大阪後R031

改めて彫像「白球の夢」を眺めてみる。
 
作家は大阪出身の彫刻家、玉野勢三氏。

他の作品には、南海本線堺駅西口前に立つ与謝野晶子像などがある。

台座の上には藤井寺球場を模した円盤が乗り、横には大阪近鉄時代の「Buffaloes」のロゴが刻まれている。

円盤上には野球のボールが乗り、両手で頬杖をついた少年が膝をそろえて腰掛けている。

野球帽をかぶっているが、靴は履いておらず裸足だ。

台座前面のホームベース型銘板には「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005」と刻まれている。

近鉄は結成当初から藤井寺に本拠地を置いていたが、実は大きな問題を抱えていた。

甲子園球場と違って周囲に民家が立て込んでおり、反対運動のため長らくナイター設備を設置できなかったのだ。

このため大阪市内の日生球場で試合を主催していたことは「キャッスル&ボールパーク④大阪編・前」でも触れた通り。

近鉄は昭和24(1949)年に誕生してから平成16(2004)年に消滅するまでの55年間で4回優勝している。

初優勝は球団創設から30年目の昭和54(1979)年。

昭和49(1974)年に就任した名将西本幸雄監督が、5年かけてチームを育て上げた成果だった。

「キャッスル&ボールパーク③西宮編」で述べた通り、西本監督はパ・リーグのお荷物球団だった阪急ブレーブスを鍛え上げ、常勝球団に変貌させた闘将。

それと同じことを近鉄球団でもやってのけたのである。

バファローズは翌55(1980)年も優勝し、2連覇を果たした。

日本シリーズの相手は奇しくも両年とも広島東洋カープ。

だが、いずれも日本一の座を逃したことは「キャッスル&ボールパーク②広島編」で触れた。

日本シリーズの近鉄主催試合は両年とも藤井寺球場ではなく、大阪球場で開催された。

理由はナイター設備がなかったためで、近鉄は南海電鉄から大阪球場を借り受けたのだ。

昭和54年の日本シリーズで、今も語り草になっている「江夏の21球」。

これもまた藤井寺球場ではなく、大阪球場での出来事である。

西本監督は近鉄時代2度の日本シリーズを制することが叶わなかった。

大毎時代1度、阪急時代5度の日本シリーズと合わせ、通算20年に及ぶ監督人生で日本シリーズを8度戦い、一度も日本一になれなかった。

“悲運の闘将”と呼ばれる所以である。

[旅行日:2014年6月23日]