近江國一之宮「建部大社」

一巡せしもの[建部大社]10

建部037

神門の前に来た。
ここから先が神域ということになる。

手水舎の奥に横書きの社号標。
「御鎮座壱千参百年式年大祭記念」とある。

白鳳4(675)年4月、近江国府があった瀬田の地に遷座してから約1300周年を記念してのもの。

それ以前は景行天皇46(西暦316)年に日本武尊の后である布多遅能伊理毘売命[フダヂノイリビメノミコト]が創建した神埼郡建部郷千草嶽に鎮座していた。

建部040

巨大な提灯の下をくぐって内側に入る。

目の前にあるのが御神木の三本杉。

建部大社の神紋は、この三本杉をデザインしたものだ。

天平勝宝7(755)年、孝徳天皇の詔により大和一宮大神神社から大己貴命を勧請した際、一夜にして成長したと伝わっている。

三本杉の先に拝殿。 ここは祈祷所としても使われている。
拝殿を祈祷所に用いるのは他の神社と同じだが、その割に拝殿は小さ目だ。

拝殿と本殿を幣殿が結んでいる。

だが“殿”と呼べるほどの規模ではなく、壁がない切妻屋根の東屋のような形状をしている。

近寄れるのは拝殿までで幣殿から奥には立ち入れない神社が多い中、ここは本殿まで肉薄することが可能だ。 幣殿の奥に本殿が鎮座している。

だが、ここは他の一宮と異なり本殿に建物が2つあり、左右に並んで立っている。

これまで両殿を合わせて“本殿”と呼んでいたが、正式には左側が本殿、右側は権殿という。

ちなみに両殿の大きさは全く同じだ。

左側の本殿には主祭神の日本武尊が祀られている。

ただ、和泉一宮大鳥大社とは異なり、薨去した日本武尊が白鳥に姿を変えて飛び立って行ったという「白鳥伝説」とは直接の関係はないという。

建部043

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]09

参道の右側に主祭神ヤマトタケルの生涯を解説したパネルが並んでいる。

シャープな絵柄で描かれたイラストをもとに5段階に分けて解説している。

建部032
〔1〕ヤマトタケルの西征 オウスノミコトと呼ばれていた若き頃、九州の熊襲健[クマソタケル]兄弟を女装して成敗した章。

熊襲兄弟から「タケル」の名をもらい、日本武尊[ヤマトタケルのミコト]と呼ばれるようになった。

建部033
〔2〕ヤマトタケルと草薙の剣 東国征伐を命じられたヤマトタケルが相武国造の罠に嵌められて暗殺されそうになった章。

天叢雲剣[アメノムラクモノツルギ]と火打石で起死回生した逸話は相模一宮寒川神社の項で紹介。

建部034
〔3〕后・オトタチバナヒメの入水 今の神奈川から千葉へ船で渡ろうとしたヤマトタケルが嵐に巻き込まれて立ち往生した際、后の弟橘比売命[オトタチバナヒメノミコト]が海に身を投じて嵐を鎮め、無事に渡海することができたという章。

ヤマトタケルがオトタチバナを偲んで叫んだ「吾が妻よ!」という言葉が、この一帯の地名に。

浅草駅前、隅田川に架かる「吾妻橋」の名は、この故事に由来している。

建部035
〔4〕ヤマトタケルと伊吹山の神 東国を平定したヤマトタケルが、今度は伊吹山に棲む悪の神を退治に出向く章。

ところが悪神の返り討ちに遭い、這々の態で脱出する逸話は和泉一宮大鳥大社の項で紹介。

建部036
〔5〕ヤマトタケルと白鳥伝説 大和国へ帰還する途中で力尽き、伊勢の能褒野で息を引き取るの章。
ヤマトタケルの魂は白鳥となり、西へ翔び立ったという逸話も和泉一宮大鳥大社の項で紹介。

このようにヤマトタケルの生涯については主に和泉一宮大鳥大社の項で触れているので、そちらを参照頂けるとありがたい。

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]08

建部023

道の先に社号標が見えてきた。

左側手前に立つ細い標柱は「官幣大社建部神社」と刻字された古いもの。

明治初頭に制定された近代社格制度で建部大社は官幣大社に分類されていたわけだ。

建部024

右側奥には新しい社号標が立ち、その脇にある一ノ鳥居から奥へと参道が伸びている。

旧社号標の「官幣大社建部神社」から新社号標は「近江國一之宮建部大社」へ。

戦後に近代社格制度が消滅した折、神社の名称のほうを「建部神社」から「建部大社」に変更することで、かつて官幣大社だった証を現代に伝えようとしたのだろうか?

一ノ鳥居は石造りのシンプルな明神鳥居。

その華美な装飾のない佇まいは武神として崇められてきた歴史の顕れだろう。

建部神社の「建部」とは古代の軍事的な部民「建部[たけるべ]」(武部とも書く)に由来する。

「たける」は勇者の意味。

「べ」は大化の改新以前、ヤマト王権に属し、朝廷や豪族の支配下で労力や貢物を提供した人々の集団のこと。

部の前に職能名を付けて呼ばれることから、建部(武部)は軍事に従事する人々の集団ということになる。

一ノ鳥居をくぐり参道を進む。

参道が尽きるあたりで左折すると正面に二ノ鳥居が聳立していた。

二ノ鳥居は一ノ鳥居を少し小さくした感じで石造りの明神鳥居。

形状は全く一緒だが、扁額はなく額束になっている。

二ノ鳥居をくぐると両側に石灯籠と松の木が立ち並ぶ玉砂利の参道。 その奥に神門が姿を見せている。

建部029

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]07

建部020

建部大社に向かって進むと道の右側に空き地が広がっている。

入り口の標柱にある文字は「御旅所」。

祭礼で神社を出発した神輿を仮に奉安する場所だ。

さらに先へ進むと今度は道の左側に「たにし飴」の看板。

たにし飴? 「たにし」とは田んぼに生息する淡水巻貝「田螺」のことか?

だとしたら、この飴は田螺のエキスを練りこんであるのか?

調べてたら田螺そのものとは何の関係もないそう。

製造元の辻末製菓舗は1880(明治13)年創業の老舗。

原料は黒糖とニッキ(肉桂)で田螺関係は入っていない。

田螺のような円錐形をしているので「タニシ飴」と命名したという。

だが今や田螺を見かける機会もまずなく、タニシそのものの意味が通じにくい時代になったようだ。

建部021

「たにし飴」の看板を見上げながら三叉路を渡ると、信号機の上に「神領」の文字。

建部大社が鎮座する土地の名だ。

昔この一帯が建部大社の神料田[しんりょうでん]だったことに由来するという。

建部022

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]06

建部019

瀬田唐橋を渡り東詰へ。

既にお天道様は頭上にある。

大津駅へ未明に到着してから随分と回り道したようだ。

「急がば回れ」という諺が生まれたのはココ、瀬田の唐橋。

「もののふの 矢橋の舟は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」

室町時代、連歌師の柴屋軒宗長[さいおくけんそうちょう]が詠んだこの短歌に由来している。

矢橋[やばせ]とは草津宿にある矢橋港のこと。

琵琶湖を横断して大津宿石場港と結ぶ渡し舟を利用すれば、陸路を唐橋経由で行くよりも遥かに時間を短縮できたという。

ところが、もののふ(武者)の漕ぐ渡し舟は比叡山から吹き下ろす突風で転覆する確率も高かった。

このため瀬田唐橋経由の陸路を選んだほうが、リスクの高い航路よりも安全確実に大津へ到着できるというのが、この句の意味。

やがて近江国限定の内容から「何が起こるか分からない危険な近道より、遠回りになっても安全確実な道を選んだほうが、逆に早く目的地へ着ける」という普遍的な意味の諺となり。

さらに道路の選択から転じて「リスクを冒すより手堅い安全策のほうが早く目的を達することができる」という社会的な意味合いにも使われるようにもなった。

一之宮巡礼なぞ自家用車でビューッと回ればアッという間に終わるだろう。

バスや電車など公共交通機関での巡礼なんて単なる時間の無駄かもしれない。

ただ、先ほど京阪電車に乗車した石場駅が「急がば回れ」因縁の地だったのは、公共交通機関による巡礼が「急がば回れ」的に間違っていないという神の啓示なのかもしれない…と、勝手に思った。


[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]05

建部016

朝の通勤通学時間帯とあってか、土曜日とはいえ交通量は多い。

学生たちの自転車を避けつつ、短い橋を渡る。

瀬田唐橋は中洲を間に挟み大橋と小橋の2つの橋で対岸と結んでいる。

小橋を渡ると中洲に建部大社への案内板が立っていた。

風光明媚な景勝地だけに中洲や川辺には宿泊施設や料亭などが立ち並んでいる。

 だが瀬田唐橋が観光名所になったのは実は江戸時代に入ってからのことである。

1950年代末に瀬田川大橋が竣工するまで、瀬田唐橋は瀬田川に架かる唯一の橋だった。

このため東国から京へ陸路で入るにはここを通る以外なく、まさに京都防衛の“要”。

「唐橋を制するものは天下を制す」と謳われるほど、たびたび歴史の節目となる“戦場”となった。

その嚆矢は天武元(672)年の「壬申の乱」にまで遡る。

承久3(1221)年の「承久の乱」や元弘3(1333)年「建武の新政」など、幾度となく戦乱に巻き込まれ焼け落ちてきた。

「瀬田の唐橋に風林火山の旗を立てよ」

戦国時代の元亀4(1573)年、天下統一を目指して上洛の途上で病没した武田信玄が今際の際に残したという有名な遺言だ。

信玄が本当に言ったかどうかは分からないが「ここを押さえれば天下を取ったも同じ」という意味では、瀬田唐橋が持つ地政学的な重要性を十分に言い表しているように思える。

建部017

織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしてから4年後の天正3(1575)年。

信長は瀬田城主の山岡景隆[かげたか]に命じ、上流にあった橋梁を現在地に付け替えさせた。

景隆は長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)の一本橋を3ヶ月という突貫工事で完成させたそう。

ところが、それから7年後の天正10(1582)年に起こった「本能寺の変」で明智光秀軍は安土城へ進攻。

それを阻止するため、皮肉にも景隆自身が瀬田唐橋と瀬田城に火を放ち焼き払う羽目となった。

その明智光秀を豊臣秀吉が討ち、天下を統一。

このとき瀬田唐橋は現在の“二重橋”状態に整備されたという。

徳川幕府の治世に入り天下泰平の社会が訪れると、瀬田唐橋は血で血を洗う戦場から風光明媚な景勝地へと姿を変える。

歌川広重は浮世絵に描き、松尾芭蕉は「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」と句に詠み、唐橋の名は全国に知れ渡ることになった。

建部018

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]04

建部013

旧東海道を南進し鳥居川交差点へ出る。

ここを左折すれば正面に瀬田(の)唐橋。

宇治川の宇治橋、淀川の山崎橋(現存せず)と並ぶ「日本三古橋」のひとつ。

その歴史は古く日本書紀にも「瀬田橋」「大橋」「長橋」の名称で登場している。

橋の手前に踏切がある。

先ほど石山駅で下車した京阪石山坂本線。

その左側に小さな駅、唐橋前駅が見える。

次が終点の石山寺駅。

天平19(747)年創設の古刹、石山寺の最寄り駅だ。

東大寺の大仏造立で黄金の不足に悩んでいた聖武天皇が、夢のお告げを受けて建立。

奈良時代から観音信仰の聖地として朝廷や公家から篤く崇拝されてきた。

また、ここで紫式部が「源氏物語」の着想を得たことでも知られている。

源頼朝や足利尊氏、淀君らも後ろ盾になっており、おかげで戦国時代も災禍の被害が比較的少なかったとか。

戦乱で幾度も落橋した瀬田大橋とは対照的だ。

このため国宝の多宝塔をはじめ数多くの文化財が残されているという。

ただ今回は時間が割けず、拝観は残念ながら断念した。

建部014

踏切を超えて古風な木造建築の前を通り過ぎ、瀬田唐橋の西詰に出る。

様々な名称で呼ばれていた橋が「唐橋」と呼ばれるようになったのは鎌倉時代.

中国風の橋に架け替えられたことがきっかけだったという。

さらに「瀬田」という地名も昔は「勢多」「勢田」「世多」など様々に表記されていた。

それらが行政上の地名として「瀬田」に統一されたのは明治22(1889)年と意外に最近。

とはいえ眼前に架かる橋は擬宝珠こそ古風だが、何の変哲もないコンクリート製の橋。

現在の橋梁は昭和54(1979)年に架け替えられたもの。

擬宝珠は旧橋のものを再利用し、緩やかな反り具合は往時の姿を反映しているそうだ。

建部015

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]03

建部009

踏切を渡って大津警察署の角を曲がると湖岸道路に出た。

左側に見えるNHK大津放送局の方角へ歩くこと数分。

小さな無人駅、京阪石場駅に着いた。
ホームに上がって電車の到着を待つ。

緩やかなカーブを描いた線路の彼方から2両編成の小さな電車が現れた。

土曜日とあってか車内は空いている。
部活動へ向かう中高生の姿が目立つ程度だ。

10分ほどで京阪石山駅に到着。
階段を登りつつホームを振り返る。

建部010

「石山坂本線へようこそ!」
二次元の美少女「鉄道むすめ」石山ともかが挨拶してくれた。

「鉄道むすめ」とは全国各地に実在する鉄道会社の職場で実際に活躍している様々な職種をキャラクター化したコンテンツ。

彼女の職業は運転士で、名前は石山坂本線の両端、石山寺と坂本の両駅名に由来するそう。

 石山駅は京阪とJRの接続駅。
ペデストリアンデッキが両駅を結んでいる。

改札を出、まずは駅前商店街へ向かった。
朝から何も食べておらず、とりあえず何か食べたい。

幸いなことに角を曲った途端「めしや宮本むなし」と出くわしたので嬉々として入店。

ここは中部と関西を中心に展開する定食屋チェーンで、逆に首都圏には一軒もない。

関西の人間にはお馴染みでも、関東の人間にとっては非常に珍しい存在。
朝食の和定食を有難く頂いた。

石山駅前から南へ伸びる旧東海道を歩く。
沿道に旧街道の面影は全く残っていない。
だが、五街道筆頭という格式の高さだけは感じられる気がした。

途中「TORAY」の看板を掲げた石柱を発見。

大正15(1926)年創業の化学繊維メーカー「東洋レーヨン」の歴史は、ここに建造した滋賀工場からスタートした。

その後は社名を「東レ」に変更、現在では化繊の範疇を超えた総合化学メーカーに。

歴史がスタートした滋賀工場は後に滋賀事業所と名を変え、現在でも国内の生産拠点として稼働している。

建部012

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]02

建部004

大津駅から10分も歩けば琵琶湖の湖岸に出る。

湖面は夜明け前の闇に溶け込み、濃紺の空色の中で穏やかな波が岸辺に打ち寄せている。

滋賀県の面積の1/6を占める琵琶湖。

その大きさは地図を見れば理解できるが、直に見ると印象は全く違う。

これはもはや、海。

ただ、磯の香りがしないだけだ。

建部006

琵琶湖から大津駅に戻る途中、旧東海道と交差した。

東海道五十三次のうち大津宿は江戸から数えて53番目、つまり最後の宿場町。

ここまで来たら、いっそ京都へ直行すればいいのに…と現代人の自分は思うのだが。

ところが大津宿、実は東海道五十三次中でも最多の人口を有する最大の宿場町だった。

 江戸時代の大津は宿場町に加え、琵琶湖水運の要となる港町の機能も併せ持っていた。

「津」という言葉は「舟着き場」とか「渡し場」という意味。

まさに「大津」という地名は、街の体を表しているわけだ。

宿場と港、両方の機能が大津を東海道五十三次最大の宿場町に押し上げる要因になったといえる。

 東海道を西へ進むうち、次第に夜が白々と明けてきた。

新聞配達の自転車とすれ違い、一日が始まる息吹を感じる。

この狭い道幅は自動車でなく歩いて旅する人々に合ったサイズ。

古街道ならではの歴史を今に伝えているかのようだ。

先方に京阪石山坂本線の踏切が見えてきた。

中央大通りからここまで1キロ弱。

僅かな距離ながら東海道の風情を味わえた…ような気がする。

建部008

[旅行日:2016年12月10日]

一巡せしもの[建部大社]01

建部001

深夜23時を少し回ったあたり。

紫の灯りに包まれた東京スカイツリーの麓にある停留所から、滋賀の県都大津行きの高速バスに乗り込む。

本来は京都と東京ディズニーリゾートの往来が目的のバス。

だが、ありがたいことに当方の乗下車地である東京スカイツリーと大津に停車してくれる。

東京スカイツリーでは半分程度しか埋まっていなかった座席も上野で満席に。

漆黒の闇の中を、バスは西に向かって走り出した。

建部002

翌朝5時30分ごろJR大津駅前に到着。

本来なら55分ごろの到着予定だったので、かなりの早着だ。

早く着いてくれるのは有難い話だが、時は真冬の早朝。

逆に少し遅延してもらったほうが…というのは贅沢か。

バスからは、こちらが想定していたより多くの乗客が一緒に下車していく。

大津というディスティネーション、想像以上に需要が旺盛なのかも知れない。

夜明けの大津駅前には驚くほど何もない。

たぶん夜が明けても驚くほどの何かは姿を現さないだろう。

そのくせ駅の構内外にはコンビニ(しかも同じチェーン店)が二軒もある。

このアンバランスさこそが大津の魅力なのだろうか?

それはともかく、まだ目を覚ましていない大津の町へ足を踏み出してみた。

暗闇の中にクラシカルな巨大建造物のシルエットが浮かんでいる。

滋賀県庁。 もちろん開庁してない。

最近の県庁庁舎はどこも無機質なビルに建て替えられ、こうしたクラシカルな建物が現役で稼動している県はメッキリ減ってしまった。

建部003

[旅行日:2016年12月10日]
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