千葉県

一巡せしもの[安房神社]18

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最初は小母さんの接客に大いに戸惑ったものの、慣れてしまえば何てことはない。

要は一見客にとって非常に取っ付きにくい店ではあるが、魚料理のメニューも豊富だし、店の流儀さえ理解できれば再び足を運びたくなる店だと個人的には思える。

逆にファミレスやハンバーガーショップのようなステレオタイプの接客がなければ不満を口にする向きは、店の敷居を二度と跨がないことだろう。

でも、こうした“幼稚”な客が寄り付かないだけ、酒と魚を味わいたい身には居心地が良かったりする。

現に二本目の剣菱を注文した後、小母さんの態度が軟化したようにも見えたし…多少酔っ払っていたせいかも知れないが。

それに、大々的に宣伝しても品切れでありつけない「新・ご当地グルメ」よりは、ツッケンドンな接客でも美味い魚料理を食べられるほうがよほど有難い。

「有香」を出て、館山駅へ。

しかし次の東京行き電車まで、まだだいぶ時間がある。

そこで西口から一直線に伸びる大通りを海まで歩いてみた。

堤防に腰掛け、夜の海を眺める。

風もなく海面は静かで、対岸の光彩が遠くで瞬いている。

大人しく打ち寄せる波を見ながら、巡礼してきた一之宮の数々を思い返してみる。

結構な数を巡ってきたように思えたが、まだ旅は実際のところ始まったばかりなのだ。

電車の発車時刻が近づいてきたので駅へ戻る。

上空を見上げると、丸い月がポッカリと浮かんでいた。

「次は、いつ出かけようかな?」

そんなことを思いながら、駅の階段を上った。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]17

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あえて剣菱以外の日本酒を置かないことへのこだわりも、こうしたツッケンドンな態度と何か繋がりがあるのかも知れない。

ほどなく「さんが焼き」が目の前に届いた。

見た目だけで言えば魚肉のハンバーグといったところか。

実際には「なめろう」を紫蘇の葉で巻いて焼いたもの。

「なめろう」とは、アジのタタキに刻んだ野菜や味噌と混ぜた房総半島の郷土料理のことだ。

その「さんが焼き」と剣菱の取り合わせが、なかなかハマっている。

そのうち「焼魚定食」が来た。

焼き魚は大きなニシン、ほかにサンマの煮物、こんにゃく、酢の物、お新香、それに御飯とアサリの味噌汁。

なぜ館山でニシンなのか分からないが、値段の割にボリュームがあるし、魚そのものも美味。

ニシンの焼き身を口に放り込み、続けざまに剣菱を流し込む。

淡白な白身が酒に溶け、魚の旨味が口腔いっぱいに広がる。

酢の物で口直ししてサンマの煮物を齧り、コンニャクで口直しし、再びニシンへ。

このローテーションを繰り返していたらアッという間に一本目の銚子が空に。

二本目の銚子が空く頃、おかずの姿はほとんど消失。

最後に御飯と味噌汁とお新香で締めくくり、掉尾を飾る晩餐は終了した。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]16

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ビールと共に出てきた突出しは、塩辛。

これが、なかなかイケる味。

そこでビールから日本酒にスイッチしようと、件の小母さんに尋ねてみた。

「日本酒のメニューはありますか?」

「燗ですか? 冷ですか?」

予期しない返事に面食らい、思わず「ひ、冷で」と答えてしまった。

改めて品書きを見ると、日本酒は「剣菱」しか置いていない。

つまり「日本酒の品書きは無い」が故に、途中で有るべき「日本酒の品書きはありません」という一言が割愛され、短絡的に「燗か冷か」という問いへ至ったものと推測される。

こうした、客を小馬鹿にしたような接客態度を取られると憤慨する向きが圧倒的に多い…それが今の世の中だろう。

その気持ちは痛いほど分かるし、道理で店内に客の姿が疎らだったわけだ。

ただ、品書きに日本酒が「剣菱」しかないという事実を前にして、この店の姿勢が少し理解できた気もする。

「剣菱」は創業五百年を超える灘の名門酒蔵。

赤穂浪士が吉良邸討ち入りの前、蕎麦屋で出陣酒として喉に流し込んだのが剣菱だったとか。

坂本龍馬の脱藩を直談判に来た下戸の勝海舟に、山内容堂公が「この大盃の酒を飲み干したら認めよう」と突き付けたのが剣菱だったとか。

こうした歴史的な逸話に事欠かない銘酒、それが剣菱だ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]15

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とにかくも西口は験が悪いので、気を取り直して東口に向かう。

駅前の道を南に向かって歩いていると「有香」という海鮮料理の店を発見した。

外見は居酒屋というより、ちょっとした割烹料理店の雰囲気。隣が魚屋で、看板に「魚屋の作る店」と謳っている。

しかも入口のところに定食のメニューが掲げられており、酒より食事が有難い身には丁度よい。

中に入ってみると中央の通路から右側が座敷席、左側がカウンター席。

座敷では先客が4名ほど、既に出来上がっている。

カウンターに腰を落ち着け、とりあえずビールを頼み、食べ物のメニューを眺める。

それにしても、どこか店内には微妙な空気が漂っている。

なぜだろうと思ったら、その理由は程なく分かった。

カウンター内にいる小母さんの態度が、とてつもなくツッケンドンなのだ。

例えば、黒板の品書きにある「さんが焼き」について尋ねてみた。

すると木で鼻を括ったような答えしか返ってこず、どんな料理なのか具体的なイメージがサッパリ湧いてこない。

それでも実際に見れば分かるだろうと思い、焼魚定食と一緒に注文してみた。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]14

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館山駅に行くと「館山炙り海鮮丼」「館山旬な八色丼」というチラシを発見。

これらは「新・ご当地グルメ」と呼ばれるもので、観光客へ向けて新たに開発されたメニューだと書いてある。

「館山炙り海鮮丼」は炙り海鮮、刺し身、花ちらし寿司が三段重ねになった丼もの。

「館山旬な八色丼」は南総里見八犬伝に因み、旬の地場産食材を8つの小丼で味わうもの。

どちらも日本酒に合いそうなメニューだが、特に「八色丼」は品数が豊富で格好の肴になりそう。

しかも丼に八犬伝ゆかりの八文字「仁義礼智忠信孝悌」が入っているのもいい。

しかし、ここで大きな問題がある。

駅近くで供しているのは2店だけで、うち1店はランチのみ。

残りの1軒も限定25食というから、売り切れは必至だろう。

それでもダメ元というか一種のリサーチ的な気分で、西口駅前の寿司屋に行ってみた。

すると案の定、昼食の時点で既に売り切れ。

ハナから期待していなかったので別段ガッカリもしなかったが。

駅に向かいながら再びチラシに視線を落とすと、こう記されている。

「全店予約可能 食数限定 全70食(1日)」

つまり「館山旬な八色丼」は市内5店舗で1日当たり合計70食しか提供しないということだ。

ちなみに「館山炙り海鮮丼」も同じ5店舗で1日当たり115食のみの提供。

つまり「予約しないと、まずありつけませんよ」と言っているようなものだ。

気軽に食べることのできないメニューを「新・ご当地グルメ」としてプッシュすることに、一体どんな意味があるのか良く分からない。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]13

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帰路は安房神社前バス停ではなく、もう少し海寄りの相の浜バス停から乗車することに決めた。

なので来る時に通った正面の参道ではなく、一の鳥居を出てすぐに左へ曲がり、のどかな風景に囲まれた道を歩く。

20~30分ほど歩いたろうか、国道410号線に出、相の浜バスに到着。

次のバスまで少し時間があるので、周辺をブラついてみる。

すると、バス亭の脇から海の方角へ延びる細い坂道を発見。

先へ下っていくと「画家が愛した漁村の道」という案内標識を見つけた。

その下には周辺の案内地図が掲げてあったので、観光用に設えたのだろう。

漁村の佇まいを湛えた住宅街を5分ほど歩くと、正面に小さな漁港が姿を現した。

相浜漁港、又の名を富崎漁港。

漁船の群れが暮れていく夕日を浴びて静かに佇んでいた。

相の浜バス亭からJRバスに乗り、館山駅へ。

思えば此度の一之宮巡礼、昼食時に蕎麦とともにビールを嗜んだことはあったものの、一日が終わって酒場へ繰り出したことはない。

一之宮巡礼に目出度く一区切りついた今宵ぐらい、記念に一献やってもバチは当たらないのではなかろうか?


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]12

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境内に広がる神池の東側に、下の宮と社務所を結ぶ細い道が通っている。

その細い道が尽きて参道とぶつかる位置に茶店の「あづち茶屋」が立っている。

平成25(2013)年2月20日に開店したばかりの真新しい一服処。

店名は現在の鎮座地「吾谷山」に由来するという。

それほど大きくない純和風建築で、境内の雰囲気に違和感なく溶けこんでいる。

ただし営業は金・土・日・月・祝日の10~16時。

既に17時を回った現在、残念ながら戸は閉ざされていた。

再び参道を一の鳥居へと歩く。

その右側に注連縄で囲まれた苗床を見かけた。

既に田植えのシーズンは終わっているが、苗床では真新しい苗が育っている。

これから御神田に植えられるのだろう。

反対の左側には「館山野鳥の森」が広がる。

道理で鳥の鳴き声が喧しかったわけだ。

年中無休だが営業時間は9~16時半。

当然ながら既に閉館している。

野鳥の鳴き声だけを聞きながら、安房神社を後にしたのだった。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]11

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神饌所を更に右奥へ進むと、そこは「下の宮」の鎮座地。

養老元(717)年に安房神社が遷座された際、天富命を祀る摂社として創建されたことは既に触れた。

室町時代以降、下の宮は数百年間にわたって途絶えていたが大正時代に復活。

天太玉命が「日本産業の総祖神」と大仰なのに対し、孫の天富命は「房総開拓の神」と身近に感じられる神様だ。

また、下の宮には配神として天太玉命の弟神である天忍日命(アメノオシヒノミコト)が祀られている。

天孫降臨神話では弓矢や刀剣で武装し、邇邇芸命の先導役を務めたことから日本武道の祖神と崇められている。

ちなみに天太玉命と忌部氏の関係と同様、天忍日命は軍事を司った大伴氏の祖先神でもある。

下の宮を出て鳥居をくぐり、石段を下りたところに御神木の太い槙がひっそりと佇んでいた。

御神木といえば拝殿の前など目立つ場所にあるのが一般的だが、目立たない場所にあるのは意外と珍しい。

その先に続く坂を下っていくと、途中に古い社号標が立っていた。

表面が摩耗して文字が判然としないが「勲一等 安房座太神宮 御鎮座」と刻まれているようだ。

安房神社は延喜式に「安房坐(あわにます)神社」と記されていることから、この社号標は昔使われていたものを移設したのだろうか。

風化してはいるが、それが逆に歴史の重みを感じさせる。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]10

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思えば海岸沿いに立っていた、洲崎神社の浜鳥居も真っ白な神明鳥居だった。

往時は安房神社が「男神」、洲崎神社が「女神」で、双方合わせて「安房國一之宮」ではなかったのだろうか?

それを裏付ける物証など無論どこにも存在しない。

ただ、両社を巡拝した結果、そんな雑念が脳裏に浮かんだだけの話である。

拝殿の裏手に回り、本殿を見る。

特に玉垣などで囲われておらず、近接して拝見できるのが有難い。

本殿は明治14(1881)年の竣工。

建築様式は神明造りで、屋根は薄く剥いだ檜の皮を重ね合わせて作られた「檜皮葺き」。

平成21(2009)年には「平成大修造」が実施されて面目を一新。

一見すれば新造されたのかと勘違いしてしまいそうなほど真新しい。

その右隣りには古めかしい建物が立ち、廊下でつながっている。

神様に奉る食事を作る神饌所で、明治41(1908)年の建造という。

現在は毎年1月14日に行われる「置炭神事」(おきずみしんじ)の祭場として主に使用されている。

置炭神事は同日夕刻、門松に使われた松材を薪に用い、浄火を焚いて粥を煮る。

そして燃え残った松材から12本取り出し、その焼き色によって一年間の天候を占うという神事だ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]09

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天岩戸事件では天児屋命が朗々と祝詞を上げ、天照大神が表に出てきた時、すかさず天太玉命が入口に注連縄を張って後戻りできないようにした。

注連縄が張ってある場所から先は神聖なのは、この故事に由来しているという。

また、邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨でも、天太玉命は祭祀を司る重要な神として天児屋命らとともに地上へ随伴した。

忌部氏や中臣氏ら有力な氏族は、各々の祖先を称えることで自らの存在に箔を付けようとしていたのだろうか。

拝殿の奥、本殿側の壁面に掲げられた扁額には「当國一宮」と記されている。

養老元(717)年、安房神社は現在の鎮座地である吾谷山(あづちやま)の麓に遷座された。

それに伴い、天富命を祭神とする「下の宮」の社殿も併せて造営された。

また、上の宮には配神に后神の天比理刀咩命(アメノヒトリメノミコト)が祀られている。

安房国もうひとつの一之宮、洲崎神社では逆に天比理刀咩命が主祭神、天太玉命と天富命が配神となっている。

天富命は男神山と女神山に天太玉命と天比理刀咩命を、それぞれ祀ったと先述した。

それが現在地に遷座した際、天太玉命のみを安房神社に祀り、天比理刀咩命は少し離れた洲崎神社に祀ったのではないか?


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]08

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参道を進むと正面に「上の宮」の拝殿が見えてきた。

安房神社には本社「上の宮」と摂社「下の宮」の二社が鎮座している。

安房へ“移住”して房総半島を開拓した天富命は「下の宮」の、その天富命が祀った祖先の天太玉命は「上の宮」の、それぞれ主祭神となっている。

拝殿は鉄筋コンクリート造りで、昭和52(1977)年築と比較的新しい。

建築様式は本殿に倣った神明造りで、屋根から手前に庇が伸びている。

拝殿前に三の鳥居はないが、その庇と支える二本の柱が鳥居の形に見えなくもない。

他に参拝客など誰もおらず、なぜか鳥類のけたたましい鳴き声だけが響き渡る境内で一人、頭を垂れ、両手を合わせる。

主祭神の天太玉命は“宇宙造化神”高皇産霊神(タカミムスビノカミ)の孫にして、あらゆるモノを生み出す優れた力が御神徳という日本の産業創始の神様。

遥か太古の昔は天照大神の側近で、中臣氏と共に朝廷の祭祀を司った忌部氏の祖神に当る。

天照大神が須佐之男命の狼藉に恐れをなして天岩戸に閉じこもった折には、天児屋命(アメノコヤネノミコト)と協力して御出現を願う祭礼を挙行した。

ちなみに天児屋命は祝詞の神にして、中臣氏(後の藤原氏)の祖神である。

その折、天太玉命は忌部氏を指揮して祭礼の挙行に必要な鏡や玉、幣帛や織物、武具などを作り出した。

現在でも神事で用いられる玉串や注連縄などの神具は、すべて天太玉命がルーツ。

この故事が天太玉命を「日本の産業創始の神」たらしめる由縁となっているのだ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]07

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神武天皇から「肥沃な土地を探せ」との勅命を拝した天富命(アメノトミノミコト)は、まず南海道阿波国(徳島県)に上陸。

そこで麻や穀(カジ=紙などの原料)などを植栽し、開拓を進めた。

その後、天富命一行は更なる肥沃な土地を求め、阿波国に住む忌部(いんべ)一族を引き連れて船に乗り、黒潮へと漕ぎだした。

忌部氏は朝廷の祭祀を担当してきた氏族で、それに使う祭具の製作部門も管轄していたことから、今ではあらゆる産業の総祖神とされている。

さて、海路はるばる房総半島の南端にたどり着いた天富命一行と忌部一族。

ここが麻の栽培に適していたことから「総国(ふさのくに)」と命名した。

「総」とは古代語で「麻」と同義語で、ここでも麻や穀を播植して産業地域の拡大に尽力。

同時に上陸地点を出発地の「阿波」と呼び、後に「安房」へ変わったとされる。

今でこそ「千葉県」と一括りにされているが、そもそもは上総と下総、それに安房と国が三つもあったのだ。

天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、祖先の天太玉命(アメノフトタマノミコト)と、后神の天比理刀咩命(アメノヒトリメノミコト)を祀った。

これが現在の安房神社の起源になっているそうだ。

なお、阿波国一之宮「大麻比古神社」の主祭神「大麻比古大神(オオアサヒコノオオカミ)」は、安房神社の主祭神「天太玉命」の別名。

つまり、安房国と阿波国の各一之宮は主祭神が同じということになる。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]06

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鳥居をくぐり、安房神社のシンボルともいえる桜並木の参道を往く。

とはいえ、とっくに桜花のシーズンは終了。

今は青々とした葉が枝いっぱいに繁る緑のトンネルだ。

お花見シーズンには“桜のトンネル”を愛でる花見客で賑わうそう。

だが、桜の花も散って久しく、しかも平日の夕方という“逢魔が時”に一人っきりでは、なかなかイメージが湧きにくい。

毛虫が落ちてきやしないか注意しながら上を見て歩いていると、ひっそりと咲いている桜の花瓣を発見した。

地球温暖化ゆえの狂い咲きか?

それとも、今この時期に花を咲かせる品種なのか?

いずれにせよ“残り物には福がある”というのなら、これは縁起がいいに違いない。

参道を抜けると右手には神池が広がり、左手には大正時代半ばの築といわれる社務所が佇んでいる。

木造ながら関東大震災にも耐えたという堅牢な造りは、当時の建設技術の高さを物語っているそうだ。

短い石段を登ると、二の鳥居。

こちらも一の鳥居と同様、純白の神明鳥居。

その先、参道は右側へ大きく弧を描き、さらに一段高くなったところに社殿が鎮座している。

安房神社の創始は今を遡ること2670年以上も前の皇紀元(西暦BC660)年と伝わっている。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]05

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そして、ここにも“不埒”な掲示が。

日本全国いたるところで見かける聖書の看板。

だが、さすが「大神宮」の名を背負う御神域、やることが違う。

その上から「粗大ごみ有料化のお知らせ」のビラが貼られていた。

看板とビラ、どちらが現世の人々にとって有益な情報かは一目瞭然。

“不埒”なのは粗大ごみの告知ではなく、この“大神宮”へ無遠慮に侵入してきた看板のほうだろう。

地味な割にドラマツルギーが横溢していた参道も、間もなく尽きた。

安房神社一の鳥居に到着。

シンプルな鋼鉄製の神明鳥居だが、色は真っ白。

裸木ゆえに白いのではなく、あえて白く彩色されているのだ。

両脇に建つ石灯籠の色も白。

すべてが白で統一されている。

夏になれば白い鳥居は強烈な日差しに映えることだろう。

いかにも海辺の神社という雰囲気を感じさせてくれる。

鳥居の右側に立つ社号標は昭和8(1933)年の建立。

揮毫は全国の社号標でおなじみ東郷平八郎元帥の手によるものだ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]04

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ようやく発車したバスは約20分弱で安房神社前に到着した。

この一帯、地名は「一宮」ではなく「大神宮」という。

無論、地名は安房神社に由来するものだろう。

社号は「神社」なのに地名が「神宮」なのは、それだけ地域からの崇敬の念が篤いということか。

国道410号線沿い、コメリと接骨院の間から山の方角へ延びる道が表参道。

接骨院の前に立つ案内標識に従って道を進み橋を渡ると、ずっと奥に白い鳥居が見えた。

しかし、道の両側は普通の住宅と農地が混在し、商店は数えるほどしかない。

大きな神社にあるような並木道でも、商店や飲食店が立ち並ぶ仲見世でもない。

大きな神社の参道にしては意外と地味な印象を受ける。

ただ、普通の住宅といっても一戸当たりの敷地は広く、建屋も大きい。

立派な生垣を眺めながら奥に見える鳥居の方向へ歩を進める。

と、途中で珍妙な張り紙が目に止まった。

大きな庭を持つ家の入口に掲げられていたもの。

題名に「当家の庭で不埒な行為を働いたもの」とあり、併せて男女の2ショット写真も載っている。

どこか警察の指名手配を思い起こさせるような写真だか、さすがに顔はモザイクで隠されている。

男と女が他人の家の庭先で如何なる「不埒な行為」を働いたのか、そこまで詳細に記されてはいない。

だが、家主に写真を撮られて晒されるほどの怒りを買ったというだけで、その内容が伺えようというものだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]03

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他に乗客は誰もいないので一番前の席に堂々と陣取る。

座り心地は快適、視界も抜群だ。

路線バス扱いとはいえ運賃箱が付いているわけではないので、運賃は運転手に前払い。

安房白浜から安房神社前まで440円。

乗車時に乗車券が発行され、降車時に運転手に手渡すシステム。

なお房総半島の先端をカバーするJRバス関東の路線も、すべて「南房総フリー乗車券」のフリー区間に含まれているので運賃を払う必要はない。

なのはな44号は16時10分、安房白浜バスターミナルを出発した。

すると途中の停留所で一人のお婆さんが車内に乗り込むでもなく、運転手相手に延々と立ち話を始めた。

出入り口の直近に座っているので両者の会話が聞くともなしに聞こえてしまう。

どうやらお婆さんは前に乗ったバスに忘れ物をしたらしく、それを後続のこのバスに届けてもらったらしい。

それにしても年寄りは孤独なせいか、運転手相手に延々と話し続けている。

気付けば5~6分は経過していたのではないか?

次第にイライラしてくるが、邪険にするのも可哀想だし。

地方のバスも、なかなか大変だ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]02

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15時30分、バスは安房白浜に向けて発車した。

平日の昼下がりとあって車内は高校生や老人ばかり。

僅かばかりの客を乗せたバスは千倉の古い街並みを縫うように走り抜けて国道410号線、通称「フラワーライン」へ。

春まっさかりの南房総、車窓に広がる麗らかで風光明媚な景色を眺めているうち、ついウトウト。

バスは約30分ほどで安房白浜バスターミナルに到着した。

周囲には数多くのリゾートホテルが立ち並び、しかも源泉が湧いているので、どれも温泉宿。

だが、ここから見えるのは指呼の間にある「南国ホテル」ぐらい。

ほとんどのホテルや旅館は海沿いを通る国道410号線沿いに立ち並んでいるのだろう。

しかし乗り換え時間が僅かしかなく、わざわざ確認に出向く暇もない。

ここ安房白浜バスターミナルはJRバス関東の“駅”でもある。

立派な切符売り場を構え、職員も常在している。

外房線の小さな無人駅より、よほど風格がある。

そのうち1番乗り場に安房白浜発「なのはな44号」東京行が入線してきた。

高速路線バスなのだが、館山駅までは普通の路線バスとして運行されている。

なので座席はロングシートではなく、2×2のロマンスシートだ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]01

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昼下がりの外房線。

平日ということも相俟って車内にはマッタリとした空気が流れている。

それにしても、まだ14時前だというのに高校生の姿が、やけに目につく。

安房鴨川駅で接続列車に乗り換え、15時前に千倉駅へ到着した。

ここで安房白浜行きの館山日東バスに乗り換えるのだが、約30分ほど時間がある。

千倉駅には最初の巡礼地である洲崎神社を参詣して以来、約半年ぶりの再訪。

あの時は洲崎神社から安房神社、そして玉前神社と巡る予定だった。

しかし洲崎神社を参拝した時点で日が暮れてしまい、撤収を余儀なくされた次第。

とはいえ、地方のバス路線網を甘く見ていたわけでは決してない。

計画が甘かっただけの話…というか、ほぼ思いつき同然で始めたようなものだ。

千倉の駅舎は真新しく、非常にモダン。

壁面に打ち放たれたコンクリート、屋根やベンチなどに多用された木目調の建材、ふんだんに用いられたガラス。

この三種の取り合わせが、関東最南端に位置する千倉駅の南国っぽい開放的な雰囲気を醸し出しているのだろう。

駅舎から外に出、バスの待合所に向かう。

安房白浜行きのバスは既に停留所で待機中だ。

ちなみに「南房総フリー乗車券」のフリー区間には館山日東バスの千倉/安房白浜間も含まれている。

このため乗車券を運転手に見せるだけでよく、改めて運賃を払う必要はない。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]18

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一宮町は歴史や文化遺産より、海山に近い利を活かした自然を観光の前面に押し出す戦略と見た。

駅の西南に広がる小高い丘はトレッキングに、駅から歩いて30分ほどの九十九里浜は海水浴に、それぞれ最適。

また、市街地には玉前神社や加納藩陣屋跡だけでなく、歴史ある寺や古い商家などが連なっている。

一宮町は自然と文化が絶妙に調和した町だと分かる。

「近くのお寿司屋さんは自前の田んぼで穫れた米を使ってるんですよ」

今日見て歩いた一宮町の姿など、まだ表層部分もいいところだったのだ。

それに、こうして観光案内所のお姉さん相手に長々とお話できたのも玉依姫命のご神威かも知れない。

それぐらい、この町には奥深い魅力がある。

だがしかし、残念ながら電車の時間が来てしまった。

「また来ますね」

そう言って、後ろ髪を引かれる思いで観光案内所を後にした。

駅のホームに立つと、看板に描かれた一宮町のゆるキャラ「一宮いっちゃん」と目が合った。

どことなく案内所の女性と似ているような…そんな錯覚に囚われる。

「さすが縁結びの神様だけあるなぁ…」

どことなく去りがたい気持ちを心の片隅に抱いたまま、到着した電車に乗り込んだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]17

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一宮加納藩は文政9(1826)年に伊勢八田藩主の加納久儔が移封して立藩。

二代藩主久徴は幕政の要職を歴任し、公武合体政策も積極的に推進。

このため皇女和宮が十四代将軍徳川家茂に降嫁の際、京から江戸までの警護役を務めた。

皇女和宮は功績を讃え、降嫁の際に乗った駕籠を加納家に下賜。

その駕籠は今、振武館の更に西にある東漸寺に所蔵されているという。

「すいませ~ん!」

駅へ着いて電車を待つ間、駅前で案内地図の看板を眺めていると、若い女性が駆け寄ってきた。

何かの勧誘かと思って身構えたらそうではなく、観光案内所の職員だった。

地図の前にボーッと突っ立ってたので、PRするのに丁度いいカモだと思われたのかも知れない。

「お一人でいらっしゃったんですか?」

小柄で眼鏡の奥の瞳がクリッとした、なかなかに可愛い女性。

次の電車まで時間に余裕があったので、案内所で話を聞くことにした。

案内所は駅舎の中にはなく、道を挟んだ向かい側にポツンと建っている小さな建物。

そこでパンフレットなどをドッサリ頂戴しつつ、一宮町の魅力についてタップリと講釈を受けることに。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]16

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店内に入れば、気の置けない町場の普通のお蕎麦屋さん。

お昼時とあって店内では近所で働く人たちが、日常の一部のように食事している。

メニューを見ると丼物などはもとよりラーメンまである。

門前蕎麦というより、地域の食堂的な役割を果たしているようだ。

ここで同店オススメの「季節の野菜かき揚げ天ざる」を注文してみる。

蕎麦は飛び切り美味いわけではなく、さりとて不味いわけでもない、普通の蕎麦屋の普通の蕎麦だった。

一方、かき揚げは揚げ過ぎといってもいいほどカリカリ。

だが、このぐらい揚げてもらったほうが天ざる蕎麦に合う気はする。

店を出てから、むしろラーメンのような蕎麦屋では珍しいメニューを頼んでみればよかったのかなと、少し思った

駅までの道すがら、上総一ノ宮の街並みを見て歩く。

ここは古い建物が数多く残る。

それもそのはず、一宮町は玉前神社の門前町というだけでなく、一宮藩加納家一万三千石の城下町でもあった。

とはいえ小藩ゆえ居城は陣屋、しかも往時の建物は残っていない。

なお、城跡には現在「振武館」という武道場が建っている。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]15

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玉前神社の境内に戻り、松尾芭蕉の句碑などを眺めつつ再び拝殿の前へ。

先ほど見た神楽殿と、その左横に立つ参集殿の間に石造りの小さな鳥居が立っている。

鳥居をくぐってみると貫禄のある石段が続いている。

こちらは十二神社のそれと対照的に年季が入っている。

左側に参集殿、右側に斎館と、巨大な建造物が立ち並ぶ間を下まで降り、振り返って鳥居を見上げてみる。

鳥居の台石と石段の両脇を通る石造りの側溝、その両者が一体化したデザインが秀逸だ。

石段を降りた先は小奇麗な路地。

神社側の生垣は綺麗に剪定され、向かい側の病院の生垣には薔薇が咲き乱れている。

上総國一之宮の御神域に住処を構える誇りを感じさせる風景だ。

再び一の鳥居前に戻り、来た道を引き返す。

途中、一軒の蕎麦屋があった。

名を『布袋庵』という。

寒川神社でも氷川神社でも、昼食は門前蕎麦。

玉前神社でも、やはり蕎麦にしよう。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]14

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さて、御例祭についての続き。

「上総十二社祭り」は千葉県の無形民俗文化財に指定されている。

玉依姫命と鵜草葺不合尊の間には、神武天皇を含めて四柱の御子が産まれたと先述した。

他の御子は五瀬命(イツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、三毛入野命(ミケヌノミコト)の三柱。

御子たちは海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通り、九十九里浜へ流れて行った。

「龍の如し」と云われるほど元気一杯の幼い神々は、海岸に着くや大はしゃぎで大暴れ。

そこで玉依姫命ら龍宮の神々一族は御子たちを諌めるべく九十九里浜へと向かった。

「上総十二社祭り」は、このような伝承に因んだものなのだそうだ。

「はだしの道」の更に左奥、境内の西端には「十二神社」が鎮座している。

かつて一宮町内にあった十二の社を一堂に合祀した摂末社だ。

社殿の前から玉前神社とは別の参道が西南へ伸び、鳥居を貫いて石段へ通じている。

石段は出来たばかりのようで真新しく、手すりもピカピカ。

試しに降りてみると、目の前に古い床屋さんが佇んでる。

建屋は19世紀中頃に建造された木造寄棟造妻入の平屋。

トタン屋根の下には茅葺屋根が潜んでいる。

建築された当初は「髪結い場」として地域の社交場になっていたそう。

大正時代に「吉村理容店」として床屋さんに転身し、今なお営業中だ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]13

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縁結びに始まり、生理、妊娠、出産、育児…こうした女性の心身にまつわる神秘的な作用は、「月」を司る玉依姫命ご自身のお導きによるものと言われている。

また、縁結びの御利益は「男と女」に限ったものではなく、人と人の縁を結ぶ商売や事業に関わる祈願も多いそうだ。

さらに、鵜茅葺不合命の司る「旭日」は清新・発祥・開運・再生など物事の新しく始まる事象に御利益があり、それらは「月」を司る玉依姫命によって守護されている。

このように玉前神社は「太陽」と「月」に密接な関わりを持っている。

太陽と月が一列に並ぶ新月の1日と満月の15日は大潮になり、この日に月並祭が行われる習わしが現在でも続いている。

ただし15日に行われるはずの月並祭は、御例祭「上総十二社祭り」に倣って2日前の13日に行っているそうだ。

社殿の裏から左側へ回り込むと、そこには不思議な形状をした岩塊が鎮座していた。

下部を覆う土盛からは木々が伸び、その狭間には古めかしい石碑が幾つも聳立している。

岩塊の周囲には玉砂利が敷かれ、外側に注連縄が廻らされている。

注連縄が途切れている部分には竹製の鳥居が立っており、看板には「はだしの道」なる文字。

ここは靴を脱ぎ、玉砂利の上を裸足で歩いて一周するという場所らしい。

玉砂利の痛みを通じて大地のパワーを体感しようという意図か?

それとも人間の罪に対する神の罰として肉体へ苦痛を与えようという、キリスト教的な趣旨に基づくものか?

ちなみに「はだしの道」の体験歩行は遠慮させて頂いた。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]12

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山彦の子を身籠った豊玉姫命は夫を追って龍宮から上陸してきた。

そこでお産をすることになったのだが、豊玉姫命は山彦に出産中の姿を絶対に見ないよう約束する。

しかし、その言葉を不思議に思った山彦は約束を破り、コッソリ覗き見てしまった。

すると豊玉姫命は巨大なワニに姿を変え、腹這いになってのたうち回っていた。

ワニはサメとの説もあるが、いずれにせよ、その姿を見た山彦は驚きの余り即座に逃走。

一方の豊玉姫命も見られたことを恥ずかしく思い、御子の鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を出産すると、妹の玉依姫命に養育を託して龍宮へ戻ってしまった。

玉依姫命は陰日向となって鵜茅葺不合命を育まれた後、なんと鵜茅葺不合命と結婚。

叔母の玉依姫命と甥の鵜茅葺不合命の間には四柱の御子が誕生した。

最後に生まれた末弟の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコのミコト)こそ、初代天皇の神武帝である。

神武天皇の御母堂が主祭神だけあって、ここは「女性」にとって霊験あらたかな神社。

古くは北条政子も懐妊の際に安産を祈願したとの伝承もある。


つまり玉依姫命はキリスト教で例えれば聖母マリアの如き存在と言えるのかも知れない。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]11

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主祭神の玉依姫命が海神(わたつみ)の娘である豊玉姫命の妹であることは先に触れた。

豊玉姫命といえば日本の昔話「海彦山彦」の弟、山彦こと日子火火出見命(ヒコホホデノミコト)の妻。

昔話のあらすじをザックリたどってみる。

なお「日子火火出見命」は長いので、便宜上「山彦」と呼ぶことにする。

漁師の兄・海彦と狩人の弟・山彦は一度、互いの仕事を経験してみようと道具を交換。

ところが山彦は兄から借りた釣り針を海で失くしてしまい、途方に暮れていた。

そこへ潮路を司る神が現れ、海中の宮殿(龍宮)にある桂の木の上で待つようアドバイス。

言われた通り待っていると、そこへ豊玉姫命が現れて事情を聞いてくれることに。

海神は山彦を竜宮へ招き入れると、そのまま豊玉姫命と結婚させた。

海神のおかげで釣り針を取り戻した山彦は故郷へ戻り、釣り針を返したものの海彦の怒りは収まらない。

そこで山彦は海神から預かった、塩の干満をコントロールできる宝玉で海彦を懲らしめましたとさ…という話である。

この話には後日譚があり、そちらのほうが玉前神社に直結している。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]10

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参拝を終え、本殿を拝見するために拝殿の裏手へグルリと回り込むと、右手に神楽殿が立っているのが見えた。

玉前神社に伝承されている「上総神楽(かずさかぐら)」は、千葉県から無形民俗文化財に指定されている。

神楽面23面が相伝され、神主家の人達によって古くから伝承されていたが、永禄年間の戦火で途絶えたと思われていた。

記録では宝永7(1711)年、新たに神楽殿を造り土師流神楽が伝承されたとされている。

現在、その技は上総神楽保存会が口伝により継承し、春秋の祭礼をはじめ年に7度奉納されているそうだ。

拝殿の右横には「平成の大改修」へのご奉賛をお願いする看板が立っている。

今回の改修は平成18(2006)年に創始1200年を迎えたのを記念して行われるもの。

前回の大改修は大正12(1923)年というから約90年ぶりとなる。

建物の歪みや腐食、漆塗の激しい剥落、銅板葺き屋根の老朽化など、その間の経年劣化は著しいものがあったそうだ。

工事が終了した暁には再びピッカピカの社殿が姿を現すに違いない。

裏手に回るとシートで覆われていたのは拝殿と幣殿だけで、幸いにも本殿は無傷(?)。

お陰で黒漆塗りの美しくも珍しい様式を拝むことができた。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]09

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石段を昇り切ると正面に社殿が鎮座している。だが、残念ながら拝殿は改築中で外側がシートで覆われていた。

それでもシートの前には臨時の小さな拝所が設えてあり、そこで静かに手を合わせる。

玉前神社は永禄年間(1558~1570)の戦火によって社殿や宝物、文書の多くが焼失したため、創建の時期や年数、名称の由来などについては殆どが不詳となっている。

ただ、延長5(927)年にまとめられた「延喜式神名帳」に名神大社として名を連ねており、創建から少なくとも1000年以上経過しているのは間違いないところ。

また、毎年9月10~13日に行われる御例祭「上総十二社祭り」は大同2(807)年創始と伝えられており、このことから玉前神社には1200年以上の歴史があるとも見られている。

境内の説明板によると、社殿の造営は貞享4(1687)年。

棟札の表面には「奉造営 貞享四年三月十三日 大工棟梁大沼権兵衛」とあり、裏面には13カ村の名が記されている。

拝殿の建築様式は正面に向唐破風を付けた入母屋の流造りで、屋根は銅板葺き。

拝殿と本殿が幣殿を介してつながった権現造りでもある。

正面には左甚五郎の作とも言われる高砂の彫刻があるそうだが、残念ながら見ることは叶わず。

なお、これら社殿と棟札は千葉県から有形文化財に指定されているそうだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]08

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そのひとつに「汐汲みの翁」の話がある。

早朝、東風(こち)が吹いて波間に現れた12個の「明(あか)る玉」を持ち帰ったところ、夜になってピカピカ光を放つので慌てて玉前神社の神庫に納めたという。

もうひとつは「五兵衛兄弟」の話。

8月12日の晩に五兵衛という男に夢のお告げがあり、翌朝弟と海に行くと東風が吹かれて光る錦の袋が流れてきた。

兄弟は袋を拾い上げて家に持ち帰り中を見ると、光る珠が入っていたので神社を建てて珠を納めた。

五兵衛兄弟は「風袋(ふうたい)」姓を名乗り、12個の珠を納めた神社が玉前神社であったともいう。

そして風袋家の末裔は、今も玉前神社の社家として存続しているそうだ。

二の鳥居の右脇には24時間自由に採水できるご神水がある。

意匠が凝らされた送水柱とレトロな蛇口の取り合わせが「ご神水」の御利益を高めているかのようにも見える。

二の鳥居をくぐり右に曲がると正面に三の鳥居。

他の鳥居と異なり両部鳥居、しかも台輪と台石がある。

三の鳥居をくぐると目の前に短い石段。

両脇には漢字が五文字ずつ刻まれている。

左側には「徳一蹄民惟」(蹄は旧字)。

右側には「徳一祐神惟」(祐のネは示)。

それぞれの意味は…良く分からない。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]07

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徳川宗敬(むねよし)は水戸藩第十代藩主徳川慶篤の孫。

慶篤は“最後の将軍”徳川慶喜の同母兄に当たる。

宗敬の生誕は明治30(1897)年、逝去は平成元(1989)年と四つの時代を生きた人物である。

神職のほかにも林学者(緑化の父)、軍人(陸軍少尉)、政治家(貴族院副議長)、教育者(東大講師)など、多彩にして波瀾万丈の人生を送ってきた。

一の鳥居をくぐり、直進すると正面に二の鳥居。

右の柱には「文化三丙寅年八月」、左の柱には「式内大社當國一宮」と刻まれている。

文化三年は西暦に直すと1806年。

建立されてから200年余といったところか。

二の鳥居を見上げれば、扁額には「玉前神社」と記されている。

「玉前」という社号は、御祭神「玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)」に由来する説が有力だ。

他にも、玉依姫命の姉である豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)が海中の「龍宮」から、玉之浦(九十九里浜の古称)南端の太東崎に上陸したことから玉崎(前)になったという説もある。

九十九里浜地方には古来、海から流れ着いた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀るという風習があった。

こうした石に因む話は「明(あか)る玉(珠)の伝説」として数多く伝承されている。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]06

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門前の参道は広々として、一之宮に相応しい構え。

道の両側には歴史的な建造物がボチボチと立ち並んでいる。

鳥居の手前右側にある蔵造りの建物は歴史的建造物の「高原家住宅」。

明治時代に建造されたものと推定されている。

「ニンベン」の屋号で椿香油の販売や鶏卵を東京へ卸す商売を行なっていたという。

外周を土蔵のように塗り込めた「店蔵」で、店内の太い柱と人見梁が特徴だ。

人見梁とは店先の上方に取付けてある化粧梁のことで、蔀戸(出入り口の戸)を昼は上げて収納しておき、夜は下ろして戸締りする仕組み。

「蔀(しとみ)」が訛って「人見(ひとみ)」になったという。

玉前神社の門前に到着。

上総一ノ宮駅から徒歩10~15分ほどか、意外と近い。

境内は、こじんまりとまとまったコンパクトな印象。

一の鳥居は朱に塗られた一般的な明神鳥居だ。

鳥居の右脇には社号標。

左横に「神社本廳統理 徳川宗敬謹書」と刻字されている。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]05

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車の往来が激しい県道を渡り、住宅街の中を縫う細々とした道に入る。

途端にどれが参道なのか、いまひとつ分からなくなった。

地図に見入りながら道を歩いていると、前方から高校生の一団がやって来た。

「こんにちわ」

誰かが誰かに挨拶をしている。

「こんにちわ」

また同じ声がする。

礼儀正しい奴だと思いながらフッと顔を上げると、一人の男子高校生がニコニコしながらこちらを向いている。

彼は見ず知らずの闖入者である私に対して挨拶をしていたのだ。

「こ、こんにちゎ…」

咄嗟のことだけに思わず声が上ずってしまう。

彼の挨拶に見合うだけの返礼ができなかった。

所持品からして野球部の選手のように見える。

誰であろうと道行く人に対してキチンと挨拶するよう、日頃から監督に指導を受けているのだろうか。

この出来事だけでも、玉前神社の御神域を包み込む清冽さが分かる。

挨拶は一高校生からではなく、玉前神社の御祭神からだと受け止めた。

しばらく細い道を進むと、正面に真っ赤な鳥居が見えてきた。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]04

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お昼前、上総一ノ宮駅に降り立つ。

天気は朝から変わらず薄曇りのまま。

暑くも寒くもない、丁度いい頃合い。

駅舎は昭和14(1939)年、隣町である睦沢町上市場の香焼(こうたき)氏により建設された。

資材には大正12(1923)年の鋼材が使用されているそう。

出入口横にある自動販売機の裏には当時の窓枠が残っている。

また、待合室のベンチや構内の跨線橋も当時のものだとか。

改札口を出ると正面の「名糖食堂」という食べ物屋さんの看板部分に、広告と案内図が掲げられていた。

食堂の名前、乳製品メーカーの「名糖」と何か関係があるのだろうか?

それにしてもフィルムを反転させた社殿の写真が斬新といえば斬新で、なかなか洒落っ気のある一之宮と見た。

その案内図に従い、玉前神社方面へ。

途中、見るからに古めかしい社号標を見かける。

しかし、なぜ境内でもないこの場所に立っているのか?

本物の社号標なのか? それとも、ただの記念碑か?

根元の部分に「参道」と記されているので、この道が表参道なのは確かなようだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]03

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翌朝、一階の食堂へ。

窓には外房の海が一面に広がっている。

昨夜は夜中に到着したので分からなかったが、ここまで海岸から至近距離に立地していたことに驚く。

朝食はバイキング。

それほど品数は多くないが、一品々々が凝っていて結構楽しめる。

食事を終えた後、ビーチに続く出入口から外に出てみた。

前庭の手前にプールがあり、垣根の向こう側は直ぐに砂浜。

ホテル内にはシャワーやロッカールームもあり、サマーシーズンには海水浴客で混雑するに違いない。

海では大勢のサーファーたちが波乗りに興じている。

薄曇りで肌寒い中、その様子をしばらく眺めていた。

今度は大雪が降っている日にでも来て、海に降る雪をボンヤリ見ながら燗酒でも舐めてみたいと思う。

ホテルを出て駅へ向かう道すがら、御宿の町をブラつく。

途中、国道が川を跨いだところの交差点に「月の沙漠記念館入口」と表示されている。

海へと続く道の先に、その記念館はある。

童謡「月の沙漠」は御宿を愛した詩人の加藤まさをが、大正12(1923)年に発表した作品。

歌詞に謡われている舞台はエジプトでもサウジアラビアでもなく、ここ御宿なのだそうだ。

加藤が砂漠を想った海岸にはラクダの像が立ち、すぐ近くに「月の沙漠記念館」はある。

とはいえ、先を急ぐ身に「月の沙漠」へ割けるだけの時間的余裕などなく、立ち寄ることなく御宿駅に向かった。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]02

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駅へ戻り、自動改札にフリー乗車券を差し入れ、南房総への旅がスタート。

総武線の“黄色い電車”で千葉へ行き、外房線の安房鴨川行きに乗り換える。

内陸部を走っていた電車は上総一ノ宮駅の辺りから外房の海岸線に出る。

今日は上総一ノ宮駅は素通りで明日、改めて訪れるつもりだ。

20時過ぎ、御宿駅に到着。

駅前から線路沿いに伸びる道を勝浦方面に向かってフラフラと歩き、途中コンビニで酒と肴を調達。

国道128号線を横切り、海へと続く道を降りた先に立つホテルが今宵の宿だ。

関東近辺の場合、帰れる距離にあるのなら普段は宿泊することもないのだが。

外壁工事中ということで宿泊料金がディスカウントされていたので、泊まってみることにした。

部屋はリゾートホテルらしく、ツインベッドで広い間取り。

もともとオフシーズンなので工事がなくても空いているのだろう。

遠くから海鳴りが聞こえる。

窓を開けて外を見てみる。

しかし外壁工事で足場が組まれており、景色を堪能するどころの話ではない。

道理で宿泊料金がディスカウントされているわけだ。

それでも海鳴りをBGMに傾ける酒盃というのもまた、なかなかに乙なものである。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[玉前神社]01

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雨雲と夕暮れの中で宵闇に包まれたJR東浦和駅。

帰宅する通勤通学客の雑踏を掻き分け、西船橋方面行きの電車に乗る。

乗る人は多いが降りる人も多いので、車内は思ったほど混雑していない。

武蔵野平野の真ん中を電車で40分ほど揺られ、西船橋駅に到着。

総武本線に乗り換え、さらに千葉駅から外房線に乗り換える予定なのだが。

思えば昼に大宮氷川神社門前の大村庵で蕎麦を食べて以来、何も口にしていない。

ここで一旦下車し、夕食を取ることにした。

しかし、ただ食事するためだけに下車したわけではない。

今回の上総と安房行きのために利用したのが「南房総フリー乗車券」。

外房線は茂原、内房線は木更津、両駅から房総半島の先にあるエリアの鉄道やバスが2日間乗り放題になるオトクなフリー乗車券だ。

東京都区内からだと4500円するが、千葉県内で買うと3000円で済む。

都内でも東側に在住ならとりあえずJRなり京成電鉄で市川なり舞浜まで行く。

そこで購入すれば現地までの往復運賃を差し引いても1000円は浮くのでオトク。

ただし、使用日の前日までに購入することが条件なので注意が必要だ。

今回のケースでは東浦和駅から西船橋駅までは武蔵野線の乗車券を購入。

西船橋駅から茂原駅までは南房総フリー乗車券の往路区間を利用することにしたのだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[香取神宮]21

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少しの間ボーッとした後、佐原駅へ向けて再び歩き出す。

ここから駅方面は謂わば新市街地なのだが、なぜかこちら側のほうが古臭く感じる。

昭和の時代に建てられた建物が多く、古くもなければ新しくもない中途半端な時代感が漂っているせいだろう。

また、駐車場が多く空き地が目立つ点も、中途半端感を増幅している要因かもしれない。

駅近くには閉店した地元百貨店の清見屋が、亡霊のように空き店舗を晒している。

そこから駅へ向かう道に入ると突き当たりはT字路になっており、向こう側には空き地が広がっている。

もう一つの大型店だった十字屋が閉店し、解体された跡地とのことだ。

駅近辺は道が入り組んでいて自動車では来にくく、郊外の大型ショッピングモールから客を奪還するのは最早不可能だろう。

駅近エリアの商店街は“昭和レトロ”で統一し、重伝建地区の“明治大正レトロ”と複眼的なコンセプトのもとで、鉄道による集客戦略を立てでもしないと空洞化は止まるまい。

その突き当りを右に曲がると、JR佐原駅が姿を見せた。

重伝建地区の町並みと意匠を揃えた駅舎は外観を江戸時代の商家のように見せつつ、内側にはコンビニなど現代的な機能を備えている。

そのコンビニで缶ハイボールを1本購い、千葉行きの電車に乗り込んだ。

自家用車を使わず巡礼することが、これほど大変なことだとは!

動き出した電車の中で流れ行く車窓の景色を眺めつつ、ハイボールをゴクリと飲み下しながら、そう思った。

(下総国「香取神宮」おわり)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]20

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しかし、全て後の祭り。

それに、こうして実際に訪ねて気が付いたことなので、事前に察するには一層に調査が必要だったろう。

そもそも東京から高速バスで往復するのと、自家用車で行き来するのと、一体どこに違いがあるのか?

むしろ香取神宮からの帰路が遥遠なればこそ、参拝の有り難みも増すというもの。

帰路に徒歩を選び、却って良かった…と自らに言い聞かせながら夜道を歩くこと2時間弱。

県道16号線と交わる香取神宮入口の交差点を超えると、次第に家並みが古色を帯びてきた。

そのうち本当に古い建物がズラリと居並ぶようになり、目を奪われているうち小さな川へと行き当たる。

川の名は小野川、架かる橋は忠敬橋。ようやく佐原の旧市街地に到着した。

ここは文化庁から関東で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたところ。

そのレトロな街並みは非常に趣があり、小野川に沿って暫し散策。

川っぺりのベンチに腰掛け、ライトアップの中に浮かび上がった古(いにしえ)の町並みを眺める。

とはいえ疲労困憊の身にとって、懐古的な味わいを存分に堪能するだけの余力は既にゼロ。

かねてから一度は訪れてみたかった街なのに…無念。

路線バスが運行されている土日祝、佐原の町並みを鑑賞した後で香取神宮を参拝する

…これがベストなのかも知れない。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]19

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そんな思い付きを頭の中でボンヤリ巡らせながら県道55号線を歩くこと、かれこれ1時間弱。

突然、目の前に巨大な鳥居が姿を現した。横には社号標が立っており、一の鳥居なのは間違いない。

ここまで二の鳥居から道なりに約1.6キロ。ロクな歩道もなくクルマの量も多い香取神宮の表参道、まさに受難の道だ。

一の鳥居は二の鳥居、三の鳥居と比べても巨大な代物で、装飾を一切省いた典型的な明神鳥居。

唯一、島木に勅祭社の証である菊の御紋が三つ、あしらわれているのみ。

ちなみに勅使の御参向は6年に一度、子年と午年に遣わされるそうだ。

鳥居は朱塗りでもなく、石造りのようだが夜目にはコンクリート製にも見える。

比較的新しいようにも見えるが、明治時代には既に建立されており意外と古い。

こうして一の鳥居と出合っても気疲れのせいか、さしたる感慨も沸かず佐原駅へ向かって歩き続ける。

とはいえ、これなら香取駅へ引き返したほうがよかったと後悔至極。

それ以前に、出立の段階で選択肢を間違えたと痛感。

鹿島神宮行ではなく香取神宮行の直通高速バスに乗車すればよかったのだ。

バスは東京駅から1時間に1本の割合で出ている。

鹿島神宮行の本数に比べれば少ないが、需要がないだけに乗客も少ないはず。

香取神宮から香取駅まで歩き、JRで鹿島神宮駅へ移動し、そこから高速バスで東京駅まで帰ってこれたわけだし。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]18

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ここからだと距離は約2キロ強。

洲崎神社参拝の際に歩いたフラワーロードを思えば、まあ何てことないだろう。

そう腹をくくって県道55号(山田佐原)線に足を踏み出したのだが…。

県道と参道が交差する少し先に、雰囲気のいい食堂があった。名を「川口園食堂」という。

建物は昔ながらの二階建て日本家屋で、庇の上には横長の大きな看板。

その下では真っ白な暖簾が客を手招きしているかのように風に揺れている。

この佇まい、食堂として見るからに「ストライク」。

ここで夕飯を済ませてから行こうか…心が揺らぐ。

しかし佐原駅までどれほど時間がかかるのか見当もつかない現状下では、先を急ぐ他ない。

県道55号線はフラワーラインとは真逆の意味で、最悪の道路だった。

まず歩道のない部分が圧倒的に多い割にクルマの通行量が多く、しかもスピードが速いので危険極まりない。

クルマだけに目が向き、歩行者のことを全くといっていいほど考慮していない県道…まさに“ボーソー半島”である。

でも、こんなところをクルマじゃなくポクポク歩いている人のほうこそ、よほど変わり者かも知れないが。

ただ歩くだけというのも退屈なので、香取と鹿島の二神の関係について考えてみた。

「常陸国風土記」で鹿島神は「香島天之大神」と記されており、奈良時代に鹿島は「香島」と呼ばれていたことが分かる。

ならば香取は実は「香鳥」で、利根川を挟んだ向こう側の香島と対になっていたのではなかろうか?

利根川の手前が香鳥で、向こう側が香島。

鳥なら川を飛び越えて簡単に島へ渡れる。

香取の語源は「舵(楫)取り」が詰まったものと言われているから、あくまで「香鳥」説は何の根拠もない妄想だけど。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]17

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仲見世を抜けると、そこには広大な駐車場が広がり、その片隅にバス停が佇む。

停留所の掲示を見ると東京駅との間に直通の高速バスが運行されている。

しかし最終便は16時過ぎに出発済みで、もはやアウト。

別の停留所があったので掲示を見ると、幸いなことに佐原駅と結ぶ循環バスが運行されている。

次の便は17時5分発と、まだ多少の時間がある。

それまで仲見世の団子屋でコーヒーでも飲みながら待つか。

そんなノンキなことを考えていたら、恐るべし一文が目に止まった。

「運行日 土曜・日曜・祝日運行」

あいにく今日は平日で、まったくのヌカ喜び。

その下には、こうも記されている。

「※運休日 年末年始(12月29日~1月3日)」

「なんで正月の書き入れ時に休んでんだよ!」

腹立ち紛れに悪態をつくが、かといってバスが来るわけでもない。

香取駅まで歩くのも手だが、来た道を単純に引き返すのも芸の無い話、そういうことはしたくない。

それに完全に日が暮れている今、あの道を通りたくはない。

しかも近くの道標には「佐原の古い町並みコチラ」とある。

ここは迷わず、佐原駅まで歩くことに決めた。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]16

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長威斎の墓所を辞して表参道へ戻り“表玄関”へ。

ようやく朱塗りの大鳥居と社号標に“邂逅”した。

ここ参道正面に聳立する大鳥居は二の鳥居だと、参拝の栞に明記されている。

なら、どこに一の鳥居は存在するのだろう? 少なくとも津宮浜鳥居が違うのだけは確かだが。

大鳥居をくぐって境内を出ると、昔ながらの仲見世が続いていた。

食事処や和菓子屋、土産物屋などが軒を並べ、大きな神社ならではの風情が横溢している。

ただ、まだ17時前だというのに既に日が暮れて周囲は薄暗く、ほとんどの店が閉店間際。

結局どこにも寄らずに通りぬけたものの、何が名物なのか抜け目なくチェック。

団子、蕎麦といった神社の定番メニューに加え、何故かコーヒーを売りにしている店が目に付く。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]15

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香取神宮には不思議な神威があると直感した長威斎は、経津主命に千日千夜の大願を起こす。

昼は梅の木に向かって木刀を振り続け、夜は社殿で祈る毎日。

やがて3年の月日が流れ千日千夜を終えるころ、一心不乱に祈る長威斎の脳裏に経津主命の霊言が舞い降りた。

「兵法は平法なり。敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ」

兵法とは平和の法。大事なのは敵と戦って討つことではなく、敵と戦わずして勝つ方法を考えること、と悟る。

剣法の奥義を極めた長威斎は梅木山を下り、香取神宮で開眼したことから「天真正伝香取神道流」と命名し、近くに武術道場を開設した。

この話、鹿島新道流開祖の塚原卜伝と鹿島神宮の逸話とどこか似ている。

それもそのはず。卜伝は長威斎の門弟だったと言われているのだ。

長威斎は晩年、生家に近い香取郡飯篠村(現多古町)に如意山地福寺を創建。

それから2年後の長享2(1488)年、102歳で大往生を遂げたという。

墓所は小高い塚で、真ん中に上部が斜めに欠損した石板の碑が立っている。

そして塚のあるこの場所こそ、長威斎が修行に打ち込んだ梅木山だった。

石段下に立つ説明板によると、石碑の高さは90センチ強、幅は50センチ弱。

小さな石碑を眺めていると、長威斎は決して屈強な偉丈夫ではなかったような、そんな気がしてきた。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]14

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その目と鼻の先、香取神宮にも鹿島神宮と同様に要石がある。

なぜ両神宮に要石が存在するのか?

ここ香取の地も昔から地震が多く、その原因は地中に住み着いた大鯰が荒れ騒いでいるからで、その点では鹿島神宮と同じ。

そこで香取と鹿島の両大神は両側から地中幾十尺もの深さに石棒を突き刺し、大鯰の頭から尻尾まで貫通させた。

地上に顕れたその両端が要石だと伝わっている。ちなみに香取神宮が凸形、鹿島神宮は凹形だ。

それと、ここでも水戸の黄門様が貞享元(1684)年に参詣された折、要石を掘らせたという。

だが鹿島神宮と同様、やはり根元を見ることは叶わなかったそうだ。

更にその奥で「剣聖飯篠長威斎之墓」と墨書された看柱を見つける。

「神徳館」のところで登場した飯篠長威斎家直は室町時代中期に生まれた剣豪で、元は守護大名千葉胤直(ちばたねなお)の家臣。

ところが、お家騒動で主家が身内同士で殺し合い、無辜の民が戦に巻き込まれて犠牲になるのを目の当たりにし、武芸を以って生きることに絶望。

一時は足利八代将軍義政に仕官したこともあるほど有能だった長威斎だが、千葉家が断絶したのを機に仕官の道をキッパリ捨て去った。

そして世間から逃れるかのように、奥宮に近い梅木山へ隠居して神仏の道を志すことに。

そんな折、聖水が湧く神井戸を穢した人にバチが当たって即死したのを見た。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]13

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表参道を通って二の鳥居へ。

両側には石灯籠が整然と並んでいる。

東日本大震災で崩落の被害を受けたそうだが、現在ほぼ現状復帰しているように見える。

石灯籠の後ろ側は木々が鬱蒼と生い茂り、ただでさえ日没で薄暗い参道の闇を更に濃くしている。

公式サイトには「桜や楓が植えられており春の桜花・秋の紅葉は見事」とある。

だが、その光景は昼間の晴天時のものだろう。

今は真冬で、しかも逢う魔が時。

タイミングが“見事”なほどに真逆だ。

参道の途中で小路を右折し、経津主命の荒御魂を祀る奥宮に参詣する。

現在の社殿は昭和48(1973)年、伊勢神宮式年遷宮の折の古材を以って造営されたもの。

社殿は玉垣で覆われ全体像を拝むことはできないのだが、隙間から覗き見た御姿からは小さいながらも霊力を湛えた力強さを感じる。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]12

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拝殿の前に戻り、楼門と総門をくぐって再び表参道前へ。

総門を出ると右手にある古風な木造建築が目に入った。

道場「神徳館」。

“武神”香取神宮の“魂”とも言うべき建物。

門は閉ざされ中の様子は伺えないが、木造の門塀からは長きにわたって風雪に耐えてきた様子が伺える。

時代劇を見ていると、道場の床の間には必ずといっていいほど「香取大明神」の掛け軸が吊るされている。

「布都御魂剣」の神霊を祀る香取神宮が武道場の象徴として崇拝されるのは当然の理。

また、ここ香取神宮は飯篠長威斎家直(いいざさ ちょういさい いえなお)が創始した現存最古の武術流儀「天真正伝 香取神道流(てんしんしょうでん かとりしんとうりゅう)」が生まれたところ。

600年にわたって伝承されてきた香取神道流は念流、陰流と並ぶ兵法三大源流のひとつ神道流の元祖。

香取神宮が武道の象徴として崇拝されているのは布都御魂剣だけでなく、香取神道流の存在も大きいのだ。

それまで決まった「型」のなかった武術の世界に、長威斎は太刀、小太刀、長刀、居合抜刀、二刀流、棒術、薙刀、槍、鎖鎌、柔術、築城術など百般にも及ぶ武道の原型を作り上げた。

それらの「型」は昭和35(1960)年に千葉県無形文化財に指定され、その大半は「蜻蛉(とんぼ)伝書」と呼ばれる極意書とともに、長威斎の子孫である宗家二十代目の飯篠快貞氏によって確実に継承されている。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]11

それは「布都御魂剣」の神霊を、別々の有力氏族が守護神として崇め祀っていたからだという。

常総地方は中臣鎌足の出身地で、中臣氏=後の藤原氏が氏神様として祀っていたのが鹿島神。

一方の経津主命は、それ以前に物部氏との関わりが深かった。

しかし、物部氏は用明天皇2(西暦587)年に蘇我氏との抗争に破れて没落。

その後、物部氏は姓を石上氏(いそのかみうじ)に改め、こちらが宗家となった。

大和国石上神宮に「布都御魂剣」が祀られていると古事記に記されているのも、物部氏と石上氏の関係を知れば納得できる。

大国主命に対する国譲り神話で、本来なら経津主命が主役になってもおかしくないはずなのに。

例えば「出雲国風土記」に経津主命は「布都怒志命」として登場するが、武甕槌命は登場しない。

日本書紀には経津主命と武甕槌命の二神が揃って登場。

だが、古事記では武甕槌命しか登場せず、経津主命は出てこない。

なぜ、どれも同時代に編纂された歴史書なのに、両神の扱いが不統一なのか?

たぶん、オリジナルの神話では経津主命だけが天降って大国主命と国譲りを折衝したのだろう。

ところがヤマト王権が神話を再構成する段になると、王権内では藤原氏の勢力が著しく拡大していた。

藤原氏に気を使った編纂者は国譲り神話の主役を経津主命から、藤原氏の氏神様である武甕槌命に挿げ替えた。

このため、経津主命ではなく武甕槌命が前面に押し出されるようになった…という筋書きのようだ。

歴史上、敗者の弁は勝者の美談に押しやられ、深淵なる時の狭間に埋もれ、なかなか陽の目を見ることはない。

だからこそ、こうして想像力を逞しく働かせ、様々な推論を楽しむことができるというもの。

これはこれで有難い話だ。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]10

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本殿と末社の桜大刀自神社の間を通り、白いベールに覆われた本殿の後ろ側を眺めつつ進むと、正面には摂社の匝瑳神社。

隣に神饌殿、向かい側に三本杉。その中心に円錐形の砂山が盛られ、周囲に注連縄が張られ、紙垂が下がっている。

この盛砂は「立砂(たてすな)」と呼ばれる一種の神籬(かもろぎ)、つまり神様が降りられる憑代(よりしろ)だ。

立砂を眺めつつ、武甕槌命と経津主命の関係について再び考えてみた。

両命は由来が酷似していることから、元は同じ神が時代の経過とともに二分したかのように見える。

しかし、奈良時代の養老5(721)年に成立した「常陸国風土記」では鹿島と香取それぞれに記述がある。

「普都(ふつ)大神と名乗る神が降りて」という記述から、もともと香取神は常総地方土着の守護神だったものと思われる。

一方では鹿島神が船で陸と海を自在に往来し、同神を祀る社に武具が奉納されたと記述されている。

武甕槌命と経津主命は、それぞれ全く別の神々だったのは確かな模様。

なのになぜ、鹿島と香取の両神は同一神と見做されるほど親しい関係にあるのだろう?

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]05

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香取神宮の境内に入る少し手前で、小さな池の中に立つ小さな鳥居に出合う。

背後の山から流れ落ちる伏水を祀ったのだろうか。

池を包む木々の緑と、渋く赤錆びた鳥居の織りなすコントラストが美しい。

香取交差点から30分は優に歩いたろうか。

坂を登り切ると大きな道に行き当たった。

交差点の中央に「雨乞塚」が佇んでいる。

それを見ながら左折して直進すると、唐突に境内へ出た。

裏道から来た格好なので社号標のある二の鳥居をくぐらず、いきなり社殿の前に出てしまった格好。

それでは具合が悪いので、正面からキチンと参拝するため境内を右側へと回りこむ。

やがて巨大な鳥居が姿を現し、総門の前に出た。

石造りの巨大な鳥居で、後々調べたところでは三の鳥居に当たるらしい。

しかし裏からヒョイと出てきた身には、何番目の鳥居かは知る由もない。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]04

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鹿島と香取の両神宮は古代ヤマト王権の対蝦夷戦略で、共に最重要前線基地として機能していた。

平安中期の律令施行細則「延喜式」でも、伊勢神宮に準じて「神宮」を称することが許されたのは両神宮だけだったことからも、その重要性が伺える。

2000年近くも昔の政治的なパラダイムが今なお盛大な祭りの中で息づいていることに、歴史のロマンを感じる。

再び香取神宮方面への道程へと戻る。

途中、刈り入れの終わった田圃で稲干しを見かけた。

なぜか稲穂が赤い。

近づいてよく見ると、米ではなく唐辛子だった。

それにしても案内板にあった「日本の原風景に出逢えるまち」そのままの景色。

都心から電車でわずか2時間程度で、このような原風景に出逢えるとは千葉県も懐が深い。

香取交差点を渡って県道253線を過ぎると、道が二手に分かれる。

直進は太い道、左折すると細い道。徒歩旅行者としては細い道を進むのが正解ではないかと直感。

迷わず左折すると道は更に細くなり、両側に密生する木々の梢が頭上を覆い、まるで緑のトンネルのよう。

人里と神の領域を結ぶ一筋の坂道をウネウネと登っていく。

途中、茅葺き屋根の大きな屋敷を見かける。

このあたりから神領の雰囲気が濃厚に漂う。

[旅行日:2012年12月18日]
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