美濃國一之宮「南宮大社」

一巡せしもの[南宮大社]16

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南宮大社を後にして、来た道を垂井駅へ。

沿道には民家と空き地が交互に立ち並び、神社の参道というより素朴な田舎道といった風情。

そういえば南宮大社の境内もガランとして殺風景な印象を受けたが、その理由は参詣後に何となく分かった。

かつての南宮大社は神仏が習合した巨大な社寺だった。

そこから明治政府の神仏判然令で寺院の要素が排除され、真禅院として遠くに切り離されてしまった。

仏教の堂宇伽藍が存在した場所は空き地のまま、神社の境内として整備されたのだろう。

視界の遥か先、巨大な鳥居が再び姿を表す。

その存在感は、排除された仏教的色合いが再び帯びることのないよう警戒し、覆い隠しているかのようだ。

南宮042b

国道21号線を渡り、住宅街を抜けて垂井駅へ。

途中、東海道本線の踏切があった。

その上に立ち、垂井駅の方を眺める。

ここまで新幹線の高架下をくぐり、国道を渡り、在来線の駅へと向かって来た。

これら交通の大動脈は南宮大社の北側で次第に接近し、遥か南側を通る名神高速道路も北へカーブして寄り添い、不破の関あたりで交通路“四天王”が集結。

関ヶ原は今も昔も交通の要衝だと実感できる。

昼下がりの垂井駅南口は人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。

改札を抜けてホームに降りると、1枚のパネルが掲げてある。

 垂井が生んだ 戦国の軍師
 竹中半兵衛公の里

垂井町 垂井町が観光の中心に竹中半兵衛を据えている証だろうか。

南宮044

しかし半兵衛一本推しでは弱いような気もする。

そういえば南宮大社では関ヶ原の戦いについて、由緒に「兵火で焼失」としか記されておらず詳細な説明板もなかった。

先述の通り南宮山近辺は戦わずして趨勢を決した吉川広家をはじめ、安国寺恵瓊や長束正家、長宗我部盛親ら西軍の主戦力が布陣した場所。

関ヶ原合戦の南宮山近辺における情勢について解説する施設があってもいいような気もする。

パネルに描かれた軍師半兵衛公の不細工な絵を眺めつつ、そんなことを思った。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]15

南宮039

境内を後にして、来る時に通った門前町の方角ではなく、北側を通る県道に出る。

堀割が境内と道を隔て、短い石橋が両社をつないでいる。

この県道を道なりに進むと、突き当たりに朝倉山真禅院というお寺がある。

元は南宮大社の神宮寺で創建は天平11(739)年、開祖は行基。

当初は象背山[ぞうはいさん]宮処寺[ぐうしょじ]という名だった。

延暦12(793)年、桓武天皇の勅命を受けた伝教大師最澄により南宮大社と両部習合、つまり神と仏が一体化された。

同時に現在の南宮大社の鎮座地に移転し、寺号も神宮寺に変更、天台宗の寺院となった。

それから1000年以上も経過した明治初(1868)年、明治政府が神仏判然令を発令。

廃仏毀釈の荒波に神宮寺も抗うことができず、南宮大社と袂を分かち現在地へ移転。

当然「神宮寺」を名乗ることもできなくなり、寺号も現在の「真禅院」に変更した。

南宮040

南宮大社から真禅院へは道なりに進んでも1km弱程度の距離。

歩けば10数分で到着するだろうが、時間がなくて参拝を割愛した。

余裕があれば合わせて訪れたかったところだ。

南宮大社には江戸時代の社殿の配置を描いた古図が保存されている。

それには三重塔、本地堂、鐘樓など仏教関係の建造物の姿もある。

真禅院も関ヶ原の戦いで炎上した後、南宮神社と併せて家光が再建。

これらの仏教建造物も同時期に建てられた。

梵鐘は岐阜県最古、三重塔と本地堂は国指定の重要文化財。

北条政子が寄進したと伝わる鉄塔も立っているそうだ。

これらの仏教建造物群は廃仏毀釈の嵐をくぐり抜け、真禅院に移築され現在まで受け継がれている。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]14

南宮037

ハイキングコースに背を向けると、目の前にコンクリート製の宝物殿が立っている。

朱で彩られた和風の建物には刀剣や胴丸、駅鈴など数多の宝物が収蔵されている。

特に刀剣類が充実しており、その数は数十振に及ぶという。

中でも「三条」「康光」「鉾(無銘)」の3点は戦前の国宝で、現在は国の重要文化財に指定されている。

南宮大社が刃物の神様という面もあるが、かつて西美濃地方が刀鍛冶の中心地だったことも大きい。

ただ、残念なことに宝物殿が一般公開されるのは年に一度、11月3日の文化の日のみ。

なぜだろう? もったいない気がする。

南宮038

宝物殿の前に旧い社号標が立っている。

「国幣大社 南宮神社」とあるから戦前のもだろう。

この「南宮」という社号については「国府の南に鎮座しているから」という由来を既に記した。

これに対して南宮大社の宇都宮精秀宮司が「朝鮮半島と深い関わりがある」という新説を唱えている。

現在、韓国人の姓は「金」「李」「朴」など漢字一文字が圧倒的に多いが、中には漢字二文字の姓も8つほど存在する。

その中で最も多いのが「南宮[ナムグン]」という姓。

ルーツは古代中国の周王朝文王時代、古代朝鮮へ渡来してきた南宮氏の子孫と伝わる。

その南宮氏は製鉄に関係ある一族とも云われているそう。

大陸から朝鮮半島を経由して日本に鉄器が伝来したのは紀元前4世紀ごろのこと。

その経緯に絡んだ南宮氏が日本に渡来し、南宮大社の創建とも関わった…のかどうか。

ここまでくると考古学と歴史学の専門的な話になり過ぎ、門外漢の私には何が何だかチンプンカンプンだ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]13

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石田三成ら西軍の主軸が陣を敷く主戦場は南宮山から遥か北西の彼方にあり、南宮山は位置的に徳川家康本陣の背後に当たる。

毛利軍は戦況を見て南宮山を降り、家康の本陣を背後から攻撃する…というシナリオ。

これが成功すれば形勢は西軍の圧倒的優勢に傾く…はずだった。

しかし、戦が始まったものの毛利軍はピクリとも動かない。

なぜなら広家が毛利家の存続を図るため、秀元や恵瓊には内密のまま独断で家康と内通していたから。

恵瓊や正家、盛親は何度も出陣を促すが、広家は「天気が悪い」「兵が飯を食っている」などと適当にあしらい続けた。

そのうち、これまた毛利家連枝の小早川秀秋が西軍を裏切り、あっけなく天下分け目の戦いが終焉。

南宮山に布陣した軍勢は結局、東軍と一度も戦火を交えることなく戦を終えることとなった。

戦後、恵瓊は石田三成、小西行長とともに京都六条河原で斬首の刑に処せられた。

三成と行長は西軍の中枢だけに無理もないが、なぜ一度も交戦していない恵瓊が処刑されたのか?

西軍の総大将である毛利家が存続したのに比べると、死罪は重すぎる気もする。

毛利側の人間として敗戦の責を一身に背負わされたのだろうか?

ひょっとしたら南宮大社の社殿一切を焼き払った割に一度も戦に参加しなかった咎を「武器の神」でもある金山彦命から誅罰されたのかもしれない。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]12

南宮034b

奉納された刃物が軒下に据えられた木造の大きな建物は神輿社。

先述した5月5日の例大祭で活躍する神輿が安置されている。

この神輿は寛永19(1642)年に社殿が再建された際に家光が寄進したもの。

欅造りで金具には三葉葵の御紋があしらわれているそうだ。

それにしても、なぜ家光は多額の寄進を費して社殿を再建したのだろうか?

彼自身は江戸生まれの江戸育ちで、美濃国とは縁もゆかりもない。

実は寄進の裏にNHK大河ドラマにもなった超有名な乳母、春日局の存在があった。

春日局…幼名お福は天正7(1579)年、斎藤利三[としみつ]の子に生まれた。

利三は斎藤義竜、稲葉一鉄、織田信長と、美濃国に縁の深い武将に長らく仕えてきた。

お福として幼少時を過ごした美濃国は、かけがえのない土地だったに違いない。

春日局が没したのは寛永20(1643)年、南宮大社の再建が成った翌年のことだった。

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楼門から築地塀の外に出、南端の橋を渡る。

右手前は自動車用の祓所、左手側には「南宮山ハイキングコース」と刻まれた案内札。

南宮大社の背後にある南宮山は標高400m超と、ハイキングにはピッタリの低山だ。

拝殿の前で「安国寺恵瓊が陣を構えるため焼き払った」と述べたが、南宮大社だけでなくこの南宮山自体が毛利の陣営だった。

毛利家当主の輝元は西軍の総大将だったため大阪城に詰めており、関ヶ原の戦場には出陣せず。

代わって輝元の従兄弟である毛利秀元、家臣の吉川広家、それに恵瓊が毛利の軍勢として参戦していた。

毛利軍は南宮山に秀元、南宮大社に恵瓊、そして南宮大社の西、現在は岐阜県立不破高校のある場所に広家が陣を構えた。

このほか豊臣家五奉行の一人である長束正家と、土佐の長宗我部盛親も南宮山に布陣している。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]11

南宮033

両社の他にもう一つ、南宮に関係ある(らしい)神社がある。

平安末期の歌謡集『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』巻二に次のような一文がある。

「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚[おさな]き児の宮」

ここで言う「美濃国の中の宮」とは美濃一宮南宮大社、「伊賀国の稚き児の宮」とは伊賀一宮敢国神社のことではないかと推測される。

これを敷衍すれば「南宮の本山は信濃国」とは信濃一宮諏訪大社を指すことになるのだが。

諏訪大社は追って訪れる予定なので、ここでの詳述は避けることとする。

平安時代中期(905〜967年)に定められた延喜式神名帳に、諏訪大社は「南方刀美神社[みなかたとみのかみのやしろ]」の社名で記載されている。

無論「みなかたとみ」とは主祭神の建御名方[タケミナカタ]神を指しているのだろうが。

「南の方の刀が美しい神社」の名は諏訪大社より、むしろ南宮大社の由来に相応しいように思える。

また諏訪大社では古来、風と水を司る竜神を篤く信仰していたという。

風は砂鉄を精錬・加工するための蹈鞴[たたら]、水は錬鉄の鍛造に必要不可欠な存在。

こうした“状況証拠”からも「南宮の本山は諏訪大社」のように思えるが、これはあくまでも推測。

ただ、諏訪大社は上社に本宮・前宮、下社に春宮・秋宮と、全部で4つの社から構成されている。

大昔そのうちの一つが金山彦命を祀る南方刀美神社だったとしても不思議ではないように思える。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]10

南宮032

南宮大社、古くは仲山金山彦神社と呼ばれており、現在の社号になったのは江戸時代に入ってからのこと。

現在、日本に金山彦命を祀る神社は約三千社あるという。

金山神社など社号に“金”を含む神社が概ねそう。 南宮大社は、それらの総本社に当たるのだ。

ここで話は伊賀一宮敢国神社に飛ぶ。

rj05続敢國4T12

敢国神社の主祭神は大彦命[オオヒコノミコト]だが、そう定まったのは明治時代以降。

それ以前は現在の配神である金山姫[カナヤマヒメ]命と少彦名[スクナビコナ]命の両神が主祭神だった。

金山比咩命は伊邪那美命から金山彦命と一緒に生まれてきた神。

古代の製鉄所「蹈鞴[たたら]」に祀られている金屋子[カナヤコ]神は、金山彦命と金山姫命の御子とされているので、両神は夫婦神と見做されている。

少彦名命は伊賀地方に定住していた朝鮮半島からの渡来人一族、秦氏の信仰神。 海の彼方の常世の国から天の羅摩船[かがみぶね](ガガイモの殻の舟)に乗って現れ、大国主[オオクニヌシ]命と義兄弟となって共に国造りに勤しんだ神だ。

神産巣日[カミムスビ]神の子で、指の間からこぼれ落ちるほど小さかったが、これは指の間からこぼれ落ちる砂鉄のメタファーと見做されている。

つまり少彦名命は鉄であり、伊邪那美命の吐瀉物(=溶解した金属のメタファー)から生まれた金山姫命と併せ祀ることで、秦氏は自ら有する製鉄技術の護持と繁栄を祈念したのだろう。

敢国神社は最初、少彦名命を現鎮座地の背後にある山へ祀っていた。

後に麓の現在地へ遷座し、敢国神社が創建される。 空き家となった山に勧請されたのが当時、南宮大社に祀られていた金山姫命。

貞元2(977)年に金山姫命は麓の少彦名命と合祀。

その山は南宮山、敢国神社は別名「南宮明神」と呼ばれるようになった。

南宮大社と敢国神社は金山彦命と金山姫命という夫婦神の絆で結ばれているわけだ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]09

南宮029

南宮大社には寛永19年に再建された際の造営文書と棟札が今も残されている。

造営文書は623冊が現存。

使用された材木の寸法や値段、神輿、神事用の楽器や衣装などの記録が事細かに綴られており、建築史の側面からも非常に貴重な資料になっているという。

棟札とは棟上げや修理の際、工事の由緒や工匠の名などを記して棟木に打ち付ける木札のこと。

棟札は30枚が現存しており、その中には「征夷大将軍家光造営」と書かれた札もあるそう。

これら造営文書と棟札もまた社殿の付属物として国の重要文化財に登録されている。

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構造物を眺めていると廻廊の屋根や庇の下に並ぶ、鋸[のこぎり]や鏝[こて]、鋏[はさみ]などを収めた箱が目に付いた。

主祭神の金山彦命が金属の神であるところから奉納されたのだろう。

金山彦命は神武東征の折に金鵄(金色のトンビ)を飛ばし、熊野から大和への進軍を先導する八咫烏を補佐して勝利をもたらす霊験を発揮。

神武天皇即位の年、その功績を以って畿内と東国を結ぶ要衝の地に祀られた。

考古学上この金鵄は鉄製武器のメタファーではないかと考察されているそうだ。

古代において鉄製武器は軍事力の象徴であり、優秀な鉄製武器を製造できる技術を持つことは国家権力の掌握に直結していた。

もともと鉱山の神だった金山彦命が、刃物や包丁の守護神という新たな役割を担うようになった所以だろう。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]08

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壬申の乱から900年近く時代が下った慶長5  (1600)年、今度は天下分け目の関ヶ原合戦が起こる。

主戦場は現在の不破関跡から北に直線距離で約1km程という至近距離。

南宮大社も無論のこと戦乱に巻き込まれ、兵火で社殿群は焼失した。

というより、西軍の主戦力たる毛利家の総参謀である安国寺恵瓊が、ここへ陣を構えるため焼き払ったからなのだが。

関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わり、徳川の幕政も安定してきた寛永19(1642)年。

三代将軍家光は七千両(現在の貨幣価値に換算すると…約21億円!)もの大金を寄進。

美濃国代官の岡田将監善政を造営奉行に任じ、南宮大社を再建させた。

国重要文化財に指定されている社殿群15棟のほか、2つの石橋と中山道垂井本町に立つ石鳥居の計18棟を建立。

石橋と石鳥居もまた同様、国の重要文化財に指定されている。

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拝殿の横から伸びる廻廊越しに本殿を覗き込む。

本殿と弊殿は素木造り。

朱塗りも鮮やかな他の社殿群とは対照的なコントラストを描いている。

南宮大社にも屋根を葺き替える式年遷宮があるそう。

周期は51年と定められ、最近では昭和48(1973)年に行われた。

この時は文化庁の指揮下で2年余りの歳月をかけて社殿が修復されている。

本殿の右隣に摂社が立っている。

境内の案内図によると、これは樹下社だ。

南宮大社の摂末社は廻廊の向こう側にあり、築地塀の内側で参拝客が入れるエリアには一社もない。

境内がガランとして殺風景だったのは、ひとつも摂末社がないせいでもあろうか。

ちなみに廻廊の向こう側には本殿を中心に右側には樹下社と隼人社、左側には高山社と南大神社、本殿の奥には七王子社と5つの摂末社が鎮座している。

参拝できない場所にあるのは、なんか理由があるのだろうか?

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]07

南宮023

広い境内に手水舎がポツンと立っている。

四方の柱は鉄製で、少なくとも寛永19(1612)年より後の造営だろう。

むしろ国の重要文化財ではない建造物のほうが、この境内では珍しい。

広い空間の中心に舞殿が位置している。

南宮大社では「高舞殿」と呼んでいる。

過去の参詣でも拝殿と舞殿が相対している一宮は数多かった。

それらと比べても高舞殿は大きい部類に入るようだ。

江戸時代に造営された割に手入れが行き届き、

綺麗に保存されている。

特に軒下の蟇股に刻まれた十二支の彫像が繊細で美しかった。

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高舞殿にクルリと背を向け、相対して立つ拝殿へ向かう。

頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打って手を合わせる。

南宮大社の鎮座地は東国と西国の要衝に位置している。

両国を分けるのは西へ10kmほどのところにある「不破関[ふわのせき]」。

8世紀初頭、律令体制の整備に伴い設置された古代三関のひとつで「関ヶ原」という地名の由来になった施設だ。

もとは古代史上最大の内乱となった壬申の乱(672年)で、大海人皇子[おおあまのおうじ]が本営を設置した場所とされる。

不破関を抑えた皇子が壬申の乱に勝利し、その翌年、天武天皇に即位すると恒常的な関所として整備された。

ちなみに古代三関の他の2つは東海道の鈴鹿関と北陸道の愛発[あちら]関。

この三関から東の地域を東国とか関東と呼ぶようになったという。

つまり当時の感覚から言えば現在の岐阜県や愛知県も「関東」になるわけだ。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]06

南宮020

楼門は朱塗で、見上げていると首が痛くなるほどの巨大さ。

左右両袖には矢大臣と左大臣の木像が鎮座しており、随身門だと言えなくもない。

楼門をくぐって中に入る。

振り返ると矢大臣と左大臣の裏側に狛犬が配置されていた。

狛犬といえば拝殿の前に腰を落ち着け、参拝客に睨みを効かせているものだが。

ここでは目立たない場所にヒッソリ佇んでいる。

狛犬の存在に気づかないまま帰っていく参拝客も多いことだろう。

南宮021

楼門から内側も外側と同様、思いのほかガランとしている。

楼門と拝殿の間に建築物は手水舎と舞殿ぐらいしかない。

南宮大社の社殿群は和様と唐様が混在した「南宮造」という独特の様式。

本殿
弊殿
拝殿
樹下社
高山社
隼人社
南大神社
七王子社
回廊(左右)
勅使殿
高舞殿
楼門
神輿舎
神官廊

以上の15棟から構成され、すべて国の重要文化財に指定されている。

南宮022

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]05

南宮015

南宮大社の主祭神は金山彦命[カナヤマヒコノミコト]。

伊邪那美命[イザナミノミコト]が火の神である迦具土神[カグツチノカミ]を産んだ際、女陰に大火傷を負って苦悶する最中の嘔吐物から生まれた神とされている。

金山彦命は鉱山をはじめ金属一切を司る神。

しかし、なぜ嘔吐物から?

それは炎で融解した鉱物の姿が嘔吐物に似ているからとの説がある。

楼門の前には川が流れ、3本の橋が架かっている。

楼門の正面に架かるのが石輪橋。

造営時期は寛永19(1612)年で花崗岩製。

輪のようなアーチを描いていることから「そり橋」とも呼ばれている。

どこの神社でもそうだが、こうした高い円弧の神橋は神様専用で人間が渡れない場合が多い。

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石輪橋の下手に架かる、同じ花崗岩製の橋が石平橋。

ほぼ平らで、人間はこちらを渡ることになっている。

5月5日の例大祭で神輿が下向する際この橋を渡ることから「下向橋」とも呼ばれているそうだ。

石輪橋と石平橋の真ん中に、もう1本の橋が架かっている。

天板こそ木製だが両端のスローブはコンクリート製、朱塗りの欄干は金属製としっかりした造り。

石平橋が老朽化してきたので急遽、拵えたのかも知れない。

石平場が解体修理されたら取り壊される運命なのだろうか?

ただ現在のところ石平橋は通行可能で、どちらでも渡れる。

橋を渡ると正面の築地塀の前に石灯籠が立ち並んでいる。

他に目立った構造物のない境内で、塀の前に整然と並ぶ石灯籠は目を引く存在だ。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]04

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大鳥居から南へ向かって参道を進む。

沿道には商店なども特に見当たらず、いたって普通の住宅街。

突き当たると道がフワッと広がり、一本道だった参道が松並木で左右に分け隔てられる。

道の右手は南宮大社の専用駐車場、左手には数軒の店舗が立ち並んでいる。

料理店や雑貨店、その看板には「南宮大社御用達」の文字。

これらの店舗もまた南宮大社の施設の一部なのかも知れない。

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右側の道を先に進むと正面の入り口に出る。

五段ほどの短い石段を上がると社号標と一対の石灯籠。

その奥には幅広い参道が続くも両側には木々が疎らに立ってるだけ。

 境内は飾り気もなく非常にシンプルだ。

「南宮大社」という社号は美濃国府から南の方角に鎮座していることに由来する…と、境内の御由緒に記されている。

美濃国府は鎮座地から2kmほど北、現在の垂井町府中に8世紀中頃から10世紀中頃にかけて存在していた。

遺構の残存状況も良好で、平成18(2006)年1月26日には国府跡が国指定史跡となっている。

「五月大祭神事舞奉奏市場」の項でも触れた通り、もともと南宮大社は現在南宮御旅神社の所在する地に鎮座していた。

それが人皇十代崇神天皇の時代に現在地へ遷座して今に至るわけだ。

参道を進むと意外なことに気付く。

 鳥居が立っていないのだ。

 南宮大社の鳥居は中山道垂井本町と新幹線脇の2カ所だけ…ということになる。

石灯籠の間を通って境内に入っていく。

ガランとした敷地に乗用車が数台停車しているだけ。

これといって目を引く構造物は他にない。

良く言えば飾り気がなく、悪く言えば殺風景な空間が広がる。

南宮012

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]03


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祭礼の行列が大鳥居まで来ると、神輿は舞台の「神輿上がり」に安置される。

そして道を挟んだ向かい側に立つ「だんじり」で、男児による還幸舞が始まる。

こちらも国の重要無形文化財に指定されている。

「蛇山神事」は五穀豊穣を願う農耕信仰の神事で、こちらも国指定の重要無形文化財。

「神幸式」と平行して行われる 5日の午前1時、南宮山の奥にある蛇池より降神した蛇頭を宮代の市場野の祭礼場に運び、蛇山という高さ役十三㍍の櫓の上に取り付ける。

明け方から神輿が還幸するまで「ドンドコドンドコ」の囃子に合わせて蛇頭を上下左右に勢いよく揺り動かし、口を開閉して舞い続ける。

五人囃子の音色が一段とせわしくなると、蛇山の上の蛇頭と、だんじりの竜子舞が激しく乱舞して祭りはフィナーレを迎える。

例大祭の前日である4日には農作物の豊穣を願う「御田植祭」、別名「お田植え神事」が行われる。

3~5歳の少女たちが境内に仮設された斎田に、苗に見立てた松の葉を植え付け豊作を祈願するお祭り。

実際の田植えではなく松葉で模擬的に動作を行うスタイルは「庭田植え」というそう。

祭礼の形式は室町時代に完成したといい、現在では国の重要無形文化財に指定されている。

関ヶ原合戦で中止されたものの、江戸時代の寛永年間(1624〜1645)に社殿が再建された際に復活したという。

「お田植え神事」のメインキャストが幼い「稚児」や「早乙女」なのは、純粋な女児にこそ神様のエネルギーが乗り移れるため。

「神は稚児に宿る」という、日本に古くから伝わる神話の真髄が反映されたお祭りと言えるだろう。

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[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]02

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参道を進むと東海道新幹線の高架が目前に立ちふさがる。

その向こう側に聳立する朱塗りの大鳥居。

高架の脇だけに、ここなら新幹線の車窓からでも間近に見えるだろう。

大鳥居は鉄製で高さは21m。

東山道は無論、日本全国でもトップクラスの大きさを誇っている。

南宮006

鳥居をくぐった先の右手すぐのところに巨大な石柱と石造りの舞台が設えてある。

石柱に刻まれている文字は「五月大祭神事舞奉奏市場」。

ここは毎年5月5日に行われる例大祭の舞台となるところ。

例大祭は国の重要無形民俗文化財に指定されており「神幸式」「還幸舞」「蛇山神事」などが奉納される。

「神幸式」は南宮大社から北へ約2km、南宮御旅神社に至る道のりを三基の神輿が練り歩くお祭りだ。

もともと南宮大社は旧美濃国府に近い御旅神社に鎮座していたのが、後に現在地へ遷座したと伝わる。

年に一度、御祭神が神輿に乗って旧鎮座地へ帰還する神事が「神幸式」であり、別名「神輿渡御式」とも言われている。

「還幸舞」は御旅神社に到着した神輿が南宮大社へ戻る途中で行われる舞のことで「羯鼓舞」「脱下舞」「竜子舞」と3種類ある舞の総称だ。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[南宮大社]01

南宮001

石山駅から乗車したJR西日本の新快速は適度な混雑ぶり。

ほぼ満杯の乗客で埋まっていたが幸い空席をゲット。

昨夜の高速バス移動のせいか即、眠りに落ちた。

目覚めたら彦根駅。

次はJRの西日本と東海の結節点、米原駅だ。

乗り継いだ大垣行き普通列車も結構な乗客の数。

だが途中駅は降客ばかりで席がアッサリと空く。

もったいないことに30分弱で垂井駅に到着した。

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駅の北口を出ると駅前に銅像が立っていた。

「竹中半兵衛重治公」
 
戦国時代きっての軍師と謳われた竹中半兵衛は天文13(1544)年、美濃国大御堂城の生まれと伝わる。

大御堂城は現在の岐阜県揖斐郡大野町にあった古城で、現在は跡地に八幡神社が立っている。

永禄10(1567)年頃、織田信長に仕えて以来の働きぶりは衆知の通りだ。

駅前から町役場の前を経て,垂井の街並みを散策する。

垂井は中山道六十九次中、日本橋側から数えて57番目の宿場町。

垂井宿は現在でも往時の雰囲気が比較的残っており、宿場の趣を堪能できる町だ。

どこをどう歩いたかも分からないまま、東海道本線の踏切を渡り国道21号線に出ると、御所野交差点に参道への案内看板が立っていた。

交差点から南宮大社の門前まで約700m強。

徒歩なら15分弱で到着する距離だ。

南宮004

[旅行日:2016年12月10日]
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