一巡せしもの

一巡せしもの[南宮大社]10

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南宮大社、古くは仲山金山彦神社と呼ばれており、現在の社号になったのは江戸時代に入ってからのこと。

現在、日本に金山彦命を祀る神社は約三千社あるという。

金山神社など社号に“金”を含む神社が概ねそう。 南宮大社は、それらの総本社に当たるのだ。

ここで話は伊賀一宮敢国神社に飛ぶ。

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敢国神社の主祭神は大彦命[オオヒコノミコト]だが、そう定まったのは明治時代以降。

それ以前は現在の配神である金山姫[カナヤマヒメ]命と少彦名[スクナビコナ]命の両神が主祭神だった。

金山比咩命は伊邪那美命から金山彦命と一緒に生まれてきた神。

古代の製鉄所「蹈鞴[たたら]」に祀られている金屋子[カナヤコ]神は、金山彦命と金山姫命の御子とされているので、両神は夫婦神と見做されている。

少彦名命は伊賀地方に定住していた朝鮮半島からの渡来人一族、秦氏の信仰神。 海の彼方の常世の国から天の羅摩船[かがみぶね](ガガイモの殻の舟)に乗って現れ、大国主[オオクニヌシ]命と義兄弟となって共に国造りに勤しんだ神だ。

神産巣日[カミムスビ]神の子で、指の間からこぼれ落ちるほど小さかったが、これは指の間からこぼれ落ちる砂鉄のメタファーと見做されている。

つまり少彦名命は鉄であり、伊邪那美命の吐瀉物(=溶解した金属のメタファー)から生まれた金山姫命と併せ祀ることで、秦氏は自ら有する製鉄技術の護持と繁栄を祈念したのだろう。

敢国神社は最初、少彦名命を現鎮座地の背後にある山へ祀っていた。

後に麓の現在地へ遷座し、敢国神社が創建される。 空き家となった山に勧請されたのが当時、南宮大社に祀られていた金山姫命。

貞元2(977)年に金山姫命は麓の少彦名命と合祀。

その山は南宮山、敢国神社は別名「南宮明神」と呼ばれるようになった。

南宮大社と敢国神社は金山彦命と金山姫命という夫婦神の絆で結ばれているわけだ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]09

南宮029

南宮大社には寛永19年に再建された際の造営文書と棟札が今も残されている。

造営文書は623冊が現存。

使用された材木の寸法や値段、神輿、神事用の楽器や衣装などの記録が事細かに綴られており、建築史の側面からも非常に貴重な資料になっているという。

棟札とは棟上げや修理の際、工事の由緒や工匠の名などを記して棟木に打ち付ける木札のこと。

棟札は30枚が現存しており、その中には「征夷大将軍家光造営」と書かれた札もあるそう。

これら造営文書と棟札もまた社殿の付属物として国の重要文化財に登録されている。

南宮030

構造物を眺めていると廻廊の屋根や庇の下に並ぶ、鋸[のこぎり]や鏝[こて]、鋏[はさみ]などを収めた箱が目に付いた。

主祭神の金山彦命が金属の神であるところから奉納されたのだろう。

金山彦命は神武東征の折に金鵄(金色のトンビ)を飛ばし、熊野から大和への進軍を先導する八咫烏を補佐して勝利をもたらす霊験を発揮。

神武天皇即位の年、その功績を以って畿内と東国を結ぶ要衝の地に祀られた。

考古学上この金鵄は鉄製武器のメタファーではないかと考察されているそうだ。

古代において鉄製武器は軍事力の象徴であり、優秀な鉄製武器を製造できる技術を持つことは国家権力の掌握に直結していた。

もともと鉱山の神だった金山彦命が、刃物や包丁の守護神という新たな役割を担うようになった所以だろう。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]08

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壬申の乱から900年近く時代が下った慶長5  (1600)年、今度は天下分け目の関ヶ原合戦が起こる。

主戦場は現在の不破関跡から北に直線距離で約1km程という至近距離。

南宮大社も無論のこと戦乱に巻き込まれ、兵火で社殿群は焼失した。

というより、西軍の主戦力たる毛利家の総参謀である安国寺恵瓊が、ここへ陣を構えるため焼き払ったからなのだが。

関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わり、徳川の幕政も安定してきた寛永19(1642)年。

三代将軍家光は七千両(現在の貨幣価値に換算すると…約21億円!)もの大金を寄進。

美濃国代官の岡田将監善政を造営奉行に任じ、南宮大社を再建させた。

国重要文化財に指定されている社殿群15棟のほか、2つの石橋と中山道垂井本町に立つ石鳥居の計18棟を建立。

石橋と石鳥居もまた同様、国の重要文化財に指定されている。

南宮027

拝殿の横から伸びる廻廊越しに本殿を覗き込む。

本殿と弊殿は素木造り。

朱塗りも鮮やかな他の社殿群とは対照的なコントラストを描いている。

南宮大社にも屋根を葺き替える式年遷宮があるそう。

周期は51年と定められ、最近では昭和48(1973)年に行われた。

この時は文化庁の指揮下で2年余りの歳月をかけて社殿が修復されている。

本殿の右隣に摂社が立っている。

境内の案内図によると、これは樹下社だ。

南宮大社の摂末社は廻廊の向こう側にあり、築地塀の内側で参拝客が入れるエリアには一社もない。

境内がガランとして殺風景だったのは、ひとつも摂末社がないせいでもあろうか。

ちなみに廻廊の向こう側には本殿を中心に右側には樹下社と隼人社、左側には高山社と南大神社、本殿の奥には七王子社と5つの摂末社が鎮座している。

参拝できない場所にあるのは、なんか理由があるのだろうか?

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]07

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広い境内に手水舎がポツンと立っている。

四方の柱は鉄製で、少なくとも寛永19(1612)年より後の造営だろう。

むしろ国の重要文化財ではない建造物のほうが、この境内では珍しい。

広い空間の中心に舞殿が位置している。

南宮大社では「高舞殿」と呼んでいる。

過去の参詣でも拝殿と舞殿が相対している一宮は数多かった。

それらと比べても高舞殿は大きい部類に入るようだ。

江戸時代に造営された割に手入れが行き届き、

綺麗に保存されている。

特に軒下の蟇股に刻まれた十二支の彫像が繊細で美しかった。

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高舞殿にクルリと背を向け、相対して立つ拝殿へ向かう。

頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打って手を合わせる。

南宮大社の鎮座地は東国と西国の要衝に位置している。

両国を分けるのは西へ10kmほどのところにある「不破関[ふわのせき]」。

8世紀初頭、律令体制の整備に伴い設置された古代三関のひとつで「関ヶ原」という地名の由来になった施設だ。

もとは古代史上最大の内乱となった壬申の乱(672年)で、大海人皇子[おおあまのおうじ]が本営を設置した場所とされる。

不破関を抑えた皇子が壬申の乱に勝利し、その翌年、天武天皇に即位すると恒常的な関所として整備された。

ちなみに古代三関の他の2つは東海道の鈴鹿関と北陸道の愛発[あちら]関。

この三関から東の地域を東国とか関東と呼ぶようになったという。

つまり当時の感覚から言えば現在の岐阜県や愛知県も「関東」になるわけだ。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]06

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楼門は朱塗で、見上げていると首が痛くなるほどの巨大さ。

左右両袖には矢大臣と左大臣の木像が鎮座しており、随身門だと言えなくもない。

楼門をくぐって中に入る。

振り返ると矢大臣と左大臣の裏側に狛犬が配置されていた。

狛犬といえば拝殿の前に腰を落ち着け、参拝客に睨みを効かせているものだが。

ここでは目立たない場所にヒッソリ佇んでいる。

狛犬の存在に気づかないまま帰っていく参拝客も多いことだろう。

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楼門から内側も外側と同様、思いのほかガランとしている。

楼門と拝殿の間に建築物は手水舎と舞殿ぐらいしかない。

南宮大社の社殿群は和様と唐様が混在した「南宮造」という独特の様式。

本殿
弊殿
拝殿
樹下社
高山社
隼人社
南大神社
七王子社
回廊(左右)
勅使殿
高舞殿
楼門
神輿舎
神官廊

以上の15棟から構成され、すべて国の重要文化財に指定されている。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]05

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南宮大社の主祭神は金山彦命[カナヤマヒコノミコト]。

伊邪那美命[イザナミノミコト]が火の神である迦具土神[カグツチノカミ]を産んだ際、女陰に大火傷を負って苦悶する最中の嘔吐物から生まれた神とされている。

金山彦命は鉱山をはじめ金属一切を司る神。

しかし、なぜ嘔吐物から?

それは炎で融解した鉱物の姿が嘔吐物に似ているからとの説がある。

楼門の前には川が流れ、3本の橋が架かっている。

楼門の正面に架かるのが石輪橋。

造営時期は寛永19(1612)年で花崗岩製。

輪のようなアーチを描いていることから「そり橋」とも呼ばれている。

どこの神社でもそうだが、こうした高い円弧の神橋は神様専用で人間が渡れない場合が多い。

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石輪橋の下手に架かる、同じ花崗岩製の橋が石平橋。

ほぼ平らで、人間はこちらを渡ることになっている。

5月5日の例大祭で神輿が下向する際この橋を渡ることから「下向橋」とも呼ばれているそうだ。

石輪橋と石平橋の真ん中に、もう1本の橋が架かっている。

天板こそ木製だが両端のスローブはコンクリート製、朱塗りの欄干は金属製としっかりした造り。

石平橋が老朽化してきたので急遽、拵えたのかも知れない。

石平場が解体修理されたら取り壊される運命なのだろうか?

ただ現在のところ石平橋は通行可能で、どちらでも渡れる。

橋を渡ると正面の築地塀の前に石灯籠が立ち並んでいる。

他に目立った構造物のない境内で、塀の前に整然と並ぶ石灯籠は目を引く存在だ。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]04

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大鳥居から南へ向かって参道を進む。

沿道には商店なども特に見当たらず、いたって普通の住宅街。

突き当たると道がフワッと広がり、一本道だった参道が松並木で左右に分け隔てられる。

道の右手は南宮大社の専用駐車場、左手には数軒の店舗が立ち並んでいる。

料理店や雑貨店、その看板には「南宮大社御用達」の文字。

これらの店舗もまた南宮大社の施設の一部なのかも知れない。

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右側の道を先に進むと正面の入り口に出る。

五段ほどの短い石段を上がると社号標と一対の石灯籠。

その奥には幅広い参道が続くも両側には木々が疎らに立ってるだけ。

 境内は飾り気もなく非常にシンプルだ。

「南宮大社」という社号は美濃国府から南の方角に鎮座していることに由来する…と、境内の御由緒に記されている。

美濃国府は鎮座地から2kmほど北、現在の垂井町府中に8世紀中頃から10世紀中頃にかけて存在していた。

遺構の残存状況も良好で、平成18(2006)年1月26日には国府跡が国指定史跡となっている。

「五月大祭神事舞奉奏市場」の項でも触れた通り、もともと南宮大社は現在南宮御旅神社の所在する地に鎮座していた。

それが人皇十代崇神天皇の時代に現在地へ遷座して今に至るわけだ。

参道を進むと意外なことに気付く。

 鳥居が立っていないのだ。

 南宮大社の鳥居は中山道垂井本町と新幹線脇の2カ所だけ…ということになる。

石灯籠の間を通って境内に入っていく。

ガランとした敷地に乗用車が数台停車しているだけ。

これといって目を引く構造物は他にない。

良く言えば飾り気がなく、悪く言えば殺風景な空間が広がる。

南宮012

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]03


南宮007


祭礼の行列が大鳥居まで来ると、神輿は舞台の「神輿上がり」に安置される。

そして道を挟んだ向かい側に立つ「だんじり」で、男児による還幸舞が始まる。

こちらも国の重要無形文化財に指定されている。

「蛇山神事」は五穀豊穣を願う農耕信仰の神事で、こちらも国指定の重要無形文化財。

「神幸式」と平行して行われる 5日の午前1時、南宮山の奥にある蛇池より降神した蛇頭を宮代の市場野の祭礼場に運び、蛇山という高さ役十三㍍の櫓の上に取り付ける。

明け方から神輿が還幸するまで「ドンドコドンドコ」の囃子に合わせて蛇頭を上下左右に勢いよく揺り動かし、口を開閉して舞い続ける。

五人囃子の音色が一段とせわしくなると、蛇山の上の蛇頭と、だんじりの竜子舞が激しく乱舞して祭りはフィナーレを迎える。

例大祭の前日である4日には農作物の豊穣を願う「御田植祭」、別名「お田植え神事」が行われる。

3~5歳の少女たちが境内に仮設された斎田に、苗に見立てた松の葉を植え付け豊作を祈願するお祭り。

実際の田植えではなく松葉で模擬的に動作を行うスタイルは「庭田植え」というそう。

祭礼の形式は室町時代に完成したといい、現在では国の重要無形文化財に指定されている。

関ヶ原合戦で中止されたものの、江戸時代の寛永年間(1624〜1645)に社殿が再建された際に復活したという。

「お田植え神事」のメインキャストが幼い「稚児」や「早乙女」なのは、純粋な女児にこそ神様のエネルギーが乗り移れるため。

「神は稚児に宿る」という、日本に古くから伝わる神話の真髄が反映されたお祭りと言えるだろう。

南宮009

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]02

南宮005

参道を進むと東海道新幹線の高架が目前に立ちふさがる。

その向こう側に聳立する朱塗りの大鳥居。

高架の脇だけに、ここなら新幹線の車窓からでも間近に見えるだろう。

大鳥居は鉄製で高さは21m。

東山道は無論、日本全国でもトップクラスの大きさを誇っている。

南宮006

鳥居をくぐった先の右手すぐのところに巨大な石柱と石造りの舞台が設えてある。

石柱に刻まれている文字は「五月大祭神事舞奉奏市場」。

ここは毎年5月5日に行われる例大祭の舞台となるところ。

例大祭は国の重要無形民俗文化財に指定されており「神幸式」「還幸舞」「蛇山神事」などが奉納される。

「神幸式」は南宮大社から北へ約2km、南宮御旅神社に至る道のりを三基の神輿が練り歩くお祭りだ。

もともと南宮大社は旧美濃国府に近い御旅神社に鎮座していたのが、後に現在地へ遷座したと伝わる。

年に一度、御祭神が神輿に乗って旧鎮座地へ帰還する神事が「神幸式」であり、別名「神輿渡御式」とも言われている。

「還幸舞」は御旅神社に到着した神輿が南宮大社へ戻る途中で行われる舞のことで「羯鼓舞」「脱下舞」「竜子舞」と3種類ある舞の総称だ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]01

南宮001

石山駅から乗車したJR西日本の新快速は適度な混雑ぶり。

ほぼ満杯の乗客で埋まっていたが幸い空席をゲット。

昨夜の高速バス移動のせいか即、眠りに落ちた。

目覚めたら彦根駅。

次はJRの西日本と東海の結節点、米原駅だ。

乗り継いだ大垣行き普通列車も結構な乗客の数。

だが途中駅は降客ばかりで席がアッサリと空く。

もったいないことに30分弱で垂井駅に到着した。

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駅の北口を出ると駅前に銅像が立っていた。

「竹中半兵衛重治公」
 
戦国時代きっての軍師と謳われた竹中半兵衛は天文13(1544)年、美濃国大御堂城の生まれと伝わる。

大御堂城は現在の岐阜県揖斐郡大野町にあった古城で、現在は跡地に八幡神社が立っている。

永禄10(1567)年頃、織田信長に仕えて以来の働きぶりは衆知の通りだ。

駅前から町役場の前を経て,垂井の街並みを散策する。

垂井は中山道六十九次中、日本橋側から数えて57番目の宿場町。

垂井宿は現在でも往時の雰囲気が比較的残っており、宿場の趣を堪能できる町だ。

どこをどう歩いたかも分からないまま、東海道本線の踏切を渡り国道21号線に出ると、御所野交差点に参道への案内看板が立っていた。

交差点から南宮大社の門前まで約700m強。

徒歩なら15分弱で到着する距離だ。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]17

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再び京阪石山坂本線の唐橋前駅まで戻って来た。

石山坂本線は文字どおり石山寺駅と坂本駅を結ぶ路線。

坂本駅は比叡山への玄関口であり、延暦寺の守護神である日吉大社[ひよしたいしゃ]が鎮座している。

近江国には多賀大社や近江神宮など大きな神社が幾つもあるが、中でも日吉大社は延暦寺の存在を背景に強大な力を有していた。

建部大社も日吉大社から政治的経済的に圧迫され、所領争いも絶えなかったそう。

中世を過ぎる頃には建部大社も日吉大社の勢力下に飲み込まれていたという。

石山坂本線の両端に鎮座する建部大社と日吉大社。

今なら電車で1時間かそこらで行き来できる両大社。

だが、その距離には千年以上にも亘る深い因縁が横たわっているわけだ。

建部068

往路を忠実にたどりながら石山駅へ戻る。

フィルムを逆回転させたかのように風景が巻き戻っていく。

国府の近くに鎮座していたことから一之宮となった建部大社。

古来より交通路の要衝に位置していたことから、幾度も大きな戦乱に巻き込まれた。

そのたびに社殿は焼失し、社宝や古文書は失われ、社域は削られていった。

ちなみに近江国の二之宮は日吉大社、三之宮は多賀大社。

日吉大社は前述の通り比叡山延暦寺の守護神として権勢を誇ってきた。

多賀大社は現在、滋賀県で最も多くの初詣客を集める大神社である。

過去に両社が建部大社から一之宮の座を奪い取っても不思議ではなかったろう。

それでも近江の一之宮は今もなお、建部大社である。

苛烈な歴史に翻弄されながらもシブトく生き延びてきた術はどこにあったのか?

その秘訣を知ることができれば、自分の人生にも活かせることができるかも知れない。

石山駅のホームに立ち、行き交う列車の姿を眺めながら、そんなことを想った。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]16

建部063

再び瀬田唐橋へ戻ってきた。

往路は建部大社への道を急ぐことしか頭になかったので、復路は欄干から瀬田川を眺めてみる。

言うまでもなく琵琶湖は日本最大の湖。

その湖水は119本もの河川から注ぎ込まれる水により満たされている。

一方、琵琶湖から流れ出ている河川は、この瀬田川だけだ。

橋の欄干にもたれて川面を眺めていると、こちらに向かって琵琶湖方面から練習中のボートが一列になってやってきた。

琵琶湖との境目のあたりに県営の琵琶湖漕艇場がある。

思えば関西には琵琶湖より大きな湖はないのだから、滋賀県のみならず関西一円の漕艇界にとっても貴重な練習場になっているのだろう。

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瀬田唐橋には「俵藤太[たわらとうた]伝説」なる言い伝えがある。

俵藤太とは平安前期の鎮守府将軍、藤原秀郷[ひでさと]のこと。

平貞盛[さだもり]と協力して平将門の乱を鎮圧し、東国を平定したことで知られる。

秀郷が橋を渡ろうとしたときのこと。

その上に全長約66mにも及ぶ大蛇が横たわっていた。

近郷の者は恐れ慄き誰一人として近寄らなかったほどの大蛇

たが秀郷は、その背をやすやすと踏み越えた。

すると大蛇は爺さんに変身し、秀郷に語りかけてきた。

話によると、七回り半もトグロを巻いた巨大ムカデが夜な夜な三上山から降りてきては琵琶湖の魚を食い尽くすので、人々が大変困っているという。

そこで爺さんは大蛇に姿を変え、勇気ある豪傑を待っていたのだそうだ。

快く引き受けた秀郷は巨大ムカデの眉間を矢で射貫き、成敗に成功。

爺さんは秀郷の武勇を讃え、瀬田橋の下へと招待した。

そこは…なんと竜宮!

爺さんは琵琶湖に暮らす人々を見守るべく千年余の昔から竜宮に住み、漁師の暮らしや近江国の農作を見守り続けてきたという。

秀郷はムカデ退治の功績により釣鐘、刀、鎧などを贈られた。

さらに、山海の珍味の尽きぬ鍋、織っても尽きぬ絹、食べても尽きぬ米俵を土産に持たされ、竜宮を後にした。

その米俵が「俵藤太」という名の由来になったそうだ。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]15

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大野神社の隣に複雑に絡み合った木の根が置かれている。

その名を「彌栄[いやさかえ] のご神木」、又の名を「産霊[むすび]の樹」。

境内で数百年もの間,樹勢を張り続けてきた松の根っ子。

松の根…つまり「松根」、転じて「商魂」。

今では商売繁盛の神として崇められている。

大切そうに屋根が架けられ、奥には祠も設えてあり、御利益の程がうかがえる。

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神門を出て左側へ向かうと参集殿。

その前庭に一本か細い幹が伸びている。

日本武尊[ヤマトタケル]が東征した折、甲斐国の実相寺に手植えしたという「山高神代桜[やまたかじんだいざくら]」を移植したもの。

平成25(2013)年3月31日に植樹されたばかりだ。

オリジナルの実相寺「山高神代桜」は樹齢1800年とも2000年とも云われ、大正11(1923)年には国指定天然記念物に指定されている。

ちなみに本家「山高神代桜」は磐城国「三春滝桜」、美濃国「根尾谷淡墨桜」と並ぶ日本三大桜のひとつだ。

神代桜の隣では紅葉が燃え上がるように色づいている。

葉も花も落ち、身を縮めて春が来るのをひたすら待っている神代桜とは対照的だ。

紅葉の奥に句碑が立っている。

大きな石板に3つの俳句が刻まれているが、その良し悪しは分からない。

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境内を後にして再び参道へ出る。

ここから東へ約1kmのところに近江国庁跡がある。

奈良時代中期から平安時代前半、8世紀中葉から10世紀後半の200年余りにかけて近江国府が置かれていた場所だ。

建部大社が近江国一之宮になったのも国府の近くに位置していたことが理由だろう。

近江国庁は平安時代半ばに使われなくなってから、その所在地が分からなくなっていた。

それが見つかったきっかけは昭和35(1950)年のこと。

神領団地の造成中に地中から数多の土器や瓦が出土。

本格的に発掘調査を行ったところ大規模な遺構が発見され、後に近江国府の跡だと正式に確認された。

ちなみに日本で初めて発見された国庁遺跡であり、昭和48(1973)年には国の史跡に指定されている。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]14

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その横に水琴窟が据えてあった。

 水琴窟とは小さな穴を開けた甕を底に伏せて埋め、蹲踞[つくばい]や手水鉢からこぼれた水が穴から雫となって落ち、底に溜まった水面に当たって弾ける音が甕の空洞で共鳴するように工夫した音具。

その音が琴の音に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになった。

現在でこそ広く知られているが、その名が聞かれるようになったのは実はつい最近のことだ。

発祥は江戸時代と推測されているが明治時代以降は次第に廃れ、戦後は完全に忘れ去られた存在に。

昭和50年代、水琴窟の発掘調査をマスコミが取り上げて始めてからのこと。

今では全国に様々な水琴窟が設えられ、日本中で琴に似た音色を奏でている。

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社務所から三本杉の前を横切り境内の東南方面へ。

小綺麗な庭が整備され、池では噴水から水飛沫が勢いよく噴き出ている。

大正4(1915)年の御大典記念と大正5(1916)年の創立1800年祭のために整備された庭という。

 鳥居をくぐりと石橋を渡ると左手に巨大な石灯籠が立っている。

もとは瀬田城にあった膳所藩家老の別邸「臨江庵」の庭に立っていたもの。

古代、百済から渡来した大友氏一族が瀬田唐橋の安全を祈念し、彼らの持つ先進の土木技術を以って建造、奉納したものと伝えられている。

庭から境内の東南の角に向かうと「大野神社」という摂社が鎮座している。

建部大社が神埼郡建部郷千草嶽から遷座する以前、瀬田の地主神として祀られていた神社という。

祭神は草野姫命[かやのひめのみこと]。

伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた、屋根を葺くためのための萱や薄を称える神である。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]13

建部053

拝殿と幣殿を間に挟み、東西に4社づつ摂末社が鎮座している。

西側の上座4社には日本武尊の父母である景行天皇と皇后、御妃と御子。

東側の下座4社には日本武尊の遠征に付き従った家臣が、それぞれ祀られている。

豊穣満帆の庭を神門の方へ向かうと社務所に突き当たると、その前庭に水関係の施設を集めた一角。

信楽焼の大鉢を満たす御神水は本殿奥の森にある「エンコ」から自噴している。

この「エンコ」とは地下約100mの水脈から湧出する自噴式井戸のこと。

古来より伝わる独特の呼び名で、昭和30(1955)年ごろまで瀬田のあちこちにあり、共同で利用されていたという。

ただ、現在は地下から直接ポンプで汲み上げている。

この御神水は希望すれば持ち帰ることができるそうだ。

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御神水の隣に「頼朝公の出世水」が湧いている。

これまでにも頼朝と縁の深い一宮は幾つかあった。

相模一宮鶴岡八幡宮はもとより、伊豆一宮三島大社、安房一宮洲崎神社など。

建部大社もまた、源頼朝の間に深い縁がある。

源頼朝が14才の時、平家に捕われ伊豆へ流罪となり京都から関東へ下向の折。

永暦元(1160)年3月20日に参篭し、前途を祈願した由が平治物語に記されている。

それから四半世紀が過ぎ、頼朝は平氏を打ち倒して源氏再興の宿願を達成。

右大将となり上洛した建久元(1190)年11月。

途上で再び立ち寄り、数多の神宝と神領を寄進して祈願成就の恩に報いたという。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]12

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宝物殿の隣に神馬舎があり、中に馬が繋がれている。

といっても本物ではなく、木造の白馬像だ。

境内の北東の角に宝物展がある。

社宝の木造女神坐像や古文書、出土品などを展示保管している建物。

平安時代作と伝わる木造の女神坐像と脇を固める小神坐像2体の計3体が国の重要文化財に指定されている。

像高41.2cmの女神坐像は右袖で口元を覆う仕草から恥じらっている姿と思われていた。

しかし女神は日本武尊の妃と伝えられることから、武尊の死を嘆き悲しむ妃とお子たちを象ったものではないかとする説もあるという。

本殿の裏手に回り、社殿を後背部から眺める。

耐震性を向上させるため本殿と権殿の地下には免震装置が設置されている。

神社では初の試みとして内外から注目を集めているそうだ。

建部048

本殿の後ろに「菊花石」という不思議な石が展示してある。

自然のパワーで菊の紋様が刻まれた自然の化石。

これほど鮮明で巨大な化石は珍しく、鑑賞石の最高峰とされているそう。

菊花石の隣には、菊の紋が入った信楽焼の古壺「菊紋壺」が展示されている。

伝承の由来や年代などの記録は残っていないが、社宝として長年にわたり伝承されてきた。

本殿の裏手からグルリと回り込み再び正面へ出た。

幣殿の西側に「豊穣満帆の庭」という小綺麗な庭園が整備されている。

大海原を一艘の船が大漁旗をなびかせ建部大社へ向かう姿を表現しているという。

建部050

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]11

建部045

元々この社は建部氏が氏神を祀った神社だといわれている。

建部=タケルベに因んで日本武尊を祭神に祀ったものと思われる。

一方、右側の権殿に祀られているのは大己貴命[オオナムチノミコト]。

言うまでもなく、大国主命[オオクニヌシノミコト]の別名。

三本杉のところで触れたが、建部大社に大己貴命が祀られたのは天平勝宝7(755)年のこと。
 
建部氏の祖先は稲依別王[イナヨリワケノミコ]。

古事記には、近淡海(近江)の安(野洲)の国造の祖先、意富多牟和気[オオタムワケ]の娘、布多遅比売[フタヂヒメ]と日本武尊の間に生まれたのが稲依別王と記されている。

つまり、元の祭神は稲依別王だったのが、孝徳天皇の詔により大己貴命に変えられたのかも知れない。

建部044

終戦直後の昭和20(1945)年8月に発行された旧千円紙幣に、

建部大社の本殿と主祭神の日本武尊が描かれている。

日本初の千円紙幣で当時最高額の日本銀行券。

それだけに寸法は縦10cm×横17.2cmと超巨大。

しかも従前の紙幣に比べ最多の刷色を用いて作成された。

正式には「日本銀行兌換券 甲 千圓券」という。

兌換券とは券面に記載された金額の金貨と交換できるよう保証された銀行券のこと。

この紙幣も表面に「此券引換に金貨千圓相渡可申候」とあるように、千円金貨との交換が保証されていた。

しかし通用期間わずか7ヶ月間と短く、発行枚数が極めて少なかったため、今では「幻の千円札」といわれている。

通貨管理制度に移行している今では、もちろん金貨との交換は不可能な不換紙幣。

 とはいえ古銭商では高額で取引されているようなので、現代では現代なりの価値があると言えよう。

建部046

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]10

建部037

神門の前に来た。
ここから先が神域ということになる。

手水舎の奥に横書きの社号標。
「御鎮座壱千参百年式年大祭記念」とある。

白鳳4(675)年4月、近江国府があった瀬田の地に遷座してから約1300周年を記念してのもの。

それ以前は景行天皇46(西暦316)年に日本武尊の后である布多遅能伊理毘売命[フダヂノイリビメノミコト]が創建した神埼郡建部郷千草嶽に鎮座していた。

建部040

巨大な提灯の下をくぐって内側に入る。

目の前にあるのが御神木の三本杉。

建部大社の神紋は、この三本杉をデザインしたものだ。

天平勝宝7(755)年、孝徳天皇の詔により大和一宮大神神社から大己貴命を勧請した際、一夜にして成長したと伝わっている。

三本杉の先に拝殿。 ここは祈祷所としても使われている。
拝殿を祈祷所に用いるのは他の神社と同じだが、その割に拝殿は小さ目だ。

拝殿と本殿を幣殿が結んでいる。

だが“殿”と呼べるほどの規模ではなく、壁がない切妻屋根の東屋のような形状をしている。

近寄れるのは拝殿までで幣殿から奥には立ち入れない神社が多い中、ここは本殿まで肉薄することが可能だ。 幣殿の奥に本殿が鎮座している。

だが、ここは他の一宮と異なり本殿に建物が2つあり、左右に並んで立っている。

これまで両殿を合わせて“本殿”と呼んでいたが、正式には左側が本殿、右側は権殿という。

ちなみに両殿の大きさは全く同じだ。

左側の本殿には主祭神の日本武尊が祀られている。

ただ、和泉一宮大鳥大社とは異なり、薨去した日本武尊が白鳥に姿を変えて飛び立って行ったという「白鳥伝説」とは直接の関係はないという。

建部043

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]09

参道の右側に主祭神ヤマトタケルの生涯を解説したパネルが並んでいる。

シャープな絵柄で描かれたイラストをもとに5段階に分けて解説している。

建部032
〔1〕ヤマトタケルの西征 オウスノミコトと呼ばれていた若き頃、九州の熊襲健[クマソタケル]兄弟を女装して成敗した章。

熊襲兄弟から「タケル」の名をもらい、日本武尊[ヤマトタケルのミコト]と呼ばれるようになった。

建部033
〔2〕ヤマトタケルと草薙の剣 東国征伐を命じられたヤマトタケルが相武国造の罠に嵌められて暗殺されそうになった章。

天叢雲剣[アメノムラクモノツルギ]と火打石で起死回生した逸話は相模一宮寒川神社の項で紹介。

建部034
〔3〕后・オトタチバナヒメの入水 今の神奈川から千葉へ船で渡ろうとしたヤマトタケルが嵐に巻き込まれて立ち往生した際、后の弟橘比売命[オトタチバナヒメノミコト]が海に身を投じて嵐を鎮め、無事に渡海することができたという章。

ヤマトタケルがオトタチバナを偲んで叫んだ「吾が妻よ!」という言葉が、この一帯の地名に。

浅草駅前、隅田川に架かる「吾妻橋」の名は、この故事に由来している。

建部035
〔4〕ヤマトタケルと伊吹山の神 東国を平定したヤマトタケルが、今度は伊吹山に棲む悪の神を退治に出向く章。

ところが悪神の返り討ちに遭い、這々の態で脱出する逸話は和泉一宮大鳥大社の項で紹介。

建部036
〔5〕ヤマトタケルと白鳥伝説 大和国へ帰還する途中で力尽き、伊勢の能褒野で息を引き取るの章。
ヤマトタケルの魂は白鳥となり、西へ翔び立ったという逸話も和泉一宮大鳥大社の項で紹介。

このようにヤマトタケルの生涯については主に和泉一宮大鳥大社の項で触れているので、そちらを参照頂けるとありがたい。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]08

建部023

道の先に社号標が見えてきた。

左側手前に立つ細い標柱は「官幣大社建部神社」と刻字された古いもの。

明治初頭に制定された近代社格制度で建部大社は官幣大社に分類されていたわけだ。

建部024

右側奥には新しい社号標が立ち、その脇にある一ノ鳥居から奥へと参道が伸びている。

旧社号標の「官幣大社建部神社」から新社号標は「近江國一之宮建部大社」へ。

戦後に近代社格制度が消滅した折、神社の名称のほうを「建部神社」から「建部大社」に変更することで、かつて官幣大社だった証を現代に伝えようとしたのだろうか?

一ノ鳥居は石造りのシンプルな明神鳥居。

その華美な装飾のない佇まいは武神として崇められてきた歴史の顕れだろう。

建部神社の「建部」とは古代の軍事的な部民「建部[たけるべ]」(武部とも書く)に由来する。

「たける」は勇者の意味。

「べ」は大化の改新以前、ヤマト王権に属し、朝廷や豪族の支配下で労力や貢物を提供した人々の集団のこと。

部の前に職能名を付けて呼ばれることから、建部(武部)は軍事に従事する人々の集団ということになる。

一ノ鳥居をくぐり参道を進む。

参道が尽きるあたりで左折すると正面に二ノ鳥居が聳立していた。

二ノ鳥居は一ノ鳥居を少し小さくした感じで石造りの明神鳥居。

形状は全く一緒だが、扁額はなく額束になっている。

二ノ鳥居をくぐると両側に石灯籠と松の木が立ち並ぶ玉砂利の参道。 その奥に神門が姿を見せている。

建部029

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]07

建部020

建部大社に向かって進むと道の右側に空き地が広がっている。

入り口の標柱にある文字は「御旅所」。

祭礼で神社を出発した神輿を仮に奉安する場所だ。

さらに先へ進むと今度は道の左側に「たにし飴」の看板。

たにし飴? 「たにし」とは田んぼに生息する淡水巻貝「田螺」のことか?

だとしたら、この飴は田螺のエキスを練りこんであるのか?

調べてたら田螺そのものとは何の関係もないそう。

製造元の辻末製菓舗は1880(明治13)年創業の老舗。

原料は黒糖とニッキ(肉桂)で田螺関係は入っていない。

田螺のような円錐形をしているので「タニシ飴」と命名したという。

だが今や田螺を見かける機会もまずなく、タニシそのものの意味が通じにくい時代になったようだ。

建部021

「たにし飴」の看板を見上げながら三叉路を渡ると、信号機の上に「神領」の文字。

建部大社が鎮座する土地の名だ。

昔この一帯が建部大社の神料田[しんりょうでん]だったことに由来するという。

建部022

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]06

建部019

瀬田唐橋を渡り東詰へ。

既にお天道様は頭上にある。

大津駅へ未明に到着してから随分と回り道したようだ。

「急がば回れ」という諺が生まれたのはココ、瀬田の唐橋。

「もののふの 矢橋の舟は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」

室町時代、連歌師の柴屋軒宗長[さいおくけんそうちょう]が詠んだこの短歌に由来している。

矢橋[やばせ]とは草津宿にある矢橋港のこと。

琵琶湖を横断して大津宿石場港と結ぶ渡し舟を利用すれば、陸路を唐橋経由で行くよりも遥かに時間を短縮できたという。

ところが、もののふ(武者)の漕ぐ渡し舟は比叡山から吹き下ろす突風で転覆する確率も高かった。

このため瀬田唐橋経由の陸路を選んだほうが、リスクの高い航路よりも安全確実に大津へ到着できるというのが、この句の意味。

やがて近江国限定の内容から「何が起こるか分からない危険な近道より、遠回りになっても安全確実な道を選んだほうが、逆に早く目的地へ着ける」という普遍的な意味の諺となり。

さらに道路の選択から転じて「リスクを冒すより手堅い安全策のほうが早く目的を達することができる」という社会的な意味合いにも使われるようにもなった。

一之宮巡礼なぞ自家用車でビューッと回ればアッという間に終わるだろう。

バスや電車など公共交通機関での巡礼なんて単なる時間の無駄かもしれない。

ただ、先ほど京阪電車に乗車した石場駅が「急がば回れ」因縁の地だったのは、公共交通機関による巡礼が「急がば回れ」的に間違っていないという神の啓示なのかもしれない…と、勝手に思った。


[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]05

建部016

朝の通勤通学時間帯とあってか、土曜日とはいえ交通量は多い。

学生たちの自転車を避けつつ、短い橋を渡る。

瀬田唐橋は中洲を間に挟み大橋と小橋の2つの橋で対岸と結んでいる。

小橋を渡ると中洲に建部大社への案内板が立っていた。

風光明媚な景勝地だけに中洲や川辺には宿泊施設や料亭などが立ち並んでいる。

 だが瀬田唐橋が観光名所になったのは実は江戸時代に入ってからのことである。

1950年代末に瀬田川大橋が竣工するまで、瀬田唐橋は瀬田川に架かる唯一の橋だった。

このため東国から京へ陸路で入るにはここを通る以外なく、まさに京都防衛の“要”。

「唐橋を制するものは天下を制す」と謳われるほど、たびたび歴史の節目となる“戦場”となった。

その嚆矢は天武元(672)年の「壬申の乱」にまで遡る。

承久3(1221)年の「承久の乱」や元弘3(1333)年「建武の新政」など、幾度となく戦乱に巻き込まれ焼け落ちてきた。

「瀬田の唐橋に風林火山の旗を立てよ」

戦国時代の元亀4(1573)年、天下統一を目指して上洛の途上で病没した武田信玄が今際の際に残したという有名な遺言だ。

信玄が本当に言ったかどうかは分からないが「ここを押さえれば天下を取ったも同じ」という意味では、瀬田唐橋が持つ地政学的な重要性を十分に言い表しているように思える。

建部017

織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしてから4年後の天正3(1575)年。

信長は瀬田城主の山岡景隆[かげたか]に命じ、上流にあった橋梁を現在地に付け替えさせた。

景隆は長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)の一本橋を3ヶ月という突貫工事で完成させたそう。

ところが、それから7年後の天正10(1582)年に起こった「本能寺の変」で明智光秀軍は安土城へ進攻。

それを阻止するため、皮肉にも景隆自身が瀬田唐橋と瀬田城に火を放ち焼き払う羽目となった。

その明智光秀を豊臣秀吉が討ち、天下を統一。

このとき瀬田唐橋は現在の“二重橋”状態に整備されたという。

徳川幕府の治世に入り天下泰平の社会が訪れると、瀬田唐橋は血で血を洗う戦場から風光明媚な景勝地へと姿を変える。

歌川広重は浮世絵に描き、松尾芭蕉は「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」と句に詠み、唐橋の名は全国に知れ渡ることになった。

建部018

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]04

建部013

旧東海道を南進し鳥居川交差点へ出る。

ここを左折すれば正面に瀬田(の)唐橋。

宇治川の宇治橋、淀川の山崎橋(現存せず)と並ぶ「日本三古橋」のひとつ。

その歴史は古く日本書紀にも「瀬田橋」「大橋」「長橋」の名称で登場している。

橋の手前に踏切がある。

先ほど石山駅で下車した京阪石山坂本線。

その左側に小さな駅、唐橋前駅が見える。

次が終点の石山寺駅。

天平19(747)年創設の古刹、石山寺の最寄り駅だ。

東大寺の大仏造立で黄金の不足に悩んでいた聖武天皇が、夢のお告げを受けて建立。

奈良時代から観音信仰の聖地として朝廷や公家から篤く崇拝されてきた。

また、ここで紫式部が「源氏物語」の着想を得たことでも知られている。

源頼朝や足利尊氏、淀君らも後ろ盾になっており、おかげで戦国時代も災禍の被害が比較的少なかったとか。

戦乱で幾度も落橋した瀬田大橋とは対照的だ。

このため国宝の多宝塔をはじめ数多くの文化財が残されているという。

ただ今回は時間が割けず、拝観は残念ながら断念した。

建部014

踏切を超えて古風な木造建築の前を通り過ぎ、瀬田唐橋の西詰に出る。

様々な名称で呼ばれていた橋が「唐橋」と呼ばれるようになったのは鎌倉時代.

中国風の橋に架け替えられたことがきっかけだったという。

さらに「瀬田」という地名も昔は「勢多」「勢田」「世多」など様々に表記されていた。

それらが行政上の地名として「瀬田」に統一されたのは明治22(1889)年と意外に最近。

とはいえ眼前に架かる橋は擬宝珠こそ古風だが、何の変哲もないコンクリート製の橋。

現在の橋梁は昭和54(1979)年に架け替えられたもの。

擬宝珠は旧橋のものを再利用し、緩やかな反り具合は往時の姿を反映しているそうだ。

建部015

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]03

建部009

踏切を渡って大津警察署の角を曲がると湖岸道路に出た。

左側に見えるNHK大津放送局の方角へ歩くこと数分。

小さな無人駅、京阪石場駅に着いた。
ホームに上がって電車の到着を待つ。

緩やかなカーブを描いた線路の彼方から2両編成の小さな電車が現れた。

土曜日とあってか車内は空いている。
部活動へ向かう中高生の姿が目立つ程度だ。

10分ほどで京阪石山駅に到着。
階段を登りつつホームを振り返る。

建部010

「石山坂本線へようこそ!」
二次元の美少女「鉄道むすめ」石山ともかが挨拶してくれた。

「鉄道むすめ」とは全国各地に実在する鉄道会社の職場で実際に活躍している様々な職種をキャラクター化したコンテンツ。

彼女の職業は運転士で、名前は石山坂本線の両端、石山寺と坂本の両駅名に由来するそう。

 石山駅は京阪とJRの接続駅。
ペデストリアンデッキが両駅を結んでいる。

改札を出、まずは駅前商店街へ向かった。
朝から何も食べておらず、とりあえず何か食べたい。

幸いなことに角を曲った途端「めしや宮本むなし」と出くわしたので嬉々として入店。

ここは中部と関西を中心に展開する定食屋チェーンで、逆に首都圏には一軒もない。

関西の人間にはお馴染みでも、関東の人間にとっては非常に珍しい存在。
朝食の和定食を有難く頂いた。

石山駅前から南へ伸びる旧東海道を歩く。
沿道に旧街道の面影は全く残っていない。
だが、五街道筆頭という格式の高さだけは感じられる気がした。

途中「TORAY」の看板を掲げた石柱を発見。

大正15(1926)年創業の化学繊維メーカー「東洋レーヨン」の歴史は、ここに建造した滋賀工場からスタートした。

その後は社名を「東レ」に変更、現在では化繊の範疇を超えた総合化学メーカーに。

歴史がスタートした滋賀工場は後に滋賀事業所と名を変え、現在でも国内の生産拠点として稼働している。

建部012

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]02

建部004

大津駅から10分も歩けば琵琶湖の湖岸に出る。

湖面は夜明け前の闇に溶け込み、濃紺の空色の中で穏やかな波が岸辺に打ち寄せている。

滋賀県の面積の1/6を占める琵琶湖。

その大きさは地図を見れば理解できるが、直に見ると印象は全く違う。

これはもはや、海。

ただ、磯の香りがしないだけだ。

建部006

琵琶湖から大津駅に戻る途中、旧東海道と交差した。

東海道五十三次のうち大津宿は江戸から数えて53番目、つまり最後の宿場町。

ここまで来たら、いっそ京都へ直行すればいいのに…と現代人の自分は思うのだが。

ところが大津宿、実は東海道五十三次中でも最多の人口を有する最大の宿場町だった。

 江戸時代の大津は宿場町に加え、琵琶湖水運の要となる港町の機能も併せ持っていた。

「津」という言葉は「舟着き場」とか「渡し場」という意味。

まさに「大津」という地名は、街の体を表しているわけだ。

宿場と港、両方の機能が大津を東海道五十三次最大の宿場町に押し上げる要因になったといえる。

 東海道を西へ進むうち、次第に夜が白々と明けてきた。

新聞配達の自転車とすれ違い、一日が始まる息吹を感じる。

この狭い道幅は自動車でなく歩いて旅する人々に合ったサイズ。

古街道ならではの歴史を今に伝えているかのようだ。

先方に京阪石山坂本線の踏切が見えてきた。

中央大通りからここまで1キロ弱。

僅かな距離ながら東海道の風情を味わえた…ような気がする。

建部008

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]01

建部001

深夜23時を少し回ったあたり。

紫の灯りに包まれた東京スカイツリーの麓にある停留所から、滋賀の県都大津行きの高速バスに乗り込む。

本来は京都と東京ディズニーリゾートの往来が目的のバス。

だが、ありがたいことに当方の乗下車地である東京スカイツリーと大津に停車してくれる。

東京スカイツリーでは半分程度しか埋まっていなかった座席も上野で満席に。

漆黒の闇の中を、バスは西に向かって走り出した。

建部002

翌朝5時30分ごろJR大津駅前に到着。

本来なら55分ごろの到着予定だったので、かなりの早着だ。

早く着いてくれるのは有難い話だが、時は真冬の早朝。

逆に少し遅延してもらったほうが…というのは贅沢か。

バスからは、こちらが想定していたより多くの乗客が一緒に下車していく。

大津というディスティネーション、想像以上に需要が旺盛なのかも知れない。

夜明けの大津駅前には驚くほど何もない。

たぶん夜が明けても驚くほどの何かは姿を現さないだろう。

そのくせ駅の構内外にはコンビニ(しかも同じチェーン店)が二軒もある。

このアンバランスさこそが大津の魅力なのだろうか?

それはともかく、まだ目を覚ましていない大津の町へ足を踏み出してみた。

暗闇の中にクラシカルな巨大建造物のシルエットが浮かんでいる。

滋賀県庁。 もちろん開庁してない。

最近の県庁庁舎はどこも無機質なビルに建て替えられ、こうしたクラシカルな建物が現役で稼動している県はメッキリ減ってしまった。

建部003

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[上賀茂神社]33

4t上賀茂33


しかし下鴨神社のみたらし団子と違い、漬物をイートインするわけにもいかず。


しかも通販で手軽に購入できるご時世だけに、お土産にするのも嵩張るだけ。


なので店内をひとながめしただけでバス停へと向かった。


「葵家やきもち」の右隣に佇む東屋のような停留所の椅子に腰掛け、一ノ鳥居の方角をボンヤリと眺める。


朝から降り続いていた雨は結局、昼過ぎまで止むことはなかった。


これまで一之宮を巡って来た旅の中、ここまでしつこく纏わり付かれた雨は初めて。


京都という魔都が私の一之宮巡礼を歓迎していない、その意思の表れなのか?


そんな他愛もないことを何気なく考えていると、ロータリーの向こうから京都駅行きの市バスが姿を表した。


(こうした形で拒絶の意を表するのなら、それもそれで京都らしいわ)


強引に得心させつつも、沈鬱な心持ちが晴れぬままバスへと乗り込んだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]32

4t上賀茂32


一ノ鳥居を出、参拝前に素通りした茶店が視界に入った。


改めて眺めてみると左から漬物「すぐきや六郎兵衛」、軽食「みそぎ茶屋」、焼餅「葵家やきもち」の三店が軒を連ねている。


すぐき(酸茎)とは千枚漬、柴漬と並ぶ京都三大漬物のひとつで、蕪の一種である酸茎菜を漬け込んだ乳酸発酵による漬物。


江戸期元禄時代の食品事典「本朝食鑑」によると、酸茎という名の由来は「年を経て酸味を生ずる」からと記されている。


酸茎菜の栽培と漬物の製法は桃山時代、上賀茂神社の社家である賀茂氏が始めたというのが定説。


まず、酸茎菜は土地を選ぶ品種で、適作地が上賀茂一帯に限られていたのがその理由。


さらに社家が製法を秘伝として門外不出とし、朝廷や貴族などへの高級な贈答品として用いていた。


このため、すぐきの製法が一般に公開されたのは、わずか300年ほど前の話。


それも飢饉による難民救済のため製法を公開したのがきっかけだったそうだ。


商品として販売され始めたのも京都では明治末期、大阪と東京では大正時代から。


長い歴史を持ちながらも商品としては新顔…昔と今の表情を併せ持つ京都という都市の性格を、すぐきは反映している漬物のようにも見える。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]31

4t上賀茂31


楝の木から一ノ鳥居方面へ向かうと、桜の大木が立っている。


孝明天皇から御下賜されたことから「御所桜」と呼ばれているそうだ。


白い花を咲かせる枝垂れ桜で、京都の桜の中では早咲きの部類に入るそう。


とはいえ3月半ばではまだ蕾が膨らみかけている段階で、樹相全体が薄っすらとしたピンク色に包まれている。


静かに降り続く春の雨を浴びてエロテックに染まる御所桜に見送られ、上賀茂神社の境内を後にした。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]30

4t上賀茂30


この賀茂競馬会神事と縁の深い逸話が吉田兼好の「徒然草」第四十一段に出てくる。


神馬舎から参道を挟んだ向かい側に立つ外幣殿(御所屋)を、さらにならの小川の方向へ。


川岸にある消火栓の東側に「楝[おうち]の木」という一本の木が立っている。


鎌倉時代末、競馬会神事を見に来た坊さんが大観衆を避けるため楝の木に登り木の股に座って見物していた。


ところがその坊さん、いつしか木の上で居眠りを始めてしまった。


しかし落ちそうになるとパッと目を覚まし、なかなか木の上から落ちない。


そろそろ競馬会が始まる時間なのに観衆の目は馬場ではなく、ゆらゆらと舟を漕ぐ坊さんに釘付け。


ある人は驚き、ある人は呆れ、そして口々に「危険な木の上で居眠りとは愚かな坊主だ」とヒソヒソ。


「人間なんていつ死ぬか分からないのに、それを忘れて木の上で居眠りするお坊さんを見物して1日を過ごすほうが、よっぽど馬鹿げてるよ」


観衆の嘲りに対して筆者がポツリと呟くと、前にいた人たちが「それもその通りだな」。


そして場所を空け、坊さんに向かって「おーい、こっちに来なさいよ」と言って呼び入れた…というお話。


ちなみに現在の楝の木は当時から数えて何代目かに当たるそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]29

4t上賀茂29


これ以上シトシトというオノマトペが相応しい状況が想像できないほど、雨は相変わらず静かに降り続いている。


二ノ鳥居をくぐって再び芝生の広場へ戻ると、鳥居の右手前に小屋が立っている。


「神馬舎」…神馬を係留している馬小屋だ。


中を覗き込むと馬の姿はどこにもない。


神馬は白馬らしいが、どうやら日曜祝日しかいない模様。


さすがに神職でも馬の飼育や調教までは無理なので、普段は京都産業大学の馬術部に預けているという。


京産大は神山の南側の麓に位置し、もともと馬事に関しては上賀茂神社とは縁の深い大学なのだ。


そして上賀茂神社もまた、創建の由縁から「馬」とは切っても切れない間柄。


「ならの小川」のところで触れたように、そもそも鈴を掛けた馬を走らせることで賀茂別雷大神は降臨してきたのだ。


この神話から、日本の乗馬は上賀茂神社から起こったとも伝わっている。


ちなみに先出の馬術部は京産大が昭和40(1965)年に開学する以前から活動していたという馬術界の名門。


上賀茂神社が神馬を京産大馬術部に預けるのも、ある意味で理に適っている話だ。


それはさておき、上賀茂神社では毎年5月5日こどもの日に「競馬会[くらべうまえ]神事」を行っている。


ただし「競馬会」といってもJRAこと日本中央競馬会のことではない。


賀茂競馬会神事は堀河天皇御代の寛治7(1093)年に始まったという。


ちなみにJRAの前身である()東京競馬会が日本初の洋式近代競馬を開催したのは明治39(1906)11月のことだ。


話を賀茂競馬会に戻すと、平安時代の競馬会神事は平安京大内裏の武徳殿一帯で行われていた。


ところが、その場所が狭くなってきたので堀河天皇が他の場所へ移すことにした。


そこで女官たちに「菖蒲の根合わせ」をさせて、その結果で場所を決めることに。


根合わせとは菖蒲を持って左右に分かれ、根の長さを比べ合い勝敗を決する遊び。


左の人は上賀茂神社に、右の人は石清水八幡宮に、それぞれ祈願。


そして根合わせの結果、左のほうが長かったため、競馬会は神事として上賀茂神社に奉納された。


当時この「菖蒲の根合わせ」は端午の節句に行われていたため、今でもこどもの日に行われるのだ。


この奉納時に制定された儀式の内容は900年以上にわたって受け継がれ、現在でもこのルールに則って開催されている。


一方の下鴨神社では競馬会ではなく「流鏑馬[やぶさめ]」。


馬上で弓を引き矢を射る流鏑馬は武士が戦で用いる技術。


先に上賀茂神社で競馬会が、後から分割された下鴨神社で流鏑馬が。


それぞれ行なわれているのは歴史の流れとして合っているのか。



[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]28

4t上賀茂28

中門から出て楼門に戻る途中、左手…方角で言えば東側に社殿が立っている。


幣殿、もしくは祈祷殿という、寛永5年造替の国重要文化財。


だが他の社殿と異なり柱の間には戸が嵌め込まれて中が剥き出しになっていない。


厄除けなど一般参拝者の祈祷にも用いられており、伝統行事だけでなく“同時代”的な建物として機能している。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]27

4t上賀茂27


中門の前から本殿を覗ける位置まで移動してみる。


祝詞屋の前まで来る事ができたものの、その先の本殿と権殿は目の前の建物に遮られて見ることができない。


先述したが本殿と権殿は文久3年造替の国宝で、他の社殿群は概ね寛永5年造替、そのほとんどが重要文化財に指定されている。


祝詞屋の前に立つ看板には「三間社流造神殿の典型」と記してある。


「三間社」とは本殿正面の柱間が3つ…つまり柱が4本ある様式のこと。


「流造」とは伊勢神宮正殿の建築様式「神明造」の切妻屋根を前方に伸ばした形式のこと。


「典型」とは賀茂大社の本殿から流造の建築様式が全国へ広まっていってたということか。


現在の本殿と権殿は建立から150年ほどしか経過していない。


だが国宝に指定されているのは創建当時の建築様式を現在まで忠実に伝承しているからに他ならない。


ところで何気なく「本殿・権殿」と記してきたが、本殿はともかく権殿とは何なのか?


これまで見てきた摂社末社にも本殿の隣に「権地」があった。


権地とは社殿を修復する際に神様を移すための仮宮を建てるための場所。


権殿もまた、本殿に何かアクシデントが起こった場合に備え、祭神を移設できるよう常設されている仮社殿のこと。


「権」とは2番目という意味なので、権殿は「常設のお仮殿」になる。


下鴨神社も本殿の建物が2つあり、西本殿には賀茂建角身命、東本殿には玉依姫命がそれぞれ鎮座していた。


それに対して上賀茂神社は賀茂別雷大神一柱だけのため常に2つの本殿を用意している。


このような様式は日本全国数多ある神社の中でも上賀茂神社のみ。


それだけ賀茂別雷大神は手厚く祀られている証なのだろう。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]26

4t上賀茂26

楼門をくぐって緩やかな石段を登っていくと、正面に中門が構えている。


ここもまた寛永5年造替で、国の重要文化財に指定されている。


鳳凰が翼を広げたかのように中央から両脇へ西局と東局の建物が伸び、門というより玄関といった風情だ。


入り口は柵で遮られて立ち入ることができず、ここから中の本殿を参拝する。


賀茂別雷神社の御神徳は主に2つ。


ひとつは厄除。


なにしろ雷[いかづち]の神だけに、厄を祓い災難を振り払ってくれる。


また、落雷除けや電気産業からも守護神として信仰されているそうだ。


もうひとつは方除で、方角や方位による災いを取り除いてくれる。


東西南北の八方位には吉凶を司る方位神がグルグル回りながら坐しており、時と方角によって吉と凶が入れ替わる。


引っ越しや旅行で凶の方角へ行ったり、建築関係で凶の方位の箇所を工事すると災いが起こるという。


そうした災禍を未然に防ぐのが方位除の御神徳だ。


賀茂大社は桓武天皇御代の平安遷都以来、皇城鎮護の神、鬼門(北東)の守り神、総地主の神として崇められてきた。


京都で方位方角の災い除けに関する霊力では、ここ以上に強力な神社もない。


今でも建築関係をはじめ数多くの方除祈願が行われているそう。


これもまた地鎮祭で砂や塩を撒く風習とも無関係ではないのだろう。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]25

4t上賀茂25


玉橋の向こう側には朱塗りで二階建ての楼門。


その高さ30メートル、堂々たる威容を誇っている。


国の重要文化財で、これもまた寛永5年の造替。


門から左右に伸びて本殿をグルリと取り囲む廻廊が、古代の様式を伝えている。


その姿は下鴨神社の楼門ととても良く似ている。


一国に一之宮が二社ある事例について、ここまで幾つかのパターンがあった。


武蔵国の小野神社と氷川神社のように、元来の一之宮が衰退して三之宮が一之宮を名のるようになったケース。


相模国の寒川神社と鶴岡八幡宮のように、その土地固有の神がいるところへ新たな神が国家戦略的に降臨してくるケース。


志摩国の伊雑宮と伊射波神社のように、名称が似ているため長い歴史の間に混同してしまったケースなど。


しかし山城国のケースは、そのいずれとも異なる。


元来は一社だった賀茂社が、天皇の命令により上下二社に分割されたという説が有力。


その要因に賀茂祭(葵祭)が大きく関わっているそうだ。


現在の上賀茂神社で行われていた葵祭が余りに盛大になり過ぎたため、朝廷が宗教政策として分社させ下社を建立した…というもの。


いつごろ分社したのかは定かではないそうだが、その理由がいかにも朝廷のお膝元たる京都っぽい。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]24

4t上賀茂24


玉橋を渡る手前、右手に摂社が二社並んでいる。


手前側に鎮座するのが国重要文化財の須波神社。


賀茂県主族と所縁の深い社であると推測されている。

ここには5柱の祭神が祀られている。


・阿須波神

・波比祇神

・生井神

・福井神

・綱長井神


これら5神に見覚えがあると思ったら摂津国一之宮坐摩神社の祭神、坐摩大神[いかすりのおおかみ]と全く同じ。


いずれも井戸水と竈にまつわる神様だけに、ここ須波神社も上賀茂神社の台所を守護しているのか。


ただ、明治以前の名称は「諏訪社」で、祭神は信濃国一之宮諏訪大社と同じ建御名方神だったという。


明治以降、建御名方神から坐摩大神にすり替わったのだろうか。


須波神社の奥に鎮座しているのは片岡神社。


上賀茂神社の筆頭摂社で、祭神は下鴨神社と同じ玉依比売命。


上賀茂神社の祭神、賀茂別雷大神の母神である。


「楽屋」のところで触れた神宮寺は上賀茂神社ではなく、ここ片岡神社のものだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]23

4t上賀茂23

岩上から楼門へ向かうと、目の前に川が流れ、その上に朱塗りの太鼓橋が架かっている。


重要文化財の「玉橋[たまばし]」。


太鼓橋といっても反りは緩く、金色の擬宝珠と朱塗りの高欄のコントラストが美しい橋だ。


しかし橋の両側は注連縄で遮られ渡ることはできない。


宮司が神事の際にしか渡れず、一般参拝者は使えないのだ。


玉橋の下を流れるのは御物忌川[おものいがわ]


手水舎のところで御手洗川と合流し、橋殿を過ぎたあたりからならの小川になる。


そして、ならの小川は境内から出ると今度は明神川[みょうじんがわ]と名を変える。


どの川が何て名称なのかヤヤコシイ話だが、それだけ上賀茂神社には川をめぐる長い歴史がある証左だろう。


ちなみに御物忌川には神事に使う祭器を洗い清める、御手洗川には人を清める、それぞれの役割があるそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]22

4t上賀茂22

禰宜橋を渡ると正面に「岩上[がんじょう]」という岩場がある。


ところどころ表面が苔で覆われ、低木が疎らに生えている小さな岩山だ。


葵祭では宮司が岩の上に蹲踞[そんきょ]して勅使と対面し、「返祝詞[かえしのりと]」を伝える神聖な場所。


「返祝詞」とは勅使の祝詞に対する神の意志のこと。


いわば岩上は神と人が心を通じ合わせる“通路[かよいじ]”であり、強い「気」の集中するパワースポット。


神山とともに賀茂信仰の原点ともいえ、古代祭祀の様式を現代に伝える厳粛な場所なのだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]21

4t上賀茂21

土屋と細殿の間を通り抜けると、その先に御手洗川[みたらしがわ]が流れている。


川の上に社殿が立ち、両脇に石造りの橋が架かっている。


橋殿、又の名を舞殿というこの社殿は国の重要文化財で、造替は本殿と同じ文久3年だ。


両脇に架る橋は本殿に向かって左が禰宜橋[ねぎばし]、右が祝橋[ほうりばし]


禰宜橋を渡りながら中を観察する。


柱と屋根で構成された構造物は縦長の長方形で奥行きが深い。


ここ橋殿は葵祭で勅使が祝詞を奏上する場所だ。


また、勅使が祝詞を奏上した後、陪従[ばいじゅう]の奏楽とともに舞人が雅楽「東游[あずまあそび]」を舞うので「舞殿」とも呼ばれている。


陪従とは「東游」で舞人に従い管弦や歌を演奏する楽人のことだ。


後ろを振り返ると細殿と御手洗川の間に手水舎が立っている。


「だから川の名が御手洗川なのか」と独り言ちた。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]20

4t上賀茂20

立砂に近寄って見る。


高さは子供の身長ぐらい。


大きさも形も見事なほど左右対称だ。


ジーッと見ているうち各々の頂に松葉が刺してあるのに気付いた。


しかも松葉は左右で微妙に違う。


向かって左側は3葉、右側は2葉。


これは奇数と偶数が融合することで神の出現を願う、陰陽道の考えに基づくもの。


ただ松葉といえば普通は2葉で、3葉とは珍しい。


しかし上賀茂神社の境内に3葉の松葉をつける木があるのだそうだ。


この松葉を立てるしきたりは、賀茂別雷大神が神山に降臨した故事に因んでいる。


現在の社殿の基が造営されたのは天武天皇御代の西暦678年。


神山に登って祭祀を行っていた人々は大神を里に迎えるため、神山から松の木を引き下ろして里に立てた。


その場所こそ上賀茂神社の鎮座地という。


松の木が立てられた場所に砂を大きく盛り、その頂上に松葉を刺すようになったのだそうだ。


そういえば常陸国一之宮鹿島神宮でも、東日本大震災で倒壊した鳥居の跡に立砂が盛られていたのを思い出す。


これもまた上賀茂神社の立砂に由来するのだろうか。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]19

4t上賀茂19


降り続いている雨の勢いが次第に増している。


だが、目の前の立砂はビクともしない。


もちろん立砂は砂だけで出来ているのだが、この円錐形のおかげで雨に強いらしい。


とはいえ想定外の大雨が降れば、いくら雨に強い円錐形とはいえ崩れてしまう。


そうなった場合どうするかというと、神職が整え直しているそうだ。


使うのは大きな木製のコテと先出の「ならの小川」の水で、要する時間は1~2時間ほど。


ちなみに左右とも同じ神職が一人で直すことになっている。


複数人で修復すると神職の個性によって形が変わり、左右対称にならないからだそうだ。


この立砂は今も日本に伝わる、おなじみの風習の起源でもある。


それは地鎮祭や葬式帰りなどで砂や塩をまく風習だ。


昔ここから砂を持ち帰り、自分の土地を清めるために撒く人が現れたことが始まり。


そのうち砂に代わって、穢れを祓う力を持つとされる塩が用いられるようになったという見方もあるそう。


ちなみに上賀茂神社では希望者に砂を授与しているので、直接この立砂から砂を持ち去るのは厳禁である。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]18

4t上賀茂18

一方、左側の細殿もまた寛永5年造替の国重要文化財。


天皇行幸の際、および斎王の御著到殿として機能していたそうだ。


そして細殿の前にあるのが、上賀茂神社の象徴ともいえる「立砂[たてずな]」。


別名「盛砂[もりすな]」とも言う。


「たつ」とは神様の出現に由来した言葉。


「ならの小川」のところで触れた賀茂別雷大神ご降臨の件。


その場所は本殿から2km北北西にある神山[こうやま]


神山は聖地であり現在でも禁足地とされ、人の立ち入り制限されている。


砂山は、この美しい円錐形の形をした神山に因んだもの。


かつ一種の神籬[ひもろぎ]、つまり神様が降臨する憑代[よりしろ]でもあるのだ。


立砂はここ細殿前以外にも、実はニ対あるという。


その場所は本殿の祝詞座[のりとざ]の前と後ろ。


いずれも同様の円錐形で、祝詞座の前→後ろ→細殿前の順に大きくなっているそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]17

4t上賀茂17

楽屋を過ぎると正面に二つの社殿が左右に並んでいる。


右に土屋、左に細殿。


両者の真ん中奥に橋殿が立っている。


土屋は寛永5年造替の国重要文化財。


昔は神主ら社司の著到殿として機能し、現在では祓所に使用されている。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]16

4t上賀茂16


鳥居をくぐると右前方に御所屋と同様、壁がなく屋根と柱で構成された木造の構造物が現れる。


「楽屋[がくのや]」、別名を一切経楽屋という寛永5年造替の国重要文化財。


楽屋といっても芸能人の控え室ではなく、神仏習合の時代に供僧[ぐそう]方が使用していた仏教色の強い建物だ。


供僧とは神宮寺を管理していた僧のこと。


ちなみに上賀茂神社の神宮寺は先出の賀茂山口神社の東側に鎮座する「二葉姫稲荷神社」の場所にあったそう。


ただ正確に言うと上賀茂神社のではなく、その楼門右側に鎮座している筆頭摂社片岡神社の神宮寺。


それが明治維新の廃仏毀釈で取り潰され、境内にあったお稲荷さんだけが現存しているという次第である。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]15

4t上賀茂15

二ノ鳥居もまた普通の明神鳥居だが、よく見ると注連縄が珍しい形状をしている。


左綯[]いと左綯いの二本の縄を上下に並べて柱の間を渡してある。


遠目には刺繍で言う「チェーンステッチ」のようにも見える。


これは陰陽道の思想に則り右と左、陰と陽を合体させた形状なのだそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]14

4t上賀茂14

山口神社の側を流れる小川に沿って楼門の方角へ歩いていくと、大きな岩石の上に小さな社が鎮まっている。


岩本社。


住吉大社の祭神でもある底筒男神、中筒男神、表筒男神の三神を祀っている末社だ。


このまま直進すると二ノ鳥居をくぐらず楼門の前に出てしまうため、来た道を引き返す。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]13

4t上賀茂13


上賀茂神社の境内には摂社末社が数多く鎮座している。


そのうち陰陽石に隣接する賀茂山口神社は、古代信仰の田の神、山の神を祀った摂社。


上賀茂神社の神田を守護する神として祀られたと考えられている。


その伝承に基づいてか、上賀茂神社の御田植祭では奉饌奉幣の儀が行われるそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]12

4t上賀茂12

渉渓園は昔、龍が住む池のあった場所と伝わっている。


その池の底から出土したのが「陰陽石」。


多くの神社で陰陽石は陰と陽の石2つを組み合わせた場合が多いが、ここは1個の石で陰陽を象っている。


元は2つの石が地中の圧力で押し潰されて1つになったという。


安房国一之宮洲崎神社にあった「御神石[ごしんせき]」が思い起こされる。


この石に両手で同時に触れてから隣の賀茂山口神社に参拝すれば願い事が叶うと伝わることから「願い石」とも呼ばれているそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]11

4t上賀茂11

庁ノ舎から北に向かうと「渉渓園」という、程度良く手入れされた庭が広がっている。


昭和34(1959)年、今上天皇の皇太子時代に御成婚記念として造園された美しい庭園だ。


開園時、ここで「曲水の宴」が開催されていた。


「きょくすいのうたげ」とか「ごくすいのえん」と呼ばれるこのイベント。


平安時代に朝廷や貴族の間で行われていた“優雅な遊戯”だ。


上賀茂神社では寿永元(1182)年に神主重保[しげやす]が行った宴が起源。


「曲水」とは樹林や庭園を曲がりくねって流れる水のこと。


装束を身につけてカーブのところに着座した参加者の前に、上流から酒で満ちた盃が流れて来る。


その盃が目の前へ来る前まで、参加者は五・七・五・七・七の短歌を一首詠む。


詠めなかったら1杯その酒を飲み、盃を下流へ流す。


というのが平安時代に行われていた本来の姿という。


話を開園時に戻すと昭和30年代という時代のせいか、なかなか参加者が集まらず。


残念ながら2年ほどで中止と相成り、その後ずっと放ったらかしにされていた。


時代が平成の世に変わった同5(1993)年、現在の皇太子が御成婚。


それを記念して「曲水の宴」が34年ぶりに復活し、現在でも毎年4月に行われている。


今は儀式化されたので、短歌を詠んだ人が酒を飲んで盃を流すスタイルに変わっているそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

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