豊川市

一巡せしもの[真清田神社]20

rj20真清田4T11

国府の近くから参拝する順に番号を割り振っていったので、最も近い真清田神社が一之宮。

次いで犬山の大懸神社、そして熱田神宮という順で番号が割り振られた…と考えるのが最も合理的だろう。

そもそも熱田神宮が“神宮”になったのは明治維新の神仏分離令以降、それまでは熱田“神社”だった。

尾張国府が築かれた当時、ひょっとしたら国司側には真清田神社と熱田神社の間に現在ほどの宗教的“格差”意識などなかったのかも知れない。

しかし三種の神器“草薙剣”を祀る熱田神社のプライドは高く、それに辟易した国司サイドが三之宮に留め置いた…ということも考えられる。

神々の世界にしては妙に人間臭い話だが、こちらの説のほうが物語としては面白い。

江戸時代に東海道五十三次で門前に宿場町“宮”が整備されたおかげで、その名が旅人達によって全国的に喧伝された熱田様。

一方、尾張の首府が名古屋に移った後も、尾張発祥の地に足を着けて一帯の守護神を務め続けた真清田様。

両者の関係性に諸説あろうとも、尾張国だけに限れば、やはり筆頭の神社は真清田神社にこそ相応しいのではないか?

後ろを振り返り、本町商店街のアーケード街を眺めているうち、そんなことが頭に浮かんできた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]19

rj19真清田4T29

しかし、これは間違いなく「当たりの店」だという予感が働く。

入ってみようと思ったが、残念ながらアイドルタイムで準備中だった。

再び宮前三八市広場に戻ってきた。

鳥居と楼門を眺めながら「なぜ熱田神宮が尾張國三之宮なのか?」という謎について考えてみる。

真清田神社で頂いた栞「東海五県一宮巡りのご案内」では、こう一之宮を説明している。

一宮とは、一の宮・一之宮とも書かれ、各地域の中で最も社格の高いとされる神社のことで、国司が任国に赴任した時などに巡拝する神社の順序とされています。

つまり一之宮の“一”という数字は格の高さではなく、国司が巡拝する神社の順番ということになる。

このことは武蔵国一之宮の小野神社と、三之宮だった氷川神社のところでも触れた。

尾張国の国衙(国府)は一宮市の隣、稲沢市松下に存在したと推測されている。

現在ここには総社の尾張大國霊神社があり、別名はズバリ「国府宮」。

総社とは国司が国内の神社を巡礼する手間を省くため、各社の祭神を勧請して一つ処に祀った神社のこと。

総社は国司が参拝し易いように国府の近くに建立されることが普通なので、ここに国府があったことは、まず間違いなさそう。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]18

rj18真清田4T28

つまりド派手は施策は宗春が突発的に思いついたわけではない。

尾張国に連綿と受け継がれてきた歌舞音曲好きの“民族性”が、宗春の存在を介在して現世に姿を現したのだ。

神楽殿の建物を眺めるうち、判官ならぬ“宗春”贔屓が嵩じたのか、そんなことを想った。

境内西端の出入口に建つ鳥居から境内の外に出で、外周道路を楼門の方面へグルリと回ってみる。

楼門の手前に立つ中央の白い建物は宝物館。

だが、その左隣りに、なぜか星条旗が掲げてある。

尾張国一之宮とアメリカ国旗……一体いかなる関係があるのか?

近づいて見ると何かの食べ物屋の様子。
 
看板を見ると「お茶漬け」と書いてある。

どうやらお茶漬け屋らしい。
 
店名は「ニューヨーク」。

入口には名古屋のローカル番組のステッカーや、掲載された雑誌の記事が所狭しと貼ってある。

地元では結構な有名店なのだろうか?

看板には「揚げ明太子」(油に入れたとき粒々が一斉に破裂しないのだろうか?)とか「フォアグラ」「フカヒレ」と列記してある。

更には「鯛 吉兆」や「瓢亭の朝粥」までも。

ここで京都屈指の老舗料亭の名物が食べられるのか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]17

rj17真清田4T26

真清田神社は鎌倉時代に順徳天皇から篤く崇敬され、多数の舞楽面を御奉納された。

それらは木彫りの技術が最も発達した時期に製作されたもの。

12面が重要文化財、7面が県文化財に指定され、現在でも真清田神社に保存されている。

「真清田神社縁起」によると、中世には大きな神事や仏事の度に舞楽が行われていたとある。

また、天皇即位の祭儀「大嘗祭(だいじょうさい)」など宮中の重要な儀式で奏されていた「久米舞」が、ここで蘇ったという。

建国神話に由来する「久米舞」は古典芸能の粋を現代に伝える貴重な演目なのだが、応仁の乱で断絶して以来、長らく廃絶していた。

江戸期になって真清田神社が保管していた烏帽子(えぼし)箱の中から「久米舞」の譜面が発見された。

それを基に文政元(1818)年11月、仁孝天皇の大嘗祭から再び演奏されることになった。

真清田神社では現在でも毎年4月29日を舞楽神事の日に定めて、数々の演目を奉納している。

徳川八代将軍吉宗の徹底した倹約を旨とする「享保の改革」に、尾張藩主徳川宗春がド派手な施策を打ち出し真っ向から対立するという有名なエピソードがある。

宗春が打ち出した施策の裏側には、真清田神社をはじめ尾張国に脈々と受け継がれてきた歌舞音曲の歴史が重要な役割を果たした側面があったのではなかろうか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]16

rj16真清田4T25

どこのお祭りにも付き物のパレードだが、この「御衣奉献大行列」は神事の色合いが比較的強い様子。

ミス七夕&織物も織姫様の装束を身につけ、パレードのトリとして最後尾を行進する。

ちなみに布地の女神の祭典だけに、布の使用量が少ない水着姿にはオーディションも含めて一切なることはないそうだ。

服織神社から更に東へ向かうと、境内の東端に位置する神池に出る。

室町時代後期の古絵図にも描かれているというから、かれこれこの地に500年も前から存在していることになる。

神池には「開運橋」が架かり、池の真ん中にある中島とを結んでいる。

「開運橋」は平成10(1998)年に完成したもので、中島には末社の八龍神社が鎮座している。

真清田神社には2つの龍神伝説がある。

ひとつは嵯峨天皇の時代、弘法大師が雨乞で大雨を得た際、祈願した龍神が真清田神社の森に鎮まったという伝承。

もうひとつは御祭神が鎮座される際に八頭八龍の大龍が下り、創建当初から境内に龍神が鎮まるとする伝承だ。

龍神は水を司る神だけに、木曽川の恵みで潤ってきた一帯の信仰とは切っても切り離せない存在であり続けたのだろう。

境内を横切って今度は反対側の西端に向かうと、拝殿の左側に神楽殿が建っている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]15

rj15真清田4T24

繊維産業は古くから三河尾張地方の重要な産業。

トヨタ自動車も元をたどれば自動織機の製造会社が原点だったことは砥鹿神社のところで触れた通りだ。

天火明命は農業守護の神であり、母子の両神をセットにすることで衣食の充足の重要性を表現しているのだろうか。

社殿はコンクリート製で味気ない建物だが、中に入ると天井から白布が幾重にも垂れ下がっている。

その空間を一迅の風が吹き抜け、白布がパタパタと音を立てて一斉に揺らめいた。

お出迎えも幻想的で清々しいエロティシズムが漂い、さすが機織守護の女神だけあるとウットリ。

萬幡豊秋津師比賣命は別名「棚機姫神」(たなばたひめのかみ)とも呼ばれている。

読んで字の如く七夕祭りの織姫のことで、一宮市では毎年7月末に「一宮七夕まつり」が行われる。

仙台、平塚と並ぶ「日本三大七夕祭り」を標榜しているが、仙台も平塚も特に繊維産業が地場産業というわけではない。

織姫様を機織りの神様として奉るという意味合いでは、一宮の七夕が最も相応しい祭りかも知れない。

毎年この「一宮七夕まつり」では公募した女性からミス七夕とミス織物が選ばれ、祭りのハイライト「御衣(おんぞ)奉献大行列」に参列する。

「御衣奉献大行列」は特産品の毛織物を真清田神社に奉納する大行列で、その長さは延々500メートルにも及ぶという。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]14

rj14真清田4T23

拝殿の前を離れ、社務所の前から社殿の全体像を眺めてみた。

雨で濡れた拝殿前の敷石に空の青さが映り込み、境内に清々しさを演出している。

拝殿の前にはお宮参りだろうか、幼子を連れた若夫婦が嬉々として写真撮影に勤しむ姿。

それらすべてを含めた真清田神社のランズケープに、日本人にとっての神社の在り方そのものが映し出されているような気がした。

視線を左側に向けると、小さな建物が目に止まった。

摂社末社でも手水舎でもなさそう。

近くに寄って看板を見れば「神水舎」と記されている。

承暦元(1077)年、眼病を患われた白川天皇の夢枕に、八ッ頭八ッ尾の大龍に乗って両手に松と桃の枝を携えた老翁が立たれた。

この夢について白川帝が占わせたところ、その老翁は真清田大神の霊夢であるとの奏申を得た。

さっそく白川帝が真清田神社の井戸水で眼を洗われたところ、たちまち病が癒えたという。

井戸水の中を覗きこむも暗くてよく見えないが、その水は今もコンコンと湧き続けている…はずである。

拝殿の前を横切って境内を東側へ向かい、本殿の右隣に建つ摂社の服織神社(はとりじんじゃ)へ。

社号の如く機織守護の神で、天火明命の母神である萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつりひめのみこと)を祀っている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]13

rj13真清田4T22

御用材は名古屋営林局から払い下げられた木曽檜が充てられ、本殿内の御扉や柱桁などは伊勢神宮から特別に下賜された古材を使用しているそうだ。

戦後の建築物にも関わらず、平成18(2006)年には本殿と渡殿が国の登録有形文化財に指定されている。

再建だからといってコンテンポラリーな様式にするのではなく、失われた往時の姿を丹念に再現したところが評価されたのだろうか。

その拝殿に向かって拝礼し、真清田大神と心を通わせる。

明け方の雨は既に上がり、天候は完全に回復。

頭上には青空が広がり、むしろ暑いぐらいだ。

社伝によると創建は神武天皇33(紀元前627)年。

先述した天火明命は、この地に「尾張」と命名した天香山命(あめのかぐやまのみこと)の父神。

大和国葛城から移住してきた尾張氏は、この一帯を開拓して土着の豪族になった。

天香山命の子孫を名乗っていた尾張氏は、祖神として父神の天火明命を祠った。

それが尾張国の総産土神、真清田神社の起源…とされている。

尾張氏はヤマト王権で軍事や祭祀を統べていた物部氏と深い関係にあった。

このことから、尾張氏が祖先と仰ぐ天火明命もまた、天孫に名を連ねるようになったと言われている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]12

rj12真清田4T20

真清田神社の社殿群は昭和20(1945)年7月28日、第二次世界大戦の空襲で悉く焼失したため、すべて戦後に再建された。

この楼門もまた昭和36(1961)年11月、一宮市民を中心に寄せられた浄財を以って再建されたもの。

焼失した戦前の楼門にも勝るほどの総桧造りで、戦後の木造建築の白眉とされているそうだ。

入ってすぐ左側の手水舎は、その空襲を奇跡的に免れたもの。

水を滔々と流し続ける“吐水龍”は寛永8(1631)年、尾張藩祖徳川義直公が社殿を全面的に修造した際、龍神を祈雨祈晴の象徴として奉納したもの。

それから300年以上が過ぎた平成8(1996)年、経年劣化のため初代は引退。

現在の二代目に跡を譲った。
 
もちろん二代目は初代の忠実なレプリカである。

正面を向くとスクエアな空間の向こう側に社殿群が聳えている。

手前から奥に向かって拝殿→祭文殿→渡殿→本殿の順に並び、それらが連接した「真清田造り」と呼ばれる独特の配列。

棟木(屋根の最高位に取り付けつけられる材木)の向きが、拝殿と渡殿は南北方向、祭文殿と本殿は東西方向と互い違いになっている。

上空から見ると十字の形に建っているはずで、まるでヨーロッパの巨大な教会のよう。

先述の通り社殿は戦災で灰燼に帰し、再興されたのは終戦から10年余りが過ぎた昭和32(1955)年のこと。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]11

rj11真清田4T16

楼門の前には石造りの神橋が架かっている。
 
それにしても橋と呼ぶには小さ過ぎる。

しかも「神橋不可渡」と刻まれた古い石標が立ち、鉄柱に繋がれたチェーンが不心得者の行く手を阻んでいる。

神様が渡るための橋なので、人様は渡ってはならぬのか。

そう思いきや、橋の横に「危険なので渡らないで下さい」との立て看板。

単に上を歩くと崩落する恐れがあるからのようだ。

石標と立て看板の指示に従い、橋の横を通って楼門の前に出る。

正面上部に掲げられた扁額には「真清田大神」と刻まれている。

人間国宝の故・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏が、聖武天皇の御宸筆と伝わる焼失前の旧扁額を模して彫刻したものだ。

扁額には「真清田大神」とあるが、主祭神は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)。

天照大御神の孫神で、本名は「天照国照彦天火明命」(あまてるくにてるひこ~)という。

天を照らし国を照らす天の火の明かり…つまり太陽エネルギーそのもののような名前だ。

全国各地のソーラー発電所は真清田神社の大麻をお祀りすれば、太陽光に不自由することはないかも知れない。

楼門をくぐって境内へ。

楼門といえば朱色が多い中、黒々とした色合いの中に白いアクセントが効いた外観は独特なインパクトがある。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]10

rj10真清田4Tttl

鳥居をくぐって境内に進む。

正月が近いせいか、黒々と「初詣 真清田神社」と墨書された幟が2本、風にそよいでいる。

奥の楼門には白の地に緑色の明朝体で「迎春」と大きく横書きされた横断幕。

さらに鳥居から楼門に向かって、酒の菰樽が2つづつ縦に置かれた形で一直線に並んでいる。

先頭に据えてある酒の銘は「真清田」と「金銀花」。

いずれも地元一宮唯一の蔵元、金銀花酒造の地酒だ。

「真清田」は真清田神社に奉納される御神酒で市販もされている。「金銀花」は酒蔵の看板酒だ。

金銀花酒造は江戸時代の享保年間に創業した老舗。

ここの酒は犬山から一宮へと流れる木曽川の伏流水を用い、女性の杜氏が仕込んでいるそう。

社号「真清田」の由来は、この一帯が木曽川の灌漑用水に恵まれ、その清く澄んだ水で水田を形成していたことから名付けられたと云われている。

真清田神社の御神酒として、尾張産の酒米を木曽川の伏流水で醸した酒ほど相応しいものはない。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]09

rj09真清田4T12

店の種類は古着や小道具を売買する古手屋が最多で、糸売買商、綿屋がそれに次いでいたそうだ。

こうした歴史的な経緯を踏まえて一宮市民から意見を募り、平成15(2003)年に整備されたのが、このちょっとした「宮前三八市広場」。

門前の両脇に衣料品店が軒を連ねているのも、400年も前に生まれた三八市の名残りなのだろう。

だが、そうした“歴史的遺産”といった風情は微塵も感じられず、時の流れに身を委ねて風化していくのを待っているようにも見える。

三八市の名残りではなく、武蔵國一之宮氷川神社で触れた「バラック通り」同様の扱われ方なのか?

そう考えると風前の灯火にも見える、この寂れた仲見世にも自ずと愛着が湧いてくる。

宮前三八市広場のド真ん中に立ち、真清田神社を眺める。

質素な石造りの明神鳥居と堂々とした社号標の向こう側に、黒々とした楼門が聳えている。

社号標の正面に刻字されているのは「真清田神社」の五文字のみ。

揮毫は名古屋生まれの書家、大島君川が数え年68歳の時に記したもの。

大島は愛知県の役人を長らく務め、県内にある碑文の揮毫を多く手掛けてきた。

社号標は昭和4(1929)年7月に倒壊したが翌年8月、篤志家が奉納して再建されたという。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]08

rj08真清田4T14

国道155号線、通称「岐阜街道」を挟んだ向こう側に尾張國一之宮、真清田神社(ますみだじんじゃ)の姿。

門前の手前にはちょっとした広場が広がり、鳥居と社号標は少し奥に引っ込んだところに立っている。

広場の前に立って左右を見渡すと、そこには小さな衣料品店が軒を連ねている。

昔から繊維の街として有名な一宮市の繁栄を今に伝える光景。

だが、この日は残念ながら開けている店が少なかった。

多分、人出の多い正月や祭りの時には全開バリバリなのだろう。

それにしても真清田神社は何故、鳥居をこんなに奥まったところへ建てたのだろうか?

大きな通りに面している神社なら、普通は鳥居を通り際の目立つ場所に建てるものなのに。

同市の博物館によると江戸時代、真清田神社の門前には「三八市」という公認市場が立っていたという。

享保12(1727)年に一宮村民の請願が認められ、最初は小さな物々交換の場として誕生したという三八市。

木曽川の水運に加え、名古屋と岐阜を結ぶ岐阜街道の宿場町という、水陸交通の要衝に位置している利便性が幸いして次第に規模が拡大。

市場開設から約100年後の天保13(1842)年には500以上もの店が軒を連ねるまでになったとか。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]07

rj07真清田4T10

本町通り商店街は真清田神社に近付くにつれ、寂れ具合が高まっていく。

そして、いよいよ終わりが見えてきた。

といっても商店街の命脈が尽きるという意味ではなく、アーケード街の出口が近づいてきたということ。

そして出口の手前で一軒の閉鎖された店舗を見た時、寂れ具合がピークに達した。

正面には「横井百貨店」と記された銘板と、緑地に白字で「YOKOI」と描かれた店名の看板。

だがシャッターで出入口は固く閉ざされ、その上に掲げられた新作発表会の告知看板は朽ち果てて何の新作なのか分からない。まさに“亡骸”だ。

かつては一宮市を代表する老舗デパートだったのだろうが、商圏の郊外化という全国共通の宿痾によって命脈を断たれたに違いない。

こうした老舗デパートの亡骸は全国各地に転がっている。

しかも上屋が残っていると往時には繁盛したであろう姿が忍ばれるだけに切ない。

せめて解体し更地にでもしておいてもらったほうが、まだ切なさを感じずに済むのだが。

横井百貨店を見るまでもなく、やはり全体的に空き店舗が目立ち、シャッター商店街化が進んでいる。

モータリゼーション絶対主義の現代では、商圏の郊外化と中心部の衰退を覆すことは不可能だろう。

もっと観光資源を掘り起こして、クルマを当てにしない商店街作りをしていかないと、本当の意味で本町商店街に終わりが来てしまうのではなかろうか?

そんなことを思いつつ薄暗いアーケード街を抜け、光の差し込む方向へ歩み出る。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]06

rj06真清田4T08

近寄って名称を見ると「一宮市役所西分庁舎」とある。
元は銀行のビルだったという。

正面にはギリシアのパルテノン宮殿にあるようなギザギザで極太の柱が4本ほど立ち並んでいる。

専門用語で「ドーリア式オーダー」というこの様式、確かに戦前に建てられた銀行の建物でよく見かける。

看板の上にはからくり時計が設えてあり、ちょうど13時の鐘が鳴っている。

西分庁舎の裏手には市役所一宮庁舎があり、こちらのデザインもクラシカル。

無味乾燥なデザインの官庁舎が氾濫する今の世の中で、オーセンティックなデザインを貫く姿勢には好感が持てる。

商店街に延々と立ち並ぶ商店や家々は往年の雰囲気を漂わせている。

そんな中、建物そのものは古いのに店構えは妙にイマ風でオシャレなカフェを発見した。

伝統を温めつつ新しいトレンドを取り入れる…まさに温故知新そのもののようなお店である。

繊維産業で栄えた工業都市と宗教都市の両面が融合し、このような形で具現化されたのか?

一体どんな店なのか興味シンシンとばかりに歩み寄り、店頭の黒板を見ると…なんとガールズバー!

温故知新過ぎるだろ! これでは温故知アヴァンギャルドではないか? と、思わずツッコミを入れる。

昼間なので幸いにも(?)営業してなかったが、もし開いてたら迷わず入店していたところだ。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]05

rj05真清田4T04

駅東口から伸びる伝馬通り(県道457号線)を進むとアーケード街との交差点に出た。

本町通り商店街。
フルアーケードで覆われた見事な商店街が真清田神社まで一直線に続いている。

表参道そのものが巨大な商店街なのだ。
さすが「一宮市」を名乗るだけあると感心。

真清田神社を中心に発展してきた町だけにスケールが違う。
本町通り商店街をブラブラしながら門前を目指す。

一宮市のメインストリートのはずだが、ここもご多分に漏れずシャッター通り化が進んでいる。

買い物は自家用車で郊外のショッピングモールへ…という傾向が全国的に普遍化している昨今。

江戸時代以来の歴史を持つ商店街や、旧来の駅前商店街が斜陽化している姿は全国共通。

しかし、こうした古寂びた商店街にこそ侘び寂びの味わいが潜んでいるものだと、個人的には確信している。

例えば途中で見かけた鰻屋の、年季の入った店構え。
店名は「寿司友」なのに、なぜか鰻専門店なのが愛おしい。

愛しさのあまり賞味していこうかと思ったが、時間と御足がないため断腸の思いで諦める。

商店街を先に進むと、右手に石造りのクラシカルな建物が見えてきた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]04

rj04真清田4T31

つまり伊勢神宮を創建した倭姫命から下賜された草薙神剣を祀ったのが熱田神宮の“起源”。

伊勢神宮に準じた御神威が熱田神宮に存在する理由、これで理解できる。

伊勢神宮、実は伊勢國一之宮ではない。
その理由は日本國一之宮だから故。

その伝で言えば熱田神宮は日本國三之宮であり、尾張國一之宮の必要はないという理屈が成り立つ。

日本國の一之宮を皇大神宮(内宮)、二之宮を豊受大神宮(外宮)と仮定すればの話ではあるが。

しかし、これで「なぜ熱田神宮が尾張國三之宮なのか?」という謎が解けたわけではない。

その謎については真清田神社に到着してから、改めて考えてみよう。

「三尾一宮エクスプレス」は12時32分、名鉄一宮駅に到着した。

一宮駅は名鉄のそれと、JRの尾張一宮駅がある。

日本には「一宮」を名乗る駅は幾つかあるが、なかでもここ尾張一宮駅の巨大さは別格。

隣の三河一宮駅と比べれば、華美な尾州と質素な三州の気質の違いが如実に分かるような気もする。

そもそも地方自治体の名称からして「一宮市」。

町村を含めて一宮を名乗る自治体は愛知県一宮市と千葉県一宮町の二つしかない。

以前は全国各地に「一宮町」が幾つも存在していたが、相次ぐ「平成の大合併」で上総の一宮町以外すべて“消滅”してしまった。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]03

rj03真清田4T03

伊勢神宮を出立した日本武尊命は尾張国造の祖先である豪族、尾張氏の家に宿泊した。

その家の娘、宮簀媛命(ミヤズヒメノミコト)と夫婦になる約束を交わした日本武尊命は東国に向けて出発。

無事に平定して尾張氏のもとへ還ってきた日本武尊命は、宮簀媛命と契を交わして晴れて夫婦に。

日本武尊命は次に伊吹山(岐阜と滋賀の県境)の神を征伐するため、宮簀媛命に「草薙神剣」を預けて再び征旅へ。

なぜ「草薙神剣」を預けて出立したのかというと「そんな神など素手で十分」と侮っていたからだとか。

ところがそんな侮蔑が仇となり、伊吹山の神から思わぬ逆襲を喰らってしまう。

ダメージを受けた日本武尊命は美濃から伊勢へと歩を進めるも、足が浮腫んで三重の餅みたいな状態に。

なので、この地方を「三重」と呼ぶのだと「古事記」は記している。

やがて日本武尊命は能煩野(のぼの)という土地にたどり着いた。

現在の三重県亀山市、能褒野王塚古墳があるところ。

嬢子(をとめ)の 床の辺に
我が置きし つるきの太刀 その太刀はや

宮簀媛命と草薙神剣に最後まで思いを馳せた辞世の句を残し、この地で病没してしまう。

日本武尊命の薨去を深く嘆き悲しんだ宮簀媛命は“遺品”の草薙神剣を熱田の地に祀った。
  
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]02

rj02真清田4T01

「三尾一宮エクスプレス」は名古屋の手前で神宮前駅を通過した。

駅名の「神宮」とは、もちろん熱田神宮のこと。

名古屋の熱田神宮、実は尾張国三之宮である。

尾張の一之宮は真清田神社、二之宮は犬山市の大縣神社(おおあがたじんじゃ)。

それがなぜ日本有数の神社である“熱田様”が三之宮で“真清田様”が一之宮なのか?

そもそも熱田神宮とは如何なる神社なのか?

広く知られている通り、熱田神宮のご神体は三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」。

鎮座の由来は古事記中巻「景行天皇」段と、日本書紀巻第七「景行天皇」に記されている。

日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)は第12代景行天皇から命を受け、西方の熊襲を平定した。

ところが凱旋した日本武尊命に景行天皇は間髪入れず、今度は東方の蝦夷を征伐せよと命じる。

命令を嫌々ながらも拝受した日本武尊命、東方へ向かう途中で伊勢神宮に立ち寄り、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)と面会。

号泣しながら「天皇は私を酷使して殺す気か!」と、現代のブラック企業もビックリの悲嘆さを訴えた。

そんな日本武尊命に倭姫命は餞(はなむけ)として一振りの太刀を授けた。

それが「草薙神剣」、別名「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)である。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]01

rj01真清田4T02

豊川稲荷駅を発車した急行電車は名鉄一宮駅へ向けて三河路を順調に疾走している。

朝方まで降っていた雨は止み、空も次第に明るくなってきたように見える。

それにしても三河と尾張の一宮を直結する急行電車を走らせるとは、さすが地元に密着した私鉄だけある。

この急行、まさに「三尾一宮エクスプレス」!
 
…個人的に勝手に命名しただけで、そのような正式名称どこにも付いてないけど。

折角の「三尾一宮エクスプレス」だが、車内は空いている。

それもそのはず、両駅間を乗り通すと2時間半以上もかかるのだ。

国府駅で接続する豊橋からの特急列車に乗り換えれば、もっと早く到着できるのだが。

しかし特急列車は混んでるし、それに乗り換えるのも面倒だったので、この急行電車に乗り通した。

後になって考えると、むしろこちらで正解だったように思える。

余裕の時間と空いた車内のおかげで三河一宮の復習と、尾張一宮について予習できたからだ。

それに下総一宮香取神宮や遠江一宮小國神社では徒歩移動だけでも同じぐらいの時間がかかったのだから、まだマシ。

これまで一之宮から一之宮へ転々とした中で、最も楽な移動だったように思えたほど。

まさに「三尾一宮エクスプレス」サマサマである。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]23

rj23砥鹿t4u023

その昭和30~40年代を彷彿とさせる佇まいは「なつかし青春商店街」の名に恥じない街並み。

参道から横へ入る路地沿いの店々もまた、昭和のノスタルジアを喚起させるような雰囲気。

道の細い町割りは車の往来も少なく、店舗個々の店構えや参道の雰囲気を存分に堪能できた。

豊川稲荷と門前町を30分ほど彷徨し、名鉄豊川稲荷駅へ戻ってきた。

10時55分発の名鉄一宮駅行き急行に乗車する。

砥鹿神社に豊川稲荷と、大きな神社と仏閣の双方に参拝した朝が終わった。

やはり神社より仏閣のほうが、人心の襞の部分へ細やかに入り込んでくる“霊力”が強いように感じる。

神道は山や石や木など自然界に元から存在した物を崇めるところから始まっただけに、積極的に布教する姿勢が薄かったのかも知れない。

一方、仏陀という教祖を崇める“一神教”の仏教は広範に布教する必要性があり、そのために様々な“仕掛け”が仕組まれていた。

先程の「なつかし青春商店街」もまた、こうした“仕掛け”のひとつだったのではなかろうか?

そんな狐につままれた心持ちのまま、豊川の町を後にした。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]22

rj22砥鹿t4u022

総門と山門の途中から左に折れる道を進むと、そこに一の鳥居。

その先に二の鳥居があり、突き当りには堂々とした拝殿が控えている。

参道を奥まで進むと、今まで拝殿だと思っていたこの建物こそ寺院の本堂。

つまり豊川稲荷には右も左もなく、境内すべてが寺院なのだ。

本堂へ続く参道に神社の鳥居が立っているわけで、境内には神仏混淆時代の空気が今なお濃密に漂っている。

新年を控え、本堂は正面に賽銭箱を設置する作業の真っ最中。

投ぜられる小銭を余すことなく吸い込もうと、巨大な投入口の周囲に板が張り巡らされている。

その板のお世話になることなく賽銭の投入に成功し、柏手を打つこともなく手を合わせた。

まだまだ奥には数々の伽藍が立ち並んでいるのだが、ここは本堂への参拝だけに留めて境内を後にする。

境内を後にし、往路とは別の、総門の前から伸びる門前町を通り抜けて駅に向かう。

門の前から一直線に伸びる道には「豊川いなり表参道」「なつかし青春商店街」と掲げられたアーチ。

入り口の両脇には稲荷寿司屋と饅頭屋が店を構え、参道沿いには鰻屋や食堂、喫茶店など古風な商店が立ち並んでいる。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]21

rj21砥鹿t4u021

豊川稲荷前の交差点を右折すると、少し先に総門が姿を現した。

その門前にはボランティアだろうか、白狐のように美しい女性の案内係が待機している。

案内してもらえばよかったが、ここで時間を取られるわけにもいかないので、あえて通り過ぎた。

豊川稲荷は伏見稲荷、祐徳稲荷と並ぶ「日本三大稲荷」のひとつとされている。

しかし豊川稲荷、実は神社ではなく「円福山妙厳寺」という曹洞宗のお寺。

なので神社としての「日本三大稲荷」は伏見稲荷と祐徳稲荷、そこに笠間稲荷が加わっているそうだ。

総門をくぐると先に山門が控え、さらにその奥には法堂が聳立している。

境内の建物は総門も山門も法堂も総じて古く、どれも歴史的な価値のあるものばかり。

しかし、法堂の左隣りに気になる構造物がある。

これは紛うことなき、石造りの立派な明神鳥居。

ハハン、境内の左側には稲荷神社が祀られているのか。

そう思いつつ法堂に向かって手を合わせ、今度は神社のほうへ足を運ぶ。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]20

rj20砥鹿t4u017

道を引き返して交差点を渡り、住宅地を貫く小道を歩くこと10分ほどで三河一宮駅に到着した。

さすが「三河一宮」を名乗るだけあり、ここからだと砥鹿神社は非常に近く感じる。

半日前に来た時は辺りが真っ暗で駅舎や近辺の雰囲気は全く分からなかったが。

白日の下で見ると、砥鹿神社の拝殿を模した風の駅舎からは木造建築特有の落ち着きを感じる。

駅舎の規模としては天浜線遠州一宮駅とさほど変わらないが、遠州は駅務室を蕎麦屋にしていたのに対して三河は無人駅のまま。

そもそも砥鹿神社の周りには茶店や土産物屋など一軒もない。

神聖なる神を糧に商売などやらないという、頑固で実直な三河人気質の現れなのだろうか?

豊橋行き2両編成の電車に乗り、次の豊川駅で下車して名鉄線の豊川稲荷駅へ向かう。

せっかく来たのだから、やっぱり豊川稲荷に参拝しよう…と、乗り換えの途中に思う。

案内標識に従って駅前商店街に歩を向けると、彼方に巨大な宗教建造物が頭をのぞかせている。

そちらの方角に向かうと途中、銀行の店前に団子の屋台が出ている。

1本80円。
メチャクチャ美味そうに見える。

しかし、あれだけの量の朝食を摂った後だけに、さすが腹中に入る隙はない。

また次に来る機会があれば是非とも食べてみたいが、その時まで屋台は存在しているだろうか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]19

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「亀卜」とは弥生時代に端を発する日本

古来の占術で、亀の甲羅や鹿の骨を焼き、罅(ひび)の形で吉凶を予想する神事。

「砥鹿」の「砥」は「ト」、つまり占いのこと。
「鹿」は占いに用いた骨のこと。

この両者を組み合わせたところにも、社名のルーツが潜んでいるのかも知れない。

その看板から駅と逆方向に行くと、末社の「荒羽々気神社(あらはばきじんじゃ)」が鎮座している。

祭神の荒羽々気は大己貴命の荒魂(あらみたま)で、健歩健脚の守護神として信仰されており、東海地方で祀られているのは唯一ここのみ。

「アラハバキ神」といえば一般に東北地方土着の神として知られているが、この「荒羽々気神」も何か関係があるのか? そこまでは分からない。

ただ「健脚の神」として有名なのは確かで、ひいては「交通安全の神」として三河では絶大な信頼が寄せられている。

実際、伊那街道を行き交う三河ナンバーや豊橋ナンバーの多くに、亀卜紋があしらわれた砥鹿神社の交通安全ステッカーが貼ってあるのを見かけた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]18

rj18砥鹿t4u014

本宮山は海抜789メートル。

現在では本宮山スカイラインが整備され、山頂まで自動車で簡単にアクセスできるようになった。

それでも三河一宮駅の隣、長山駅の登山口から徒歩で登拝する人は引きも切らず。

休日ともなると数百人もの登山者がハイキングを楽しんでいるそうだ。

“裏”参道を抜け、伊那街道に出る。

こちらの入り口にも大きな鳥居が聳立し、横には大きな社号標。

鳥居の右足には、こう刻まれている。
 
「本宮山正一位砥鹿大明神」

どう見ても、こちらの入り口のほうが正門に見えるのだが。

伊那街道を東名豊川インター方面へ行くと、三河一宮駅へ向かう道との交差点にぶつかる。

その角に砥鹿神社の大きな立て看板がドライバーの目に止まるように立っている。

看板の上部には独特な形状をした六角形の神紋「亀卜(きぼく)紋」があしらわれている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]17

rj17砥鹿t4u000

やがて、正面に伊奈街道が見えてきた。

出口の少し手前に、本宮山と里宮の由来を記した巨大な案内板が立てられている。

そこに衝撃的事実が記載されていた。

来社の際に最初くぐった門こそ「表神門」であり、目の前にある伊那街道側の入口は側門だという。

つまり、表参道のつもりで社殿の前から遥々と歩いてきた道は、実は裏参道だったということか。

神社にはそれぞれ個性があり、他がそうだからここもそうだと思い込む“標準化”的思考性は、あまり意味がない。

それを砥鹿の神様に教えてもらったようなものだ。

案内図には里宮と奥宮の位置関係も描かれているが、いまひとつ距離感が曖昧になっている。

本宮山は頂上を始め山中至る所に巨大な岩が横たわり、杉の巨木が林立している。

これらは磐座(いわくら)や磐境(いわさか)として崇められ、古神道の信仰形態を今に伝えている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]16

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弓道場を通り過ぎると正面に鳥居が見え、くぐると石灯籠と社号標が立っており、参道は一般道を挟んで更に先へと伸びている。

社号標は細長い円柱状で、よく高速道路などに設置してあるグニャグニャしたシリコン製の棒(正しくは「レックスポール」という)を想起させる。

道を渡って参道を先へ進みながら、続けて「天の羽衣」と三河の繊維産業について考えてみる。

三河に本社を構える世界最大級のグローバル企業トヨタ自動車も、そのルーツを辿れば織物機械の会社に行き着く。

豊田佐吉が大正13(1924)年に完成させた「無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G型)」を製造するため、同15(1926)年に設立した豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)が、そのルーツだ。

昭和8(1933)年9月、同社内に自動車部を開設し、同10(1935)年には織機の製作に用いていた鋳造や機械加工の技術など活かして自動車の製造をスタート。

同12(1937)年、「トヨタ自動車工業株式会社」として独立した。

「天の羽衣」が千数百年もの時を経て、世界の自動車産業を席巻した…と言うのは大袈裟だろうか?

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]15

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大宝律令の制定(701年)で成立した「租庸調」制度で、三河国は調(貢ぎ物)として羅・綾・絹白糸などを納めていたが、特に絹は上質のものとして珍重されていた。

天平勝宝2(750)年の「正倉院文書」には11ヵ国からの貢絹が記録されているが、わざわざ三河国産だけ「白絹布」と記してある。

精白な細糸で織られた「白絹布」は経糸・緯糸の密度が多く、他国産より15%ほど高値で引き取られていたそうだ。

また9世紀の「延喜式」にも三河産の「犬頭白糸」は最上の絹として、絹を治める国の中で納品量が他国の倍以上あったと記録されている。

「犬頭白糸」とは上絲(上質な絹糸)が雪のように白く光沢を帯びていたことから、こう呼ばれていたもの。 

やがて「犬頭白糸」は蔵人所(天皇直属の事務機関)に納められ、天皇の衣服を織るのに用いられるようになった。

このように三河国はヤマト王権にとって「天の羽衣」を作る場所として必要不可欠な地域だったのだ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]14

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まず「天の羽衣」と聞いて思い浮かぶのは世界文化遺産「富士山」の構成資産でもある「三保の松原」だろう。

だが羽衣伝説は日本各地に存在し、特に富士山の専売特許というわけではない。

元来「天の羽衣」とは天皇が即位する際に羽織る着物のことを指す言葉なのだ。

天皇は儀式で「天の羽衣」を着ることによって人間から神へと昇華するわけで、その意味でも羽衣の持つ精神的な存在感は著しく重い。

その「天の羽衣」、実は砥鹿神社近くの神社で作られていると云われている。

だが、その神社の場所は一般に公開されていないので残念ながら良く分からないらしい。

では何故、砥鹿神社と「天の羽衣」の間に密接な関係が生まれたのか?

まず、国津神のドン大己貴命は天津神の天皇家に従属の証として羽衣を贈る役割を担ってきた。

そもそも古代より三河地方は繊維産業が盛んで、それは数多の文献に垣間見える。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]13

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拝殿の正面左隣には摂社「三河えびす社」が鎮座している。

砥鹿神社の拝殿をひとまわりコンパクトにしたような形状で、違いは屋根に千鳥破風の有無ぐらいの、よく似た形状をしている。

御祭神は大己貴命の御子である事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)の二柱。

事代主命の別名は「えびす様」なので、「大黒様」こと大己貴命の隣に並んで祀られている姿はいかにも相応しい。

ただ、一般に「えびす様」が商売の神様として崇められている例に漏れず、ここも三河地方の商売繁盛の中心として信仰されている様子が伺える。

えびす社を離れて伊那街道方面へ。ここにも神門があり、大己貴命に別れを告げて通り抜けた。

その先右手の弓道場を眺めつつ、緑に包まれた参道を歩く。

砥鹿神社、実は「天の羽衣伝説」と密接な関係があるという。

「天の羽衣伝説」とは、天女が天の羽衣を脱いで水浴びしているところ、それを見かけた男が羽衣を隠して我が物にしようと企む。

男の小細工は成功し、天に帰れなくなった天女を嫁にするのだが後に天女は羽衣を見つけ、結局は天へ帰っていく…というお伽話。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]12

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鳳来寺は利修仙人が文武天皇の病を祈祷で快癒させたことから、その御礼として大宝3(703)年に建立されたもの。

鳳来寺山は本宮山から北北東へ約17キロのところに位置しており、公宣卿も鳳来寺山と間違えて本宮山中へ分け入ったのだろうか。

鳳来寺は徳川家康の母・於代の方が参籠し、ここで家康を授ったという伝説のあるところ。

その縁起を知った三代将軍家光は祖父への報恩のため鳳来寺に数多の堂坊を再建、さらには新たに東照宮も設けたほど。

とまあ、このように三河といえば徳川家とは切っても切れない縁のある土地。

それだけに三河国一之宮の砥鹿神社は、もっと徳川家との関係をアピールしてもいいように思えるのだが。

公式ウェブサイトには「江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、また明治4(1871)年には国幣小社に列せられた」とだけあり「徳川」のトの字もない。

ただ、平安時代「従五位下」という最下層だった砥鹿神社の官位が、江戸時代にはトップの「正一位」にまで格上げされているから、決して徳川幕府と仲が悪いわけでもなかったようだ。

明治維新の際に徳川幕府との蜜月関係を断ち切るため、敢えて触れないようになったのだろうか?

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]11

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大宝年間(701-704)、文武天皇の病を鎮めるために草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が勅使として「煙巌山」へ遣わされた。

公宣卿は三河の山中で道に迷うが、そこへ現れた謎の老翁に導かれて無事に祈願を果たし、天皇の病も平癒された。

老翁に礼を尽くすため天皇は再度この地に勅使を使わされる、三河国本茂山へ入った公宣卿は再び老翁と面会を果たす。

老翁は山麓に宮居を定めることを所望し、衣の袖を抜き取って宝川の清流に投じた。

これを追って山を下りた公宣卿は、山麓辰巳の方角の岸辺に滞留していた袖を発見。

そこへ七重の棚を作り七重の注連縄を引き巡らせ、袖を斎(いつ)き祀ったという。そこが今「里宮」のある場所ということになろうか。

以来、砥鹿神社は奥宮と里宮の二所一体で崇敬を集める形式になった。

神号「砥鹿神社」とは大己貴命に由来する「止所の地」と、草鹿砥卿の名が融合したものだろう。

ちなみに「煙巌山」は別名鳳来寺山、徳川将軍家と所縁の深い鳳来寺の山号だ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]10

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そもそも明治維新以前の神仏混交時代は「砥鹿大菩薩」と呼ばれて長く信仰されていた。

その間に主祭神が色々と錯綜し、神名が混乱していたのだろう。

明治維新時の廃仏毀釈で主祭神は大己貴命に統一され、現在に至っているものと思われる。

参拝を終えて顔を上げ、扁額に記された「砥鹿神社」という神号を眺める。

国土開拓のため諸国を巡幸されていた大己貴命は但馬国朝来郡赤淵宮に遷宮された後、さらに東方の三河国へ向かわれた(「但馬続風土記」より)。

やがて大己貴命は本宮山の「本茂山(ほのしげやま)」に留まり、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされた(「砥鹿神社社伝」より)。

これが砥鹿神社創建の由来なのだが、鎮座した正確な時期については不明の由。

だが、本宮山から里宮へ御祭神が鎮まるに至った経緯については、天正2(1574)年の「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」に記録されている。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]09

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拝殿を正面に見て右側に太鼓楼と祓所、さざれ石が配置されている。

木製の太鼓楼は巨大で堂々としている。それ以前に、境内に独立して聳立している太鼓楼そのものを初めて見た。

拝殿の正面に立つ。華美な装飾を排し、質素ながらも剛毅な出で立ちは、三河風土を体現しているかのよう。

砥鹿神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。隣国、遠江國一之宮の小國神社と同じだ。

また、元は本宮山に祀られていた大己貴命を現在の鎮座地である里宮へ遷宮した経緯も同様である。

隣接する三河と遠江の両国で一之宮が似たような歴史を辿っているのは、なかなか興味深い。

ちなみに橘三喜の「一宮巡詣記」には「大己貴 砥鹿大明神 饒速日命四世 大木食神を祀る」と記されているそうだ。

橘は延宝3(1675)年から元禄10(1697)年にかけて全国の一之宮を巡礼している。

この時期は大己貴命と砥鹿大明神が別の神だったのかも知れない。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]08

rj08砥鹿t4u002

やがて家並みが途切れ、木々の緑が濃度を増し、神域の雰囲気が感じられてきたかと思った頃。

前方に鳥居が見えてきた。
三河國一之宮、砥鹿神社の一の鳥居。

豊川駅ではなく豊川IC近くのホテルに宿泊した理由。

それは砥鹿神社まで歩いて10分ほどのところにあるからだ。

鳥居の奥には神門が構えている。
だが、どちらも思っていたほど大きくはない。

しかも楼門をくぐると即境内で、参道が見当たらず、拝殿までの距離がすごぶる短い。

この入口は自動車での参拝者のため、新たに設けられたのかと訝ったほど。

拝殿に向かって、ふと左側を見ると、参道が遙か先まで続き、社域が果てしなく広がっている。

さっき入った神門側は裏門で、こっちの参道の先が実は正門だったか…と少々後悔。

できれば正門から長い参道を抜け、表門から堂々と参拝したかった。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]07

rj07砥鹿t4u001

明けて土曜の朝。
 
目を覚ますと外は生憎の雨模様。

非常に憂鬱な気分の中、食堂でバイキングの朝食を摂る。

ご飯2杯(納豆+海苔)、味噌汁2杯、唐揚げ2個、鶏と馬鈴薯の煮物、焼き鮭、きんぴらごぼう。

クロワッサン2個、丸いパン2個、ブルーベリージャム、サラダ(レタス、キャベツ)、スクランブルエッグ、ハム、パスタ、オレンジジュース2杯、コーヒー、紅茶。

これだけ朝から食べて飲めば、憂鬱な気分が少しだけ晴れたような気もする。

ホテルをチェックアウトし、雨中の住宅街を北へ向かってテクテク歩く。

小糠雨に包まれた住宅街は物音ひとつせず、近くを通る伊奈街道を走る車の音が時折聞こえてくるぐらい。

途中、道を間違えたことに気付いて引き返すと、先ほどまで影も形もなかったバキュームカーが道を塞いでいる。

汚穢を汲み取っている横をすり抜けながら、これは何を暗示しているのか暫し考察。

砥鹿神社は私の体内に宿る穢れを取り除いてくれる予兆? と、都合のいいように解釈してみた。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]06

rj06砥鹿t4u000

昨今ではカップル相手だけでは商売にならず、一人客も取り込もうという魂胆なのだろうか。

考えてれば一人で使うのならベッドは広いし、浴室もユッタリしているし。

狭いビジネスホテルの客室を鑑みれば、朝食込みで4980円なら格安だと言える。

しかしホテルの予約サイトなどにはリストアップされていないから、遠方から事前に予約するのは難しいだろう。

東名高速道の向こう側に出てみると、そこは別世界だった。

コンビニ、回転寿司、牛丼屋、ファミレスと何でもござれ。

こちらのほうが豊川市の中心部に近いのだから、こうした店舗がひしめいているのは当然といえば当然。

よりどりみどりで選ぶうち、24時間営業の定食屋チェーン店へ入ることにした。

ここはファミリー層よりトラック運転手をターゲットにしている様子。

気に入ったおかずをピックアップし、ご飯と味噌汁を注文して最後に会計するという、この手のチェーン店でお馴染みのスタイル。

鰯の煮付プラス小鉢4点、それにご飯と味噌汁で700円強というリーズナブルな値段だった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]05

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ここは地理的に自動車での旅行者を念頭に置いているのが明白で、鉄道旅行者は眼中にない。

それはそうだろう、鉄道旅行者は隣の豊川駅近辺に泊まったほうが宿の数も多く便利に決まっている。

しかし一之宮巡礼者としては、どうしてもここに宿泊しなければならない理由があったのだ。

ホテルにチェックインし部屋で一服しつつ、改めて考える。

ホテル内の食堂は営業しておらず、食事は外へ行くしかない。

とはいえ、この近辺に目ぼしい店舗が皆無なのは駅からの道すがら見てきた通り。

それでも何かしらあるかと思い、三河一宮駅とは逆方向の豊川IC方面へ足を向けてみた。

インターチェンジを迂回する歩道をグルリと歩いていると、西洋の御城みたいなラブホテルが登場。

インターチェンジにラブホテルは付き物だが、ここは「ビジネス宿泊プラン」という看板をデカデカと掲げている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]04

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豊橋と新城の間は電車の本数が比較的多いほうなのだが、それを含めても30分に1本の割合。

それに東海道線事故の影響か、飯田線のホームには結構な数の乗客が待たされている。

寒風吹きすさぶ中を耐え忍ぶうち、ようやく姿を表した20時41分発の水窪行き普通列車に乗車。

漆黒の闇に塗りつぶされた車窓をあてもなく眺め続けているうち、20時59分三河一宮駅に到着。

駅を出ると周辺には目立った商業施設が何も見当たらず、電車を降りても闇のまま。

商店のネオンサインなども当然なく、薄暗く細い道を国道へ向かってトボトボと歩く。

伊那街道(国道151号線)と合流しても食べ物屋はおろかコンビニすら1軒もない。

ただひたすら国道沿いを歩くうち、目の前に巨大な構造物が姿を現した。

東名高速道豊川インターチェンジ(IC)。

今宵の宿は、その手前にあるロードサイドホテルである。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]03

rj03砥鹿t4u000

昼は立食そば屋として営業しているが、夜は一杯飲み屋に変身するようだ。

ここで生ビールと板わさを注文すると、お通しに山葵の茎の漬け物が出てきた。

さすが静岡名産! と感心しつつ、生ビールをおかわりし、〆て千円強と理想的な金額。

しかも十分に時間も潰せて言うことなく、なんて素敵な店なのかと改めて調べたところ。

実は大手外食うどん会社のブランドショップで、東京にも支店が何軒もあった。

地元浜松の店でなかったのは残念だが、手頃なことは手頃。

今度、東京でも似たようなケースがあれば利用してみたいと思う。

いい心持ちで店を出、駅へ戻ると東海道線は復旧していたが、ダイヤは大幅に乱れたまま。

取り敢えず来た電車に乗り、豊橋駅で飯田線に乗り換え。

飯田線のダイヤは乱れていないものの、電車の本数そのものが少ない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]02

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「事故のため東海道線下り方面は全面的にストップしております」

おまけに「運転再開の見通しは立っておりません」とのこと。

好況だからでも何でもなく、単に事故の影響で人が溢れていただけだった。

しかし復旧すれば再度お知らせすると言っているので、それほど酷い事故ではなさそう。

だが、いつになるか分からない運転再開を、ここでボーッと待っているのもツマラナイ。

そこで駅前に出、一杯やれそうな店を色々と物色してみる。
 
腰を据えて飲みたいわけでもなく、ちょっと暇を潰せればそれでいい。

希望としては立ち飲み屋、若しくはカウンター主体の居酒屋、この際なので蕎麦屋でもいい。

しかし目に付くのは全国各地どこででも見かける全国チェーンの居酒屋ばかり。

ちょい飲みできる店、何処かにないものかと駅の隣のビルに入ったら一軒の蕎麦屋を発見。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]01

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天浜線西鹿島駅は、帰宅ラッシュの時間ド真ん中とあって通勤通学客でごった返している。

天浜線と遠州鉄道(遠鉄)線の各ホームと駅舎を結ぶ地下道も人の波。
そこを掻き分けて遠鉄線の電車に乗り込む。

結構な数の乗客は途中駅に着いても減ることはなく、終着駅の新浜松に到着するまで混雑したまま。

遠鉄線に初めて乗ったものの、既に日が落ちていたこともあって、沿線風景は何一つ記憶に残らないまま下車した。

JR浜松駅へ向かう道すがら、クリスマスを前に駅も周辺の繁華街もきらびやかにデコレーションされている。

まだまだ不況だなんだといっても金はあるところにゃあるもんだと感心しつつ、浜松駅に到着。

豊橋行き普通電車に乗るため中に入ると、構内が異様にごった返している。

さすが三連休の前だけあるなぁと関心したが、それにしては人が多すぎる。

そこにアナウンスが聞こえてきた。

[旅行日:2012年12月21日]
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