大阪砲兵工廠は明治3(1870)年に創設された官営の兵器製造工場だった。
日清、日露、第一次世界大戦と戦争を経るごとに規模が拡大。
明治時代末期に敷地は大阪城東側全域、玉造門のあたりまで広がった。
従業員数も6万人強に膨れ上がり、アジアでも最大規模の軍需工場に。
太平洋戦争が始まり大阪市内も空襲を受けるものの、大阪砲兵工廠の被害は軽微。
しかし終戦前日の昭和20(1945)年8月14日、大阪砲兵工廠を狙い撃ちにした大規模な空襲を受け、設備の90%が破壊された。
それでも幾つか建造物は残り、歴史的建造物として保存運動が起こったり、文化庁が戦争遺跡として調査を指示したりしていた矢先の昭和56(1981)年。
大阪市は突如こうした保存に向けての動きを無視し、象徴的な建造物だった旧本館の解体に踏み切った。
廃墟同然の建物群がいつまでも都心部に放置されている状況に、治安上も風致上も問題があったのは確かに理解できる。
とはいえ、こうした時代物の建造物は一旦取り壊すと復元は二度とは不可能。
建物群を保存しながら一帯を再開発することはできなかったのだろうか?
先出の大阪市立博物館もそうなのだが、こうした“戦争遺構”を大阪市は抹消していきたいのではないか? そんな指向性を感じる。
大阪城ホールと太陽の広場の間を通り抜けると、大きな噴水の向こう側に水上バス乗り場があった。
ここ大阪城港から観光水上バス「アクアライナー」が発着する。
眼前を流れる第二寝屋川を出発した「アクアライナー」は天満橋、淀屋橋、大阪アメニティパーク(OAP)を周航するコースをたどる。
とはいえ乗船することもなく、ベンチに腰掛け、対岸に林立する大阪ビジネスパーク(OBP)の高層ビル群をボンヤリと眺める。
現在OBPが立地している場所もまた、終戦までは大阪砲兵工廠の敷地だった。
歴史の継承という“過去”と経済の振興という“現在”。
両者のバランスを取りながら都市を発展させていくことは難しいことなのだろうか?
そんなことを考えていたら、不意に背後から子供たちの歓声が聞こえてきた。
「おじいちゃん、こっちこっち!」
「ほらほら、危ないで!」
振り向けば、大坂城港ターミナルへ向かう老夫婦と若夫婦、それに小さな姉弟の三世代一家の姿。
これから“舟遊び”にでも興じるのだろうか? 子供たちはハシャぎ、若夫婦は声を荒らげ、その光景を老夫婦はニコニコと見守っている。
この一家のように、大阪の街も上手く歴史を継承してくれたらいいだが。
ベンチから腰を上げ、噴水から一直線に伸びる広い道を歩く。
奥には大阪城公園駅。
隣の森ノ宮駅から約1時間半かけて遠回りした、大阪城の彷徨だった。
[旅行日:2014年6月23日]