国府の近くから参拝する順に番号を割り振っていったので、最も近い真清田神社が一之宮。
次いで犬山の大懸神社、そして熱田神宮という順で番号が割り振られた…と考えるのが最も合理的だろう。
そもそも熱田神宮が“神宮”になったのは明治維新の神仏分離令以降、それまでは熱田“神社”だった。
尾張国府が築かれた当時、ひょっとしたら国司側には真清田神社と熱田神社の間に現在ほどの宗教的“格差”意識などなかったのかも知れない。
しかし三種の神器“草薙剣”を祀る熱田神社のプライドは高く、それに辟易した国司サイドが三之宮に留め置いた…ということも考えられる。
神々の世界にしては妙に人間臭い話だが、こちらの説のほうが物語としては面白い。
江戸時代に東海道五十三次で門前に宿場町“宮”が整備されたおかげで、その名が旅人達によって全国的に喧伝された熱田様。
一方、尾張の首府が名古屋に移った後も、尾張発祥の地に足を着けて一帯の守護神を務め続けた真清田様。
両者の関係性に諸説あろうとも、尾張国だけに限れば、やはり筆頭の神社は真清田神社にこそ相応しいのではないか?
後ろを振り返り、本町商店街のアーケード街を眺めているうち、そんなことが頭に浮かんできた。