「空飛ぶ泥舟」から緩やかな坂道を下っていくと、右手に大祝(おおほうり)諏方家の墓所があった。
北斗神社のところでも少し触れたが、大祝とは諏訪上社五神官の筆頭。
建御名方神の末裔であり、その依り代(よりしろ=神霊が宿る対象物)にして現人神(あらひとがみ=生き神様)として諏訪明神の頂点に位置していた。
往時、穢れがないという理由から多くは幼童、それも8歳くらいの男児が選ばれていた。
一年間その身体を神に捧げ、神を降ろし託宣することで諏訪地方の祭事を取り仕切っていたという。
生き神様を祀る信仰が存在し続けた諏訪社は全国的にも珍しい存在だったそうだ。
上社の大祝は「諏方(すわ)氏」を名乗り、古代から明治維新後に神官の世襲制度が廃止されるまで続く。
諏方氏は鎌倉時代に幕府の御家人となり、戦国時代には諏訪郡一帯に勢力をふるうなど領主として政治権力を掌握。
慶長6(1601)年には武家と社家が分立し「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」として完全に政教分離。
前者は「諏訪高島藩」3万石に封じられ、そのまま明治に至り子爵に列している。
一方の大祝諏方家は最後の当主が平成14(2002)年に逝去、断絶してしまった。
ただ、大祝諏方家が居住していた邸宅は諏訪市が整備・保存し、一般に公開されている。
場所はここから北へ直線距離で500mほど、中央自動車道諏訪ICの近くにあるそうだ。
さらに坂道を下り続けると、その先にまたまた珍妙な建造物が姿を現わした。
「神長官守矢史料館(じんちょうかんもりやしりょうかん)」。
ここもまた「空飛ぶ泥舟」と同じ藤森先生の手によるもので、しかも初めて設計した建築物という。
[旅行日:2016年12月13日]