飛騨國一之宮「水無神社」

一巡せしもの[水無神社]01

水無01-001

岐阜駅から高山本線の各駅停車に乗車。

よくローカル線にあるボックスシートではなく、通勤電車にありがちなロングシート。

ボックスシートならアルコール片手にホロ酔い気分で寛げるのだが。

ロングシートとなると途端にアル中っぽくなるので、なかなか手を出せない。

間も無く高山駅、その手前で電車は飛騨一ノ宮駅に到着。

飛騨一宮水無神社の最寄り駅だが今日は素通り。

明日また改めて訪れることにする。

岐阜駅からローカル電車にゴトゴト各駅停車で揺られること3時間半。

高山駅へ到着した頃には既に陽も落ち、ホームは宵闇に包まれていた。

階段を上がると眩い光の中で真新しい駅舎が煌めいている。

その構内にひしめく大勢の外国人観光客。

飛騨高山に海外から観光客が押しかけているとは聞いていたが、これほどとは!

水無02-002

構内の雑踏をすり抜けて駅前に出る

底冷えのする12月の飛騨は雪が降っていないだけ幸いだったか。

駅構内の雑踏が嘘のように閑散としている街頭を北へ向かって歩く。

今宵の宿は「旅館いろは」。

高山の街並みに溶け込むように佇んでいる老舗の宿だ。

水無03-003

食事をするため宿を出た。

街の中心部を東西に貫く国分寺通りを東へ向かうと宮川にぶつかる。

この川を超えた向こう側が、飛騨高山を象徴する古い町並み。

だが今宵は川を渡ることなく、橋の手前で歓楽街へと魅き込まれた。

高山を代表する飲屋街、朝日町は厳冬の夜に訪れる酔客を吸い込んでいる。

だが、心に響きかけてくる店は意外と少ない。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[水無神社]02

水無04-004

暫くウロウロしていたところ、1軒の店にガツン!と行き当たった。

「串焼き かっぱ」。

見た目に風格を感じさせる店構えだが、いまひとつ価格帯が分からない。

それでも間違いはなかろうと扉を開けて中に入ってみると、これが正解だった。

築100年を超えるという建屋は飛騨ならではの建築様式を現代に伝える貴重な文化財的建造物。

ここの名物は飛騨牛の串焼き。

塩でシンプルに焼いた牛肉は柔らかく滋味深い。

朴葉味噌や漬物ステーキなど飛騨地方の名物料理がどれも旨い。

どぶろく特区で醸された地酒の濁酒と共に堪能した。

水無05-005

翌朝、宿で朝食後に庭を眺める。

キレイな箱庭のようにキチンと手入れされた庭は、宿が伝えてきた歴史を感じさせてくれる。

宿に荷物を預けて高山駅へ。

ただ、水無神社へは鉄道ではなく路線バスを利用する。

飛騨一ノ宮駅は高山駅の隣。

だが、高山本線を走る各駅停車が絶望的に少ないのだ。

それに比べて1時間に数本ほど運行されている路線バスは、鉄道を比較にならないほど利便性が高い。

バスは国道41号線、別名「益田街道」をノンビリ走っていく。

「飛騨」という国名は幾重にも連なる山や谷の風景が、まるで衣の「襞[ひだ]」のように見えるから…という説がある。

外は粉雪がハラハラと舞い、低く垂れ込めた雲と稜線の間から差し込む柔らかな日の光を浴びてキラキラと輝いている。

やがて、車窓の先方に「飛騨一宮水無神社」と大書きされた看板が見えてきた。

水無07-008

[旅行日:2016年12月10〜11日]

一巡せしもの[水無神社]03

水無08-009

看板の麓にあるバス停で下車。

高山駅から20分足らずで着いてしまうのだから、今の高山本線では太刀打ちできない。

というか、高山駅から水無神社に電車で行こうと思う人のほうが少ないか。

益田街道と水無神社の参道が交わる十字路の手前に歩道橋が架かっている。

その上に登り水無神社の方角を眺めてみた。

先刻から舞い続けていた粉雪は本格的な雪となって視界を白く染め、参道奥の山々に囲まれた辺りに佇む黒々とした社殿のシルエットを引き立たせている。

その社殿に背を向け、歩道橋を反対側へと渡った。

車が擦れ違える程度の細い道を歩いていくと眼前に川が見える。

宮川…高山で歓楽街と古い街並みを分け隔てていた、あの川だ。

水無09-010

川岸に沿って歩いていくと橋が見えてきた。

欄干に「一ノ宮橋」とあるが、朱塗じゃなければ擬宝珠もない。

多少デザインは凝っているが、ごく普通のコンクリート橋だ。

橋を渡ると突き当たりに赤い屋根の建物が見える。

JR高山本線、飛騨一ノ宮駅。

駅前へ続く沿道は特に商店街というわけでもなく。

民家やマンションが点々と立ち並ぶ住宅街である。

水無神社の参拝に鉄道は利用されてません…と言外に主張しているかのようだ。

入り口の屋根に鰹木っぽい装飾が施されてはいるが。

他に神社っぽさは特に感じられない、良くも悪くも“普通”の駅舎だ。

今までにも“一ノ宮”の玄関口たる鉄道駅を幾つか訪ねてきたが。

駅舎の規模的には三河や遠江、上総の各一ノ宮駅と同程度だろう。

ただ、外房線の拠点駅として首都圏の鉄道網を支える上総や、構内に本格的な蕎麦屋のある遠江のような華やぎはない。

水無11-012

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]04

水無12-013

山間の長閑な土地にヒッソリと根を下ろし。いつ来るとも知れない参拝客を待つ飛騨一ノ宮駅。

昭和9(1934)年に開業した時分には、水無神社への玄関口として大そう賑わっていたのだろう。

だが、昭和60(1985)年に無人化されてから既に30年以上もの年月が流れた。

現在では停車する列車も1日往復20本程度。

特に午前10時半ごろから午後3時ごろまでは1本の列車も止まらないという“完全”無人駅状態。

世界中から飛騨高山へと押し寄せる観光役をピストン輸送する特急電車を、ただただ見送る毎日。

だが、それもまた水無神社の玄関口に立つ門番の御役目だと考えれば、存在する意義があるというものか。

水無12*013

扉を開けて駅舎の中に入る。

目の前に現れたのは無人駅となって以来、まるで時が止まったかのような空間。

だがノスタルジックとかレトロスペクティヴといった情緒的なものではない。

国鉄が赤字の断末魔に喘いでいた昭和末期の陰鬱な雰囲気がエンバーミングされているというか。

永遠に腐らない死体を見せられているかのような、他に例えようのない既視感を覚える。

駅員のいない改札口を通り抜けてホームに出た。

対岸式のホーム2面を跨線橋が結んでいる。

無人駅なので跨線橋というより自由通路だが。

その橋に上がり周囲を見渡してみると、北側の線路脇に公園が広がっていた。

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[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]05

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入口横の石に刻まれた「臥龍公園」の文字。

国指定天然記念物「臥龍桜」のために整備された公園だ。

今でこそ周囲は小綺麗な公園として整備されているが。

もとは大幢寺[だいどうじ]の境内にあった。

なので往古は「大幢寺の大桜」と呼ばれていた。

昭和6(1931)年に同寺の第二十世住職、道仙和尚が「臥龍桜」と命名。

この名称は桜の幹枝が龍の姿に似ていることに由来するそうだ。

臥龍公園

臥竜桜は推定樹齢1100年を超える江戸彼岸桜[エドヒガンザクラ]の老木。

高さ20m、目通り(目の高さでの幹の直径)7。3m、枝張りは南北30mにも及ぶという大樹である。

母樹から伸び過ぎた枝が垂れて地に着き、そこから発根してもう1本の幹ができた。

新しい幹は母樹から養液を摂取する必要がなくなったため、中間の部分が枯れ落ちてしまった。

さらに昭和34(1959)年、伊勢湾台風の被害に遭い龍の首に相当する部分がポッキリ。

このため現在は母樹と新しい幹の2本の桜で龍を形どっている。

ちなみに枯れ落ちた部分の木は今でも地面に転がっていた。

臥龍桜に近寄り、枝張りを見上げる。

桜花の美しさは「飛騨・美濃さくら三十三選」にも選ばれるほど。

見頃は4月の中旬~下旬とのこと。

冬真っ盛りの現在では当然ながら蕾すら膨らんでいない。

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[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]06

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幹の根元を見ると小さな五輪塔が三基、横に並んでいる。

また、臥龍桜を囲む仕切りロープの右脇には小さな祠が。

五輪塔は三木國綱[みつぎくにつな]が葬られた墓、祠は三木家の祖霊社という。

國綱は戦国時代の武将で官途名[かんどな]を入道三澤[さんたく]、別名を一宮國綱とも言った。

別名の通り水無神社の神官の家に生まれ、宮司の職を継いでいた。

しかし社家を他に譲り、飛騨を治めていた姉小路家の家臣となり武将に転身。

天正13(1585)年、豊臣秀吉の命を受け飛騨に攻め入った金森長近の軍勢に敗北。

これに水無神社の氏子連が助命を嘆願、それが通って命拾いすることに。

それから暫く後、國綱は金森家に反旗を翻し「三澤の乱」を起こす。

ところが今度は長近の養子可重[ありしげ]の返り討ちに遭い、あえなく戦死。

その亡骸が臥龍桜の下に埋められている…というわけだ。

梶井基次郎作の名フレーズ「桜の樹の下には屍体[したい]が埋まっている」は、この故事が元に…なっているわけではない。

だが毎年秋には水無神社の宮司、大幢寺の住職、そして三木家ゆかり縁の人たちが集まり、祖先を供養する「三木祭り」を催行しているそうだ。

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[旅行日:2016年12月11日]

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飛騨一ノ宮駅

跨線橋を経て再び駅舎の前へ戻り、水無神社の方角を見る。

まだ「臥龍桜」駅と改名したほうが、観光客にアピールできるのではないか? と思ったが。

鉄道の、特に各駅停車の普通列車に観光アイテムとしての役割を期待する時代など既に終わっている。

莫大な費用をかけて改名したところで、観光に寄与する効果などタカが知れているのかも知れない。

そんなことを思いながら飛騨一ノ宮駅を後にした。

源流の里

駅前に「源流の里」と刻まれた大きな石碑が立っている。

宮川の源流は、ここから約20kmほど南の川上岳[かおれだけ]。

北に向かった宮川は富山県に入ると神通川[じんづうがわ]と名を変え、日本海へ注ぐ大河となる。

ここに「神使味女[アジメ]」という言い伝えがある。

「味女[あじめ]」とは宮川に棲んでいた水無大神の使い。

だが味女といっても人間の女ではなく川魚の泥鰌[ドジョウ]である。

その味女に水無大神が、一面の葦原だった御座山[みくらやま]一帯から水を抜くよう命令。

御座山、別名御旅山は水無神社の奥宮がある位山[くらいやま]の遥拝所。

古墳のような形状をした人造の丘陵で、いろいろと謎に包まれているという。

それはともかく、葦原が一転して農地になれば門前一帯は経済的に潤う…と思いきや。

味女が熱心に土を掘り過ぎたのか、川の水そのものが地下へと潜り「地下水流」に。

つまり水無神社の前を流れる部分だけ水流が消え、地上から見えなくなってしまったのだ。

この様子を当地では「水無河原」「覆河原」「鬼河原」「安河原」などと呼んでいたそう。

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[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]08

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益田街道を渡り、来たとき背を向けた水無神社の参道を進む。

奥に鳥居が立ち、その中から黒々とした社殿が覗いている。

手前には「常泉寺川」という細い川が流れ、上には小ぶりな「神橋」。

神橋は大きな神社に付き物だが、ここの神橋は一般道に架かる普通の橋だ。

現在、整備工事が行われている。

来るべきお正月に備えているのだろう。

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橋を渡ってすぐ右手に巨大な石碑が立っている。

表には「大原騒動 一宮大集會之地」の文字。

大原騒動とは明和8(1771)年から飛騨一円で20年近く続いた、日本近代史に残る一大農民一揆。

その終焉の地となったのが、ここ水無神社だった。

橋から細い道を挟んですぐ目の前に大鳥居。

その右側に「飛騨一宮水無神社」と刻まれた社号標が立っている。

社号「水無」の由来には諸説あるが、有力なのは「水主」…川の水源を司る神という意味。

読み方は「みなし」「みずなし」「すいむ」と色々あるが、神社は「みなし」と呼ぶ。

ドジョウの味女が土を掘り過ぎて宮川の水が消えた…と先述したが。

宮川の川床が上がって水流が伏流化して水無川になったのがホントのところ。

そこから水無[みなし]川とか水無瀬[みなせ]川原といった地名が誕生。

「水主」と「水無」が融合して「水無神社」という社号になったものと思われる。

鳥居は石造りのシンプルな明神鳥居。

朱に塗られてはおらず、素材の白色が剥き出し。

鳥居の左側には「国幣中社」と刻まれた古い石柱。

戦前に立てられていたものを今も保存してあるのだろう。

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[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]09

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境内に視線を向けると神社にありがちな朱色の彩りがまるでない。

隅から隅まで薄墨で描かれたようなモノトーンで統一されている。

飛騨一ノ宮駅の赤屋根は水無神社のどこを見て塗られたのだろう?

直接の関係は無いのかも知れないが、赤屋根が間抜けに思えてくるから不思議だ。

鳥居をくぐって境内に入ると、右側に妙にねじれた木の幹がある。

正確には幹の途中でバッサリ伐られた根の部分。

それでも目通り(立っている人間の目の高さの位置)で直径1。5mはあろうか。

これは「拗の木」といって、摩訶不思議な伝説を持つ檜[ひのき]の大木…の痕跡だ。

その昔、檜の高さが数十メートルにも達したことから、周囲の日当たりが悪くなった。

そこで社家や近所の住民が伐って用材にしようと画策したのだが。

檜は一夜のうちに幹はおろか枝葉に至るまでグニャッと拗[ね]じ曲がってしまったという。

それで「拗の木」と呼ぶのだとか。

一方、この木は江戸時代の中頃に、水無神社の貴重な森林を守る働きを見せている。

大洪水で宮川流域の橋や家屋が流出し、甚大な被害が発生した時のこと。

飛騨高山代官の大原彦四郎紹正[つぐまさ]は橋を再建するため、神域の大檜を用材として差し出すよう命令。

ところが大原騒動で酷い目に遭った村人達は、どうしても素直に従う気にはなれず。

そんな折、氏子衆の中に気転の効く者がいて、拗の木を示しながらこう復命した。

「木を切ろうとしたら、御神意なのか一夜でこんなに拗じれてしまいました」

すると「拗の木」だけでなく他の檜も切ることが沙汰止みになったという。

よく見ると幹は反時計周りに捻れている。

こうなった原因は陽光や風の影響による説、または内部で起こった細胞の分裂による説など諸説ある。

だが、決定的な原因は良く分からないそうだ。

それはともかく、村人からは昔から神霊の宿る霊木として篤く信仰を集めていた。

特に若い婦人衆がこの木に願をかけ、姑の意地悪を封じてもらったという言い伝えも残っている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]10

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「拗の木」の奥に太い杉の木が立っている。

推定樹齢およそ800年という老杉ながら、樹高45m、枝張り幅20m、目通り6。45mという巨大さ。

昭和38(1963)年9月10日には県の天然記念物に指定されている。

天然記念物としてより、水無神社の謎に包まれた歴史を見続けてきた生き証“木”としての価値のほうが遥かに高い。

もちろん、もしこの老杉と会話できればの話だが。

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老杉の影に、まるで隠れているかのように小さな御社が佇んでいる。

良く見ると摂社ではなく神馬舎で、安置されているのは白黒2体の木像。

この像は古くから語り継がれている伝説「稲喰神馬[いなはみしんめ]」に登場する「稲喰[いなはみ]の馬」だ。

江戸時代、毎夜のように田んぼの稲穂を食い荒らしている黒い馬がいた。

追い払うと駆け出したので後を追ったところ、馬場の納屋のあたりで姿が消えてしまった。

納屋を見ると板戸に黒馬が浮彫の形で貼り付いている。

その馬が神社の黒駒に似ていたので、これは神馬のいたずらであると考察。

黒駒の像から眼球をくり抜いたところ、耕作地が荒れることは以来なくなったという。

黒駒の作者は不詳だが、一説によると伝説の名工・左甚五郎の作とも言い伝えられている。

左甚五郎といえば江戸時代に活躍した伝説の名工。

日光東照宮の「眠り猫」に代表されるように、その作品は余りにもリアル。

それ故、ここの黒駒に限らず、木彫りの動物たちが夜な夜な歩き出したという伝説すらあるほど。

ちなみに納屋の戸板は水無神社に奉納され、明治初年に破却されるまで拝殿に掲げられていたという。

ちなみに、この黒駒は極めて素朴に作られているものの、解体するのは至難の業なのだそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]11

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黒駒の隣には木彫りの白駒が立っている。

こちらの作者は飛騨の工匠、武田万匠。

元々は黒駒だったが、明治15(1882)年に宮司が色を白に塗り換えた。

その際、腹部に武田の銘が発見されたという。

その昔、深夜に神社から馬の嘶[いななき]と蹄の音が聞こえる。

様子を見に行くと拝殿に神馬が放っぽり出されいることが度々。

これは「神様が神馬で夜な夜なお遊びなっているのだ」と噂が。

ここから「いななき神馬」という名が付いたそうだ。

神馬とは農耕や軍事への信仰面から神社に奉納されるものだが。

水無神社の神馬は農作業で用いられる牛馬の安全祈願に対する信仰が極めて篤い。

耕作向きの土地が極めて乏しい飛騨で土地生産性を上げるためには、牛馬の役割が極めて重要となる。

その信仰が昂じれば、超人気彫刻家だった左甚五郎に馬の像を作らせることぐらいわけなかったろう。

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神馬舎の隣に石碑が立っている。

そばに近づいて、刻まれている短歌を読む。

    きのうけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里

作者の名は島崎正樹…ご存知だろうか?

彼自身の知名度は低いが、息子のそれはすごぶる高い。

その名は…島崎藤村、言わずと知れた明治の文豪である。

国語の教科書にも登場する名作「夜明け前」。

主人公である青山半蔵のモデルこそ、実は父の正樹なのだ。

しかも正樹、ここ水無神社の宮司だったこともある。

明治7(1874)年11月13日の赴任から同10(1877)年12月8日まで約3年ほど、宮司として在職していた。

その「夜明け前」にも正樹が東京から赴任してくるシーンが描かれている。

140年以上も前の水無神社が、名著の中に息づいている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]12

水無27-026

歌碑の隣に摂社がひとつ鎮座している。

社号は「白川神社」。

この「白川」とは世界遺産にも指定されている合掌造りの里、白川郷。

正確には岐阜県大野郡白川村のことだ。

昭和32(1957)年に白川村で建設が始まった、本格的ロックフィルダム「御母衣[みぼろ]ダム」。

ロックフィルダムとは岩と粘土だけで巨大な壁を築き、水を貯める方式のダムだ。

同35(1960)年、東洋一の規模を誇る「御母衣ダム」は完成。

しかし、偉業への代償とでもいうべきか。

白川村の長瀬と福島の両集落がダム湖の底へと沈んでいった。

その前に、集落に鎮座していた氏神の白山神社を水無神社に遷座。

両神社を合祀し創建したのが、目の前にある白川神社というわけだ。

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ようやく楼門までたどり着いた。

“ようやく”と呼べるほど、境内は色濃いエピソードで満ち溢れている。

これといって目につくものがなかった美濃一宮南宮大社とは対照的だ。

しかし、参拝の前に手水舎で両手を禊ぎ、口を漱がねばならない。

ここの水は地下60mから汲み上げた伏流水という。

平成17(2005)年の平成の大合併で新制高山市が誕生。

この折「一之宮町」という地名が復活した際の記念事業だったそうだ。

ちなみに大合併後、高山市の面積は2177.61平方kmとなり日本最大となった。

これは東京都の2190.5平方kmから島嶼部405平方kmを引いた面積よりも大きい。

水無28-032

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]13

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それはさておき、付近の地名を「一之宮町」と呼ぶぐらい、水無神社の歴史は古い。

創建は神代と伝わっているが、太古の記録が散逸しており詳細な歴史は不明だ。

最古の記録は貞観9(867)年に従五位上の神位を授けられた…というもの。

元慶5(881)年には従四位上まで累進。

平安時代中期に編纂された格式『延喜式[えんぎしき]』でも小社に列せられている。

鎌倉時代に入ると神仏習合の影響を受けて「水無[みなし]大菩薩」を称するように。

神仏一体の両部神道を奉じ、本地堂一宇を建てて釈迦像も安置された。

高山駅から直線距離で北北東6。5kmのところにある真言宗の名刹千光寺。

ここは水無神社の別当寺で、社僧も置かれていたそうだ。

手水舎の前に蛙の石像が佇んでいる。

分水嶺に鎮座する水無神社に水棲動物の蛙とは、いかにも相応しい。

水を“支配”する神として祀られているのだろうか?

また、蛙は田んぼの害虫を食べてくれるので農民からも篤く信仰されてきた。

いずれにせよ、なぜここに蛙があるのか?

説明板が見当たらないので、本当の理由は分からない。

話を水無神社の歴史に戻そう。

室町時代の文明年間(1469~1486)頃、水無神社には祝部(はふりべ=古代の下級神職)が十二家あった。

うち棟梁家として山下と一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村3700余石に達していたという。

やがて各祝部が武士化して一宮党を名乗り、戦国時代に隆盛を迎えた。

ここに臥龍桜のところで登場した三木国綱が登場する。

天文~弘治年間(1532~1558)、宮司の一宮右衛門大輔国綱は飛騨松倉城主の三木(姉小路)[みつき(あねがこうじ)]自綱[よりつな]の妹を娶り姻戚関係に。

名を三木三澤国綱と改称し、神職を家臣の森某に譲り、山下城を築いて武将となった。

しかし三木三澤は金森家の軍勢に敗北。

先述の通り、臥龍桜の下へ埋められる羽目ことになったわけだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]14

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短い石段を上がると中央に楼門が立ち、左右に透塀が連なっている。

しかし入り口には大きな賽銭箱が立ちふさがり、立ち入れるのはここまで。

さて、新たに高山藩主となった金森長近は水無神社の御神威を崇敬。

慶長12(1607)年には近隣の農民に命じて普請を手伝わせるなどして再興を図ったという。

潮目が変わったのは元禄5(1692)年、六代頼峕[よりとき]の時。

金森家は出羽国上山[かみのやま]へ移封となり、飛騨は天領となった。

転封の理由は頼峕が何かしくじったというわけではもなく。

幕府が財政を安定させるため、飛騨の鉱山資源や山林資源に着目したからだと言われている。

飛騨代官の支配が続いていた安永2(1773)年、水無神社に大きな転機が訪れた。

それは門前に立っていた巨大石碑「大原騒動 一宮大集會之地」にある通り。

飛騨一円を巻き込む一大農民一揆「大原騒動」が勃発したのだ。

これに対して代官の大原彦四郎は武力を以って徹底的に鎮圧。

多数の農民が非業の死を遂げたり島流しに遭うなど、代官と農民の間に深い遺恨が刻まれる。

また、農民側に加担した水無神社への弾圧も例外ではなく。

山下和泉と森伊勢の両神職も騒動に連座した咎で処刑された。

この騒動によって古文書などの史料なども散逸したのだろう。

水無神社の存在は大原騒動によって一度、歴史上から抹殺されてしまったのだ。

安永7(1778)年、新たな神職として信州から梶原伊豆守家熊を招聘。

神仏混淆の両部神道を破棄して唯一神道に改め、阿弥陀堂や鐘堂、仁王門といった仏教的建造物を撤去。

併せて社殿の大改修を行い、祝や社司といった職名も宮司制へと改めた。

こうして面目を一新した水無神社は安永8(1778)年8月13〜15日の3日間。

飛騨国中の神々を招請して太々神楽を催し、新しい水無神社のスタートをアピール。

この太々神楽が今も続く「飛騨の大祭」のルーツだと言われているそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]15

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騒動の発端は彦四郎が幕命により検地の強行、年貢の増徴など過酷な圧政を敷いたこと。

彦四郎の度重なる約束の反故もあって農民たちの怒りは沸騰。

直訴や駕籠訴[かごそ]に及ぶも全く聞き入れられず、やがて打ち壊しなど行動が過激化していく。

また、農業生産能力に乏しい飛騨では山に住む領民達が「御用木元伐[ごようぎもとぎり]」といって、幕府の管理する山から材木を切り出す報酬として米や賃金を受け取り生計を立てていた。

ところが彦四郎は支出を引き締めようとしたのか元伐の休止を命令。

おかげで領民達は貧困のドン底へ突き落とされた。

「拗の木」のところで彦四郎が発した神域の大檜供出命令に対し、やんわりと村人達が拒絶したのも根底に元伐休止への反発があったという。

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屋根と賽銭箱の間から奥に鎮まる拝殿を眺めつつ、水無神社に鎮まる神様について考えてみる。

水無神社の祭神は水無神[みなしのかみ]。

主神の御年大神[みとしのおおかみ]外十四柱の神々の総称だ。

社号標のところで「水無」の由来は「水主」、川の水源を司る神という説が有力だと触れた。

宮川の源流川上岳から水無神社へ至る途中の位山[くらいやま]には水無神社の奥宮が鎮座している。

この水主の神が坐[いま]す聖域は日本を表裏に分ける分水嶺。

つまり水源と交通の要衝を鎮める「水の主」、それが水無神というわけだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]16

水無33*0029

主祭神の御年大神とは大年神[オホトシノカミ]のこと。

古事記には須佐之男命[スサノオノミコト]と、大山津見神[オホヤマツミノカミ]の娘である神大市比売[カムオホイチヒメ]との間に生まれた神と記されている。

大年神の「年」とは祈年祭[としごいまつり]の「とし」を意味し、豊年を司る霊力の象徴。

祈年祭とは神祇官が陰暦の二月四日、国庁で豊作を祈願して催行していた祭りのことだ。

大年神は民俗信仰の「年神様」と、ほぼ同一の神と見做されている。

「年神様」は正月になると各家庭へやって来る、非常にインティメイトな神様。

お正月様、年徳神、恵方神など、地方によって様々な呼び方がある。

もともと「年神様」は稲作を司る神様で、農家が祀っていた風習。

松飾りや鏡餅といった正月行事は、この風習に由来するものが多い。

れが年神様の原始的な姿であり、農耕の神である穀霊[こくれい](穀物に宿る霊魂)的性格がクロスオーバーした神が大年神といえよう。

だが、一之宮の中で大歳神が主祭神なのは、ここ飛騨一宮水無神社のみ。

その大歳神にしても、飛騨地方との間に特定の関係性は見当たらない。

そもそも創建当時から、ここの主だったわけでもないだろう。

では、水無神社の真の主とは誰だったのだろうか?

そのヒントは先述した別当寺、袈裟山[けさざん]千光寺の歴史にあった。

千光寺は今から約1600年前の仁徳天皇治世、両面宿儺[りょうめんすくな]が開山したと伝わる。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]17

両面宿儺
(「両面宿儺」像/円光作/飛騨千光寺蔵)

両面宿儺とは5世紀初頭ごろ、乗鞍山の麓に住んでいたとされる伝説上の怪人。

その姿は『日本書紀』仁徳天皇65年条に描写されている。

    ひとつの胴体と、背中合わせになった前後ふたつの顔面。
    ふたつの顔は頭頂で一つになるので、項[うなじ]はナシ。
    足に膝[ひざ]はあっても膕[よほろ=膝の後ろの窪み]はナシ。
    力持ちで敏捷で、左右に剣を帯び、左右2組(計4本)の手で2組の弓矢を射る。
    天皇の命に従わず、略奪を楽しみ民を苦しめていた。
    このため天皇は難波根子武振熊[なにわのねこたけふるくま]を遣わせ、これを殲滅。
    難波根子武振熊は大和の豪族、和珥臣[わにのおみ]の祖先である。

読むからに容貌魁偉、領民を苦しめる悪の化身みたいなイメージを受けるが。

「両面宿儺」とはヤマト王権がつけた賤称で、正体は古代飛騨地方を支配していた豪族の首長。

中央の支配に抵抗して飛騨を守ろうとした豪族を、ヤマト王権側がデフォルメしたものと言われている。

「両面宿儺」は高度な建築技術を持つ“飛騨匠”の集団を掌握して飛騨を治めていた。

そこには飛騨の風土に生きてきた人々の自尊心や自負心、篤い信仰心が投影されているに違いない。

水無神社と千光寺が密接にリンクしていた神仏習合時代の祭神は両面宿儺だったろう。

それが大原騒動で両部神道から唯一神道に改められた際、祭神が大年神に改められたのではないか?

では、なぜ新たな祭神に大年神が選ばれたのだろう。

飛騨地方は山岳地がほとんどで耕作に適した土地が極端に少ない。

そのため稲作の守護神たる大年神を主祭神に迎え、希少な農業生産を守ろうとしたのか。

しかし、それなら稲作ではなく林業の神を祀った方が理に適うだろう。

水無神社の祭神のことを考え始めると、謎が謎を呼んでキリがなくなる。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]18

水無34-030

拝殿正面の左右に青銅製の灯篭、その外側に狛犬、その更に外側に石灯籠が立っている。

この石灯籠は幾度も登場している代官の大原彦四郎が安永8(1779)年に寄進したものだ。

言うまでもなく彦四郎は江戸時代屈指の百姓一揆「大原騒動」の元凶(?)となった代官。

歴史上の呼称は「安永騒動」だが、代官の姓をとって「大原騒動」と呼ばれているところに一揆の根深さを感じる。

だがしかし、彦四郎は一揆の鎮圧と大増税による年貢収入アップの功績が高評価。

代官より格上の布衣[ほい]郡代に昇進する。

まさに領民を虐げて出世の階段まっしぐら…という悪代官の見本みたいな彦四郎だったが。

農民の苦難を顧みることもなく驕り高ぶった態度を諌めた妻を離縁。

翌日、安永6(1777)年8月15日、妻は自らの手で命を断った。

その後、彦四郎は眼病を患い失明し、神仏にすがる毎日を送る。

そしてこの灯籠を奉納した年、彦四郎は急病を発症。

高熱に魘[うな]される中、この世を去った。

非道の限りを尽くして立身出世を手に入れても、人生への幸福に結びつかなければ何の意味があろうか?

いや、彦四郎は自らの幸福のために圧政を敷いたのではなく。

幕臣として自らの任務を忠実に果たしただけなのかも知れない、多分。

だが、飛騨の苦難は悪代官が亡くなっても終わることはなかった。

悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれていったからである。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]19

水無35-031

楼門の向こう側、左手すぐのところに巨大な老木が立っている。

推定樹齢およそ800年という銀杏[いちょう]の大木だ。

落雷によって上部が欠損しているが、折れた場所から若枝が繁茂。

櫟[いちい]などの宿り木を抱え、もう何の木やら分からないほどの枝ぶりだ。

枝からは銀杏特有の乳[ちち]が垂れ、その姿は優しげな母親の面影を連想させる。

そのせいか古くから子授け、安産、縁結びに霊感あらたかな御神木として信仰されているという。

樹齢800年といえば西暦1200年頃から、この地に根を張っていることになる。

大原騒動の顛末はもちろん、鎌倉時代の神仏習合の頃から水無神社の歴史を見守ってきたのだろう。

余談だが、銀杏の乳は女性の乳房に見立てたもの。

ここだけではなく全国各地の神社で銀杏の乳が同様の信仰を集めている。

ちなみに銀杏の乳は英語でも「ChiChi」というそうだ。

水無36-034

楼門の前を離れ、再び鳥居の方を眺める。

乳白色の雲が空一面を覆い、時折り舞い散る小雪の彼方には、幾重にも連なる飛騨の山並み。

苦難に満ちた江戸時代を思えば、世界中から観光客が押し寄せる現代の飛騨地方は隔世の感がある。

水無神社が飛驒国一之宮に比定されたのは、実は明治維新以降のこと。

実は、どの神社が飛騨国の一之宮なのか記した江戸時代以前の史料が散逸しているため。

明治政府による神仏判然令により、数多くの仏像や仏教関係の古文書などが“廃仏毀釈”された。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]20

水無37-035

境内へ入ってすぐ左側に大きな建物がある。

絵馬殿。

その名の通り内壁には数多くの絵馬が掲げられている。

縦6本×横5本の柱が巨大な屋根を支えている。

壁は上部にしかなく、下部は吹き抜けだ。

棟札によると建造は慶長12(1607)年。

当時の高山城主、金森長近が造営したと記されている。

水無38-036

大原騒動の後遺症で両部神道が唯一神道に改められた際、仏教関係の一切が破却、移転、改築された。

そんな中、取り壊しを免れたのが拝殿だった。

江戸時代が終わって明治3(1870)年、当時の高山県知事は飛騨の国中から醵金[きょきん]を募って新たに社殿を造営。

その際、建築様式を神明造りに統一したため、従来の入母屋造りだった拝殿が不釣合いになり、取り壊されてしまった。

これを惜しんだ氏子衆は解体後の建材を保管。

明治12(1878)年、拝殿の再建を願い出た氏子衆は広く浄財を募り、保管していた建材を用いて元の位置へ復元したという。

その後、昭和に入ると政府の管理下で大造営が行われたが、第二次世界大戦の敗戦で中断。

さらに戦後の昭和29(1954)年、境内を拡張するため前に社家(山本家)の屋敷があった場所に移築。

昭和53(1978)年には柿[こけら]葺きだった屋根が銅板に葺き替えられ、高山市に編入される前の宮村重要文化財に指定されている。

水無39-037

絵馬殿の中に、ひときわ大きな看板が掲げられている。

絵は描かれていないので絵馬ではない。

墨書で大きく「大祭」と書かれているが、古い看板らしく字が掠れて読みにくい。

この大祭とは「飛騨の大祭」のこと。

飛騨地方独特の祭礼で、全国でも他に類を見ない神事という。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]21

水無138

そのルーツは、やはり「大原騒動」。

安永8(1779)年、一揆で荒廃した社殿の大造営竣工を記念して行われた遷座奉祝祭にある。

飛騨国中の代表神社から神輿や祭り行列を招請し、3日間にわたって催行された。

天下泰平や五穀豊穣などを祈願する一方、大原騒動で疲弊した飛騨の人々の心機を奮い起こしたそうだ。

「世相の凶[あ]しきを吉に返す世直しの大まつり」

この謳い文句こそ「飛騨の大祭」の本質を現しているだろう。

以来、飛騨各地の神社で凶時や異変の折に斎行され、今日に至っている。

字が掠れて読みにくい看板に、なぜ「大祭」と書かれているか分かったのか?

それは、全く同じ看板が鳥居の前に立っていたから。

違うのは日付が「平成二十九年五月三日より六日まで」となっていること。

平成二十九年…つまり次の大祭は来年開催される。

前回開催されたのは昭和35(1960)年というから、27年ぶりの斎行になるわけだ。

水無41-039

「大祭」の看板の隣には古い社号標が立っている。

いや、正確には社号標ではなく、表には「國幣小社」と刻まれているのみ。

通り水無神社は明治4(1871)年、近代社格制度の国幣小社に列格した。

翌年には世襲神主である社家を廃絶し、戦後の神社制度改正まで官選の宮司が任命されてきた。

島崎藤村の父正樹も、この官選宮司として赴任してきたことになる。

その隣には古びた木製の賽銭箱。

正面には神紋があしらわれている。

6つの瓢箪を「水」の字に合わせた形状。

安永年間に梶原大宮司が考案したと伝わっている。

瓢箪は古事記にも登場するほど、神代の昔から水を汲む器として用いられてきた。

主祭神の水無大神は水を司る神。

いかにも瓢箪は似つかわしい。

水無42*0039

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]22

水無43-040

大祭の看板や賽銭箱を眺めているうち、いつしか境内から出ていた。

鳥居をくぐった先を左手に向かうと、道標[みちしるべ]が立っている。

    右 位山道
    左 宮峠道

幾度か登場している位山は日本を表裏に分かつ分水嶺。

ここから「水の主」水無大神の坐す聖域と見做され、奥宮が鎮座している。

古来から霊山として名高い位山の山中には巨石群が存在する。

人為的に築かれた遺跡という見方もあるなど、かつては神秘的な霊場だったと考えられている。

これまた幾度も登場している両面宿儺は位山の主。

天舟に乗り雲海を掻き分けて位山に降臨したという古伝説もあるそう。

位山が持っていた宗教的神秘性が「両面宿儺」という伝説上の怪人に具現化されたという見方もあるという。

水無44-041

目の前で左右に別れた道のうち、左の宮峠道を進んでみた。

細い道の境内側には幅の広い側溝のような川が流れている。

木立の向こう側に、うっすらと本殿が見える。

明治時代に飛騨国一之宮と認定された水無神社は、昭和12(1937)年から神祇院の国営工事として莫大な国費を投入し前社殿の大造営を開始した。

昭和14(1939)年に第一期工事が完了するも、昭和20(1945)年の第二次大戦敗戦により造営途中で国家の管理下を離れることに。

神祗院官制の廃止や宗教法人への移行など紆余曲折を経て、ようやく造営工事が完成したのは昭和24年(1949)年のことだった。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]23

水無45-042

来た道を引き返し、大鳥居の前をグルリと回り込み、絵馬殿の裏を抜けて境内の北側へと向かう。

奥の駐車場から来る場合この北参道を抜けると、わざわざ正面に回ることなく楼門の前に出ることができる。

参道には資材を積んだ軽トラックが停まり、業者の男衆が来るべき正月の初詣に向けて黙々と作業を続けている。

だが北参道には進まず、山の方角へ続く道に向かう。

水無46-043

ここまでたびたび登場している“聖地”位山。

その名称は樫の木の一種「櫟[いちい]」に由来する。

位山には櫟の原生林があり、天然記念物に指定されている。

その昔、この櫟で謹製した笏[しゃく]を朝廷に献上。

笏というのは束帯で威儀を整えるため右手に持つ細長い板のこと。

聖徳太子の肖像画で手に持っているアレだ。

すると、朝廷から櫟の木に対して一位の官位が下賜された。

そこから木は一位、山は位山と呼ばれるようになったという。

現在でも天皇即位と伊勢神宮式年遷宮には、水無神社から位山の櫟製の笏が献上されているそうだ。

本殿北側にある境内林の散策を続ける。

そこに異形の樹相を呈している木を見つけた。

一つの根から3本の幹が空に向かって伸び、根元には無数の脇芽が噴き出している。

樹齢は推定450年、目通り7。2m、樹高30mとソコソコ大きい。

安永年間に大原騒動で荒廃した社殿を修繕する際、元木の一部を伐採して用材にしたとも伝わる。

その折に裏山が切り開かれ、元木が現在の場所に植え替えられたという。

水無47-044

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]24

水無48-045

大原騒動を引き起こした悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれた。

しかも職権濫用によるワルさの度合いがパワーアップ。

例えば過納金(農民に米一俵につき30~50文を過納させ、後で返す金)を返さないとか。

幕府が天明の大飢饉対策として農民に免除した分の年貢を取り上げて私腹を肥やすとか。

あげくに飛騨三郡の村々から総額6000両という大金を借り上げた。

借りた…というより、ハナから返す気などサラサラなかったのだろう。

これには農民はおろか名主や役人も怒りを募らせ、悪代官正純との戦いを激化させていく。

水無49-046

天明7(1787)年、クビにされた役人や失業した名主たちは何度も江戸に代表を派遣。

老中松平定信をはじめ幕閣に密訴状の投入や老中宅の門への訴状の添付を繰り返した。

さすがに幕府も看過できなくなったのか同年12月、代官所のナンバーツーである本締の田中要助が勘定奉行に呼び出されて江戸へ出向く。

そして寛政元(1789)年5月、飛騨に入った料所廻りの巡見史に対し農民が直訴して正純の悪行を糾弾。

さらに江戸で松平定信にも駕籠訴を行い念押し。

同年6月、ようやく重い腰を上げた幕府は高山に検見役を派遣するなど実状の調査に当たるが、ここでも正純は書類を改竄するなど不正を働いたという。

そして同年8月、今度は正純自身が勘定奉行から呼び出しを喰らい江戸表へ。

同年12月、ついに御沙汰が下り、今度は正純に“年貢の納め時”が来た。

まず、郡代大原正純は八丈島へ流罪。

もちろんグルだった他の役人も処罰された。

内訳は本締田中要助の打首をはじめ死罪2人、流罪1人、追放8人。

一方の農民側は駕籠訴の実行者こそ死罪になったものの、他の者はおしなべて軽い罰で済んだそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]25

水無50-047

水無神社を後にし、再びバス停に戻ってきた。

悪代官といえば「水戸黄門」などの時代劇で欠かせない存在。

だが、こうして現実的な存在感を目前に突きつけられると、物語の一要素に過ぎない“敵役”という認識を改めざるを得ない。

というか、現代社会でも社会的地位を利用して私腹を肥やす政治家や官僚は後を絶たないし、むしろ江戸時代に比べても「悪政」に対する罪の意識が薄いのではなかろうか?

切腹とか打首といった命を取られる過酷な処罰がない、執行猶予で何年か我慢すればチャラになる現代のほうが、政治に向き合う姿勢が甘くなるのも無理ないように思える。

水無51-048


バスを待ちながら停留所の窓から国道41号線を眺める。

先ほど訪れた飛騨一ノ宮の駅前から線路沿いを西へ5分ほど歩くと、「御旅山」という標高約20mの古墳状の丘陵がある。

実は人工の丘陵で別名「御座山」といい、古くから位山の遙拝所とされてきた。

一帯は公園として整備され、毎年5月2日の例祭では水無神社の御旅所として神興の御神幸が行われる。

ここで神事芸能(神代踊り、闘鶏楽、獅子舞など)が奉納され、その後は参拝者に御神酒「濁酒[どぶろく]」が振る舞われる。

ちなみに例祭で水無神社の濁酒を使用するのが公認されたのは昭和7(1932)年11月1日のこと。

現在は「構造改革特別区域法による酒税法の特例」という長ったらしい名の法律下で「臥龍桜の里・一之宮どぶろく特区」に認定されている。

ちなみに、どぶろく特区の認定は平成16(2004)年12月と、ごく最近のこと。

だが、飛騨高山における濁酒造りの歴史は“特区”という小手先の政策で括られるほどチッポケなものではない。

水無大神と飛騨国人の間を結ぶ“絆”ともいうべき存在なのだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]26

水無52-049

濃尾バスで再び高山駅に戻る。

昨夜は暗くて分からなかったが、陽光の下で見る駅舎の外観はモダンな印象。

随分と前に訪れた際の記憶に残る駅舎の面目は、どこにも見当たらない。

やはり外国人観光客を意識してのデザインなのだろうか?

次の目的地へはJRを利用しないので、このまま高山駅とはサヨナラだ。

水無53-050

せっかく飛騨高山まで足を運んだことだし、まだ時間にも若干の余裕がある。

そこで三町伝統的建造物群(重伝建)保存地区を散策してみることにした。

駅前から伸びる中央通りを東へ向かってズンズン進むうち、水無神社の前で別れを告げた宮川が再び現れた。

橋を渡った東側が三町重伝建保存地区になる。

高山は臥龍桜の項に登場した武将、金森長近が築いた高山城の城下町として生まれた町。

城郭の周囲を武家屋敷で固め、一段低い場所を町人の町とした。

城下町は一般に武家地が広く、町人地が狭いものだが、逆に高山は町人地のほうが武家地より2割も広いという。

しかも城下町には東西南北から街道が引き込まれ、経済に加えて政治などの面でも飛騨国の“首府”として機能。

狭隘で耕作地に乏しい飛騨だけに、長近は農業より商人の経済力を産業の中心に据えようとしたのかもしれない。

その町人地の一部が重伝建地区として現在にまで遺されているわけだ。

水無54-051

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]27

水無55-052

現在、三町には6つの造り酒屋が軒を連ねている。

そのいずれもが現役の酒蔵として、古ぼけた重伝建の街並みに生命の息吹を与えている。

ただ、扱う酒は清酒がほとんどで、あってもにごり酒かおり酒、水無神社の特区にあった濁酒はない。

それにしても決して米どころではない飛騨で、なぜ酒造りが盛んになったのだろうか?

酒造りには寒冷地が適していること、飛騨山脈=北アルプスの良質な水に恵まれたこと。

商業が産業の基軸だけに近隣の米どころから余剰米の調達も可能だったろう。

それでも米は貴重品に違いなく、酒にして保存する技術が発達したと思われる。

こうした条件が都合良くマッチし、良質で独特な地酒を生み出すことができたのではなかろうか。

水無56-053

三町重伝建地区の南端に風格のある和風建築が立っている。

明治28(1895)年から昭和43(1968)年まで町役場〜市役所として使用されていた「高山市政記念館」という公共施設。

当時の名工坂下甚吉が棟梁として最上級の官材を相手に腕を振るった総檜造りの建物というから豪奢な代物だ。

市役所としての役割を終えた後は公民館として利用されていたものをリニューアルし、昭和61(1986)年に高山市政記念館としてオープンした。

館内では明治期以降の高山地域の歴史と、平成17(2005)年に平成の大合併で誕生した面積日本一の大都市、新高山市誕生の経緯を紹介している。

悪代官大原親子の時代を例に紐解くまでもなく、江戸から明治にかけて飛騨地方の村々は概ね貧しかった。

そんな中、政治経済の中心地として大いに賑わっていた高山は明治時代初期、人口1万4000人を擁する岐阜県下最大の都市だったという。

その一方、なかなか交通網が整備されなかったため、都市の近代化は県内の他地区より大幅に遅れた。

高山が近代化に着手するのは昭和9(1934)年の高山本線全線開通と高山駅開業まで待たねばならなかったのである。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]28

水無57-054

平日の真っ昼間だというのに三町重伝建地区は国内外の観光客でごった返している。

江戸時代と変わらない道幅に大勢の観光客が押し寄せているので、明らかにオーバーフロー気味。

ゆっくりと建造物を見て回るどころの話ではない。

高山駅へ引き上げるべく橋を渡ろうとした刹那、袂に佇む石碑が目に止まった。

「高山の夜」と刻まれたその石碑は、昭和45(1969)年に発売された御当地ソングの記念碑。

岐阜県を地盤に活動する演歌歌手、しいの実[みのる]のデビュー曲だ。

作詞作曲は地元高山の人だが、しいの自身は九州の出身である。

それも大分県宇佐市…豊前一宮宇佐神宮の鎮座地。

飛騨と豊前の一之宮の間に結ばれた見えない絆が「高山の夜」を生んだ…というのは、こじつけ過ぎるか。

水無58-055

宮川を渡ると人の群れはまるで霧が晴れたかのようにスーッと消え去った。

「国分寺通り」こと国道158号線を駅の方角へ歩いていくと、右側に寺の入り口が見える。

飛騨国分寺、正式な名称を「金光明四天王護国之寺」という。

山門は国道から一歩奥まったところにあり、よくある普通の寺だと見誤れば何気なく通り過ぎてしまったろう。

この山門が建てられたのは元文4(1739)年、飛騨の名匠松田太右衞門の手によるものと棟札にはある。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]29

水無59-056

山門をくぐって境内に入ると、正面に鐘楼堂、その左奥に大銀杏、突き当たりに本堂。

大銀杏の左側には庫裏と太子堂、右側には三重塔と枯山水の庭が広がっている。

飛騨国分寺は天平18(746)年に創建された飛騨国最古のお寺さん。

開基は行基菩薩と伝わっている。

創建時は境内に七重塔、金堂、仁王門などが立ち並ぶ壮大な伽藍が広がっていたそう。

だが天正13(1585)年、金森長近の飛騨松倉城攻略に巻き込まれ被災。

その後、飛騨の領主となった長近は高山城を築城する際に国分寺の再興にも助力した。

本堂を大修理し、境内地を寄進、五重塔を再建したという。

水無60*057

参道を進んで鐘楼門を仰ぎ見る。

高山市の有形文化財に指定され、入母屋造りで上下二層に分かれている。

下層は旧高山城の遺構の一部を移築したもの、つまり戦国時代の建物。

上層は宝暦11#(1761)年、梵鐘を改鋳した際に増築されたもの。

上層と下層は全く別の時代に拵えられたものだが、そうは思えないほどの調和を見せている。

鐘楼門の隣に国の天然記念物、樹齢約千二百年という大銀杏[いちょう]が聳えている。

銀杏の葉が落ちれば高山に雪が降る…と昔から言い慣らされているほど、市民から愛されている老木。

樹間に乳のような気根が数多く垂れており、その姿から「乳イチョウ」の異名を持つ。

乳の出ない母親が願かけすると乳の出が良くなるとの俗信があり、今もお参りするご婦人の姿が絶えない。

ただ、この大銀杏は雄[おす]の木なので銀杏の実は出来ないそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]30

水無61-058

幹にポッカリ空いた洞 [うろ]に石仏が祀られている。

天平時代、七重の塔が建てられた時のこと。

大工の棟梁が柱の寸法を誤って短く切ってしまい、とても悩んでいた。

一人娘の八重菊は、柱の上に枡組を作って長さを補うことを提案。

塔は無事に完成し、枡組は装飾の役割も果たし、その出来栄えは評判を呼んだ。

しかし父親は「枡組」の真相が漏れて自身の名誉が損なわれることを危惧。

八重菊を口封じのため殺し、人柱として境内に埋めてしまった。

その塚の上に植えられたのが、この大銀杏だと伝承されている。

ただ、そのような事実が本当にあったのかは定かではない。

仕事のためには最愛の娘すら犠牲を厭わないという飛騨匠の謹厳さを喧伝するために創作されたエピソード…というのが真相のようだ。

水無62-059

境内の最奥に、国の重要文化財に指定されている本堂がデンと構えている。

現在の本堂は単層入母屋造りで屋根は銅版葺、昔は杮葺きだった。

昭和29(1951)年に本堂を解体修理した際、室町時代中期以前に建てられたことが判明。

また、正面向拝と東側は桃山時代に修理されていたことも分かった。

本尊の薬師如来像は行基の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。

また、旧国分尼寺の本尊で国重要文化財の聖観世音菩薩も国分寺に所蔵されている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]31

水無63-060

境内の西側に三重塔が立っている。

礎石上端から宝珠上端まで高さ22 mという小柄な塔。

だが、飛騨国内で唯一の塔建築だ。

初代七重塔が建立されたのは飛騨国分寺が誕生した天平13(741)年。

弘仁10(819)年に炎上し、斎衡年間(845〜857)に二代目五重塔を建設。

応永年間(1394〜1428)に兵火で焼失し、三代目五重塔が再建されるも、金森長近の松倉城攻めに遭い損傷。

元和元(1615)年、金森可重が四代目五重塔を再建した。

天和年間(1681~1684)に五重から三重に改築され、現在のスタイルに。

四代目も寛政3(1791)年、烈風で吹き倒されてしまった。

その後、庶民から喜捨浄財800両が寄せられ、約5500人もの大工の手により、文政4(1821)年に五代目となる三重塔が竣工、現在に至る。

塔内には本尊の大日如来が安置され、心柱には仏舎利が納めてある。

この塔の北側には初代七重塔の中心礎石だった跡が残されている。

直径約1。8メートル、地上全高約1メートルという巨大な花崗岩製の円筒だ。

中心には直径58センチ、深さ28センチの円孔が開けられている。

ここに仏舎利を納め、穴を石で塞ぎ、その上に塔の心柱が置かれていた。

この飛騨国分寺塔址は昭和4(1929)年、国の史跡に指定されている。

飛騨国に限らず国分寺の一般的な認知度は一之宮に比べて遥かに高いように思われる。

創設の経緯が歴史の教科書に記載され、試験勉強の中で覚えるからだろう。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]32

水無64*061

国分寺は天平13(741)年、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため勅願を発して各国ごとに建てた官寺。

だが、今でも諸国に存在する一之宮に対し、国分寺は結構な数が既に消滅している。

もともと国分寺は疫病や飢饉、反乱などの厄災を、仏教の力で封じ込めるために生まれたもの。

時代が貴族社会から武家社会に移り、権力者が変転するにつれて国分寺の存在意義も薄れていく。

中には廃寺になるものが現れても不思議ではない。

なお、現存する国分寺の中で創立当初の建築を保存しているものは一つもない。

それどころか、国宝や重文クラスの建築物を有しているのは総国分寺の東大寺を除くと飛騨、信濃、讃岐、土佐のたった4寺しかないのだ。

水無65-062

飛騨国分寺の大銀杏は葉が殆ど枯れ落ちていたが、伝承とは裏腹に積雪はなく、激しい降雪に見舞われることもなかった。

幸いではあったが、いくぶん風情に欠けた感があるのも否めない…そんなことを言ったらバチが当たるか。

いや、雪に邪魔されることなく水無神社へ滞りなく参詣できたのも、水無大神の御加護があってのことか。

そんな適当な考え事をツラツラと脳裏に思い浮かべつつ、高山駅前の濃飛バスターミナルへ戻ってきた。

短いようでいて、体感速度は更にアッという間だった高山滞在。

「今度は、もっとゆっくりいらっしゃい」

旅館いろはから去り際、老女将が掛けてくれた言葉を心の中で噛み締めつつ、高速バスに乗り込んだ。

[旅行日:2016年12月11日]
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