ようやくナイター設備が完成したのは昭和59(1984)年、工事着工から10年後のことだった。
ナイター設備完成以前の藤井寺球場は、鉄塔は完成しているものの上部に照明設備が乗っかってない状態が長く続いた。
現在、西武ドームに行くと外周に西武ライオンズ球場時代に使用されていた照明灯の支柱だけが残されている。
その姿は、どこか藤井寺の鉄塔を彷彿とさせる。決して似ているわけではないのだが。
出番が来る日を長らく待ち続けた照明灯と、役目を終えて放置された照明灯。
両者の存在意義は全く逆にもかかわらず、どこか「もののあはれ」的な相通じるものを感じる。
近鉄3度目のパ・リーグ優勝は平成元(1989)年。
仰木彬監督がエース阿波野秀幸を駆使し、オリックス・ブレーブスと西武ライオンズとのデットヒートを制してのもの。
藤井寺球場にナイター施設は既に完備済み。
今度は堂々と日本シリーズを開催できることになった。
対戦相手は日本一の座に過去16回も就いている巨人。
一方の近鉄は12球団の中で過去1度も日本一になったのことのないチーム。
ところが近鉄は一気に3連勝し、あと1勝すれば悲願の日本一というところまで漕ぎ着ける。
第3戦で先発した近鉄の加藤哲郎投手は試合後のインタビューで「シーズン中のほうがキツかった」とコメント。
さらに記者からの「ロッテのほうが怖かったですか?」という質問に「まぁそうですね」と返答したという。
加藤本人にしてみれば単なる相槌程度のもので、適当に答えただけだったのだろうが。
このやりとりが翌朝のスポーツ紙には、こう姿を変えて出現した。
「巨人はロッテより弱い」
この年のロッテはパ・リーグで最下位に沈んだチーム。
それより弱いと言われた巨人が発奮しないわけがない。
土俵際まで追い詰められていた巨人は一気に近鉄を押し戻し、星を3勝3敗の五分に戻す。
そして雌雄を決する第7戦の舞台は、藤井寺球場。
近鉄の先発投手もまた、世間から“舌禍事件”の首謀者と目されている加藤哲郎投手だった。
近鉄はリードする巨人に一度も追いつくこと無く5対8というスコアで敗戦。
一度は掴みかけた初の日本一が、指の間から砂のようにサラサラとこぼれ落ちていった。
80年近い歴史を誇る藤井寺球場で行われた日本シリーズは結局、この1回きりに終わった。
[旅行日:2014年6月23日]