一巡せしもの

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]20

諏訪上前044*

茅野駅への道すがら、道祖神が佇んでいた。

信州ではよく見かける神様。

道を守る神として村落に邪気や悪霊が入るのを防ぐご利益があると考えられている。

また、男女一対の形状から夫婦円満、子孫繁栄、縁結びなどのご利益もあるそうだ。

道祖神のようにシンプルで小さな神様もいれば、諏訪大神のように複雑な神様もいる。

茅野駅まで結構な距離があるも、徒歩での散策もなかなか楽しい。

諏訪上前045*

茅野駅にたどり着くと、駅前に大きな鳥居が聳立していた。

鳥居の袂に「諏訪神社参拝道」と刻まれた石標が立っている。

今回は巡礼の都合で下社秋宮から同春宮、上社本宮、同前宮へと辿ってきたが。

諏訪大社へは本来、ここから前宮→本宮→春宮→秋宮の順で参拝すべきだったのだろうか。

茅野駅に到着し、長かった諏訪大社の参詣が終わりを告げた。

ただ、長かったといっても僅か3日間の行程。

それだけ諏訪大社という一之宮が内包する謎が奥深かったということか。

13時38分、小淵沢方面へ向かう1530M電車に乗り、諏訪の地を後にした。

諏訪上前046*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]19

諏訪上前042*

降りしきる霧雨に包まれながら川っぺりを歩く。

時節柄、雪になっても不思議ではなかったのに。

雨と雪、どっちが都合よかったのだろう…細い橋の上で川面を眺めつつ、どうでもいいことをボンヤリと想う。

茅野駅へ向かう道すがら、再び諏訪大社のことを考える。

天竜川の戦いで勝利した建御名方神が自らを上社前宮に祀った。

しかし洩矢神との共栄共存を図る建御名方神は「ミシャグチ神」など土着の神々も一緒に祀ったことから、当時は古代神道そのままの姿だったと思われる。

ところが祭祀の共通化を推し進めるヤマト王権が諏訪大社を自らの組織に組み込もうとしたところ、その異形っぷりが問題視されたに違いない。

それもそうだろう、鹿の生首や生きた禽獣などを祭りで供える神社など、ヤマト王権下の神社にあるわけがない。

そこで諏訪側は前宮から少し離れた場所にヤマト王権スタイルの本宮を建立し、王権側の目を眩ませることにしたのではなかろうか。

上社の両宮に比べると下社の両宮は、また違った印象を受ける。

上社の存在に納得いかなかったヤマト王権が、下社を独自に建立したのだろうか?

実際、江戸時代が終わるまで上社と下社は別々の神社として存在し、両者が統合され現在の姿になったのは明治以降のこと。

1000年を軽く超える歴史の折々には守護や武将たちの争いなど様々な戦乱が勃発。

諏訪大社でも明治維新まで上社と下社の間で諍いが頻発していたそうだ。

諏訪上前043*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]18

諏訪上前039*

中世においては御手洗川のほとりに精進屋を設え、心身を清め、前宮の重要神事を務める前に用いたとの記録がある。

ちなみに「精進屋」とは祭りや参詣の前に心身を清めるために籠る建物のことだ。

再び神原へと戻る坂道を下りながら、思い返す。

高台にあり豊富な水と日照が得られる好地に鎮座する前宮…やはり諏訪信仰発祥の地に相応しい場所なのだろう。

神原を望むと、観光バスが停まっていた。

色とりどりの衣服を身に纏った妙齢のご婦人方が御朱印もらいに社務所へ詰めかけている。

諏訪大社では現在「四社まいり」なるイベントを展開中。

四社すべてで御朱印を賜ると記念品が進呈される。

ご婦人方は参拝者というよりスタンプラリーの参加者だったか。

自分も社務所で四社目の御朱印を賜り、記念品として落雁と木製の栞を頂戴する。

記念品目当てで一巡しているわけではないが、普通なら入手できない限定品を貰えば、やはり嬉しい。

諏訪上前047*

これにて諏訪大社四宮すべての巡礼を終えた。

小糠雨は止むことなく、なおも降り続いている。

正面から一直線に伸びる道を北に向かって歩きつつ、諏訪大社の成り立ちについて考えてみた。

なぜ諏訪大社は上社と下社に分かれているのか?

かつ、なぜ其々が更に二つに分かれているのか?

今でこそ四宮合わせて「諏訪大社」を名乗っているが、もとは別々の神社ではなかったのか?

様々な疑問が脳裏に湧き出すうちに「宮川」という川に突き当たった。

しかし対岸に渡れる橋が架かっておらず、グルリと迂回を余儀なくされる。


諏訪上前041*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]17

諏訪上前036*

本宮より昔から鎮座していたから前宮…そんな意味もあるそう。

前宮こそ諏訪大神が最初に居を構えた地。

祭神は古より建御名方命と妃の八坂刀売命だと伝わる。

しかしミシャクジ神や洩矢神など土着神の存在を知ってしまった今、本当にそうなのか?という疑問が湧く。

いや、むしろ建御名方命と洩矢神の対決を踏まえた上での祭神であれば納得できるか。

スッと目を開けて本殿を見上げ、その前を離れた。

社殿の背後に回り込むため歩き出すと、目の前に一之御柱が聳立している。

四方に御柱を七年毎に建て替えるのは他の三宮と同じ。

ただ前宮の場合、全ての摂社末社が御柱で囲まれているわけではなく。

小さな御社には御柱が供えられていない場合も多いようだ。

このあたりにも漏矢神と建御名方神の関係を紐解くヒントが隠されているのだろうか。

諏訪上前037*

背後に回り、社殿を眺める。

現在の社殿は昭和7(1932)年に伊勢神宮から下賜された御用材を用いて造営された由。

前宮とは本宮に対して、より以前から鎮座していた宮…という意味もあるそう。

他の三宮に比べて小さな社殿が鬱蒼とした森林を背景に佇んでいる光景は、やはり前宮こそ諏訪信仰の原点との思いを強くする。

背後を振り返り、その森林を眺める。

森の奥深くに祀られた奥宮に鎮まる墳墓は古来より立ち入ることが固く禁じられ、これを侵すと神罰が当たると伝えられているそうだ。

社殿の前に戻るため歩いていくと、そこに小川が流れている。

「水眼」…古くから〝すいが〟と呼ばれていたそう。

山中から湧き出る清流は前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔から御神水として重宝されてきた。

源流は約1kmほど登った山中にあるという。

諏訪上前038*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]16

諏訪上前033*

そこへ向かう途中、大木の陰に佇む小さな祠が目に止まった。

「御室社」という、見かけこそ小さいが上社前宮とは歴史的に切っても切れない重要な存在だ。

中世までは諏訪郡内諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られていた遺跡地の由。

ここへ大祝や神長官以下の神官が参籠し〝蛇形の御体〟と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始(あなすはじめ)」という冬ごもりを行った。

旧暦十二月二十二日に「御室入り」し、翌年三月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘的な祭祀が続行された。

諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は廃絶しているという。

今となっては何の変哲もない石の祠にも、悠久なる歴史が刻まれていると実感する。

諏訪上前034*

本殿に向かって緩やかな坂をユルユルと登っていく。

参道といえば参道なのだが、それらしき雰囲気は皆無。

どこの田舎にでもありそうな、長閑な風景を眺めながら田舎道…ならぬ参道を歩いているうち、唐突といった感じで上社前宮の本殿が現れた。

内御玉殿からの距離は、かれこれ約200mほどか。

本殿も塀などで外界と仕切られておらず、他の諏訪三社と決定的に異なる。

前宮本殿を正面から見る。

丸石を野積みにした石段の先に聳立する、木肌が剥き出しの門と左右に伸びる瑞垣。

他の神社のように朱で塗られておらず、飾りっ気のない野趣味溢れた印象を受ける。

太古の昔は神殿に附属した摂社の前宮社で、上社前宮となったのは明治以降という。

本殿の前に立ち、目を閉じ、手を合わせて祈念する。

諏訪上前035*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]15

諏訪上前030*

御頭祭は、まず本宮で神事を執り行なった後、神輿行列を仕立てて前宮へ赴き、ここ十間廊で古式に則った祭典が行われる。

御祭神の使徒が農作物の豊穣を祈って信濃国中を巡回するのに際しての祭りで、別名「大御立座(おおみたちまし)神事」とも。

古くは三月酉の日に行われたため「酉の祭り」とも呼ばれたという。

祭りの折、十間廊は上段から大祝、家老、奉行、五官、御頭郷役人(おとうごうやくにん)などの座が順に定められ、隣接する「高神子屋」で演ぜられる舞を見物。

さらには神長官守矢史料館のところで触れた「鹿75頭の生首、兎の串刺し、猪ら生きた禽獣など数多の御供物」が積み上げられ、それらを〝神と共に〟盛大に食べることを通じて、神から賜った自然界からの恩恵を讃えたのだと伝わっている。

諏訪上前031*

十間廊を離れ、石段を挟んだ反対側に鎮座するのが「内御玉殿(うちみたまでん)」。

諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿という。

「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体をなす」

かつて大祝は諸神事に当たる際、内御玉殿の扉を開かせてて弥栄の鈴を持ち、眞澄の鏡をかけ、馬具を携えて現れた。

まさにその姿は神格を備えた現身の諏訪明神そのものだった…と伝わっている。

現在の社殿は昭和7(1932)年に改築されたもの。

それ以前は天正13(1585)年に造営された、上社関係でも最古の建造物だったそうだ。

内御玉殿の左側から石段を登ると更に参道が続いている。

上社前宮の本殿は緩やかな坂を登った奥に鎮座しているのだ。

諏訪上前032*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]14

諏訪上前028*

舗装されていない土の坂を登り、再び神原へ。

土といっても地面は硬く踏み固められ、雨水は流れ落ち、ぬかるんだ感じはない。

社殿へ続く参道の入り口には青銅製だろうか、鳥居が聳立している。

石段を登ると左手上方に横長の建物が立っているのが見える。

「十間廊(じっけんろう)」という、上社前宮にとって非常に重要な建造物で、古くは「神原廊(かんばらろう)」と呼ばれていた。

中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供されたという。

神長宮守矢史料館のところでも触れた通り、毎年4月15日の「酉の祭」には鹿の頭75が供えられた。

これらの鹿の中には必ず耳が裂けた鹿が入っており、諏訪の七不思議の一つに数えられていたそうだ。

江戸時代後期の旅行家にして博物学者である菅江真澄が天明4(1784)年に残した記録に、こうある。

「鹿の生首七十五をはじめ様々な動物と春に芽吹く植物を神に献じ、神人一体となって食べ饗宴を催す」

鹿の生首を並べた狩猟祭…神長官守矢家が司る祭礼からは縄文時代の息吹が感じられる。

それは菅江の描写した江戸時代後期の「御頭祭」でも継承されていた。

現代の御頭祭では生首こそ用いられることはなくなり、代わりに鹿頭の剥製2つをお供えしているという。

十間廊に近づき、中を覗き見る。

間口3間、奥行き10間という、長い吹き抜けの廊下。

〝間(けん)〟は尺貫法の距離の単位で、メートル法に換算すると約18.18mに相当する。

入り口や壁は注連縄で仕切られてはいるが板などで塞がれてはおらず、吹き抜けの空間が広がる。

それだけに神楽殿や絵馬堂とはまた異なる、〝廊〟に相応しい広さだ。

諏訪上前029*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]13

諏訪上前027*

そのまま大鳥居の近辺まで降り、今度は神原方面を返り見る。

神原から鳥居近辺まで歩行者用の参道は細い石段だけで、その両脇は土が剥き出しのまま。だ

その左側には車両通行用の道路が通っており、自家用車や観光バスなども神原までは登ることができる。

神長官守矢家のところで高遠頼継が大祝家と諏訪総領家の揉め事に乗じて諏訪支配を画策したことに触れた。

揉め事というのは文明十五(1483)年正月、大祝家が諏訪惣領家を歓待するからと神殿に呼び出し暗殺したこと。

これが引き金となって戦乱が起き、神原の聖域が穢れてしまった。

しかし後に清地へ戻され、その後は大祝の居館として後世まで続く。

室町時代中葉、大祝が居館を他に移したことに伴い、多くの神殿が消滅。

祭儀のみ引き続き神原で行われており、それらは現在でも残っている。

大鳥居の前に回り込み、しげしげと眺めてみる。

鳥居は堅牢な石造りで塗りは施されておらず、石材の素地が露わ。

隣に立つ社号標は、刻まれた文字「官幣大社諏訪上社前宮」のうち「官幣」だけがコンクリートで塗り込められている。

大鳥居は最近奉納されたもののようだが、社号標は戦前から立っているに違いない。

諏訪上前026*

境内の片隅に目を向けると、小さな祠がポツンと佇んでいる。

名は「溝上社(みぞがみしゃ)」、祭神は高志奴奈河比賣命[コシヌナカワヒメノミコト]。

高志奴奈河比賣命といえば高志国(こしのくに)、現在の北陸地方〝越の国〟の姫。

建御名方神の父である大国主命こと八千矛神[ヤチホコノカミ]が娶りたいと、わざわざ出雲から出向いた…と古事記に記されている。

また、越後一宮天津神社には高志奴奈河比賣命の子が建御名方神との伝承も残されている。

これもまた建御名方神の諏訪侵攻と何か関わりがあるのだろうか?

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]12

諏訪上前023*

細い一本道を抜けたところに小さな神社が立っていた。

名を子安神社といい、社号通り安産の神様として奉られている。

諏訪大社の摂社末社かどうかは今のところ分からない。

更に先へと続く細い道を歩いていると、不意に広々とした場所に出た。

諏訪大社上社前宮の境内。

玉垣などで特に仕切られているわけでもなく、外界との境界が曖昧だ。

この点は諏訪大社の他三社と異なり、原始神道の雰囲気が色濃く漂う。

かつて、この広場は神原(こうばら)と呼ばれていた。

それはここに中世まで「神殿(こうどの)」があったことに由来する。

神殿とは御神体と同一視された大祝が常駐する殿舎の尊称にして、大祝代々の居館だ。

諏訪上前024*

なだらかな傾斜の先に立つ大鳥居の方角を神原から眺める。

霧のような細かい雨が舞う中、作業員が舗装工事に勤しんているのが見える。

この時期の大きな神社はどこもそうだが、初詣に向けた準備なのだろう。

社伝によると神原は諏訪大神が初めて現れた地であり、上社にとって最も由緒の深い場所。

かつては神殿を中心に高神殿、中部屋、酒倉、馬屋、内御玉殿、十間廊など神事が行われる重要な建物が林立していた。

代々の大祝職員式や旧三月酉日の大御立座神事(酉の祭)など上社の重要な神事のほとんどが、この神原で行われていたそうだ。

案内を読めば、境内には摂社末社として御室社、若御子社、鶏冠社、政所社、柏手社、溝上社、子安社などがある。

やはり先ほどの子安神社は摂社末社だったのか。

諏訪上前025*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]11

諏訪上前021*

「みさく神」から5分ほど歩くと、目の前に鉄のスクラップ工場が現れた。

鉄といえば美濃一宮南宮大社のところで触れた諏訪大社との関係。

平安末期の歌謡集『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』巻二にある次のような一文だ。

南宮の本山は信濃国とぞ承る 
さぞ申す 美濃国には中の宮 
伊賀国には稚[おさな]き児の宮

「美濃国の中の宮」が美濃一宮南宮大社、「伊賀国の稚き児の宮」が伊賀一宮敢国神社を指すと仮定すれば「南宮の本山は信濃国」は信濃一宮諏訪大社のことになる。

先述した天竜川の戦いでも、なぜか藤蔓の建御名方神側が勝利し、鉄器の洩矢神側が負けている。

もともと諏訪の洩矢一族は製鉄のノウハウを持っており、それを狙って出雲族は諏訪へ侵攻。

そこで勝者の建御名方神側が敗者の洩矢神側を厚遇する代償として、鉄器に関するノウハウを手に入れたのではないか?

諏訪大社では古来より風と水を司る龍神を篤く信仰していたという。

風は砂鉄を精錬・加工するための蹈鞴[たたら]、水は錬鉄の鍛造に必要不可欠な存在。

龍神信仰も洩矢一族が製鉄に長じていたところが発祥の原点なのだろうか?

だとすれば「南宮の本山は信濃国」なのも頷ける話だ。

あくまで伝承を元にした空想に過ぎないが、考古学の論文ではなく単なる旅日記。

この程度なら許される範囲内だろう…と思う。

諏訪上前022*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]10

諏訪上前020*

神長官守矢史料館と「みさく神」に別れを告げ、上社前宮へ向かう。

広い県道ではなく裏手を縫う狭い道を歩いてみる。

なかなか風情のある古道で諏訪の国を巡っていることを実感。

歩きながら、つらつらと建御名方神と洩矢神について考えてみた。

岡谷駅の西側、中央本線が北と南に分岐するあたりに鎮座している藤島社という古社には、現在の新潟県糸魚川市近辺から諏訪地方へ侵攻してきた建御名方神が陣地を構えた場所との伝説が残る。

古事記によると建御名方神は出雲での国譲りを巡る武甕槌神との戦いに敗れて洲羽の海(諏訪湖)まで追い詰められたことになっているが、それだと〝敗者〟建御名方神が武将から〝武神〟として崇敬を集めたことと辻褄が合わない。

むしろ建御名方神も天津神が地方を平定するために派遣した〝武将〟だと考えても不自然ではない気はする。

建御名方神が諏訪へ侵攻してきた理由については、幾つか説がある。

例えば糸魚川の翡翠を勾玉用に、諏訪地方の黒曜石を矢じりなど武器に使用するため派遣されてきたのではないかなど。

一方、藤島社と天竜川を挟んだ対岸には洩矢神社が鎮座している。

ここは先住民族の洩矢神が建御名方神を迎え撃つための陣を敷いた場所の由。

もちろん実際の場所は現在地と異なるだろうが、天竜川を挟んで両者が対峙したことは実際あったのではないか。

建御名方神は藤の蔓、洩矢神は鉄器で何度か対戦し、建御名方神が洩矢神を打ち破り諏訪の国譲りを実現。

とはいえ結果的に洩矢神側が建御名方神側に虐げられることはなかった。

建御名方神の子孫である諏訪氏が生神(いきがみ)「大祝」の位に、洩矢神の子孫である守矢氏が筆頭神官「神長」の位に、それぞれ就任。

結果、諏訪では大祝という〝信仰〟と神長という〝政治〟が一体化した祭政体による体制が固まり、古代から中世まで続くことになる。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]09

諏訪上前017*

神長官守矢史料館と神長官守矢家の間から山の方角を眺めると、彼方にこんもりとした丘陵。

そこに小さな祠と大きな木が立っているのが見えた。

綺麗に手入れされた生垣を眺めながら、丘に向かって柔らかな芝生の道を歩く。

一歩、足を進めるごとに心中の垢が剥がれ落ちていくような気がする。

諏訪上前018*

石垣の上に広がるバスケットボールコートほどの境内に到着。

左寄りに大きめの祠、右寄りに小さな摂社末社が立ち並び、どれも丁寧に御柱で囲まれている。

覆堂で守られた大きめの祠は神長官邸「みさく神」という。

みさく神とは諏訪社の原始信仰として、古来より専ら神長官が司る神と伝わる。

ここのみさく神は「御頭みさく神」とも呼ばれ、諏訪各地のみさく神を統率する「総みさく神」の由。

これらの祠を2本のカジノキとカヤ、クリなど計7本の社叢が見守っている。

カジノキの樹齢は推定で約100年と40年、目通り幹周は其々1.70mと1.10mと植樹されたものながら堂々たる風格。

さすが諏訪大社の神紋として由緒のある樹種だけある。

といっても社叢は非常に簡素で、古代信仰を偲ぶに相応しい佇まい。

この「みさく神」だが、諏訪大社の祭政体「ミシャグチ神」と何らかの関わりがあるのだろうか?

ミシャグチ神とは樹や笹、石や生神・大祝に降りてくる精霊のこと。

諏訪大社の祭政はミシャグチ神を中心に営まれていたという。

その祭祀権を持っていたのが神長であり、守矢家はミシャグチ上げやミシャグチ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切る重要な役割を担っていたそうだ。

諏訪上前019*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]08

諏訪上前014*

学芸員さんに挨拶して史料館に別れを告げると、「神長官守矢」の表札が掲げられた門の前に出た。

神長官守矢家は古代以降、上社五神官で大祝に次ぐ立場として祈祷と政務事務を代々掌握してきた家柄。

祖先は建御名方命が出雲より来る前から諏訪に土着していた神と伝わっている。

現在、同邸内には祈祷殿のほか旧祈祷殿遺跡・御頭役郷庄の精進屋遺跡・御頭みさく神・勅使殿等がある。

門の前に「神長官守矢史料館」の石碑が立つが、もちろん一般の住宅。
門内に勝手に立ち入るのは憚られる。

ただ、神長官守矢家の祈祷殿は外からでも見学できるようになっている。

諏訪上前015*

神長官家の祈祷は一子相伝で、神長以外は他の何人も携わることを許されなかったそうだ。

「満実書留」(守矢文書)には神長が祈祷殿に籠って祈祷調伏した記録が数多く残されている。

また、中世の神長官守矢頼真(よりざね)が後年、長坂筑後守に与えた書状には、頼真が天文11(1542)年9月24日、武田信玄のため祈祷殿に籠って戦勝祈願を行い、高遠頼継の率いる高遠勢を調伏したとある。

高遠氏は諏訪氏の流れを汲む一族で、頼継は別名諏訪頼継とも称していた。

諏訪大社上社で大祝家と諏訪総領家が揉めているのを見た頼継は、内紛に乗じて諏訪支配を画策。

天文11年に信玄と組んで諏訪へ侵攻、諏訪頼重を滅ぼし念願叶って諏訪奪取に成功!

と思いきや、信濃進出に意欲マンマンの武田家と仲間割れした挙句、高遠城を攻め落とされる羽目に。

頼継は武田氏に服属するも、後に自刃。

これは諏訪大神の霊験あらたかなのか?

それとも武田軍の武力が超絶過ぎたのか?

いや、頼継自身の浅はかさが招いた自業自得なのだろうな、きっと。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]07

諏訪上前013*

展示品をボーッと眺めていたら、先ほどの学芸員さんが再び語りかけてきた。

「江戸時代は一般に肉食が禁じられていましたが、諏訪大社の御札があれば鹿肉を食べることができたんですよ」
「信州だけでなく全国どこでも?」
「どこでもです」

壁に掲げられた鹿の首を眺めているうち、ある考えが脳裏に浮かんだ。

「タケミナカタを諏訪へ追い詰めたのはタケミカヅチ。そのタケミカヅチの神使は鹿。諏訪大社の氏子は鹿肉を食べ続けることで復讐を続けてたんですかね?」
「いやー、そんな話は聞いたことありませんなぁ」

学芸員さんに一笑に付されてしまった。
いい思いつきだと思ったのだが。

肉食の免罪符に相当する諏訪大社の御札は「鹿食免(かじきめん)」、箸は「鹿食箸」と呼ばれていた。

太古の昔、諏訪神社では狩猟が大切な祭事とされ、贄に鹿や猪が供された。

その後、仏教の浸透等により殺生や肉食がタブー視されるようになると狩猟神事も漸減。

しかし建暦2(1212)年、鎌倉幕府が諸国の守護大名に鷹狩の禁止を命じる中、諏訪神社の御贄鷹のみ除外するという異例の措置でこれを保護。

寿命の尽きた生物は放っておいても死ぬのだから、むしろ人間に食べてもらい、その縁で極楽往生させてもらうのが一番よい。

このような仏教の影響を受けた慈悲と殺生を両立させる独特な考え方が背景にあった。

そこから諏訪明神に御祈祷をし、これを食べても良いというお札を頂いてくれば許されるという信仰が生まれる。

これが「鹿食免」「鹿食箸」発祥の由来と伝わっている。

諏訪大社は農耕以前の狩猟時代、縄文時代の原始的祭祀を今なお色濃く伝えている一之宮なのだな…。

西洋の古い屋敷に飾られているような鹿頭の剥製を眺めながら、そんなことを思った。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]06

諏訪上前012*

「御頭祭」が展示されているロビーを抜けると、奥に展示室が続いていた。

そこには信濃の戦国武将に関する様々な史料が陳列されている。

それらをひとつひとつ見ていると、他に来館者がいなかったせいか学芸員のおじさんが声を掛けてきた。

「ここに草刈正雄の手紙がありますよ」

もちろん草刈本人の手紙なわけはなく「真田丸」で草刈が演じていた真田昌幸の書状である。

内容は神長官から神領の寄進を求めてきたことに対する返答。

現在は混乱しているため今年は何もできないといった内容だ。

当該年が記されておらず何時書かれたものかは不明だが、その内容から天正10(1582)年、本能寺の変から間もない頃と推定されている。

諏訪大社は甲斐武田家の信奉が篤く、真田家は武田家の重臣だったことから〝陪臣〟的な立場で接していたのかも知れない。

諏訪大社と武田家のつながりは室町時代にまで遡る。

康正元(1455)年、9歳で甲斐武田家を継いだ信昌は10年後の寛正6(1465)年、かねてより対立していた守護代の跡部氏を討伐。

これを機に武田家と神長官守矢氏の関係が生まれたものと思われる。

享禄元(1528)年に諏訪頼満・頼隆親子が合戦で武田信虎勢を打破するも、天文4(1535)年に和睦。

天文8(1539)年には頼満の孫頼重と信虎の娘が結婚し、諏訪家と武田家は婚姻関係となる。

ところが天文11(1542)年に武田信玄(信晴)が諏訪頼重を滅ぼして諏訪を支配。

信玄は諏訪を信濃進出の前線基地に位置付け、諏訪大社に対して頻繁に祈祷を依頼するように。

逆に神長官守矢家も信玄から所領の安堵や神事祭礼の執行を保証されるなど、依存度が増していく。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]05

諏訪上前016*

神長官守矢史料館は中世から江戸時代まで諏訪明神の神長官を務めた守矢家に伝わる鎌倉時代以来の「守矢文書」を保管、公開している施設。

開館は平成3(1991)年3月というから、かれこれ四半世紀が過ぎているのだが、あまり古さは感じない。

これも藤森戦線お得意の「時を経るほど味わい深くなる」設計の賜物なのだろうか。

神長官第七十八代の守矢早苗氏から茅野市が寄託を受け、地域の文化発展に資するため建設された。

守矢文書は県宝155点と茅野市指定文化財50点を含む1618点で、ほとんどは諏訪大社の祭礼に関するもの。

その中には中世信濃国の状況を克明に記録した貴重な史料や、武田信玄をはじめ武田家の古文書40点なども含まれている。

諏訪上前010*

受付で幾何かの入館料を支払い、さっそく館内へ。

内壁もまた土で塗られ、落ち着いたトーンで統一されている。

それとは裏腹に、土壁には鹿の生首や串刺しにされた兎の剥製など、なかなかに禍々しい品々の群れ。

これらは毎年4月15日に諏訪大社上社で行われる例大祭「御頭祭」の復元展示。

神長官守矢家が司る諏訪大社上社の祭祀の中で最も大掛かり且つ神秘的な祭礼である。

「御頭祭」は原始時代以来の狩猟や農耕など様々な信仰が入り混じった複雑至極な祭祀。

往時は鹿75頭の生首、兎の串刺し、猪ら生きた禽獣など数多の御供物が捧げられていたという。

それらの御供物を再現しているわけだ、もちろん剥製の展示品で。

豪快さゆえに見ているだけでも楽しめる御柱祭とは異なり、地味ではあるが底知れぬ奥深さを感じさせる御頭祭のほうが知的に興味シンシンだ。

諏訪上前011*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]04

諏訪上前009*

藤森先生が建築家として活動するのは1990年代からで、平成3(1991)年この神長官守矢史料館が皮切り。

平成9(1997)年には「路上観察学会」のメンバー赤瀬川原平の自宅、屋根一面にニラの鉢植えを置いた「ニラハウス」を設計。

これが1997年度の第29回日本芸術大賞を受賞した。

平成16(2004)年には「空飛ぶ泥船」のすぐ近くにプライベート茶室「高過庵」を設計。

地上6m、2本の木の上に建てられた蟷螂の巣を彷彿とさせるような茶室で、米TIME誌が2010年に発表した「世界でもっとも危険な建物トップ10」にも選出されている。

話を「神長官守矢史料館」に戻そう。

見かけこそ土壁と板壁だが、その内側は鉄筋コンクリート製の堅牢な建物。

土壁は〝毛深い〟仕上げを求めた結果、藁を色付きモルタルに混ぜて塗り、表面を荒らした後に上から土をスプレーで吹き付けた由。

板壁はサワラの丸太に鉄と木の楔を木槌で打ち込み、割って板にしたものを使用。

屋根の斜め部分を葺いているのは「鉄平石」という上諏訪特産の平らな安山岩。

屋根の天頂部分は宮城県雄勝産の、軒はフランス産の、それぞれ天然スレートを使用している。

正面に回り、改めて建物の全景を眺める。

緩やか味の全くない、鋭角と直線だけで構成された建物の外観からは武神たる建御名方神のイメージが伝わってくる。

屋根から突き出ている4本の柱は地元産の木材で、諏訪地方では「ミネゾウ」、一般には「イチイ」と呼ばれている。

軒が寂しいから四本柱を建てようとしたら、設計図に鉛筆が走って突き抜けていた…とは藤森先生の弁。

御柱をイメージしているのは言うまでもない。

モチーフは中世の信仰と諏訪の自然のクロスオーバー…ってところか?

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]03

諏訪上前007*

「空飛ぶ泥舟」から緩やかな坂道を下っていくと、右手に大祝(おおほうり)諏方家の墓所があった。

北斗神社のところでも少し触れたが、大祝とは諏訪上社五神官の筆頭。

建御名方神の末裔であり、その依り代(よりしろ=神霊が宿る対象物)にして現人神(あらひとがみ=生き神様)として諏訪明神の頂点に位置していた。

往時、穢れがないという理由から多くは幼童、それも8歳くらいの男児が選ばれていた。

一年間その身体を神に捧げ、神を降ろし託宣することで諏訪地方の祭事を取り仕切っていたという。

生き神様を祀る信仰が存在し続けた諏訪社は全国的にも珍しい存在だったそうだ。

上社の大祝は「諏方(すわ)氏」を名乗り、古代から明治維新後に神官の世襲制度が廃止されるまで続く。

諏方氏は鎌倉時代に幕府の御家人となり、戦国時代には諏訪郡一帯に勢力をふるうなど領主として政治権力を掌握。

慶長6(1601)年には武家と社家が分立し「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」として完全に政教分離。

前者は「諏訪高島藩」3万石に封じられ、そのまま明治に至り子爵に列している。

一方の大祝諏方家は最後の当主が平成14(2002)年に逝去、断絶してしまった。

ただ、大祝諏方家が居住していた邸宅は諏訪市が整備・保存し、一般に公開されている。

場所はここから北へ直線距離で500mほど、中央自動車道諏訪ICの近くにあるそうだ。

さらに坂道を下り続けると、その先にまたまた珍妙な建造物が姿を現わした。

「神長官守矢史料館(じんちょうかんもりやしりょうかん)」。

ここもまた「空飛ぶ泥舟」と同じ藤森先生の手によるもので、しかも初めて設計した建築物という。

諏訪上前008*

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]02

諏訪上前004*

古い民家の塀に、石碑が埋め込まれるかのように立っている。

いかにも歴史ある街道という雰囲気が何とも心地よい。

また、片隅で何気なく佇む小さな石碑もキチンと御柱で囲まれている。

諏訪にとって御柱とは単なる観光資源ではなく、街角の隅々に息づく宗教的な風習だと感じ入る。

諏訪上前005*

穏やかな坂道をユルユル登っていくと、前方で宙に浮いている奇妙な物体が見えた。

農家が立てた害鳥避けかとも思ったが、それにしては形状が珍妙過ぎる。

手持ちの資料で調べたところ「空飛ぶ泥舟」という茶室だった。

茅野市出身の建築家、藤森照信の設計によるもの。

藤森先生といえば70年代に「東京建築探偵団」を結成し、今も東京などに数多く残る店舗兼住宅の様式を「看板建築」と命名。

また、80年代には「路上観察学会」を結成するなど、都市のフィールドワーカーとして名を馳せていた。

諏訪上前006*

「空飛ぶ泥舟」は平成23(2011)年、茅野市美術館で開催された「藤森照信展」に展示された後、ここへ移築された。

なお藤森先生が個人的に所有しているため、イベント等を除き内部へ立ち入ることはできない。

その下に立って茶室を仰ぎ見つつ「もしこれが織田信長の時代にあったら…」と空想してみる。

好奇心旺盛で茶の湯好きの信長が武田家討伐のため諏訪入りした折、天空に浮く茶室があると耳にすれば見に来ないはずはない。

一目見た信長は「これは面妖な!」と感嘆し、安土城へと持ち帰り、諸客の接待に用いて悦に入っていたかも知れない。

そんな他愛ない空想を掻き立てられるほど「空飛ぶ泥舟」にはキテレツな魅力を感じるのだ。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社前宮]01

諏訪上前001*

上社本宮の東参道側入り口から東に向かって約200mほどのところに大鳥居が聳立している。

かつて南西側には大規模な神宮寺が広がり、数々の仏教建築が林立していた。

その寺域をも含めてこそ上社本宮の境内地だと、この鳥居は今に伝えているのかも知れない。

そういえば参道の入り口から大鳥居まで沿道には食事処や蕎麦屋、茶店などが立ち並んでいた。

しかし平日の昼間、しかも小糠雨がパラつく悪天候とあって開いている店は少ない。

諏訪上前002*

大鳥居の目と鼻の先に木造のシンプルな神明鳥居が立っている。
その先には天空へ向かって果てしなく続くとも知れない石段。

ここは「北斗神社」という神社。
鳥居の前に案内板があったので読んでみる。

祭主の禰宣太夫(ねぎだゆう)は諏訪神社上社にある五神官(大祝・神長官・禰宣太夫・権祝・擬祝・副祝)のひとつで、代々小出氏が務めてきた。

祭神は天御中主命[アメノミナカヌシノミコト]。

古事記の冒頭、高天原(たかまがはら)へ最初に現れた造化三神の一柱で、高御産巣日[タカミムスヒ]神、神産巣日[カミムスヒ]神とともに宇宙最高神とされている。

ただ、この200段にも及ぶ石段を前にすると本殿へ参拝する気概も萎んでしまった。

諏訪上前003*

古参道を歩き続けるうち県道16号と合流、その先に「旧杖突峠入口道標」が立っている。

杖突峠は南アルプスの北端に位置し、諏訪側のフォッサマグナ地帯と伊那谷を結ぶ古い街道の通り道。

江戸の昔は茅野を通る甲州街道と伊那谷を結ぶ重要な峠道だったそう。
しかし現在では国道152号線がアッという間に運んでくれる。

この入口から峠の方角へ向かってみた。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]34

022

かつて、このあたりに下り仁王門があった。

仁王門に向かって左側に執行坊、その左隣に大坊が立っていたという。

神宮寺は明治政府の神仏分離令により悉く破却。

法華寺も廃寺となったが、建物は明治5(1872)年に神宮寺学校の校舎として活用。

大正5(1916)年に統合中洲小学校が開校するまで、約50年にわたって初等教育の務めを果たしていた。

法華寺だけが破却されず現存しているのは、こうした歴史があったわけだ。

023

入り口近辺に「神苑 周辺案内図」の看板が立っている。

平成14(2002)年、諏訪市の「おらほのまちづくり事業」で、一帯が「神宮寺神苑」として整備された。

しかし、整備されたのは階段に向かって右側部分だけで、神宮寺本坊などが立っていた左側部分には及んでいない。

諏訪神宮寺が明治維新で破却されるまでの往時の姿が分かるような、そんな整備も期待したいと思う。

再び東参道へ戻ってきた。

前宮へ続く道の先に上社本宮の大鳥居が立っている。

その先に待つ上社前宮へ向かうとしよう。

024
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]33

018

五本杉の間をすり抜けると、山上に向かい細い道が続いている。

先には「信玄公墓碑」の看板があり、その横に風雨で削られた幾つかの小さな石碑。

右側が「武田信玄碑」、左側が「坂上田村麻呂碑」と読める。

武田信玄は諏訪大明神への帰依が篤く、その亡骸は諏訪湖の底に沈められたとの伝説があるほど。

神宮寺に墓碑があっても、なんら不思議ではない。

ただ、吉良義周公のそれとは異なり、あくまでも「墓碑」なのだろうか?

それとも分骨されて諏訪神宮寺に納められたのだろうか?

020

墓碑を後にし、東参道へ向かって伸びる階段を下る。

途中、庚申塚と石灯籠が立ち、その裏手に空き地が広がっている。

この場所には、かつて上社神宮寺の伽藍が広がっていた。

社伝によると神宮寺は空海が創建したと伝わっている。

先出の法華寺に加え、大坊(神宮寺大坊)、上ノ坊(如法院)、下ノ坊(蓮池院)の上社四ケ寺と数多くの坊が軒を連ね、それらを総括するものとして大坊が重きをなしていた由。

大坊は諏訪藩主が上社を参詣する際に必ず立ち寄る場所として、本堂も庫裏も最も大きかった。

御柱祭の折には藩主のために、最も見通しのよい大坊前の石垣上に畳敷の桟敷を設営。

その際は見苦しくないよう、向かい側の民家をサワラ垣で隠したそうだ。

021
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]32

015

鐘楼跡に隣接して普賢堂の跡が広がっている。
諏訪大社上社本宮の神宮寺には本地仏である普賢菩薩が祀られていた。

その中心に立つ普賢堂は本地堂、御堂と呼ばれ、弘法大師空海の建立と伝わっている。
それで空海の手形が残る「人力手石」があったわけだ。

諏訪氏の支族で下伊那郡神之峯城主の知久敦幸が正応五(1292)年に再建。
東大寺の工匠、藤原肥前守の手による九間×六間半(16m×12m)の単層の建築物だったそう。

ここもまた明治政府の廃仏毀釈で破却されたが、本尊は諏訪市内の仏法寺に現存している。

016

普賢堂跡に苔むした六角形の石がある。
これは、かつてここに立っていた銅灯篭の礎石なのだそうだ。

普賢堂跡の南側に杉が4本、一列になって並んでいる。
諏訪市の天然記念物「五本杉」。

この木の下に弘法大師が宝を埋めたという伝説があるそう。
5本あった杉のうち一本が落雷により損傷し、現存しているのは4本なのだ。

017
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]31

時の世論は「赤穂浪士アッパレ!」という風潮だったらしく、幕府も義周をお咎めなしのまま見過ごせなかったのかも知れない。

義周は高島藩四代藩主の諏訪安芸守忠虎へお預けの身となり、高島藩が江戸幕府からの罪人を預かる高島城南之丸に幽閉された。

諏訪藩の義周に対する処遇は丁寧かつ儀礼を尽くしたものだったと伝わっている。
しかし配流から3年後の宝永3(1706)年1月20日、義周は22歳の若さで病死。

幕府による検死の後、同年2月4日に法華寺の裏手、この場所に埋葬された。
家来たちは供養料として金3両を同寺に託して諏訪を去ったという。

赤穂浪士への怨嗟か? 大目付への恨み節か? 諏訪藩への感謝か?
諏訪湖を一望する高台に立つ自然石の墓碑は黙して何も語らない。

坂を下り、法華寺と反対側へ続く道を進む。

この奥には神宮寺の跡が広がっている。
まず最初に広がるのは五重塔が立っていた跡地。

012

8世紀ごろ、全国各地の神社に宮寺として神護寺や神宮寺が創建された。

その創建理論は「救われない神の世界を仏法により救済する」こと。
つまり天皇を頂点とする神道が仏教に救いを求めたことに由来するわけだ。

建立されたのは延慶元(1308)年、下伊那に勢力を持つ知久敦信の手によるもの。
礎石からの高さが十六間一尺四分五寸(29.53m)あったという。

明治政府の廃仏毀釈により五重塔をはじめ神宮寺の伽藍は悉く破却された。

013

五重塔跡の先に鐘楼跡の広場。
この鐘楼もまた知久敦信が寄進したものだ。

大梵鐘には永仁5(1297)年9月の銘があった。
鐘楼の高さは1.5m、周囲4m、口径1.27m、厚さ15cm。

上野国の住人江上入道の作で、その音は遠く塩尻峠まで聞こえたという。

[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]30

010

本堂の横から裏手へグルリと回り込み、坂を登りながらツラツラ考えてみる。

現代でもノンフィクションを色々と脚色してフィクションに仕立て上げる手法はある。
だが、それを〝捏造〟とはいわない、あくまでも〝作り話〟だから。

ならば、たとえ信長が光秀の頭を寺の欄干に打ちすえた話が事実であったとしても、それを光秀が逆恨みして本能寺の信長を襲撃したという部分は川角三郎右衛門の創作ではないか?

なぜなら川角はもちろん他の誰も光秀の本意を確認していない、専門的に言えば「裏を取っていない」からだ。

今から500年近くも前の話だし、それをフィクションだノンフィクションだと騒いだところで詮無い話。

問題は、史実とフィクションをゴチャ混ぜにして区別できていない日本史の状況にあるのではないか?

ドラマや映画などで「川角フィクション」を幾度も再現することで、見る側にフィクションが史実として刷り込まれ、いつしか歴史的事実になっていく。

幸い昨今では、この川角〝怨恨説〟を作り話だとする認識が広まっているようだ。

011

本堂の裏手には先出の吉良義周[よしちか]公の墓が佇んでいる。

吉良左兵衛義周は米沢藩上杉綱憲の次男で、祖父の吉良上野介義央の養子となり、元禄14(1701)年に吉良家を継いだ。

元禄15(1702)年12月14日に赤穂浪士の吉良邸討ち入り、俗に言う「忠臣蔵」に遭遇。

吉良上野介義央は成敗されたものの、幸いにも義周は手傷を負うに止まった。

翌年、評定所から呼び出された義周に待っていたのは、領地没収と身分剥奪。

生き残ったのは赤穂浪士との戦いの最中に負傷し、気絶したおかげ。

ところが大目付は、義周が「死んだふり」をして義央を守らなかったとして「仕方不届」を咎めたのだ。

[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]29

008

創建から更に時代を下ること約750年後の天正10(1582)年3月。
長篠の戦いに敗れて勢力が衰えた武田家を追討すべく、織田家が信濃国に侵攻。

信長の嫡男信忠が諏訪に入り、武田家の拠点となっていた諏訪大明神を焼き討ちし、唯一焼け残った法華寺に本陣を置いた。

追って諏訪入りした信長は3月19日から4月2日まで14日間滞在し、武田家滅亡に対する論功行賞を実施。

「我々も苦労した甲斐がありましたな」
そう宴席で洩らした光秀に信長が大激怒。

「貴様如きに何の働きがあったか! このキンカ頭めが!」
そう叫びながら信長は光秀の頭を寺の欄干に何度も何度も打ちすえたという。

その仕打ちを深く恨んだ光秀は2ヶ月後の6月2日払暁、突如反旗を翻し京都本能寺にて信長を謀殺…というのが歴史上の定説になっている。

(そうか、あの出来事はここで起こったことだったのか…)

過去に映画やドラマで幾度となく演じられてきただけに場面そのものは有名。
だが、ここ諏訪に来るまでてっきり安土城か京都で起こった出来事だとばかり思い込んでいた。

しかし光秀の末裔を称する明智憲三郎氏によると、このエピソードは本能寺の変から40年後に豊臣秀吉の家臣の家臣に過ぎない川角(かわすみ)三郎右衛門が又聞きや覚書をもとに記した『川角太閤記』にあり、真贋の程は定かではないという。

確かに事件の当事者たる信長も光秀も既に亡く、その場にいなかった秀吉の陪臣が40年も過ぎてから、しかも伝聞を集めて書き記したエピソード。

そこには真実を後世に残そうという意識より、史実を読み物として面白おかしく脚色しようとする意識が優先しても不思議ではない。

009
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]28

004

坂をユルユル登っていくと、奥に朱塗りの山門が姿を現した。
往時は途中あたりに上りの仁王門が立っていたという。

法華寺といいながら宗派は日蓮宗ではなく禅宗。
正式名称は「臨済宗鷲峯山法華禅寺」。

創建は弘仁6(815)年、かの伝教大師最澄が開山した由。
最澄といえば比叡山延暦寺の開祖。

最初は法華系である天台宗の寺院だったことから「法華寺」と命名された…ものと思われる(なんせ1200年も前の話だけに推測)。

時は下って鎌倉時代、宗僧の蘭渓道隆が執権北条時頼の帰依を得て禅宗が流行。

諏訪社の大祝[おおほうり]を退位し鎌倉幕府に武士として仕えた諏方盛重が道隆を招き、法華寺を禅宗に改めたという。


006

山門をくぐって境内へ。

何の変哲もない、どこにでもあるような本堂が立っている。
それもそのはず、現在の本堂、実は最近になって新築されたものだ。

元の本堂は明和2(1765)〜4(1767)年、高島藩御用宮大工の伊藤儀左衛門によって建てられた大隅流の代表的建築。

伊藤儀左衛門といえば諏訪大社下社春宮の幣拝殿と左右片拝殿を、弟の村田長左衛門矩重[ともしげ]とともに建立したことでも知られる。

扇垂木の一重軒で内陣は格天井(ごうてんじょう)、その下は見事な鏡板になっていたという。

しかし平成11(1999)年7月27日未明、放火により本堂と庫裏が残念ながら消失。
平成17(2005)年5月、本堂と庫裏ともに再建なり現在の姿となった。

本堂の前に立ち、賽銭を投じ手を合わせる。
かつて、ここで日本史を揺るがすような事件があったことを匂わせる縁など微塵もない。

007
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]27

001

残る最後の宮、諏訪大社上社前宮へ向かうため、再び上社本宮の東参道へ。
正面に伸びる鎌倉西街道を進めば上社前宮にたどり着くだろう。

だが、その前に右へと続く緩やかな坂を登る。
すぐ目の前に小さな祠があり、その前に看板が立っている。

吉良上野介義央養嗣子(孫)
吉良左兵衛義周公ここに眠る。
吉良町

002

吉良上野介といえば「忠臣蔵」の仇役としておなじみ、日本史上指折りの悪役。
その孫、義周[よしちか]がここに葬られている。

しかも吉良家発祥の地、愛知県吉良町(現・西尾市)の建立。
だが、実際の墓地はここではない。

もっと山の上、奥深いところに義周は眠っている。
それにしてもなぜ、郷里から遠く離れたここに葬られているのか?
その理由は追い追い触れていくことにしよう。

祠の横には大きな案内図。
かつて現在地から東南一帯には神宮寺の伽藍と塔頭が林立していた。

しかし明治維新直後の神仏分離令により仏教的要素は“毀釈”。
現在では法華寺だけがひっそりと佇んでいるのみだ。

003
[旅行日:2020年01月10日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]26

諏訪上本45高島城4

2階の資料室を見学しながら諏訪藩の歴史について学ぶ。

まず、領主は諏訪氏なのに、なぜ高島城は日根野高吉が築城したのか?

天正18(1590)年、領主だった諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に伴い武蔵国へ付き従ったのが、その理由。

後釜に豊臣秀吉の家臣だった高吉が転封し、2万7千石を以って諏訪の領主に。

高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。

転封の翌年、天正19(1591)年には既に城地の見立てと設計を終えていたそう。

文禄元年(1592)に着工し、慶長3(1598)年まで7年ほどかけて築城したという。

高吉は本丸に三層三階の望楼型天守を建造。

天守をはじめ主要建造物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことが特徴だ。

湖畔のため地盤が軟弱で重い瓦が使えなかった、寒冷地の諏訪で瓦は凍って割れてしまうから…などと言われているがハッキリした理由は不明の由。

その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)が慶長6(1601)年、家康の恩恵で旧領の諏訪へ再転封となり諏訪氏が藩主に返り咲く。

以後、諏訪氏は10代藩主忠礼に至るまで270年間にわたり諏訪の領主に君臨したという次第。

諏訪上本26-3高島公園

高島城は明治4(1871)年、新政府の意向により破却が決定し、同8(1875)年に撤去が完了。

翌9(1876)年に本丸跡が高島公園として一般に開放された。

3階へ上がり、展望台から諏訪の街を見渡してみる。

諏訪湖と幾つかの川に囲まれ、水を防御の盾とする難攻不落で名を馳せた高島城。

遠く離れた諏訪湖畔との間に広がる諏訪の街並みを眺めていると戦国戦乱の匂いなど微塵もなく、時おり吹き抜ける柔らかな風が平穏な歴史を感じさせてくれる。

諏訪上本26-4諏訪市街

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]25

諏訪上本25-1丸高

並木通りは正面に突き当たると右に折れ、暫く進むと今度は左へ曲がる。

このようなクランク状の道筋は縄手の時代からあったもの。

敵兵の侵入を防ぐためにあり、諏訪に限らず城下町ではよく見かける。

2番目の角のあたりに藩政時代は大手門が立ち、その先にある衣之渡[えのど]郭から城郭になる。

衣之渡川を渡ると「丸高」という巨大な味噌蔵があり、その前に「三之丸跡」の解説板が立っている。

味噌のナショナルブランド「神州一」は、ここが本店で、寛文2(1662)年に酒造業を始めたのがルーツ。

ちなみにその酒蔵とは今も諏訪を代表する銘酒「真澄」の蔵元、宮坂醸造のことだ。

諏訪上本25-2三之丸湯

中門川(藩政時代は三之丸川)を渡ると二の丸跡。

だが藩政時代の建物は殆ど残っておらず、現在では普通の住宅が立ち並んでいる。

道の正面に石垣が見え、やがて高島城の天守閣が姿を現した。

このように北から南へ廓が一直線に並んだ形式を「連郭式」と呼ぶそうだ。

堀をまたぐ冠木橋を渡り、冠木門をくぐるとかつての本丸に出る。

昨夜、月光に照らされて乳白色に包まれていた天守閣、今は小糠雨の中でしっとりとした壁肌を晒している。

諏訪上本43高島城2

本丸の北西にポコリという感じで突き出した天守閣は、昭和45(1970)年5月に再建された復興天守で、屋根は瓦でも柿でもない銅板葺き。

城内はコンクリ天守によくある資料館で、幾ばくかの入場料を支払い入“城”する。

1階は「郷土資料室」と「企画展示室」。

2階は「築城」「藩主」「藩士」「藩政」とテーマごとに遺品や資料を展示する「高島城資料室」。

3階も「高島城資料室」と、外側が展望台になっている。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]24

諏訪上本23-2天守閣

南西の角を曲がり、西側の縁を北へ向かって歩く。

相変わらず堀はなく、どんどん石垣も低くなり簡単によじ登れる程度にまでなった。

なぜ高島城本丸は北側と東側にしか堀がないのか?

その理由は単純で、南側は最初から堀がなく、道路を挟んで武家屋敷が続いていたから。

西側は本丸ギリギリまで諏訪湖畔が迫り、天然の堀の役割を果たしていたため。

今でこそ西側は広大な土地が続いているが、これは江戸時代に干拓されたためで、南側と西側には築城当初から堀などなかったのだ。

再び天守閣の麓へ戻ってきた。

見上げれば天守閣は頭上に煌々と輝く月光を浴び、柔らかな乳白色に包まれている。

ちょっと一杯やりたくなり、再び「縄手」へ足を向けた。

諏訪上本42高島城1

翌朝、出立の前にホテルで朝食を摂る。

よくあるバイキングではあるが、並んでいる料理の種類が豊富だし美味。

昨夜の天然温泉もそうだが“企業城下町”のビジネスホテルはサービスが充実している。

昔は諏訪氏の城下町、今はセイコーエプソンなど精密機械産業が集積した“企業城下町”。

ビジネスマンをリピーターとして取り込むためにはサービス面の充実が欠かせないというわけか。

この傾向は伊勢一宮椿大神社が鎮座し、ホンダや旭化成の大工場が立ち並ぶ三重県鈴鹿市でも体験したことだ。

これからホテルを出て上社本宮を再訪するのだが、その前に諏訪高島城まで歩いてみる。

薄曇りで小雨が時折パラつく中、かつての「縄手」こと今の「並木通り」を散策。

宵闇の中で見た、街路樹の梢がライトアップされた幻想的な光景も素敵だったが。

朝露に彩られて静かにマイナスイオンを放出し続ける姿もまた、美しい。

[旅行日:2016年12月12〜13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]23

上諏訪駅の南側から高島城方面に向かって「並木通り」という道が通っている。

車道こそ上下1車線ずつだが両脇に街路樹、その外側に歩道と道幅そのものは広い。

この道は諏訪藩政時代に「縄手」と呼ばれた、高島城と甲州街道を結ぶ唯一の道。

その面影には風格があり、江戸時代以来の歴史が木々の梢から降り注いでくるようだ。

鍵手を折れ曲り、細い川を渡り、二之丸の跡を通り抜けると、正面に高島城が姿を現した。

しかし天守閣に入館できる時間は既に過ぎ、今宵は堀端をグルリと周回するのみ。

まずは東の市役所方面へ向かい、時計回りに一周してみる。

諏訪上本23-1天守閣

高島城は慶長3(1598)年に豊臣秀吉の家臣、日根野織部高吉[ひねのおりべたかよし]により築城された。

当時この一帯は諏訪湖に突き出た島状の土地で、地名も「浮島」と呼ばれていたそう。

高吉は漁業を営んでいた村落を丸ごと移転させ、城を築いたという。

北東角の交差点から南へ向かう。

本丸の敷地は縦長の長方形で、それほど広くもないので散歩するには手頃な大きさ。

石垣に高さは無く勾配も緩やかで、石の積み方もキッチリしておらず隙間だらけ。

築城当時、城の周囲は湖水と湿地に囲まれ、諏訪湖面に浮かぶように見えたことから別名「諏訪の浮城[うきじろ]」と称されていた。

裏を返せばそれだけ地盤が脆弱だったわけで、あまり強大な石垣が築けなかったのも頷ける。

ちなみに諏訪高島城は松江城、膳所城とともに「日本三大湖城」のひとつに数えられているそうだ。

南へ向かううち、そこそこ幅のあった堀が次第に狭くなっていく。

南東角の交差点を西へ曲がると、ついに堀は姿を消してしまった。

本丸南側の縁が堀から道路になり、その外側に一般の住宅が立ち並んでいる。

堀が埋め立てられて道路にされたのだろうか?

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]22

それらを眺めながら緩やかな勾配を東参道に向かって歩くうち、勅使殿の裏側に聳える巨木の存在に気がついた。

境内で最古の樹木のひとつ「大欅[おおけやき]」。
樹齢なんと一千年! 諏訪市の天然記念物にも指定されている。

昔は贄[にえ](神への捧げる物)や御狩[みかり]の獲物(お供え物)を掛けて祈願したことから「贄掛けの欅」とも呼ばれていたという。

樹齢千年といえば信長の焼き討ちをも凌ぎ生き残った計算になる。
諏訪大社の生き証人ともいえる大木の聳立を眺めていると、たかだか百年にも満たない人間の寿命など如何に儚いものか…との囁きが聞こえてくるかのようだ。

諏訪上本22-1大欅

勾配を上り切り、再び東参道口へ戻ってきた。
既に陽も傾き、一帯は逢魔時に特有の胸をザワつかせる不安感に満ちている。

宵闇に包まれ始めた境内の外周道路をグルリと回り込み、博物館前のバス停へ。
その前に北参道の先にある「宮町通り 社乃風[やしろのかぜ]」へ立ち寄ってみた。

以前あった門前町を壊して人工的に造営された商店街。
信州の物産を中心としたお土産品や食事処が立ち並んでいる。

だが閑散期で平日で逢魔時とあっては開いている店も殆どない。
冷やかす状況にすら至らないまま社乃風を後にして、市内へ戻るバスに乗った。

諏訪上本41社乃風

すっかり陽も落ち、車窓からは暗闇の中で時折ネオンの灯りが遠くで瞬くのが見える。
次第に灯りの割合が増え始め、暗闇が消えた頃に上諏訪の駅に到着。

西口のビジネスホテルに戻り、最上階にある天然温泉に身を沈めて心を落ち着かせる。
上諏訪もまた温泉場であり、大小さまざまな温泉宿が諏訪湖畔に軒を連ねている。

ビジネスホテルが天然温泉を備えているのもまた、宜なるかなだろう。
ノボせる前に風呂場を後にし、夜風に当たろうと街へ出た。


[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]21

諏訪上本36筒粥殿

天流水舎の右横に簡易な木柵で囲われた正方形のスペースがあり「上社筒粥殿跡」と表示されている。

筒粥殿といえば「筒粥神事」を行うための社殿。

下社春宮にもあり、そちらで「筒粥神事」の詳細は既述している。

上社本宮には跡地しかなく、現在「筒粥神事」は下社春宮でのみ行われている。

ということは、かつては上社本宮でも行われていたということか?

だとしたら、上社と下社は各々独立した神社だったということか?

四宮が「諏訪大社」の名のもとに統合された折、筒粥神事は下社春宮に一本化されたのだろうか?

諏訪上本50勅使殿

天流水舎から石段を挟んだ隣側に高低二つの建物が並んで立っている。

名称は高い方が勅使殿、低い方が五間廊といい、両者は繋がって一体化している。

勅使殿は元和年間(1620年)頃の建立で、後に改築されたものが現存。

中世の記録には「御門戸屋」「帝屋」とも記されている。

朝廷からの勅使が着座した場所だったことが名称の由来で、様々な神事が執り行われたものと思われる。

建武2(1335)年に大祝が即位した神事の記録によると、御門戸屋に敷いた布の上に五穀を供え、そこへ大祝が着座したと記されている。

当時の勅使殿は現在の神楽殿の前あたりにあり、拝殿の性格を持っていたようだ。

一方の五間廊は安永2(1773)年に建てられ、こちらも後に改築。

こちらは勅使参詣の際に神長官以下の神職が着座した建物と伝わっている。

諏訪上本48五間楼

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]20

諏訪上本31神楽殿

建立は文政10(1827)年で、現在は諏訪市の指定文化財。

往時は太々神楽や湯立神事が毎日行われていた記録が残っている。

だが、それらの神楽は残念ながら今に伝わっていない。

諏訪上本20-2大太鼓

袖から中を覗いてみると、これまた舞台の上には巨大な太鼓が威容を誇っている。

奉納されたのは神楽殿の建立と同時というから江戸時代か。

胴は樽と同じ製法の「合わせ木作り」で、堂々たる神龍が描かれている。

皮は牛の一枚皮が用いられ、直径1m80cmは一枚皮として日本一の大きさとか。

ただ、連日連夜こんなデカ大鼓を打たれたら周辺住民は堪ったものではない。

そのせいか、現在は元日の朝にのみ打たれているそうだ。

それにしても、ここまで特徴的な太鼓を吹きさらしの神楽殿に置きっ放しというのは勿体ない話。

恒久的な専用太鼓櫓を組み上げテッペンに据えれば、新たな名物が一つ加わると思うのだが。

諏訪上本33神楽殿門

神楽殿と土俵の間から境内の外へ小さな石段が通じている。

そこに立っているのは鳥居ではなく冠木門、注連縄もシンプルな前垂注連だ。

古地図には大昔このあたりに「拝所御門屋」があったとの記録がある。

また、近くには延べ百二十間(約220m弱)にも及ぶ廊下があり、そこから参詣者は御山(神体山)を拝していたという。

幣拝殿のところに登場した下壇「厳の拝所」とは、この長廊下のことと思われる。

拝所御門屋から入って境内を突っ切れば、勅使門へ続く石段に行き当たる。

その横には屋根に煙突のようなものが付いた、妙な形状をした建物の姿。

「天流水舎」、俗に「御天水」とも。

どんな晴天の日でも建物の中に雫が入り、「宝殿の天滴」と共に中の井戸へ溜まると伝わっている。

雨乞いの折、この御天水を青竹に入れて持ち帰り、神事に用いると必ず雨が降るそう。

今なお近郷近県から祈願の依頼があるが、途中で休むとそこで雨が降るので昔は若者たちがリレー式に運んだとか。

また、この御天水は天竜川の水源とも言われている。

なんとも気宇壮大な言い伝えだ。

諏訪上本35天流水舎

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]19

諏訪上本30清祓池

旧社号標の隣に「清祓池」という小さな池が広がっている。

毎年6月30日に夏越の祓をし、半年間の罪穢を祓い清め、後半の無事息災を祈るという。

池の真ん中には「宮嶋」という小島があり、鶴の像が口から水を噴き出している。

池の手前側、地面に空いた丸く小さな穴が柵で囲われている。

「五穀の種池」という小さな池で、毎年春になると種籾を浸し、その浮き沈みによって豊凶を占う。

現在でも近郷農家の人々に親しまれているそうだ。

諏訪上本29雷電

旧社号標と清祓池の間に堂々とした力士像が立っている。

信州が生んだ江戸中期の強豪大関、雷電為右衛門[らいでんためえもん]像。

諏訪大神に正対して拝礼の誠を捧げている姿が描かれている。

茅野市出身の彫刻家、矢崎虎夫氏が文部大臣賞受賞を記念し、昭和41(1966)年10月に奉納したものでモデルは横綱柏戸の由。

日本人が総じて小柄だった江戸時代、雷電は6尺6寸(197cm),45貫(169kg)という飛び抜けた巨漢だった。

その怪力ゆえに張り手、鉄砲(突っ張り)、かんぬきの3手を禁じられたという伝説が残っている。

「清祓池」の右側に大きな神楽殿、その右隣には土俵。

諏訪大神の起源が建甕槌神と建御名方神の国譲りを巡るガチンコ対決にあるせいか、昔から力の強い神様として信仰を集めてきた。

とりわけ相撲との関係が深く毎年相撲神事が行われ、多くの力士が参拝しているという。

土俵の隣に入母屋造の神楽殿が立っている。

一之宮クラスの大きな神社に神楽殿は付き物だが、これほど巨大なものは見たことがない。

下社両宮の神楽殿は四方を壁と扉で覆われていたが、ここは柱だけで扉も壁もなく吹きさらし。

神楽殿というより能舞台のような佇まいさえ感じられる。

諏訪上本32土俵

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]18

諏訪上本15北参道正面

また、同風土記には「伊賀の穴石神社に坐す神は出雲の神の子、出雲建子命[いずもたけこのみこと]、又の名を伊勢都彦命、又の名を櫛玉命」との記述もある。

さらに本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢津彦は建御名方神の別名」とまで記している。

出雲を追われた建御名方神は先ず伊勢へ逃げるも、そこへも攻め込まれ遂には諏訪へ去って行ったという。

一体、建御名方神とは何者なのか? 

なぜ、最後に落ち着いた先が諏訪だったのか?

建御名方神の名が古事記にのみ現れ、日本書紀に登場しないのは何故か?

伊勢津彦の存在と何か関係があるのか?

考古学者でも何でもない一介の旅行者としては、建御名方神の正体が誰かを突き止めることにさしたる意味を感じない。

むしろ建御名方神が出雲から伊賀、伊勢、そして信濃へと流転していく過程から、古代日本が形成されていくロマンを感じ取ることに、よほど興味をそそられる。

こうして日本中の一之宮を巡っていると、教科書に綴られた通り一遍の歴史とは全く異なる歴史が、表からは見えない地下深くで幾層にも折り重なっていることに気付かされる。

そうした歴史が僅かながら顔を覗かせる、地表に生じた亀裂…それが一之宮なのだと思う。

諏訪上本16明神湯

再び境内に戻り狛犬の裏手にある手水舎の、さらに裏手にある「明神湯」へ。

これもまた手水舎なのだが下社秋宮と同様、流れ出る水が温泉なのだ。

「明神湯」こそが諏訪温泉郷の源泉とも伝わり、昔から諏訪明神と所縁があるという。

手水社の裏側に戦前の社号標が立っていた。

明治政府の近代社格制度で諏訪大明神は官幣大社諏訪神社となった。

しかし戦後、近代社格制度が廃止されるとともに旧社号標の「官幣」も消えて無くなった。

諏訪上本28旧社号標

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]17

諏訪上本47社号標

西参道から境内の外側をグルリと回り込んで北参道側の正面に出る。

どデカイ社号標には太々と刻まれた「諏訪大社本宮」の文字。

諏訪大社に四宮ある中、我こそが“中心”だと主張しているかのよう。

右隣に立つ石造りの巨大な明神鳥居を眺めつつ、諏訪大神の正体について考えてみた。

もちろん主祭神は建御名方神だが、神橋のところでは全く関係なさそうな甲賀三郎が出現。

建御名方神の背後には別々の“神々”が幾つも、まるで影のようにチラチラと姿を伺わせているのだ。

中でも、特に伊勢津彦[いせつひこ]について触れないわけにはいくまい。

伊勢津彦とは「伊勢国風土記」逸文に登場する豪族。

神武天皇の東征に付き従っていた天日別命[あめのひわけのみこと]が伊勢国へ攻め入った際、そこを支配者していた国津神のことだ。

天日別命が伊勢国を天孫に献じるよう迫ると、それを伊勢津彦は拒否。

天日別命が大軍を率いて再び脅迫すると、今度は承服した。

伊勢を去る証を示すよう言われると「大風を起こして海潮を吹き上げ、大波に乗って東国へ行く」と返答。

本当か否か天日別命が様子を窺っていると、深夜近くなって突然強風が吹き始めて波飛沫が舞い上がり、伊勢津彦は光輝く中を波頭に乗って東へ去って行った。

ちなみに「神風の伊勢国、常世の浪寄する国」という古語は、これに由来している。

この逸話、古事記に出てくる出雲の国譲り、武甕槌神との力競べに負けて洲羽(諏訪)へと追いやられた建御名方神の神話とオーバーラップして見える。

なお、天日別命は伊勢津彦を放逐した後、伊勢を統治。

皇太神宮(伊勢神宮内宮)の大神主、伊勢氏の祖になったと伝わっている。

諏訪上本61大鳥居

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]16

諏訪上本60高島神社

祈祷所の隣に鎮座しているのは高島神社。

その社号は、もちろん諏訪高島藩に由来する。

祭神は江戸時代の初期に高島藩を再興させた藩主三代。

藩祖の諏訪頼忠、初代藩主の頼水、二代目藩主の忠恒を祀っている。

諏訪氏は諏訪大神の子孫で上社最高の祀職「大祝[おおほうり]」を務めた後、藩主として諏訪地方を治めることになった。

こうした祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴なのだそう。

高島神社から西へ進むと社務所があり、ここで御朱印を賜る。

「これから前宮へは行かれますか?」
「いえ、あす参詣します」

なぜ巫女さんから前宮への参詣について尋ねられたのか?

その理由は前宮へ行った際、明らかとなる。

諏訪上本25波除鳥居

社務所と蓮池に挟まれた西参道を進むと木製の巨大な両部鳥居があり、ここで境内が尽きた。

「波除鳥居」といって諏訪大社唯一の木造鳥居。

昭和15(1940)年、皇紀2600年祭の折に建て替え。

平成21(2009)年に全面解体修理を行い再建立された。

「波除」の名の通り、この鳥居が最初に建立された当時は、ここまで湖畔が迫っていた…らしい。

上社本宮に大きな鳥居は幾つかあるが、この波除鳥居一之鳥居なのは、その証しだろう。

かつては神仏混淆の「諏訪大明神」として崇められてきた諏訪大社。

明治政府の廃仏毀釈で仏教的な要素が一掃された今となっては、この波除鳥居だけが明神時代の名残と言えるかも知れない。

波除鳥居を出てすぐ左手に細い坂があり、登っていくと質素な石段と鳥居、その上に小さな祠が鎮座している。

この末社もまた、大国主命社だった。

なぜ境内外に一つずつ鎮座しているのか、その理由は分からない。

社号は同じ「大国主命社」でも、それぞれに祀られている神は違うのかもしれない。

諏訪上本26西摂末社

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]15

諏訪上本21四御柱

参拝所を後にして戻ろうとした時、先ほど通り過ぎた塀重門が目に止まった。

柵の上から外側を眺めると門の先には石段が続き、その直線上に北参道が伸びている。

後ろを振り返ると梶の木があり、その遥か向こうには四の御柱。

四の御柱から梶の木、塀重門、そして北参道と一直線上に並んでいることに、何か意味があるのだろうか?

塀重門前の石段を降りると右側に一の御柱。

長さ55尺というから16.6m強ぐらいか。

諏訪上本27一御柱

その真後ろに巨大な岩が横たわっている。

諏訪七石の一つ「御沓石」。

真ん中の凹んだところが、諏訪大神の踏んだ足跡とも神馬の足跡とも伝わっている。

その奥、ちょうど玉垣の角ところに一本の石柱が立っている。

天保6(1835)年、国学者の宮坂恒由が建立した「天の逆鉾」だ。

恒由翁の本業は諏訪の酒蔵「酒ぬのや本金」の三代目当主。

諏訪地方の名産品、蜆の稚貝を諏訪湖に初めて放流した人物としても知られる。

天の逆鉾には翁自身の字で、こう刻まれている。

「神力残石上」
「たまちはふ 神のみくつの あととめて このとこいわの いくよへぬらむ」

特に酒の宣伝をしているわけでもなく、何を目的に建てたのか今ひとつよく分からない。

天の逆鉾の上に多数の小石が載っている。

運勢を占うために投げられたものだとか。

一度で石が乗れば大吉、願い事が叶うそう。

一の御柱と石段を挟んで反対に立つのは交通安全祈祷書。

建てられたのは昭和47(1972)年と、つい最近のことだ。

諏訪上本59交通

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]14

諏訪上本23拝幣殿

参拝所と拝殿の間は「斎庭[ゆにわ]」と呼ばれる広い空間で、特別の場合以外は立入禁止。

だが参拝所の横には腰の高さぐらいの斎垣があるだけなので、斎庭には入れないが拝殿の姿は存分に拝むことができる。

拝殿に向かって左側が右片拝殿、その左側に先ほど参拝したご宝殿が立っている。

一方の右側を左片拝殿と呼び、更に右側の山を背にした建物が脇片拝殿。

その屋根の上に石が乗っている。

諏訪七石の一つ「硯石」。

表面が凹状で常に水を湛えていることが名称の由来という。

鎌倉時代の古い神楽歌にある一節。

 大明神は 石の御座所に おりたまう
    みすふきあげの 風のすゝみに

つまり、この硯石の上に諏訪大明神は御出現なられたと伝わる由緒深き御石なのだ。

なお、古の記録には御諏訪様が御出現なられた斎庭一帯を上壇、玉の御宝殿を中壇、厳の拝所が下壇と記されている。

拝殿の造りは下社秋宮のそれと似ている。

それもそのはず、いずれも手がけたのは同一人物なのだ。

現在の建物は二代目立川和四郎富昌が、江戸時代末期の天保2(1831)から9(1838)年まで8年の歳月を要し、次男の富種や地元神宮寺の宮大工、原五左衛門と共に建立したもの。

立川流の代表的建築物として知られ、とりわけ片拝殿の彫刻「粟穂と鶉[うずら]」「笹に鶏」は富昌の代表作として近代彫刻史に光彩を放っている…そう。

また、拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われている…そう。

なにせ近付いて眺めることができないので、解説文を丸写しするしかない。

ここで諏訪立川流の立川和四郎親子について触れておきたい。

初代和四郎は諏訪高島藩に仕えていた桶職人、塚原泰義の長男。

13歳の時に江戸へ出、本郷竪川(立川)町に住む幕府の御用大工、立川小兵衛富房に弟子入り。

後に立川姓を許され、親方から“富”の一字を貰い、和四郎富棟を名乗ることに。

21歳の時に諏訪へ一度帰るも、彫刻を学ぶため再び江戸へ。

中沢五右衛門の下で宮彫りを修得し、30歳の頃に帰国。

上諏訪で「中沢屋」という屋号の建築請負業をスタート。

富棟は下社秋宮の竣工後、上社本宮の造営に終生の心血を注ごうと京都へ。

上賀茂神社などの社殿を研究して歩いたが、不慮の事故に遭い64年の生涯を閉じた。

上社の造営は二代目の和四郎富昌が継承。

富昌の代になると立川和四郎の名声は全国に轟き、関東から近畿にかけて数多くの仕事を残している。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]13

諏訪上本19.5梶の木

勅願殿の手前にある桑科の植物は、諏訪大社の御神紋の原木である梶の木。

御神紋は葉が3枚出ていることから3本梶とも呼ばれる。

上社は4本、下社は5本と足の数で上下社を区別している。

全国に散在する分社の大半は一本梶、つまり葉の部分のみで1本足の社紋を用いている。

梶の木からクルリと背後を振り返れば、目の前には荘厳な拝殿が立っている…のだが。

上社本宮では拝殿の前にもうひとつ、参拝所が控えている。

諏訪上本22参拝所

横4×縦3の計12本の太い柱が巨大な屋根を支えているのだが、真ん中の柱間に張られた垣根の扉が閉ざされ、奥の拝殿に近づけない。

参拝客の多い日には扉が開放されて拝殿から直に参拝できるのだろうか?

上社本宮の社殿は守屋山の山麓で中部地方唯一ともいわれる原生林、約500種類の植物が群生する10万坪の社叢の中で包まれるように鎮座。

拝殿の奥にある御山を御神体「神居」として奉っている。

大和一宮大神神社と同様、古神道の信仰形態を今に伝えているのだ。

上社本宮の建物は一種独特の形式を備えた諏訪造りの代表的存在。

昔は極彩色で結構ずくめの社殿だったそうだが、天正10(1838)年に織田信長の軍勢が放った兵火で一切が灰燼に帰したという。

天正12(1584)年に諏訪頼忠が造営に着手して仮殿を建立。

元和3(1617)年に頼忠の子で初代諏訪藩主の頼水が地元の宮大工に命じて再建させた。

その建物は嘉永年間、今の富士見町にある乙事諏訪神社[おっことすわじんじゃ]に移築。

現在、桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されている。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]12

諏訪上本17塀重門

長らく歩いて来た布橋にも、ようやく出口が見えてきた。

トンネルを抜けた先に門があるも柵が立てられ中に入れない。

塀重門[へいじゅうもん]といって文政12(1829)年の建立。

造作も簡素だし、塀の真ん中に便宜的に開けられた門なのだろうか?

その更に先で、ようやく口を開けた門に行き当たる。

こちらは入口門といい、塀重門と似ているが造りは更に簡素。

北参道と一直線上に位置している塀重門が正門で入口門は文字通り「通用門」なのだろう。

諏訪上本18入口門

中へ入ると正面にあるのが宝物殿。

奈良の正倉院を模した建物で、代々伝わる宝物を保管、展示している。

ただ、入り口の前に置物が立ちはだかり、自由に出入りできない。

入館無料だが中へ入るには社務所へ申し込む必要がある由。

閉館も間近だし日も暮れてきたので今回はスルー。

諏訪上本19宝物殿

ちなみに保管・展示されているのは名刀「梨割の太刀[なしわりのたち]」や、武田信玄が戦の折りに鳴らしたと伝わる宝鈴[ほうれい]等。

宝鈴とは鉄鐸[てったく]6個を一組にした神鈴で別名サナギの鈴、御宝鈴とも。

本来は神のものという考えから神と人との間を結ぶ特別な時、つまり祭事にしか鳴らされなかったそうだ。

このほか、江戸時代の御柱[おんばしら]の模様を描いた全長32mもある絵巻があり、その部分が見られるように展示してあるという。

宝物殿の左隣には勅願殿という大きな建物が立っている。

元禄3(1690)年に諏訪高島潘によって建立され、現在の建物は安政年間に修理したもの。

昔は行事殿とも御祈祷所とも呼ばれ、調停や諸侯の祈願などが行われていたそう。

諏訪上本20勅願殿

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]11

諏訪上本13大国主

その隣にある小さな御社は大国主命社。

社号の通り建御名方神の父、大国主命が祀られている。

そういえば宿敵の建甕槌命を祀っている常陸一宮鹿島神宮にも大国主命社があったのを思い出した。

大国主命社の隣には同じデザインをした小さな建物が二つ、左右に並んで立っている。

ここが上社本宮で最も重要な神殿とも言える御宝殿[ごほうでん]。

手前が東御宝殿、奥が先日の御柱祭で新築された西御宝殿。

伊勢神宮は遷宮ごとに本殿を建て替えるが古い本殿は取り壊される。

それに対して諏訪大社は古い御宝殿も残しているため、御殿が二つ並び立っているわけだ。

諏訪上本58御宝殿

中には御諏訪様の御神輿が納められており、一般の神社なら本殿に相当するそう。

だとしたら、これほど間近に本殿を拝める神社は珍しいのでギリギリまで近寄って見る。

今まで参詣した他の一之宮のうち、本殿が玉垣などで仕切られていなかったのは摂津一宮住吉大社ぐらい。

とはいえ諏訪大社は本殿を持たないのが特徴であり、あくまでもここは「宝殿」だ。

その屋根は茅葺きで棟木の端に千木と鰹木らしきものが設えてある。

ただ、千木は棟木より上に突き抜けておらず、鰹木も両端の2本だけと神殿の様式は満たしていない。

この屋根からはどんなにカラカラ天気の時でも最低3滴は水滴が落ちると伝わっている。

これは「宝殿の天滴」といって諏訪七不思議のひとつに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される説の根元にもなっている。

諏訪上本38四脚門

二つの御宝殿の間に小さな建物が立っている。

「勅使門」とも「四脚門」とも呼ばれる、こじんまりとした門。

布橋を挟んだ反対側に続く石段を降りると眼前に神楽殿、その先に境内の外へ出る石段。

ここを通ると遠回りせず最短距離で拝殿にアクセスできる。

昔は偉い人が参拝する際、この門を利用して拝殿へ向かったのだろう。

勅使門は天正10(1582)年に兵火で焼失したが、慶長13(1608)年に再建。

徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家安泰を祈願し造営寄進したそう。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]10

諏訪上本10東入口門

参道に戻ると両脇に石灯籠を従えた立派な門の奥に、屋根が葺かれた廊下が延々と続いている。

この門は「入口御門」といって文政12(1829)年の建立で、棟梁は地元の宮大工、原五左衛門。

門を見上げると冠木に施された彫刻は微に入り細を穿ち、まさに見上げたものだった。
奥に続く廊下は約70m、三十八間もある。

明治維新までは上社の大祝のみが通った所で、その時に布を敷いたことから布橋[ぬのばし]という名称が付いている。

現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人たちが自分の手で織り上げた布を持参して、神様(神輿)の通る道筋に敷くことを例としている。

諏訪上本12絵馬堂

布橋を進むと左手に絵馬が掲げられた「額堂」がある。

これも文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を納めた絵馬堂だ。

戦前までは布橋にも無数に掲げられていたそうだが、今では整理され一枚もない。

額堂の前には柵が置かれ接近して見ることはできないが、絵馬の古さは遠目からでも分かる。

額堂と廊下を挟んだ反対側に本宮二の柱が聳立。

太い綱で引き摺られながら運ばれるため、道路に接する面が摺り減っている。

曳綱は村中の人々が藤蔓や藁縄を用いて総出で作る。

最も太い「元綱」を柱につけ、細い綱を順次つなげていく。

元綱は柱によっても異なるが120〜130mから200〜300mにも及ぶ。

それに小綱をつけて御柱は遥々と引き摺られていくわけだ。

諏訪上本57摂末社

額殿の隣には摂末社遥拝所という細長い建物があり、これもまた文政年間の造営。

特に上社と関係が深い摂社や末社の神号殿で合計三十九の社号を掲げており、昔は「十三所遥拝所」とも呼ばれていた。

現在大社の摂末社は上社関係が42社、下社関係が27社あり、明治以降独立した関係摂末社まで合わせるとその数は95社に及ぶ。

上下四社の境内をはじめ郡下に点在しているが、その摂末社を朝夕ここから遥拝しているそうだ

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]09

諏訪上本09東二鳥居

「蛙狩神事」とは、この昔話を後世まで伝えるためにに様式化された儀式ではないか?

蛇と蛙と昔話を結びつけて勝手に想像したに過ぎないので裏付けなど一つもないが、そう思えてならない。

一方、動物愛護団体のアピールには、神様の「食べ物に感謝の気持ちを忘れるな」という宗教的な教示が微塵も感じられない。

毎日のように肉だ魚だと食べながら、一方で「蛙を殺すな」と主張する。

多分この辺りが空虚に感じられる理由なのだろう。

毎年生贄になってきた蛙に敬意を表しつつ橋を渡った。

諏訪上本56出早社

鳥居をくぐると左側すぐのところに摂社が鎮座している。

出早社[いずはやしゃ]といって上社の地主神「御諏訪様」の門番を務める神様。

祭神は諏訪大神の御子、神出早雄命[イズハヤオノミコト]。

古くから「疣[いぼ]神様」として信仰を集め、小石を捧げて疣の快癒を祈る風習があるそう。

背後をクルリと振り返れば、出早社の反対側に神馬を納める「駒形屋」が立っている。

諏訪湖に御神渡りが出来た朝、御神馬の身体中が汗で濡れていた。

これを見た付近の住人は「御諏訪様は御神馬で湖上を渡られるのか!」と驚き慴[おそ]れたと、中世の記録に残っているそう。

現在のように生きた馬ではなく木馬を祀るようになったのは明治時代以降のこと。

明治27(1894)年7月、大風で倒れた欅の大木が神馬舎を直撃、倒壊してしまった。

しかし御神馬は10mほど前に跳ね飛び出たため全くの無傷。

時あたかも日清戦争の真っ只中でもあり、地元では「御諏訪様は御神馬に乗って出陣された」と伝承されているそうだ。

諏訪上本11駒形屋

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]08

諏訪上本55

諏訪大社の起源に関わる甲賀三郎が蛇の化身なら、蛙を生贄に差し出すのも理に適った話。

そもそも蛙といえば蛇の大好物(?)として知られるが、それは何故か?

「蛇と蛙」という昔話によると次の通り。

昔々、神様が天地を創造したばかりの頃。

生き物たちは食事という行為を知らず、朝露ばかり飲んで暮らしてた。

そんなある日、朝露に飽きた蛙が不平を抱き、他の生き物たちも同調して毎日ダラダラと過ごすようになった。

その様子を見た神様は「明日みんなの食べ物を決めてやろう」と宣下。

足の遅い虫や蛇たちは夜も明けきらない早朝から神様の広場へ向かって出発した。

ところが寝坊した蛙は最後発となり、モノ凄い勢いで皆んなの後を追い駈けることに。

途中、足の遅い蛇に追いついた蛙は踏んで蹴って嘲って、終いには「俺の尻を舐めてみろ」と散々ぱら馬鹿にする始末。

ようやく広場に全ての生き物たちが集まったところで、神様は各々に相応しい食べ物を次々と決めていった。

蛙が「簡単に食べられるものが良い」と主張したところ、神様は「ならば虫を食べるがよい」と決定。

次に蛇の番が来ると、蛙が「蛇は役立たずだから役に立たない食べ物でいいよ」と口を挟んできた。

すると神様は「ならば蛇は蛙を食べるがよい」と言い渡した。

「生き物を食べて生きるという事は、自分も食われるという事。食べ物に感謝の気持ちを忘れるなよ」

そう神様は生き物たちに言い聞かせたという。

以来、蛇は蛙を見つけると馬鹿にされた往時を思い出したかのように、蛙を尻から飲み込むようになったそうな。
〔TVアニメ『まんが日本昔ばなし』昭和62(1987)年5月16日放送より〕

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]07

諏訪上本08東社号標

「蛙狩神事」には「甲賀三郎[こうがさぶろう]」の存在が関わってるのではないかと勝手に想像している。

甲賀三郎諏方[よりかた]は諏訪大社の起源に深く関わっている伝説上の人物。

南北朝時代に成立した『安居院神道集』所収の「諏訪縁起の事」に「諏訪の本地」として登場する。

近江国甲賀郡の地頭・甲賀家の三男で上には太郎に次郎と兄が2人いる。

ある日、三郎は最愛の妻・春日姫を伊吹山の天狗に拐われしまった。

六十余州の山々を探し回った末、信濃国蓼科[たてしな]山中の人穴で発見、救出する。

ところが三郎は兄2人が企んだ悪計に嵌って人穴に落とされてしまった。

三郎は73の人穴と地底の国々を巡り、農業を営む村々で歓待され、最後は維縵[ゆいまん]国というところにたどりつく。

維縵国には日課として鹿狩りを行う習俗があり、そこで三郎は好美翁と維摩姫の温かいもてなしを受けながら毎日を過ごしていた。

そんなある日、三郎の脳裏に春日姫と過ごした日々が蘇り、思い慕う気持ちが嵩じた余り、再び地上への脱出を試みる。

さまざまな試練を耐え抜いた末に浅間山の西側へ出、ようやく地上に戻ることができた。

ようやく故郷の甲賀へ帰り、春日姫母子が造った観音堂まで来た時、自分が蛇身になっていることに気付く。

地底で蛇の姿に変身したまま地上に戻ったからで、その姿を恥じた三郎は妻子に合わぬまま身を隠した。

元の姿に戻れるよう観音様に祈ると、石菖[せきしょう=サトイモ科の常緑多年草]が植生している池に入れば元に戻れると教示された。

試みたところ見事に元の姿を取り戻して無事に妻子と再会。

その後は甲賀の主となり、さらには諏訪明神へ示現した…というのが甲賀三郎説話のザックリした内容だ。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]06

諏訪上本54

参道と鳥居の間を流れる細い川に石製の小さな神橋が架けられている。

手前右側に立つ手水舍は天保2(1831)年建立の由。

川は名を御手洗川といい、昔はここで心身を清めた後に参拝したそうだ。

この神橋付近で毎年元旦に「元朝の蛙狩り」という神事が行われる。

この行事は、まず神橋上流の一段高い所で氷を砕き、川底を掘って2匹の赤蛙を捕まえる。

次に神前で柳の弓矢で蛙を射抜き、矢串のままお供えするという内容。

付近に川が少ないせいか、どんなに寒い年だろうと蛙が獲れるそうで、諏訪大社七不思議の一つにも数えられている。

とはいえ近年では一部の動物愛護団体から強烈な抗議に晒されている。

おかげで以前は一般に公開されていたのだが、最近では妨害が著しくなる一方。

なので本当の神事自体は別の場所で非公開のうちに行われ、神橋近辺では通り一遍のセレモニーだけとなってしまった。

たかがカエル2匹とはいえ生物の種類によって命の軽重を決めるのは宜しくない。

だが、蛙を大量に掘り起こして片っ端から弓を射て虐殺しているわけでもない。

そもそも何百年にも亘って連綿と続けられてきた儀式には相応の由緒が存在するはず。

それを「カエルが可哀想」という一点だけで中止を迫る行動は軽薄としか思えない。

それどころか「蛙の命」を踏み台にして、自分たちの存在を仰々しくアピールしているだけなのではないか?

世界には人命を軽んじる事象が現在進行形で幾らでも転がっている。

それらから目を逸らさせるために「蛙狩神事」を利用しているのではないか? とすら勘繰ってしまう。

それはそれとして、なぜこんな奇妙な儀式が連綿と続いているのだろう?

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]05

諏訪上本04バス停

県道の16号と183号が交わる「神宮寺交差点」を渡り、上社本宮へ向かう。

ただ、この近辺に「神宮寺」というお寺は存在しない。

しかし江戸時代まで上社本宮には神宮寺があり、神仏習合の「諏訪大明神」として神社より寺院と言っていいほど仏教色が強かったそう。

しかし明治維新の廃仏毀釈により神宮寺の伽藍は徹底的に破却されて跡形も無く消滅。

現在は上社本宮の南側に「法華寺」というお寺だけが残り、神宮寺の名残を留めている。

諏訪上本06東一鳥居

交差点を渡った先に大きな石鳥居が聳立している。

何の飾りも塗装もされていないシンプルな明神鳥居。

柱には文化2(1805)年建立と刻まれている。

幕末へと差し掛かる化政文化が花開き始めた頃だ。

ちなみに県道183号は神宮寺交差点から北東の四賀桑原交差点まで続いている。

その手前、上川の岸辺に巨大な鳥居が聳立し、傍に「官幣大社諏訪神社参道」と刻まれた石標が立っているそう。

ただ、神宮寺交差点から巨大鳥居までは2km以上もあり、参道にしては冗長な気もする。

県道から続く細くて緩やかな坂道を登っていくと、右側前方に境内が見えた。

坂を突き当たると、そこで道は一風変わった四つ辻となる。

右側は青銅製の大鳥居が聳立し、上社本宮の境内へ続く道。

正面へ直進すると法華寺への細い参道。

左折すると舗装された一般道で、遥か彼方に大きな鳥居が見える。

上社前宮へ続くこの道は東参道で、御柱祭では御柱が前宮からこの道を通って本宮に運ばれて来るという。

現在は県道16号に続く北参道が表参道っぽい扱われて方だが、神宮寺を経由して前宮と結ぶ東参道が実質的な表参道に相当するのだろう。

諏訪上本07東参道

[旅行日:2016年12月12日]
プロフィール

ramblejapan

カテゴリー
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
QRコード
QRコード











発刊!電子書籍

東海道諸国を巡礼したブログを電子書籍にまとめました。

下記リンクより一部500円にて販売中! ぜひご一読下さい!



一巡せしもの―
東海道・東国編

by 経堂 薫
forkN


一巡せしもの―
東海道・西国編

by 経堂 薫
forkN

福岡から大阪へ…御城と野球場を巡ったブログを電子書籍化!

下記リンクより一部500円にて販売中!  ぜひご一読下さい!



キャッスル&ボールパーク

by 経堂 薫
forkN



CLICK↓お願いします!















オーディオブック

耳で読むドラマ!


人気演劇集団キャラメルボックスとコラボした、舞台と同一キャストでのオーディオドラマ!


ドラマ化・映画化された書籍のオーディオブック。映像とは一味違った演出が魅力的!


耳で読む吉川英治の名作「三国志」!

  • ライブドアブログ