巡礼

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]03

諏訪上前007*

「空飛ぶ泥舟」から緩やかな坂道を下っていくと、右手に大祝(おおほうり)諏方家の墓所があった。

北斗神社のところでも少し触れたが、大祝とは諏訪上社五神官の筆頭。

建御名方神の末裔であり、その依り代(よりしろ=神霊が宿る対象物)にして現人神(あらひとがみ=生き神様)として諏訪明神の頂点に位置していた。

往時、穢れがないという理由から多くは幼童、それも8歳くらいの男児が選ばれていた。

一年間その身体を神に捧げ、神を降ろし託宣することで諏訪地方の祭事を取り仕切っていたという。

生き神様を祀る信仰が存在し続けた諏訪社は全国的にも珍しい存在だったそうだ。

上社の大祝は「諏方(すわ)氏」を名乗り、古代から明治維新後に神官の世襲制度が廃止されるまで続く。

諏方氏は鎌倉時代に幕府の御家人となり、戦国時代には諏訪郡一帯に勢力をふるうなど領主として政治権力を掌握。

慶長6(1601)年には武家と社家が分立し「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」として完全に政教分離。

前者は「諏訪高島藩」3万石に封じられ、そのまま明治に至り子爵に列している。

一方の大祝諏方家は最後の当主が平成14(2002)年に逝去、断絶してしまった。

ただ、大祝諏方家が居住していた邸宅は諏訪市が整備・保存し、一般に公開されている。

場所はここから北へ直線距離で500mほど、中央自動車道諏訪ICの近くにあるそうだ。

さらに坂道を下り続けると、その先にまたまた珍妙な建造物が姿を現わした。

「神長官守矢史料館(じんちょうかんもりやしりょうかん)」。

ここもまた「空飛ぶ泥舟」と同じ藤森先生の手によるもので、しかも初めて設計した建築物という。

諏訪上前008*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]02

諏訪上前004*

古い民家の塀に、石碑が埋め込まれるかのように立っている。

いかにも歴史ある街道という雰囲気が何とも心地よい。

また、片隅で何気なく佇む小さな石碑もキチンと御柱で囲まれている。

諏訪にとって御柱とは単なる観光資源ではなく、街角の隅々に息づく宗教的な風習だと感じ入る。

諏訪上前005*

穏やかな坂道をユルユル登っていくと、前方で宙に浮いている奇妙な物体が見えた。

農家が立てた害鳥避けかとも思ったが、それにしては形状が珍妙過ぎる。

手持ちの資料で調べたところ「空飛ぶ泥舟」という茶室だった。

茅野市出身の建築家、藤森照信の設計によるもの。

藤森先生といえば70年代に「東京建築探偵団」を結成し、今も東京などに数多く残る店舗兼住宅の様式を「看板建築」と命名。

また、80年代には「路上観察学会」を結成するなど、都市のフィールドワーカーとして名を馳せていた。

諏訪上前006*

「空飛ぶ泥舟」は平成23(2011)年、茅野市美術館で開催された「藤森照信展」に展示された後、ここへ移築された。

なお藤森先生が個人的に所有しているため、イベント等を除き内部へ立ち入ることはできない。

その下に立って茶室を仰ぎ見つつ「もしこれが織田信長の時代にあったら…」と空想してみる。

好奇心旺盛で茶の湯好きの信長が武田家討伐のため諏訪入りした折、天空に浮く茶室があると耳にすれば見に来ないはずはない。

一目見た信長は「これは面妖な!」と感嘆し、安土城へと持ち帰り、諸客の接待に用いて悦に入っていたかも知れない。

そんな他愛ない空想を掻き立てられるほど「空飛ぶ泥舟」にはキテレツな魅力を感じるのだ。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]01

諏訪上前001*

上社本宮の東参道側入り口から東に向かって約200mほどのところに大鳥居が聳立している。

かつて南西側には大規模な神宮寺が広がり、数々の仏教建築が林立していた。

その寺域をも含めてこそ上社本宮の境内地だと、この鳥居は今に伝えているのかも知れない。

そういえば参道の入り口から大鳥居まで沿道には食事処や蕎麦屋、茶店などが立ち並んでいた。

しかし平日の昼間、しかも小糠雨がパラつく悪天候とあって開いている店は少ない。

諏訪上前002*

大鳥居の目と鼻の先に木造のシンプルな神明鳥居が立っている。
その先には天空へ向かって果てしなく続くとも知れない石段。

ここは「北斗神社」という神社。
鳥居の前に案内板があったので読んでみる。

祭主の禰宣太夫(ねぎだゆう)は諏訪神社上社にある五神官(大祝・神長官・禰宣太夫・権祝・擬祝・副祝)のひとつで、代々小出氏が務めてきた。

祭神は天御中主命[アメノミナカヌシノミコト]。

古事記の冒頭、高天原(たかまがはら)へ最初に現れた造化三神の一柱で、高御産巣日[タカミムスヒ]神、神産巣日[カミムスヒ]神とともに宇宙最高神とされている。

ただ、この200段にも及ぶ石段を前にすると本殿へ参拝する気概も萎んでしまった。

諏訪上前003*

古参道を歩き続けるうち県道16号と合流、その先に「旧杖突峠入口道標」が立っている。

杖突峠は南アルプスの北端に位置し、諏訪側のフォッサマグナ地帯と伊那谷を結ぶ古い街道の通り道。

江戸の昔は茅野を通る甲州街道と伊那谷を結ぶ重要な峠道だったそう。
しかし現在では国道152号線がアッという間に運んでくれる。

この入口から峠の方角へ向かってみた。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]34

022

かつて、このあたりに下り仁王門があった。

仁王門に向かって左側に執行坊、その左隣に大坊が立っていたという。

神宮寺は明治政府の神仏分離令により悉く破却。

法華寺も廃寺となったが、建物は明治5(1872)年に神宮寺学校の校舎として活用。

大正5(1916)年に統合中洲小学校が開校するまで、約50年にわたって初等教育の務めを果たしていた。

法華寺だけが破却されず現存しているのは、こうした歴史があったわけだ。

023

入り口近辺に「神苑 周辺案内図」の看板が立っている。

平成14(2002)年、諏訪市の「おらほのまちづくり事業」で、一帯が「神宮寺神苑」として整備された。

しかし、整備されたのは階段に向かって右側部分だけで、神宮寺本坊などが立っていた左側部分には及んでいない。

諏訪神宮寺が明治維新で破却されるまでの往時の姿が分かるような、そんな整備も期待したいと思う。

再び東参道へ戻ってきた。

前宮へ続く道の先に上社本宮の大鳥居が立っている。

その先に待つ上社前宮へ向かうとしよう。

024
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]33

018

五本杉の間をすり抜けると、山上に向かい細い道が続いている。

先には「信玄公墓碑」の看板があり、その横に風雨で削られた幾つかの小さな石碑。

右側が「武田信玄碑」、左側が「坂上田村麻呂碑」と読める。

武田信玄は諏訪大明神への帰依が篤く、その亡骸は諏訪湖の底に沈められたとの伝説があるほど。

神宮寺に墓碑があっても、なんら不思議ではない。

ただ、吉良義周公のそれとは異なり、あくまでも「墓碑」なのだろうか?

それとも分骨されて諏訪神宮寺に納められたのだろうか?

020

墓碑を後にし、東参道へ向かって伸びる階段を下る。

途中、庚申塚と石灯籠が立ち、その裏手に空き地が広がっている。

この場所には、かつて上社神宮寺の伽藍が広がっていた。

社伝によると神宮寺は空海が創建したと伝わっている。

先出の法華寺に加え、大坊(神宮寺大坊)、上ノ坊(如法院)、下ノ坊(蓮池院)の上社四ケ寺と数多くの坊が軒を連ね、それらを総括するものとして大坊が重きをなしていた由。

大坊は諏訪藩主が上社を参詣する際に必ず立ち寄る場所として、本堂も庫裏も最も大きかった。

御柱祭の折には藩主のために、最も見通しのよい大坊前の石垣上に畳敷の桟敷を設営。

その際は見苦しくないよう、向かい側の民家をサワラ垣で隠したそうだ。

021
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]32

015

鐘楼跡に隣接して普賢堂の跡が広がっている。
諏訪大社上社本宮の神宮寺には本地仏である普賢菩薩が祀られていた。

その中心に立つ普賢堂は本地堂、御堂と呼ばれ、弘法大師空海の建立と伝わっている。
それで空海の手形が残る「人力手石」があったわけだ。

諏訪氏の支族で下伊那郡神之峯城主の知久敦幸が正応五(1292)年に再建。
東大寺の工匠、藤原肥前守の手による九間×六間半(16m×12m)の単層の建築物だったそう。

ここもまた明治政府の廃仏毀釈で破却されたが、本尊は諏訪市内の仏法寺に現存している。

016

普賢堂跡に苔むした六角形の石がある。
これは、かつてここに立っていた銅灯篭の礎石なのだそうだ。

普賢堂跡の南側に杉が4本、一列になって並んでいる。
諏訪市の天然記念物「五本杉」。

この木の下に弘法大師が宝を埋めたという伝説があるそう。
5本あった杉のうち一本が落雷により損傷し、現存しているのは4本なのだ。

017
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]31

時の世論は「赤穂浪士アッパレ!」という風潮だったらしく、幕府も義周をお咎めなしのまま見過ごせなかったのかも知れない。

義周は高島藩四代藩主の諏訪安芸守忠虎へお預けの身となり、高島藩が江戸幕府からの罪人を預かる高島城南之丸に幽閉された。

諏訪藩の義周に対する処遇は丁寧かつ儀礼を尽くしたものだったと伝わっている。
しかし配流から3年後の宝永3(1706)年1月20日、義周は22歳の若さで病死。

幕府による検死の後、同年2月4日に法華寺の裏手、この場所に埋葬された。
家来たちは供養料として金3両を同寺に託して諏訪を去ったという。

赤穂浪士への怨嗟か? 大目付への恨み節か? 諏訪藩への感謝か?
諏訪湖を一望する高台に立つ自然石の墓碑は黙して何も語らない。

坂を下り、法華寺と反対側へ続く道を進む。

この奥には神宮寺の跡が広がっている。
まず最初に広がるのは五重塔が立っていた跡地。

012

8世紀ごろ、全国各地の神社に宮寺として神護寺や神宮寺が創建された。

その創建理論は「救われない神の世界を仏法により救済する」こと。
つまり天皇を頂点とする神道が仏教に救いを求めたことに由来するわけだ。

建立されたのは延慶元(1308)年、下伊那に勢力を持つ知久敦信の手によるもの。
礎石からの高さが十六間一尺四分五寸(29.53m)あったという。

明治政府の廃仏毀釈により五重塔をはじめ神宮寺の伽藍は悉く破却された。

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五重塔跡の先に鐘楼跡の広場。
この鐘楼もまた知久敦信が寄進したものだ。

大梵鐘には永仁5(1297)年9月の銘があった。
鐘楼の高さは1.5m、周囲4m、口径1.27m、厚さ15cm。

上野国の住人江上入道の作で、その音は遠く塩尻峠まで聞こえたという。

[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]30

010

本堂の横から裏手へグルリと回り込み、坂を登りながらツラツラ考えてみる。

現代でもノンフィクションを色々と脚色してフィクションに仕立て上げる手法はある。
だが、それを〝捏造〟とはいわない、あくまでも〝作り話〟だから。

ならば、たとえ信長が光秀の頭を寺の欄干に打ちすえた話が事実であったとしても、それを光秀が逆恨みして本能寺の信長を襲撃したという部分は川角三郎右衛門の創作ではないか?

なぜなら川角はもちろん他の誰も光秀の本意を確認していない、専門的に言えば「裏を取っていない」からだ。

今から500年近くも前の話だし、それをフィクションだノンフィクションだと騒いだところで詮無い話。

問題は、史実とフィクションをゴチャ混ぜにして区別できていない日本史の状況にあるのではないか?

ドラマや映画などで「川角フィクション」を幾度も再現することで、見る側にフィクションが史実として刷り込まれ、いつしか歴史的事実になっていく。

幸い昨今では、この川角〝怨恨説〟を作り話だとする認識が広まっているようだ。

011

本堂の裏手には先出の吉良義周[よしちか]公の墓が佇んでいる。

吉良左兵衛義周は米沢藩上杉綱憲の次男で、祖父の吉良上野介義央の養子となり、元禄14(1701)年に吉良家を継いだ。

元禄15(1702)年12月14日に赤穂浪士の吉良邸討ち入り、俗に言う「忠臣蔵」に遭遇。

吉良上野介義央は成敗されたものの、幸いにも義周は手傷を負うに止まった。

翌年、評定所から呼び出された義周に待っていたのは、領地没収と身分剥奪。

生き残ったのは赤穂浪士との戦いの最中に負傷し、気絶したおかげ。

ところが大目付は、義周が「死んだふり」をして義央を守らなかったとして「仕方不届」を咎めたのだ。

[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]29

008

創建から更に時代を下ること約750年後の天正10(1582)年3月。
長篠の戦いに敗れて勢力が衰えた武田家を追討すべく、織田家が信濃国に侵攻。

信長の嫡男信忠が諏訪に入り、武田家の拠点となっていた諏訪大明神を焼き討ちし、唯一焼け残った法華寺に本陣を置いた。

追って諏訪入りした信長は3月19日から4月2日まで14日間滞在し、武田家滅亡に対する論功行賞を実施。

「我々も苦労した甲斐がありましたな」
そう宴席で洩らした光秀に信長が大激怒。

「貴様如きに何の働きがあったか! このキンカ頭めが!」
そう叫びながら信長は光秀の頭を寺の欄干に何度も何度も打ちすえたという。

その仕打ちを深く恨んだ光秀は2ヶ月後の6月2日払暁、突如反旗を翻し京都本能寺にて信長を謀殺…というのが歴史上の定説になっている。

(そうか、あの出来事はここで起こったことだったのか…)

過去に映画やドラマで幾度となく演じられてきただけに場面そのものは有名。
だが、ここ諏訪に来るまでてっきり安土城か京都で起こった出来事だとばかり思い込んでいた。

しかし光秀の末裔を称する明智憲三郎氏によると、このエピソードは本能寺の変から40年後に豊臣秀吉の家臣の家臣に過ぎない川角(かわすみ)三郎右衛門が又聞きや覚書をもとに記した『川角太閤記』にあり、真贋の程は定かではないという。

確かに事件の当事者たる信長も光秀も既に亡く、その場にいなかった秀吉の陪臣が40年も過ぎてから、しかも伝聞を集めて書き記したエピソード。

そこには真実を後世に残そうという意識より、史実を読み物として面白おかしく脚色しようとする意識が優先しても不思議ではない。

009
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]28

004

坂をユルユル登っていくと、奥に朱塗りの山門が姿を現した。
往時は途中あたりに上りの仁王門が立っていたという。

法華寺といいながら宗派は日蓮宗ではなく禅宗。
正式名称は「臨済宗鷲峯山法華禅寺」。

創建は弘仁6(815)年、かの伝教大師最澄が開山した由。
最澄といえば比叡山延暦寺の開祖。

最初は法華系である天台宗の寺院だったことから「法華寺」と命名された…ものと思われる(なんせ1200年も前の話だけに推測)。

時は下って鎌倉時代、宗僧の蘭渓道隆が執権北条時頼の帰依を得て禅宗が流行。

諏訪社の大祝[おおほうり]を退位し鎌倉幕府に武士として仕えた諏方盛重が道隆を招き、法華寺を禅宗に改めたという。


006

山門をくぐって境内へ。

何の変哲もない、どこにでもあるような本堂が立っている。
それもそのはず、現在の本堂、実は最近になって新築されたものだ。

元の本堂は明和2(1765)〜4(1767)年、高島藩御用宮大工の伊藤儀左衛門によって建てられた大隅流の代表的建築。

伊藤儀左衛門といえば諏訪大社下社春宮の幣拝殿と左右片拝殿を、弟の村田長左衛門矩重[ともしげ]とともに建立したことでも知られる。

扇垂木の一重軒で内陣は格天井(ごうてんじょう)、その下は見事な鏡板になっていたという。

しかし平成11(1999)年7月27日未明、放火により本堂と庫裏が残念ながら消失。
平成17(2005)年5月、本堂と庫裏ともに再建なり現在の姿となった。

本堂の前に立ち、賽銭を投じ手を合わせる。
かつて、ここで日本史を揺るがすような事件があったことを匂わせる縁など微塵もない。

007
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]27

001

残る最後の宮、諏訪大社上社前宮へ向かうため、再び上社本宮の東参道へ。
正面に伸びる鎌倉西街道を進めば上社前宮にたどり着くだろう。

だが、その前に右へと続く緩やかな坂を登る。
すぐ目の前に小さな祠があり、その前に看板が立っている。

吉良上野介義央養嗣子(孫)
吉良左兵衛義周公ここに眠る。
吉良町

002

吉良上野介といえば「忠臣蔵」の仇役としておなじみ、日本史上指折りの悪役。
その孫、義周[よしちか]がここに葬られている。

しかも吉良家発祥の地、愛知県吉良町(現・西尾市)の建立。
だが、実際の墓地はここではない。

もっと山の上、奥深いところに義周は眠っている。
それにしてもなぜ、郷里から遠く離れたここに葬られているのか?
その理由は追い追い触れていくことにしよう。

祠の横には大きな案内図。
かつて現在地から東南一帯には神宮寺の伽藍と塔頭が林立していた。

しかし明治維新直後の神仏分離令により仏教的要素は“毀釈”。
現在では法華寺だけがひっそりと佇んでいるのみだ。

003
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]26

諏訪上本45高島城4

2階の資料室を見学しながら諏訪藩の歴史について学ぶ。

まず、領主は諏訪氏なのに、なぜ高島城は日根野高吉が築城したのか?

天正18(1590)年、領主だった諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に伴い武蔵国へ付き従ったのが、その理由。

後釜に豊臣秀吉の家臣だった高吉が転封し、2万7千石を以って諏訪の領主に。

高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。

転封の翌年、天正19(1591)年には既に城地の見立てと設計を終えていたそう。

文禄元年(1592)に着工し、慶長3(1598)年まで7年ほどかけて築城したという。

高吉は本丸に三層三階の望楼型天守を建造。

天守をはじめ主要建造物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことが特徴だ。

湖畔のため地盤が軟弱で重い瓦が使えなかった、寒冷地の諏訪で瓦は凍って割れてしまうから…などと言われているがハッキリした理由は不明の由。

その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)が慶長6(1601)年、家康の恩恵で旧領の諏訪へ再転封となり諏訪氏が藩主に返り咲く。

以後、諏訪氏は10代藩主忠礼に至るまで270年間にわたり諏訪の領主に君臨したという次第。

諏訪上本26-3高島公園

高島城は明治4(1871)年、新政府の意向により破却が決定し、同8(1875)年に撤去が完了。

翌9(1876)年に本丸跡が高島公園として一般に開放された。

3階へ上がり、展望台から諏訪の街を見渡してみる。

諏訪湖と幾つかの川に囲まれ、水を防御の盾とする難攻不落で名を馳せた高島城。

遠く離れた諏訪湖畔との間に広がる諏訪の街並みを眺めていると戦国戦乱の匂いなど微塵もなく、時おり吹き抜ける柔らかな風が平穏な歴史を感じさせてくれる。

諏訪上本26-4諏訪市街

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]25

諏訪上本25-1丸高

並木通りは正面に突き当たると右に折れ、暫く進むと今度は左へ曲がる。

このようなクランク状の道筋は縄手の時代からあったもの。

敵兵の侵入を防ぐためにあり、諏訪に限らず城下町ではよく見かける。

2番目の角のあたりに藩政時代は大手門が立ち、その先にある衣之渡[えのど]郭から城郭になる。

衣之渡川を渡ると「丸高」という巨大な味噌蔵があり、その前に「三之丸跡」の解説板が立っている。

味噌のナショナルブランド「神州一」は、ここが本店で、寛文2(1662)年に酒造業を始めたのがルーツ。

ちなみにその酒蔵とは今も諏訪を代表する銘酒「真澄」の蔵元、宮坂醸造のことだ。

諏訪上本25-2三之丸湯

中門川(藩政時代は三之丸川)を渡ると二の丸跡。

だが藩政時代の建物は殆ど残っておらず、現在では普通の住宅が立ち並んでいる。

道の正面に石垣が見え、やがて高島城の天守閣が姿を現した。

このように北から南へ廓が一直線に並んだ形式を「連郭式」と呼ぶそうだ。

堀をまたぐ冠木橋を渡り、冠木門をくぐるとかつての本丸に出る。

昨夜、月光に照らされて乳白色に包まれていた天守閣、今は小糠雨の中でしっとりとした壁肌を晒している。

諏訪上本43高島城2

本丸の北西にポコリという感じで突き出した天守閣は、昭和45(1970)年5月に再建された復興天守で、屋根は瓦でも柿でもない銅板葺き。

城内はコンクリ天守によくある資料館で、幾ばくかの入場料を支払い入“城”する。

1階は「郷土資料室」と「企画展示室」。

2階は「築城」「藩主」「藩士」「藩政」とテーマごとに遺品や資料を展示する「高島城資料室」。

3階も「高島城資料室」と、外側が展望台になっている。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]24

諏訪上本23-2天守閣

南西の角を曲がり、西側の縁を北へ向かって歩く。

相変わらず堀はなく、どんどん石垣も低くなり簡単によじ登れる程度にまでなった。

なぜ高島城本丸は北側と東側にしか堀がないのか?

その理由は単純で、南側は最初から堀がなく、道路を挟んで武家屋敷が続いていたから。

西側は本丸ギリギリまで諏訪湖畔が迫り、天然の堀の役割を果たしていたため。

今でこそ西側は広大な土地が続いているが、これは江戸時代に干拓されたためで、南側と西側には築城当初から堀などなかったのだ。

再び天守閣の麓へ戻ってきた。

見上げれば天守閣は頭上に煌々と輝く月光を浴び、柔らかな乳白色に包まれている。

ちょっと一杯やりたくなり、再び「縄手」へ足を向けた。

諏訪上本42高島城1

翌朝、出立の前にホテルで朝食を摂る。

よくあるバイキングではあるが、並んでいる料理の種類が豊富だし美味。

昨夜の天然温泉もそうだが“企業城下町”のビジネスホテルはサービスが充実している。

昔は諏訪氏の城下町、今はセイコーエプソンなど精密機械産業が集積した“企業城下町”。

ビジネスマンをリピーターとして取り込むためにはサービス面の充実が欠かせないというわけか。

この傾向は伊勢一宮椿大神社が鎮座し、ホンダや旭化成の大工場が立ち並ぶ三重県鈴鹿市でも体験したことだ。

これからホテルを出て上社本宮を再訪するのだが、その前に諏訪高島城まで歩いてみる。

薄曇りで小雨が時折パラつく中、かつての「縄手」こと今の「並木通り」を散策。

宵闇の中で見た、街路樹の梢がライトアップされた幻想的な光景も素敵だったが。

朝露に彩られて静かにマイナスイオンを放出し続ける姿もまた、美しい。

[旅行日:2016年12月12〜13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]23

上諏訪駅の南側から高島城方面に向かって「並木通り」という道が通っている。

車道こそ上下1車線ずつだが両脇に街路樹、その外側に歩道と道幅そのものは広い。

この道は諏訪藩政時代に「縄手」と呼ばれた、高島城と甲州街道を結ぶ唯一の道。

その面影には風格があり、江戸時代以来の歴史が木々の梢から降り注いでくるようだ。

鍵手を折れ曲り、細い川を渡り、二之丸の跡を通り抜けると、正面に高島城が姿を現した。

しかし天守閣に入館できる時間は既に過ぎ、今宵は堀端をグルリと周回するのみ。

まずは東の市役所方面へ向かい、時計回りに一周してみる。

諏訪上本23-1天守閣

高島城は慶長3(1598)年に豊臣秀吉の家臣、日根野織部高吉[ひねのおりべたかよし]により築城された。

当時この一帯は諏訪湖に突き出た島状の土地で、地名も「浮島」と呼ばれていたそう。

高吉は漁業を営んでいた村落を丸ごと移転させ、城を築いたという。

北東角の交差点から南へ向かう。

本丸の敷地は縦長の長方形で、それほど広くもないので散歩するには手頃な大きさ。

石垣に高さは無く勾配も緩やかで、石の積み方もキッチリしておらず隙間だらけ。

築城当時、城の周囲は湖水と湿地に囲まれ、諏訪湖面に浮かぶように見えたことから別名「諏訪の浮城[うきじろ]」と称されていた。

裏を返せばそれだけ地盤が脆弱だったわけで、あまり強大な石垣が築けなかったのも頷ける。

ちなみに諏訪高島城は松江城、膳所城とともに「日本三大湖城」のひとつに数えられているそうだ。

南へ向かううち、そこそこ幅のあった堀が次第に狭くなっていく。

南東角の交差点を西へ曲がると、ついに堀は姿を消してしまった。

本丸南側の縁が堀から道路になり、その外側に一般の住宅が立ち並んでいる。

堀が埋め立てられて道路にされたのだろうか?

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]22

それらを眺めながら緩やかな勾配を東参道に向かって歩くうち、勅使殿の裏側に聳える巨木の存在に気がついた。

境内で最古の樹木のひとつ「大欅[おおけやき]」。
樹齢なんと一千年! 諏訪市の天然記念物にも指定されている。

昔は贄[にえ](神への捧げる物)や御狩[みかり]の獲物(お供え物)を掛けて祈願したことから「贄掛けの欅」とも呼ばれていたという。

樹齢千年といえば信長の焼き討ちをも凌ぎ生き残った計算になる。
諏訪大社の生き証人ともいえる大木の聳立を眺めていると、たかだか百年にも満たない人間の寿命など如何に儚いものか…との囁きが聞こえてくるかのようだ。

諏訪上本22-1大欅

勾配を上り切り、再び東参道口へ戻ってきた。
既に陽も傾き、一帯は逢魔時に特有の胸をザワつかせる不安感に満ちている。

宵闇に包まれ始めた境内の外周道路をグルリと回り込み、博物館前のバス停へ。
その前に北参道の先にある「宮町通り 社乃風[やしろのかぜ]」へ立ち寄ってみた。

以前あった門前町を壊して人工的に造営された商店街。
信州の物産を中心としたお土産品や食事処が立ち並んでいる。

だが閑散期で平日で逢魔時とあっては開いている店も殆どない。
冷やかす状況にすら至らないまま社乃風を後にして、市内へ戻るバスに乗った。

諏訪上本41社乃風

すっかり陽も落ち、車窓からは暗闇の中で時折ネオンの灯りが遠くで瞬くのが見える。
次第に灯りの割合が増え始め、暗闇が消えた頃に上諏訪の駅に到着。

西口のビジネスホテルに戻り、最上階にある天然温泉に身を沈めて心を落ち着かせる。
上諏訪もまた温泉場であり、大小さまざまな温泉宿が諏訪湖畔に軒を連ねている。

ビジネスホテルが天然温泉を備えているのもまた、宜なるかなだろう。
ノボせる前に風呂場を後にし、夜風に当たろうと街へ出た。


[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]21

諏訪上本36筒粥殿

天流水舎の右横に簡易な木柵で囲われた正方形のスペースがあり「上社筒粥殿跡」と表示されている。

筒粥殿といえば「筒粥神事」を行うための社殿。

下社春宮にもあり、そちらで「筒粥神事」の詳細は既述している。

上社本宮には跡地しかなく、現在「筒粥神事」は下社春宮でのみ行われている。

ということは、かつては上社本宮でも行われていたということか?

だとしたら、上社と下社は各々独立した神社だったということか?

四宮が「諏訪大社」の名のもとに統合された折、筒粥神事は下社春宮に一本化されたのだろうか?

諏訪上本50勅使殿

天流水舎から石段を挟んだ隣側に高低二つの建物が並んで立っている。

名称は高い方が勅使殿、低い方が五間廊といい、両者は繋がって一体化している。

勅使殿は元和年間(1620年)頃の建立で、後に改築されたものが現存。

中世の記録には「御門戸屋」「帝屋」とも記されている。

朝廷からの勅使が着座した場所だったことが名称の由来で、様々な神事が執り行われたものと思われる。

建武2(1335)年に大祝が即位した神事の記録によると、御門戸屋に敷いた布の上に五穀を供え、そこへ大祝が着座したと記されている。

当時の勅使殿は現在の神楽殿の前あたりにあり、拝殿の性格を持っていたようだ。

一方の五間廊は安永2(1773)年に建てられ、こちらも後に改築。

こちらは勅使参詣の際に神長官以下の神職が着座した建物と伝わっている。

諏訪上本48五間楼

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]20

諏訪上本31神楽殿

建立は文政10(1827)年で、現在は諏訪市の指定文化財。

往時は太々神楽や湯立神事が毎日行われていた記録が残っている。

だが、それらの神楽は残念ながら今に伝わっていない。

諏訪上本20-2大太鼓

袖から中を覗いてみると、これまた舞台の上には巨大な太鼓が威容を誇っている。

奉納されたのは神楽殿の建立と同時というから江戸時代か。

胴は樽と同じ製法の「合わせ木作り」で、堂々たる神龍が描かれている。

皮は牛の一枚皮が用いられ、直径1m80cmは一枚皮として日本一の大きさとか。

ただ、連日連夜こんなデカ大鼓を打たれたら周辺住民は堪ったものではない。

そのせいか、現在は元日の朝にのみ打たれているそうだ。

それにしても、ここまで特徴的な太鼓を吹きさらしの神楽殿に置きっ放しというのは勿体ない話。

恒久的な専用太鼓櫓を組み上げテッペンに据えれば、新たな名物が一つ加わると思うのだが。

諏訪上本33神楽殿門

神楽殿と土俵の間から境内の外へ小さな石段が通じている。

そこに立っているのは鳥居ではなく冠木門、注連縄もシンプルな前垂注連だ。

古地図には大昔このあたりに「拝所御門屋」があったとの記録がある。

また、近くには延べ百二十間(約220m弱)にも及ぶ廊下があり、そこから参詣者は御山(神体山)を拝していたという。

幣拝殿のところに登場した下壇「厳の拝所」とは、この長廊下のことと思われる。

拝所御門屋から入って境内を突っ切れば、勅使門へ続く石段に行き当たる。

その横には屋根に煙突のようなものが付いた、妙な形状をした建物の姿。

「天流水舎」、俗に「御天水」とも。

どんな晴天の日でも建物の中に雫が入り、「宝殿の天滴」と共に中の井戸へ溜まると伝わっている。

雨乞いの折、この御天水を青竹に入れて持ち帰り、神事に用いると必ず雨が降るそう。

今なお近郷近県から祈願の依頼があるが、途中で休むとそこで雨が降るので昔は若者たちがリレー式に運んだとか。

また、この御天水は天竜川の水源とも言われている。

なんとも気宇壮大な言い伝えだ。

諏訪上本35天流水舎

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]19

諏訪上本30清祓池

旧社号標の隣に「清祓池」という小さな池が広がっている。

毎年6月30日に夏越の祓をし、半年間の罪穢を祓い清め、後半の無事息災を祈るという。

池の真ん中には「宮嶋」という小島があり、鶴の像が口から水を噴き出している。

池の手前側、地面に空いた丸く小さな穴が柵で囲われている。

「五穀の種池」という小さな池で、毎年春になると種籾を浸し、その浮き沈みによって豊凶を占う。

現在でも近郷農家の人々に親しまれているそうだ。

諏訪上本29雷電

旧社号標と清祓池の間に堂々とした力士像が立っている。

信州が生んだ江戸中期の強豪大関、雷電為右衛門[らいでんためえもん]像。

諏訪大神に正対して拝礼の誠を捧げている姿が描かれている。

茅野市出身の彫刻家、矢崎虎夫氏が文部大臣賞受賞を記念し、昭和41(1966)年10月に奉納したものでモデルは横綱柏戸の由。

日本人が総じて小柄だった江戸時代、雷電は6尺6寸(197cm),45貫(169kg)という飛び抜けた巨漢だった。

その怪力ゆえに張り手、鉄砲(突っ張り)、かんぬきの3手を禁じられたという伝説が残っている。

「清祓池」の右側に大きな神楽殿、その右隣には土俵。

諏訪大神の起源が建甕槌神と建御名方神の国譲りを巡るガチンコ対決にあるせいか、昔から力の強い神様として信仰を集めてきた。

とりわけ相撲との関係が深く毎年相撲神事が行われ、多くの力士が参拝しているという。

土俵の隣に入母屋造の神楽殿が立っている。

一之宮クラスの大きな神社に神楽殿は付き物だが、これほど巨大なものは見たことがない。

下社両宮の神楽殿は四方を壁と扉で覆われていたが、ここは柱だけで扉も壁もなく吹きさらし。

神楽殿というより能舞台のような佇まいさえ感じられる。

諏訪上本32土俵

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]18

諏訪上本15北参道正面

また、同風土記には「伊賀の穴石神社に坐す神は出雲の神の子、出雲建子命[いずもたけこのみこと]、又の名を伊勢都彦命、又の名を櫛玉命」との記述もある。

さらに本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢津彦は建御名方神の別名」とまで記している。

出雲を追われた建御名方神は先ず伊勢へ逃げるも、そこへも攻め込まれ遂には諏訪へ去って行ったという。

一体、建御名方神とは何者なのか? 

なぜ、最後に落ち着いた先が諏訪だったのか?

建御名方神の名が古事記にのみ現れ、日本書紀に登場しないのは何故か?

伊勢津彦の存在と何か関係があるのか?

考古学者でも何でもない一介の旅行者としては、建御名方神の正体が誰かを突き止めることにさしたる意味を感じない。

むしろ建御名方神が出雲から伊賀、伊勢、そして信濃へと流転していく過程から、古代日本が形成されていくロマンを感じ取ることに、よほど興味をそそられる。

こうして日本中の一之宮を巡っていると、教科書に綴られた通り一遍の歴史とは全く異なる歴史が、表からは見えない地下深くで幾層にも折り重なっていることに気付かされる。

そうした歴史が僅かながら顔を覗かせる、地表に生じた亀裂…それが一之宮なのだと思う。

諏訪上本16明神湯

再び境内に戻り狛犬の裏手にある手水舎の、さらに裏手にある「明神湯」へ。

これもまた手水舎なのだが下社秋宮と同様、流れ出る水が温泉なのだ。

「明神湯」こそが諏訪温泉郷の源泉とも伝わり、昔から諏訪明神と所縁があるという。

手水社の裏側に戦前の社号標が立っていた。

明治政府の近代社格制度で諏訪大明神は官幣大社諏訪神社となった。

しかし戦後、近代社格制度が廃止されるとともに旧社号標の「官幣」も消えて無くなった。

諏訪上本28旧社号標

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]17

諏訪上本47社号標

西参道から境内の外側をグルリと回り込んで北参道側の正面に出る。

どデカイ社号標には太々と刻まれた「諏訪大社本宮」の文字。

諏訪大社に四宮ある中、我こそが“中心”だと主張しているかのよう。

右隣に立つ石造りの巨大な明神鳥居を眺めつつ、諏訪大神の正体について考えてみた。

もちろん主祭神は建御名方神だが、神橋のところでは全く関係なさそうな甲賀三郎が出現。

建御名方神の背後には別々の“神々”が幾つも、まるで影のようにチラチラと姿を伺わせているのだ。

中でも、特に伊勢津彦[いせつひこ]について触れないわけにはいくまい。

伊勢津彦とは「伊勢国風土記」逸文に登場する豪族。

神武天皇の東征に付き従っていた天日別命[あめのひわけのみこと]が伊勢国へ攻め入った際、そこを支配者していた国津神のことだ。

天日別命が伊勢国を天孫に献じるよう迫ると、それを伊勢津彦は拒否。

天日別命が大軍を率いて再び脅迫すると、今度は承服した。

伊勢を去る証を示すよう言われると「大風を起こして海潮を吹き上げ、大波に乗って東国へ行く」と返答。

本当か否か天日別命が様子を窺っていると、深夜近くなって突然強風が吹き始めて波飛沫が舞い上がり、伊勢津彦は光輝く中を波頭に乗って東へ去って行った。

ちなみに「神風の伊勢国、常世の浪寄する国」という古語は、これに由来している。

この逸話、古事記に出てくる出雲の国譲り、武甕槌神との力競べに負けて洲羽(諏訪)へと追いやられた建御名方神の神話とオーバーラップして見える。

なお、天日別命は伊勢津彦を放逐した後、伊勢を統治。

皇太神宮(伊勢神宮内宮)の大神主、伊勢氏の祖になったと伝わっている。

諏訪上本61大鳥居

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]16

諏訪上本60高島神社

祈祷所の隣に鎮座しているのは高島神社。

その社号は、もちろん諏訪高島藩に由来する。

祭神は江戸時代の初期に高島藩を再興させた藩主三代。

藩祖の諏訪頼忠、初代藩主の頼水、二代目藩主の忠恒を祀っている。

諏訪氏は諏訪大神の子孫で上社最高の祀職「大祝[おおほうり]」を務めた後、藩主として諏訪地方を治めることになった。

こうした祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴なのだそう。

高島神社から西へ進むと社務所があり、ここで御朱印を賜る。

「これから前宮へは行かれますか?」
「いえ、あす参詣します」

なぜ巫女さんから前宮への参詣について尋ねられたのか?

その理由は前宮へ行った際、明らかとなる。

諏訪上本25波除鳥居

社務所と蓮池に挟まれた西参道を進むと木製の巨大な両部鳥居があり、ここで境内が尽きた。

「波除鳥居」といって諏訪大社唯一の木造鳥居。

昭和15(1940)年、皇紀2600年祭の折に建て替え。

平成21(2009)年に全面解体修理を行い再建立された。

「波除」の名の通り、この鳥居が最初に建立された当時は、ここまで湖畔が迫っていた…らしい。

上社本宮に大きな鳥居は幾つかあるが、この波除鳥居一之鳥居なのは、その証しだろう。

かつては神仏混淆の「諏訪大明神」として崇められてきた諏訪大社。

明治政府の廃仏毀釈で仏教的な要素が一掃された今となっては、この波除鳥居だけが明神時代の名残と言えるかも知れない。

波除鳥居を出てすぐ左手に細い坂があり、登っていくと質素な石段と鳥居、その上に小さな祠が鎮座している。

この末社もまた、大国主命社だった。

なぜ境内外に一つずつ鎮座しているのか、その理由は分からない。

社号は同じ「大国主命社」でも、それぞれに祀られている神は違うのかもしれない。

諏訪上本26西摂末社

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]15

諏訪上本21四御柱

参拝所を後にして戻ろうとした時、先ほど通り過ぎた塀重門が目に止まった。

柵の上から外側を眺めると門の先には石段が続き、その直線上に北参道が伸びている。

後ろを振り返ると梶の木があり、その遥か向こうには四の御柱。

四の御柱から梶の木、塀重門、そして北参道と一直線上に並んでいることに、何か意味があるのだろうか?

塀重門前の石段を降りると右側に一の御柱。

長さ55尺というから16.6m強ぐらいか。

諏訪上本27一御柱

その真後ろに巨大な岩が横たわっている。

諏訪七石の一つ「御沓石」。

真ん中の凹んだところが、諏訪大神の踏んだ足跡とも神馬の足跡とも伝わっている。

その奥、ちょうど玉垣の角ところに一本の石柱が立っている。

天保6(1835)年、国学者の宮坂恒由が建立した「天の逆鉾」だ。

恒由翁の本業は諏訪の酒蔵「酒ぬのや本金」の三代目当主。

諏訪地方の名産品、蜆の稚貝を諏訪湖に初めて放流した人物としても知られる。

天の逆鉾には翁自身の字で、こう刻まれている。

「神力残石上」
「たまちはふ 神のみくつの あととめて このとこいわの いくよへぬらむ」

特に酒の宣伝をしているわけでもなく、何を目的に建てたのか今ひとつよく分からない。

天の逆鉾の上に多数の小石が載っている。

運勢を占うために投げられたものだとか。

一度で石が乗れば大吉、願い事が叶うそう。

一の御柱と石段を挟んで反対に立つのは交通安全祈祷書。

建てられたのは昭和47(1972)年と、つい最近のことだ。

諏訪上本59交通

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]14

諏訪上本23拝幣殿

参拝所と拝殿の間は「斎庭[ゆにわ]」と呼ばれる広い空間で、特別の場合以外は立入禁止。

だが参拝所の横には腰の高さぐらいの斎垣があるだけなので、斎庭には入れないが拝殿の姿は存分に拝むことができる。

拝殿に向かって左側が右片拝殿、その左側に先ほど参拝したご宝殿が立っている。

一方の右側を左片拝殿と呼び、更に右側の山を背にした建物が脇片拝殿。

その屋根の上に石が乗っている。

諏訪七石の一つ「硯石」。

表面が凹状で常に水を湛えていることが名称の由来という。

鎌倉時代の古い神楽歌にある一節。

 大明神は 石の御座所に おりたまう
    みすふきあげの 風のすゝみに

つまり、この硯石の上に諏訪大明神は御出現なられたと伝わる由緒深き御石なのだ。

なお、古の記録には御諏訪様が御出現なられた斎庭一帯を上壇、玉の御宝殿を中壇、厳の拝所が下壇と記されている。

拝殿の造りは下社秋宮のそれと似ている。

それもそのはず、いずれも手がけたのは同一人物なのだ。

現在の建物は二代目立川和四郎富昌が、江戸時代末期の天保2(1831)から9(1838)年まで8年の歳月を要し、次男の富種や地元神宮寺の宮大工、原五左衛門と共に建立したもの。

立川流の代表的建築物として知られ、とりわけ片拝殿の彫刻「粟穂と鶉[うずら]」「笹に鶏」は富昌の代表作として近代彫刻史に光彩を放っている…そう。

また、拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われている…そう。

なにせ近付いて眺めることができないので、解説文を丸写しするしかない。

ここで諏訪立川流の立川和四郎親子について触れておきたい。

初代和四郎は諏訪高島藩に仕えていた桶職人、塚原泰義の長男。

13歳の時に江戸へ出、本郷竪川(立川)町に住む幕府の御用大工、立川小兵衛富房に弟子入り。

後に立川姓を許され、親方から“富”の一字を貰い、和四郎富棟を名乗ることに。

21歳の時に諏訪へ一度帰るも、彫刻を学ぶため再び江戸へ。

中沢五右衛門の下で宮彫りを修得し、30歳の頃に帰国。

上諏訪で「中沢屋」という屋号の建築請負業をスタート。

富棟は下社秋宮の竣工後、上社本宮の造営に終生の心血を注ごうと京都へ。

上賀茂神社などの社殿を研究して歩いたが、不慮の事故に遭い64年の生涯を閉じた。

上社の造営は二代目の和四郎富昌が継承。

富昌の代になると立川和四郎の名声は全国に轟き、関東から近畿にかけて数多くの仕事を残している。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]13

諏訪上本19.5梶の木

勅願殿の手前にある桑科の植物は、諏訪大社の御神紋の原木である梶の木。

御神紋は葉が3枚出ていることから3本梶とも呼ばれる。

上社は4本、下社は5本と足の数で上下社を区別している。

全国に散在する分社の大半は一本梶、つまり葉の部分のみで1本足の社紋を用いている。

梶の木からクルリと背後を振り返れば、目の前には荘厳な拝殿が立っている…のだが。

上社本宮では拝殿の前にもうひとつ、参拝所が控えている。

諏訪上本22参拝所

横4×縦3の計12本の太い柱が巨大な屋根を支えているのだが、真ん中の柱間に張られた垣根の扉が閉ざされ、奥の拝殿に近づけない。

参拝客の多い日には扉が開放されて拝殿から直に参拝できるのだろうか?

上社本宮の社殿は守屋山の山麓で中部地方唯一ともいわれる原生林、約500種類の植物が群生する10万坪の社叢の中で包まれるように鎮座。

拝殿の奥にある御山を御神体「神居」として奉っている。

大和一宮大神神社と同様、古神道の信仰形態を今に伝えているのだ。

上社本宮の建物は一種独特の形式を備えた諏訪造りの代表的存在。

昔は極彩色で結構ずくめの社殿だったそうだが、天正10(1838)年に織田信長の軍勢が放った兵火で一切が灰燼に帰したという。

天正12(1584)年に諏訪頼忠が造営に着手して仮殿を建立。

元和3(1617)年に頼忠の子で初代諏訪藩主の頼水が地元の宮大工に命じて再建させた。

その建物は嘉永年間、今の富士見町にある乙事諏訪神社[おっことすわじんじゃ]に移築。

現在、桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されている。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]12

諏訪上本17塀重門

長らく歩いて来た布橋にも、ようやく出口が見えてきた。

トンネルを抜けた先に門があるも柵が立てられ中に入れない。

塀重門[へいじゅうもん]といって文政12(1829)年の建立。

造作も簡素だし、塀の真ん中に便宜的に開けられた門なのだろうか?

その更に先で、ようやく口を開けた門に行き当たる。

こちらは入口門といい、塀重門と似ているが造りは更に簡素。

北参道と一直線上に位置している塀重門が正門で入口門は文字通り「通用門」なのだろう。

諏訪上本18入口門

中へ入ると正面にあるのが宝物殿。

奈良の正倉院を模した建物で、代々伝わる宝物を保管、展示している。

ただ、入り口の前に置物が立ちはだかり、自由に出入りできない。

入館無料だが中へ入るには社務所へ申し込む必要がある由。

閉館も間近だし日も暮れてきたので今回はスルー。

諏訪上本19宝物殿

ちなみに保管・展示されているのは名刀「梨割の太刀[なしわりのたち]」や、武田信玄が戦の折りに鳴らしたと伝わる宝鈴[ほうれい]等。

宝鈴とは鉄鐸[てったく]6個を一組にした神鈴で別名サナギの鈴、御宝鈴とも。

本来は神のものという考えから神と人との間を結ぶ特別な時、つまり祭事にしか鳴らされなかったそうだ。

このほか、江戸時代の御柱[おんばしら]の模様を描いた全長32mもある絵巻があり、その部分が見られるように展示してあるという。

宝物殿の左隣には勅願殿という大きな建物が立っている。

元禄3(1690)年に諏訪高島潘によって建立され、現在の建物は安政年間に修理したもの。

昔は行事殿とも御祈祷所とも呼ばれ、調停や諸侯の祈願などが行われていたそう。

諏訪上本20勅願殿

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]11

諏訪上本13大国主

その隣にある小さな御社は大国主命社。

社号の通り建御名方神の父、大国主命が祀られている。

そういえば宿敵の建甕槌命を祀っている常陸一宮鹿島神宮にも大国主命社があったのを思い出した。

大国主命社の隣には同じデザインをした小さな建物が二つ、左右に並んで立っている。

ここが上社本宮で最も重要な神殿とも言える御宝殿[ごほうでん]。

手前が東御宝殿、奥が先日の御柱祭で新築された西御宝殿。

伊勢神宮は遷宮ごとに本殿を建て替えるが古い本殿は取り壊される。

それに対して諏訪大社は古い御宝殿も残しているため、御殿が二つ並び立っているわけだ。

諏訪上本58御宝殿

中には御諏訪様の御神輿が納められており、一般の神社なら本殿に相当するそう。

だとしたら、これほど間近に本殿を拝める神社は珍しいのでギリギリまで近寄って見る。

今まで参詣した他の一之宮のうち、本殿が玉垣などで仕切られていなかったのは摂津一宮住吉大社ぐらい。

とはいえ諏訪大社は本殿を持たないのが特徴であり、あくまでもここは「宝殿」だ。

その屋根は茅葺きで棟木の端に千木と鰹木らしきものが設えてある。

ただ、千木は棟木より上に突き抜けておらず、鰹木も両端の2本だけと神殿の様式は満たしていない。

この屋根からはどんなにカラカラ天気の時でも最低3滴は水滴が落ちると伝わっている。

これは「宝殿の天滴」といって諏訪七不思議のひとつに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される説の根元にもなっている。

諏訪上本38四脚門

二つの御宝殿の間に小さな建物が立っている。

「勅使門」とも「四脚門」とも呼ばれる、こじんまりとした門。

布橋を挟んだ反対側に続く石段を降りると眼前に神楽殿、その先に境内の外へ出る石段。

ここを通ると遠回りせず最短距離で拝殿にアクセスできる。

昔は偉い人が参拝する際、この門を利用して拝殿へ向かったのだろう。

勅使門は天正10(1582)年に兵火で焼失したが、慶長13(1608)年に再建。

徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家安泰を祈願し造営寄進したそう。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]10

諏訪上本10東入口門

参道に戻ると両脇に石灯籠を従えた立派な門の奥に、屋根が葺かれた廊下が延々と続いている。

この門は「入口御門」といって文政12(1829)年の建立で、棟梁は地元の宮大工、原五左衛門。

門を見上げると冠木に施された彫刻は微に入り細を穿ち、まさに見上げたものだった。
奥に続く廊下は約70m、三十八間もある。

明治維新までは上社の大祝のみが通った所で、その時に布を敷いたことから布橋[ぬのばし]という名称が付いている。

現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人たちが自分の手で織り上げた布を持参して、神様(神輿)の通る道筋に敷くことを例としている。

諏訪上本12絵馬堂

布橋を進むと左手に絵馬が掲げられた「額堂」がある。

これも文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を納めた絵馬堂だ。

戦前までは布橋にも無数に掲げられていたそうだが、今では整理され一枚もない。

額堂の前には柵が置かれ接近して見ることはできないが、絵馬の古さは遠目からでも分かる。

額堂と廊下を挟んだ反対側に本宮二の柱が聳立。

太い綱で引き摺られながら運ばれるため、道路に接する面が摺り減っている。

曳綱は村中の人々が藤蔓や藁縄を用いて総出で作る。

最も太い「元綱」を柱につけ、細い綱を順次つなげていく。

元綱は柱によっても異なるが120〜130mから200〜300mにも及ぶ。

それに小綱をつけて御柱は遥々と引き摺られていくわけだ。

諏訪上本57摂末社

額殿の隣には摂末社遥拝所という細長い建物があり、これもまた文政年間の造営。

特に上社と関係が深い摂社や末社の神号殿で合計三十九の社号を掲げており、昔は「十三所遥拝所」とも呼ばれていた。

現在大社の摂末社は上社関係が42社、下社関係が27社あり、明治以降独立した関係摂末社まで合わせるとその数は95社に及ぶ。

上下四社の境内をはじめ郡下に点在しているが、その摂末社を朝夕ここから遥拝しているそうだ

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]09

諏訪上本09東二鳥居

「蛙狩神事」とは、この昔話を後世まで伝えるためにに様式化された儀式ではないか?

蛇と蛙と昔話を結びつけて勝手に想像したに過ぎないので裏付けなど一つもないが、そう思えてならない。

一方、動物愛護団体のアピールには、神様の「食べ物に感謝の気持ちを忘れるな」という宗教的な教示が微塵も感じられない。

毎日のように肉だ魚だと食べながら、一方で「蛙を殺すな」と主張する。

多分この辺りが空虚に感じられる理由なのだろう。

毎年生贄になってきた蛙に敬意を表しつつ橋を渡った。

諏訪上本56出早社

鳥居をくぐると左側すぐのところに摂社が鎮座している。

出早社[いずはやしゃ]といって上社の地主神「御諏訪様」の門番を務める神様。

祭神は諏訪大神の御子、神出早雄命[イズハヤオノミコト]。

古くから「疣[いぼ]神様」として信仰を集め、小石を捧げて疣の快癒を祈る風習があるそう。

背後をクルリと振り返れば、出早社の反対側に神馬を納める「駒形屋」が立っている。

諏訪湖に御神渡りが出来た朝、御神馬の身体中が汗で濡れていた。

これを見た付近の住人は「御諏訪様は御神馬で湖上を渡られるのか!」と驚き慴[おそ]れたと、中世の記録に残っているそう。

現在のように生きた馬ではなく木馬を祀るようになったのは明治時代以降のこと。

明治27(1894)年7月、大風で倒れた欅の大木が神馬舎を直撃、倒壊してしまった。

しかし御神馬は10mほど前に跳ね飛び出たため全くの無傷。

時あたかも日清戦争の真っ只中でもあり、地元では「御諏訪様は御神馬に乗って出陣された」と伝承されているそうだ。

諏訪上本11駒形屋

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]08

諏訪上本55

諏訪大社の起源に関わる甲賀三郎が蛇の化身なら、蛙を生贄に差し出すのも理に適った話。

そもそも蛙といえば蛇の大好物(?)として知られるが、それは何故か?

「蛇と蛙」という昔話によると次の通り。

昔々、神様が天地を創造したばかりの頃。

生き物たちは食事という行為を知らず、朝露ばかり飲んで暮らしてた。

そんなある日、朝露に飽きた蛙が不平を抱き、他の生き物たちも同調して毎日ダラダラと過ごすようになった。

その様子を見た神様は「明日みんなの食べ物を決めてやろう」と宣下。

足の遅い虫や蛇たちは夜も明けきらない早朝から神様の広場へ向かって出発した。

ところが寝坊した蛙は最後発となり、モノ凄い勢いで皆んなの後を追い駈けることに。

途中、足の遅い蛇に追いついた蛙は踏んで蹴って嘲って、終いには「俺の尻を舐めてみろ」と散々ぱら馬鹿にする始末。

ようやく広場に全ての生き物たちが集まったところで、神様は各々に相応しい食べ物を次々と決めていった。

蛙が「簡単に食べられるものが良い」と主張したところ、神様は「ならば虫を食べるがよい」と決定。

次に蛇の番が来ると、蛙が「蛇は役立たずだから役に立たない食べ物でいいよ」と口を挟んできた。

すると神様は「ならば蛇は蛙を食べるがよい」と言い渡した。

「生き物を食べて生きるという事は、自分も食われるという事。食べ物に感謝の気持ちを忘れるなよ」

そう神様は生き物たちに言い聞かせたという。

以来、蛇は蛙を見つけると馬鹿にされた往時を思い出したかのように、蛙を尻から飲み込むようになったそうな。
〔TVアニメ『まんが日本昔ばなし』昭和62(1987)年5月16日放送より〕

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]07

諏訪上本08東社号標

「蛙狩神事」には「甲賀三郎[こうがさぶろう]」の存在が関わってるのではないかと勝手に想像している。

甲賀三郎諏方[よりかた]は諏訪大社の起源に深く関わっている伝説上の人物。

南北朝時代に成立した『安居院神道集』所収の「諏訪縁起の事」に「諏訪の本地」として登場する。

近江国甲賀郡の地頭・甲賀家の三男で上には太郎に次郎と兄が2人いる。

ある日、三郎は最愛の妻・春日姫を伊吹山の天狗に拐われしまった。

六十余州の山々を探し回った末、信濃国蓼科[たてしな]山中の人穴で発見、救出する。

ところが三郎は兄2人が企んだ悪計に嵌って人穴に落とされてしまった。

三郎は73の人穴と地底の国々を巡り、農業を営む村々で歓待され、最後は維縵[ゆいまん]国というところにたどりつく。

維縵国には日課として鹿狩りを行う習俗があり、そこで三郎は好美翁と維摩姫の温かいもてなしを受けながら毎日を過ごしていた。

そんなある日、三郎の脳裏に春日姫と過ごした日々が蘇り、思い慕う気持ちが嵩じた余り、再び地上への脱出を試みる。

さまざまな試練を耐え抜いた末に浅間山の西側へ出、ようやく地上に戻ることができた。

ようやく故郷の甲賀へ帰り、春日姫母子が造った観音堂まで来た時、自分が蛇身になっていることに気付く。

地底で蛇の姿に変身したまま地上に戻ったからで、その姿を恥じた三郎は妻子に合わぬまま身を隠した。

元の姿に戻れるよう観音様に祈ると、石菖[せきしょう=サトイモ科の常緑多年草]が植生している池に入れば元に戻れると教示された。

試みたところ見事に元の姿を取り戻して無事に妻子と再会。

その後は甲賀の主となり、さらには諏訪明神へ示現した…というのが甲賀三郎説話のザックリした内容だ。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]06

諏訪上本54

参道と鳥居の間を流れる細い川に石製の小さな神橋が架けられている。

手前右側に立つ手水舍は天保2(1831)年建立の由。

川は名を御手洗川といい、昔はここで心身を清めた後に参拝したそうだ。

この神橋付近で毎年元旦に「元朝の蛙狩り」という神事が行われる。

この行事は、まず神橋上流の一段高い所で氷を砕き、川底を掘って2匹の赤蛙を捕まえる。

次に神前で柳の弓矢で蛙を射抜き、矢串のままお供えするという内容。

付近に川が少ないせいか、どんなに寒い年だろうと蛙が獲れるそうで、諏訪大社七不思議の一つにも数えられている。

とはいえ近年では一部の動物愛護団体から強烈な抗議に晒されている。

おかげで以前は一般に公開されていたのだが、最近では妨害が著しくなる一方。

なので本当の神事自体は別の場所で非公開のうちに行われ、神橋近辺では通り一遍のセレモニーだけとなってしまった。

たかがカエル2匹とはいえ生物の種類によって命の軽重を決めるのは宜しくない。

だが、蛙を大量に掘り起こして片っ端から弓を射て虐殺しているわけでもない。

そもそも何百年にも亘って連綿と続けられてきた儀式には相応の由緒が存在するはず。

それを「カエルが可哀想」という一点だけで中止を迫る行動は軽薄としか思えない。

それどころか「蛙の命」を踏み台にして、自分たちの存在を仰々しくアピールしているだけなのではないか?

世界には人命を軽んじる事象が現在進行形で幾らでも転がっている。

それらから目を逸らさせるために「蛙狩神事」を利用しているのではないか? とすら勘繰ってしまう。

それはそれとして、なぜこんな奇妙な儀式が連綿と続いているのだろう?

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]05

諏訪上本04バス停

県道の16号と183号が交わる「神宮寺交差点」を渡り、上社本宮へ向かう。

ただ、この近辺に「神宮寺」というお寺は存在しない。

しかし江戸時代まで上社本宮には神宮寺があり、神仏習合の「諏訪大明神」として神社より寺院と言っていいほど仏教色が強かったそう。

しかし明治維新の廃仏毀釈により神宮寺の伽藍は徹底的に破却されて跡形も無く消滅。

現在は上社本宮の南側に「法華寺」というお寺だけが残り、神宮寺の名残を留めている。

諏訪上本06東一鳥居

交差点を渡った先に大きな石鳥居が聳立している。

何の飾りも塗装もされていないシンプルな明神鳥居。

柱には文化2(1805)年建立と刻まれている。

幕末へと差し掛かる化政文化が花開き始めた頃だ。

ちなみに県道183号は神宮寺交差点から北東の四賀桑原交差点まで続いている。

その手前、上川の岸辺に巨大な鳥居が聳立し、傍に「官幣大社諏訪神社参道」と刻まれた石標が立っているそう。

ただ、神宮寺交差点から巨大鳥居までは2km以上もあり、参道にしては冗長な気もする。

県道から続く細くて緩やかな坂道を登っていくと、右側前方に境内が見えた。

坂を突き当たると、そこで道は一風変わった四つ辻となる。

右側は青銅製の大鳥居が聳立し、上社本宮の境内へ続く道。

正面へ直進すると法華寺への細い参道。

左折すると舗装された一般道で、遥か彼方に大きな鳥居が見える。

上社前宮へ続くこの道は東参道で、御柱祭では御柱が前宮からこの道を通って本宮に運ばれて来るという。

現在は県道16号に続く北参道が表参道っぽい扱われて方だが、神宮寺を経由して前宮と結ぶ東参道が実質的な表参道に相当するのだろう。

諏訪上本07東参道

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]04

諏訪上本04-1路地

眼前に供されたのは、ごく普通の天丼。

だが天つゆがかかっておらず、小鉢に入った味噌ダレが傍に添えられている。

みそ天丼は天つゆではなく、信州特産の味噌を用いた味噌ダレをかけるのが特色。

とはいえ「みそ天丼」は諏訪に古くから伝わる伝統料理というわけではなく、近年のトレンドに乗じた「ご当地グルメ」。

試作が始まったのは平成15(2003)年頃、販売がスタートしたのは同17(2005)年3月4日というから10年強の歴史しかない。

また「信州諏訪みそ天丼会」の会員店舗だけが「諏訪みそ天丼」を名乗ることができ、さらに条件が二つある。

ひとつは天種に諏訪湖特産のワカサギや川海老、地元産の野菜など「信州諏訪の旬」の食材を用いること。

もうひとつは当然ながら、味噌ダレに諏訪産の味噌を使うことだ。

天ぷらに味噌ダレをかけて一口食べてみると普段食べ慣れている天丼とは確かに違う。

醤油味の天つゆが味噌味のタレになり、車海老が川海老だから当たり前なのだが。

でも味噌ダレの味わいは新鮮で、これを普通の天丼にかけて食べる手もアリ。

特に諏訪産にこだわらず自分の家にある味噌でタレを拵えて天丼を作るのも面白い。

食事を終え、跨線橋を渡って再び駅東口のバス停へ。

駅から上社本宮までは距離が結構あり、徒歩でのアクセスは厳しいものがある。

だが、諏訪市には幸いなことに市内を循環する「かりんちゃんバス」がある。

14時39分、それに乗り込んで諏訪湖畔、工業団地、田圃のド真ん中など市内を走り回る。

約1時間後、上社本宮最寄りの停留所に着いたのは陽が傾きかけた頃だった。

目の前にある諏訪市博物館周辺には平日の夕方のせいか人影は疎ら。

県道16号を次々に走り去る車の群れだけが師走の忙しなさを映し出している。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]03

諏訪上本02駅舎

背後を振り返り、改めて上諏訪の駅舎を眺める。

小豆色をした横型の長方形で、下諏訪駅と異なり宗教色は薄い。

よく言えば普遍的、率直に言えばありきたりな印象。

表面には電飾イルミネーションがディスプレイされており、宵闇迫ればキラキラと輝いて駅の表情が一変するのかも知れない。

諏訪上本03丸光跡

甲州街道を挟んだ向かい側に、白い鉄板で囲われた広大な空き地が横たわっている。

かつて、ここには「まるみつ百貨店」という地元資本のデパートが立っていた。

全国で郊外型ショッピングモールがのさばる以前、諏訪地方の商圏で中核的な存在。

また全国で唯一、店内に天然温泉の入浴施設があることでも有名だった。

しかし当時(というか今もだが)、地方の地場百貨店は経営状態が苦しいところが多く、まるみつ百貨店も例外ではなかった。

平成23(2011)年2月20日、前身の諏訪丸光が開業した昭和40(1965)年以来46年の歴史に幕を閉じた。

自動車による移動が当たり前になった地方都市で、駅近辺の商業施設が衰退していく姿は今や全国共通の風景。

こうして土地土地にある駅前の特徴的な“顔”は姿を消し、どこも似たような“のっぺらぼう”と化していく。

果たして上諏訪駅前もまた“のっぺらぼう”の一員になってしまうのだろうか?

駅の東西をつなぐ跨線橋に登り、上から空き地を眺めつつ、そんなことを思った。

跨線橋を抜けて駅の西側へ渡り、荷物を預けるためホテルへ向かう。

その途中、蕎麦屋の店前で「信州みそ天丼」と記された幟を見かけた。

(みそ天丼って…何だ?)

昼食もまだだったし、興味を惹かれて店に入ってみた。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]02

諏訪上本01駅足湯

13時19分、上諏訪駅に到着。

1番線ホームには下諏訪駅のように御柱祭をアピールするオブジェは見当たらない。

その代わりというか、上諏訪駅の1番線ホームには天然温泉が湧いている。

足湯だが施設そのものは結構な大きさで、なかなかに本格的だ。

それもそのはず、以前は足湯ではなく本物の露天風呂。

20世紀末、上諏訪駅はホームに天然温泉の露天風呂がある全国唯一の駅として名を馳せていたのだ。

昭和61(1986)年8月8日、当時の国鉄長野鉄道管理局が展開していた「一駅一名物」運動の一環として設置。

電車の待ち時間にひとっぷろ浴び、到着した電車内で湯上りビール…なんて離れ技?ができるとあって当時なかなかの人気だった。

しかし普通の風呂場としては収容人数に限界があったのか、平成14(2002)年7月9日に「足湯」としてリニューアルオープン。

おかげで観光客のみならず通勤通学客も気軽に利用できるようになったとか。

中を覗いてみると、男性客と女性客が一人ずつ、湯船に足を浸けている。

以前の露天風呂時代は当然ながら男湯女湯に別れていたが、もちろん足湯は“混浴”。

駅の利用者にはホームで全裸になる勇気を持ち合わせていない人の方が圧倒的に多そうなので、足湯への転換は賢明な選択だったのかも知れない。

上諏訪の街を歩き回った後なら足の疲れを癒すのに最適かもしれない。

改札を抜けて東口の駅前に出る。

駅前を通るのは国道20号線、昔の名前で呼べば「甲州街道」。

ここ上諏訪は諏訪大社の門前町というだけでなく、甲州街道の宿場町にして諏訪高島藩2万7千石の城下町という「三つの顔」を持つ町でもあるのだ。

諏訪上本62上諏訪駅

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]01

諏訪上本01駅

下諏訪駅から13時14分発の1530M電車に乗る。

隣の上諏訪駅まで約5分ほどの鉄旅。

内陸を走るので車窓から諏訪湖の姿は拝めず、意外と味気ない風景が広がる。

諏訪湖の湖面を一直線に突っ切れば風雅な船旅となるだろうに。

そういう考えは太古の昔からあったようで、諏訪湖には「御神渡り[おみわたり]」という伝承がある。

厳冬季の夜、凍りついた湖面が寒気で縮むと裂け目が生じ、そこへ下から湖水が入り込んで結氷。

朝に気温が上ると湖面の氷が膨らんで裂け目を両側から押し上げる。

氷結した湖水が持ち上げられて巨大な氷道となり、高さは30cmから2m近くにまでなるそうだ。

往時この氷道は上社の建御名方神が下社の八坂刀売神へ会いに通った道だと考えられており、これが「御神渡り」という名称の由来となった。

なお、氷道を検分する特殊神事「御渡り神事」は昭和53(1978)年、諏訪市の無形民俗文化財に指定されている。

一方、御神渡りは単にロマンティックなだけの神話ではない。

氷道の形状から豊作凶作など社会情勢の吉凶を占う材料にもされてきた。

「今冬は御神渡りが出来なかったなぁ」となれば、その年の夏は凶作の影に怯える…なんてことがあったかもしれない。

諏訪大社には御神渡りが起こった日の記録が約500年にも亘って保存されており、これは気候変動の資料としても世界的に貴重なのだそう。

ただ、最近は地球温暖化の影響からか、御神渡りが現れる機会が激減しているという。

現代では現代なりに吉凶を占う役割が機能していると言えるかもしれない。

[旅行日:2016年12月12日]

再開のお知らせ

諏訪上本00

いつもご愛読ありがとうございます、「RAMBLE JAPAN」管理人です。

昨年12月1日からお休みしておりました「一巡せしもの」。

4カ月半のブランクを経て、明日から再開いたします。

参詣するのは長野県の「信濃国一之宮諏訪大社上社本宮」。

それでは変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]13

諏訪下春45*

その隣が万治の石仏のところで岡本太郎の言葉を引用したみなとや旅館。

岡本以外にも小林秀雄、白洲次郎・正子夫妻、永六輔といった著名人に愛されてきた宿である。

みなとやの前に「右甲州道 左中仙道」と刻字された小さな石碑が、ひっそりと佇んでいる。

この文字は白樺派の作家、里見弴が逗留した際に寄贈した書を基に刻んだものという。

万治の石仏といい綿の湯といい、偉大な先達が石碑に揮毫を残しているところに下諏訪という街の懐深さが垣間見える。

道を挟んだ向かい側にある「しもすわ今昔館おいでや」は、下諏訪観光協会が入居している大きなビル。

館内には時計博物館の「儀象堂」と、星ヶ塔黒曜石原産地遺跡など埋蔵文化財を展示する「星ヶ塔ミュージアム矢の根や」、館外には「御柱神湯」という足湯もある。

たかだか100m程度の小径ながら、これだけの歴史と文化がギュッと凝縮されているところが下諏訪という町の凄み。

とても駆け足では全て見尽くせないので、ここはザッと紹介するだけに留めて残念ながら素通りだ。

諏訪下春46*

八幡坂を下りきったところに下諏訪宿の高札場を模した広場がある。

高札場とは幕府や諏訪藩が決めた法度や禁令、犯罪人の罪状などを記した木の板札を、人目を引くよう高く掲げておく場所のこと。

中山道に限らず、特に大きな宿場町には旅人の往来が多いことから必ずと言っていいほど据えられていた。

目の前にあるのは最近できたレプリカだが、記されている内容は江戸時代のもの。

博打ダメ、人身売買ダメ、鉄砲撃つな、切支丹や放火魔を突き出せば高額の報奨金を進呈…といった項目がタップリ列挙されている。

現代は博打(公営競技に限る)や切支丹が許されているだけマシなのか? いや、それほど単純な話でもないか。

裏路地をブラブラしつつ、朝に出立した下諏訪駅へ再び戻ってきた。

ホームに出ると御柱祭で実際に用いられた「古御柱[ふるみはしら]」が横たわっている。

平成22(2010)年の御柱祭で秋宮に建てられた三之柱で、今年の御柱祭で「御柱休め」により役割を終え、払い下げられたものだ。

おんばしら館よいさに据えられていた御柱はレプリカだけに、こうして“本物”を至近距離で拝めるのは有難い。

その横に置かれているのは綱の巨塊。

今年の御柱祭で用いられる曳綱の予備として作られた、いわば“未使用品”だ。

かつて多くの氏子衆の魂が込められた御柱が今、こうして駅のホームで静かな余生を送っている。

その姿は、まるで下諏訪の街から身を挺して邪気の侵入を防いでいる古老の“衛士”のよう。

来訪時に改札口で出迎えてくれた万治の石仏のレプリカに別れを告げ、上諏訪方面行きの電車に乗り込んだ。

諏訪下春44*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]12

諏訪下春043*

「児湯」の先に下諏訪宿の旧本陣が遺っている。

大名が宿泊する本陣の岩波家は江戸時代、ここに約1800坪の敷地に300坪の建物を構えていた。

当時の下諏訪宿は中山道最大級の宿場町であり、本陣の庭園は中山道随一とも謳われたほど。

現在では建物こそ半分程度になったが、庭園は江戸時代の優雅な景観を今なお披露し続けている。

また文久元(1861)年11月、皇女和宮が徳川将軍家へ御降嫁のため江戸へ向かう際ここに宿泊され、寝所となった上段の間もまた保存されている。

これらの諸施設は入館料を払えば見学できる、全てとはいかないが。

その本陣宿の系譜を継ぐ老舗旅館「聴泉閣かめや」の前に一本の縦に細長い石碑が立っている。

「甲州街道 中山道合流之地碑」

…ここは中仙道と甲州街道の「街道分されの地」。

下諏訪宿は中山道六十九次のうち、お江戸日本橋から数えて29番目の宿場町であると同時に甲州街道の終点でもある。

甲州街道は甲府で終わりだとばかり思っていたが、実はここまで延びていたのだ。

日本橋から甲府までは慶長7(1602)年に開通し、下諏訪までは同15(1610)年に延長された区間。

そのため甲府と下諏訪の間は甲州街道としての印象が薄いのだろう。

諏訪下春042*


分されの碑の奥に「綿の湯」と刻まれた石碑が立っている。

揮毫は永六輔。

八坂刀売神が諏訪大社上社付近で沸いた温泉を化粧用に使おうと、真綿に浸して桶に入れ小舟で諏訪湖を渡りここまで運んで来た。

ところが温泉は桶から諏訪湖へポタポタと漏れ続け、ここへ到着する頃には一滴もなくなっていた。

しかし漏れた温泉のおかげで諏訪湖近辺から温泉が豊富に湧き出し、それが今日の上諏訪温泉郷の基となったという。

一方、下諏訪に着いた八坂刀売神は「これじゃ化粧なんて…」と真綿を捨てたところ、そこから温泉が湧き出した。

それが「綿の湯」の起源であり、下諏訪温泉郷の基となったそう。

なお「綿の湯」は現役の公衆浴場ではない。

現在、源泉には上屋が建てられ大切に保存されている。

諏訪下春43*

両街道合流の碑から駅方面に「八幡坂」という細い下り坂が伸びている。

入口右側に立つ「まるや」は江戸時代の元禄年間創業で往時は脇本陣を務めていた老舗。

反対の左側に立つ「桔梗屋」も元禄3(1690)年創業という、これまた老舗の旅館だ。

少し先の左側には下諏訪町立歴史民俗資料館。

明治時代に建てられた商家を改修し、1階を無料休憩所として解放、2階は下諏訪宿に関する展示室になっている。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]11

諏訪下春38*

再び石鳥居の前へ戻り、手水舍の前から秋宮へと繋がる細い横道に入る。

先へ行くと三叉路…というか“音叉路”があり、先端部分に道標の石碑が立っている。

「左 諏方宮 右 中山道」

右の坂を登っていくと中山道に出るが、それは国道142号線…

つまり新道で、この古びた細い道こそ本来の旧中山道なのだ。

諏訪下春39*

三叉路の少し先に石塚が立ち並ぶ一角。

「白華山慈雲寺」の寺号標が立ち、参道が奥へ続いている。

石塚の中に龍の形状をした水口がある。

江戸時代中期、慈雲寺への参拝者のために作られたもので、同時に中山道を往来する旅人の喉も潤していたそう。

諏訪下春040*

龍の口を過ぎたその少し先に、木造二階建ての古い日本建築が見えた。

伏見屋邸という旧商家で、建てられたのは1864(元治元)年。

これを復元、修理して観光客の休憩や住民の交流の場として無料開放しているそうだ。

とはいえ旧中山道沿いには神社仏閣を除けば、これといってクラシックな建物は見当たらない、近代的な住宅が立ち並ぶごく普通の一般道。

だが、道端に立つ「番屋跡」という小さな石碑を過ぎると、道の両脇に古風な建物が姿を現し始める。
下諏訪の温泉街に入ったようだ。

諏訪下春041*

緩やかな坂道の途上に「旦過[たんが]の湯」という外湯がある。

八坂刀売神が上社からお湯を運んで来た桶が壊れてしまい、外れた箍[たが]が転がってきた場所が「タンガ」と呼ばれるようになったというのが名の由来。

また、龍の口のところで登場した慈雲寺の寮「旦過寮」がこの辺りにあり、そこから「旦過の湯」と呼ばれるようになった…とも伝わっている。

坂道を登りきったところで旧道は国道142号線と合流し、一本の中山道となって秋宮へ続く。
ただし道幅は旧道の狭いままだが。

諏訪下春41*

交差点を渡った先に「遊湯ハウス 児湯」という外湯がある。

名称こそスーパー銭湯のような俗っぽさだが、開湯の由来を辿れば和泉式部の伝説に行き着くという由緒ある温泉だ。

児湯の裏手にある来迎寺の境内に「銕焼[かなやき]地蔵尊」というお地蔵さんが鎮座している。

平安時代、顔に大ケガを負った「かね」という少女が来る日も来る日もお地蔵さんにお参りしていた。

そんなある日、かねの顔の傷が突然お地蔵さんの顔に移り、かねのケガがキレイに完治。

その後かねは美人に成長し、その噂は都まで轟き、時の帝から召し出されることに。

その少女かねこそ平安中期の女流歌人、和泉式部その人だった…という伝説。

とはいえ和泉式部の伝説は日本各地に数多く存在し、どれも実在した本人とは無関係な話とか。

だが、そんな瑣末なことなどどうでもいい話。

肝心なのは児湯が美人の湯、子授けの湯、そして立身出世にもご利益がある有難い温泉ということだ。

諏訪下春42*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]10

諏訪下春31*

その隣の間には御柱祭で実際に用いられた騎馬行列の衣装や道具が展示してある。

御柱祭の起源については諸説いろいろあって定かではなく、遡れば縄文時代の巨木信仰にまで行き着くという説まであり思わず気が遠くなる。

実在する記録としては室町時代の文献『諏訪大明神画詞』にある、桓武天皇御代(781~ 806)の「寅・申の干支に当社造営あり」という記述が最古とのことだ。

諏訪大社は江戸時代まで密教寺院の性格を併せ持つ神仏習合的な存在だったため、御柱祭も仏教行事のひとつとして解釈されていた。

ただし、いかなる仏教の経典にも御柱の存在など見当たらないため、起源が仏教にないことだけは確からしい。

ひととおり館内を見学し終えて外に出た。

一度この目で見てみたいと熱烈に思ったが、直近の御柱祭は今年の5月に終わったばかり。

次回は平成34(2022)年まで待たねばならない。

それまで自分が生きているかどうか…。

何百年も続く御柱祭の野太い生命力に比べれば、自分個人のチッポケな生命など吹けば飛ぶよな儚い代物だ。

建物を出て右側の奥が広場になっていて、さらにその奥に

1本の御柱が据えられている。

これはレプリカで実際に使われたものではないが、実際に乗ったりできるので逆に有難い。

長さ約17m、直径1m余り、重さ約10トン。

実は4本の御柱は微妙に大きさが異なり、一之柱が一番大きく、次いで二、三、四之柱の順に長さも太さも小さくなっていくそうだ。

それにしても、これだけの巨木を社殿の周囲に4本も立てることに、どんな意味があるのだろうか?

個人的には「国譲り神話」で出雲を追われた建御名方神が、武甕槌神に対して立てた「洲羽(諏訪)以外の土地に出ない」という誓いを具現化したものだとばかり思っていた。

しかし実際に諏訪大社へ足を運んでみると、こうした「結界説」以外にも様々な説があることを知った。

例えば、御柱は山から降りてきた神の依り代であり、だからこそ諏訪大社には本殿がないという説。

神仏習合時代、仏教の須弥山[しゅみせん]で四方を司る四王天【東方持国[じこく]天/南方増長[ぞうちょう]天/西方広目[こうもく]天/北方多聞[たもん]天(毘沙門[びしゃもん]天とも)】をイメージして立てられたという説。

太古の昔、諏訪大社にも出雲大社のような天空まで届くかのごとき巨大な神殿が存在していた、その名残という説。

それぞれに説得力があり、どの説が正しいかなんて分かるわけもない。

いつ創建されたか分からないほど悠遠な歴史を誇る諏訪大社だけに、御柱に関する様々な神事や伝承が積層し続けた結果、多様な起源を有するようになったのではないか?

むしろ御柱の起源に関する多様性が、諏訪大社には建御名方神以外にも数多くの神様が潜んでいることを教えてくれる。

御諏訪様の正体とは、そもそも何者なのか?

御柱のレプリカを眺めながらそんなとりとめのないことを考えつつ、おんばしら館を後にした。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]09

諏訪下春30*

コンクリート製の橋を渡ると「おんばしら館よいさ」という看板が見えた。

右に曲がると少し先、公衆トイレの向こう側に真新しい建物が立っている。

平成28(2016)年4月25日にオープンしたばかりの、御柱祭に関する観光施設だ。

御柱祭は7年に一度、十二支の寅と申の年に行なわれる諏訪大社最大の祭礼で、正式な名称は「諏訪大社 式年造営御柱大祭」と呼ぶ。

ちなみに「日本三大奇祭」のひとつとも言われているが、世に奇妙なお祭りは結構あり3つに収まるわけはないので、これはアテにならないだろう。

中に入るとロビーに御柱がたどる経路を説明した巨大な模型がお出迎え。

山奥で伐採されてから山出し、里曳きを経て各宮へ至るルートが記されている。

御柱祭は上社と下社それぞれ独立しており、実施日も伐採地も里引きのルートも全く別々。

つまり上社と下社で年に2回あるということだ。

次の間は祭の模様を大画面で紹介するシアタールーム。

祭の一部始終を追った10分ほどの映像を、椅子に腰掛けて見る。

テレビのニュースでは「木落し」の部分だけを切り取って“奇祭”っぷりをフレームアップする映像ばかり。

だが、こうして全体をまとめた映像に接すると、御柱祭に対する概念が更新される思いがする。

また、このブースには御柱祭の様々なシーンを再現したジオラマも展示されている。

御柱祭は山奥で選び抜かれた樹齢150年を超える樅[もみ]の木の伐採からスタート。

下社の場合は伐採後、下諏訪町大平の山腹にある「山出し」の開始地点「棚木場」で一年間、御柱を「醸成」させる。

山から里へ送り出す「山出し」が4月、各神社までの道中を曳行する「里曳き」が5月。

4社×4本、計16本の巨大な御柱を、氏子衆が地区ごとに別れて曳いていく。そして御柱を各社殿の四隅に聳立させる「建て御柱」という手順を踏む。

実際には、その後に行われる御宝殿の造り替えも含めて「御柱祭」であり、長い期間をかけて行われるのだ。

大勢の氏子が御柱に乗って急な崖を滑り落ちる「木落し」は、棚木場から約3km地点の「木落し坂」にて行われる。

あくまでも「山出し」の一部であり、ここだけを切り取って単なる“奇祭”とレッテル貼りするのは誤った認識なのだ。

とはいえ木落しが最大のハイライトであることにも違いはなく、それを体験できるブースが次の間に用意されている。

実際の御柱を忠実に象ったFRP製の模擬御柱に乗り、実際に滑り落ちていく映像が映し出される前方のスクリーンを見ながら、華乗(柱に乗る人)目線で木落坂を下る躍動感が体験できる大掛かりな装置。

ただ、入館料とは別に体験料が必要とのことで、今回は冷やかして終わり。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]08

諏訪下春033*

そういえば、まだキチンと参拝していなかったことを思い出した。

先出の説明板にお参りの仕方が記されていたので、その通りやってみる。

一 正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。
二 心の中で願い事を唱えながら、石仏の周りを時計回りに3周する。
三 正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。

真冬の平日の昼下がり、周囲には人っ子一人いない中、たった一人で石仏の周りを3べんも回るのは照れるというか。

どうしても叶えたい願い事でもなければ、なかなかに気恥ずかしい。。

訪れる人が多い季節であれば群集心理が働いて「石仏も みんなで回れば 恥ずくない」のだろうけど。

ちなみに、このお参りの仕方は諏訪大社でもどこかのお寺でもなく、下諏訪の観光協会と商工会議所が提唱しているもの。

なるほど、どちらかと言えば宗教っぽさより観光臭の方を強く感じたお参りの仕方だったのも頷ける。

そんな俗世の些事など我関せずと、黙して何も語らない石仏に別れを告げた。

諏訪下春037*

暫くして後ろを振り返ると、冬枯れて寒々とした風景の中に石仏がポツンと座っている。

その姿はまるで、長年の風雪に耐えながら黙々と念仏を唱えているかのようにも見えた。

帰路は浮島を経由せず直進し、自動車も通れる大きな橋を渡る。

その手前にあるのが「万治の石仏」と刻まれた石碑。

揮毫は「芸術は爆発だ!」でおなじみ、故・岡本太郎画伯の手によるものだ。

万治の石仏が世間に広く知られるようになったのは20年近く前のこと。

御柱祭を見学に来た岡本太郎や新田次郎らが偶然この石像を見て驚嘆し、講演や雑誌の記事などで世間に広く紹介したのがきっかけだった。

岡本が万治の石仏を初めて見た時「世界中歩いてみたがこんな面白いもの見たことない」と語ったほどの衝撃を受けた。という

また、下諏訪温泉みなとや旅館の「岡本語録」には、

「奈良の秘仏より万治の石仏を見てると心が豊かになる」
「カッコ良さより内面が問題」

といった言葉が遺されている。

仏教の様式美に則ってカッコ良く彫刻された古都の仏像より、様式美を取っぱらって魂を刻み込んだ野良の石仏にこそ、内面から発せられる「爆発」的な要素を感じたのだろうか?

岡本太郎の専門家ではないので決め付けはできないが、概ねそうじゃないかと個人的には思う。

諏訪下春37*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]07

諏訪下春35*

万治の石仏が誕生したきっかけは明暦3(1657)年、諏訪高島三代藩主忠晴が春宮に石鳥居を奉納しようとした時のこと。

命を受けた石工がこの地にあった大きな石にノミを打ち入れると石から血が流れ出し、驚き恐れた石工は作業を止めた。

その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があるとのお告げが。

行ってみるとお告げ通り良い石材を見つけることができ、鳥居は無事に完成。

この不思議な石に石工たちは阿弥陀様を刻み、霊を納めながら石仏を建立。

それが「万治の石仏」誕生の由来だ。

左袖には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と刻まれている。

このことから名称の「万治」とは願主が刻字した万治3(1660)年に由来。

また、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟か師弟のつながりを持つ2人だと推定される。

実際、万治の石仏は臍の前で印を結んでいる…かのように彫刻されている。

浄土宗の阿弥陀定印[あみだじょういん]なので、願主が浄土宗の僧侶なのは間違いないだろう。

石仏を遠目から眺めてみると、胴体部分と頭部のバランスがチグハグなように見える。

こうも統一感がなくバラバラなのは、万治の石仏が胴体部分の上に別の石で彫られた頭部が乗せられているから。

石仏は普通ひとつの岩から彫り出されるのに対し、なぜ胴と首が別々の石なのか? 

その理由については未だに解明されず謎のままなのだとか。

諏訪下春036*

石仏に近寄り、間近で眺めてみる。

想像している以上に大きく、見た目以上の威圧感がある。

石工たちが夢枕で見た石材の材質は安山岩。

高さは2m60cm、横は3m80cm、奥行きは3m70cm。

胴体の上に乗ってる頭部は縦の長さ65cm、顔周りは1m38cmもある。

顔をマジマジと眺める。

大仏の顔といえばキリッとした表情を連想するが、万治の石仏の表情は穏やか。

ただ、その奥深い目からは何を考えているのか分からない系の畏怖を感じる。

視線を下げると、胸部に謎の文様が彫り込まれている。

太陽、雷、雲、月、磐座[いわくら]などで、これらは大宇宙の真理を現しているそう。

また、胸部の右端には逆卍…俗に言うハーケンクロイツが刻まれている。

願主がナチスの熱烈な信奉者だった…わけは無論なく。

そもそも仏教で卍印は縁起のいい文様で、逆卍も古代から仏教などで用いられており、ヒトラーがデザインしたわけでもない。

「逆卍=ナチス=悪」という全世界的なレッテル貼りには、万治の石仏も名称に「マンジ」を冠しているだけに内心では迷惑がっているかも知れない。

諏訪下春36*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]06

諏訪下春16*

再び神楽殿の前に戻ってきた。

授与所の前で依頼した御朱印を待ちつつ境内の景色を眺めていると、右側の斜面にある急坂の存在に気付いた。

位置的には授与所と縁結びの杉の間。

注連縄で封印され立ち入ることができないようになっており、何らかの神聖さを感じさせる。

御朱印を受け取る際に尋ねてみると、山奥から切り出されて遥々と曳行されてきた御柱を境内へと導く「木落し」の坂とのこと。

この狭い急斜面を春宮と秋宮の御柱8本が次々と滑り落ちていく様は想像するだけでも猛々しい。

春宮の御柱は先端を三角錐に整える儀式「冠落しの神事」が行われた後、何本ものロープが取り付けられ、氏子たちの手で起立させる「建御柱の神事」を以って神の化身へと変貌。

秋宮の柱4本は石鳥居を抜けて下馬橋の前で一夜を明かした翌日、下諏訪の街中をパレードしながら秋宮へと向かう。

何万人もの観衆が押し寄せる御柱祭、春宮の境内も熱狂の渦が巻き起こる。

だが月曜お昼の境内は、そんな熱狂が嘘のような静けさ。

パチパチと爆ぜる焚き火に当たり、木落しの坂を眺めつつ、つい半年ほど前に繰り広げられた御柱祭に思いを馳せた。

境内の西側に立つ「万治の石仏」の案内板に従い、下り坂をユルユル歩いていくと先方に川が流れている。

社殿の西方、境内の脇を流れる清流「砥川」。

朱塗りの細い端を渡ると「浮島」という中洲に出た。

大水が出ても流されることなく、下社七不思議の一つに数えられている。

諏訪下春32*

島の奥…というか上流側に小さな祠が祀られている。

「浮島社」といい、祭神は清め祓いの神様。

今でも毎年6月30日には「夏越の祓」が、ここで行われている。

土色に塗装された金属製のか細い鳥居をくぐり、松の木立を通り抜けて祠のもとへ。

建てられたばかりの細い御柱が四隅に立ち、真新しい瑞垣が社殿の周囲に巡らされている。

ただ、御柱や瑞垣に比べれば小さな社殿自体は相当な年代物のように見える。

鳥居と同じ土色に塗装されているせいかも知れない。

春宮側から対岸へ架かる更に細い橋を渡り、砥川の上流へ向かって歩く。

川べりに設けられた石仏への道は綺麗に整備され、途中には売店もある。

だが、さすがに真冬の平日には開いていない。

暖かい季節には道端の木々も生い繁り、せせらぎをBGMに快適な散歩道になることだろう。

やがて、清流に面した扇状地の一角に巨大な石仏がポツンと佇んでいるのが見えた。

次第に石仏の形状が露わになるにつれ、そのユニークな姿に心が躍る。

石仏の手前まで来ると、三本の説明板が立っていた。

由来、伝説、そしてお参りの作法。

諏訪下春34*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]05

諏訪下春21*

諏訪高島藩は大隅流の宮大工として当初、村田と伊藤の2家を召し抱えていた。

芝宮長左衛門は伊藤弥右衛門の次男として、兄儀左衛門と共に大隅流を継いだ。

最初は村田家の職養子となり村田姓を名乗り、後に芝宮家の養子となり、兄と協力して多くの建築に当たっている。

安永6(1777)年に下社の建て替えが決まり、秋宮を立川和四郎富棟が金80両と扶持米80俵で請け負った。

それに対し長左衛門は代々の宮大工として、また大隅流のためにと特に願い出て35両扶持米なしで春宮を引き受けた。

しかも不足額を自前で工面したうえ、秋宮より一足先に落成させた。

さらに、兄の仕事の邪魔になるからと自ら信州を離れ、上州方面に出て仕事をしたという。

古社ならではの質実な造作の中、幣拝殿の隅々に刻まれた繊細な建築彫像の数々が長左衛門の心意気とプライドを訴えかけてくるかのようだ。

諏訪下春23*

幣拝殿のド真ん中、その奥に垂れ下がる御簾越しに奥の御宝殿を見る。

諏訪大社は四宮とも本殿が存在しない。

その本殿が本来あるであろうという下社で最も重要な位置、御神座とも相殿ともいわれる場所には御神木が立っている。

秋宮の一位の木に対して春宮は杉の木。

平素山上におられると考えられた神々を御神木にお招きし、その神々にお供えする御神宝を祀っていたのが御宝殿。

御神木を中央に挟む形で左右に旧殿と新殿が立っている。

伊勢神宮では遷宮の後に旧殿を取り払うが、諏訪大社では上下社とも旧殿と新殿が平素から並んで立っている。

室町時代の記録によると新築後7年間は風雨に晒し清めてから遷座し、旧殿を解体新築して更に7年を経てから御遷座という形式だった模様。

だが、江戸時代に入ってからは新築の建物へ直ちに遷座するよう形式が変わり、現在に至っているそうだ。

宝殿のすぐ横まで近づき、瑞垣越しに眺めてみる。

妻入造で屋根は茅葺、一見すると本殿っぽい感じもするが、千木が屋根の端だけでなく真ん中にもあり、堅魚木が10本も乗っている点が本殿の造りとは違和感がある。

二之御柱から神楽殿の西側へ回り込むと「筒粥殿」という小さな御社が目に止まった。

ここは毎年正月14日夜から15日朝にかけて行われる「筒粥神事」用の神粥を炊き上げるための社殿。

この神事は神職が囲炉裏を囲み、大釜の中に米と小豆と葦の筒を入れて一晩中炊き続け、筒の中に入った粥の状態によってその年の豊凶を占うというもの。

時代によって作物の種類と品数は異なるが、現在は43種の作物の豊凶と世の中全般を1本の計44本の筒が使われる。

扉が閉ざされて中の様子は伺えないが、説明板には土間の中央にある石製で円形の囲炉裏は江戸時代初期のものとある。

神事なので当たり外れは度外視かと思いきや「その占いの正確なこと、神占正に誤りなし」と諏訪七不思議の一つに挙げられる程の高的中率とのことだ。

諏訪下春19*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]04

諏訪下春15*

その神楽殿の右脇に巨大な杉の木が立っている。

一つの根元から途中で二股に分かれている「連理の木」、別名「木連理」。

「縁結び」や「夫婦和合」の象徴として、よく神社の境内で見かける。

ここの木連理も「縁結びの杉」と呼ばれているそうだ。

その先に、なぜか建御名方神を祀った末社「上諏訪社」が立っている。

諏訪大社は上下社四宮でひとつの神社のはず。

ちなみに上社の祭神は本宮が建御名方神で前宮が八坂刀売神。

いずれも下社でも祭神なので、春宮では建御名方神が重複して祀られていることになる。

小さな末社ではあるが、その存在の陰に諏訪大社の祭神に関するそこはかとない謎が潜んでいるのかも知れない。

諏訪下春26*

神楽殿と結びの杉の間を通り抜けて社殿の前に進むと、そこに一本の巨大な木柱が聳立している。

言わずと知れた諏訪大社の象徴「御柱[おんばしら]」。

右横から奥を覗くと、そこにも同じ柱。

左側を見ると、向こうの端にも同じ柱。

それもそのはず、御柱は御神域を囲む四角形の四隅に配置されているのだ。

目の前にあるのが一之御柱で、社殿を中心に時計回りで二、三、四の順番で取り囲んでいる。

この4本の御柱で御神域を囲む形状は四宮すべて共通だ。

御柱に用いられるのは樹齢150年を優に超える樅[もみ]の大木。

長さ約17m、直径1m余、重さ約10トンにも及ぶ。

確かに御柱を下から仰ぎ見ると相当な大きさ。

木肌は綺麗に磨かれてスベスベだが、枝を切り払った数多の節目が不気味に浮き出し、まるで諏訪の大神が森羅万象を見通している「神の眼」の如き畏怖を感じる。

ようやくたどりついた社殿の前に立ち、改めて仰ぎ見る。

中央に幣拝殿、左右に片拝殿という配置は秋宮と同様。

だが片拝殿は幅が短く、屋根が片切りになっている点が異なる。

秋宮のところでも触れたが、春宮は芝宮長左衛門が請負い、安永9(1780)年に竣工させた。

また、秋宮を担当した初代立川和四郎富棟との間には、人間模様を彩る様々な言い伝えが残されている。

春宮側の人足が和四郎の仕事の邪魔をしようと、闇夜に紛れて秋宮へ忍び込み建材の柱を切った。

すると、それを見越していた和四郎は予め長めに切っておいたため、切られた柱は寸法通りスッポリと目的の場所にハマったと言い伝えられている。

また、先に仕上がった春宮を見に行った和四郎が正面蘭間の竜を見て「死んだ竜が刻んである」と貶した。

すると長左衛門は「悟りを開くと動物でも腹を出して休むのを知らんのか?」と笑い飛ばしたいう。

それから少し後の秋宮竣工の時、長左衛門が脇飾りの竹に鶴の彫刻を見て「竹の下にあるのは筍かと思ったが、葉の重なりが百合の芽だ」と笑い返したそうだ。

諏訪下春20*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]03

諏訪下春10*

正面に石鳥居と社号標、左手に手水舍が見えてきた。

それにしても、秋宮に比べると門前はかなり窮屈だ。

普通なら境内にある手水舍も県道に面して立っている。

もともと春宮の境内だった土地が区画整理で一般の市街地になったのだろうか?

石鳥居を真下から仰ぎ見る。

テッペンまでの高さは8m20cm。

御影石製で建立は万治2(1659)年と推定されるが、施工した石工の名は伝わっていない。

建てる際は片付け賃を入れた土俵を積み上げて足場を築き、その上で鳥居を組み立てた。

工事後、工夫らが土俵をアッという間に持ち去ったので、施工現場はキレイに片付いたそうだ。

鳥居をくぐりつつ下社の祭神について考える。

諏訪大社下社の祭神が秋宮春宮とも建御名方神と八坂刀売神の夫婦神、それに兄神の八重事代主神が配祀されていることは秋宮で触れた。

建御名方神と八重事代主神は「出雲国譲り神話」で中心的な役割を果たした兄弟神だが、妃神の八坂刀売神についてはよく分からない。

もともと建御名方神は古事記にのみ現れて日本書紀には登場しないが、八坂刀売神は古事記にすら登場しない。

諏訪地方土着の神なのかも知れない。

諏訪下春13*

では祭神が下社の秋宮と春宮それぞれに祀られているかというと、そうでもない。

実は半年ごとに祭神は両宮を行ったり来たりしている。

毎年2月1日には御霊代[みたましろ]を秋宮から春宮へ遷す「遷座祭」。

半年後の8月1日、今度は春宮から秋宮へ遷座する「下社例大祭」が、それぞれ行われる。

夏の例大祭は別名「お舟祭」。

遷座の神幸行列に続き、青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、氏子数百人の手で曳行されることが名の由来だ。

柴船が秋宮へ曳航?されると神楽殿を三巡、神事の相撲三番が行われて式は終了、翁媼人形は焼却される。

明治初頭までは柴舟を裸の若者たちが担ぎ街を練り歩いたので「裸祭り」とも呼ばれているそう。

ただ、遷座祭で奉献される玉串は榊ではなく、なぜか楊柳(川柳)。

諏訪大社独特の風習なのだろう。

緩やかな勾配を登っていくと正面に神楽殿が待ち構えていた。

秋宮と同様、軒先には巨大な注連縄が張られている。

ただ、建物そのものは秋宮より小さく、造りも簡素。

石段の数も少なく、秋宮にはあった狛犬も濡縁の高欄もない。

とはいえ春宮の神楽殿は数ある大社の建物の中で最も修改築が多い建物。

天和年間(1680年代)の改修に加え、最近では昭和11(1936)年に大改修が施されている。

諏訪下春17*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]02

諏訪下春05*

県道185号線は春宮大門の交差点から県道184号線、通称「大門通り」に名を変える。

社頭から一直線に伸びる表参道で、その長さは約800mあるそうだ。

大門通りと中山道の春宮大門交差点に巨大な鳥居が聳立している。

扁額や装飾の類は一切なく、全体が薄緑色なのは表面を青銅板で覆っているからだろう。

件のスーパーの前を通り過ぎ、春宮へ近づくにつれて次第に繁華さは薄れ、落ち着いた住宅地の風情が漂う。

この「大門通り」、かつては春宮の専用道路だった。

下社の大祝金刺一族をはじめ多くの武将たちが流鏑馬を競った馬場だったという。

かつては道路の両脇に「さわら並木」と呼ばれた大木が並び、昼でも薄暗いほど鬱蒼としていた。

しかし枯死、風倒、舗装のための伐採などで並木は次第に失われ、昭和39(1964)年に最後の1本が枯死したことで往時の面影は失われてしまった。

諏訪下春8*

大門通りの右側に巨石が並ぶ一角がある。

これらは「力石」と呼ばれ、昔から村の集会場の庭に置かれていた。

重いもので約60kgあり、昭和の初期ごろまで若者たちの力比べに使われていたそうで民俗的にも貴重な資料とのこと。

その先、大門通りの真ん中に、まるで行く手を阻むかのようにドンと立つ古風な建物。

御手洗川に掛けられた「下馬橋」という橋で、その形状から「太鼓橋」とも言われている。

石積みの土台に木製のアーチ橋で、上には大ぶりの屋根。

梁行(横)は1・8間(3・35m)、桁行(縦)は5・5間(9・95m)、棟高(屋根のテッペンまでの高さ)が5・35mというから、そこそこ大きい。

最初に建立されたのは室町時代と伝わるが鎌倉時代の建築様式をもって建てられ、簡素な中にも力強さと美しさを兼ね備えたデザインが特徴的。

現在の下馬橋は元文年間(1736〜1740)に修築されたものだが、それでも下社では最も古い建物にあたるそうで、宮大工の三井伝左衛門の手によるものと言われている。

ただ、本来檜皮葺だった屋根は昭和35(1960)年に銅板葺に改修され、同時に橋の踏み板も取り替えられている。

往時は、たとえ殿様であっても駕籠や馬から下りるよう求められたことが橋名の由来。

同時にここは春宮に参拝する際、下を流れる御手洗川の水で身を清める場所だった。

しかし現在の御手洗川はコンクリートで塞がれ、まるで暗渠のよう。

だが、橋の下の部分だけは溝蓋状で取り外せるようになっている。

現在は原則として通行禁止になっているが、年二度の遷座祭の行列でのみ神輿だけが下馬橋を渡ることができる。

また御柱祭での曳航でも春宮を経由した秋宮の御柱は、一旦ここで一夜を明かして秋宮へ向かう。

諏訪下春09*

[旅行日:2016年12月12日]
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