南宮大社を後にして、来た道を垂井駅へ。
沿道には民家と空き地が交互に立ち並び、神社の参道というより素朴な田舎道といった風情。
そういえば南宮大社の境内もガランとして殺風景な印象を受けたが、その理由は参詣後に何となく分かった。
かつての南宮大社は神仏が習合した巨大な社寺だった。
そこから明治政府の神仏判然令で寺院の要素が排除され、真禅院として遠くに切り離されてしまった。
仏教の堂宇伽藍が存在した場所は空き地のまま、神社の境内として整備されたのだろう。
視界の遥か先、巨大な鳥居が再び姿を表す。
その存在感は、排除された仏教的色合いが再び帯びることのないよう警戒し、覆い隠しているかのようだ。
国道21号線を渡り、住宅街を抜けて垂井駅へ。
途中、東海道本線の踏切があった。
その上に立ち、垂井駅の方を眺める。
ここまで新幹線の高架下をくぐり、国道を渡り、在来線の駅へと向かって来た。
これら交通の大動脈は南宮大社の北側で次第に接近し、遥か南側を通る名神高速道路も北へカーブして寄り添い、不破の関あたりで交通路“四天王”が集結。
関ヶ原は今も昔も交通の要衝だと実感できる。
昼下がりの垂井駅南口は人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。
改札を抜けてホームに降りると、1枚のパネルが掲げてある。
垂井が生んだ 戦国の軍師
竹中半兵衛公の里
垂井町 垂井町が観光の中心に竹中半兵衛を据えている証だろうか。
しかし半兵衛一本推しでは弱いような気もする。
そういえば南宮大社では関ヶ原の戦いについて、由緒に「兵火で焼失」としか記されておらず詳細な説明板もなかった。
先述の通り南宮山近辺は戦わずして趨勢を決した吉川広家をはじめ、安国寺恵瓊や長束正家、長宗我部盛親ら西軍の主戦力が布陣した場所。
関ヶ原合戦の南宮山近辺における情勢について解説する施設があってもいいような気もする。
パネルに描かれた軍師半兵衛公の不細工な絵を眺めつつ、そんなことを思った。
[旅行日:2016年12月10日]