そして紀州路熊野から吉野を抜け、日輪を背負って大和国へ進むことを決意。
この時、作戦の成功を祈願して祀られたのが霊地神津嶽の二神だったわけだ。
東征軍は盾をズラリと並べて雄叫びを挙げつつ、敵に悟られないよう撤退していった。
そこで、この地が「盾津」と呼ばれるようになったとある。
現在この地名は存在しないが、日下町の西側に「盾津」を冠した中学校が2校ある。
この「盾津」神話に基づいた校名なのだろうか?
ただ日本書紀や古事記に記載されている地名が、現在ある地名に直結しているとは毛頭思ってはいないが。
二ノ鳥居を出て右手の方角を見れば奥に大きな鳥居が立っている。
昭和15(1940)年、皇紀2600年を記念して新築された石鳥居だ。
皇紀とは神武天皇が即位した年を基準とした日本独自の暦。
鳥居自体は何の変哲もないごく普通の明神鳥居なのだが。
枚岡神社と神武天皇の関わりを考えると存在の重さが伝わってくる。
石段を降りて注連縄掛柱の間を通ると目の前に近鉄枚岡駅がある。
これまで訪れた中で駅から最も近い一之宮なのは間違いない。
周囲は市街地化が進んでいるが、社域は侵食されることなく昔ながらの姿を留めている。
背後に広がる生駒山という自然と、眼前に広がる大阪のベッドタウン。
その端間で息づく太古からの神域。
この先、生駒山が都市化に侵食されていっても、枚岡神社は今の姿を保ち続けて欲しい。
そんなことを祈りつつ難波行きの近鉄電車に乗り込んだ。
[旅行日:2014年3月18日]