一宮

一巡せしもの[上賀茂神社]23

4t上賀茂23

岩上から楼門へ向かうと、目の前に川が流れ、その上に朱塗りの太鼓橋が架かっている。


重要文化財の「玉橋[たまばし]」。


太鼓橋といっても反りは緩く、金色の擬宝珠と朱塗りの高欄のコントラストが美しい橋だ。


しかし橋の両側は注連縄で遮られ渡ることはできない。


宮司が神事の際にしか渡れず、一般参拝者は使えないのだ。


玉橋の下を流れるのは御物忌川[おものいがわ]


手水舎のところで御手洗川と合流し、橋殿を過ぎたあたりからならの小川になる。


そして、ならの小川は境内から出ると今度は明神川[みょうじんがわ]と名を変える。


どの川が何て名称なのかヤヤコシイ話だが、それだけ上賀茂神社には川をめぐる長い歴史がある証左だろう。


ちなみに御物忌川には神事に使う祭器を洗い清める、御手洗川には人を清める、それぞれの役割があるそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]22

4t上賀茂22

禰宜橋を渡ると正面に「岩上[がんじょう]」という岩場がある。


ところどころ表面が苔で覆われ、低木が疎らに生えている小さな岩山だ。


葵祭では宮司が岩の上に蹲踞[そんきょ]して勅使と対面し、「返祝詞[かえしのりと]」を伝える神聖な場所。


「返祝詞」とは勅使の祝詞に対する神の意志のこと。


いわば岩上は神と人が心を通じ合わせる“通路[かよいじ]”であり、強い「気」の集中するパワースポット。


神山とともに賀茂信仰の原点ともいえ、古代祭祀の様式を現代に伝える厳粛な場所なのだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]21

4t上賀茂21

土屋と細殿の間を通り抜けると、その先に御手洗川[みたらしがわ]が流れている。


川の上に社殿が立ち、両脇に石造りの橋が架かっている。


橋殿、又の名を舞殿というこの社殿は国の重要文化財で、造替は本殿と同じ文久3年だ。


両脇に架る橋は本殿に向かって左が禰宜橋[ねぎばし]、右が祝橋[ほうりばし]


禰宜橋を渡りながら中を観察する。


柱と屋根で構成された構造物は縦長の長方形で奥行きが深い。


ここ橋殿は葵祭で勅使が祝詞を奏上する場所だ。


また、勅使が祝詞を奏上した後、陪従[ばいじゅう]の奏楽とともに舞人が雅楽「東游[あずまあそび]」を舞うので「舞殿」とも呼ばれている。


陪従とは「東游」で舞人に従い管弦や歌を演奏する楽人のことだ。


後ろを振り返ると細殿と御手洗川の間に手水舎が立っている。


「だから川の名が御手洗川なのか」と独り言ちた。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]20

4t上賀茂20

立砂に近寄って見る。


高さは子供の身長ぐらい。


大きさも形も見事なほど左右対称だ。


ジーッと見ているうち各々の頂に松葉が刺してあるのに気付いた。


しかも松葉は左右で微妙に違う。


向かって左側は3葉、右側は2葉。


これは奇数と偶数が融合することで神の出現を願う、陰陽道の考えに基づくもの。


ただ松葉といえば普通は2葉で、3葉とは珍しい。


しかし上賀茂神社の境内に3葉の松葉をつける木があるのだそうだ。


この松葉を立てるしきたりは、賀茂別雷大神が神山に降臨した故事に因んでいる。


現在の社殿の基が造営されたのは天武天皇御代の西暦678年。


神山に登って祭祀を行っていた人々は大神を里に迎えるため、神山から松の木を引き下ろして里に立てた。


その場所こそ上賀茂神社の鎮座地という。


松の木が立てられた場所に砂を大きく盛り、その頂上に松葉を刺すようになったのだそうだ。


そういえば常陸国一之宮鹿島神宮でも、東日本大震災で倒壊した鳥居の跡に立砂が盛られていたのを思い出す。


これもまた上賀茂神社の立砂に由来するのだろうか。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]19

4t上賀茂19


降り続いている雨の勢いが次第に増している。


だが、目の前の立砂はビクともしない。


もちろん立砂は砂だけで出来ているのだが、この円錐形のおかげで雨に強いらしい。


とはいえ想定外の大雨が降れば、いくら雨に強い円錐形とはいえ崩れてしまう。


そうなった場合どうするかというと、神職が整え直しているそうだ。


使うのは大きな木製のコテと先出の「ならの小川」の水で、要する時間は1~2時間ほど。


ちなみに左右とも同じ神職が一人で直すことになっている。


複数人で修復すると神職の個性によって形が変わり、左右対称にならないからだそうだ。


この立砂は今も日本に伝わる、おなじみの風習の起源でもある。


それは地鎮祭や葬式帰りなどで砂や塩をまく風習だ。


昔ここから砂を持ち帰り、自分の土地を清めるために撒く人が現れたことが始まり。


そのうち砂に代わって、穢れを祓う力を持つとされる塩が用いられるようになったという見方もあるそう。


ちなみに上賀茂神社では希望者に砂を授与しているので、直接この立砂から砂を持ち去るのは厳禁である。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]18

4t上賀茂18

一方、左側の細殿もまた寛永5年造替の国重要文化財。


天皇行幸の際、および斎王の御著到殿として機能していたそうだ。


そして細殿の前にあるのが、上賀茂神社の象徴ともいえる「立砂[たてずな]」。


別名「盛砂[もりすな]」とも言う。


「たつ」とは神様の出現に由来した言葉。


「ならの小川」のところで触れた賀茂別雷大神ご降臨の件。


その場所は本殿から2km北北西にある神山[こうやま]


神山は聖地であり現在でも禁足地とされ、人の立ち入り制限されている。


砂山は、この美しい円錐形の形をした神山に因んだもの。


かつ一種の神籬[ひもろぎ]、つまり神様が降臨する憑代[よりしろ]でもあるのだ。


立砂はここ細殿前以外にも、実はニ対あるという。


その場所は本殿の祝詞座[のりとざ]の前と後ろ。


いずれも同様の円錐形で、祝詞座の前→後ろ→細殿前の順に大きくなっているそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]17

4t上賀茂17

楽屋を過ぎると正面に二つの社殿が左右に並んでいる。


右に土屋、左に細殿。


両者の真ん中奥に橋殿が立っている。


土屋は寛永5年造替の国重要文化財。


昔は神主ら社司の著到殿として機能し、現在では祓所に使用されている。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]16

4t上賀茂16


鳥居をくぐると右前方に御所屋と同様、壁がなく屋根と柱で構成された木造の構造物が現れる。


「楽屋[がくのや]」、別名を一切経楽屋という寛永5年造替の国重要文化財。


楽屋といっても芸能人の控え室ではなく、神仏習合の時代に供僧[ぐそう]方が使用していた仏教色の強い建物だ。


供僧とは神宮寺を管理していた僧のこと。


ちなみに上賀茂神社の神宮寺は先出の賀茂山口神社の東側に鎮座する「二葉姫稲荷神社」の場所にあったそう。


ただ正確に言うと上賀茂神社のではなく、その楼門右側に鎮座している筆頭摂社片岡神社の神宮寺。


それが明治維新の廃仏毀釈で取り潰され、境内にあったお稲荷さんだけが現存しているという次第である。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]15

4t上賀茂15

二ノ鳥居もまた普通の明神鳥居だが、よく見ると注連縄が珍しい形状をしている。


左綯[]いと左綯いの二本の縄を上下に並べて柱の間を渡してある。


遠目には刺繍で言う「チェーンステッチ」のようにも見える。


これは陰陽道の思想に則り右と左、陰と陽を合体させた形状なのだそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]14

4t上賀茂14

山口神社の側を流れる小川に沿って楼門の方角へ歩いていくと、大きな岩石の上に小さな社が鎮まっている。


岩本社。


住吉大社の祭神でもある底筒男神、中筒男神、表筒男神の三神を祀っている末社だ。


このまま直進すると二ノ鳥居をくぐらず楼門の前に出てしまうため、来た道を引き返す。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]13

4t上賀茂13


上賀茂神社の境内には摂社末社が数多く鎮座している。


そのうち陰陽石に隣接する賀茂山口神社は、古代信仰の田の神、山の神を祀った摂社。


上賀茂神社の神田を守護する神として祀られたと考えられている。


その伝承に基づいてか、上賀茂神社の御田植祭では奉饌奉幣の儀が行われるそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]12

4t上賀茂12

渉渓園は昔、龍が住む池のあった場所と伝わっている。


その池の底から出土したのが「陰陽石」。


多くの神社で陰陽石は陰と陽の石2つを組み合わせた場合が多いが、ここは1個の石で陰陽を象っている。


元は2つの石が地中の圧力で押し潰されて1つになったという。


安房国一之宮洲崎神社にあった「御神石[ごしんせき]」が思い起こされる。


この石に両手で同時に触れてから隣の賀茂山口神社に参拝すれば願い事が叶うと伝わることから「願い石」とも呼ばれているそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]11

4t上賀茂11

庁ノ舎から北に向かうと「渉渓園」という、程度良く手入れされた庭が広がっている。


昭和34(1959)年、今上天皇の皇太子時代に御成婚記念として造園された美しい庭園だ。


開園時、ここで「曲水の宴」が開催されていた。


「きょくすいのうたげ」とか「ごくすいのえん」と呼ばれるこのイベント。


平安時代に朝廷や貴族の間で行われていた“優雅な遊戯”だ。


上賀茂神社では寿永元(1182)年に神主重保[しげやす]が行った宴が起源。


「曲水」とは樹林や庭園を曲がりくねって流れる水のこと。


装束を身につけてカーブのところに着座した参加者の前に、上流から酒で満ちた盃が流れて来る。


その盃が目の前へ来る前まで、参加者は五・七・五・七・七の短歌を一首詠む。


詠めなかったら1杯その酒を飲み、盃を下流へ流す。


というのが平安時代に行われていた本来の姿という。


話を開園時に戻すと昭和30年代という時代のせいか、なかなか参加者が集まらず。


残念ながら2年ほどで中止と相成り、その後ずっと放ったらかしにされていた。


時代が平成の世に変わった同5(1993)年、現在の皇太子が御成婚。


それを記念して「曲水の宴」が34年ぶりに復活し、現在でも毎年4月に行われている。


今は儀式化されたので、短歌を詠んだ人が酒を飲んで盃を流すスタイルに変わっているそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]10

4t上賀茂10

庁ノ舎の南側に高床式で校倉造の建物が立っている。


北神饌所が機能していた時代に米倉として使われていた。


もちろん現在では中に米など保管されていない。


神饌所の米倉だけに誰も近寄らなかったため現在まで残ったという。


今や米倉としても使われておらず、単なる「空き倉庫」に過ぎないが。


重要な建造物だけに周囲に柵を廻らせて人が入れないようにしてある。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]09

4t上賀茂09

奈良神社の奥には奥行きのある長方形の建造物が立っている。


北神饌所で、これもまた寛永5年に造替された重要文化財。


その名の通り昔は神への食事を整える「神饌調進所」として使用されていた。


奈良神社が料理飲食の守護神だけに神饌所が奥に控えているのも当然だろう。


また、古くは政庁も兼ねていたことから庁ノ屋[ちょうのや]とも呼ばれている。


現在では能舞台等として使用されているとか。


この庁ノ屋が1年で最も注目を集める時期が7月末から8月初頭にかけて。


毎年ここで開催される「上賀茂神社アートプロジェクト」の展示会場となるからだ。


日本文化の良さを子どもたちに伝えるのが目的のイベント。


庁ノ屋には若い作家が伝統工芸の技巧を凝らした作品が多数展示される。


若い感性で生み出された伝統工芸作品で重要文化財を埋め尽くす…


まさに温故知新ならぬ「用故使新」か。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]08

4t上賀茂08


神事橋を渡り鳥居をくぐると、目の前に奈良神社が鎮座している。


奈良といっても平城京とは関係無く、神饌饗膳に関する一切を司る神「奈良刀自神」を祀る摂社。


その昔、神饌の盛り付けに楢[なら]の葉を用いたことが、神号「奈良」の由来という。


こうした由緒から奈良刀自神は料理飲食業者から、料理飲食の守護神として篤く信仰されている。


また、葵祭では本殿祭に先駆けて神職が出向し、特別に神饌を奉献する慣例もあるそうだ。


社殿の隣に杭と縄で四角く囲まれた一角がある。


「権地[ごんち]」といって、社殿を修復する際に神様を移す仮宮を建てるための場所。


ちなみに「権」とは2番目、英語で言えばセカンドという意味だ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]07

4t上賀茂07

その御子が元服したとき、賀茂一族の長で祖父の賀茂建角身命が多くの神々を招いて祝宴を催した。


御子の父が不明だったことから、その席で賀茂建角身命は御子に「父と思う神に盃を捧げよ」と言って盃を渡した。


御子が「我が父は天津神なり」と答えるや、手に持った盃が屋根を突き破って天空へ飛んで行き、轟く雷鳴とともに御子も天へ昇っていった。


この時、初めて「別雷神」という神号を戴いたという。


「雷鳴とともに別れた神」だから「別雷神」なのだ。


一方、御子との再会を願っていた賀茂玉依姫命の夢枕にある夜、御子が現れて玉依姫命に御神託を告げた。


「私に逢いたいのなら馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓[あおいかつら]の蘰[かづら]を造り荘厳に飾って私を待ちなさい」


御神託の通り神迎の祭を行ったところ、天上より神としてご降臨された。


その御子神こそ賀茂別雷大神というわけだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]06

4t上賀茂06

御所屋の裏手に回ると細い川が流れている。


「ならの小川」というが、下鴨神社の境内を流れる同名の川と流れは繋がっていないようだ。


「神事橋」という古い石橋の先に、大きな鳥居が見える。


この橋を通って、ならの小川を渡る。


川と賀茂社は切っても切れない関係にある。


下鴨神社のところで山城国風土記に賀茂社の創建にまつわる重要な逸話「丹塗矢の伝説」について触れた。


瀬見の小川で水遊びをしていた玉依姫命のもとに流れてきた丹塗矢の御霊力により御子を授かったという伝説。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]13

4t上賀茂13

上賀茂神社の境内には摂社末社が数多く鎮座している。


そのうち陰陽石に隣接する賀茂山口神社は、古代信仰の田の神、山の神を祀った摂社。


上賀茂神社の神田を守護する神として祀られたと考えられている。


その伝承に基づいてか、上賀茂神社の御田植祭では奉饌奉幣の儀が行われるそうだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]05

4t上賀茂05

参道を進むと右手の先に一棟の社殿が見える。


壁がなく屋根と柱で構成された木造の構造物で「外幣殿(御所屋)」という。


寛永5(1628)年の造替で、国の重要文化財に指定されている。


かつては法皇や上皇の御幸、摂政関白の賀茂詣の際に著到殿として用いられていた。


また、現在でも競馬会の神事や葵祭に使用されている。


境内に鎮座する社殿は本殿と権殿[ごんでん]が文久3(1863)年、他は概ね寛永5年に造替されたもの。


そのほとんどが重要文化財に指定されている。


寛永5年といえば徳川三代将軍家光の治世で、幕藩体制が安定期に入った時代。


一方の文久3年といえば攘夷か開国かで幕藩体制が崩壊の兆しを見せ始めた時代。


徳川十四代将軍家茂が将軍として229年振りに上洛し、孝明天皇に攘夷を誓ったのもこの年のことだ。


このように上賀茂神社の社殿群は殆どが江戸時代に建立されたもの。


だが、平安時代の建築様式を今に伝えていることが評価され、世界文化遺産に登録されたという。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]04

4t上賀茂04

広場に入ってすぐ右側に桜の木が何本か並んでいる。

とりわけ中程に立つシダレザクラは推定樹齢160年。

京都市の巨樹銘木に指定されているそう。

だが今は春の冷たい雨に包まれ、蕾も固く閉じたままだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]03

4t上賀茂03


下鴨神社にいた頃は霧状だった雨が、粒となって打ち付けるほど強まってきた。

立ち並ぶ茶店の前を通り過ぎ、一ノ鳥居へ。

朱塗りで扁額のないシンプルな明神鳥居だ。

塗りが適度に剥落して風格を漂わせている。

鳥居をくぐると、そこは広々とした一面の芝生。

木々が鬱蒼と繁っていた糺ノ森と対照的だ。

その広場の中央を二ノ鳥居へ向かって参道が一直線に貫いている。

長さ約160m、幅は約6mと堂々とした白砂の一本道。


毎年515日、葵祭こと賀茂祭は下鴨神社だけでなく、ここ上賀茂神社でも行われる。


葵祭については下鴨神社の項で先述したので、ここでは賀茂祭に先立つ512日の夜に斎行される御阿礼神事[みあれじんじ]について考えてみたい。


御阿礼神事とは上賀茂神社で行われる祭典の中で最古かつ最重要な神事。


どれほど重要かというと、その一切が秘儀とされ、一般の奉拝が許されていないほど。


神事は「御生所[みあれどころ]」で行われる。


場所は上賀茂神社本殿と、神山(立砂のところで後述)の頂上に鎮座する石座[いわくら]を結ぶ線上。


本殿の後方約八町(500m)の場所に設えた神籬[ひもろぎ]が御生所だ。


祭儀は非公開なので内容の仔細は良く分からないが、行事そのものは神の降臨を祈願するもの云われている


つまり賀茂大神の出現、再現を願う神事として斉行されているようだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]02

4t上賀茂02

バスを降りて境内に向かうと、入り口のド真ん中に「賀茂大社」と刻まれた巨大な社号標が聳立している。

「賀茂大社」とは下鴨神社と上賀茂神社を総じて一つの神社と見做す際の呼称であることは下鴨神社の項でも触れた。

下鴨神社と同様に上賀茂神社は通称で、正式名称は賀茂別雷神社[かもわけいかづちじんじゃ]。

御祭神は社号そのまんまの賀茂別雷大神[かもわけいかづちのおおかみ]である。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[上賀茂神社]01

4t上賀茂01

下鴨神社前から市営バスに乗る。

バスは都心を離れ、郊外の街並みを淡々と走ること約30分ほど、上賀茂神社前に到着した。

社前は六叉路になっていて、あらゆる方向からバスやらタクシーやら車が突っ込んでくる。

だが、そこに信号はない。

広いスペースの中心には小さなロータリーがあり、多方面から来る車をグルグルと捌いている。

ヨーロッパの街角ではよく見かけるロータリーだが、日本ではあまり馴染みがない。

それが日本でも最古級の神社の前で生き生きと働いている姿から、どこか“和洋折衷”っぽさが感じられていい。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]48

4t下鴨056

教会からほど近い下鴨神社前バス停で市バスが来るのを待つ。

雨は依然として弱く降り続き、止みそうな気配は微塵もない。

あの教会が立っている場所も、かつては糺の森の域内だった。

そう考えてみれば日本の神社は心が広いものだと改めて思う。

キリスト教は一神教であり、宗派は多々あっても神はキリストしかいない。

しかし、さっきまで見てきた下鴨神社ときたら。

本殿だけで賀茂建角身命に玉依姫命と二神が鎮座している。

他にも河合神社、相生社、井上社、三井神社、出雲井於神社、印納社と、これだけ多様な神様が御坐すのだ。

イエス・キリストに何でもかんでもお願いするのをアメリカ流のスーパーマーケット方式だとすれば、幾つもの神社にひとつひとつお願いしていくのは日本流の商店街方式と言えるかもしれない。

教会の尖塔を眺めつつボンヤリそんなことを考えていたら、上賀茂神社行きのバスが姿を現した。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]47

4t下鴨055

あの取材が終わるまで店に居座っていたなら、どうなっていただろう?

お客さんのご感想を…などとインタビューを受けていたかもしれない。

そんな馬鹿げた妄想を膨らませながらバス停へ向かって歩いていると、目の前に現れた教会風の建物に現実世界へ引き戻された。

近寄って表札を見ると“風”ではなく、れっきとした教会である。

「末日聖徒イエス・キリスト教会」下鴨ワード、とある。

アメリカにあるキリスト教宗派モルモン教会の集会所だ。

どのような宗教かは知らないし興味もないので、特に何も言わない。

それにしても日本の大きな寺社の近くでキリスト教会をよく見かける。

教会は無くても、黒地の琺瑯板に白と黄の文字で聖書の言葉を綴った「キリスト看板」を見かけることもよくある。

神社への参拝客にキリスト教の優位性を説き、入信へ誘おうという魂胆なのか?

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]46

4t下鴨054

爪楊枝の刺さった団子を木匙を使って串から抜き、パクリと口に放り込む。

焼きたての小ぶりな団子と、醬油の香ばしさと黒糖の甘いコクが絡み合う。

あまり大口を開けずに食べられる団子のサイズ感が絶妙で、スーパーなどで普通に売られている一般的な団子が野暮で無骨に思えてくるから不思議だ。

加茂みたらし団子は味そのものを云々するより、その形状が表現する形而上的な意味合いこそが真の味わいなのかも知れない。

団子を賞味している途中、明らかに客ではない一団が店内にドヤドヤと入ってきた。

マイク、照明、そしてカメラ…テレビ番組の撮影クルーである。

カメラに放送局名が記されていないから、どこかの番組制作会社だろうか。

クルーは厨房の中に入り込み、職人さんの説明を受けながら団子が焼きあがる様子を撮影している。

騒々しくもなく物静かに淡々と仕事を進めるクルーからは、あまり濫用したくない言葉だが“はんなり”とした空気が漂う。

もし東京で同様のケースに遭遇したなら、こうはいかないだろう。

下手したら店を追い出されるかも知れない。

クルーが取材している途中、コッソリ会計を済ませて店を後にした。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]45

4t下鴨053

観光地にありがちな仰々しい大店ではなく、ごく小ぶりな店構えは清しく、元祖の名に相応しい。

カラリと戸を開け店内に入る。

まだ昼時前のせいか先客の姿はない。

席に着き、さっそく「みたらし団子」を注文した。

みたらし団子のルーツは、先ほど訪れた御手洗川や御手洗池。

土用になると池や川の底から清水がブクブク湧き出るといい、これもまた「鴨の七不思議」に数えられている。

その湧き上がる水の泡を象ったのがみたらし団子なのだそうだ。

小糠雨に映える下鴨本通の街路樹を眺めているうち、団子を乗せた皿が運ばれてきた。

焼いた小白玉5個を貫いた串が3本、それにみたらしの餡がかけてある。

団子屋やスーパーの甘味処で団子といえば普通、一串に白玉4個が基本。

20世紀末にNHK「みんなのうた」で「だんご3兄弟」が大ヒットしてからは、一串3玉の団子も増えた。

それを踏まえても、一串5玉は異形だ。

ここの団子は滋賀県産の上新粉で作った白玉を串に刺して焼いたもの。

餡は醬油に葛粉と黒糖を加えたものという。

皿には木匙が添えられ、餡を余すところなく賞味できる。

また、一串にさした団子5個のうち、先端のひとつが他の団子と離してある。

これは人間の頭部と四肢を抽象的に表現しているというが、本当だろうか?

しかも内一串の“頭部”団子には、爪楊枝がブッスリと突き刺さっている。

その姿が余りにもグロテスクで、どこか“京都の深い闇”みたいな、なんとも言えない恐怖感が胸の内に湧こうというもの。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]44

4t下鴨051

西参道から境内を出る手前に小さな末社が二つ並んでいる。

右側に「印納社」、世界文化遺産の石碑を間に挟んで左側に「愛宕社」。

印納社の御祭神は印璽大神[おしでのおおかみ]。

印璽とは読んで字のごとく、印[しるし]や印形のこと。

いわば「ハンコの神様」、しいては「契約の神様」。

大事な契約の前や成功祈願など、ここに参拝すると御利益がありそうだ。

印納社の向かい側に手水舎が立っている。

崇神天皇が賜ったと伝わる瑞垣のレプリカに囲まれた船形磐座を、細やかな霧雨が舞うように優しく包んでいた。

印納車との間を通る西参道を抜け、境内の外に出る。

雨雲が低く垂れ込める中、下鴨本通を北へ向かって歩く。

下鴨神社に来たからには、どうしても立ち寄りたい店がある。

その名は「加茂みたらし茶屋」。

下鴨神社は「みたらし団子」発祥の地なのだ。

常陸国一之宮鹿島神宮も発祥の地と謳っているが、どうも本家はこちらの様子である。

やがて左手先に二階建ての店舗が見えてきた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]43

4t下鴨050

大炊殿の扉が開いていたので中を覗いてみる。

唐門が入口で、ここが出口なのだろう。

大炊殿の解説版の隣に「賀茂斎院御所旧跡」のそれが立っている。

賀茂斎院については御手洗池のところで触れた。

賀茂斎院御所は斎王が葵祭などの年中行事に参向された折、期間中に滞在する御所のこと。

建暦2(1212)年9月4日に第35代礼子内親王が退位するまでの約400年間にわたり御座場所となっていた。

しかしが15世紀後半、文明の乱の兵火により焼失。

その後、宮域内の殿舎のうち大炊殿と御井[みい]だけが再興され、現在に至るわけだ。

御井は神饌や若水神事[わかみずしんじ]など御水の祭事が行われる井戸で、国の重要文化財に指定されている。

井戸のうち井筒[いづつ]を井戸屋形[いどやかた]、上屋[うわや]を井戸屋と呼び、両者全体を総じて「御井」と称している。

重要文化財の井戸というのは、日本広しといえどもここぐらいなものだとか。

大炊殿の周辺には御神紋の双葉葵が自生する「葵の庭」がある。

大炊殿の酒殿では薬酒なども調整されていたので、この庭ではカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなどの薬草も栽培されていた。

特にカリンの古木が有名で、別名「カリンの庭」とも呼ばれているそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]42

4t下鴨049

入口の土間に竈[おくどさん]が設えてある。

「おくどさん」とは竈[かまど]そのものではなく、正式には竈の神様を指す言葉。

しかも畿内でのみ用いられている“方言”のようなもの。

陰陽道[おんみょうどう]で土を司る神「土公神[どくじん]」に由来すると思われる。

入口を先へ進むと、お供えの材料や用具を洗ったりする中の間。

その先の台所奥の間は調理して盛り付けるスペース。

さらに奥には神前へお供えする順に並べておく配膳棚が設けてある。

また、御酒は酒殿で醸され、魚貝鳥類は贄殿で料理されていたそう。

こうして賀茂社の胃袋を満たしてきた大炊殿だが、文明2(1470)年6月10日に兵火のため焼失。

その後、大炊殿は酒殿を除いて現在地に再興された。

神社建築の中でも、この種の社殿が現存するのは非常に希で貴重なのだそうだ。

それにしても、先に見た供御所との違いは何だろう?

大炊殿は内部にお供え物のレプリカなどを展示した資料館的な存在なのに対し、供御所は今も使用されている現役の“台所”ということだろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]41

4t下鴨048

現在の社殿は寛永6(1629)年度の式年遷宮で、先の天正9(1561)年の式年遷宮で造替された本宮本殿が移築されたもの。

つまり下鴨神社にある社殿群の中で最も古い社殿なのだ。

また、ここ「出雲井於神社」は通称「比良木[ひらぎ]神社」と呼ばれている。

厄年の御祈願として周囲に植えられた木は、どんな葉も柊[ひいらぎ]のようなギザギザになって願いが叶うため「何んでも柊」と呼ばれ、京の七不思議になっているそうだ。

社殿の周囲には潅木が疎らに植えてある。

それらすべての葉の形状がギザギザかどうか歩きながら眺めてみたが、どうにも微妙なのだった。

再び供御所と擬雪の間を通り、鳥居をくぐって外に出ると右手に大炊殿があった。

もちろんここからは入れない、幣殿前の唐門を通って拝観料を払わないことには。

大炊殿については唐門のところで浅く触れたが、改めて深く掘り下げてみたい。

大炊殿は神饌の御料を調理する社殿で、別名大炊所とも呼ばれている。

その昔ここでは御飯、餅、ぶと、まがりなどの穀物類が調理されたという。

「ぶと(餢飳)」も「まがり(糫)」も、唐から輸入された油を用いる製法で餅を調理した米菓だ。

実際に拝観しているわけではないので、内部の構造は説明板によるのだが。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]40

4t下鴨047

擬雪と参道を挟んだ向かい側に、長方形の建物が立っている。

「供御所[くごしょ]」といい、この建物もまた重要文化財だ。

他の社殿群と同様、寛永5年の式年遷宮で造替された後、21年ごとに解体修理が行われている。

説明板によると内部は東・中・西の三間に分かれている。

東の間が供御所で、神饌を調理する間。

中の間は贄殿で、魚介鳥類を調理する間。

西の間は侍所で、神官らが集まり直会[なおらい]や勧盃[かんぱい]の儀を行う間。

下鴨神社の食堂的な役割を果たす社殿といっていいか。

供御所の隣に、また別の摂社が鎮座している。

建速須佐乃男命を祀る「出雲井於神社[いずもいのへのじんじゃ]」。

スサノヲ命と出雲には深い関わりがあるも、社号との関係は間接的だ。

創設したのは古代山代国北部を拠点としていた葛野主殿県主部[かどのとのもりあがたぬしべ]という、
鴨氏と同じ祖先を持つ氏族。

県主部の拠点である山代国葛野郡は大宝令の制定・施行により4分割され、鴨川の西岸が出雲郷となった。

「井於[いのへ]」とは鴨川のほとりのこと。

すなわち「出雲井於神社」とは「出雲号の鴨川のほとりにある神社」という意味なのだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]39

4t下鴨046

神服殿から西参道へ向かうと、本殿の隣に鎮座している三井神社に目が止まった。

三井神社は摂社ながら拝殿や棟門など全てが重要文化財に指定されている歴史的遺産。

というのも山城国風土記逸文に「蓼倉里三身社[たでくらのさとみつみのやしろ]、延喜式に「三井ノ神社」と、それぞれ記されてるほどの古社なのだ。

「蓼倉里」とは、この一帯が奈良時代から平安時代にかけて「蓼倉郷」と呼ばれていたことに由来する。

「三身社」とは、賀茂建角身命と妻の伊可古夜日売命[いかこやひめのみこと]、娘の玉依姫命のこと。

現在でも同じ三神を主祭神に、境内の奥に独立した社殿が横に並ぶ形で祀られている。

また、境内の西側には末社が3社祀られている。

これらは平安時代の社頭絵図「鴨社古図」に描かれており、しかも各社の位置は現在と変わらないそうだ。

下鴨神社は上賀茂神社を分割する形で創建されたという説が有力である。

ひょっとしたら先に三井神社が鎮座していて、その隣に下鴨神社が後から建立されたのだろうか?

そんな想像を掻き立てるほど、その佇まいは古の風情を湛えている。

棟門の横に一本の木が立っている。

堂々とした大木で周囲が木の柵で囲まれている。

由緒ありそうな木だと思っていると、近くに説明板があった。

名を「擬雪[ぎせつ]」という、やはり由緒正しき椿である。

寛政5(1793)年3月に光格天皇が親拝された折、御遺愛の白玉椿を奉献された。

花は中輪で半八重咲き、色の白さは別格で雪にも見紛う美しさから「擬雪」と命名されたという。

しかし経年劣化には勝てず、いつしか枯れ果ててしまった。

それから悠久の時を経た平成27(2015)年の式年遷宮で三井神社の修繕工事が完成。

それを記念して三井物産、三井住友銀行、三井不動産が“三井”のよしみで同種の椿を奉納。

それが目の前にある椿の大木というわけだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]38

4t下鴨045

中門から再び外に出ると、舞殿の左側に小石で囲まれた小さな正方形の一角が目に入った。

四隅に細い柱が立てられ、上部には注連縄が巡らされている。

どこの神社にもある禁足地のようでありながら、その面積は著しく狭い。

解説板には「解除所[げじょのところ]」と記されている。

賀茂社は「鳴くよウグイス平安京」以前の奈良時代から朝廷の崇敬が篤かった神社。

平安遷都の際に桓武天皇が行幸して以降、歴代天皇ご親斎の神社として朝廷と密接に関わってきた。

このため天皇をはじめ皇族が行幸などで頻繁に訪れるのだが、その際に解除(お祓い)を受ける場所である。

解除所が常設されている神社は他になく、賀茂社が朝廷にとって特別な神社だった証と言えるかもしれない。

解除所の横に、見るからに“神殿”という大きな社殿が建っている。

「神服殿[しんぷくでん]」という。

寛永5年の式年遷宮で造替され、21年ごとの解体修理もまた舞殿と同じ。

入母屋造で屋根は檜皮葺きなのも同様だが、桁行5間、梁間4間と少し広い。

読んで字のごとく元は御神服を奉製する御殿だが、時代が下ると勅使殿や着到殿(勅使が着到の儀を行う建物)に。

天皇行幸の際は玉座に使用されたそうで、その一室は「開けずの間」として伝わっている。

また、京都御所が災害に遭った時は臨時の御座所にするよう定められていたそうだ。

それにしても、なぜ本殿から遠く離れたこの神服殿に玉座を置いたのだろう?

それでいて下鴨神社には、後述するが本殿が二棟もあるのだ。

せめてどちらかに玉座を設えたらよかったのにと思うのだが。

なにか、やんごとなき事由でもあったのだろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]37

4t下鴨043

唐門という名称は屋根の唐破風に由来するのは一目瞭然。

屋根の下に渡された欄間には葡萄の紋様が彫刻されており、別名「葡萄門」とも呼ばれている。

葡萄といえばワイン、西洋の神話には付き物だが、日本の神話でも重要なシーンで登場する。

古事記で伊邪那岐[いざなぎ]命が黄泉国で、見てはいけないという約束を破って伊邪那美[いざなみ]命の腐り果てた姿を見たときのこと

恐れ慄いた伊邪那岐命は一目散に逃げ出すが、伊邪那岐命は黄泉国の醜女神らに命じて後を追わせた。

あと一歩のところまで追い詰めてきた醜女神らに、伊邪那岐命は髪留めに結わえてあった黒い鬘[かずら](蔓草を束ねた冠)を外して投げ付けた。

すると地に落ちた鬘は葡萄葛[えびかずら]に変わり、その果実を醜女神らが端から食べ始めた。

その間に伊邪那岐命は何とか遠くまで逃げることができた…という話。

葡萄葛は野生の葡萄のことで、平安時代には薬草として用いられていたそうだ。

この欄間に掘られた葡萄棚の紋様は西洋にない日本独自のデザイン。

古事記の故事から、欄間の下をくぐれば御祓を受けるのと同じ意味があるのだとか。

拝観料は払わずに唐門だけをコッソリくぐらせてもらおうかとも思ったが。

あまりにセコいと思い返し、唐門を後にした。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]36

4t下鴨042

幣殿から東側、二言社の裏手に絵馬を奉納する絵馬掛が立っていた。

さらにその奥に「言社権地」という横長の狭い長方形の一角がある。

竹の柵で仕切られた中には、小さな長方形の清浄地が2つ、横に並んでいる。

その形状は今まで見てきた禁足地と同様、明らかに神聖な雰囲気が漂っている。

ここは平安時代の寛仁4(1020)年に最初の式年遷宮が斎行されて以降、社殿造替の権地として仮殿が設けられる場所なのだ。

式年遷宮は21年を目安に行われてきたのだが、現在では社殿群のほとんどが国宝や重要文化財なので新たに造り替えるわけにもいかない。

そこで屋根の葺き替えや壁の塗り替え、建具・金具の補修といった修繕工事を以って社殿を維持している。

ここに7社ある言社も例外ではなく、式年遷宮の際は御神体をここへ遷し、社殿を他所へ運んで修繕するわけだ。

言社権地から中門の前をスーッと通り過ぎ、反対側にある「唐門[からもん]」へ。

ここを通り抜けると重要文化財の大炊殿[おおいどの]に行ける。

大炊殿は神様の台所で、お供えを展示してあるところ。

だが、拝観料が必要とのことでパス。

唐門のみシミジミと無料で見物させてもらう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]35

4t下鴨041

禍々しい霊力を持った神がウヨウヨいる熊野の山中を通り抜けるため、高木大神(高御産巣日神)が神武天皇に道案内のため派遣したのが八咫烏。

これが日本書紀になると高木大神ではなく天照大神になる。

この八咫烏に化身となったのが賀茂建角身命というわけだ。

ただ、記紀どちらにも賀茂建角身命の具体名は登場しない。

なぜ八咫烏=賀茂建角身命となったのかはよく分からないのだ。

両者を結びつける根拠を探すのも詮無い話ではあるが、八咫烏はお導きの神だけに賀茂建角身命は方除、厄除け、試験合格、交通、旅行、操業の安全などに御神徳があるそうだ。

一方、西殿に鎮座する玉依媛命の御神徳は上総国一之宮玉前神社の主祭神玉依媛命と、ほぼ同じ。

同じ玉依姫命という神号ながら各々が別の神様であることは既に触れたが、御神徳は共通しているのだ。

また、縁結びの御利益は「男と女」に限ったものではなく、人と人の縁を結ぶ商売や事業に関わる祈願も多いそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]34

4t下鴨040

ようやく下鴨神社の核心、幣殿へたどりついた。

他の神社で言うところの拝殿に当たる建物。

正面口から中を覗き込むと突き当たりに御幣が立ち、その後ろに鏡が置かれている。

そこから廊下は左右に分かれ、東西それぞれの本殿につながっている。

本殿に祀られているのは東に玉依姫命、西に賀茂建角身命。

代表的な流造りの東西本殿は文久3(1863)年に造替されたもので、いずれも国宝に指定されている。

幣殿の左右には御簾と菱格子が設えられ、こちら側と奥の本殿エリアを仕切っている。

本来なら隙間から本殿が透けて見えるはずだが、建物が白いヴェールで覆われ姿が伺えない。

実は式年遷宮に向けた修繕工事の真っ最中で、現在のところ御神体は裏手の仮本殿に遷座しているそうだ。

東殿に鎮座する賀茂建角身命は『古事記』『日本書紀』の神武東征に登場する金鵄八咫烏[きんしやたがらす]のことだと伝わっている。。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]33

4t下鴨039

中門をくぐって中に入ると、東西に伸びる幣殿が正面に立ちはだかる。

しかも幣殿手前の狭い敷地に小さな御社がチマチマと並び、印象は非常に窮屈だ。

それら小社は中門を入って正面に2社、右側に2社、左側に3社の計7つが鎮座。

これら7社は総称して「言社[ことしゃ]」と呼ばれている。

昔から干支の守護神として有名で、各御社ごとの御神徳が干支で表現されている。

祭神は全て「大國さん」こと大国主命なのだが、個々の御社によって神号がそれぞれ異なる。

幣殿の真向かいに2社並列で鎮座するのが「一言社」。

東側が大国魂命[おおくにたまのみこと]で、干支は巳[へび]年と未[ひつじ]年。

隣の西側は顕國魂命[うつしくにたまのみこと]で、干支は午[うま]年。

幣殿から見て左側に2社並列で鎮座するのは「二言社」。

幣殿に近い北側は大物主命で、干支は丑[うし]年と亥[いのしし]年。

隣の南側は大国主命で、干支は子[ねずみ]年。

幣殿から見て右側に3社並列で鎮座するのは「三言社」。

幣殿に近い北側は志固男命[しこおのみこと]で、干支は卯[うさぎ]年と酉[とり]年。

隣の真ん中は大己貴命[おおなむちのみころ]で、干支は寅[とら]年と戌[いぬ]年。

最も遠い南側は八千矛命[やちほこのみこと]で、干支は辰[たつ]年と申[さる]年。

それにしても天津神「賀茂建角身命」を7柱もの国津神「大国主命」が包囲する、この構図。

大国主命と対峙する賀茂建角身命という「国譲り神話」を表現しているのか?

それとも賀茂建角身命に付き従う従順な大国主命という図式なのだろうか?

自分の干支が祀られている三言社に拝礼し、これらの疑問を心の中で反芻してみる。

無論、大國さまから正答が返ってくるわけもないのだが。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]32

4t下鴨038

現在では斎王代が葵祭の主役みたいなものだが、実は斎王代が葵祭の主役になったのはつい最近のこと。

長い歴史を誇る葵祭だが過去3回、16世紀初頭の室町時代、19世紀中庸の幕末、そして太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に途切れたことがある。

葵祭は戦中戦後の中断から同28(1953)年に復活し、斎王代が登場するのは同31(1956)年になってからのこと。

昔の賀茂祭で斎王は住居の斎院から出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだった。

その華やかな行列を一目見ようと、こぞって都人たちは見物に集まったという。

戦後復活した葵祭の目玉として往時の華麗な行列を再現させるべく設定したのが「斎王代」というニューヒロインだったわけだ。

とはいえ昔の斎王と違って現在の斎王代を皇族の内親王が務めることはない。

京都にゆかりがあって和装に慣れた未婚の一般女性から選ばれている。

橋殿の横に架かる小さな橋を渡り、中門へ。

この門をくぐると、その先に幣殿と本殿が鎮座している。

中門の正式な名称は四脚中門。

舞殿や橋殿と同じ重要文化財で、寛永5年の式年遷宮で造替された点も同様だ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]31

4t下鴨034

葵祭のプリンセス「斎王代」。

そのセレクションは全国紙が報じられるほどの注目を集める。

では、そもそも「斎王代」とは何か?

読んで字のごとく斎王の代理である。

斎王の「斎」は「潔斎して神に仕えること」という意味。

つまり斎王とは昔、伊勢神宮と賀茂社で天皇の代わりに仕えた未婚の内親王、女王のこと。

天皇が即位すると「卜定[ぼくじょう]」という儀式で選ばれ、その天皇一代の間のみ務めるのが原則だった。

伊勢神宮は「斎宮」、賀茂社は「斎院」といい、両者を総称した呼称を「斎王」というそうだ。

起源は伊勢神宮を建立した倭姫命にまで遡ると伝わるが、神話の域を出ない。

具体的な制度として確立したのは天武天皇2(673)年、娘の大来皇女[おおくのひめみこ]の初代斎王就任。

元弘3(1333)年、後醍醐天皇の建武の新政で崩壊するまで約660年ほど続き、その間に斎王を務めたのは60人余に及ぶとの記録が残っている。

一方の賀茂社では弘仁元(810)年、嵯峨天皇が伊勢神宮に倣って賀茂社にも斎王を置いたのが始まり。

同年4月に嵯峨天皇第八皇女の有智子内親王が卜定で初代斎王に。

鎌倉時代初頭の礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで約400年続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府が争った「承久の乱」で途絶。

以後、斎王制が復活することはなかった。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]30

4t下鴨036

井上社の前に広がる御手洗池。

ここからの湧水が輪橋と橋殿の下を通って糺の森へと流れていく。

毎年5月15日の葵祭、ここで行われる斎王代の御契の儀は、ニュース映像としてテレビのネットワークに乗って全国へ伝播していく。

ちなみに御契の儀は下鴨神社と上賀茂神社で毎年交互に行われることになっている。

葵祭は祇園祭、時代祭と並ぶ京都の三大祭。

といっても1200年余の歴史を誇る京都だけに祭の数は年300を越えるそうで、この三大祭は近年になって言われ始めたこと。

今でこそ年300超の祭礼が行われているが、かつて京の祭りといえば「葵祭」を指していたそうだ。

葵祭は京の先住民族ともいえる賀茂氏の神社「賀茂社」で行われていた五穀豊穣を祈願する祭礼が起源。

「山城国風土記」逸文によると欽明天皇御世(539~571年)、天候不順で荒作に見舞われた農民の間で騒擾の危機が高まっていた。

欽明天皇が神官に占わせたところ賀茂大神の祟りだと判明。

直ちに賀茂大神を祀ったところ、天候不順が回復して五穀豊穣に恵まれ、騒擾の機運は去っていったという。

まだ京に都が遷る以前のことながら、この賀茂(葵)祭は大層な人気を呼んでいたそうだ。

「続日本記」によると文武天皇2(698)年、賀茂祭で行われた騎射に見物客が大挙して押しかけたため、騎射に三度も禁止令が発令されたほど。

その後、鳴くよウグイス平安遷都を機に賀茂社は朝廷から王城鎮護の神として篤く祀られたのを機に、賀茂祭は国家的祭礼に発展していったわけだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]29

4t下鴨035

細殿と直会所の間に「解除所[げじょしょ]」がある。

解除とはお祓いのことで、ここは樹下神事[じゅげしんじ]が斉行される場所。

樹下神事とは目の前にある御手洗池の流れに沿って行われる解除のことだ。

玉砂利の中に横長の石畳が2列、設えてある。

解除の際は石畳の上に神職たちが池に向かって並んで座り、お祓いを行う。

御手洗池は御手洗川の源泉であり、神聖な湧水口の上には小さな御社が聳立している。

もとは唐崎社に御手洗社と神社が2つ存在したが室町時代後期に合祀され、現在では井上社の神名で呼ばれている。

井戸の井筒の上に祀られているのが名の由来だ。

もともと唐崎社は高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座していたが、文明の乱に巻き込まれ文明2(1470)年に焼亡。

文禄年間(1592~96)この地に再興されることになった。

御手洗社と合祀されて井上社になったのも、この時ではないかと思われる。

両社とも祭神が同じ瀬織津姫命[せおりつひめのみこと]だったことから、合祀もスムーズに捗ったのではなかろうか。

瀬織津姫命は滝や川の流れなど水流の穢れを清める治水女神。

祀られている神社は日本中に存在し、武蔵国一之宮小野神社のところでも登場した。

井上社は御手洗川の源泉である御手洗池の最も上流にある、いわば奥宮的な存在。

葵祭でも斎王代の御契の儀が行われるなど、下鴨神社の中でも相当な重きを為す神社のはず。

その割に社殿は小さく、あまりその重みが感じられない。

しかし「山高きが故に貴からず」。

井上社、なりこそ小さいが糺の森を束ねる扇の要と考えれば、その小ささ故に尊さを覚える。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]28

4t下鴨033

細殿の奥というか裏側に築地塀が横へと延びている。

その真ん中に小さな門。

門柱に「鴨社直会殿泉聲」と読みにくい崩字で記されている。

幸いなことに反対側の門柱横に解説板が立っており、そこに「かもしゃなおらいでんせんせい」と振り仮名が打ってあった。

かといって、ここが何に使われる神殿なのか見当が皆目つかないのだが。

説明板によると平安時代に大嘗祭で用いられる饗応殿が下賜され、ここへ直会殿として移築し、式年遷宮ごとに造替してきたという。

ところが昭和23(1948)年ごろに老朽化のため撤去され、その後は再建されることがなかったそうだ。

それから時代が下ること45年後の平成5(1993)年、伊勢神宮第61回式年遷宮の折に五丈殿の払い下げを受けた。

それを平成27(2015)年の第34回式年遷宮事業の一環として、伝統に従ってここに再興したのだそうだ。

五丈殿は雨天時にお祓いや遙拝などの儀式や、遷宮関係の諸祭で饗膳(儀式としての祝宴)が行われる建物。

ここでも同様の施設として使われているのかと、門から中を覗いて確認してみた。

確かに五丈殿っぽい建物が立ってはいるが、木製の壁が設えられ大きなガラス窓が嵌め込まれている。

内部には豪奢な椅子が配置され、確かに饗膳が行われる建物っぽい雰囲気が漂っている。

だが、伊勢神宮の五丈殿は屋根と柱だけで、壁などなく吹き抜け状態のはず。

なぜだろうと思った時、目に入ったのが車止めに掲げてある小さな注意書き。

「挙式関係者以外の立入はご遠慮下さい」

なるほど、饗膳といっても結婚式のほうだったか。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]27

4t下鴨032

光琳の梅の左側に太鼓橋がかかっている。

ここでは「輪橋[そりはし]」と呼んでいるが、これは太鼓橋の一般的な別称でもある。

輪橋を渡った先には大きな明神鳥居。

その下をくぐって右へ向かうと細殿御所[ほそどのごしょ]、左に進むと御手洗池と御手洗社がある。

細殿御所は平安時代編纂の賀茂社『神殿記』にも「細殿」と記載されているほどの昔から存在していた。

歴代天皇の行幸時、法皇や上皇の御幸の際に行在所として用いられてきた。

天明8(1788)年に洛中の大火で京都御所が回禄(火災)に遭った際は、内侍所(賢所)の奉安所となった。

ちなみに内侍所(賢所)とは三種の神器「神鏡八咫鏡[やたのかがみ]」を安置している場所のこと。

文久年間(1861~64)の御所回禄では、後に明治天皇となる祐宮[さちのみや]の行在所に。

文久3(1863)年3月11日に孝明天皇が攘夷祈願のため行幸された際は徳川十四代将軍家茂の侍所[さむらいどころ]になるなど、幕末の動乱期には少なからぬ役割を果たしている。

現在の建物は舞殿や橋殿と同様、寛永五年の式年遷宮で造替されたものを21年ごとに解体修理を施し、維持されてきたものだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]26

4t下鴨031

橋殿の下を流れる川に沿って上流の方角へ向かう。

川の名は「御手洗川[みたらしがわ]」。

北にある宝ヶ池の辺りから細々と流れきて、糺の森の東端を下っていく川と同じ名称だ。

塀の内側から湧き出た御手洗川は橋殿の下を通って外側に出、もうひとつの御手洗川と合流した後、奈良の小川と泉川の2つの川に再び分裂する。

いつもは水が流れていない涸れ川だが、土用の丑の日が近づくと水がコンコンと湧き出るところから「京の七不思議」の一つとされていたそう。

ただ、目の前の川には豊かとはいえないまでも水流があるので、昔の話かも知れない。

土用の丑の日、ここ御手洗川では足を浸して疫病などの災い除けを祈願する「足つけ神事」が昔から行なわれている。

ひょっとしたら涸れ川のエピソード、この神事をPRするために拵えられたコマーシャルなのかも知れない。

川沿いの一角に正方形の小振りな石板が置かれている。

四隅には細い柱が立てられ、紙垂を下げた注連縄が巡らされている。

明らかに何らかの宗教的設備なのだが、近くの立て札に説明はない。

石板を持ち上げると下が井戸になっていて、底から湧き出る水で禊を行うのだろうか? 

石板の隣には燃えるような花を咲かせている紅梅の木。

「光琳の梅」と呼ばれている。

この辺りを尾形光琳が描いた国宝「紅白梅図屏風[こうはくばいずびょうぶ]」に由来するそうだ。

全面金地の中央に銀地で御手洗川の流れを描き、川を挟んで紅白の梅を左右に配する大胆な構図。

この光琳の最高傑作にして琳派様式の頂点ともいえる傑作は、静岡県熱海市にあるMOA美術館で鑑賞することができる。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]25

4t下鴨029

今度は反対に舞殿の右側へ行ってみる。

川の上に橋が架けられ、その上に舞殿と良く似た建物が乗っている。

「橋殿」というそうだ。

入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間とあるから、構造も大きさも舞殿とほぼ同じ。

現在の建物は寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理が行わてきたのも舞殿と一緒である。

ここは葵祭の前祭「御蔭祭[みかげまつり]で御神宝を奉安する御殿。

昔は御戸代会神事[みとしろえしんじ]が行われ、里神楽や泰楽、倭舞が演じられていた。

御戸代会神事とは田植えの後に害虫の予防を祈願をする神事のこと。

神への祈りの代わりに農薬を大量に散布してオシマイという現代では、すっかり廃れてしまった。

…かに思えるが、上賀茂神社では現在でも行われている。

もちろん害虫予防のためではなく、伝統神事の継承としてなのだろうが。

また、ここは天皇行幸の際、公卿や殿上人の控え場所と定められていた。

舞殿と橋殿、同じ構造・様式の社殿が2つ用意してあるのは、それだけ天皇や上皇と一緒に参詣する公家や殿上人の数が多く、とても一つの社殿に収まり切らなかったせいか?

しかも格上の方々は舞殿へ、格下の皆さんは橋殿に案内されたんじゃないか、そんな気がする。

川の上にある橋殿は暑い夏の盛りだと涼しくて結構だが、底冷えのする冬の最中には辛かったに違いない。

なお、現在では各月の管絃祭や正月神事といった年中催事の際、神事芸能の奉納に用いられているそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]24

4t下鴨028

楼門をくぐると、すぐ正面に舞殿が立ちはだかる。

河合神社も同様だったし、他の一之宮でも時おり見かける配置。

現在の建物も楼門と同様、寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理されるのもまた、楼門と同じだ。

入母屋造で屋根は檜皮葺き。

横幅(梁間)3間、奥行(桁行)4間という長方形の形状をしている。

黒々とした屋根と白塗りの壁上、屋根を支える黒い柱と吹き抜けの殿上。

白と黒のコントラストが全体の印象をキリッと引き締めている。

小雨の中で眺めたこともまた、落ち着いた印象を受ける要因だろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]23

4t下鴨027

楼門の前に立ち、眺める。

朱塗りで高さが30メートルあるという二層の秀麗な建物だ。

現在の楼門は江戸時代の寛永五(1628)年に行われた遷宮造替の際に造営されたもの。

かつては式年遷宮の21年ごとに造替されてきたそうだが、この造替を最後に解体修理を重ねながら保存される方式に変わった。

楼門と左右に伸びる長い廻廊は古代の神社様式を現代に伝えていることから重要文化財に指定されている。

鹿島神宮(常陸国)や香取神宮(下総国)、氷川神社(武蔵国)といった東国の一之宮に比べると、どこか優しげな表情を浮かべているようだ。

[旅行日:2014年3月20日]
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