信濃國一之宮「諏訪大社・下社春宮」

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]01

諏訪下春01*

下諏訪の駅舎を改めて眺めてみる。

巨大な切妻屋根を頭上に載せた二層の建物で、妻入りの出入口から奥を覗くと改札口が見える。

後ろを振り返ると2本の御柱が、まるで門柱のように聳り立っている。

だが、この御柱は諏訪大社のそれではなく、長野冬季五輪の開会式で用いられたもの。

平成10(1998)年2月7日に“日本演劇界のドン”浅利慶太総合プロデュースのもと、長野オリンピックスタジアムにて日本で2度目となる冬季五輪の開会式は行われた。

雪が降りしきる中を4本の御柱が曳かれて入場し、フィールドの中でキリリと聳立。

そのうちの2本が今ここに保存されているわけだ。

御柱の門柱から駅の外へ踏み出すと、ひときわ大きなビルが視界に入る。

下社秋宮で紹介したオルゴール記念館「すわのね」の日本電産サンキョー本社。

ただ、現在ではオルゴールよりもスケート部のほうが有名で、日本電産と合併する以前の三協精機時代は、あの清水宏保選手も所属していた。

折しも地元開催となった長野五輪で清水はスピードスケート男子500mで五輪新記録を樹立し、日本スピードスケート史上初の金メダリストに。

続く1000mでも銅メダルを獲得する快挙を達成し、長野五輪を象徴する選手の一人になったことを思い出す。

駅前から左に折れて日本電産サンキョービルとの間の道に入り、線路沿いに東へ向かうと県道185号線に出た。

遠くに大きな鳥居を望み、いかにも大神社の門前町といった風情が漂う。

諏訪下春03*

交差点の脇に道祖神が祀られている。

諏訪では街角の小さな道祖神にまでキチンと御柱が祀られているが、トラックで運んできて適当に据えているわけではなく「御木曳」という神事に基づき丁寧に設えてあるのだ。

交差点の脇に立つ大きな石灯籠を眺めていると、見知らぬおじさんが話しかけてきた。

「これは何ですかね?」
「諏訪大社の石灯篭です」
「大したもんなんですか?」
「専門家じゃないのでよく分かりませんが、相当古そうですね」
「近くに住んでるけど、じっくり見る機会がなくてね」
「そうなんですか」

諏訪大社に思い入れがあるわけでもなさそうで、単に話し相手が欲しかっただけのよう。

ただ、おじさんの話相手をしているほうが石灯籠を観察するより面白そうだったので、それから10分ほど他愛のない会話を続けた。

「すぐそこのスーパーまで競馬新聞を買いに行く途中なんだよ」

そう言い残し、おじさんは去って行った。

諏訪大神から遣わされた挨拶の使者だったのだろうか?

諏訪下春06*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]02

諏訪下春05*

県道185号線は春宮大門の交差点から県道184号線、通称「大門通り」に名を変える。

社頭から一直線に伸びる表参道で、その長さは約800mあるそうだ。

大門通りと中山道の春宮大門交差点に巨大な鳥居が聳立している。

扁額や装飾の類は一切なく、全体が薄緑色なのは表面を青銅板で覆っているからだろう。

件のスーパーの前を通り過ぎ、春宮へ近づくにつれて次第に繁華さは薄れ、落ち着いた住宅地の風情が漂う。

この「大門通り」、かつては春宮の専用道路だった。

下社の大祝金刺一族をはじめ多くの武将たちが流鏑馬を競った馬場だったという。

かつては道路の両脇に「さわら並木」と呼ばれた大木が並び、昼でも薄暗いほど鬱蒼としていた。

しかし枯死、風倒、舗装のための伐採などで並木は次第に失われ、昭和39(1964)年に最後の1本が枯死したことで往時の面影は失われてしまった。

諏訪下春8*

大門通りの右側に巨石が並ぶ一角がある。

これらは「力石」と呼ばれ、昔から村の集会場の庭に置かれていた。

重いもので約60kgあり、昭和の初期ごろまで若者たちの力比べに使われていたそうで民俗的にも貴重な資料とのこと。

その先、大門通りの真ん中に、まるで行く手を阻むかのようにドンと立つ古風な建物。

御手洗川に掛けられた「下馬橋」という橋で、その形状から「太鼓橋」とも言われている。

石積みの土台に木製のアーチ橋で、上には大ぶりの屋根。

梁行(横)は1・8間(3・35m)、桁行(縦)は5・5間(9・95m)、棟高(屋根のテッペンまでの高さ)が5・35mというから、そこそこ大きい。

最初に建立されたのは室町時代と伝わるが鎌倉時代の建築様式をもって建てられ、簡素な中にも力強さと美しさを兼ね備えたデザインが特徴的。

現在の下馬橋は元文年間(1736〜1740)に修築されたものだが、それでも下社では最も古い建物にあたるそうで、宮大工の三井伝左衛門の手によるものと言われている。

ただ、本来檜皮葺だった屋根は昭和35(1960)年に銅板葺に改修され、同時に橋の踏み板も取り替えられている。

往時は、たとえ殿様であっても駕籠や馬から下りるよう求められたことが橋名の由来。

同時にここは春宮に参拝する際、下を流れる御手洗川の水で身を清める場所だった。

しかし現在の御手洗川はコンクリートで塞がれ、まるで暗渠のよう。

だが、橋の下の部分だけは溝蓋状で取り外せるようになっている。

現在は原則として通行禁止になっているが、年二度の遷座祭の行列でのみ神輿だけが下馬橋を渡ることができる。

また御柱祭での曳航でも春宮を経由した秋宮の御柱は、一旦ここで一夜を明かして秋宮へ向かう。

諏訪下春09*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]03

諏訪下春10*

正面に石鳥居と社号標、左手に手水舍が見えてきた。

それにしても、秋宮に比べると門前はかなり窮屈だ。

普通なら境内にある手水舍も県道に面して立っている。

もともと春宮の境内だった土地が区画整理で一般の市街地になったのだろうか?

石鳥居を真下から仰ぎ見る。

テッペンまでの高さは8m20cm。

御影石製で建立は万治2(1659)年と推定されるが、施工した石工の名は伝わっていない。

建てる際は片付け賃を入れた土俵を積み上げて足場を築き、その上で鳥居を組み立てた。

工事後、工夫らが土俵をアッという間に持ち去ったので、施工現場はキレイに片付いたそうだ。

鳥居をくぐりつつ下社の祭神について考える。

諏訪大社下社の祭神が秋宮春宮とも建御名方神と八坂刀売神の夫婦神、それに兄神の八重事代主神が配祀されていることは秋宮で触れた。

建御名方神と八重事代主神は「出雲国譲り神話」で中心的な役割を果たした兄弟神だが、妃神の八坂刀売神についてはよく分からない。

もともと建御名方神は古事記にのみ現れて日本書紀には登場しないが、八坂刀売神は古事記にすら登場しない。

諏訪地方土着の神なのかも知れない。

諏訪下春13*

では祭神が下社の秋宮と春宮それぞれに祀られているかというと、そうでもない。

実は半年ごとに祭神は両宮を行ったり来たりしている。

毎年2月1日には御霊代[みたましろ]を秋宮から春宮へ遷す「遷座祭」。

半年後の8月1日、今度は春宮から秋宮へ遷座する「下社例大祭」が、それぞれ行われる。

夏の例大祭は別名「お舟祭」。

遷座の神幸行列に続き、青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、氏子数百人の手で曳行されることが名の由来だ。

柴船が秋宮へ曳航?されると神楽殿を三巡、神事の相撲三番が行われて式は終了、翁媼人形は焼却される。

明治初頭までは柴舟を裸の若者たちが担ぎ街を練り歩いたので「裸祭り」とも呼ばれているそう。

ただ、遷座祭で奉献される玉串は榊ではなく、なぜか楊柳(川柳)。

諏訪大社独特の風習なのだろう。

緩やかな勾配を登っていくと正面に神楽殿が待ち構えていた。

秋宮と同様、軒先には巨大な注連縄が張られている。

ただ、建物そのものは秋宮より小さく、造りも簡素。

石段の数も少なく、秋宮にはあった狛犬も濡縁の高欄もない。

とはいえ春宮の神楽殿は数ある大社の建物の中で最も修改築が多い建物。

天和年間(1680年代)の改修に加え、最近では昭和11(1936)年に大改修が施されている。

諏訪下春17*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]04

諏訪下春15*

その神楽殿の右脇に巨大な杉の木が立っている。

一つの根元から途中で二股に分かれている「連理の木」、別名「木連理」。

「縁結び」や「夫婦和合」の象徴として、よく神社の境内で見かける。

ここの木連理も「縁結びの杉」と呼ばれているそうだ。

その先に、なぜか建御名方神を祀った末社「上諏訪社」が立っている。

諏訪大社は上下社四宮でひとつの神社のはず。

ちなみに上社の祭神は本宮が建御名方神で前宮が八坂刀売神。

いずれも下社でも祭神なので、春宮では建御名方神が重複して祀られていることになる。

小さな末社ではあるが、その存在の陰に諏訪大社の祭神に関するそこはかとない謎が潜んでいるのかも知れない。

諏訪下春26*

神楽殿と結びの杉の間を通り抜けて社殿の前に進むと、そこに一本の巨大な木柱が聳立している。

言わずと知れた諏訪大社の象徴「御柱[おんばしら]」。

右横から奥を覗くと、そこにも同じ柱。

左側を見ると、向こうの端にも同じ柱。

それもそのはず、御柱は御神域を囲む四角形の四隅に配置されているのだ。

目の前にあるのが一之御柱で、社殿を中心に時計回りで二、三、四の順番で取り囲んでいる。

この4本の御柱で御神域を囲む形状は四宮すべて共通だ。

御柱に用いられるのは樹齢150年を優に超える樅[もみ]の大木。

長さ約17m、直径1m余、重さ約10トンにも及ぶ。

確かに御柱を下から仰ぎ見ると相当な大きさ。

木肌は綺麗に磨かれてスベスベだが、枝を切り払った数多の節目が不気味に浮き出し、まるで諏訪の大神が森羅万象を見通している「神の眼」の如き畏怖を感じる。

ようやくたどりついた社殿の前に立ち、改めて仰ぎ見る。

中央に幣拝殿、左右に片拝殿という配置は秋宮と同様。

だが片拝殿は幅が短く、屋根が片切りになっている点が異なる。

秋宮のところでも触れたが、春宮は芝宮長左衛門が請負い、安永9(1780)年に竣工させた。

また、秋宮を担当した初代立川和四郎富棟との間には、人間模様を彩る様々な言い伝えが残されている。

春宮側の人足が和四郎の仕事の邪魔をしようと、闇夜に紛れて秋宮へ忍び込み建材の柱を切った。

すると、それを見越していた和四郎は予め長めに切っておいたため、切られた柱は寸法通りスッポリと目的の場所にハマったと言い伝えられている。

また、先に仕上がった春宮を見に行った和四郎が正面蘭間の竜を見て「死んだ竜が刻んである」と貶した。

すると長左衛門は「悟りを開くと動物でも腹を出して休むのを知らんのか?」と笑い飛ばしたいう。

それから少し後の秋宮竣工の時、長左衛門が脇飾りの竹に鶴の彫刻を見て「竹の下にあるのは筍かと思ったが、葉の重なりが百合の芽だ」と笑い返したそうだ。

諏訪下春20*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]05

諏訪下春21*

諏訪高島藩は大隅流の宮大工として当初、村田と伊藤の2家を召し抱えていた。

芝宮長左衛門は伊藤弥右衛門の次男として、兄儀左衛門と共に大隅流を継いだ。

最初は村田家の職養子となり村田姓を名乗り、後に芝宮家の養子となり、兄と協力して多くの建築に当たっている。

安永6(1777)年に下社の建て替えが決まり、秋宮を立川和四郎富棟が金80両と扶持米80俵で請け負った。

それに対し長左衛門は代々の宮大工として、また大隅流のためにと特に願い出て35両扶持米なしで春宮を引き受けた。

しかも不足額を自前で工面したうえ、秋宮より一足先に落成させた。

さらに、兄の仕事の邪魔になるからと自ら信州を離れ、上州方面に出て仕事をしたという。

古社ならではの質実な造作の中、幣拝殿の隅々に刻まれた繊細な建築彫像の数々が長左衛門の心意気とプライドを訴えかけてくるかのようだ。

諏訪下春23*

幣拝殿のド真ん中、その奥に垂れ下がる御簾越しに奥の御宝殿を見る。

諏訪大社は四宮とも本殿が存在しない。

その本殿が本来あるであろうという下社で最も重要な位置、御神座とも相殿ともいわれる場所には御神木が立っている。

秋宮の一位の木に対して春宮は杉の木。

平素山上におられると考えられた神々を御神木にお招きし、その神々にお供えする御神宝を祀っていたのが御宝殿。

御神木を中央に挟む形で左右に旧殿と新殿が立っている。

伊勢神宮では遷宮の後に旧殿を取り払うが、諏訪大社では上下社とも旧殿と新殿が平素から並んで立っている。

室町時代の記録によると新築後7年間は風雨に晒し清めてから遷座し、旧殿を解体新築して更に7年を経てから御遷座という形式だった模様。

だが、江戸時代に入ってからは新築の建物へ直ちに遷座するよう形式が変わり、現在に至っているそうだ。

宝殿のすぐ横まで近づき、瑞垣越しに眺めてみる。

妻入造で屋根は茅葺、一見すると本殿っぽい感じもするが、千木が屋根の端だけでなく真ん中にもあり、堅魚木が10本も乗っている点が本殿の造りとは違和感がある。

二之御柱から神楽殿の西側へ回り込むと「筒粥殿」という小さな御社が目に止まった。

ここは毎年正月14日夜から15日朝にかけて行われる「筒粥神事」用の神粥を炊き上げるための社殿。

この神事は神職が囲炉裏を囲み、大釜の中に米と小豆と葦の筒を入れて一晩中炊き続け、筒の中に入った粥の状態によってその年の豊凶を占うというもの。

時代によって作物の種類と品数は異なるが、現在は43種の作物の豊凶と世の中全般を1本の計44本の筒が使われる。

扉が閉ざされて中の様子は伺えないが、説明板には土間の中央にある石製で円形の囲炉裏は江戸時代初期のものとある。

神事なので当たり外れは度外視かと思いきや「その占いの正確なこと、神占正に誤りなし」と諏訪七不思議の一つに挙げられる程の高的中率とのことだ。

諏訪下春19*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]06

諏訪下春16*

再び神楽殿の前に戻ってきた。

授与所の前で依頼した御朱印を待ちつつ境内の景色を眺めていると、右側の斜面にある急坂の存在に気付いた。

位置的には授与所と縁結びの杉の間。

注連縄で封印され立ち入ることができないようになっており、何らかの神聖さを感じさせる。

御朱印を受け取る際に尋ねてみると、山奥から切り出されて遥々と曳行されてきた御柱を境内へと導く「木落し」の坂とのこと。

この狭い急斜面を春宮と秋宮の御柱8本が次々と滑り落ちていく様は想像するだけでも猛々しい。

春宮の御柱は先端を三角錐に整える儀式「冠落しの神事」が行われた後、何本ものロープが取り付けられ、氏子たちの手で起立させる「建御柱の神事」を以って神の化身へと変貌。

秋宮の柱4本は石鳥居を抜けて下馬橋の前で一夜を明かした翌日、下諏訪の街中をパレードしながら秋宮へと向かう。

何万人もの観衆が押し寄せる御柱祭、春宮の境内も熱狂の渦が巻き起こる。

だが月曜お昼の境内は、そんな熱狂が嘘のような静けさ。

パチパチと爆ぜる焚き火に当たり、木落しの坂を眺めつつ、つい半年ほど前に繰り広げられた御柱祭に思いを馳せた。

境内の西側に立つ「万治の石仏」の案内板に従い、下り坂をユルユル歩いていくと先方に川が流れている。

社殿の西方、境内の脇を流れる清流「砥川」。

朱塗りの細い端を渡ると「浮島」という中洲に出た。

大水が出ても流されることなく、下社七不思議の一つに数えられている。

諏訪下春32*

島の奥…というか上流側に小さな祠が祀られている。

「浮島社」といい、祭神は清め祓いの神様。

今でも毎年6月30日には「夏越の祓」が、ここで行われている。

土色に塗装された金属製のか細い鳥居をくぐり、松の木立を通り抜けて祠のもとへ。

建てられたばかりの細い御柱が四隅に立ち、真新しい瑞垣が社殿の周囲に巡らされている。

ただ、御柱や瑞垣に比べれば小さな社殿自体は相当な年代物のように見える。

鳥居と同じ土色に塗装されているせいかも知れない。

春宮側から対岸へ架かる更に細い橋を渡り、砥川の上流へ向かって歩く。

川べりに設けられた石仏への道は綺麗に整備され、途中には売店もある。

だが、さすがに真冬の平日には開いていない。

暖かい季節には道端の木々も生い繁り、せせらぎをBGMに快適な散歩道になることだろう。

やがて、清流に面した扇状地の一角に巨大な石仏がポツンと佇んでいるのが見えた。

次第に石仏の形状が露わになるにつれ、そのユニークな姿に心が躍る。

石仏の手前まで来ると、三本の説明板が立っていた。

由来、伝説、そしてお参りの作法。

諏訪下春34*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]07

諏訪下春35*

万治の石仏が誕生したきっかけは明暦3(1657)年、諏訪高島三代藩主忠晴が春宮に石鳥居を奉納しようとした時のこと。

命を受けた石工がこの地にあった大きな石にノミを打ち入れると石から血が流れ出し、驚き恐れた石工は作業を止めた。

その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があるとのお告げが。

行ってみるとお告げ通り良い石材を見つけることができ、鳥居は無事に完成。

この不思議な石に石工たちは阿弥陀様を刻み、霊を納めながら石仏を建立。

それが「万治の石仏」誕生の由来だ。

左袖には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と刻まれている。

このことから名称の「万治」とは願主が刻字した万治3(1660)年に由来。

また、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟か師弟のつながりを持つ2人だと推定される。

実際、万治の石仏は臍の前で印を結んでいる…かのように彫刻されている。

浄土宗の阿弥陀定印[あみだじょういん]なので、願主が浄土宗の僧侶なのは間違いないだろう。

石仏を遠目から眺めてみると、胴体部分と頭部のバランスがチグハグなように見える。

こうも統一感がなくバラバラなのは、万治の石仏が胴体部分の上に別の石で彫られた頭部が乗せられているから。

石仏は普通ひとつの岩から彫り出されるのに対し、なぜ胴と首が別々の石なのか? 

その理由については未だに解明されず謎のままなのだとか。

諏訪下春036*

石仏に近寄り、間近で眺めてみる。

想像している以上に大きく、見た目以上の威圧感がある。

石工たちが夢枕で見た石材の材質は安山岩。

高さは2m60cm、横は3m80cm、奥行きは3m70cm。

胴体の上に乗ってる頭部は縦の長さ65cm、顔周りは1m38cmもある。

顔をマジマジと眺める。

大仏の顔といえばキリッとした表情を連想するが、万治の石仏の表情は穏やか。

ただ、その奥深い目からは何を考えているのか分からない系の畏怖を感じる。

視線を下げると、胸部に謎の文様が彫り込まれている。

太陽、雷、雲、月、磐座[いわくら]などで、これらは大宇宙の真理を現しているそう。

また、胸部の右端には逆卍…俗に言うハーケンクロイツが刻まれている。

願主がナチスの熱烈な信奉者だった…わけは無論なく。

そもそも仏教で卍印は縁起のいい文様で、逆卍も古代から仏教などで用いられており、ヒトラーがデザインしたわけでもない。

「逆卍=ナチス=悪」という全世界的なレッテル貼りには、万治の石仏も名称に「マンジ」を冠しているだけに内心では迷惑がっているかも知れない。

諏訪下春36*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]08

諏訪下春033*

そういえば、まだキチンと参拝していなかったことを思い出した。

先出の説明板にお参りの仕方が記されていたので、その通りやってみる。

一 正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。
二 心の中で願い事を唱えながら、石仏の周りを時計回りに3周する。
三 正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。

真冬の平日の昼下がり、周囲には人っ子一人いない中、たった一人で石仏の周りを3べんも回るのは照れるというか。

どうしても叶えたい願い事でもなければ、なかなかに気恥ずかしい。。

訪れる人が多い季節であれば群集心理が働いて「石仏も みんなで回れば 恥ずくない」のだろうけど。

ちなみに、このお参りの仕方は諏訪大社でもどこかのお寺でもなく、下諏訪の観光協会と商工会議所が提唱しているもの。

なるほど、どちらかと言えば宗教っぽさより観光臭の方を強く感じたお参りの仕方だったのも頷ける。

そんな俗世の些事など我関せずと、黙して何も語らない石仏に別れを告げた。

諏訪下春037*

暫くして後ろを振り返ると、冬枯れて寒々とした風景の中に石仏がポツンと座っている。

その姿はまるで、長年の風雪に耐えながら黙々と念仏を唱えているかのようにも見えた。

帰路は浮島を経由せず直進し、自動車も通れる大きな橋を渡る。

その手前にあるのが「万治の石仏」と刻まれた石碑。

揮毫は「芸術は爆発だ!」でおなじみ、故・岡本太郎画伯の手によるものだ。

万治の石仏が世間に広く知られるようになったのは20年近く前のこと。

御柱祭を見学に来た岡本太郎や新田次郎らが偶然この石像を見て驚嘆し、講演や雑誌の記事などで世間に広く紹介したのがきっかけだった。

岡本が万治の石仏を初めて見た時「世界中歩いてみたがこんな面白いもの見たことない」と語ったほどの衝撃を受けた。という

また、下諏訪温泉みなとや旅館の「岡本語録」には、

「奈良の秘仏より万治の石仏を見てると心が豊かになる」
「カッコ良さより内面が問題」

といった言葉が遺されている。

仏教の様式美に則ってカッコ良く彫刻された古都の仏像より、様式美を取っぱらって魂を刻み込んだ野良の石仏にこそ、内面から発せられる「爆発」的な要素を感じたのだろうか?

岡本太郎の専門家ではないので決め付けはできないが、概ねそうじゃないかと個人的には思う。

諏訪下春37*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]09

諏訪下春30*

コンクリート製の橋を渡ると「おんばしら館よいさ」という看板が見えた。

右に曲がると少し先、公衆トイレの向こう側に真新しい建物が立っている。

平成28(2016)年4月25日にオープンしたばかりの、御柱祭に関する観光施設だ。

御柱祭は7年に一度、十二支の寅と申の年に行なわれる諏訪大社最大の祭礼で、正式な名称は「諏訪大社 式年造営御柱大祭」と呼ぶ。

ちなみに「日本三大奇祭」のひとつとも言われているが、世に奇妙なお祭りは結構あり3つに収まるわけはないので、これはアテにならないだろう。

中に入るとロビーに御柱がたどる経路を説明した巨大な模型がお出迎え。

山奥で伐採されてから山出し、里曳きを経て各宮へ至るルートが記されている。

御柱祭は上社と下社それぞれ独立しており、実施日も伐採地も里引きのルートも全く別々。

つまり上社と下社で年に2回あるということだ。

次の間は祭の模様を大画面で紹介するシアタールーム。

祭の一部始終を追った10分ほどの映像を、椅子に腰掛けて見る。

テレビのニュースでは「木落し」の部分だけを切り取って“奇祭”っぷりをフレームアップする映像ばかり。

だが、こうして全体をまとめた映像に接すると、御柱祭に対する概念が更新される思いがする。

また、このブースには御柱祭の様々なシーンを再現したジオラマも展示されている。

御柱祭は山奥で選び抜かれた樹齢150年を超える樅[もみ]の木の伐採からスタート。

下社の場合は伐採後、下諏訪町大平の山腹にある「山出し」の開始地点「棚木場」で一年間、御柱を「醸成」させる。

山から里へ送り出す「山出し」が4月、各神社までの道中を曳行する「里曳き」が5月。

4社×4本、計16本の巨大な御柱を、氏子衆が地区ごとに別れて曳いていく。そして御柱を各社殿の四隅に聳立させる「建て御柱」という手順を踏む。

実際には、その後に行われる御宝殿の造り替えも含めて「御柱祭」であり、長い期間をかけて行われるのだ。

大勢の氏子が御柱に乗って急な崖を滑り落ちる「木落し」は、棚木場から約3km地点の「木落し坂」にて行われる。

あくまでも「山出し」の一部であり、ここだけを切り取って単なる“奇祭”とレッテル貼りするのは誤った認識なのだ。

とはいえ木落しが最大のハイライトであることにも違いはなく、それを体験できるブースが次の間に用意されている。

実際の御柱を忠実に象ったFRP製の模擬御柱に乗り、実際に滑り落ちていく映像が映し出される前方のスクリーンを見ながら、華乗(柱に乗る人)目線で木落坂を下る躍動感が体験できる大掛かりな装置。

ただ、入館料とは別に体験料が必要とのことで、今回は冷やかして終わり。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]10

諏訪下春31*

その隣の間には御柱祭で実際に用いられた騎馬行列の衣装や道具が展示してある。

御柱祭の起源については諸説いろいろあって定かではなく、遡れば縄文時代の巨木信仰にまで行き着くという説まであり思わず気が遠くなる。

実在する記録としては室町時代の文献『諏訪大明神画詞』にある、桓武天皇御代(781~ 806)の「寅・申の干支に当社造営あり」という記述が最古とのことだ。

諏訪大社は江戸時代まで密教寺院の性格を併せ持つ神仏習合的な存在だったため、御柱祭も仏教行事のひとつとして解釈されていた。

ただし、いかなる仏教の経典にも御柱の存在など見当たらないため、起源が仏教にないことだけは確からしい。

ひととおり館内を見学し終えて外に出た。

一度この目で見てみたいと熱烈に思ったが、直近の御柱祭は今年の5月に終わったばかり。

次回は平成34(2022)年まで待たねばならない。

それまで自分が生きているかどうか…。

何百年も続く御柱祭の野太い生命力に比べれば、自分個人のチッポケな生命など吹けば飛ぶよな儚い代物だ。

建物を出て右側の奥が広場になっていて、さらにその奥に

1本の御柱が据えられている。

これはレプリカで実際に使われたものではないが、実際に乗ったりできるので逆に有難い。

長さ約17m、直径1m余り、重さ約10トン。

実は4本の御柱は微妙に大きさが異なり、一之柱が一番大きく、次いで二、三、四之柱の順に長さも太さも小さくなっていくそうだ。

それにしても、これだけの巨木を社殿の周囲に4本も立てることに、どんな意味があるのだろうか?

個人的には「国譲り神話」で出雲を追われた建御名方神が、武甕槌神に対して立てた「洲羽(諏訪)以外の土地に出ない」という誓いを具現化したものだとばかり思っていた。

しかし実際に諏訪大社へ足を運んでみると、こうした「結界説」以外にも様々な説があることを知った。

例えば、御柱は山から降りてきた神の依り代であり、だからこそ諏訪大社には本殿がないという説。

神仏習合時代、仏教の須弥山[しゅみせん]で四方を司る四王天【東方持国[じこく]天/南方増長[ぞうちょう]天/西方広目[こうもく]天/北方多聞[たもん]天(毘沙門[びしゃもん]天とも)】をイメージして立てられたという説。

太古の昔、諏訪大社にも出雲大社のような天空まで届くかのごとき巨大な神殿が存在していた、その名残という説。

それぞれに説得力があり、どの説が正しいかなんて分かるわけもない。

いつ創建されたか分からないほど悠遠な歴史を誇る諏訪大社だけに、御柱に関する様々な神事や伝承が積層し続けた結果、多様な起源を有するようになったのではないか?

むしろ御柱の起源に関する多様性が、諏訪大社には建御名方神以外にも数多くの神様が潜んでいることを教えてくれる。

御諏訪様の正体とは、そもそも何者なのか?

御柱のレプリカを眺めながらそんなとりとめのないことを考えつつ、おんばしら館を後にした。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]11

諏訪下春38*

再び石鳥居の前へ戻り、手水舍の前から秋宮へと繋がる細い横道に入る。

先へ行くと三叉路…というか“音叉路”があり、先端部分に道標の石碑が立っている。

「左 諏方宮 右 中山道」

右の坂を登っていくと中山道に出るが、それは国道142号線…

つまり新道で、この古びた細い道こそ本来の旧中山道なのだ。

諏訪下春39*

三叉路の少し先に石塚が立ち並ぶ一角。

「白華山慈雲寺」の寺号標が立ち、参道が奥へ続いている。

石塚の中に龍の形状をした水口がある。

江戸時代中期、慈雲寺への参拝者のために作られたもので、同時に中山道を往来する旅人の喉も潤していたそう。

諏訪下春040*

龍の口を過ぎたその少し先に、木造二階建ての古い日本建築が見えた。

伏見屋邸という旧商家で、建てられたのは1864(元治元)年。

これを復元、修理して観光客の休憩や住民の交流の場として無料開放しているそうだ。

とはいえ旧中山道沿いには神社仏閣を除けば、これといってクラシックな建物は見当たらない、近代的な住宅が立ち並ぶごく普通の一般道。

だが、道端に立つ「番屋跡」という小さな石碑を過ぎると、道の両脇に古風な建物が姿を現し始める。
下諏訪の温泉街に入ったようだ。

諏訪下春041*

緩やかな坂道の途上に「旦過[たんが]の湯」という外湯がある。

八坂刀売神が上社からお湯を運んで来た桶が壊れてしまい、外れた箍[たが]が転がってきた場所が「タンガ」と呼ばれるようになったというのが名の由来。

また、龍の口のところで登場した慈雲寺の寮「旦過寮」がこの辺りにあり、そこから「旦過の湯」と呼ばれるようになった…とも伝わっている。

坂道を登りきったところで旧道は国道142号線と合流し、一本の中山道となって秋宮へ続く。
ただし道幅は旧道の狭いままだが。

諏訪下春41*

交差点を渡った先に「遊湯ハウス 児湯」という外湯がある。

名称こそスーパー銭湯のような俗っぽさだが、開湯の由来を辿れば和泉式部の伝説に行き着くという由緒ある温泉だ。

児湯の裏手にある来迎寺の境内に「銕焼[かなやき]地蔵尊」というお地蔵さんが鎮座している。

平安時代、顔に大ケガを負った「かね」という少女が来る日も来る日もお地蔵さんにお参りしていた。

そんなある日、かねの顔の傷が突然お地蔵さんの顔に移り、かねのケガがキレイに完治。

その後かねは美人に成長し、その噂は都まで轟き、時の帝から召し出されることに。

その少女かねこそ平安中期の女流歌人、和泉式部その人だった…という伝説。

とはいえ和泉式部の伝説は日本各地に数多く存在し、どれも実在した本人とは無関係な話とか。

だが、そんな瑣末なことなどどうでもいい話。

肝心なのは児湯が美人の湯、子授けの湯、そして立身出世にもご利益がある有難い温泉ということだ。

諏訪下春42*

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]12

諏訪下春043*

「児湯」の先に下諏訪宿の旧本陣が遺っている。

大名が宿泊する本陣の岩波家は江戸時代、ここに約1800坪の敷地に300坪の建物を構えていた。

当時の下諏訪宿は中山道最大級の宿場町であり、本陣の庭園は中山道随一とも謳われたほど。

現在では建物こそ半分程度になったが、庭園は江戸時代の優雅な景観を今なお披露し続けている。

また文久元(1861)年11月、皇女和宮が徳川将軍家へ御降嫁のため江戸へ向かう際ここに宿泊され、寝所となった上段の間もまた保存されている。

これらの諸施設は入館料を払えば見学できる、全てとはいかないが。

その本陣宿の系譜を継ぐ老舗旅館「聴泉閣かめや」の前に一本の縦に細長い石碑が立っている。

「甲州街道 中山道合流之地碑」

…ここは中仙道と甲州街道の「街道分されの地」。

下諏訪宿は中山道六十九次のうち、お江戸日本橋から数えて29番目の宿場町であると同時に甲州街道の終点でもある。

甲州街道は甲府で終わりだとばかり思っていたが、実はここまで延びていたのだ。

日本橋から甲府までは慶長7(1602)年に開通し、下諏訪までは同15(1610)年に延長された区間。

そのため甲府と下諏訪の間は甲州街道としての印象が薄いのだろう。

諏訪下春042*


分されの碑の奥に「綿の湯」と刻まれた石碑が立っている。

揮毫は永六輔。

八坂刀売神が諏訪大社上社付近で沸いた温泉を化粧用に使おうと、真綿に浸して桶に入れ小舟で諏訪湖を渡りここまで運んで来た。

ところが温泉は桶から諏訪湖へポタポタと漏れ続け、ここへ到着する頃には一滴もなくなっていた。

しかし漏れた温泉のおかげで諏訪湖近辺から温泉が豊富に湧き出し、それが今日の上諏訪温泉郷の基となったという。

一方、下諏訪に着いた八坂刀売神は「これじゃ化粧なんて…」と真綿を捨てたところ、そこから温泉が湧き出した。

それが「綿の湯」の起源であり、下諏訪温泉郷の基となったそう。

なお「綿の湯」は現役の公衆浴場ではない。

現在、源泉には上屋が建てられ大切に保存されている。

諏訪下春43*

両街道合流の碑から駅方面に「八幡坂」という細い下り坂が伸びている。

入口右側に立つ「まるや」は江戸時代の元禄年間創業で往時は脇本陣を務めていた老舗。

反対の左側に立つ「桔梗屋」も元禄3(1690)年創業という、これまた老舗の旅館だ。

少し先の左側には下諏訪町立歴史民俗資料館。

明治時代に建てられた商家を改修し、1階を無料休憩所として解放、2階は下諏訪宿に関する展示室になっている。

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社下社春宮]13

諏訪下春45*

その隣が万治の石仏のところで岡本太郎の言葉を引用したみなとや旅館。

岡本以外にも小林秀雄、白洲次郎・正子夫妻、永六輔といった著名人に愛されてきた宿である。

みなとやの前に「右甲州道 左中仙道」と刻字された小さな石碑が、ひっそりと佇んでいる。

この文字は白樺派の作家、里見弴が逗留した際に寄贈した書を基に刻んだものという。

万治の石仏といい綿の湯といい、偉大な先達が石碑に揮毫を残しているところに下諏訪という街の懐深さが垣間見える。

道を挟んだ向かい側にある「しもすわ今昔館おいでや」は、下諏訪観光協会が入居している大きなビル。

館内には時計博物館の「儀象堂」と、星ヶ塔黒曜石原産地遺跡など埋蔵文化財を展示する「星ヶ塔ミュージアム矢の根や」、館外には「御柱神湯」という足湯もある。

たかだか100m程度の小径ながら、これだけの歴史と文化がギュッと凝縮されているところが下諏訪という町の凄み。

とても駆け足では全て見尽くせないので、ここはザッと紹介するだけに留めて残念ながら素通りだ。

諏訪下春46*

八幡坂を下りきったところに下諏訪宿の高札場を模した広場がある。

高札場とは幕府や諏訪藩が決めた法度や禁令、犯罪人の罪状などを記した木の板札を、人目を引くよう高く掲げておく場所のこと。

中山道に限らず、特に大きな宿場町には旅人の往来が多いことから必ずと言っていいほど据えられていた。

目の前にあるのは最近できたレプリカだが、記されている内容は江戸時代のもの。

博打ダメ、人身売買ダメ、鉄砲撃つな、切支丹や放火魔を突き出せば高額の報奨金を進呈…といった項目がタップリ列挙されている。

現代は博打(公営競技に限る)や切支丹が許されているだけマシなのか? いや、それほど単純な話でもないか。

裏路地をブラブラしつつ、朝に出立した下諏訪駅へ再び戻ってきた。

ホームに出ると御柱祭で実際に用いられた「古御柱[ふるみはしら]」が横たわっている。

平成22(2010)年の御柱祭で秋宮に建てられた三之柱で、今年の御柱祭で「御柱休め」により役割を終え、払い下げられたものだ。

おんばしら館よいさに据えられていた御柱はレプリカだけに、こうして“本物”を至近距離で拝めるのは有難い。

その横に置かれているのは綱の巨塊。

今年の御柱祭で用いられる曳綱の予備として作られた、いわば“未使用品”だ。

かつて多くの氏子衆の魂が込められた御柱が今、こうして駅のホームで静かな余生を送っている。

その姿は、まるで下諏訪の街から身を挺して邪気の侵入を防いでいる古老の“衛士”のよう。

来訪時に改札口で出迎えてくれた万治の石仏のレプリカに別れを告げ、上諏訪方面行きの電車に乗り込んだ。

諏訪下春44*

[旅行日:2016年12月12日]
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