鹿嶋市

一巡せしもの[香取神宮]09


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御神木を見やりつつ拝殿の右側から裏手に回り、空高く組まれた足場の隙間から本殿を眺める。

本殿も楼門と同様に元禄13(1700)年の造営で、現存する三間社流造の中では最も大きい。

こちらは昭和52(1977)年に国の重要文化財に指定されている。

現在の工事は平成25(2013)年4月に斎行される式年大祭へ向けた屋根の葺き替えと漆塗りの補修とのこと。

本殿の裏手から更に奥へ。

樹齢を幾年も重ねてきた大木の森を抜けると、そこにあるのは茶店「寒香亭」。

店先にはこまごまとした土産物が並び、奥にはストーブが赤々と燃え、品書きには、おでんに団子と甘酒にところてん。

まさに神社の茶店を絵に書いたような佇まい。

こういう茶店が好きで堪らない。

だが今回は日没が迫っており、立ち寄ることなく再び境内へと引き返す。

今度は「参拝の栞」の境内見取り図を見ながら、来た道とは反対側へグルリと回ってみる。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]08

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そういえば神武天皇が熊野で悪神の毒気で大ピンチに陥った際、武甕槌命が自らの代わりに送った神剣の名は「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)。

この「ふつ」という音は古代、刀剣が物を切り裂くことを意味していた。

「ふつぬしのみこと」が神剣「ふつのみたまのつるぎ」を神格化したのは間違いないところだろう。

こうした事柄を合わせて考えるに「武甕槌命と経津主命は同じ神だったのではなかろうか?」なる思いが湧いてくる。

拝殿を正面にして右側を向けば、そこには祈祷殿が構えている。

以前は拝殿だった建物で、今の拝殿が昭和15(1940)年に建造されたのを機に移築されたもの。

現在の拝殿より小ぶりだが端正で落ち着いた佇まいからは、古社への信仰を長らく受け止め続けてきた矜持が感じられる。

祈祷殿と拝殿の間に、見るからに霊験あらたかな巨木が聳立している。

樹齢約1000年とも伝わる御神木で、両腕を広げて取り囲んだなら5人は必要だろうと思われる太さ。

幹の周径は10メートルを超えているものと思われる。

もちろん抱擁できるまで近づくことはできないが。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]07

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現在の拝殿は昭和15(1940)年に造営されたもので、檜皮葺き屋根の権現造り。

全体に渋い黒漆塗りで、鮮やかな朱色の楼門とのコントラストが対照的だ。

庇の下を左右に貫く長押(なげし)の上には極彩色の蟇股(かえるまた)が据えられている。

蟇股とはカエルが足を広げた形に似た装飾材。

股の間に設えられた禽獣花鳥の彫刻が美しい。

拝殿の前で頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打ち両胸の前で手を合わせる。

香取神宮が創建されたのは神武天皇18年、西暦にすると紀元前643年のこと。

御祭神の経津主命は別名「伊波比主命(いはひぬしのみこと)」又は「斎主神(いはひぬしのかみ)」とも。

つまり伊波比主とは斎主、すなわち祭祀者のことを指しているという説もあるそうだ。

果たして何を祭祀している者だったのか?

経津主命もまた鹿島神宮の御祭神である武甕槌命と同様の“武神”。

しかも伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を切り落とした際、剣から滴る血が固まって生まれた剣の神という“誕生譚”も一緒。

さらには天照大神の国譲り戦略でも、武甕槌命と共に大国主命から地上統治権を奪取する功績を挙げたと伝わている。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]06

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その鳥居をくぐり、横に長い石段を上がり総門を通り抜け、クランク状になった参道を右に進むと、左側に朱塗りの壮麗な楼門が姿を見せた。

造営は元禄13(1700)年というから、徳川五代将軍綱吉の治世下。

昭和58(1983)年には国の重要文化財に指定されている。

楼門を通る前に顔を上げ、扁額を見やる。

香取神宮の扁額もまた鹿島神宮と同様、東郷平八郎元帥の揮毫によるものだ。

楼門を抜けると重厚な社殿がドンと待ち構えている…と思いきや。

こちらも鹿島神宮と同様、ただいま「平成の大修理」真っ最中。

拝殿のファザードだけが顔を出し、後方の幣殿と本殿は薄いヴェールと作業用の足場で覆われている。

社殿の全体像を拝見できないのは残念だが、こうした不断の手入れが重要文化財を後世に伝えることにつながるのだ、我慢しよう。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]18

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「鹿島の太刀」の極意を悟った卜伝は、流派名を神示に沿った「鹿島新当流」と改める。

その後、卜伝は2度の廻国修行に出、足利将軍家や伊勢北畠家、甲斐武田家などに剣術を指導。

その足跡は全国各地に及び、今でも日本中に卜伝の“聖蹟”が散在しているという。

旅を終えて鹿島の地に帰ってきた卜伝は元亀二(1571)年、ト伝は83歳の生涯を閉じる。

といった卜伝の生涯を、折しもNHKが堺雅人主演でドラマ化。

ちょうどオンエア中ということもあって、鹿島の街中がドラマのPRだらけだった。

卜伝像に別れを告げ、再び坂を下る。

やがて、正面にオレンジ色の外壁も鮮やかなJR鹿島神宮駅が姿を現した。

かつては東京駅との間に特急列車が走るなど鹿島の交通の拠点で、駅舎の規模からもその重要性が伺える。

しかし高速バスが主流となった現在では、各駅停車が1時間に1~2本程度発着するだけのローカル駅になってしまった。

とはいえ、クルマがひしめき合い排ガスが充満する国道124号線沿いに比べたら、閑散としている駅舎周辺のほうがよほど心が落ち着き、神宮に相応しい空間だとも思える。

14時36分、香取行き普通列車は鹿島神宮駅を出発した。

車内にはパラパラと高校生がいるだけで、鹿島工業地帯から帰京する出張族など匂いすら感じられない。

やがて車窓には潮来水郷の風景が広がった。

それを眺めているうち、心の底から思えてきた。

一宮巡礼の旅には自動車ではなく、やはり鉄道が似合っているなぁと。

(常陸國一之宮「鹿島神宮」おわり)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]17

t4u28鹿島rj23「よしのや」を出て大町通りを鹿島神宮駅の方角へ向かって歩く。

駅に下る坂との交差点に、サッカーJリーグ鹿島アントラーズのモニュメントが立っていた。

サッカーボールの意匠を象った円形の石造りで、正面にアントラーズのエンブレムが刻まれている。

「アントラー(antler)」とは英語で「鹿の角」という意味で、チーム名も鹿島神宮に由来しているわけだ。

併設されている「栄光の碑」には、アントラーズの歴史が刻まれている。

ただ、設置された時期が古いので、最近の“栄光”までには記述が及んでいないのだが。

ちなみにアントラーズはJ1リーグで最も多く優勝し、2000年に国内3大タイトル(リーグ戦・カップ戦・天皇杯)を全て制覇する“三冠”を達成し、一度もJ2に降格していない唯一のチームでもある。

このあたりも“武神”鹿島神宮の御神徳なのだろうか?

交差点から駅へと続く緩やかな坂道を下っていく途中、左手に大きな看板が目に止まった。

「塚原卜伝生誕之地」

そう大書きされている。

看板の裏手は大きな広場で、奥では駅の方角を向いた大きな銅像が周囲を睥睨している。

塚原卜伝は鹿島が生んだ剣聖。

戦国時代の延徳元(1489)年生まれで、この銅像は生誕五百年を記念して建立されたもの。

卜伝は鹿島神宮とも縁が深い。

父親は神官「祝部(はふりべ)」を務めた卜部覚賢(うらべあきたか)。

塚原姓は幼少時に養子へ出た先の家の姓だ。

卜伝は幼少から鹿島中古流の太刀を学び、16歳の時に最初の廻国修行の旅へ。

この武者修行は約15年の長きに及び、数多の真剣勝負や合戦に臨み、かつ一度も負傷しなかったという伝説を残している。

ただ、この修行は戦乱真っ只中の京都で積み重ねられたもの。

数多の人死を目の当たりにし、世の虚しさに心を病み、故郷の鹿島へ戻ってきたという。

そこで卜伝は荒れた心を落ち着かせ、自己の剣に磨きをかけるため、鹿島神宮で一千日の参籠祈願を行うことに。

3年にも及ぶ修行の末、ついに鹿島大神から「心新たにして事に当たれ」との神示を授かることに。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]16

t4u28鹿島rj22壁の目立つところに大きな一枚板を切り抜いて描いた「流鏑馬(やぶさめ)」の板絵が掲げてある。

毎年5月1日に行われる神事で、説明書には約150年前に拝領したとある。

別の説明書きには、江戸時代までは「宿長」という名の旅籠だったそうで、蕎麦屋に転じたのは明治以降のこと。

往時には鹿島神宮に参拝する講中(参拝者の団体)の本陣として大いに賑わったそう。

件の板絵も旅籠時代に鹿島神宮から下賜されたものなのだろうか。

そんなことをボンヤリ考えているうち、天ざるが来た。

とびきり美味いわけではないが、手打ちの九割蕎麦と謳ってるだけあって、さほど不味くもない

そんな中庸な味わいの蕎麦をズルズルすすりながら顔を上げると、今度は幕末の「天狗党事件」縁の店と手書きされた由緒書きが目に入った。

天狗党とは幕末の水戸藩で藩主徳川“烈公”斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷の急進派のこと。

天狗党は元治元(1864)年、幕府に攘夷の実行を促すため筑波山で挙兵。

しかし藩内保守派との内戦に破れ、京都にいた一橋慶喜を頼り上洛。

その途中、諸藩の討伐軍に敗れ、越前で加賀藩に降伏。

諸幹部をはじめ党員の大半が処刑され、残りは遠島・追放などの処分を受け、天狗党は消滅した。

もう少し蜂起が遅ければ薩長の維新勢とタイミングが合い、新政府への参画もあり得たのだろうか?

そうなれば天狗党が一橋慶喜と薩長の橋渡し役となり、慶喜が新政府の一員にもなり得たのだろうか?

そもそも、天狗党は徳川幕府を倒して朝廷中心の国家を打ち立てるビジョンを持っていたのだろうか?

それ以前に、天狗党は何をしたかったのだろうか?

蕎麦猪口に蕎麦湯を満たしてズズッとすすりながら、食後のひとときを天狗党への思索に費やした。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]15

t4u27鹿島rj20御手洗池の前には藤棚があり、その向こう側に茶店が2軒。

うち一軒はシャッターを下ろし、営業しているのは「一休(ひとやすみ)」のみ。

ちょうど昼食時だったので店前を覗く。

名物は「元祖みたらし焼きだんご」に「手打ち蕎麦」、「湧水コーヒー」と水郷潮来の地酒。

鹿島神宮はみたらし団子発祥の地であり、その名称は御手洗池に由来する…とある。

ただ、世間では山城国一之宮「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の御手洗川に由来するという説が一般的。

大昔の関東地方で「みたらし団子」は、遠くの下鴨神社由縁ではなく、鹿島神宮発祥として広まっていったのかも知れない。

また、手打ちの「湧水そば」は茨城県産の蕎麦粉を湧水で打った二八蕎麦…とある。

地酒の猪口を傾けながら湧水そばをたぐり、締めにみたらし焼きだんご…これぞ旅の醍醐味!

とは思ったが、これはグルメツアーではなく諸国一之宮を参詣する巡礼の旅。

ここで美食の誘惑に負けるわけにはいかない! と、「一休」に入ることなく御手洗池を後にした。

逆回転の映像を見るかのように楼門のところまで戻り、境内を出たところで思わず空腹を覚えた。

鹿島到着から3時間ほど。そろそろ昼食でも…と思えども。

午後2時過ぎということもあって開いてる店がなかなか見当たらない。

さっきの「一休」で「湧水そば」を食べておけばよかった…と早速、後悔する。

門前から延びる大町商店街を行き来しつつ店を探しているうち、ふと一軒の蕎麦屋の前で足が止まった。

何気なくショーウィンドウを眺めていると、いきなり扉が開き、「いらっしゃいませ~!」の声とともに中へと引きずり込まれてしまった。

蕎麦屋の名は「よしのや」。

店前に「創業室町時代」という看板が掲げてある。

店内に入ると、よく街角で見かけるごく普通のお蕎麦屋さん。

天ざるを注文し、お茶を啜って一息ついたところで店内を見渡す。

平日の昼下がりということもあって、他に客はいない。

こうした状況下でショーウインドーを覗きこんでいる人間なんて、鴨以外の何者でもないな…と思う

どうせなら鴨南蛮でも頼めばよかったかも。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]14

t4u25鹿島rj18園内を通り抜けて出入口へ。

案内図には記載されていないが、さしずめ“裏参道”に当たるのだろう。

入り口の両側に周囲を注連縄で囲われた立砂の円錐があるのを見かけた。

表参道大鳥居の跡にあったのと同じ形状をしている。

やはり大震災で石造りの鳥居が倒壊したため、その跡に盛られたものだ。

神道的な感覚からすれば、表裏両参道の入り口に立つ双方の鳥居が身を挺して地震から社殿を守ったかのように見える。

一方、物理学的な観点からすれば巨大な振動に木造建築物は強く、石造のそれは脆弱に過ぎなかっただけかもしれない。

しかし、神宮周辺でも倒壊した木造建築物は多々あった。

伝統の技巧を持った宮大工が腕によりをかけて作り上げた社殿群だからこそ、被害は軽微だったのではないか?

鳥居は大きいが故に尊からず。

適宜な規模の鳥居を木造で、地震に耐え得る“伝統の技巧”を用いて立てればよいのだ。

実際その方向で大鳥居が再建される方向にあるようで何より。

要石のご神徳による地震除けが鹿島神宮のご利益。

次は地震でも絶対!絶対に倒壊しない大鳥居を建立して欲しいと思う。

ここから帰路には就かず、来た道を表参道まで引き返す。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]13

t4u20鹿島rj16神職はともかく、今では御手洗池で潔斎を済ませてから参詣する参拝者など皆無のはず。

そんな中、毎年1月に御手洗池で行われる大寒禊では、大勢の参加者が中に入って心身を清めているそうだ。

真冬の冷水に体を浸さないと「鹿島の七不思議」を確かめられないのなら、謎は謎のままにしておいたほうがいいのかも知れない。

御手洗池を北に向かうと先に公園が広がる。

名称は「みたらし公園」と、さすがにひらがな。

池から流れ出るせせらぎに沿って公園へ向かうと、反対側にも細い道が通っているのに気付いた。

「なんだろう?」

そう思って反対側に回り奥へ進むと、小さな祠があった。

頂戴した案内図で確認すると、そこはなんと「大黒社」。

武甕槌命の恫喝(?)に屈して国を譲った大国主命が、こんな目立たない片隅にヒッソリと祀られている。

この祠、いつからあるのだろう?
そして何のためにあるのだろう?

御手洗池側が表参道たった時代から存在していたのなら、武甕槌命をお参りに来た参拝客を大黒様が出迎え、そして見送ってきたことになる。

自分が従わせた神様に“グリーター”をさせるとは、なかなかに神世も辛辣だ。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]12

t4u17鹿島rj15要石は見かけこそ小さいものの実際は地中深くまで続いている巨岩で、地上の部分は氷山の一角。

その昔、水戸の黄門様が要石の大きさを確かめるため、七日七晩この石の周りを掘るよう命じたそうな。

ところが翌朝には掘った穴が元に戻ってしまい、確かめることできなかった。

しかもケガ人が続出したため、結局は掘ることを諦めた…という逸話が残っている。

要石から再び奥宮へ引き返し、社殿の前を通り抜け、茶屋の前から下りの石段を降る。

両側を木々で囲まれたウネウネと続く薄暗い細道を進んでいくと、パッと視界が開けた。

そこにあったのは御手洗池(みたらしのいけ)。

古来より神職や参拝者が潔斎するための池である。

大昔、鹿島神宮の参道は御手洗池が起点で、ここで身を清めてから参拝していたのが「御手洗」の由来。

神代の昔、鹿島神が天曲弓(アメノマガユミ)で穿ったとも、宮造りの折に一夜にして湧出したとも伝わっている。

端に近づき、池の中をのぞき込む。

エメラルドグリーンの池水は見るからに清廉。

今でもお茶を立てるときの水に使いたいと汲みに来る人が絶えないのも頷ける。

池の周囲をグルリと歩いてみる。

中央には鳥居が聳立し、その両脇から玉垣が伸びて池を横に二分している。

池そのものは人工的に造られたもので、そこへ湧水口から湧き出る霊泉を導いている。

森から枝と呼ぶには大きすぎる巨木が池の真上まで伸び、支える添え木の下に隠れるように湧水口がある。

その巨木に頭をぶつけないよう、湧水口に近づいてみる。

鹿島の古老によると神代より枯れたことがなく、旱魃(かんばつ)にも干上がることがなかった。

湧出量は1日400キロリットルを超え、今なおコンコンと湧き続けている。

池の周囲をグルリと回って、再び鳥居を正面に臨む位置に戻ってきた。

それほど水深があるようにも見えないが、実は誰が入っても同じ深さ。

つまり、大人が入っても子供が入っても水面は乳の高さを超えることがないそう。

池の深さが変わらない謎は「鹿島の七不思議」のひとつにも数えられている。

でも、これなら黄門様の要石掘り出しと違って、誰でも簡単に確認できそうだ。(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]11

t4u11鹿島rj14高速バス「かしま号」の中で「藤原氏がヤマト王権の中枢で権勢を振るうようになったことで鹿島神とヤマト王権が結着」したと学んだ。

奈良に平城京が造営された折、その藤原(中臣)氏が鹿島神宮から武甕槌命を勧請して創建したのが春日大社の始まり。

鹿が春日大社の象徴的存在なのもうなずける話だ。

そんな“神の使い”たちに見送られながら、参道を更に奥へと進む。

道の両側は高い木立が連なり、森の木々が齎すフレッシュな酸素を冬の寒気が包み込み、凛とした空気が周囲を包み込む。

奥参道の突き当たりに売店が見える。

しかし看板建築が景観的にミスマッチで残念。 

できれば屋根を茅葺きか藁葺きにして欲しいところだが、それは贅沢というものか。

そこから道が左右に分かれ、左手は下りの石段。

右側には古寂びた社殿が佇んでいる。

こちらも国の重要文化財「奥宮(おくのみや)」。

徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した御礼として慶長10(1605)年に奉納したものだ。

当初は本殿として奉納されたが、現在の社殿が造営された元和5(1615)年に現在の場所へ引き移されたもの。

奥宮は安土桃山風の小ぶりな建物だ。江戸幕府の開府直後だけに、財政面からも社殿の小ささは止むを得なかったところ。

ひょっとしたら家康は仮普請のつもりで寄進し、秀忠に後で建て替えるよう申し送っていたのかも知れない。

奥宮から先へ延びる細い参道を進む。

聞こえるのは梢が擦れ合う音と鳥のさえずりぐらい。

まさに静謐の深淵だ。

途中、大鯰の碑を経て要石(かなめいし)に至った。

わずかに頭頂部だけが露出している霊石で、鹿島神が降臨した御座と伝わっている。

また、地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえている鎮石とも言われており、そのおかげで鹿島地方には大きな地震がないと言い伝えられてきた。

東日本大震災では大鳥居など石造りの構造物が被害を受けたが、国宝や重要文化財などは概ね無傷。

本殿も屋根の千木が外れる程度で、上屋そのものは大きな被害を免れている。

これらもまた、要石の御神徳なのだろうか?

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]10

t4u10鹿島rj12社殿と参道を挟んだ反対側には社務所と宝物館。

その宝物殿が所蔵する国宝に「直刀-金銅漆塗平文拵附刀唐櫃」がある。

出土品ではなく伝世品で、かつては御神体のひとつとして本殿内に祀られていたもの。

鍛刀(たんとう)されたのは今から約1300年前と推定されている。

現存する直刀の中では日本最大最古で、柄(つか)と鞘(さや)を含めた全長は2.71メートル、刃長は2.24メートルにも及ぶ。

この直刀は常陸国風土記には、慶雲元(704)年に常陸国の国司らが鹿島神宮の神山の砂鉄で鍛刀したと記されている。

また、直刀の名は神剣「布都御魂剣」「?霊剣」と伝わっていると「参拝のしおり」にある。

ただ、常陸国風土記が編纂されたのは奈良時代、国宝の長刀が鍛刀されたのは平安時代なので、両者は同一のものではない。

しかも「布都御魂剣」そのものは大和国石上神宮に祀られていると古事記にもある。

この直刀は石上神宮に伝わる「十掬剣」を模して鍛刀された、今で言う“レプリカ”なのかも知れない。

参詣を済ませて奥参道へ歩を進め、しばらくすると左手に鹿園が現れた。

「鹿島神宮」である以上、神の使いである鹿の存在は欠かせないところ。

では、なぜ鹿が神の使いなのか?

先述した天照大神の国譲り作戦で、武甕槌命に出雲派遣の打診を伝えたのが“鹿の神様”天迦久神(あめのかくのかみ)だった。

入り口の説明板によると三十数頭の鹿がいるはずだが、金網の中でマッタリまどろんでいるのは数頭だけ。

ふと目線を先に送ると、木の柵越しにエサをあげている参拝客の姿が。

鹿園にある売店でエサを購入した参拝客だけが、園内の鹿と直に触れ合えるそうな。

そこまでして触れ合いたいとも思わない自分は、金網の外から鹿たちと見つめ合えれば、それで十分。

奈良の春日大社なら金網越しなんかじゃなく、鹿の方から鹿せんべいを求めて擦り寄って来るのに。

その春日大社、鹿島神宮との間に深い関わりがある。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]09

t4u09鹿島rj11

鹿島神宮の御祭神は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)の首を切り落とした際、ほとばしる血から生まれた剣の神とされている。

国譲り戦略で大国主命(オオクニヌシノミコト)相手に失敗が続いていた天照大神(アマテラスオオミカミ)は、最後の切り札として“武神”武甕槌命を出雲に派遣。

出雲の伊那佐浜にやって来た武甕槌命は、長さが十握(とつかみ)もある「十掬剣(とつかつるぎ)」をスラリと引き抜くや、波涛の中に柄の部分をズボリと突き差し、天を向いた刃の切先の上に胡座(あぐら)をかいて座った。

そして大国主命に対し地上統治権の譲渡を上から目線で迫った挙句、それを承諾させたという。

楼門から社殿へは、参道を東に向かって歩いてきた。その自分から社殿が右手に見えるということは、本殿の正面が北を向いていることになる。

鹿島神宮は大和朝廷が北方(蝦夷)からの脅威に対する防衛拠点として築いたものであり、そのため本殿は北を向いているのだと伝えられている。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)-後に諡(おくりな)され神武天皇-が日向国高千穂から東国へ進軍した“神武東征”神話。

神武天皇は進軍の途上、紀伊国熊野で禍々しい霊力を持った悪神の権化である巨大な熊の毒気に当てられ正気を失ってしまった。

毒気で部下たちも次々と昏睡状態に陥り、東征軍は壊滅の大ピンチ!

そこへ地元熊野の高倉下(タカクラジ)なる者が、一振の剣を手に神武天皇の寝所へと現れた。

聞けば夢の中で、天照大神が神武天皇の窮地を救うために武甕槌命を派遣しようとしたところ、武甕槌命は大国主命を平伏させた剣を自らの代わりに降下させた…そんなやりとりを見たと言う。

高倉下が持参した霊剣の功徳によって神武天皇は「あーあ、よく寝た」と呟きながら正気を取り戻し、昏睡状態だった部下たちも続々と目を覚ました。

その神剣の名は「布都御魂剣」、別名「韴霊剣」。どちらも「ふつのみたまのつるぎ」と読む。

しかも剣を振るうまでもなく熊野の悪神は成敗され、神武東征軍は壊滅の危機を逃れることができた。

これに感謝した神武天皇は即位の年、常陸国に勅使を派遣して武甕槌命を祀ったのが鹿島神宮の始まりとも言われている。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]08

t4u05鹿島rj08

本来あるはずの“エアー鳥居”をくぐり境内へ。

参道の両脇に立っている石灯籠約60基もまた大鳥居と同様、地震で倒壊。

無論、現在では元の姿に修復されている。

参道の正面には朱塗りの楼門が壮麗な姿で聳立している。

寛永11(1634)年に水戸藩初代藩主徳川頼房(よりふさ)が奉納したもので、現在は国の重要文化財に指定されている。

ちなみに頼房は「水戸黄門」こと徳川光圀の父親だ。

この楼門、筥崎宮(筑前国一宮)、阿蘇神社(肥後国一宮)とともに「日本三大楼門」に数えられている。

東郷平八郎元帥の揮毫による扁額の下を通り抜けると、右手に社殿が姿を現す。

現在の社殿は元和5(1615)年に徳川二代将軍秀忠が奉納されたもの。

本殿、拝殿、石間(いしのま)、幣殿の四棟で構成された権現造り。

これら社殿四棟もまた楼門と同様、国の重要文化財に指定されている。

拝殿の後ろにある本殿は補修工事中で、残念ながらその姿を拝むことは叶わなかった。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]07

t4u03鹿島rj07

スナックの色褪せた看板の下をすり抜け、細い裏路地から出ると、不意に社号標が目の前に現れた。

そこが鹿島神宮の表参道入り口だった。

しかし、どこか違和感がある。

何かが違う。 

正面から入り口の全景を隈なく見ていたら、ハタと気がついた。

大鳥居が見当たらないのだ。

ちなみにこの大鳥居は二の鳥居で、一の鳥居は先述の通り西へ2キロほど離れた北浦湖畔にある。

その大鳥居、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災で倒壊してしまった。

石造りの鳥居としては日本最大を誇っていたが、その大きさが逆に仇となった格好。

もしこれが木造の鳥居だったら、倒壊は免れたろうか?

誰もが同じことを考えるようで、本来の姿である木製鹿島鳥居型の大鳥居を境内のご神木を用いて再建し、2014年に完成予定という。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]06

t4u02鹿島rj06

停留所でバスから降りると目の前に広がる鄙びた風景にタイムスリップしたような錯覚を憶えた。

潮来で高速道路を下りてからこのかた、高層ホテルや超大型店舗などロードサイドならではの風景を見てきた。

その目の前に突然現れた古ぼけた商店や飲食店が立ち並ぶ街角は、まさに過去への時間旅行そのもの。

もともと神宮の門前町として栄えてきた町域が旧市街で、ここまでバスで通り過ぎてきたロードサイドが新市街。

モータライゼーション全盛の昨今、鉄道駅を中心とした旧市街は寂れ、自動車での移動を前提とした新市街へ繁華は移行…こうした傾向は全国共通だ。

空き店舗や空き地が居並ぶ門前の町域を歩く。

営業しているのも個人商店ばかりで、巨大な建造物が林立していたロードサイドとは規模の点で比べるべくもない。

だが、人には人の丈に見合ったサイズがある。
こうして歩きながら見て回るには最適な規模。

こうした昔ながらの商店街には、目的が“消費”しかないショッピングモールとは違う、もっと人間性に根差した“何か”を感じる。

それは商店街が長年ここで培ってきた「人対人」の商いに対する想いが、一種の“念”に姿を変えて漂っているからかも知れない。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]05

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ここから一般道を神栖市の中心部にハンドルを切り、鹿島セントラルホテルへ。

国道124号線を経由して鹿嶋市内に入り、地域経済の中核である新日鉄住金鹿島製鉄所に到着。

フェンスの向こう側には巨大な工場群が立ち並んでいるはずだが、内側に植えられた林木で遮られ様子を伺うことは叶わない。

かしま号は隣の鹿島宇宙技術センターを経て11時16分、鹿島神宮駅のひとつ手前、鹿島神宮バス停に到着した。

ここまで東京駅から運賃は1780円。
この金額は高いのか? 安いのか?

先に洲崎神社へ参詣した折、館山駅から千倉駅まで乗ったJRバスと館山日東バスの運賃合計額は1750円だった。

確かにコストパフォーマンスで見れば、かしま号のほうが圧倒的に安い。

ただ、乗客らしい乗客のいない路線バスと、高速バス界のドル箱路線とでは比較にはなるまい。

JRバス関東はかしま号で稼いだ黒字で、南房総の先端を結ぶ路線バスの赤字を補填しているのだろう。

鹿島神宮バス停は国道50号線沿いにあり、参道の入り口から少し離れているため少しばかり歩く。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]04

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鹿島神宮が創建されたのは神武天皇元年…つまり皇紀元年。
西暦で言えば紀元前660年のこと。

鎮座地は常陸国…つまり陸と海の境界から常に陸の側にある国という意味。

もともと鹿島神宮は、このあたり一帯で陸と海との境界線を司る有力な土着神だった。

一の鳥居が神領の近辺ではなく、西へ2キロほど離れた北浦の畔にある点が象徴的。

そこに東征を図るヤマト王権が結びつき、鹿島神宮は国家的な武神になったという。

バスは宮野木ジャンクションから、今度は「東関東自動車道」へ。

佐倉、成田、佐原と、高速道路は東関東というより上総国を貫通して常陸国へと延びる。

ここ上総国~常陸国の“常総地方”は藤原氏の祖、中臣鎌足の出生地だと言われている。

後に藤原氏がヤマト王権の中枢で権勢を振るうようになったことで、鹿島神とヤマト王権が結着する。

かしま号は利根川を超えて茨城県に入り、潮来インターチェンジを降りて10時43分、水郷潮来バス亭に到着した。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]03

t4u08鹿島rj03

かしま号は宝町ランプから首都高都心環状線に入り、6号向島線を経由して7号小松川線へ。

隅田川から両国の辺りで分かれ、真東に流れる竪川。

その上にフタをするように延びる7号小松川線。

両国、錦糸町、亀戸…見覚えのある街角の風景が車窓に広がる。

荒川に差し掛かると、左手には楽器のハープにも似た姿が美しい「かつしかハープ橋」が遠くに望める。

首都高は一之江ランプから「京葉道路」に名を変え、かしま号は江戸川を渡って千葉県に入った。

空は所々に雲が浮かぶぐらいで、スッキリと青く晴れ渡っている。

それにしても高速バスというのは自家用車と違って有難い存在だ。

車内で居眠りしようが酒を飲もうが、何の差支えもない。

ただ、本当に飲酒すると車酔いとの“ダブル酔い”に陥る怖れがあるので、まず飲むことはないけど。

この車内に流れるマッタリとした時間を利用して、これから詣でる鹿島神宮について少し予習をした。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]02

t4u01鹿島rj02

「なんだこのジジイ?」

そう小声で呟いたら、後方の席へ移動していった。

別に“追っ払おう”という気持ちから出た言葉ではない。

どんな荷物を持ち込もうと知ったことではないが、せめて網棚に載せるぐらいの気配りは見せなさいよ! という“心の叫び”が本当に口を突いただけ。

その後、別のビジネスマンがやって来て隣席に座った。

今度の乗客は荷物をキチンと網棚に乗せ、足元グイグイはない。

これが正しいバスの乗り方(のハズ)である。

09時20分、京成バス「かしま号」は東京駅を出発した。

かつてJRは東京駅と鹿島神宮駅の間に特急列車を運行していたが、現在ではすっかり「かしま号」に取って替わられた格好。

ピーク時には10分に1本の割合で発着する高速バスの利便性に、とても鉄道は太刀打ちできない。

それもそのはず1日80往復を超えるかしま号は、今や東京駅発の高速バスの中で最多便数を誇るドル箱路線なのだ。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]01

t4u00鹿島rj01

通勤する人、上京した人、これから旅立つ人…往く人来る人でごった返す朝の東京駅。

八重洲口の高速バスターミナルから鹿島神宮駅行き高速バス「かしま号」に乗り込む。

今日は到着地そのままに鹿島神宮、そこから程近い香取神宮を巡礼する予定だ。

09時00分発のJRバスに乗車するつもりで来たのだが、既に車内は鹿島臨海工業地帯へ向かうビジネスマンで座席の半分以上が埋まっている。

こんな人だらけのバスは嫌なので、1本遅らせることにした。

そのおかげで行列の前方4番目ぐらいに並ぶことができ、乗車したら助手席サイドの先頭、しかも窓側の席に運良く座れた。

9時ちょうどのバスに比べると、それほど混雑していない。

乗客はスーツ姿のビジネスマンが大半…というか、スーツ姿でない乗客はどうやら自分一人だけの様子。

そこへ、大きな荷物を2つも抱えたスーツ姿の初老の親爺が隣席にやって来た。

しかも荷物を頭上の網棚に載せるでもなく、そのうえ足元に置いたアタッシュケースをこちらへグイグイ押し付けてくる。

[旅行日:2012年12月18日]
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