千葉県

一巡せしもの[香取神宮]03

rj02香取t4u04

12年に一度、午年の4月15~16日に行われる「式年神幸祭」では津宮浜鳥居から御神輿をのせた御座船が大利根を遡っていく。

香取神宮でも創建からしばらくは伊勢神宮と同様、20年に一度「式年遷宮大祭」が行われていた。

しかし戦国時代以降は途絶えてしまい、その代わり行われるようになったのが式年神幸祭。

同時に利根川の対岸、北浦湖畔にある鹿島神宮の一の鳥居からも神楽を乗せた御座船が出航。

航行の途上、佐原の沖合で鹿島神宮の出迎え船が待ち構え、河上で御迎祭が行われる。

15日に佐原の河口で上陸し、市街にある御旅所で御駐泊。

翌16日は市内を巡幸した後、今度は陸路を通って香取神宮まで還御するそうだ。

一方の鹿島神宮でも同様に12年に一度、午年の9月1~2日に「式年大祭御船祭」が行われる。

1日は皇室勅使の参向例大祭が斎行され、翌2日早朝は御神輿が一の鳥居の大船津河岸へ。

そこから御神輿を奉戴した御座船が数多の供奉船を従えて佐原市の加藤洲に渡る。

そこで香取神宮の御迎祭を受けた後、再び同じ水路をたどって戻るという。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]02

rj012香取t4u03

道を確認しようと駅前の案内板を見れば「香取神宮まで徒歩約30分」と表示されている。

鹿島神宮駅から香取駅より、香取駅から香取神宮までの所用時間のほうが長かったわけだ。

駅舎を左手に回りこみ、成田線の踏切を越え、内陸に向けて歩き出す。

小川を渡り、住宅と田圃が混在する長閑な風景の中を進む。

高層建築物がないので遠くまで見晴らしがいい。

しばらく歩くとT字路に行き当たった。

正面には鳥居の連なる小道が小高い丘の上へと続いている。

先の案内板によると、この丘は神道山古墳。

その頂きには桝原稲荷神社が鎮座している。

ただ、入り口から境内までは「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されており、参拝も命がけ。

古墳とあっても香取神宮には関係を記した古文書などの類は残されておらず、直接的な関係はなさそうだ。

神道山古墳のT字路を左折し、田圃の中をテクテク歩く。

もし、このT字路を逆方向の右へ曲がると、どこに道はつながっているのか?

道は利根川に向かって一直線に続いている。

行き着く先は利根川とぶつかる河畔。

そこには津宮浜鳥居(つのみやはまとりい)が聳立している。

香取神宮の御祭神、経津主命(ふつぬしのみこと)が海路ここから上陸したと伝わる場所で、往時の表参道口に当たる。

つまり津宮浜鳥居から続いている、今歩いているこの道こそ太古の昔は表参道だったわけだ。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]01

rj01香取t4u02

鹿島神宮駅を発ったJR成田線536M列車は、潮来の水郷地帯を突っ切って行く。

長大な利根川の鉄橋を渡り、常陸(ひたち)国から下総(しもうさ)国へ。

千葉県の旧国名は北から南へ下総国、上総(かずさ)国、安房国の順で並んでいる。

なので地図を見ると下総国が“上”に、上総国が“下”に、それぞれ位置する形。

これではアベコベではないか?
実はこの「上下」、「南北」の意味ではない。

五畿七道が制定された古代、都から位置的に近いほうに「上」、遠い方に「下」と名付けられた。

例えば京都から近い群馬県は「上野(こうずけ)国」、遠い栃木県は「下野(しもつけ)国」といった具合。

当時、畿内から房総半島へは海路を船で渡っており、上陸する南側に位置するほうが都に近いため「上総国」になったという次第。

536Mは14時53分、香取駅に定刻通り到着した。

鹿島神宮駅から香取駅まで実は4駅しか離れておらず、乗車時間にして20分弱といったところ。

香取駅は小さな無人駅で、朱色を基調とした外観の意匠は香取神宮をモチーフにしているのが一目瞭然。

かといって、ここが香取市の中央駅かといえばそうではなく、香取神宮まで路線バスの便もなければ駅前でタクシーが待っているわけでもない。

香取神宮の公式サイトでも「香取駅からはタクシー・バスなど出ておりませんので、佐原駅をご利用いただいた方が便利です」と、ご丁寧に注意を喚起しているほどだ。

こじんまりとした駅舎を通り抜け、駅前に出る。

特にこれといって何があるでもなく、ごく普通の住宅街といった印象。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[洲崎神社]18

RJ洲崎18

19時04分、安房鴨川行き普通列車に乗車。

いい加減この時間の車内はガラガラ。

人口が少ないのではなく、みんな自家用車で移動しているからだろう。

19時32分、安房鴨川着。

同36分発の特急わかしお30号に乗車。

といっても勝浦までは普通列車として運行されるため、特急券なしで特急用車両で寛げる。

内房線に特急はほとんど走っていないので、外房線を選択して正解だった。

これも洲崎神社の御利益だろうか?

20時05分、勝浦着。

特急わかしお30号を後にして同11分発の普通列車に乗り換える。

特急料金を払ってまで先を急ぐアテもない。

20時54分、上総一ノ宮に到着。

駅名が示す如く、程近くに上総國一之宮の玉前神社が鎮座している。

今回は惜しくも参拝は叶わなかったが、またいずれ訪れる時のための予行演習だと思えばいい。

いずれまた改めて訪れることにしよう…ホームの駅名標を眺めながら、決意を新たにした。

21時04分、茂原着。

ここで同07分発の横須賀線久里浜行き快速に乗り換える。

先の普通列車はここで6分間停車し、快速が発車した後の同10分に出発する。

特急は別料金が必要だが、快速は不要なので乗り換える。

なかなかバラエティに富んだ鉄道旅行だ。

22時17分、錦糸町に到着。

既に出発から約11時間が過ぎている。

しかし、とても11時間とは思えないほど様々な出来事が凝縮された半日間だった。


(安房國一之宮「洲崎神社」おわり)

[旅行日:2012年12月17日]

一巡せしもの[洲崎神社]17


RJ洲崎16

17時40分、白浜行きのJRバスがやって来た。

車内には乗客が数名。先のバスマニア氏も乗り込んできた。

薄暗い闇の中を走ること20分ほどで
JRバス関東の安房白浜駅に到着。

ここで18時発の館山日東バス千倉行きに即乗り換え。

車内では先のバスマニア氏が運転手と会話を交わしている。

バスマニアでも何でもなく、単なる馴染み客だったのか。

塩浦バス停で先の馴染み氏が降車すると、車内に乗客は自分一人になった。

車窓が次第に繁華な町並みで彩られていくうち18時25分、
JR千倉駅に到着した。

思えば錦糸町駅を出立してから何も食べていない。

しかし、駅前にはこれといった飲食店が見当たらない。

商業施設はロードサイドに集中し、駅近辺はモヌケのカラというのが地方共通の光景。

それでも駅前から延びる通りを入ってすぐのところに一軒の食堂を見かけた。

名を「菊川食堂」という。

中に入ると店内に「牛もつ煮込み定食はじめました」の貼り紙があったので注文してみる。

メインの牛もつ煮、小鉢の蓮根のきんぴら、それに蜆の味噌汁とご飯。

牛もつをつつきながら、ひとしきり考える。

千倉から東京へ戻るには内房と外房、いずれかを選択する必要がある。

時間的にもさほど差はない。

ならばここは当初の予定を尊重し、外房を経由して帰京することに決めた。

(旅行日:2012年12月17日)

※写真は後日撮影したものです。

一巡せしもの[洲崎神社]16

RJ洲崎17

そんな道をトボトボ歩いていると突然、目の前に動く影が現れた。

追い剥ぎ? それとも熊?

ハッとして身構えると、それはジョギングしていた単なる小柄なオッサンだった。

無言のうちにすれ違いざま、とある想いがフッと脳裏をよぎる。

まだ時刻は18時前だというのに、こんなに心細い思いをするとは!

ここは東京からほど近い、一応は首都圏。

だが、クルマを持たざる人間にとって、特にシーズンオフの時期は、紛れもなく最果ての地であると。

17時30分過ぎ、ようやく相の浜に到着した。

バス停の位置が分からなかったのでガソリンスタンドで尋ねがてら時計を見ると17時38分…まだ間に合う!

バスを待つ間に周囲を見渡すと、安房神社への案内看板が目に止まった。

ここから至近距離に鎮座している。 だが、今回は立ち寄らず帰ることにした。

本来なら洲崎神社の後、安房神社と玉前神社を参詣の予定だったが、見通しが甘かった。

バス停にはコンクリートブロック製の小屋が設置され、待つ間に雨風を凌げるようになっている。

その小屋から若いのか中年なのか判然としない一人の男性が飛び出してきた。

上下ジャージ姿で背中にリュックサックを背負っている。

明らかにビジネスマンではない。

バスマニアだろうか?


(旅行日:2012年12月17日)

※写真は後日撮影したものです。

一巡せしもの[洲崎神社]15

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歩道は整備されているものの、海岸線に近いため海砂でところどころ埋もれている。

すれ違う人もおらず、滅多に車も通らない。

たまに通りかかる車のヘッドライトが唯一の光明といっていい。

館山から乗車したJRバスの終点(のハズ)だった伊戸と、この徒歩行の目的地である相浜。

全長約46キロにも及ぶフラワーラインのうち、伊戸と相浜の間約6キロは「日本の道百選」にも認定されている国内屈指の風光明媚な道路。

道路の海側には砂防用のクロマツ林が広がり、さらにその先には美しい砂浜で有名な平砂浦海岸が続いている。

平砂浦海岸の松林と砂浜が織りなす絶妙の美しさは「白砂青松100選」に選ばれているほど。

とはいえ、それらはすべて昼間、しかも好天時の話。

とっぷり日も暮れ、街灯もなく、車も通らず、もちろん歩行者もいない。

たまに通りかかる車のヘッドライトが唯一の光明といっていいぐらい。

そんな道をひたすら歩き続ける。

空気の澄んだ日には富士山や伊豆諸島が望めるという。

しかし、薄ぼんやりとした視界には左側に大規模な温室群、右側には大海原と防砂林しか目に入らない。

上空に浮かぶ三日月が唯一の“証明”である。

(旅行日:2012年12月17日)

※写真は後日撮影したものです。

一巡せしもの[洲崎神社]14

RJ洲崎14

16時53分、洲の崎神社前からバスに乗る。

車内には高校生が3人ほど。

みんな途中で降車し、最後は自分一人っきりになってしまった。

すっかり日も落ちたフラワーラインをバスに揺られること10分余。

17時05分、南房パラダイスに到着した。

ここは道の駅なので様々な施設が揃っているのだが、残念ながら16時30分にてクローズ。

灯りが点いているのは公衆トイレぐらいなもの。折角なので用を足した。

南房パラダイス…略して「ナンパラ」。

千葉県最大の動物園にして植物園。…のハズだが、それにしては何もない。

本日、ここを発着するバスも先ほどの便にてオシマイ。

休日の昼間には大勢の観光客で賑わうのだろうか?

結局、自家用車で明るいうちに来ないと何の意味もない施設だということが如実に分かった。

空と海がひとつになり、群青色に包まれた水平線を眺めつつ、ひとつの決断を迫られる。

まだバスの便がある相の浜バス停まで歩くこと。

南房パラダイスから約2キロ弱、徒歩約40分といったところか。

寄せては返す波の音をBGMに、フラワーラインを北に向かって歩き出す。

(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]13

RJ洲崎13

観音堂から右手に回ると先出の子育て地蔵があり、その裏手には剥き出しの岩肌に石段が築かれている。

上へ登っていくと、そこには広目の岩窟が穿たれ、奥の真ん中に役行者の石像が祀られていた。

中には灯りもなく、日も傾いた逢魔が時に出くわすシチュエーションとしては、このうえなく刺激的である。

役行者、又の名を役小角。

言うまでもなく修験道の開祖であり、それこそ日本中に“聖蹟”が散りばめられている。

洲崎神社の社伝によると、養老元(717)年に発生した大地変で境内の鐘ヶ池が埋没。

鐘を守っていた大蛇が災いをおこしたとき、祈祷して退治したのが役行者とのこと。

海上歩行や空中歩行などの神通力を有する役行者は、古くから足の守護神として崇められてきた。

このため岩屋には多くの履物が奉納されているのだが、このシチュエーションで見る履物の群れは余りにも異様に過ぎる。

境内には他にも様々な石仏や石碑が立ち並んでおり、洲崎神社よりも興味深い空間ではあった。

とはいえ黄昏時とあって宵闇が次第に濃度を増し、境内の雰囲気は既に黄泉の様相を呈している。

それに保育園の周りを無意味にウロつき不審者と間違われるのも嫌だったので、バスが来るまで多少の間はあったが、そそくさと養老寺を後にした。


(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]12

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細い参道を入ると正面に朱塗りの仁王門が聳立している。

境内にある保育園の出入口も兼ねており、ちょうど夕刻とあってか、ひっきりなしに母親たちが我が子を迎えに来ていた。

名称は「子育保育園」。

保育園の名称としてはありきたりのような印象を受けるが、その由来は境内に鎮座する「子育て地蔵」に因んだもの。

地蔵の建立は寛政9(1797)年というから、200年余に亘って地域の子どもたちを見守り続けてきたことになるのか。

夕闇が迫る中、母子が連れ立って家路を急ぐ寺の境内に、得体の知れぬ怪しき男が一人。

我が身を客観的に鑑みれば、こんなところで観音様を拝んでいていいのかとも思うが。

園舎と参道を挟んだ向かい側にはススキが群生しており、それが状況を一層おどろおどろしく演出している。

といっても、これらは「一本ススキ」と呼ばれる由緒正しき代物。

源頼朝が洲崎神社へ参詣した際、昼食で箸の代わりに使ったススキを「我が武運強ければここに根付けよ」と言いつつ地に挿したところ、本当に根付いたという伝承が残っているそうだ。

園舎の前を通り過ぎ、石段を昇ると正面には朱塗りの観音堂。

堂内には本尊で洲崎神社の本地仏でもある十一面観世音菩薩が鎮座している。

(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]11

RJ洲崎11

海岸線から神社へ引き返そうとした時、左側へ緩やかに下っていく小路を見つけた。

興味をそそられ先に向かって歩いていくと、漁船や釣り船が数多く係留されている小さな漁港に出た。

ここ「洲崎漁港」から更に先へと延びる細い道を進めば、そこには小さな旅館が数軒立ち並んでいる。

釣り客相手に営業しているのだろうか。

そこに「明神荘」という名の旅館を見つけた。

名は無論、洲崎神社に因んだものかと思われる。

玄関から寅さんがひょっこり現れそう…そんな佇まいだ。

両脇を竹藪で覆われた「笹のトンネル」のような小路を抜け、フラワーラインを歩く。

やがて、洲崎神社に隣接している「洲崎観音養老寺」前のバス停にたどり着いた。

洲崎観音養老寺、正式には妙法山観音寺という。

次のバスまで時間があったので境内を散策することにした。

創建は養老元(717)年で、開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)。

神仏分離までは洲崎大明神の社僧を勤めていたという。

また、ここは曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台にもなった。

こちらはこちらで、なかなかに興味深い歴史を刻んでいる。


(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]10

RJ洲崎10

安房口神社の石は先端に丸い窪みがあることから「阿形」。

洲崎神社の石は口を閉じたような裂け目があることから「吽形」。

これら両者で東京湾の入り口を守る狛犬のように祀られているそうだ。

小径を海へ向かって歩いていくと、瑞垣に囲まれた御神石が鎮座していた。

夕陽を浴びて金色に染まった御神石の形状は、どこか男根を想起させる。

ということは、対岸の横須賀安房口神社に鎮座している御神石は女陰の形状をしているということか。

安房口の御神石を目視したわけではないが、洲崎が「吽形」、安房口が「阿形」というのなら、その可能性は十分ある。

一度、確認しに行かねばなるまい。

すっかり西洋キリスト教文明に毒された昨今の日本は、「男根」「女陰」と目にすれば即座に「ポルノグラフィ」を連想させるような、そんな下衆た社会になってしまった。

しかし、陰陽道に支配された往古の日本社会に於いて「陰陽和合」は万物生成の源であり、「男根」「女陰」の形状をした石が御神体として崇められるのはごく自然なことだった。

御神石から海岸線へと向かう。

海は遠浅、海岸線は岩礁で砂浜ではない。

ところどころ海面から岩が頭をのぞかせ、まるで船舶の接岸を拒んでいるかのようだ。

ここ房総半島の先端から、夕日を浴びて金色に輝く東京湾を眺める。

今から800年以上も昔、平家との戦いに敗れた源頼朝もまた、この海を渡って伊豆から逃れてきたのかと思うと、なかなかに歴史ロマンを感じさせてくれる。

(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]9

RJ洲崎09

急峻な石段を下りつつ、遥かな海原を見やる。

海からの冷たい潮風が人気のない境内を吹き抜け、木々の梢がザワザワと音を立てる。

年の瀬も押し迫り、あと半月ほどで年が開ける。

世の大半の神社は新年を迎える準備で大わらわ。

だが、そうした慌ただしさが洲崎神社には微塵もない。

何か願い事があり、それを叶えてもらうために足を運ぶのであれば、これほど無愛想な神社はあるまい。

だが、他に参拝客が誰もいない状況下で、神の囁きに耳を傾け、心を通わせようと願うのなら、これほど適した神社もない。

石段を下りて再び海抜レベルに降り立つ。

大鳥居からフラワーラインの方向に目を向けると、海へ向かって細い道が伸びていることに気付いた。

その小道を海へ向かうと、突き当りにもうひとつ鳥居が見えた。

海から舟で参詣する氏子を迎え入れるための浜鳥居のようにも見える。

こちらが一の鳥居で、石段の下に立っていたのが二の鳥居ということになるか。

空気が澄んでいれば鳥居の中から富士山が望めるというが、生憎この日は大気が霞み霊峰の勇姿を拝むことは叶わなかった。

一の鳥居近くの説明板によると、この先に「御神石(ごしんせき)」なる“聖跡”が鎮座している…とある。

長さは2.5メートルで石質は付近の岩石と異なるそうだ。

御神石は竜宮から洲崎大明神に奉納された2つの石のひとつ。

もう1つは対岸の三浦半島に飛んで行き、現在は浦賀の西にある安房口神社に安置されている。


(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]8

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フッと顔を上げると、正面に掲げられていた「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額が目に飛び込んできた。

揮毫は奥州白河藩主にして「寛政の改革」を断行した江戸幕府老中、松平定信の筆によるもの。

文化9(1797)年、房総の沿岸警備を巡視した際に参詣、奉納したという。

拝殿脇から奥へ回りこむと、そこには本殿が鎮座している。

三間社流造で屋根は銅板葺き、千木は外削ぎ、鰹木は5本。

昭和42(1967)年2月21日、館山市指定有形文化財に指定されている。

社伝によると延宝年間(1673~81)に造営された由。

だが、支輪や紅梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多いことから、造営後に大規模な修理が加えられた可能性が高いという。

本殿の右脇には航海安全の神として信仰を集める金比羅神社が、こじんまりと鎮座している。

境内から鳥居の方角を望むと、眼下には一面の大海原。

洲崎神社が海上安全や豊漁の守護神として深く信仰されたのも頷ける。

今から800以上年も昔、この海を超えて源頼朝は安房国にやって来た。

治承4(1180)年8月、伊豆で挙兵した頼朝は相州石橋山の合戦で平家に敗北。

同28日に真名鶴岬(現在の真鶴岬)から小船で脱出した。

翌29日、頼朝は僅かな供回りだけを伴い、下総國初代守護である千葉常胤を頼って安房国へ逃れ、平北郡猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸。

頼朝は雌伏の時を過ごす中、源氏再興と平家打倒を祈願し洲崎神社へ参籠したという。

また、2年後の寿永元(1182)年には北条政子の安産を祈願したこともあり、現在も安産の神様として御神徳を集めているそうだ。


(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]7

RJ洲崎07

鳥居をくぐって先へ進むと、コンクリート製の堅牢な「随身門」が聳立している。

その左側にあるキャビネットの中に、半紙に記入された御朱印が用意されている。

洲崎神社には神職が常駐していないため、御朱印を賜るには宮司が兼務している富浦の愛宕神社まで足を運ぶ必要がある。

そこで「事前に用意された御朱印でもいい」向き用に、引き出しに空いた小さな穴に初穂料300円を納め、一枚拝受するシステムが用意されている。

そのシステムに従い300円を奉納し、御朱印を賜る。

日付欄の数字の部分だけ空白になっており、キャビネの棚に並ぶ筆ペンで自ら書き入れる仕組み。

ここだけ書体が違うのはご愛嬌か。

随身門を潜ると、次に迎えてくれるのは長い石段。

標高110メートルの御手洗山(みたらしやま)の中腹に鎮座している社殿まで全148段。

とはいえ登るのに必死で数えるどころではなく、館山市教育委員会のサイトに掲載されていた数字を拝借。

やっとのことで石段を登り切ると、そこに広がるこじんまりとした境内。

小学校の体育館ほどの面積はあるだろうか。

その正面中央に古色蒼然とした質素な拝殿が佇む。

拝殿の前で柏手を打ち、頭を垂れる。

そしてスーッと息を吸い、境内に満ち溢れる神意の気を身躯の隅々にまで行き渡らせる。

社殿の背後に広がる森の梢が醸し出す清冽な空気と相俟って、気持ちが落ち着く。

この森は神域であり氏子の信仰対象なので、過去に伐採されることなく保護されてきた。

昭和47(1972)年9月29日には「洲崎神社自然林」として県指定天然記念物に指定され、現在に至っている。


(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]6

RJ洲崎06

バス停から徒歩2~3分ほどで「洲崎神社」と大書きされた標柱に出くわす。

アクリル板で出来たそれは、神社の案内標というよりスナックの看板のようだ。

標柱の矢印に従って進むと参道が見えてきた。

入り口に立つ社号標は黒い石に掘られた真新しい巨大な柱と、古い柱の二種類ある。

古い柱には「一宮洲崎大明神」と刻字されている。

社号標が作られたのは安政3(1856)年。

明治維新の神仏分離までは「明神」だったわけだ。

真ん中にポッキリと折れた跡が残る。

安政の大地震か、関東大震災か、それとも先の東日本大震災か。

いずれの爪痕かは定かではない。

入り口脇にある解説板によると「洲崎神社」と書いて「すのさきじんじゃ」と読むそうだ。

バス停の名は「洲の崎神社前」だったが、正式名称にひらがなの「の」は入っていない。

創建は神武天皇元年、西暦にすると紀元前660年。

御祭神は天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)。

安房国にはもう一つ「安房神社」という一之宮があり、こちらの御祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)。

その后神が天比理刀咩命なのだ。

参道を進むと正面に大きな神明鳥居、その左右に石灯籠。

鳥居の前に金属製のポールが設置され、そこに注連縄用が張られている。

鳥居が大き過ぎ、貫まで容易に届かないので、あえて注連縄用に誂えたのだろう。


(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]5

RJ洲崎05

海沿いを走っていたバスは加賀名バス停から山間部に向けてハンドルを切った。

西岬小学校前バス停で、またも大勢の小学生が乗車してくる。

この路線バスはスクールバスの役割も兼ねている様子。

こうした実情は時刻表の無機質な数字からは、なかなか見えてこない。

時刻表によると、このバスは途中の伊戸止まり。

しかし、なぜか伊戸に到着してもストップすることはなく、その先へと進む。

時刻表が適当なのか、運行がいい加減なのか。

いずれにせよ伊戸から洲崎神社まで歩行での行軍を覚悟していた身には嬉しい誤算だった。

15時ごろ、館山駅から40分ほどで洲の崎神社前バス停に到着した。

バス停には子どもを迎えにきたお母さんたちで賑わっている。

客の中で洲崎神社を参拝に来たのは自分一人のみ、あとはすべて帰宅児童だった。

停留所の時刻表を見ると、バスの便は2時間に1本程度。

ここへ路線バスで来るのは余程の酔狂者ということだろう。

バスに揺られてきた県道257号線は通称「房総フラワーライン」という。

菜の花やポピー、マリーゴールドなど、沿道には四季を通じて季節の花々が咲き誇る。

さすがに今は真冬だけに花の姿は見かけないが、沿道の草木は青々としている。

それだけ温暖な気候が植物の育成に適しているのだろう。

(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]4

RJ洲崎04

14時ちょうど、館山に到着。

今や都心との連絡は利便性の高い高速バスに席巻され、東京駅と結ぶ特急列車も、ほぼ消滅に近い状況だ。

駅前に出ると平日の昼下がりとあってかマッタリとした空気が淀んでいた。

ロータリーでは客待ちのタクシーが所在無さ気にたむろし、真冬にしては熱を帯びた陽光に発汗さえ覚える。

JRバスに乗り換えるため、ロータリーを左手へ回り込みバス停へ。

半島の先端をこまめに廻る路線と、内陸部を横断して外房に出る路線がある。

洲崎神社へは前者に乗車するのだが、それほど本数が多くないので時刻を事前に調べておくのは必須だ。

半島の先端行きは3番乗り場。

停留所では数人の老婆たちが世間話を交わしながらバスが来るのを待ち侘びている。

いや、そんなに焦れるほど待っている風でもない。

待ち寂びてるといったほうか相応しいか。

14時20分、JRバス関東の路線バスは3番乗り場から出発した。

鄙びた駅前通りを抜け、館山城址のある城山公園を経て館山小学校前のバス停へ。

ここで下校する小学生たちが大挙して乗り込んできた。

「◯◯君は次の停留所ね」
「さっ、次で降りるよ」

年長者の女の子が年下の子どもたちを仕切っている。

この世代、やはり女の子のほうが大人だ。

男のガキなんて遊ぶことしか考えていない… もちろん自分を鑑みての話だが。

豊津橋バス停で全員下車していった。

近くに海上自衛隊館山航空基地があるので、そこの子どもたちかも知れない。

(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]3

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「まったく、俺みたいな奴に注意ひとつできる大人が一人もいないんだから、ロクな世の中にならないわけだ」

よく言うゼ…とは思うが、タコ入道は悪態をついてはいるのものの、言ってる内容は他愛もない子供じみた戯言。

周囲の乗客は不愉快だろうが、黙って聞いてる分にはユーモアが絶望的に欠落した笑い話に過ぎないのだが。

すると、隣に立っていた高校生ぐらいの男の子がスッと離れ、タコ入道の隣席にサッと座った。

「おじさん、どこまで行くの?」
「俺か!? 八幡宿」

不意を突かれたせいか、タコ入道は意外なほど素直に返答した。

「坊主、高校生か?」
「そう、木更津から千葉まで通ってるんだ」
「千葉までじゃ結構な距離あるなぁ、大変だろ」
「そうでもないよ、慣れてしまえばね」
「偉いなお前。俺みたいな大人になるんじゃねえぞ」

先ほどまでの悪態はどこへやら。

どうやらタコ入道、単に話し相手が欲しかっただけらしい。

それを看破してタコ入道の懐にスッと飛び込んで行った高校生の才覚と度胸に感服した。

八幡宿に着くとタコ入道はスンナリ下車して行った。

「おい、さっきオレを見てコソコソ言ってた2人組! お前ら覚えてろよ!」

そう言い残すのを忘れずに。

12時51分、君津に着くと車内はガラガラになった

上総湊の辺りで車窓に内房の海が開けてくる。

海水浴場が近くペンションや別荘が立ち並んでいるが、冬なので人影は少ない。

保田に着くと列車行き違いのため9分停車。

車内の乗客は高校生だらけである。

(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]2

RJ洲崎02

頭髪は皆無で、緑のジャンパーに黒の作業ズボン。

その容貌たるや東京湾から引き上げられたタコ坊主。

いや、坊主にしては身躯がデカ過ぎる。

タコ入道と呼んだほうが相応しいか。

浦安や幕張を闊歩するオシャレな“千葉”県民ではなく、富津や木更津で鳴らした荒くれ漁師の末裔が如き“房総”族である。

タコ入道は電話を切ると、そのうち近くの乗客に悪態をつきはじめた。

「何見てんだタココラァ!」

そんなタコ入道に周囲の乗客は白い目を向け、ヒソヒソ。

「オイそこ! コソコソ喋ってねえで、かかってこいやゴルァ!」

気がついたら、とっくに電車は千葉駅を発車していた。

駅へ着くたび降車客は足早に駆け去り、乗車客はタコ入道を見て目を白黒させている。

「おぃおぃ、誰もオレのこと注意しに来ねぇのかよぉ、情けねぇ奴ばっかしだなぁ~」

もちろん、誰も注意しない。

車内で暴れているとか痴漢を働いているのなら話は別だが、ただ大声で下品なことを喚いているだけなので、放っておいたところで何の差し障りもない。

「あ~あ、ヤクザ屋さんでも喧嘩売ってこないかなぁ~」

電車の中でこうした阿呆をたしなめるヤクザ屋さんなど見たことがない。

もし一緒に警察に連行されでもしたら、下手すると共犯扱いされるのだから当然の話だ。

(旅行日:2012年12月17日)

一巡せしもの[洲崎神社]1

RJ洲崎01

錦糸町駅4番ホーム。

空は薄く曇り空気は肌寒いが、雨の心配はなさそうだ。

11時24分発の総武本線快速電車「エアポート」に乗り込む。

平日のお昼時とあって適度に空いている車内には、大きなスーツケースを携えた海外旅行客が目立つ。

これから諸国一之宮を巡礼する旅に出ようと思う。

しかも公共交通機関だけを使って。鉄道、バス、船舶、航空機、そして自分の足。

タクシーも一応は公共交通機関だが、あまり使いたくない。

というか、余程のことがない限り使うことはないだろうけど。

一之宮巡礼…略して“一巡”の幕開けは房総半島の先端に位置する安房國一之宮、洲崎神社。

館山駅まで行き、さらにバスに乗り換える必要がある。

12時ちょうど、千葉駅に到着。

内房線に乗り換えるため地下の連絡通路へ向かうと工事中で、元から分かりにくかった駅舎の構造が更に難解さを増している。

案内板を見ては先行く人の後を追ったりして、ようやくホームにたどり着いた。

12時05分発、安房鴨川行き普通列車は先ほどの総武本線とは一転、大層な混み具合。

いくつか車両を覗くが、どれも同じぐらい混んでいる。

そんな中、なぜかポッカリ小さなスペースが空いている車両を発見。

不思議に思いつつもコレ幸いと、そのスペースに身を滑り込ませた。

車中に身を置き初めてナットク。

そこには携帯電話で大声で話をしているイカツいオッサンが大股オッ広げて座っていた。


(旅行日:2012年12月17日)
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