その後を受けたのは上田利治ヘッドコーチ。
上田阪急が初めて日本シリーズに出場したのは昭和50(1975)年、相手は初出場の広島東洋カープ。
広島は上田の古巣で、根本陸夫監督(当時)と衝突した挙句に退団した“因縁”の相手でもある。
ちなみに宿敵巨人は監督が川上から長嶋茂雄に代わった1年目で、球団史上初の最下位に沈んだ年でもある。
この年、阪急は広島に1勝も許さず、4勝2分で初の日本一に輝いた。
上田阪急は昭和53(1978)年までパ・リーグを4年連続で制覇。
しかも昭和51~52年の日本シリーズは長嶋巨人相手に2連覇を達成し、かつて何度立ち向かっても歯が立たなかった恥辱をようやく濯ぐことができた。
昭和53年の日本シリーズは、これまたセ・リーグで初優勝した広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズが相手。
上田阪急が戦った4度の日本シリーズの対戦相手は2回が巨人、2回が初出場のチームだったことになる。
ちなみにこの年の日本シリーズ、セ・リーグ側の球場はヤクルトの本拠地神宮ではなく、後楽園を間借りして行われた。
当時の神宮球場はプロ野球より東京六大学野球のスケジュールが優先。
平日の昼間に開催される日本シリーズは大学野球の試合とバッティングしたため、プロのほうが身を引かざるを得なかったのだ。
第7戦、ヤクルト大杉勝男選手が放ったレフトポール際のホームラン判定を巡って上田監督が1時間19分にも及ぶ猛抗議。
結局このゲームを落とした阪急が3勝4敗で惜敗し、上田阪急が初めて一敗地に塗れた日本シリーズとなった。
上田監督は猛抗議の責任を取って勇退するも、3年後の昭和56(1981)年に再び復帰。
その後、球団がオリックスに譲渡された後の平成2(1990)まで10年間にわたって監督を務めた。
その間パ・リーグで優勝したのは昭和59(1984)年の1度きりだが、一方で2位が5度もあり決して弱いチームではない。
1980年代は西武ライオンズの黄金時代で、その牙城を阪急が切り崩すことができなかっただけの話である。
ただ、予算をかけて戦力を補強しても2位止まりなうえ、観客動員数が激増するわけでもない。
阪急電鉄がブレーブスを手放そうと判断しても不思議ではなかったように思える。
昭和59年、上田阪急が日本シリーズで最後に戦った相手もまた、広島カープだった。
上田監督と広島の古葉竹識監督は同学年で、しかも広島時代のチームメイトと、なかなか因縁めいたものがある。
結局この年の日本シリーズは広島が4勝3敗で阪急を下し、古葉監督が昭和50年の雪辱を果たすことに。
平成3(1991)年、本拠地が西宮球場からグリーンスタジアム神戸に移転し、チーム名もブレーブスからブルーウェーブに代わったのを機に、上田監督はオリックスから身を引く。
その後、日本ハムファイターズの監督に就任するが、日本シリーズはおろかパ・リーグで優勝することもなく。
21世紀を目前に控えた1999年のオフを以ってプロ野球の現場から身を引いている。
[旅行日:2014年6月23日]