阪急西宮球場

キャッスル&ボールパーク③西宮編 十

西宮101西宮R16

映像装置にはブレーブス関係以外の資料も閲覧できる。

例えば「箕面有馬電気軌道創業」からたどる阪急電鉄関係の歴史。

西宮球場で開催されていた西宮競輪やアメフト「阪急西宮ボウル」などのイベントも。

出色なのは西宮球場で行われた「宝塚歌劇大運動会」の映像。

大運動会は10年に1度、歌劇団創設を記念して開催される。

ここでの映像には80周年とあるから、1994年に開催された大会か。

なお西宮球場の解体後は大坂城ホールに会場を移転。

ちなみに今2014年は創立100周年に当たるので、10月7日に開催されるそうだ。

西宮102西宮R19

西宮ギャラリーを後にして、屋上庭園「スカイガーデン」へ。

家族連れが憩い、小さな子供たちの歓声が響き渡っている。

オッサン共の野次や怒声から子供たちの歓声へ…どちらが好ましいかは人それぞれだろうけど。

設置されているスタンドは、どこか野球場を彷彿とさせる。

それもそのはず、西宮球場のスタンドをイメージして設計されているのだ。

スカイガーデン内にあるイベントガーデンの「緑の観覧席」は、まさに野球場のスタンド。

その左端下部の地面にはホームベースがあしらわれている。

かつて西宮球場でホームベースがあった場所を今に伝えているのだ。

阪急電鉄にとって西宮球場と阪急ブレーブスが、いかに大切な存在だったかアピールしているかのよう。

既に“阪急ブレーブス”の名は過去のものではあるが、その遺産は今もここに息づいている。

西宮103西宮R20

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 九

西宮91西宮K09

ジオラマとガラスケースの更に奥、突き当りの壁一面には阪急電鉄の歴史を記した年表が掲げられている。

阪急電鉄の歴史を遡ると、ざっとこんな感じ。

明治43(1910)年1月15日に前身の箕面有馬電気軌道が宝塚本線と箕面支線を開業。

大正7(1918)年に阪神急行電鉄と改称。

戦時中の昭和18(1943)年、国策で京阪電鉄と合併し京阪神急行電鉄へ改称。

同48(1973)年に現社名の阪急電鉄に改称し、現在に至る、と。

同24(1949)年に京阪電鉄を分離しているにもかかわらず、京阪神急行電鉄という社名を四半世紀近く使い続けてきたところが面白い。

西宮92西宮K09

年表の横には阪急グループの歴史を映像で紹介する装置が設置されている。

特に「プロ野球の誕生」や「初の日本一」「高知キャンプ」といったブレーブス関係の歴史映像が興味深い。

阪急ブレーブスの歴史は昭和10(1935)年、小林一三翁が職業野球団の結成と、専用野球場の建設を指示したところから始まる。

ライバル会社の阪神電鉄にも球団設立の動きがあり、これに対抗する意味合いもあった。

翌11年、大阪阪急野球協会が誕生し、全7球団で日本職業野球連盟が設立された。

阪急軍以外の球団は東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、セネタース、大東京、名古屋金鯱(きんこ)軍。

翌12年には阪急西宮球場が完成。

設計にあたってはMLBシカゴ・カブスの本拠地リグレー・フィールドと同クリーブランド・インディアンスの本拠地ミュニシパル・スタジアムを参考にしたそうだ。

第二次世界大戦後の昭和22(1947)年、阪急軍はベアーズと改称し、再開したプロ野球リーグに参戦。

しかし、なかなか勝てなかったのでチーム名を公募してブレーブスに変更、ここに阪急ブレーブスが誕生した。

西宮93西宮K04

昭和25(1950)年に日本野球連盟はセントラルとパシフィックの2リーグに分裂。

ブレーブスは同じ在阪私鉄を親会社に持つ近鉄バファローズ、南海ホークスとともにパ・リーグに所属することとなった。

とはいえ1950年代は南海と西鉄ライオンズの“2強時代”であり、ブレーブスは長らく優勝とは無縁のシーズンを繰り返していた。

転機となったのは昭和38(1963)年、西本幸雄の監督就任だった。

その後ブレーブスが迎えた黄金時代については、野球殿堂のレリーフのところで詳述している。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 八

その後を受けたのは上田利治ヘッドコーチ。

上田阪急が初めて日本シリーズに出場したのは昭和50(1975)年、相手は初出場の広島東洋カープ。

広島は上田の古巣で、根本陸夫監督(当時)と衝突した挙句に退団した“因縁”の相手でもある。

ちなみに宿敵巨人は監督が川上から長嶋茂雄に代わった1年目で、球団史上初の最下位に沈んだ年でもある。

この年、阪急は広島に1勝も許さず、4勝2分で初の日本一に輝いた。

西宮81

上田阪急は昭和53(1978)年までパ・リーグを4年連続で制覇。

しかも昭和51~52年の日本シリーズは長嶋巨人相手に2連覇を達成し、かつて何度立ち向かっても歯が立たなかった恥辱をようやく濯ぐことができた。

昭和53年の日本シリーズは、これまたセ・リーグで初優勝した広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズが相手。

上田阪急が戦った4度の日本シリーズの対戦相手は2回が巨人、2回が初出場のチームだったことになる。

ちなみにこの年の日本シリーズ、セ・リーグ側の球場はヤクルトの本拠地神宮ではなく、後楽園を間借りして行われた。

当時の神宮球場はプロ野球より東京六大学野球のスケジュールが優先。

平日の昼間に開催される日本シリーズは大学野球の試合とバッティングしたため、プロのほうが身を引かざるを得なかったのだ。

第7戦、ヤクルト大杉勝男選手が放ったレフトポール際のホームラン判定を巡って上田監督が1時間19分にも及ぶ猛抗議。

結局このゲームを落とした阪急が3勝4敗で惜敗し、上田阪急が初めて一敗地に塗れた日本シリーズとなった。

西宮82

上田監督は猛抗議の責任を取って勇退するも、3年後の昭和56(1981)年に再び復帰。

その後、球団がオリックスに譲渡された後の平成2(1990)まで10年間にわたって監督を務めた。

その間パ・リーグで優勝したのは昭和59(1984)年の1度きりだが、一方で2位が5度もあり決して弱いチームではない。

1980年代は西武ライオンズの黄金時代で、その牙城を阪急が切り崩すことができなかっただけの話である。

ただ、予算をかけて戦力を補強しても2位止まりなうえ、観客動員数が激増するわけでもない。

阪急電鉄がブレーブスを手放そうと判断しても不思議ではなかったように思える。

昭和59年、上田阪急が日本シリーズで最後に戦った相手もまた、広島カープだった。

上田監督と広島の古葉竹識監督は同学年で、しかも広島時代のチームメイトと、なかなか因縁めいたものがある。

結局この年の日本シリーズは広島が4勝3敗で阪急を下し、古葉監督が昭和50年の雪辱を果たすことに。

平成3(1991)年、本拠地が西宮球場からグリーンスタジアム神戸に移転し、チーム名もブレーブスからブルーウェーブに代わったのを機に、上田監督はオリックスから身を引く。

その後、日本ハムファイターズの監督に就任するが、日本シリーズはおろかパ・リーグで優勝することもなく。

21世紀を目前に控えた1999年のオフを以ってプロ野球の現場から身を引いている。

西宮83

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 七

西宮72西宮R17

ギャラリーには野球だけでなく、鉄道やイベントなどの資料も展示されている。

ガラスケースの中には昭和9(1934)年に梅田/神戸間25分特急運転を実現したことを誇示するレトロなポスター。

その手前には特急運転に投入された920型車両の1/20スケール模型が展示されている。

その右には昭和25(1950)年に西宮球場近辺で開催された「アメリカ博」のポスター。

手前にはアメリカ博の宣伝用に塗装された800型車両の1/20スケール模型の姿が。

西宮73西宮K07

左側エリアから右側エリアへ移動すると、その真中に“野球殿堂”こと野球体育博物館(東京ドーム内)に掲げられているレリーフのうち、阪急ブレーブスに貢献した13人のレプリカが掲げられている。

先出の福本、山田両選手のほか、阪急黄金期の礎を築いた西本幸雄監督、1975~77年に日本シリーズ3連覇を達成した上田利治監督らの肖像が印象的。

その中でもとりわけ偉大なのは大阪急を築いた不世出の経済人、小林一三翁その人だろう。

西宮74西宮R14

もちろん野球競技者としてではなく、プロ野球の発展そのものに貢献した特別表彰での栄誉だが。

西本監督は昭和40年代、西暦にすると1965~74年の辺り、阪急を何度もパ・リーグで優勝させた名将。

だが、天下は川上哲治監督率いる読売巨人軍が日本シリーズ連覇街道を驀進していた∨9時代。

西本阪急はパ・リーグで昭和42~44(1967~69)年に3連覇、昭和46~47(1971~72)年に2連覇と計5回優勝している。

ところが日本シリーズでは5回とも巨人相手に苦杯を舐めさせられた。

西本監督は昭和48(1973)年に阪急を退団し、翌年から近鉄バファローズの監督に就任した。

西宮75

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 六

西宮ガーデンズの建物へ入る前に、阪急百貨店の南側出入口にある南駐車場へ。

その側壁に設えられた植え込みの中に、二つの記念物がある。

ひとつは「ブレーブスこども会記念碑」。

西宮61西宮R09

西宮球場が存在した時代から敷地内に立っていたもの。

球場解体の際に撤去されたが、西宮ガーデンズ建設に際して再び戻ってきた。

もうひとつは「ブレーブス後援会記念樹」。

記念碑には「愛する阪急ブレーブスと野球への思いをこめてバットの木アオダモを寄贈します。」と記されている。

目立たない場所ではあるが、こうして歴史的記念物を保存してあるところに阪急の律儀さを感じる。

次に西宮ガーデンズの中へ。まだ6月だというのに非常に暑い外気に比べて建物の内部は涼しく、まさに天国。

フェスティバルガーデンにあるエレベーターで5階へ登り、TOHOシネマズ西宮OSへ。

西宮63西宮R12

その隣にあるのが「阪急西宮ギャラリー」。

西宮球場や阪急ブレーブスだけでなく、阪急電鉄や阪急百貨店の歩みに関する資料が展示されている。

中央の入口を入ると、ギャラリーは左右のエリアに分かれる。

右側エリアへは主に阪急百貨店など阪急グループに関する内容が展示されている。

鉄道系百貨店の草分け阪急百貨店も、創業時の阪急マーケット時代は店員が元鉄道マンの素人ばかりだったとか。

左側エリアの中央には1983年当時の西宮北口駅周辺を再現した1/150のジオラマがドーンと鎮座。

もちろん駅構内のダイヤモンドクロスも再現されている。

西宮62西宮R13

阪急ブレーブスの本拠地として長きにわたり務めを果たしてきた西宮球場。

その模型は手が込んでいて当時の雰囲気を彷彿とさせてくれる。

1983年当時のパ・リーグといえば暗黒時代もいいところで、観客数は絶望的な少なさ。

しかも西宮球場では競輪も開催されていたため、スタジアム周辺は一種「男の世界」的な荒んだ雰囲気が横溢していた。

1989年、阪急電鉄はブレーブスをオリックスに売却。

1991年には本拠地をグリーンスタジアム神戸に移転し、西宮球場は「空き家」に。

2002年には競輪の開催も廃止され、スタジアムの建物は解体されることが決定。

そして現在、西日本最大級のショッピングモールとして賑わいを見せているわけだ。

ジオラマの隣にはガラスケースの中に、いにしえのユニフォームや日本シリーズで優勝した時のペナントやトロフィーなど、ブレーブスの栄光を象徴する品々の数々が所狭しと陳列されている。

特に黄金時代を築いた"花の44年組"山田久志、福本豊、加藤英司の3選手については、個人所蔵のバットやトロフィーを借り受けて展示するという熱の入れよう。

今でも福本氏や加藤氏は阪神戦やオリックス戦のメディア中継で解説を務め、そのトボけた味わいが話題になったりする。

今の姿しか知らない若い人たちには、どれだけ両者が偉大な選手だったか知ることのできる稀少な場所だ。

西宮71西宮R15

[旅行日:2014年6月23日]
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