそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]
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