一巡せしもの

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]12

諏訪下秋39

鳥居を出て太鼓橋を渡ると、左側にこんもりとした森がある。

案内地図を見ると「八幡山」とある。

石段を進んでいくと鳥居が2つ。

その奥に小さな御社が2つ、横に並んでいる。

左側が八幡社、右側が恵比寿社。

どちらも秋宮の摂社のようだ。

八幡山から山王閣へ長生橋という陸橋が架かっている。

橋の袂に山王閣の日帰り入浴の案内が立っていた。

諏訪湖を一望できる展望台もあり、秋宮参拝の際は気軽に利用できる便利な施設なのだが。

閉館となれば秋宮を取り巻く環境の魅力が少し削がれることになるだろう。

諏訪下秋44

再び秋宮の正面に出、下諏訪駅の方を眺める。

一直線に伸びる広い道路は一見、表参道のように見えるが。

実は五街道のひとつ中山道であり、今は国道142号線でもある。

緩やかな坂を下っていくと、途中に高札場があった。

高札場とは江戸時代に「高札」を掲げた場所。

高札には法度[はっと]や禁令、罪人の罪状などが記されていた。

世間に広く知らしめるため、人通りの多い街道の入り口などに設けられることが多かった。

下諏訪駅前に出た。

駅前には御柱と曳綱のモニュメントが設置されている。

昨日は暗いうえに急いでいたので気付かなかった。

ここ下諏訪駅から今度は下社春宮へ向かう。

ただ、秋宮ほど近くなく結構な距離がある。

それでも、歩いて行くことにした。

諏訪下秋46

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]11

諏訪下秋34

境内には摂末社が幾つか鎮座している。

拝殿の向かって右側、一の御柱の奥には稲荷社、若宮社(建御名方神の御子神)、皇大神宮社が並んでいる。

一方の左側、二の御柱の手前には奥から八坂社、賀茂上下社、子安社、そして鹿島社が並んでいる。

鹿島社といえば祭神は建御雷神[たけみかずちのかみ]、つまり建御名方神を出雲から諏訪へと追い詰めた神。

その“仇敵”すら一緒に祀るのは調和を尊ぶ「和の心」の為せる技なのだろうか?

鹿島社の隣に奉納された菰樽が整列している。

看板に「諏訪の銘酒」とあるように諏訪は酒どころだ。

中でも特に有名なのが「諏訪五蔵」(舞姫/麗人/本金/横笛/真澄)。

これら五つの酒蔵が鎬を削ってきた。

とはいえ「諏訪五蔵」は全て上諏訪の蔵元。

地元下諏訪町の蔵元は一番左側の「御湖鶴」、菱友醸造のみである。

諏訪下秋35

菰樽と土俵の左隣に立砂が祀られている。

看板に「神宮遥拝所」とあるように、伊勢神宮との間を行き交うホットラインの入り口なのだろうか。

寝入りの松の方へ歩いていくと階段があり、下った先に宝物殿が立っている。

ここには国の重要文化財「売神祝之印[めがみほうりのいん]」が収められている。

これは平安時代の大同年間(806~810)に平城天皇より御下賜されたと伝わる銅製の大和古印[やまとこいん]。

大和古印とは大宝律令のもと日本で独自に作られた官印のこと。

下社では明治初年まで神印として実際に使われてきたそうだ。

他にも武田信玄や松平忠輝の奉納品といった資料が展示されている。

境内を後にしようとネイリの杉の前を回り込むと冠木門があり、その奥から湯気がモウモウと立ち上がっている。

近づいて見ると手水舍。

ただし、温泉が掛け流しの「御神湯」だった。

湯口は竜神伝説に因んでか竜の形に象られている。

掛け流しの温泉は「長寿湯」と呼ぶそうだ。

諏訪下秋38

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]10

諏訪下秋28

神楽殿を過ぎると正面には拝殿がデンと待ち構えている。

二重楼門造りで両側に片拝殿を従えている珍しい構造。

江戸中期の絵図面によると、中央の拝殿は帝屋(御門戸屋)、片拝殿は回廊と記されているそうだ。

幣拝殿は昭和58(1983)年に神楽殿とともに国の重要文化財に指定されている。

向かって左側の片拝殿を見る。

現在の建物は初代立川和四郎富棟の施工で、安永10(1781)年の春に建立された。

一方の春宮は芝宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後に着工したものの、1年早い安永9(1780)年に竣工させている。

春宮と秋宮は同じ絵図面が与えられたようで、大きさこそ違うものの構造は同じ。

立川と芝宮それぞれの彫刻の技量により、両社の建築は競われている。

次は右側の片拝殿へ。

手前に珍しい木が植栽されている。

幹の色から「白松」と呼ばれる三葉の松。

原産地は中国大陸で、初めて日本に入ったのは明治の中ごろ。

諏訪大社の白松は大正8(1919)年、京城(現・韓国ソウル)在住の諏訪出身者から寄贈されたもの。

昭和39(1964)年5月12日、天皇皇后両陛下が行幸啓の際に親しくご覧頂いたという。

昭和天皇還暦のお祝いの折、皇居にも植樹されたそうだ。

諏訪下秋29

諏訪大社は四宮すべてに本殿がない。

その代わりというか、他の神社では本殿が鎮座している場所に「御宝殿」が立ち、その奥にある御神木を御神体としている。

秋宮の御神木は飛騨一宮水無神社の項でも登場した一位[いちい]の木、春宮は杉の木だ。

諏訪神社といえば「御柱祭」。

「みはしらまつり」とも「おんばしらまつり」とも呼ばれる「日本三大奇祭」のひとつ。

ただし、どの祭りを以って「三」というのか諸説あり、定まっていないようだ。

御神木を御神体として崇める形態は、巨岩や大木といった神籬[ひもろぎ]に神が宿るという太古の自然信仰が今に受け継がれているともいえる。

拝殿から奥へグルリと回り込み、塀越しに御宝殿を見る。

茅葺屋根で神明造りの建物が左右に二棟並んでおり、新しい方を神殿、古い方を権殿という。

御宝殿は七年に一度、御柱祭が行われる寅年と申年に建て替えられる。

その際は御遷座祭が行われ、寅年から申年までは向かって右側、申年から寅年までは向かって左側で行われるそうだ。

祀られているのは建御名方神と八坂刀売神の御霊。

本殿ではないとはいえ、社殿には千木もあれば鰹木も乗っている。

実質的に本殿の役割を果たしているかのようだ。

諏訪下秋33

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]09

諏訪下秋25

坂を登り切ると眼前に一本の巨大な杉が聳立している。

「ネイリの杉」と呼ばれる、樹齢600~700年と伝わる御神木。

名の由来は、挿し木に根が生えた杉なので「根入りの杉」…なのだが。

丑三つ時(超ド深夜)になると枝先が垂れ下がり寝入った姿に見え、しかもイビキまで聞こえてくるので「寝入りの杉」だという説もある。

どちらが本当かは知る由もないが、この木の小枝を煎じて子供に飲ませると夜泣きが止む…と伝承されている。

ネイリの杉の先で待ち構えてるのは神楽殿。

三方切妻造りで、軒先には巨大な注連縄が吊るされている。

諏訪立川流二代目和四郎富昌の設計で、完成は天保6(1835)年。

富昌54歳の棟梁で、渋めな意匠は初代である父の立川和四郎富棟が建てた幣拝殿の華麗さと対照的。

だが、その地味なデザインが幣拝殿を際立たせているかのようだ。

諏訪立川流は神社仏閣など楼閣建築を装飾する伝統彫刻「宮彫[みやぼり]」の代表的流派。

二代目である富昌は持って生まれた天賦の才能に加え、父から授かった技能と異常ともいえる努力をミクスチャーし、宮彫の最高峰を極めた。

寛政の改革で有名な徳川幕府の老中松平定信は富昌を特に高く評価。

「内匠[たくみ]」の称号を許された富昌は幕府御用達となり、日本一の宮彫師となった。

諏訪下秋027

神楽殿の前には狛犬。

高さが1m70cmもあり、青銅製では日本一とも言われている。

芸術院会員だった清水多嘉示が昭和5(1930)年に奉納したものが初代。

第二次大戦時に供出され、昭和35(1960)年に再び清水の手で復元されたのが現在の二代目だ。

神楽殿に張られた巨大な注連縄は氏子有志による大〆縄奉献会が出雲から職人を呼んで作らせたという逸品。

大国主神の息子である建御名方神が祭神だけあって、出雲大社の注連縄と形状が良く似ている。

重さは推定500kgほどあり、全長13mは出雲大社型の注連縄では日本一の長さを誇るそうだ。

諏訪下秋27

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]08

諏訪下秋17

社号標の奥に石灯籠を模していながらも、神社とは不釣り合いな不思議な塔が立っている。

下諏訪の地でオルゴールを作り続けてきた三協精機(現・日本電産サンキョー)が建てた「オルゴール塔」。

1時間3回、30弁のオルゴールが音色を奏でるという。

塔の真ん中には御柱祭の「木落し」をイメージしたからくりが装置があり、オルゴールの奏鳴に合わせて動き出すそうだ。

オルゴール塔の隣には手水舎。

その後背に池が広がっている。

「千尋池」といって、水源は御手洗川の清流だ。

この「千尋池」は底が遠江国浜松近辺の海までつながっている…そんな言い伝えがあるそう。

それが「千尋」という名の由来。

社伝によると、火災の際この池の底から宝物が灰に塗れて発掘された。

それが国重要文化財の「売神祝印[メガミホウリノイン]」。

奈良時代に平城天皇から賜ったと伝わる社宝なのだそうだ。

諏訪下秋19

太鼓橋を渡って境内へ。

右手に「下社秋宮」と墨書された看板が掲げられている。

諏訪大社には上社と下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。

つまり四つの神社から一つの大社が構成される珍しい一宮だ。

諏訪大社の祭神は主祭神の建御名方神と妃神の八坂刀売神。

ただ、下社と上社では微妙に異なる。

下社は秋宮春宮ともに建御名方神と八坂刀売神、さらに兄神の八重事代主神が配祀されている。

一方の上社は本宮が建御名方神、前宮が八坂刀売神と分かれている。

鳥居をくぐって境内へ歩を進める。

外側に鳥居は他に見当たらないので、これが一の鳥居に当たるようだ。

緩やかな坂道になっている表参道は中央に石畳、その両脇に石段。

例えれば自転車も通れる歩道橋のようになっている。

諏訪下秋21

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]07

諏訪下秋14

しかし、湖底に泥やヘドロが分厚く堆積し調査は難航。

結局、窪みの正体を突き止めるまでには至らなかった。

今から400年以上も前、湖底に大穴を掘るような土木技術を武田家が持っていたのか?

遺骸を湖に沈めることは可能でも、湖底に墓を築く作業までは不可能な気がするのだが。

そんな歴史ミステリーの存在など我関せずとでも言いたげに、諏訪湖の湖面はキラキラと輝いている。

山王閣の玄関を出ると、前庭に一体の銅像が立っていた。

手塚別当金刺光盛の像。

「山王台」と呼ばれているこの土地は、手塚光盛の居城「霞ヶ城」があった場所だ。

光盛は平安時代後期の武将で、源“木曾”義仲に付き従い、寿永2(1183)年に倶利伽羅峠の合戦に源氏方として参戦。

加賀国篠原の戦いで光盛は敗走する平氏勢の中で踏みとどまった武将の斎藤別当実盛[さねもり]と一騎打ちになり、見事に首級を挙げた。

その実盛、実は「駒王丸」こと幼き日の義仲の命を救った恩人であり、その死に際し義仲は号泣したという。

古式に則った一騎打ちは武士道の鏡とされ、能「実盛」の題材となって現在まで伝わっている。

その光盛は後に源頼朝の軍と戦い、寿永3(1184)年1月に近江国で敗死した。

諏訪下秋15-1

前庭を抜けて道路に出ると、通勤通学の時間帯ということもあってか、ひっきりなしに車が行き交う。

その間隙を縫うように歩いていくと下社秋宮の正面に出た。

丘陵の麓から幅広の道路が緩やかな勾配を描いて伸び、その突き当たりに諏訪大社が鎮座している。

だが、その道路に神社の参道という雰囲気は薄い。

さて、正面向かって札側には「諏訪大社」と大きく刻まれた巨石の社号標が聳立している。

ここは全国各地に約2万5000社あるという、社名に「諏訪」を冠する神社の総本社。

「諏訪」という地名の由来には諸説あるが、沢[さわ]が転訛して「すわ」になったという説が有力なのだとか。

ちなみに「すわ一大事!」の「すわ」とは関係なさそうだ。

諏訪下秋15

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]06

諏訪下秋13

翌朝、大浴場へ向かうためロビーへ降りてみると壁一面に広がる大きな窓から、朝日を浴びてキラキラ輝く諏訪湖が遠くに見えた。

ドアを開けて前庭へ出てみると、冷んやりとした空気に身躯が包み込まれ、一瞬にして目が覚めた。

ここ諏訪湖には「湖底に武田信玄の墓がある」という伝説がある。

信玄は元亀4(1573)年4月12日、信州伊那谷の駒場[こまんば]で病没。

死を3年間隠蔽するよう指示した遺言に従い、天正4(1576)年4月に甲州塩山の乾徳山[けんとくさん]恵林寺(えりんじ)に葬られた。

このあたりの経緯は過去に小説や映画、ドラマなどで幾度も描かれており、お馴染みのストーリー。

ただ、隠蔽期間が3年間もあったため遺骨が散逸し、墓所が恵林寺以外にも高野山など幾つか存在している。

そのうちのひとつが、ここ諏訪湖。

しかも湖底にあるそうだ。

武田家の戦功や武略などを記した軍学所『甲陽軍鑑[こうようぐんかん]』にも「亡骸は甲冑を付けて諏訪湖に沈めよ」という記述がある。

天正4年4月12日の夜中、家臣たちが掲げる松明の赤い炎に照らされ、石棺が赤い泡を吹きながら静かに湖底へ沈んでいった…と伝承されているそう。

本当かどうかは分からないが、一代の英雄武田信玄の存在を誇張するため、多少は大げさに記述されている面もあるのだろう。

ところが昭和62(1987)年、国土地理院が水中ソナーで湖底の地形を調査した時のこと。

人工的に作られた、一辺が25mもある巨大な菱形の窪みと思われる影が映し出された。

東西20m弱、南北20m強、四つの角は東西南北を指しているという。

菱形は武田家の家紋であり、これは『甲陽軍鑑』に記された信玄の墓では? と、世間が大きくザワつく。

その後、平成2(1990)年まで調査が5回行われた。

窪みの内部には3~4m大の穴があり、墓らしき痕跡を示す品も出土したそう。

水中墓の存在が現実味を帯び、否応にも期待感が高まってきた。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]05

ここで注文してあった「海鮮・鶏つくね鍋」が到着。

養老ビールも底を突いたので、地元諏訪の地酒「横笛」の純米酒を注文する。

海なし県の長野で海鮮鍋は野暮かと思えるが、横笛に合うアテという条件を優先した選択。

冷え切った外界を尻目に暖かい鍋を肴に清冽な清酒を舐める至福感は、この季節でしか味わえない。

ここで、今度はRADWINPSの「前前前世」が聞こえてきた。

今年、社会現象にもなった映画「君の名は。」の劇中歌であり、この曲も合わせて大ヒット。

映画の内容について既にご存知の方も大勢いるかとは思うが、内容を明かさないのがルール。

なので、本稿と関わりのあることだけに限って言ってみる。

主人公の一人、宮水三葉[みやみず・みつは]は岐阜県糸守町で暮らす女子高生。

糸守湖という大きな湖の畔りに古くから鎮座する宮水神社で巫女を務めている。

劇中、糸守湖を空中から俯瞰した映像が出てくる。

これを見て「諏訪湖がモデル?」と思ったのだが。

モデルにしたのは別の湖と新海誠監督はコメントしており、結局は自分の勝手な思い込みだったようだ。

それはともかく、こうして神社を巡り歩いている者にとって「君の名は。」は非常に興味深い映画ではある。

神の力とは何か? 

なぜ人は最後の縁[よすが]として、それに縋[すが]るのか? 

俗に言う「パワースポット」的な力は本当に存在するのだろうか?

最後、白飯と生玉子を注文して「海鮮・鶏つくね鍋」に投入、雑炊にして一人きりの宴会を締めくくった。

古神道では山や巨石や大木といった神籬[ひもろぎ]に神が宿る…とされる。

悠久の時が流れる間、そこへ人々の祈りが絶え間なく折り重なり続け、やがて「念」に姿を変えて精霊的な力を持つに至ったのではないか?

帰り道、夜空に輝く月を眺めながら、そんなことを考えてみた。

諏訪下秋11

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]04

諏訪下秋12

夕食を求めて街に出る。

下諏訪温泉は旅館が多く、食事だけという店が意外と少ない。

小規模な温泉場は入浴から食事、飲酒からお土産まで旅館内で済む「オールインワン」が主流。

例えば熱海や別府といった大規模な歓楽地と、隣接する箱根や湯布院を比較してみれば両者の違いは明らかだ。

そんなことを考えながら町中を探し回ったものの、ただでさえ店の数が少ないうえ日曜日の夜でもあり閉めている店も多く、なかなかこれといった食事処に行き当たらない。

結局、駅前に戻ってくると、どこからか桑田佳祐、続いて松任谷由実の歌声が聞こえてきた。

どうやら〝音源〟は駅前で明かりが灯っている唯一の居酒屋「養老の滝」の模様。

BGMの選曲センスが気になったので、ここへ止む無く入ってみた。

止む無く…とは無礼な言い方かも知れないが、なにせ「養老の滝」は日本中どこでも見かける大手の居酒屋チェーン。

なにせ自宅最寄りの駅前にもあるぐらいなので、普通なら選択肢には入れない飲み屋ではあるのだが。

ただ「養老の滝」は昭和13(1938)年、先ほど電車を乗り換えた松本で創業している。

これも何かの縁かも知れないと思い、暖簾をくぐった。

日曜の夜ということもあってか、店内は空いている。

隣接する日本電産サンキョーの従業員と思しき男女グループが一組いるぐらい。

おなじみ「養老ビール」を飲みながら、お通しと「おつまミミガー」をツツいていると、山本彩の「ひといきつきながら」という曲が流れてきた。

山本彩はNMB48のキャプテン。

今春まで放送されていたNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でAKB48が歌っていた主題歌「365日の紙飛行機」のメインボーカルとして、AKBのファン層以外にも知名度が広まった。

しかし、この曲「ひといきつきながら」はAKBグループと全く無関係。

元々JT(日本たばこ産業)のCMソングで、彼女が歌う遥か以前から使われていた。

それだけにAKB的なギミックが一切排除された、彼女本来の歌唱力を堪能できる貴重な曲なのだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]03

諏訪下秋08

ホームに降りると改札口の前で不思議な見た目の仏像「万治の石仏」がお出迎え。

もちろんこれはレプリカで、本物は諏訪大社下社春宮の近くに鎮座している。

駅舎を後にし、駅前から伸びる商店街を歩く。

沿道の店々は古ぼけた表情を見せ、あまり繁盛している活気が感じられない。

鉄道が下諏訪へのアクセス手段としての役割を終えている証なのだろうか?

4~5分ほど歩くと国道142号線、通称「大社通り」という広い道に突き当る。

そこを右折して直進した突き当たりに諏訪大社下社秋宮は鎮座している。

日が傾くにつれて宵闇に溶け込むかのように刻一刻と表情を変えていく下諏訪の町。

その様子を緩やかな坂道を登りながら眺めているうち、下社秋宮の正面に出た。

諏訪下秋09

今宵の宿は境内の裏手にあるホテル「山王閣」。

元は長野県の第三セクターによる国民宿舎として昭和40(1965)年12月、下社秋宮の境内地内に開業。

昭和62(1987)年に下諏訪町の第三セクターへ移管、平成3(2005)年には有限会社化されて民間企業となった。

間口の広い玄関を通ると眼前には広々としたロビー、奥は一面ガラス張りで諏訪湖が一望できる。

何がしかの宴会でもあったのか、ロビーでは正装した人たちが談笑しながら行き交っている。

創業から50年以上も経つが、まだまだ下諏訪町の社交場として現役のようだ。

チェックインの際、フロントマンに訊いてみた。

「来年で営業を終了するって話を耳にしたんですが」

「ええ、そうです。来年3月一杯です」

フロントマンはあっさり肯定した。

「すべて建物を取り壊し、更地にして諏訪大社さんにお返しします」

閑古鳥が鳴いてガラガラだというのならともかく、眼前の結構な賑わいぶりを見ると閉館するのは勿体ない気もする。

予約しておいた部屋は格安の四畳半「訳あり和室」。

なぜ訳ありかというと「アウトバス」、つまり風呂も便所もないため。

室内の造作も古びており、これは閉館も止むなしかな…と一転、気が変わった。

諏訪下秋10

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]02

諏訪下秋05

15時30分、松本バスターミナルに到着。

約2時間半のバス旅は鉄道旅行とは一味も二味も違う、山岳ドライブの醍醐味を存分に味わえた。

松本駅へと歩く途中、頭上には青空が広がっている。

鉛色の雲が低く垂れ込めた高山とは、まるで別世界だ。

松本駅構内の跨線橋から0番線ホームに向かって降りると、階段の影に1軒の立ち食い蕎麦屋が佇んでいる。

名は「山野草」。

店内は程よい狭さで、一見どこにでもある駅そば屋に映るが、正体は知る人ぞ知る名店だ。

ここには通常の立ち食い蕎麦と特上の2種類ある。

特上は生麺から茹でるため、予め茹で済の通常バージョンより時間がかかるうえ、しかも高い。

それでも客の様子を見ていると、ほとんどが特上を注文しているようだ。

もりそばでも40円程度の差額しかないので、たとえ待たされても特上のほうがお得感はある。

食券の自動販売機で暫く品定めした末、いかにも信州っぽい食材が羅列してある「特上きのこ山菜そば」に決めた。

蕎麦粉もキノコも山菜も地元信州産かどうか分からないが、そこは気分というもの。

手頃な価格で信州気分を満喫できるのだから野暮は言いっこなしだ。

諏訪下秋06

黒っぽい醬油味のツユに沈む蕎麦の上に大ぶりのキノコと茎太の山菜、薬味のネギが乗っかった暖かい蕎麦。

一口すすると蕎麦独特の風味が口腔に広がり、立ち食い蕎麦にありがちな「蕎麦風味の細饂飩」みたいな麺とは一線を画している。

それでいて妙な高級感を漂わせることもなく、あくまでも駅そば屋としての立場を弁えたかのような店構え。

旅の合間に心の隙間を満たされた思いで跨線橋の階段を登った。

松本駅5番線ホームから15時55分発の小淵沢行1536M列車に乗車する。

下諏訪駅まで30分余り、運賃ジャスト500円の鉄旅。

だが座席はロングシートで、なかなか旅情に乏しい。

しかも日曜日なのに部活終わりの高校生で車内は結構な混雑ぶりで、さほど平日の通勤通学列車と変わらない。

電車は塩尻駅で篠ノ井線から分かれて中央本線に入り、16時29分下諏訪駅に到着した。

諏訪下秋07

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[諏訪大社下社秋宮]01

諏訪下秋01

12時50分、特急バスは高山バスセンターを松本へ向けて出発した。

市街地を抜けて山間いを奥へと進むにつれ、薄曇りの空は鉛色の濃度を深めていく。

山襞が折り重なる隙間を縫うように道が走り、バスのエンジンが唸りを上げて坂を駆け上がる。

1時間弱ほどでバスは平湯バスターミナルに到着し、10分間の休憩。

ここは「アルプス街道平湯」という日帰り温泉施設で、食堂や売店を備えている。

奥飛騨温泉郷の平湯温泉にあり、広い駐車場を備えたドライブイン施設でもあるのだが、見たところ駐車場はそれほど埋まっていない。

それもそうだろう、ここまで雪深い山道をウネウネ登って来なくてはならないのだ。

よほど雪道に自信のあるドライバーじゃなければ、とてもじゃないが怖くて近寄れない。

時間があればゆったり温泉を堪能したいところだが、たった10分では寛ぐどころの話ではない。

諏訪下秋04

しかし、中に入らずとも寛げる場所はある。

それは…足湯。

館外にあるのでサッと入ることができ、しかも無料。

けど、それすらも時間が足らなかったのでパッと眺めて終わり。

売店で唐揚げとサラミ、ビールを購入してアタフタとバスへ戻った。

すると、ターミナルから新たに乗車してきた客が何人かいる。

そうか、ここで下車して温泉や食堂で寛ぎ、高山から来る後続の松本行きに乗れば良かったわけか。

松本へ向けて再び走り出したバスの車窓から常緑樹の緑と雪の白が斑らに入り混じる山肌を眺めつつ、

唐揚げを齧りビールを呷る。

だが、連続するトンネルの壁面を見ている時間のほうが長くて興醒め。

ウトウトしているとバスは松本の都市圏に入っていた。

前方に松本電鉄の新島々駅が見え、やがて新島々バスターミナルに停車。

ここで下車して電車で行こうかと考えているうちにバスは出発してしまった。

諏訪下秋03

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]32

水無64*061

国分寺は天平13(741)年、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため勅願を発して各国ごとに建てた官寺。

だが、今でも諸国に存在する一之宮に対し、国分寺は結構な数が既に消滅している。

もともと国分寺は疫病や飢饉、反乱などの厄災を、仏教の力で封じ込めるために生まれたもの。

時代が貴族社会から武家社会に移り、権力者が変転するにつれて国分寺の存在意義も薄れていく。

中には廃寺になるものが現れても不思議ではない。

なお、現存する国分寺の中で創立当初の建築を保存しているものは一つもない。

それどころか、国宝や重文クラスの建築物を有しているのは総国分寺の東大寺を除くと飛騨、信濃、讃岐、土佐のたった4寺しかないのだ。

水無65-062

飛騨国分寺の大銀杏は葉が殆ど枯れ落ちていたが、伝承とは裏腹に積雪はなく、激しい降雪に見舞われることもなかった。

幸いではあったが、いくぶん風情に欠けた感があるのも否めない…そんなことを言ったらバチが当たるか。

いや、雪に邪魔されることなく水無神社へ滞りなく参詣できたのも、水無大神の御加護があってのことか。

そんな適当な考え事をツラツラと脳裏に思い浮かべつつ、高山駅前の濃飛バスターミナルへ戻ってきた。

短いようでいて、体感速度は更にアッという間だった高山滞在。

「今度は、もっとゆっくりいらっしゃい」

旅館いろはから去り際、老女将が掛けてくれた言葉を心の中で噛み締めつつ、高速バスに乗り込んだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]31

水無63-060

境内の西側に三重塔が立っている。

礎石上端から宝珠上端まで高さ22 mという小柄な塔。

だが、飛騨国内で唯一の塔建築だ。

初代七重塔が建立されたのは飛騨国分寺が誕生した天平13(741)年。

弘仁10(819)年に炎上し、斎衡年間(845〜857)に二代目五重塔を建設。

応永年間(1394〜1428)に兵火で焼失し、三代目五重塔が再建されるも、金森長近の松倉城攻めに遭い損傷。

元和元(1615)年、金森可重が四代目五重塔を再建した。

天和年間(1681~1684)に五重から三重に改築され、現在のスタイルに。

四代目も寛政3(1791)年、烈風で吹き倒されてしまった。

その後、庶民から喜捨浄財800両が寄せられ、約5500人もの大工の手により、文政4(1821)年に五代目となる三重塔が竣工、現在に至る。

塔内には本尊の大日如来が安置され、心柱には仏舎利が納めてある。

この塔の北側には初代七重塔の中心礎石だった跡が残されている。

直径約1。8メートル、地上全高約1メートルという巨大な花崗岩製の円筒だ。

中心には直径58センチ、深さ28センチの円孔が開けられている。

ここに仏舎利を納め、穴を石で塞ぎ、その上に塔の心柱が置かれていた。

この飛騨国分寺塔址は昭和4(1929)年、国の史跡に指定されている。

飛騨国に限らず国分寺の一般的な認知度は一之宮に比べて遥かに高いように思われる。

創設の経緯が歴史の教科書に記載され、試験勉強の中で覚えるからだろう。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]30

水無61-058

幹にポッカリ空いた洞 [うろ]に石仏が祀られている。

天平時代、七重の塔が建てられた時のこと。

大工の棟梁が柱の寸法を誤って短く切ってしまい、とても悩んでいた。

一人娘の八重菊は、柱の上に枡組を作って長さを補うことを提案。

塔は無事に完成し、枡組は装飾の役割も果たし、その出来栄えは評判を呼んだ。

しかし父親は「枡組」の真相が漏れて自身の名誉が損なわれることを危惧。

八重菊を口封じのため殺し、人柱として境内に埋めてしまった。

その塚の上に植えられたのが、この大銀杏だと伝承されている。

ただ、そのような事実が本当にあったのかは定かではない。

仕事のためには最愛の娘すら犠牲を厭わないという飛騨匠の謹厳さを喧伝するために創作されたエピソード…というのが真相のようだ。

水無62-059

境内の最奥に、国の重要文化財に指定されている本堂がデンと構えている。

現在の本堂は単層入母屋造りで屋根は銅版葺、昔は杮葺きだった。

昭和29(1951)年に本堂を解体修理した際、室町時代中期以前に建てられたことが判明。

また、正面向拝と東側は桃山時代に修理されていたことも分かった。

本尊の薬師如来像は行基の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。

また、旧国分尼寺の本尊で国重要文化財の聖観世音菩薩も国分寺に所蔵されている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]29

水無59-056

山門をくぐって境内に入ると、正面に鐘楼堂、その左奥に大銀杏、突き当たりに本堂。

大銀杏の左側には庫裏と太子堂、右側には三重塔と枯山水の庭が広がっている。

飛騨国分寺は天平18(746)年に創建された飛騨国最古のお寺さん。

開基は行基菩薩と伝わっている。

創建時は境内に七重塔、金堂、仁王門などが立ち並ぶ壮大な伽藍が広がっていたそう。

だが天正13(1585)年、金森長近の飛騨松倉城攻略に巻き込まれ被災。

その後、飛騨の領主となった長近は高山城を築城する際に国分寺の再興にも助力した。

本堂を大修理し、境内地を寄進、五重塔を再建したという。

水無60*057

参道を進んで鐘楼門を仰ぎ見る。

高山市の有形文化財に指定され、入母屋造りで上下二層に分かれている。

下層は旧高山城の遺構の一部を移築したもの、つまり戦国時代の建物。

上層は宝暦11#(1761)年、梵鐘を改鋳した際に増築されたもの。

上層と下層は全く別の時代に拵えられたものだが、そうは思えないほどの調和を見せている。

鐘楼門の隣に国の天然記念物、樹齢約千二百年という大銀杏[いちょう]が聳えている。

銀杏の葉が落ちれば高山に雪が降る…と昔から言い慣らされているほど、市民から愛されている老木。

樹間に乳のような気根が数多く垂れており、その姿から「乳イチョウ」の異名を持つ。

乳の出ない母親が願かけすると乳の出が良くなるとの俗信があり、今もお参りするご婦人の姿が絶えない。

ただ、この大銀杏は雄[おす]の木なので銀杏の実は出来ないそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]28

水無57-054

平日の真っ昼間だというのに三町重伝建地区は国内外の観光客でごった返している。

江戸時代と変わらない道幅に大勢の観光客が押し寄せているので、明らかにオーバーフロー気味。

ゆっくりと建造物を見て回るどころの話ではない。

高山駅へ引き上げるべく橋を渡ろうとした刹那、袂に佇む石碑が目に止まった。

「高山の夜」と刻まれたその石碑は、昭和45(1969)年に発売された御当地ソングの記念碑。

岐阜県を地盤に活動する演歌歌手、しいの実[みのる]のデビュー曲だ。

作詞作曲は地元高山の人だが、しいの自身は九州の出身である。

それも大分県宇佐市…豊前一宮宇佐神宮の鎮座地。

飛騨と豊前の一之宮の間に結ばれた見えない絆が「高山の夜」を生んだ…というのは、こじつけ過ぎるか。

水無58-055

宮川を渡ると人の群れはまるで霧が晴れたかのようにスーッと消え去った。

「国分寺通り」こと国道158号線を駅の方角へ歩いていくと、右側に寺の入り口が見える。

飛騨国分寺、正式な名称を「金光明四天王護国之寺」という。

山門は国道から一歩奥まったところにあり、よくある普通の寺だと見誤れば何気なく通り過ぎてしまったろう。

この山門が建てられたのは元文4(1739)年、飛騨の名匠松田太右衞門の手によるものと棟札にはある。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]27

水無55-052

現在、三町には6つの造り酒屋が軒を連ねている。

そのいずれもが現役の酒蔵として、古ぼけた重伝建の街並みに生命の息吹を与えている。

ただ、扱う酒は清酒がほとんどで、あってもにごり酒かおり酒、水無神社の特区にあった濁酒はない。

それにしても決して米どころではない飛騨で、なぜ酒造りが盛んになったのだろうか?

酒造りには寒冷地が適していること、飛騨山脈=北アルプスの良質な水に恵まれたこと。

商業が産業の基軸だけに近隣の米どころから余剰米の調達も可能だったろう。

それでも米は貴重品に違いなく、酒にして保存する技術が発達したと思われる。

こうした条件が都合良くマッチし、良質で独特な地酒を生み出すことができたのではなかろうか。

水無56-053

三町重伝建地区の南端に風格のある和風建築が立っている。

明治28(1895)年から昭和43(1968)年まで町役場〜市役所として使用されていた「高山市政記念館」という公共施設。

当時の名工坂下甚吉が棟梁として最上級の官材を相手に腕を振るった総檜造りの建物というから豪奢な代物だ。

市役所としての役割を終えた後は公民館として利用されていたものをリニューアルし、昭和61(1986)年に高山市政記念館としてオープンした。

館内では明治期以降の高山地域の歴史と、平成17(2005)年に平成の大合併で誕生した面積日本一の大都市、新高山市誕生の経緯を紹介している。

悪代官大原親子の時代を例に紐解くまでもなく、江戸から明治にかけて飛騨地方の村々は概ね貧しかった。

そんな中、政治経済の中心地として大いに賑わっていた高山は明治時代初期、人口1万4000人を擁する岐阜県下最大の都市だったという。

その一方、なかなか交通網が整備されなかったため、都市の近代化は県内の他地区より大幅に遅れた。

高山が近代化に着手するのは昭和9(1934)年の高山本線全線開通と高山駅開業まで待たねばならなかったのである。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]26

水無52-049

濃尾バスで再び高山駅に戻る。

昨夜は暗くて分からなかったが、陽光の下で見る駅舎の外観はモダンな印象。

随分と前に訪れた際の記憶に残る駅舎の面目は、どこにも見当たらない。

やはり外国人観光客を意識してのデザインなのだろうか?

次の目的地へはJRを利用しないので、このまま高山駅とはサヨナラだ。

水無53-050

せっかく飛騨高山まで足を運んだことだし、まだ時間にも若干の余裕がある。

そこで三町伝統的建造物群(重伝建)保存地区を散策してみることにした。

駅前から伸びる中央通りを東へ向かってズンズン進むうち、水無神社の前で別れを告げた宮川が再び現れた。

橋を渡った東側が三町重伝建保存地区になる。

高山は臥龍桜の項に登場した武将、金森長近が築いた高山城の城下町として生まれた町。

城郭の周囲を武家屋敷で固め、一段低い場所を町人の町とした。

城下町は一般に武家地が広く、町人地が狭いものだが、逆に高山は町人地のほうが武家地より2割も広いという。

しかも城下町には東西南北から街道が引き込まれ、経済に加えて政治などの面でも飛騨国の“首府”として機能。

狭隘で耕作地に乏しい飛騨だけに、長近は農業より商人の経済力を産業の中心に据えようとしたのかもしれない。

その町人地の一部が重伝建地区として現在にまで遺されているわけだ。

水無54-051

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]25

水無50-047

水無神社を後にし、再びバス停に戻ってきた。

悪代官といえば「水戸黄門」などの時代劇で欠かせない存在。

だが、こうして現実的な存在感を目前に突きつけられると、物語の一要素に過ぎない“敵役”という認識を改めざるを得ない。

というか、現代社会でも社会的地位を利用して私腹を肥やす政治家や官僚は後を絶たないし、むしろ江戸時代に比べても「悪政」に対する罪の意識が薄いのではなかろうか?

切腹とか打首といった命を取られる過酷な処罰がない、執行猶予で何年か我慢すればチャラになる現代のほうが、政治に向き合う姿勢が甘くなるのも無理ないように思える。

水無51-048


バスを待ちながら停留所の窓から国道41号線を眺める。

先ほど訪れた飛騨一ノ宮の駅前から線路沿いを西へ5分ほど歩くと、「御旅山」という標高約20mの古墳状の丘陵がある。

実は人工の丘陵で別名「御座山」といい、古くから位山の遙拝所とされてきた。

一帯は公園として整備され、毎年5月2日の例祭では水無神社の御旅所として神興の御神幸が行われる。

ここで神事芸能(神代踊り、闘鶏楽、獅子舞など)が奉納され、その後は参拝者に御神酒「濁酒[どぶろく]」が振る舞われる。

ちなみに例祭で水無神社の濁酒を使用するのが公認されたのは昭和7(1932)年11月1日のこと。

現在は「構造改革特別区域法による酒税法の特例」という長ったらしい名の法律下で「臥龍桜の里・一之宮どぶろく特区」に認定されている。

ちなみに、どぶろく特区の認定は平成16(2004)年12月と、ごく最近のこと。

だが、飛騨高山における濁酒造りの歴史は“特区”という小手先の政策で括られるほどチッポケなものではない。

水無大神と飛騨国人の間を結ぶ“絆”ともいうべき存在なのだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]24

水無48-045

大原騒動を引き起こした悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれた。

しかも職権濫用によるワルさの度合いがパワーアップ。

例えば過納金(農民に米一俵につき30~50文を過納させ、後で返す金)を返さないとか。

幕府が天明の大飢饉対策として農民に免除した分の年貢を取り上げて私腹を肥やすとか。

あげくに飛騨三郡の村々から総額6000両という大金を借り上げた。

借りた…というより、ハナから返す気などサラサラなかったのだろう。

これには農民はおろか名主や役人も怒りを募らせ、悪代官正純との戦いを激化させていく。

水無49-046

天明7(1787)年、クビにされた役人や失業した名主たちは何度も江戸に代表を派遣。

老中松平定信をはじめ幕閣に密訴状の投入や老中宅の門への訴状の添付を繰り返した。

さすがに幕府も看過できなくなったのか同年12月、代官所のナンバーツーである本締の田中要助が勘定奉行に呼び出されて江戸へ出向く。

そして寛政元(1789)年5月、飛騨に入った料所廻りの巡見史に対し農民が直訴して正純の悪行を糾弾。

さらに江戸で松平定信にも駕籠訴を行い念押し。

同年6月、ようやく重い腰を上げた幕府は高山に検見役を派遣するなど実状の調査に当たるが、ここでも正純は書類を改竄するなど不正を働いたという。

そして同年8月、今度は正純自身が勘定奉行から呼び出しを喰らい江戸表へ。

同年12月、ついに御沙汰が下り、今度は正純に“年貢の納め時”が来た。

まず、郡代大原正純は八丈島へ流罪。

もちろんグルだった他の役人も処罰された。

内訳は本締田中要助の打首をはじめ死罪2人、流罪1人、追放8人。

一方の農民側は駕籠訴の実行者こそ死罪になったものの、他の者はおしなべて軽い罰で済んだそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]23

水無45-042

来た道を引き返し、大鳥居の前をグルリと回り込み、絵馬殿の裏を抜けて境内の北側へと向かう。

奥の駐車場から来る場合この北参道を抜けると、わざわざ正面に回ることなく楼門の前に出ることができる。

参道には資材を積んだ軽トラックが停まり、業者の男衆が来るべき正月の初詣に向けて黙々と作業を続けている。

だが北参道には進まず、山の方角へ続く道に向かう。

水無46-043

ここまでたびたび登場している“聖地”位山。

その名称は樫の木の一種「櫟[いちい]」に由来する。

位山には櫟の原生林があり、天然記念物に指定されている。

その昔、この櫟で謹製した笏[しゃく]を朝廷に献上。

笏というのは束帯で威儀を整えるため右手に持つ細長い板のこと。

聖徳太子の肖像画で手に持っているアレだ。

すると、朝廷から櫟の木に対して一位の官位が下賜された。

そこから木は一位、山は位山と呼ばれるようになったという。

現在でも天皇即位と伊勢神宮式年遷宮には、水無神社から位山の櫟製の笏が献上されているそうだ。

本殿北側にある境内林の散策を続ける。

そこに異形の樹相を呈している木を見つけた。

一つの根から3本の幹が空に向かって伸び、根元には無数の脇芽が噴き出している。

樹齢は推定450年、目通り7。2m、樹高30mとソコソコ大きい。

安永年間に大原騒動で荒廃した社殿を修繕する際、元木の一部を伐採して用材にしたとも伝わる。

その折に裏山が切り開かれ、元木が現在の場所に植え替えられたという。

水無47-044

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]22

水無43-040

大祭の看板や賽銭箱を眺めているうち、いつしか境内から出ていた。

鳥居をくぐった先を左手に向かうと、道標[みちしるべ]が立っている。

    右 位山道
    左 宮峠道

幾度か登場している位山は日本を表裏に分かつ分水嶺。

ここから「水の主」水無大神の坐す聖域と見做され、奥宮が鎮座している。

古来から霊山として名高い位山の山中には巨石群が存在する。

人為的に築かれた遺跡という見方もあるなど、かつては神秘的な霊場だったと考えられている。

これまた幾度も登場している両面宿儺は位山の主。

天舟に乗り雲海を掻き分けて位山に降臨したという古伝説もあるそう。

位山が持っていた宗教的神秘性が「両面宿儺」という伝説上の怪人に具現化されたという見方もあるという。

水無44-041

目の前で左右に別れた道のうち、左の宮峠道を進んでみた。

細い道の境内側には幅の広い側溝のような川が流れている。

木立の向こう側に、うっすらと本殿が見える。

明治時代に飛騨国一之宮と認定された水無神社は、昭和12(1937)年から神祇院の国営工事として莫大な国費を投入し前社殿の大造営を開始した。

昭和14(1939)年に第一期工事が完了するも、昭和20(1945)年の第二次大戦敗戦により造営途中で国家の管理下を離れることに。

神祗院官制の廃止や宗教法人への移行など紆余曲折を経て、ようやく造営工事が完成したのは昭和24年(1949)年のことだった。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]21

水無138

そのルーツは、やはり「大原騒動」。

安永8(1779)年、一揆で荒廃した社殿の大造営竣工を記念して行われた遷座奉祝祭にある。

飛騨国中の代表神社から神輿や祭り行列を招請し、3日間にわたって催行された。

天下泰平や五穀豊穣などを祈願する一方、大原騒動で疲弊した飛騨の人々の心機を奮い起こしたそうだ。

「世相の凶[あ]しきを吉に返す世直しの大まつり」

この謳い文句こそ「飛騨の大祭」の本質を現しているだろう。

以来、飛騨各地の神社で凶時や異変の折に斎行され、今日に至っている。

字が掠れて読みにくい看板に、なぜ「大祭」と書かれているか分かったのか?

それは、全く同じ看板が鳥居の前に立っていたから。

違うのは日付が「平成二十九年五月三日より六日まで」となっていること。

平成二十九年…つまり次の大祭は来年開催される。

前回開催されたのは昭和35(1960)年というから、27年ぶりの斎行になるわけだ。

水無41-039

「大祭」の看板の隣には古い社号標が立っている。

いや、正確には社号標ではなく、表には「國幣小社」と刻まれているのみ。

通り水無神社は明治4(1871)年、近代社格制度の国幣小社に列格した。

翌年には世襲神主である社家を廃絶し、戦後の神社制度改正まで官選の宮司が任命されてきた。

島崎藤村の父正樹も、この官選宮司として赴任してきたことになる。

その隣には古びた木製の賽銭箱。

正面には神紋があしらわれている。

6つの瓢箪を「水」の字に合わせた形状。

安永年間に梶原大宮司が考案したと伝わっている。

瓢箪は古事記にも登場するほど、神代の昔から水を汲む器として用いられてきた。

主祭神の水無大神は水を司る神。

いかにも瓢箪は似つかわしい。

水無42*0039

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]20

水無37-035

境内へ入ってすぐ左側に大きな建物がある。

絵馬殿。

その名の通り内壁には数多くの絵馬が掲げられている。

縦6本×横5本の柱が巨大な屋根を支えている。

壁は上部にしかなく、下部は吹き抜けだ。

棟札によると建造は慶長12(1607)年。

当時の高山城主、金森長近が造営したと記されている。

水無38-036

大原騒動の後遺症で両部神道が唯一神道に改められた際、仏教関係の一切が破却、移転、改築された。

そんな中、取り壊しを免れたのが拝殿だった。

江戸時代が終わって明治3(1870)年、当時の高山県知事は飛騨の国中から醵金[きょきん]を募って新たに社殿を造営。

その際、建築様式を神明造りに統一したため、従来の入母屋造りだった拝殿が不釣合いになり、取り壊されてしまった。

これを惜しんだ氏子衆は解体後の建材を保管。

明治12(1878)年、拝殿の再建を願い出た氏子衆は広く浄財を募り、保管していた建材を用いて元の位置へ復元したという。

その後、昭和に入ると政府の管理下で大造営が行われたが、第二次世界大戦の敗戦で中断。

さらに戦後の昭和29(1954)年、境内を拡張するため前に社家(山本家)の屋敷があった場所に移築。

昭和53(1978)年には柿[こけら]葺きだった屋根が銅板に葺き替えられ、高山市に編入される前の宮村重要文化財に指定されている。

水無39-037

絵馬殿の中に、ひときわ大きな看板が掲げられている。

絵は描かれていないので絵馬ではない。

墨書で大きく「大祭」と書かれているが、古い看板らしく字が掠れて読みにくい。

この大祭とは「飛騨の大祭」のこと。

飛騨地方独特の祭礼で、全国でも他に類を見ない神事という。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]19

水無35-031

楼門の向こう側、左手すぐのところに巨大な老木が立っている。

推定樹齢およそ800年という銀杏[いちょう]の大木だ。

落雷によって上部が欠損しているが、折れた場所から若枝が繁茂。

櫟[いちい]などの宿り木を抱え、もう何の木やら分からないほどの枝ぶりだ。

枝からは銀杏特有の乳[ちち]が垂れ、その姿は優しげな母親の面影を連想させる。

そのせいか古くから子授け、安産、縁結びに霊感あらたかな御神木として信仰されているという。

樹齢800年といえば西暦1200年頃から、この地に根を張っていることになる。

大原騒動の顛末はもちろん、鎌倉時代の神仏習合の頃から水無神社の歴史を見守ってきたのだろう。

余談だが、銀杏の乳は女性の乳房に見立てたもの。

ここだけではなく全国各地の神社で銀杏の乳が同様の信仰を集めている。

ちなみに銀杏の乳は英語でも「ChiChi」というそうだ。

水無36-034

楼門の前を離れ、再び鳥居の方を眺める。

乳白色の雲が空一面を覆い、時折り舞い散る小雪の彼方には、幾重にも連なる飛騨の山並み。

苦難に満ちた江戸時代を思えば、世界中から観光客が押し寄せる現代の飛騨地方は隔世の感がある。

水無神社が飛驒国一之宮に比定されたのは、実は明治維新以降のこと。

実は、どの神社が飛騨国の一之宮なのか記した江戸時代以前の史料が散逸しているため。

明治政府による神仏判然令により、数多くの仏像や仏教関係の古文書などが“廃仏毀釈”された。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]18

水無34-030

拝殿正面の左右に青銅製の灯篭、その外側に狛犬、その更に外側に石灯籠が立っている。

この石灯籠は幾度も登場している代官の大原彦四郎が安永8(1779)年に寄進したものだ。

言うまでもなく彦四郎は江戸時代屈指の百姓一揆「大原騒動」の元凶(?)となった代官。

歴史上の呼称は「安永騒動」だが、代官の姓をとって「大原騒動」と呼ばれているところに一揆の根深さを感じる。

だがしかし、彦四郎は一揆の鎮圧と大増税による年貢収入アップの功績が高評価。

代官より格上の布衣[ほい]郡代に昇進する。

まさに領民を虐げて出世の階段まっしぐら…という悪代官の見本みたいな彦四郎だったが。

農民の苦難を顧みることもなく驕り高ぶった態度を諌めた妻を離縁。

翌日、安永6(1777)年8月15日、妻は自らの手で命を断った。

その後、彦四郎は眼病を患い失明し、神仏にすがる毎日を送る。

そしてこの灯籠を奉納した年、彦四郎は急病を発症。

高熱に魘[うな]される中、この世を去った。

非道の限りを尽くして立身出世を手に入れても、人生への幸福に結びつかなければ何の意味があろうか?

いや、彦四郎は自らの幸福のために圧政を敷いたのではなく。

幕臣として自らの任務を忠実に果たしただけなのかも知れない、多分。

だが、飛騨の苦難は悪代官が亡くなっても終わることはなかった。

悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれていったからである。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]17

両面宿儺
(「両面宿儺」像/円光作/飛騨千光寺蔵)

両面宿儺とは5世紀初頭ごろ、乗鞍山の麓に住んでいたとされる伝説上の怪人。

その姿は『日本書紀』仁徳天皇65年条に描写されている。

    ひとつの胴体と、背中合わせになった前後ふたつの顔面。
    ふたつの顔は頭頂で一つになるので、項[うなじ]はナシ。
    足に膝[ひざ]はあっても膕[よほろ=膝の後ろの窪み]はナシ。
    力持ちで敏捷で、左右に剣を帯び、左右2組(計4本)の手で2組の弓矢を射る。
    天皇の命に従わず、略奪を楽しみ民を苦しめていた。
    このため天皇は難波根子武振熊[なにわのねこたけふるくま]を遣わせ、これを殲滅。
    難波根子武振熊は大和の豪族、和珥臣[わにのおみ]の祖先である。

読むからに容貌魁偉、領民を苦しめる悪の化身みたいなイメージを受けるが。

「両面宿儺」とはヤマト王権がつけた賤称で、正体は古代飛騨地方を支配していた豪族の首長。

中央の支配に抵抗して飛騨を守ろうとした豪族を、ヤマト王権側がデフォルメしたものと言われている。

「両面宿儺」は高度な建築技術を持つ“飛騨匠”の集団を掌握して飛騨を治めていた。

そこには飛騨の風土に生きてきた人々の自尊心や自負心、篤い信仰心が投影されているに違いない。

水無神社と千光寺が密接にリンクしていた神仏習合時代の祭神は両面宿儺だったろう。

それが大原騒動で両部神道から唯一神道に改められた際、祭神が大年神に改められたのではないか?

では、なぜ新たな祭神に大年神が選ばれたのだろう。

飛騨地方は山岳地がほとんどで耕作に適した土地が極端に少ない。

そのため稲作の守護神たる大年神を主祭神に迎え、希少な農業生産を守ろうとしたのか。

しかし、それなら稲作ではなく林業の神を祀った方が理に適うだろう。

水無神社の祭神のことを考え始めると、謎が謎を呼んでキリがなくなる。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]16

水無33*0029

主祭神の御年大神とは大年神[オホトシノカミ]のこと。

古事記には須佐之男命[スサノオノミコト]と、大山津見神[オホヤマツミノカミ]の娘である神大市比売[カムオホイチヒメ]との間に生まれた神と記されている。

大年神の「年」とは祈年祭[としごいまつり]の「とし」を意味し、豊年を司る霊力の象徴。

祈年祭とは神祇官が陰暦の二月四日、国庁で豊作を祈願して催行していた祭りのことだ。

大年神は民俗信仰の「年神様」と、ほぼ同一の神と見做されている。

「年神様」は正月になると各家庭へやって来る、非常にインティメイトな神様。

お正月様、年徳神、恵方神など、地方によって様々な呼び方がある。

もともと「年神様」は稲作を司る神様で、農家が祀っていた風習。

松飾りや鏡餅といった正月行事は、この風習に由来するものが多い。

れが年神様の原始的な姿であり、農耕の神である穀霊[こくれい](穀物に宿る霊魂)的性格がクロスオーバーした神が大年神といえよう。

だが、一之宮の中で大歳神が主祭神なのは、ここ飛騨一宮水無神社のみ。

その大歳神にしても、飛騨地方との間に特定の関係性は見当たらない。

そもそも創建当時から、ここの主だったわけでもないだろう。

では、水無神社の真の主とは誰だったのだろうか?

そのヒントは先述した別当寺、袈裟山[けさざん]千光寺の歴史にあった。

千光寺は今から約1600年前の仁徳天皇治世、両面宿儺[りょうめんすくな]が開山したと伝わる。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]15

水無32-0028

騒動の発端は彦四郎が幕命により検地の強行、年貢の増徴など過酷な圧政を敷いたこと。

彦四郎の度重なる約束の反故もあって農民たちの怒りは沸騰。

直訴や駕籠訴[かごそ]に及ぶも全く聞き入れられず、やがて打ち壊しなど行動が過激化していく。

また、農業生産能力に乏しい飛騨では山に住む領民達が「御用木元伐[ごようぎもとぎり]」といって、幕府の管理する山から材木を切り出す報酬として米や賃金を受け取り生計を立てていた。

ところが彦四郎は支出を引き締めようとしたのか元伐の休止を命令。

おかげで領民達は貧困のドン底へ突き落とされた。

「拗の木」のところで彦四郎が発した神域の大檜供出命令に対し、やんわりと村人達が拒絶したのも根底に元伐休止への反発があったという。

水無33-0029

屋根と賽銭箱の間から奥に鎮まる拝殿を眺めつつ、水無神社に鎮まる神様について考えてみる。

水無神社の祭神は水無神[みなしのかみ]。

主神の御年大神[みとしのおおかみ]外十四柱の神々の総称だ。

社号標のところで「水無」の由来は「水主」、川の水源を司る神という説が有力だと触れた。

宮川の源流川上岳から水無神社へ至る途中の位山[くらいやま]には水無神社の奥宮が鎮座している。

この水主の神が坐[いま]す聖域は日本を表裏に分ける分水嶺。

つまり水源と交通の要衝を鎮める「水の主」、それが水無神というわけだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]14

水無31-028

短い石段を上がると中央に楼門が立ち、左右に透塀が連なっている。

しかし入り口には大きな賽銭箱が立ちふさがり、立ち入れるのはここまで。

さて、新たに高山藩主となった金森長近は水無神社の御神威を崇敬。

慶長12(1607)年には近隣の農民に命じて普請を手伝わせるなどして再興を図ったという。

潮目が変わったのは元禄5(1692)年、六代頼峕[よりとき]の時。

金森家は出羽国上山[かみのやま]へ移封となり、飛騨は天領となった。

転封の理由は頼峕が何かしくじったというわけではもなく。

幕府が財政を安定させるため、飛騨の鉱山資源や山林資源に着目したからだと言われている。

飛騨代官の支配が続いていた安永2(1773)年、水無神社に大きな転機が訪れた。

それは門前に立っていた巨大石碑「大原騒動 一宮大集會之地」にある通り。

飛騨一円を巻き込む一大農民一揆「大原騒動」が勃発したのだ。

これに対して代官の大原彦四郎は武力を以って徹底的に鎮圧。

多数の農民が非業の死を遂げたり島流しに遭うなど、代官と農民の間に深い遺恨が刻まれる。

また、農民側に加担した水無神社への弾圧も例外ではなく。

山下和泉と森伊勢の両神職も騒動に連座した咎で処刑された。

この騒動によって古文書などの史料なども散逸したのだろう。

水無神社の存在は大原騒動によって一度、歴史上から抹殺されてしまったのだ。

安永7(1778)年、新たな神職として信州から梶原伊豆守家熊を招聘。

神仏混淆の両部神道を破棄して唯一神道に改め、阿弥陀堂や鐘堂、仁王門といった仏教的建造物を撤去。

併せて社殿の大改修を行い、祝や社司といった職名も宮司制へと改めた。

こうして面目を一新した水無神社は安永8(1778)年8月13〜15日の3日間。

飛騨国中の神々を招請して太々神楽を催し、新しい水無神社のスタートをアピール。

この太々神楽が今も続く「飛騨の大祭」のルーツだと言われているそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]13

水無29-033

それはさておき、付近の地名を「一之宮町」と呼ぶぐらい、水無神社の歴史は古い。

創建は神代と伝わっているが、太古の記録が散逸しており詳細な歴史は不明だ。

最古の記録は貞観9(867)年に従五位上の神位を授けられた…というもの。

元慶5(881)年には従四位上まで累進。

平安時代中期に編纂された格式『延喜式[えんぎしき]』でも小社に列せられている。

鎌倉時代に入ると神仏習合の影響を受けて「水無[みなし]大菩薩」を称するように。

神仏一体の両部神道を奉じ、本地堂一宇を建てて釈迦像も安置された。

高山駅から直線距離で北北東6。5kmのところにある真言宗の名刹千光寺。

ここは水無神社の別当寺で、社僧も置かれていたそうだ。

手水舎の前に蛙の石像が佇んでいる。

分水嶺に鎮座する水無神社に水棲動物の蛙とは、いかにも相応しい。

水を“支配”する神として祀られているのだろうか?

また、蛙は田んぼの害虫を食べてくれるので農民からも篤く信仰されてきた。

いずれにせよ、なぜここに蛙があるのか?

説明板が見当たらないので、本当の理由は分からない。

話を水無神社の歴史に戻そう。

室町時代の文明年間(1469~1486)頃、水無神社には祝部(はふりべ=古代の下級神職)が十二家あった。

うち棟梁家として山下と一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村3700余石に達していたという。

やがて各祝部が武士化して一宮党を名乗り、戦国時代に隆盛を迎えた。

ここに臥龍桜のところで登場した三木国綱が登場する。

天文~弘治年間(1532~1558)、宮司の一宮右衛門大輔国綱は飛騨松倉城主の三木(姉小路)[みつき(あねがこうじ)]自綱[よりつな]の妹を娶り姻戚関係に。

名を三木三澤国綱と改称し、神職を家臣の森某に譲り、山下城を築いて武将となった。

しかし三木三澤は金森家の軍勢に敗北。

先述の通り、臥龍桜の下へ埋められる羽目ことになったわけだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]12

水無27-026

歌碑の隣に摂社がひとつ鎮座している。

社号は「白川神社」。

この「白川」とは世界遺産にも指定されている合掌造りの里、白川郷。

正確には岐阜県大野郡白川村のことだ。

昭和32(1957)年に白川村で建設が始まった、本格的ロックフィルダム「御母衣[みぼろ]ダム」。

ロックフィルダムとは岩と粘土だけで巨大な壁を築き、水を貯める方式のダムだ。

同35(1960)年、東洋一の規模を誇る「御母衣ダム」は完成。

しかし、偉業への代償とでもいうべきか。

白川村の長瀬と福島の両集落がダム湖の底へと沈んでいった。

その前に、集落に鎮座していた氏神の白山神社を水無神社に遷座。

両神社を合祀し創建したのが、目の前にある白川神社というわけだ。

水無30-027

ようやく楼門までたどり着いた。

“ようやく”と呼べるほど、境内は色濃いエピソードで満ち溢れている。

これといって目につくものがなかった美濃一宮南宮大社とは対照的だ。

しかし、参拝の前に手水舎で両手を禊ぎ、口を漱がねばならない。

ここの水は地下60mから汲み上げた伏流水という。

平成17(2005)年の平成の大合併で新制高山市が誕生。

この折「一之宮町」という地名が復活した際の記念事業だったそうだ。

ちなみに大合併後、高山市の面積は2177.61平方kmとなり日本最大となった。

これは東京都の2190.5平方kmから島嶼部405平方kmを引いた面積よりも大きい。

水無28-032

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]11

水無25-0024

黒駒の隣には木彫りの白駒が立っている。

こちらの作者は飛騨の工匠、武田万匠。

元々は黒駒だったが、明治15(1882)年に宮司が色を白に塗り換えた。

その際、腹部に武田の銘が発見されたという。

その昔、深夜に神社から馬の嘶[いななき]と蹄の音が聞こえる。

様子を見に行くと拝殿に神馬が放っぽり出されいることが度々。

これは「神様が神馬で夜な夜なお遊びなっているのだ」と噂が。

ここから「いななき神馬」という名が付いたそうだ。

神馬とは農耕や軍事への信仰面から神社に奉納されるものだが。

水無神社の神馬は農作業で用いられる牛馬の安全祈願に対する信仰が極めて篤い。

耕作向きの土地が極めて乏しい飛騨で土地生産性を上げるためには、牛馬の役割が極めて重要となる。

その信仰が昂じれば、超人気彫刻家だった左甚五郎に馬の像を作らせることぐらいわけなかったろう。

水無26-025

神馬舎の隣に石碑が立っている。

そばに近づいて、刻まれている短歌を読む。

    きのうけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里

作者の名は島崎正樹…ご存知だろうか?

彼自身の知名度は低いが、息子のそれはすごぶる高い。

その名は…島崎藤村、言わずと知れた明治の文豪である。

国語の教科書にも登場する名作「夜明け前」。

主人公である青山半蔵のモデルこそ、実は父の正樹なのだ。

しかも正樹、ここ水無神社の宮司だったこともある。

明治7(1874)年11月13日の赴任から同10(1877)年12月8日まで約3年ほど、宮司として在職していた。

その「夜明け前」にも正樹が東京から赴任してくるシーンが描かれている。

140年以上も前の水無神社が、名著の中に息づいている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]10

水無23-0023

「拗の木」の奥に太い杉の木が立っている。

推定樹齢およそ800年という老杉ながら、樹高45m、枝張り幅20m、目通り6。45mという巨大さ。

昭和38(1963)年9月10日には県の天然記念物に指定されている。

天然記念物としてより、水無神社の謎に包まれた歴史を見続けてきた生き証“木”としての価値のほうが遥かに高い。

もちろん、もしこの老杉と会話できればの話だが。

水無24-024

老杉の影に、まるで隠れているかのように小さな御社が佇んでいる。

良く見ると摂社ではなく神馬舎で、安置されているのは白黒2体の木像。

この像は古くから語り継がれている伝説「稲喰神馬[いなはみしんめ]」に登場する「稲喰[いなはみ]の馬」だ。

江戸時代、毎夜のように田んぼの稲穂を食い荒らしている黒い馬がいた。

追い払うと駆け出したので後を追ったところ、馬場の納屋のあたりで姿が消えてしまった。

納屋を見ると板戸に黒馬が浮彫の形で貼り付いている。

その馬が神社の黒駒に似ていたので、これは神馬のいたずらであると考察。

黒駒の像から眼球をくり抜いたところ、耕作地が荒れることは以来なくなったという。

黒駒の作者は不詳だが、一説によると伝説の名工・左甚五郎の作とも言い伝えられている。

左甚五郎といえば江戸時代に活躍した伝説の名工。

日光東照宮の「眠り猫」に代表されるように、その作品は余りにもリアル。

それ故、ここの黒駒に限らず、木彫りの動物たちが夜な夜な歩き出したという伝説すらあるほど。

ちなみに納屋の戸板は水無神社に奉納され、明治初年に破却されるまで拝殿に掲げられていたという。

ちなみに、この黒駒は極めて素朴に作られているものの、解体するのは至難の業なのだそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]09

水無22-023

境内に視線を向けると神社にありがちな朱色の彩りがまるでない。

隅から隅まで薄墨で描かれたようなモノトーンで統一されている。

飛騨一ノ宮駅の赤屋根は水無神社のどこを見て塗られたのだろう?

直接の関係は無いのかも知れないが、赤屋根が間抜けに思えてくるから不思議だ。

鳥居をくぐって境内に入ると、右側に妙にねじれた木の幹がある。

正確には幹の途中でバッサリ伐られた根の部分。

それでも目通り(立っている人間の目の高さの位置)で直径1。5mはあろうか。

これは「拗の木」といって、摩訶不思議な伝説を持つ檜[ひのき]の大木…の痕跡だ。

その昔、檜の高さが数十メートルにも達したことから、周囲の日当たりが悪くなった。

そこで社家や近所の住民が伐って用材にしようと画策したのだが。

檜は一夜のうちに幹はおろか枝葉に至るまでグニャッと拗[ね]じ曲がってしまったという。

それで「拗の木」と呼ぶのだとか。

一方、この木は江戸時代の中頃に、水無神社の貴重な森林を守る働きを見せている。

大洪水で宮川流域の橋や家屋が流出し、甚大な被害が発生した時のこと。

飛騨高山代官の大原彦四郎紹正[つぐまさ]は橋を再建するため、神域の大檜を用材として差し出すよう命令。

ところが大原騒動で酷い目に遭った村人達は、どうしても素直に従う気にはなれず。

そんな折、氏子衆の中に気転の効く者がいて、拗の木を示しながらこう復命した。

「木を切ろうとしたら、御神意なのか一夜でこんなに拗じれてしまいました」

すると「拗の木」だけでなく他の檜も切ることが沙汰止みになったという。

よく見ると幹は反時計周りに捻れている。

こうなった原因は陽光や風の影響による説、または内部で起こった細胞の分裂による説など諸説ある。

だが、決定的な原因は良く分からないそうだ。

それはともかく、村人からは昔から神霊の宿る霊木として篤く信仰を集めていた。

特に若い婦人衆がこの木に願をかけ、姑の意地悪を封じてもらったという言い伝えも残っている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]08

水無18-019

益田街道を渡り、来たとき背を向けた水無神社の参道を進む。

奥に鳥居が立ち、その中から黒々とした社殿が覗いている。

手前には「常泉寺川」という細い川が流れ、上には小ぶりな「神橋」。

神橋は大きな神社に付き物だが、ここの神橋は一般道に架かる普通の橋だ。

現在、整備工事が行われている。

来るべきお正月に備えているのだろう。

水無19-020

橋を渡ってすぐ右手に巨大な石碑が立っている。

表には「大原騒動 一宮大集會之地」の文字。

大原騒動とは明和8(1771)年から飛騨一円で20年近く続いた、日本近代史に残る一大農民一揆。

その終焉の地となったのが、ここ水無神社だった。

橋から細い道を挟んですぐ目の前に大鳥居。

その右側に「飛騨一宮水無神社」と刻まれた社号標が立っている。

社号「水無」の由来には諸説あるが、有力なのは「水主」…川の水源を司る神という意味。

読み方は「みなし」「みずなし」「すいむ」と色々あるが、神社は「みなし」と呼ぶ。

ドジョウの味女が土を掘り過ぎて宮川の水が消えた…と先述したが。

宮川の川床が上がって水流が伏流化して水無川になったのがホントのところ。

そこから水無[みなし]川とか水無瀬[みなせ]川原といった地名が誕生。

「水主」と「水無」が融合して「水無神社」という社号になったものと思われる。

鳥居は石造りのシンプルな明神鳥居。

朱に塗られてはおらず、素材の白色が剥き出し。

鳥居の左側には「国幣中社」と刻まれた古い石柱。

戦前に立てられていたものを今も保存してあるのだろう。

水無20-021

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]07

飛騨一ノ宮駅

跨線橋を経て再び駅舎の前へ戻り、水無神社の方角を見る。

まだ「臥龍桜」駅と改名したほうが、観光客にアピールできるのではないか? と思ったが。

鉄道の、特に各駅停車の普通列車に観光アイテムとしての役割を期待する時代など既に終わっている。

莫大な費用をかけて改名したところで、観光に寄与する効果などタカが知れているのかも知れない。

そんなことを思いながら飛騨一ノ宮駅を後にした。

源流の里

駅前に「源流の里」と刻まれた大きな石碑が立っている。

宮川の源流は、ここから約20kmほど南の川上岳[かおれだけ]。

北に向かった宮川は富山県に入ると神通川[じんづうがわ]と名を変え、日本海へ注ぐ大河となる。

ここに「神使味女[アジメ]」という言い伝えがある。

「味女[あじめ]」とは宮川に棲んでいた水無大神の使い。

だが味女といっても人間の女ではなく川魚の泥鰌[ドジョウ]である。

その味女に水無大神が、一面の葦原だった御座山[みくらやま]一帯から水を抜くよう命令。

御座山、別名御旅山は水無神社の奥宮がある位山[くらいやま]の遥拝所。

古墳のような形状をした人造の丘陵で、いろいろと謎に包まれているという。

それはともかく、葦原が一転して農地になれば門前一帯は経済的に潤う…と思いきや。

味女が熱心に土を掘り過ぎたのか、川の水そのものが地下へと潜り「地下水流」に。

つまり水無神社の前を流れる部分だけ水流が消え、地上から見えなくなってしまったのだ。

この様子を当地では「水無河原」「覆河原」「鬼河原」「安河原」などと呼んでいたそう。

水無17-018

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]06

水無16*017

幹の根元を見ると小さな五輪塔が三基、横に並んでいる。

また、臥龍桜を囲む仕切りロープの右脇には小さな祠が。

五輪塔は三木國綱[みつぎくにつな]が葬られた墓、祠は三木家の祖霊社という。

國綱は戦国時代の武将で官途名[かんどな]を入道三澤[さんたく]、別名を一宮國綱とも言った。

別名の通り水無神社の神官の家に生まれ、宮司の職を継いでいた。

しかし社家を他に譲り、飛騨を治めていた姉小路家の家臣となり武将に転身。

天正13(1585)年、豊臣秀吉の命を受け飛騨に攻め入った金森長近の軍勢に敗北。

これに水無神社の氏子連が助命を嘆願、それが通って命拾いすることに。

それから暫く後、國綱は金森家に反旗を翻し「三澤の乱」を起こす。

ところが今度は長近の養子可重[ありしげ]の返り討ちに遭い、あえなく戦死。

その亡骸が臥龍桜の下に埋められている…というわけだ。

梶井基次郎作の名フレーズ「桜の樹の下には屍体[したい]が埋まっている」は、この故事が元に…なっているわけではない。

だが毎年秋には水無神社の宮司、大幢寺の住職、そして三木家ゆかり縁の人たちが集まり、祖先を供養する「三木祭り」を催行しているそうだ。

水無15*016

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]05

水無14-015

入口横の石に刻まれた「臥龍公園」の文字。

国指定天然記念物「臥龍桜」のために整備された公園だ。

今でこそ周囲は小綺麗な公園として整備されているが。

もとは大幢寺[だいどうじ]の境内にあった。

なので往古は「大幢寺の大桜」と呼ばれていた。

昭和6(1931)年に同寺の第二十世住職、道仙和尚が「臥龍桜」と命名。

この名称は桜の幹枝が龍の姿に似ていることに由来するそうだ。

臥龍公園

臥竜桜は推定樹齢1100年を超える江戸彼岸桜[エドヒガンザクラ]の老木。

高さ20m、目通り(目の高さでの幹の直径)7。3m、枝張りは南北30mにも及ぶという大樹である。

母樹から伸び過ぎた枝が垂れて地に着き、そこから発根してもう1本の幹ができた。

新しい幹は母樹から養液を摂取する必要がなくなったため、中間の部分が枯れ落ちてしまった。

さらに昭和34(1959)年、伊勢湾台風の被害に遭い龍の首に相当する部分がポッキリ。

このため現在は母樹と新しい幹の2本の桜で龍を形どっている。

ちなみに枯れ落ちた部分の木は今でも地面に転がっていた。

臥龍桜に近寄り、枝張りを見上げる。

桜花の美しさは「飛騨・美濃さくら三十三選」にも選ばれるほど。

見頃は4月の中旬~下旬とのこと。

冬真っ盛りの現在では当然ながら蕾すら膨らんでいない。

水無15-016

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]04

水無12-013

山間の長閑な土地にヒッソリと根を下ろし。いつ来るとも知れない参拝客を待つ飛騨一ノ宮駅。

昭和9(1934)年に開業した時分には、水無神社への玄関口として大そう賑わっていたのだろう。

だが、昭和60(1985)年に無人化されてから既に30年以上もの年月が流れた。

現在では停車する列車も1日往復20本程度。

特に午前10時半ごろから午後3時ごろまでは1本の列車も止まらないという“完全”無人駅状態。

世界中から飛騨高山へと押し寄せる観光役をピストン輸送する特急電車を、ただただ見送る毎日。

だが、それもまた水無神社の玄関口に立つ門番の御役目だと考えれば、存在する意義があるというものか。

水無12*013

扉を開けて駅舎の中に入る。

目の前に現れたのは無人駅となって以来、まるで時が止まったかのような空間。

だがノスタルジックとかレトロスペクティヴといった情緒的なものではない。

国鉄が赤字の断末魔に喘いでいた昭和末期の陰鬱な雰囲気がエンバーミングされているというか。

永遠に腐らない死体を見せられているかのような、他に例えようのない既視感を覚える。

駅員のいない改札口を通り抜けてホームに出た。

対岸式のホーム2面を跨線橋が結んでいる。

無人駅なので跨線橋というより自由通路だが。

その橋に上がり周囲を見渡してみると、北側の線路脇に公園が広がっていた。

水無13-014

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]03

水無08-009

看板の麓にあるバス停で下車。

高山駅から20分足らずで着いてしまうのだから、今の高山本線では太刀打ちできない。

というか、高山駅から水無神社に電車で行こうと思う人のほうが少ないか。

益田街道と水無神社の参道が交わる十字路の手前に歩道橋が架かっている。

その上に登り水無神社の方角を眺めてみた。

先刻から舞い続けていた粉雪は本格的な雪となって視界を白く染め、参道奥の山々に囲まれた辺りに佇む黒々とした社殿のシルエットを引き立たせている。

その社殿に背を向け、歩道橋を反対側へと渡った。

車が擦れ違える程度の細い道を歩いていくと眼前に川が見える。

宮川…高山で歓楽街と古い街並みを分け隔てていた、あの川だ。

水無09-010

川岸に沿って歩いていくと橋が見えてきた。

欄干に「一ノ宮橋」とあるが、朱塗じゃなければ擬宝珠もない。

多少デザインは凝っているが、ごく普通のコンクリート橋だ。

橋を渡ると突き当たりに赤い屋根の建物が見える。

JR高山本線、飛騨一ノ宮駅。

駅前へ続く沿道は特に商店街というわけでもなく。

民家やマンションが点々と立ち並ぶ住宅街である。

水無神社の参拝に鉄道は利用されてません…と言外に主張しているかのようだ。

入り口の屋根に鰹木っぽい装飾が施されてはいるが。

他に神社っぽさは特に感じられない、良くも悪くも“普通”の駅舎だ。

今までにも“一ノ宮”の玄関口たる鉄道駅を幾つか訪ねてきたが。

駅舎の規模的には三河や遠江、上総の各一ノ宮駅と同程度だろう。

ただ、外房線の拠点駅として首都圏の鉄道網を支える上総や、構内に本格的な蕎麦屋のある遠江のような華やぎはない。

水無11-012

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]02

水無04-004

暫くウロウロしていたところ、1軒の店にガツン!と行き当たった。

「串焼き かっぱ」。

見た目に風格を感じさせる店構えだが、いまひとつ価格帯が分からない。

それでも間違いはなかろうと扉を開けて中に入ってみると、これが正解だった。

築100年を超えるという建屋は飛騨ならではの建築様式を現代に伝える貴重な文化財的建造物。

ここの名物は飛騨牛の串焼き。

塩でシンプルに焼いた牛肉は柔らかく滋味深い。

朴葉味噌や漬物ステーキなど飛騨地方の名物料理がどれも旨い。

どぶろく特区で醸された地酒の濁酒と共に堪能した。

水無05-005

翌朝、宿で朝食後に庭を眺める。

キレイな箱庭のようにキチンと手入れされた庭は、宿が伝えてきた歴史を感じさせてくれる。

宿に荷物を預けて高山駅へ。

ただ、水無神社へは鉄道ではなく路線バスを利用する。

飛騨一ノ宮駅は高山駅の隣。

だが、高山本線を走る各駅停車が絶望的に少ないのだ。

それに比べて1時間に数本ほど運行されている路線バスは、鉄道を比較にならないほど利便性が高い。

バスは国道41号線、別名「益田街道」をノンビリ走っていく。

「飛騨」という国名は幾重にも連なる山や谷の風景が、まるで衣の「襞[ひだ]」のように見えるから…という説がある。

外は粉雪がハラハラと舞い、低く垂れ込めた雲と稜線の間から差し込む柔らかな日の光を浴びてキラキラと輝いている。

やがて、車窓の先方に「飛騨一宮水無神社」と大書きされた看板が見えてきた。

水無07-008

[旅行日:2016年12月10〜11日]

一巡せしもの[水無神社]01

水無01-001

岐阜駅から高山本線の各駅停車に乗車。

よくローカル線にあるボックスシートではなく、通勤電車にありがちなロングシート。

ボックスシートならアルコール片手にホロ酔い気分で寛げるのだが。

ロングシートとなると途端にアル中っぽくなるので、なかなか手を出せない。

間も無く高山駅、その手前で電車は飛騨一ノ宮駅に到着。

飛騨一宮水無神社の最寄り駅だが今日は素通り。

明日また改めて訪れることにする。

岐阜駅からローカル電車にゴトゴト各駅停車で揺られること3時間半。

高山駅へ到着した頃には既に陽も落ち、ホームは宵闇に包まれていた。

階段を上がると眩い光の中で真新しい駅舎が煌めいている。

その構内にひしめく大勢の外国人観光客。

飛騨高山に海外から観光客が押しかけているとは聞いていたが、これほどとは!

水無02-002

構内の雑踏をすり抜けて駅前に出る

底冷えのする12月の飛騨は雪が降っていないだけ幸いだったか。

駅構内の雑踏が嘘のように閑散としている街頭を北へ向かって歩く。

今宵の宿は「旅館いろは」。

高山の街並みに溶け込むように佇んでいる老舗の宿だ。

水無03-003

食事をするため宿を出た。

街の中心部を東西に貫く国分寺通りを東へ向かうと宮川にぶつかる。

この川を超えた向こう側が、飛騨高山を象徴する古い町並み。

だが今宵は川を渡ることなく、橋の手前で歓楽街へと魅き込まれた。

高山を代表する飲屋街、朝日町は厳冬の夜に訪れる酔客を吸い込んでいる。

だが、心に響きかけてくる店は意外と少ない。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]16

南宮008

南宮大社を後にして、来た道を垂井駅へ。

沿道には民家と空き地が交互に立ち並び、神社の参道というより素朴な田舎道といった風情。

そういえば南宮大社の境内もガランとして殺風景な印象を受けたが、その理由は参詣後に何となく分かった。

かつての南宮大社は神仏が習合した巨大な社寺だった。

そこから明治政府の神仏判然令で寺院の要素が排除され、真禅院として遠くに切り離されてしまった。

仏教の堂宇伽藍が存在した場所は空き地のまま、神社の境内として整備されたのだろう。

視界の遥か先、巨大な鳥居が再び姿を表す。

その存在感は、排除された仏教的色合いが再び帯びることのないよう警戒し、覆い隠しているかのようだ。

南宮042b

国道21号線を渡り、住宅街を抜けて垂井駅へ。

途中、東海道本線の踏切があった。

その上に立ち、垂井駅の方を眺める。

ここまで新幹線の高架下をくぐり、国道を渡り、在来線の駅へと向かって来た。

これら交通の大動脈は南宮大社の北側で次第に接近し、遥か南側を通る名神高速道路も北へカーブして寄り添い、不破の関あたりで交通路“四天王”が集結。

関ヶ原は今も昔も交通の要衝だと実感できる。

昼下がりの垂井駅南口は人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。

改札を抜けてホームに降りると、1枚のパネルが掲げてある。

 垂井が生んだ 戦国の軍師
 竹中半兵衛公の里

垂井町 垂井町が観光の中心に竹中半兵衛を据えている証だろうか。

南宮044

しかし半兵衛一本推しでは弱いような気もする。

そういえば南宮大社では関ヶ原の戦いについて、由緒に「兵火で焼失」としか記されておらず詳細な説明板もなかった。

先述の通り南宮山近辺は戦わずして趨勢を決した吉川広家をはじめ、安国寺恵瓊や長束正家、長宗我部盛親ら西軍の主戦力が布陣した場所。

関ヶ原合戦の南宮山近辺における情勢について解説する施設があってもいいような気もする。

パネルに描かれた軍師半兵衛公の不細工な絵を眺めつつ、そんなことを思った。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]15

南宮039

境内を後にして、来る時に通った門前町の方角ではなく、北側を通る県道に出る。

堀割が境内と道を隔て、短い石橋が両社をつないでいる。

この県道を道なりに進むと、突き当たりに朝倉山真禅院というお寺がある。

元は南宮大社の神宮寺で創建は天平11(739)年、開祖は行基。

当初は象背山[ぞうはいさん]宮処寺[ぐうしょじ]という名だった。

延暦12(793)年、桓武天皇の勅命を受けた伝教大師最澄により南宮大社と両部習合、つまり神と仏が一体化された。

同時に現在の南宮大社の鎮座地に移転し、寺号も神宮寺に変更、天台宗の寺院となった。

それから1000年以上も経過した明治初(1868)年、明治政府が神仏判然令を発令。

廃仏毀釈の荒波に神宮寺も抗うことができず、南宮大社と袂を分かち現在地へ移転。

当然「神宮寺」を名乗ることもできなくなり、寺号も現在の「真禅院」に変更した。

南宮040

南宮大社から真禅院へは道なりに進んでも1km弱程度の距離。

歩けば10数分で到着するだろうが、時間がなくて参拝を割愛した。

余裕があれば合わせて訪れたかったところだ。

南宮大社には江戸時代の社殿の配置を描いた古図が保存されている。

それには三重塔、本地堂、鐘樓など仏教関係の建造物の姿もある。

真禅院も関ヶ原の戦いで炎上した後、南宮神社と併せて家光が再建。

これらの仏教建造物も同時期に建てられた。

梵鐘は岐阜県最古、三重塔と本地堂は国指定の重要文化財。

北条政子が寄進したと伝わる鉄塔も立っているそうだ。

これらの仏教建造物群は廃仏毀釈の嵐をくぐり抜け、真禅院に移築され現在まで受け継がれている。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]14

南宮037

ハイキングコースに背を向けると、目の前にコンクリート製の宝物殿が立っている。

朱で彩られた和風の建物には刀剣や胴丸、駅鈴など数多の宝物が収蔵されている。

特に刀剣類が充実しており、その数は数十振に及ぶという。

中でも「三条」「康光」「鉾(無銘)」の3点は戦前の国宝で、現在は国の重要文化財に指定されている。

南宮大社が刃物の神様という面もあるが、かつて西美濃地方が刀鍛冶の中心地だったことも大きい。

ただ、残念なことに宝物殿が一般公開されるのは年に一度、11月3日の文化の日のみ。

なぜだろう? もったいない気がする。

南宮038

宝物殿の前に旧い社号標が立っている。

「国幣大社 南宮神社」とあるから戦前のもだろう。

この「南宮」という社号については「国府の南に鎮座しているから」という由来を既に記した。

これに対して南宮大社の宇都宮精秀宮司が「朝鮮半島と深い関わりがある」という新説を唱えている。

現在、韓国人の姓は「金」「李」「朴」など漢字一文字が圧倒的に多いが、中には漢字二文字の姓も8つほど存在する。

その中で最も多いのが「南宮[ナムグン]」という姓。

ルーツは古代中国の周王朝文王時代、古代朝鮮へ渡来してきた南宮氏の子孫と伝わる。

その南宮氏は製鉄に関係ある一族とも云われているそう。

大陸から朝鮮半島を経由して日本に鉄器が伝来したのは紀元前4世紀ごろのこと。

その経緯に絡んだ南宮氏が日本に渡来し、南宮大社の創建とも関わった…のかどうか。

ここまでくると考古学と歴史学の専門的な話になり過ぎ、門外漢の私には何が何だかチンプンカンプンだ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]13

南宮036b

石田三成ら西軍の主軸が陣を敷く主戦場は南宮山から遥か北西の彼方にあり、南宮山は位置的に徳川家康本陣の背後に当たる。

毛利軍は戦況を見て南宮山を降り、家康の本陣を背後から攻撃する…というシナリオ。

これが成功すれば形勢は西軍の圧倒的優勢に傾く…はずだった。

しかし、戦が始まったものの毛利軍はピクリとも動かない。

なぜなら広家が毛利家の存続を図るため、秀元や恵瓊には内密のまま独断で家康と内通していたから。

恵瓊や正家、盛親は何度も出陣を促すが、広家は「天気が悪い」「兵が飯を食っている」などと適当にあしらい続けた。

そのうち、これまた毛利家連枝の小早川秀秋が西軍を裏切り、あっけなく天下分け目の戦いが終焉。

南宮山に布陣した軍勢は結局、東軍と一度も戦火を交えることなく戦を終えることとなった。

戦後、恵瓊は石田三成、小西行長とともに京都六条河原で斬首の刑に処せられた。

三成と行長は西軍の中枢だけに無理もないが、なぜ一度も交戦していない恵瓊が処刑されたのか?

西軍の総大将である毛利家が存続したのに比べると、死罪は重すぎる気もする。

毛利側の人間として敗戦の責を一身に背負わされたのだろうか?

ひょっとしたら南宮大社の社殿一切を焼き払った割に一度も戦に参加しなかった咎を「武器の神」でもある金山彦命から誅罰されたのかもしれない。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]12

南宮034b

奉納された刃物が軒下に据えられた木造の大きな建物は神輿社。

先述した5月5日の例大祭で活躍する神輿が安置されている。

この神輿は寛永19(1642)年に社殿が再建された際に家光が寄進したもの。

欅造りで金具には三葉葵の御紋があしらわれているそうだ。

それにしても、なぜ家光は多額の寄進を費して社殿を再建したのだろうか?

彼自身は江戸生まれの江戸育ちで、美濃国とは縁もゆかりもない。

実は寄進の裏にNHK大河ドラマにもなった超有名な乳母、春日局の存在があった。

春日局…幼名お福は天正7(1579)年、斎藤利三[としみつ]の子に生まれた。

利三は斎藤義竜、稲葉一鉄、織田信長と、美濃国に縁の深い武将に長らく仕えてきた。

お福として幼少時を過ごした美濃国は、かけがえのない土地だったに違いない。

春日局が没したのは寛永20(1643)年、南宮大社の再建が成った翌年のことだった。

南宮035

楼門から築地塀の外に出、南端の橋を渡る。

右手前は自動車用の祓所、左手側には「南宮山ハイキングコース」と刻まれた案内札。

南宮大社の背後にある南宮山は標高400m超と、ハイキングにはピッタリの低山だ。

拝殿の前で「安国寺恵瓊が陣を構えるため焼き払った」と述べたが、南宮大社だけでなくこの南宮山自体が毛利の陣営だった。

毛利家当主の輝元は西軍の総大将だったため大阪城に詰めており、関ヶ原の戦場には出陣せず。

代わって輝元の従兄弟である毛利秀元、家臣の吉川広家、それに恵瓊が毛利の軍勢として参戦していた。

毛利軍は南宮山に秀元、南宮大社に恵瓊、そして南宮大社の西、現在は岐阜県立不破高校のある場所に広家が陣を構えた。

このほか豊臣家五奉行の一人である長束正家と、土佐の長宗我部盛親も南宮山に布陣している。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]11

南宮033

両社の他にもう一つ、南宮に関係ある(らしい)神社がある。

平安末期の歌謡集『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』巻二に次のような一文がある。

「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚[おさな]き児の宮」

ここで言う「美濃国の中の宮」とは美濃一宮南宮大社、「伊賀国の稚き児の宮」とは伊賀一宮敢国神社のことではないかと推測される。

これを敷衍すれば「南宮の本山は信濃国」とは信濃一宮諏訪大社を指すことになるのだが。

諏訪大社は追って訪れる予定なので、ここでの詳述は避けることとする。

平安時代中期(905〜967年)に定められた延喜式神名帳に、諏訪大社は「南方刀美神社[みなかたとみのかみのやしろ]」の社名で記載されている。

無論「みなかたとみ」とは主祭神の建御名方[タケミナカタ]神を指しているのだろうが。

「南の方の刀が美しい神社」の名は諏訪大社より、むしろ南宮大社の由来に相応しいように思える。

また諏訪大社では古来、風と水を司る竜神を篤く信仰していたという。

風は砂鉄を精錬・加工するための蹈鞴[たたら]、水は錬鉄の鍛造に必要不可欠な存在。

こうした“状況証拠”からも「南宮の本山は諏訪大社」のように思えるが、これはあくまでも推測。

ただ、諏訪大社は上社に本宮・前宮、下社に春宮・秋宮と、全部で4つの社から構成されている。

大昔そのうちの一つが金山彦命を祀る南方刀美神社だったとしても不思議ではないように思える。

[旅行日:2016年12月10日]
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