山城國一之宮「賀茂御祖神社」

一巡せしもの[下鴨神社]01

本町駅から乗った地下鉄御堂筋線の電車は、わずか1分程度で隣の淀屋橋駅に着いた。

ここで乗り換えるべく、地下道を通って京阪電車の淀屋橋駅へ。

地下道を満たす少し古い感じの雰囲気が、大阪という街の歴史を感じさせてくれる。

淀屋橋駅と土佐堀川を挟んだ北側は大阪市の中枢、中之島。

図書館や公会堂といった国の重要文化財が立ち並んでいるだけに、歴史の香りが漂うのも当然か。

京阪淀屋橋駅のホームへ降り、出町柳駅行きの特急電車に乗車する。

夕方の帰宅ラッシュの時間帯なのだが、さほど混雑していない。

座席の配列は2-2のアブレストによる、いわゆる「ロマンスシート」。

京阪の特急電車には初めて乗車したが、なかなか心地良い。

東京の私鉄に例えれば京浜急行の、三浦半島へ向かう快特電車に似た清しい趣を感じる。

京橋を過ぎて大阪都心部を出たあたりまでは、まだ空いていたのだが。

枚方を過ぎた辺りからどんどん混み始め、京都府内に入ると著しい混雑状態となった。

帰宅ラッシュの時間帯と被ったから止むを得ないことではあるのだが。

それにしても、この混み様には驚かされる。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]02

4t下鴨001

京阪電車の三条駅に着き、地下鉄の三条京阪駅に乗り換える。

三条京阪といっても京阪ではなく京都市営地下鉄東西線の駅。

レトロっぽかった淀屋橋駅とは対照的に真新しい駅だ。

二条城前駅で下車し、城郭の東側を北へ向かって歩く。

日の暮れた藍色の空にライトアップされた森の緑が浮かび上がる。

3月とはいえ風は冷たく、まさに「春は名のみの風の寒さ」だ。

交差点角のスーパーでミネラルウォーターを贖い、角を曲がって細い道に入る。

細い道に沿って低い家並みが延々と連なる中、目的の宿に着いた。

今宵はホテルでも旅館でもない、ドミトリーで一夜を明かすことになっている。

蚕棚のように仕切られ、カーテンで隔てられたベッドの上だけがプライベートな空間。

とはいえ室内(?)には電灯とコンセントが設えられ、特に不自由さは感じない。

もっとうるさいかと思っていたが、予想していたよりは静か。

しかも耳栓を貸してくれるので、あまり騒音も苦にならない。

ブルートレインのB寝台(開架)よりは快適かと思われる。

そんなことを考えているうち、ストンと眠りに落ちた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]03

4t下鴨002

翌朝、生憎の雨模様。

宿を出て、下立売通を東へ向かう。

堀川通を過ぎると道が広くなり、やがて左手前方に京都府庁が姿を現した。

門が開いていたので立ち寄ってみる。

前庭には裸婦像など彫刻が立ち並び、細やかな春雨を浴びて艶かしく濡れている。

その奥にルネサンス時代の建物を思わせる巨大な洋館が佇んでいる。

京都府庁旧本館。

一段高い正面中央の屋根から左右へ対称に張り出した様式が特徴的だ。

近寄って、しげしげと眺める。

竣工は明治37(1904)年12月20日で、昭和46(1971)年までは現役の本館だった。

似たような存在に北海道庁旧本庁舎、通称「赤れんが庁舎」がある。

だが、京都の旧本館は現在でも執務室や会議室に使用されている点で異なる。

創建時の姿を留めた現役の官公庁建物としては日本最古なのだそうだ。

また、外観とは対照的に内部は和風の技術が随所に取り入れられているそう。

そのデザインは建築というより、むしろ工芸品と呼ぶに相応しい趣とか。

ただ、ちょっと立ち寄っただけなので、建物内には立ち寄らず府庁を後にした。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]04

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再び下立売通りに戻り東へ直進すると、突き当りには緑園が広がる。

京都御苑。

下立売御門から中へ入ってみる。

御苑の外周は石積の土塁で囲まれ、九門五口…9か所の御門と5か所の切通しが出入口になっている。

この九門は本瓦葺の四脚門で、江戸時代からの遺構。

明治16(1883)年まで続いた「大内保存事業」で、現在の位置に移設されている。

御門から中に入ると平日の早朝、しかも雨模様とあって散策する人の姿は殆ど見当たらない。

いるのは御苑を突っ切って行く通勤通学の人ぐらいなものだ。

御苑は北の今出川通から南の丸太町通まで約1300m、西の烏丸通から東の梨木通・寺町通まで約700mの範囲に及ぶ。

園内では弥生の季節に相応しく梅の木が花を咲かせている。

春とは名ばかりで底冷えする中、泥濘を避けつつ梅を愛でながら歩く。

梅林には白梅や紅梅など約200本の梅が植栽されているそうだ。

春は梅に始まり、桃と糸桜、山桜と続き、最後は里桜で締めくくるという。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]05

4t下鴨004

園内をフラフラ歩いているうち京都御所の正面、建礼門の前に出た。

歴史の教科書にある通り、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都したのは延暦13(794)年のこと。

当時の内裏は現在の場所から約1.7kmほど西に位置していた。

何度か焼失を繰り返し、嘉禄3(1227)年の火災を最後に内裏の再建は途絶える。

その代わり摂政や関白などの館に仮の御所を置く「里内裏」が設けられることになった。

里内裏は何度か移転し、南北朝時代に土御門東洞院殿[つちみかどひがしのとういんどの]が光明天皇
の里内裏に。

代々の北朝天皇が居住し続け、南北朝が合体した明徳3(1392)年この地が正式に御所となった。

以降、明治維新で皇居が東京へ遷都するまでの約500年間、ここに歴代天皇が住まわれ、儀式や公務を執行していた。

当時の広さは約4500坪(1万5000平方m弱)。

現在の建造物で例えれば甲子園球場のグラウンドと同程度の広さだったようだ。

その後、足利幕府による敷地の拡大、応仁の乱を契機とした戦国時代の荒廃、織豊政権による復興、徳川幕府の造営…。

時代が下るにつれて御所は拡大整備されていく。

もちろん幾度も火災などで滅失し、現存する京都御所は嘉永7(1855)年の安政造営で再建されたものだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]06

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真正面に立つ建礼門まで近寄り、築地塀に沿って反時計回りにグルリと歩いてみる。

東南の角を北へ向かうと、土塀の間に「建春門」という小ぶりな門が姿を現した。

道を挟んだ東側には「学習院跡」の石碑。

建春門と学習院跡の間の道を北側に歩いて行く。

御所の周辺明治維新までは約200軒もの公家屋敷が立ち並ぶ公家町だった。

明治2(1869)年、明治天皇の東京遷幸に伴って多くの公家達も東京に移住。

このため公家町は急速に荒廃していくこととなった。

明治10(1877)年、京都に還幸された明治天皇は荒れ果てた光景を悲嘆。

京都府に対して御所保存と旧観維持の御沙汰を下された。

この御沙汰に基づく「大内保存事業」で整備されたのが京都御所の始まり。

屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、道路工事、樹木植栽などが行われ、明治16(1883)年に完了。

大正4(1915)年の「大正大礼」に際して改修工事が施され、ほぼ現在の姿に整ったという。

昭和22(1947)年の閣議決定で、京都御苑は新宿御苑、皇居外苑とともに国民公園になった。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]07

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築地塀が尽き、北東の角に行き当たった。

「猿ヶ辻」といって、ここだけ角が凹んでいる。

あえて鬼門の東北角を欠き、日吉山王社の神使“猿”が祀られている。

しかし金網で覆われ、あまりクッキリ見えない。

この猿が夜な夜な抜け出しては通行人に悪戯したため、金網で封じ込めたという。

そのまま北へ突き当たると中山邸跡と桂宮邸跡。

桂宮邸跡は築地塀で囲まれ、表門と勅使門の二つの門が残る。

しかし内部は非公開。

というのも内側に立っているのは宮邸ではなく宮内庁職員の公務員宿舎。

要は、ごく普通の平屋の家が立っているだけなのだ。

桂宮邸跡の右側を北へ抜け、今出川口から今出川通に出る。

通勤時間帯だけあって車道も歩道も前を向いて進んでいる人たちで一杯だ。

霧雨が舞う薄曇りの今出川通を歩くうち、先方に鴨川が姿を見せた。

賀茂大橋の手前で左手に折れ、上流に向かって緑地帯を歩く。

その少し先に2つの川が合流する地点がある。

西の賀茂川に架かるのが出町橋、東の高野川に架かるのが河合橋。

両橋の間にある三角形状の土地が賀茂社の社域ということになる。

出町橋の上から川面を眺める。

肌寒い初春、しかも朝方ということもあり、川縁を歩く人の姿はない。

その代わりというか。

緩やかに流れる川面の上を、鴉たちが我が庭のように舞っていた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]08

4t下鴨007

出町橋を渡り切り、逆三角形の下端を経て河合橋を渡る。

橋の向こうには出町柳駅。

京阪本線と叡山電車が発着する大きなターミナル駅だ。

ホームは京阪線が地下、叡山電車が地上と分かれている。

叡山電車の本線は八瀬比叡山口が終着駅。

叡山ケーブルと叡山ロープウェイを乗り継げば比叡山の山頂へたどり着ける。

しかし叡山電車にもケーブルカーにもロープウェイにも乗ることなく、河合橋を引き返した。

河合橋を渡り切り右折する。

下鴨東通を進むと三叉路になっている。

突き当りには朱塗りの玉垣で囲まれた石灯籠。

その左側に社号標と、朱塗りの明神鳥居。

更に奥には濃い緑に包まれた深い森が顔を覗かせている。

大きな石造りの社号標には「賀茂御祖神社」と刻まれている。

読み方は「かもみおやじんじゃ」で、下鴨神社は通称である。

とはいえ「賀茂御祖神社」では少々堅苦しいので、ここでは原則として「下鴨神社」と呼び通したい。

また、下鴨神社と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両社を総じて一つの神社と見なす際は「賀茂社」と呼ぶことにしよう。

下鴨神社の創建時期は不明だが、崇神天皇2(紀元前90)年に瑞垣を修造した旨の記録が残っており、それ以前から祀られていたと思われる。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]09

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社号標の左隣りに立つのは一の鳥居。

朱色も鮮やかなシンプルな明神鳥居。

思っていたほど大きくはない。

それどころか柱が道幅ギリギリに建てられ、貫と島木、笠置が隣接する建物の敷地にはみ出している。

これほど余裕のない建てられ方をした一の鳥居を初めて見た。

しかし、ここは千二百年余の歴史を誇る王城の地。

もともと鳥居が先にあって、後に市街地化が進んだ結果こうなったと考えれば不思議ではない。

鳥居をくぐって奥へ進む。

下鴨神社は朝廷から平安遷都にあたり国家鎮護の神社として崇敬を集め、11世紀初頭にはほぼ現在の構成に整えられた。

しかし、15世紀後半に勃発した応仁・文明の乱(1467~1477)の戦火に巻き込まれ、広大な糺の森の樹林ともどもほとんどの社殿群が焼亡。

その後は境内全体の整備が細々と進められ、百年以上が過ぎた天正9(1581)年に平安時代の構成が再び蘇ったそうだ。

せせらぎに小さな石橋が架かっている。

渡ったところに井桁の車止めが埋め込まれている。

この先、自動車は進入禁止だ。

こうした車止めの彩色は黄色と黒が一般的。

だが、ここは朱色と黒の組み合わせ。

単なる交通標識とはまた何か異なる“意志”を感じさせる。

進入を食い止めているのは自動車だけでなく、目に見えない“悪意”をも遮っているかのようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]10

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車止めを超えて鬱蒼とした緑に包まれた細い道を進んで行く。

せせらぎに架かる小さな石橋を渡ると先に広い通りが見える。

この御蔭通を渡ると「糺(ただす)の森」が口を開けて待っていた。

糺の森は下鴨神社の境内を含めた広大な森。

その面積は3万6000坪(約11万9000平方m)、東京ドームの約2.5倍にも及ぶ。

それでもまだ、時代が下がるにつれて狭まったのだとか。

往時は150万坪(約500万平方m弱)にも及んでいたというから、賀茂社の権勢が伺える。

入り口に一基の石碑が立っている。

そこに記されている文字は「世界文化遺産 賀茂御祖神社」。

ここ下鴨神社は平成6(1994)年「古都京都の文化財」として日本で5番目の世界遺産に登録された。

「古都京都の文化財」は京都府の京都市と宇治市、滋賀県大津市に散在する17か所の寺社から構成されている。

ちなみに神社は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社、それに宇治上神社の3カ所しかない。

京都市内の神社は賀茂社だけで八坂神社も松尾大社も選ばれていない。

それだけ京都に於ける存在感の重さが際立っているということだろう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]11

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石碑を過ぎて表参道を奥へ向かう。

ここから先は世に言う「糺の森」だ。

少し先の左側に摂社が立っている。

だが、摂社にしてはやけに堂々とした風格。

社号標を見ると「河合神社」と記されていた。

なるほど、鴨川と高野川の二つの“河”が“合”うから河合神社なのかと思ったが、これは単なる思いつきだ。

隣の説明板によると今でこそ下鴨神社の摂社に甘んじているが、元は延喜式に名神大社として名を連ねるほど社格の高い神社だったとある。

社号標の横に明神鳥居が立っている。

ただ、その奥に社殿はなく、ちょうど境内の反対側に同じ形をした明神鳥居が立っている。

東西それぞれに出入口があり、中に入って北側を向けば楼門が待ち構える格好だ。

楼門をくぐって境内に入る。

目の前に舞殿、向こう側に拝殿、さらにその奥に本殿という並び。

河合神社の主祭神は多々須玉依姫命[ただすたまよりのみこと]。

玉依姫命とは特定の神号ではなく「霊(たま)の憑(よ)りつく巫女」を指す普通名詞とのこと。

これは民俗学者、柳田国男の解釈。

上総国一之宮玉前神社の祭神もまた、玉依姫命だった。

こちらは神武天皇の母として古事記と日本書紀にも登場している。

一方、河合神社のほうは記紀ではなく山城国風土記逸文に登場。

下鴨神社の祭神賀茂建角身命[かもたけつぬみのみこと]と丹波の伊古夜日売[いかこやひめ]の間に生まれた娘だ。

玉依姫命は“普通名詞”だけに、他と区別するため「多々須」という”冠詞”を付したのだろうか?

この多々須が変化して「糺」となった…かどうかは分からない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]12

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しとしと降り続く小雨の中、ひっそりと佇む拝殿を眺める。

黒々とした檜皮葺(ひわだぶき)の屋根と白壁のコントラストが美しい。

奥に構える本殿は延宝7(1679)年の式年遷宮で造替された古殿舎を修理建造したもの。

拝殿の右端に視線を向けると、絵馬を奉納する木枠の棚があった。

ここの絵馬は一風変わった形状をしている。

円盤に取っ手を付けた形状は、まるで卓球のラケットのよう。

この手鏡の形をした絵馬は「鏡絵馬」と呼ばれ、女性の“美”に対する願いを叶えてくれるそう。

玉依姫命は縁結びに始まり月経、妊娠、出産、育児といった女性の心身にまつわる神秘的な作用を司る神といわれている。

それだけに女性からは「美人の神さま」として篤く信仰され、そうした美麗への祈願に応えるための鏡絵馬なのだ。

まずは円盤の表面に描かれた女性の顔に、いつも当人が使っている化粧品でメイク。
そして裏側に願いを書き入れ、奉納するという次第。

表面では外見的な美貌を、裏面では内面的な美しさを、この絵馬に模した「鏡」で磨きましょう…という意図が込められているそうだ。

鏡絵馬は表面だけ向けて並べられており、奉納した女性たちが裏面に記した「内面」は窺い知ることはできない。

神社に現世御利益ばかり求める風潮が吹き荒れている現代社会で、この「内面を磨く」行為がどれだけ認知されているのか測りかねるけど。

ただ、鏡絵馬に描かれた女性たちの表情をひとつひとつ眺めていると、美容とは縁が一切ない当方にも必死さが伝わってくるようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]13

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鏡絵馬の棚の前に簡素な庵がポツネンと佇んでいる。

棚から発せられる女たちの美への執念とは真逆で、欲望の象徴ともいえる一切の虚飾が剥ぎ取られている。

対照的な両者が間隔を空けずに対峙している光景は、なかなか興味深いものがある。

この草庵は名随筆「方丈記」でおなじみ、鴨長明の住まい「方丈の庵」を復元したものだ。

鴨長明は仁平3(1153)年、河合神社の禰宜[ねぎ]長継の次男として誕生。

幼少時から和歌や琵琶などの才能に恵まれ、その学才が後鳥羽上皇に見い出される。

上皇が設立した御和歌所[おうたどころ]の寄人[よりうど]に抜擢。

藤原定家らとともに宮廷歌人として活躍し、まさに出世街道を驀進する。

さらに長明が20歳のころ父長継が死去し、その跡を継いで河合神社の禰宜になることを決意。

後鳥羽上皇の内諾も取り付け、悲願が成就しようとしたその矢先、まさに好事魔多し。

賀茂社のトップで一族の祐兼[すけかね]から思いもよらぬ横槍が入る。

祐兼の言い分は「長明は歌人の活動を優先して賀茂社の仕事を疎かにしていたので禰宜になる資格なし」というもの。

まんざら現代の企業社会でもあり得ないことではない事例にも思える。

本業と無関係の分野で派手に立ち回ると、それが災いして出世の妨げになるとか。

現代なら「会社のPRになるから」という逃げ道もないことはなかろうが、それも程度によるだろう。

ただ長明のケースには裏があったようで、本当は祐兼が長男の祐頼[すけより]を禰宜に据えるのが目的だったらしい。

祐兼が賀茂大神の御神意まで持ち出す強引な運動のおかげで、祐頼は無事に“就職”が叶う。

社長がドラ息子を取締役に引き上げるため、有能な役員に難癖をつけて放逐する様子とどこか似ているような。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]14

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それはさておき。

上皇の抜擢を受けてから数年後の元久元(1204)年。

長明は突然、一切を投げ捨てて大原に隠棲してしまった。

寄人の座はもちろん、勅命だった「新古今和歌集」の編纂作業も。

身内からの妨害という思いもよらぬ事態を前に、何もかも嫌になったのかも知れない。

当時、世間の人々は相当「なぜ?」と不思議がったそうだ。

賀茂社内での人事抗争など知らないから無理もなかろうけど。

ただ、上皇は長明の遁走に怒るどころか、手の内から逃げていった才能を惜しんでいた。

長明が放り出した新古今和歌集にも長明作の和歌十首が採録されている。

しかも上皇は賀茂社の摂社を官社に昇格させ、そこの禰宜に任じるから京に戻るよう伝えた。

しかしこうした破格の恩寵も、世の儚さを前に全てを悟った長明の前には無力だったようだ。

長明が隠棲したのは齢50の時、当時の平均寿命からすれば既に相当な老齢だったことになる。

その後、大原から方々を転々とした長明は承元2(1208)年、日野の外山へ落ち着いた。

現在の伏見区日野の辺りだから河合神社から見たら地の果てみたいな場所である。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]15

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日野に結んだ方一丈の草庵で「方丈記」を執筆するわけだ。

一丈とは広さの単位で約3m四方、坪数だと約2.73、畳だと約5帖半ほどの広さ。

間口も奥行きも一丈四方なので「方丈」の名が付いた。

組み立て式で折り畳める構造になっており、大八車に積めばどこへなりとも移動できる。

現代でいうキャンピングカーみたいなものか。

大原から日野へと至る年月の間、長明が工夫を重ね「栖[すみか]」として仕上げたのだろう。

よく見ると柱の下に土台状のものが置かれている。

これは下鴨神社の本殿の構造「土居桁」と似ている。

下鴨神社もまた式年遷宮で21年ごとに社殿が造替される。

このため「土居桁」構造は建物の移動を念頭に置いた設計方式。

方丈は、この自在な建築様式をヒントにしたのではないかと推測されている。

建暦2(1212)年、長明は日野の方丈で「方丈記」と「無名抄」を執筆。

それから4年後の建保4(1216)年6月8日、62歳でこの世を去った。

高校の古典の授業で必ずといっていいほど学ぶ「方丈記」。

だが明るい未来が待ち受けている若い世代に、人生の儚さや諦念が詰め込まれた「方丈記」の世界など理解できないのではないか?

人生の辛苦を経て、長明が遁世したのと同じ50歳絡みになった頃合いに読んでこそ、そこに込められた世界の真髄が理解できるのではないか?

一見あばら家然としていながら、何物にも代え難い“自由”を具現化した建物を眺めつつ、そんなことを考えた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]16

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河合神社の境内を出て表参道へ。

その手前、表参道とは別に鳥居の前から一本の道が北へスーッと伸びている。

この道は馬場で、葵祭の前に行われる儀式「流鏑馬神事」は毎年ここで行われるそうだ。

「糺の森」の中央を貫く表参道を二ノ鳥居へ向かって歩く。

鬱蒼とした大木が埋め尽くす森の中を、両脇に杉や檜の大木を従えた表参道が貫通する。

そうした風景の多い大きな神社の境内風景と「糺の森」のそれは全く趣が異なる。

なにせ紀元前3世紀ごろ山背[やましろ]原野の原生林を構成していたのと同じ植生が、今も大都市のド真ん中に残っているのだ。

欅、榎、椋木といった広葉樹を中心に樹齢600年から200年ほどの樹木が約600本も自生しているだけに、森林生態学や環境学といった学術分野の面でも非常に貴重な存在なのだ。

表参道を歩きながら左右を見渡せば、木々が疎らに群生し、悪く言えば単なる雑木林のようでもある。

しかし、それが針葉樹の多い他の大神社に比べれば、逆に優しげな雰囲気を醸している要因だろうか。

現在の広さは約3万6千坪程度だが往時は150万坪にも及んでいたそうだ。

上賀茂神社や宝ヶ池あたりもまた、糺の森の中にあったのだろう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]17

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表参道の左側、馬場との間に「瀬見の小川」という名の細いせせらぎが流れている。

名付け親は賀茂建角身命だと山城国風土記逸文には記されているそうだ。

また、風土記には賀茂社の創建にまつわる重要な逸話がある。

いわゆる「丹塗矢[にぬりや]」の伝説だ。

玉依姫命が瀬見の小川で水遊びをしていると上流から綺麗な朱色の矢が流れてきた。

これを拾い上げた玉依姫命が寝床の近くに挿して飾っておいたところ、なぜか懐妊。

その矢、実は火雷神[ほのいかずちのかみ]の化身だったのだ。

火雷神は亡くなった伊弉冉尊[いざなみのみこと]が黄泉国で産んだ、雷を司る神。

そして生まれてきた男子は賀茂別雷命[かもわけいかずちのみこと]、賀茂別雷(上賀茂)神社の祭神である。

ところでこの逸話、どこかで聞いたことがあると思ったら古事記の中に似たような話があった。

大和国橿原で神倭伊波禮毘古命[かむやまといわれひこのみこと]が初代神武天皇として即位した時のこと。

大后候補を探していたところ、神の御子と言われている富登多多良伊須須岐比売[ほとたたらいすすきひめ]の噂を聞いた。

伊須須岐比売は大和国一之宮大神神社の祭神大物主神が、勢夜陀多良比売[せやだたらひめ]という美女に産ませた娘である。

勢夜陀多良比売の余りの美しさに恋い焦がれた大物主神は自身の姿を丹塗矢に変え、彼女が厠に入ったところを見計らって下から陰部[ほと]を突き上げるという荒技を繰り出した。

驚いた比売はオロオロし、右へ左へ走り回って大騒ぎ。

その丹塗矢を持ち帰って床に置いたところ、あら不思議。

丹塗矢はパッと偉丈夫の色男に変身し、やがて比売を妻に娶ることに。

偉丈夫たる大物主神と勢夜陀多良比売の間に生まれたのが伊須須岐比売であり、初代神武天皇とともに世を治める大后となったわけだ。

古事記と山城国風土記、それぞれ登場する神こそ違えど設定は大いに似通っているのが面白い。

しかも両記とも成立はほぼ同時期なので、どちらがどちらを真似したという話でもなさそうだ。

昔から伝承されていた説話を雛形にして、両記それぞれが独自に取り込んだのかも知れない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]18

4t下鴨021

表参道の左側には瀬見の小川、右側には泉川が流れている。

ただ、瀬見の小川には川と呼べるほどの水量はなく、丹塗矢が流れて来れるとは到底思えない。

それもそのはず、現在の流れは平成6(1994)年に下鴨神社が世界遺産に登録されたのを機に整備されたものだ。

それまで川筋はあっても水は流れておらず、まさに「瀬見の水無川」状態だったそうだ。

現在の流路になったのは元禄7(1694)年、賀茂祭の儀式用に馬場が整備された時。

それ以前は現在ある馬場の西側を流れていたことが調査の結果判明しているという。

時代とともに瀬見の小川も流路を変遷させてきたのだ。

風土記の時代と今の流れが同じ位置にあるわけもない。

表参道から外れ、河原の落ち葉を踏み分けて泉川の畔へ近寄ってみる。

余程こちらのほうが水量豊かなのだが、丹塗矢が流れてきたのはこの川ではない。

というか、神話と現実を強引に結びつけようとする行為が野暮というものだろう。

賀茂川と高野川の合流点に位置する糺の森は、川が運んだ土砂の堆積した洲の上にある。

なので「糺」という地名は「只洲[ただす]」「蓼洲[たです]」に由来するのだとか。

ちなみに「糺」という字には「偽りを正す」という意味がある。

賀茂族を率いて初めて京都盆地に移住した賀茂建角身命は、ここで人々からの訴えを聞き、それぞれに審判を下したという伝説がある。

それで、いつしか「糺の森」は「偽りを正す神の坐す森」という信仰が集まることになった。

ちなみに目と鼻の先に京都家庭裁判所が立っているが、これは糺の森の「偽りを正す」信仰とは関係ない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]19

4t下鴨022

表参道をそぞろ歩くうち、遠い先に鳥居が見えてきた。

水の流れに恵まれた糺の森は夏の蒸し暑い京都でも涼しく、納涼の名所として京の都人たちから愛されてきた。

江戸時代には初夏の到来とともに団子や心太[ところてん]、真桑瓜[まくわうり]などを売る茶店が立ち並んだそうだ。

都人たちは涼しげな木陰に毛氈を敷き、日の出から日没まで花見ならぬ「納涼[すずしみ]」を楽しんでいたという。

周囲をグルリと見回してみる。

現在の糺の森も十分に広いのだが、屋台が林立するには狭い感じがする。

江戸時代は鴨川と高野川に挟まれた土地すべてが森だったに違いない。

木漏れ日がこぼれる森の中、涼しげなせせらぎの音色をBGMに賞味する心太や真桑瓜の味はいかばかりだったろう。

コンビニに行けばソコソコ美味いスイーツが簡単に手に入る現代ではあるが、贅沢という点では江戸時代に軍配が上がるようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]20

4t下鴨023

ようやく二の鳥居の前まで来た。

瀬見の小川に小さな石橋が架かっており、その右手に看板が立っている。

この石橋から西側が瀬見の小川で、東側は奈良の小川と呼称が変わる。

看板には、奈良の小川とは上流にある楢の林から流れて来ることに由来していると記されている。

また別の看板によると、最近の発掘調査で発見された平安時代の流路の一部が現在の流路とは別に復元されたとある。

石橋の上から奈良の小川を眺める。

こちらも川よりせせらぎと呼ぶに相応しく、清らかな水面が風にサラサラと揺れていた。

ここまで来るのに参道は一本道だったが、まだ糺の森が広大だった時代は「烏の縄手[からすのなわて]」と呼ばれる参道が幾筋も通っていたそうだ。

烏とは祭神賀茂建角身命の別名「八咫烏[やたがらす]」に由来。

縄手とは細くて狭くて長い道のこと。

八咫烏の神様にお参りする人々の足跡が生んだ踏み分け道が次第に幾筋ものあぜ道に成長。

時代が下るにつれて「烏の縄手」と呼ばれるようになったのだろう。

あぜ道そのものは現存していないが、往時の姿が森の中で部分的に復元されている。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]21

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石橋を渡ると少し広めの空間が広がり、向こう側に二の鳥居が聳立している。

その広場の右手に大きめの手水舍があった。

中に据えられているのは木製の舟に載せられた横長の巨石。

内側がくり抜かれていて石鉢のようになっている。

この形状は賀茂建角身命の神話に登場する舟形磐座[いわくら]石に因んだもの。

上には屋根が架けられ、御手洗の反対側は透塀で仕切られている。

崇神天皇7年(紀元前90年ごろ)、糺の森に瑞垣の造替を賜った記録をもとに再現したという。

室町時代に編纂された「諸社根元記」には「浮島[うきしま]の里、直澄[ただす]」と記録されていて、これもまた「糺」の語源のひとつと考えられているそうだ。

二の鳥居の両脇に石が小山のように積み上げられている。

石の大きさは握り拳大から赤ちゃんの頭部大まで様々だ。

これらは式年遷宮に伴う「石拾神事」のために集められたもの。

本殿の周囲に敷かれる磐座の御石を3年間ここで清め、さらなる生命力アップを願い乞う行事。

最初に執行される行事で、本殿の周囲に氏子や崇敬者が清浄な御石を奉献するそうだ。

式年遷宮が終了すればこの石山も消滅するわけで、なかなか貴重なものを見ることができた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]22

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二の鳥居…正式には南口鳥居をくぐって中へ。

朱塗りのシンプルな明神鳥居だが、両足の下部から真横に玉垣が伸びている。

両部鳥居で例えれば袖柱の位置に横へ伸びる柵がくっついているようなものだ。

目の前には楼門が聳立し、左側には社務所が控える。

授与所の隣に「連理の賢木」が生えている。

2本の木幹が途中から1本につながっている木で、ここだけでなく他の神社でもたまに見かける。

縁結びに御利益があると信仰を集めているせいか木の前には立派な鳥居が建てられている。

その隣には縁結びに御利益がある末社「相生社」が聳立している。

裏手にある棚には良縁を願う絵馬がビッシリ。

良縁に恵まれない不幸な女性が世の中こんなに溢れているのだろうか?

それとも大して太ってもいない女性が「痩せなきゃ!」と踊らされている昨今のダイエットブームのように、ソコソコの良縁に恵まれているのに「もっといい人がいるはず!」と欲を掻いているのだろうか?

どちらもアリだろうが、神が気を利かせるのは前者のような気がしてならない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]23

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楼門の前に立ち、眺める。

朱塗りで高さが30メートルあるという二層の秀麗な建物だ。

現在の楼門は江戸時代の寛永五(1628)年に行われた遷宮造替の際に造営されたもの。

かつては式年遷宮の21年ごとに造替されてきたそうだが、この造替を最後に解体修理を重ねながら保存される方式に変わった。

楼門と左右に伸びる長い廻廊は古代の神社様式を現代に伝えていることから重要文化財に指定されている。

鹿島神宮(常陸国)や香取神宮(下総国)、氷川神社(武蔵国)といった東国の一之宮に比べると、どこか優しげな表情を浮かべているようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]24

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楼門をくぐると、すぐ正面に舞殿が立ちはだかる。

河合神社も同様だったし、他の一之宮でも時おり見かける配置。

現在の建物も楼門と同様、寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理されるのもまた、楼門と同じだ。

入母屋造で屋根は檜皮葺き。

横幅(梁間)3間、奥行(桁行)4間という長方形の形状をしている。

黒々とした屋根と白塗りの壁上、屋根を支える黒い柱と吹き抜けの殿上。

白と黒のコントラストが全体の印象をキリッと引き締めている。

小雨の中で眺めたこともまた、落ち着いた印象を受ける要因だろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]25

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今度は反対に舞殿の右側へ行ってみる。

川の上に橋が架けられ、その上に舞殿と良く似た建物が乗っている。

「橋殿」というそうだ。

入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間とあるから、構造も大きさも舞殿とほぼ同じ。

現在の建物は寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理が行わてきたのも舞殿と一緒である。

ここは葵祭の前祭「御蔭祭[みかげまつり]で御神宝を奉安する御殿。

昔は御戸代会神事[みとしろえしんじ]が行われ、里神楽や泰楽、倭舞が演じられていた。

御戸代会神事とは田植えの後に害虫の予防を祈願をする神事のこと。

神への祈りの代わりに農薬を大量に散布してオシマイという現代では、すっかり廃れてしまった。

…かに思えるが、上賀茂神社では現在でも行われている。

もちろん害虫予防のためではなく、伝統神事の継承としてなのだろうが。

また、ここは天皇行幸の際、公卿や殿上人の控え場所と定められていた。

舞殿と橋殿、同じ構造・様式の社殿が2つ用意してあるのは、それだけ天皇や上皇と一緒に参詣する公家や殿上人の数が多く、とても一つの社殿に収まり切らなかったせいか?

しかも格上の方々は舞殿へ、格下の皆さんは橋殿に案内されたんじゃないか、そんな気がする。

川の上にある橋殿は暑い夏の盛りだと涼しくて結構だが、底冷えのする冬の最中には辛かったに違いない。

なお、現在では各月の管絃祭や正月神事といった年中催事の際、神事芸能の奉納に用いられているそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]26

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橋殿の下を流れる川に沿って上流の方角へ向かう。

川の名は「御手洗川[みたらしがわ]」。

北にある宝ヶ池の辺りから細々と流れきて、糺の森の東端を下っていく川と同じ名称だ。

塀の内側から湧き出た御手洗川は橋殿の下を通って外側に出、もうひとつの御手洗川と合流した後、奈良の小川と泉川の2つの川に再び分裂する。

いつもは水が流れていない涸れ川だが、土用の丑の日が近づくと水がコンコンと湧き出るところから「京の七不思議」の一つとされていたそう。

ただ、目の前の川には豊かとはいえないまでも水流があるので、昔の話かも知れない。

土用の丑の日、ここ御手洗川では足を浸して疫病などの災い除けを祈願する「足つけ神事」が昔から行なわれている。

ひょっとしたら涸れ川のエピソード、この神事をPRするために拵えられたコマーシャルなのかも知れない。

川沿いの一角に正方形の小振りな石板が置かれている。

四隅には細い柱が立てられ、紙垂を下げた注連縄が巡らされている。

明らかに何らかの宗教的設備なのだが、近くの立て札に説明はない。

石板を持ち上げると下が井戸になっていて、底から湧き出る水で禊を行うのだろうか? 

石板の隣には燃えるような花を咲かせている紅梅の木。

「光琳の梅」と呼ばれている。

この辺りを尾形光琳が描いた国宝「紅白梅図屏風[こうはくばいずびょうぶ]」に由来するそうだ。

全面金地の中央に銀地で御手洗川の流れを描き、川を挟んで紅白の梅を左右に配する大胆な構図。

この光琳の最高傑作にして琳派様式の頂点ともいえる傑作は、静岡県熱海市にあるMOA美術館で鑑賞することができる。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]27

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光琳の梅の左側に太鼓橋がかかっている。

ここでは「輪橋[そりはし]」と呼んでいるが、これは太鼓橋の一般的な別称でもある。

輪橋を渡った先には大きな明神鳥居。

その下をくぐって右へ向かうと細殿御所[ほそどのごしょ]、左に進むと御手洗池と御手洗社がある。

細殿御所は平安時代編纂の賀茂社『神殿記』にも「細殿」と記載されているほどの昔から存在していた。

歴代天皇の行幸時、法皇や上皇の御幸の際に行在所として用いられてきた。

天明8(1788)年に洛中の大火で京都御所が回禄(火災)に遭った際は、内侍所(賢所)の奉安所となった。

ちなみに内侍所(賢所)とは三種の神器「神鏡八咫鏡[やたのかがみ]」を安置している場所のこと。

文久年間(1861~64)の御所回禄では、後に明治天皇となる祐宮[さちのみや]の行在所に。

文久3(1863)年3月11日に孝明天皇が攘夷祈願のため行幸された際は徳川十四代将軍家茂の侍所[さむらいどころ]になるなど、幕末の動乱期には少なからぬ役割を果たしている。

現在の建物は舞殿や橋殿と同様、寛永五年の式年遷宮で造替されたものを21年ごとに解体修理を施し、維持されてきたものだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]28

4t下鴨033

細殿の奥というか裏側に築地塀が横へと延びている。

その真ん中に小さな門。

門柱に「鴨社直会殿泉聲」と読みにくい崩字で記されている。

幸いなことに反対側の門柱横に解説板が立っており、そこに「かもしゃなおらいでんせんせい」と振り仮名が打ってあった。

かといって、ここが何に使われる神殿なのか見当が皆目つかないのだが。

説明板によると平安時代に大嘗祭で用いられる饗応殿が下賜され、ここへ直会殿として移築し、式年遷宮ごとに造替してきたという。

ところが昭和23(1948)年ごろに老朽化のため撤去され、その後は再建されることがなかったそうだ。

それから時代が下ること45年後の平成5(1993)年、伊勢神宮第61回式年遷宮の折に五丈殿の払い下げを受けた。

それを平成27(2015)年の第34回式年遷宮事業の一環として、伝統に従ってここに再興したのだそうだ。

五丈殿は雨天時にお祓いや遙拝などの儀式や、遷宮関係の諸祭で饗膳(儀式としての祝宴)が行われる建物。

ここでも同様の施設として使われているのかと、門から中を覗いて確認してみた。

確かに五丈殿っぽい建物が立ってはいるが、木製の壁が設えられ大きなガラス窓が嵌め込まれている。

内部には豪奢な椅子が配置され、確かに饗膳が行われる建物っぽい雰囲気が漂っている。

だが、伊勢神宮の五丈殿は屋根と柱だけで、壁などなく吹き抜け状態のはず。

なぜだろうと思った時、目に入ったのが車止めに掲げてある小さな注意書き。

「挙式関係者以外の立入はご遠慮下さい」

なるほど、饗膳といっても結婚式のほうだったか。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]29

4t下鴨035

細殿と直会所の間に「解除所[げじょしょ]」がある。

解除とはお祓いのことで、ここは樹下神事[じゅげしんじ]が斉行される場所。

樹下神事とは目の前にある御手洗池の流れに沿って行われる解除のことだ。

玉砂利の中に横長の石畳が2列、設えてある。

解除の際は石畳の上に神職たちが池に向かって並んで座り、お祓いを行う。

御手洗池は御手洗川の源泉であり、神聖な湧水口の上には小さな御社が聳立している。

もとは唐崎社に御手洗社と神社が2つ存在したが室町時代後期に合祀され、現在では井上社の神名で呼ばれている。

井戸の井筒の上に祀られているのが名の由来だ。

もともと唐崎社は高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座していたが、文明の乱に巻き込まれ文明2(1470)年に焼亡。

文禄年間(1592~96)この地に再興されることになった。

御手洗社と合祀されて井上社になったのも、この時ではないかと思われる。

両社とも祭神が同じ瀬織津姫命[せおりつひめのみこと]だったことから、合祀もスムーズに捗ったのではなかろうか。

瀬織津姫命は滝や川の流れなど水流の穢れを清める治水女神。

祀られている神社は日本中に存在し、武蔵国一之宮小野神社のところでも登場した。

井上社は御手洗川の源泉である御手洗池の最も上流にある、いわば奥宮的な存在。

葵祭でも斎王代の御契の儀が行われるなど、下鴨神社の中でも相当な重きを為す神社のはず。

その割に社殿は小さく、あまりその重みが感じられない。

しかし「山高きが故に貴からず」。

井上社、なりこそ小さいが糺の森を束ねる扇の要と考えれば、その小ささ故に尊さを覚える。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]30

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井上社の前に広がる御手洗池。

ここからの湧水が輪橋と橋殿の下を通って糺の森へと流れていく。

毎年5月15日の葵祭、ここで行われる斎王代の御契の儀は、ニュース映像としてテレビのネットワークに乗って全国へ伝播していく。

ちなみに御契の儀は下鴨神社と上賀茂神社で毎年交互に行われることになっている。

葵祭は祇園祭、時代祭と並ぶ京都の三大祭。

といっても1200年余の歴史を誇る京都だけに祭の数は年300を越えるそうで、この三大祭は近年になって言われ始めたこと。

今でこそ年300超の祭礼が行われているが、かつて京の祭りといえば「葵祭」を指していたそうだ。

葵祭は京の先住民族ともいえる賀茂氏の神社「賀茂社」で行われていた五穀豊穣を祈願する祭礼が起源。

「山城国風土記」逸文によると欽明天皇御世(539~571年)、天候不順で荒作に見舞われた農民の間で騒擾の危機が高まっていた。

欽明天皇が神官に占わせたところ賀茂大神の祟りだと判明。

直ちに賀茂大神を祀ったところ、天候不順が回復して五穀豊穣に恵まれ、騒擾の機運は去っていったという。

まだ京に都が遷る以前のことながら、この賀茂(葵)祭は大層な人気を呼んでいたそうだ。

「続日本記」によると文武天皇2(698)年、賀茂祭で行われた騎射に見物客が大挙して押しかけたため、騎射に三度も禁止令が発令されたほど。

その後、鳴くよウグイス平安遷都を機に賀茂社は朝廷から王城鎮護の神として篤く祀られたのを機に、賀茂祭は国家的祭礼に発展していったわけだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]31

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葵祭のプリンセス「斎王代」。

そのセレクションは全国紙が報じられるほどの注目を集める。

では、そもそも「斎王代」とは何か?

読んで字のごとく斎王の代理である。

斎王の「斎」は「潔斎して神に仕えること」という意味。

つまり斎王とは昔、伊勢神宮と賀茂社で天皇の代わりに仕えた未婚の内親王、女王のこと。

天皇が即位すると「卜定[ぼくじょう]」という儀式で選ばれ、その天皇一代の間のみ務めるのが原則だった。

伊勢神宮は「斎宮」、賀茂社は「斎院」といい、両者を総称した呼称を「斎王」というそうだ。

起源は伊勢神宮を建立した倭姫命にまで遡ると伝わるが、神話の域を出ない。

具体的な制度として確立したのは天武天皇2(673)年、娘の大来皇女[おおくのひめみこ]の初代斎王就任。

元弘3(1333)年、後醍醐天皇の建武の新政で崩壊するまで約660年ほど続き、その間に斎王を務めたのは60人余に及ぶとの記録が残っている。

一方の賀茂社では弘仁元(810)年、嵯峨天皇が伊勢神宮に倣って賀茂社にも斎王を置いたのが始まり。

同年4月に嵯峨天皇第八皇女の有智子内親王が卜定で初代斎王に。

鎌倉時代初頭の礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで約400年続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府が争った「承久の乱」で途絶。

以後、斎王制が復活することはなかった。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]32

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現在では斎王代が葵祭の主役みたいなものだが、実は斎王代が葵祭の主役になったのはつい最近のこと。

長い歴史を誇る葵祭だが過去3回、16世紀初頭の室町時代、19世紀中庸の幕末、そして太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に途切れたことがある。

葵祭は戦中戦後の中断から同28(1953)年に復活し、斎王代が登場するのは同31(1956)年になってからのこと。

昔の賀茂祭で斎王は住居の斎院から出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだった。

その華やかな行列を一目見ようと、こぞって都人たちは見物に集まったという。

戦後復活した葵祭の目玉として往時の華麗な行列を再現させるべく設定したのが「斎王代」というニューヒロインだったわけだ。

とはいえ昔の斎王と違って現在の斎王代を皇族の内親王が務めることはない。

京都にゆかりがあって和装に慣れた未婚の一般女性から選ばれている。

橋殿の横に架かる小さな橋を渡り、中門へ。

この門をくぐると、その先に幣殿と本殿が鎮座している。

中門の正式な名称は四脚中門。

舞殿や橋殿と同じ重要文化財で、寛永5年の式年遷宮で造替された点も同様だ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]33

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中門をくぐって中に入ると、東西に伸びる幣殿が正面に立ちはだかる。

しかも幣殿手前の狭い敷地に小さな御社がチマチマと並び、印象は非常に窮屈だ。

それら小社は中門を入って正面に2社、右側に2社、左側に3社の計7つが鎮座。

これら7社は総称して「言社[ことしゃ]」と呼ばれている。

昔から干支の守護神として有名で、各御社ごとの御神徳が干支で表現されている。

祭神は全て「大國さん」こと大国主命なのだが、個々の御社によって神号がそれぞれ異なる。

幣殿の真向かいに2社並列で鎮座するのが「一言社」。

東側が大国魂命[おおくにたまのみこと]で、干支は巳[へび]年と未[ひつじ]年。

隣の西側は顕國魂命[うつしくにたまのみこと]で、干支は午[うま]年。

幣殿から見て左側に2社並列で鎮座するのは「二言社」。

幣殿に近い北側は大物主命で、干支は丑[うし]年と亥[いのしし]年。

隣の南側は大国主命で、干支は子[ねずみ]年。

幣殿から見て右側に3社並列で鎮座するのは「三言社」。

幣殿に近い北側は志固男命[しこおのみこと]で、干支は卯[うさぎ]年と酉[とり]年。

隣の真ん中は大己貴命[おおなむちのみころ]で、干支は寅[とら]年と戌[いぬ]年。

最も遠い南側は八千矛命[やちほこのみこと]で、干支は辰[たつ]年と申[さる]年。

それにしても天津神「賀茂建角身命」を7柱もの国津神「大国主命」が包囲する、この構図。

大国主命と対峙する賀茂建角身命という「国譲り神話」を表現しているのか?

それとも賀茂建角身命に付き従う従順な大国主命という図式なのだろうか?

自分の干支が祀られている三言社に拝礼し、これらの疑問を心の中で反芻してみる。

無論、大國さまから正答が返ってくるわけもないのだが。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]34

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ようやく下鴨神社の核心、幣殿へたどりついた。

他の神社で言うところの拝殿に当たる建物。

正面口から中を覗き込むと突き当たりに御幣が立ち、その後ろに鏡が置かれている。

そこから廊下は左右に分かれ、東西それぞれの本殿につながっている。

本殿に祀られているのは東に玉依姫命、西に賀茂建角身命。

代表的な流造りの東西本殿は文久3(1863)年に造替されたもので、いずれも国宝に指定されている。

幣殿の左右には御簾と菱格子が設えられ、こちら側と奥の本殿エリアを仕切っている。

本来なら隙間から本殿が透けて見えるはずだが、建物が白いヴェールで覆われ姿が伺えない。

実は式年遷宮に向けた修繕工事の真っ最中で、現在のところ御神体は裏手の仮本殿に遷座しているそうだ。

東殿に鎮座する賀茂建角身命は『古事記』『日本書紀』の神武東征に登場する金鵄八咫烏[きんしやたがらす]のことだと伝わっている。。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]35

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禍々しい霊力を持った神がウヨウヨいる熊野の山中を通り抜けるため、高木大神(高御産巣日神)が神武天皇に道案内のため派遣したのが八咫烏。

これが日本書紀になると高木大神ではなく天照大神になる。

この八咫烏に化身となったのが賀茂建角身命というわけだ。

ただ、記紀どちらにも賀茂建角身命の具体名は登場しない。

なぜ八咫烏=賀茂建角身命となったのかはよく分からないのだ。

両者を結びつける根拠を探すのも詮無い話ではあるが、八咫烏はお導きの神だけに賀茂建角身命は方除、厄除け、試験合格、交通、旅行、操業の安全などに御神徳があるそうだ。

一方、西殿に鎮座する玉依媛命の御神徳は上総国一之宮玉前神社の主祭神玉依媛命と、ほぼ同じ。

同じ玉依姫命という神号ながら各々が別の神様であることは既に触れたが、御神徳は共通しているのだ。

また、縁結びの御利益は「男と女」に限ったものではなく、人と人の縁を結ぶ商売や事業に関わる祈願も多いそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

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幣殿から東側、二言社の裏手に絵馬を奉納する絵馬掛が立っていた。

さらにその奥に「言社権地」という横長の狭い長方形の一角がある。

竹の柵で仕切られた中には、小さな長方形の清浄地が2つ、横に並んでいる。

その形状は今まで見てきた禁足地と同様、明らかに神聖な雰囲気が漂っている。

ここは平安時代の寛仁4(1020)年に最初の式年遷宮が斎行されて以降、社殿造替の権地として仮殿が設けられる場所なのだ。

式年遷宮は21年を目安に行われてきたのだが、現在では社殿群のほとんどが国宝や重要文化財なので新たに造り替えるわけにもいかない。

そこで屋根の葺き替えや壁の塗り替え、建具・金具の補修といった修繕工事を以って社殿を維持している。

ここに7社ある言社も例外ではなく、式年遷宮の際は御神体をここへ遷し、社殿を他所へ運んで修繕するわけだ。

言社権地から中門の前をスーッと通り過ぎ、反対側にある「唐門[からもん]」へ。

ここを通り抜けると重要文化財の大炊殿[おおいどの]に行ける。

大炊殿は神様の台所で、お供えを展示してあるところ。

だが、拝観料が必要とのことでパス。

唐門のみシミジミと無料で見物させてもらう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]37

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唐門という名称は屋根の唐破風に由来するのは一目瞭然。

屋根の下に渡された欄間には葡萄の紋様が彫刻されており、別名「葡萄門」とも呼ばれている。

葡萄といえばワイン、西洋の神話には付き物だが、日本の神話でも重要なシーンで登場する。

古事記で伊邪那岐[いざなぎ]命が黄泉国で、見てはいけないという約束を破って伊邪那美[いざなみ]命の腐り果てた姿を見たときのこと

恐れ慄いた伊邪那岐命は一目散に逃げ出すが、伊邪那岐命は黄泉国の醜女神らに命じて後を追わせた。

あと一歩のところまで追い詰めてきた醜女神らに、伊邪那岐命は髪留めに結わえてあった黒い鬘[かずら](蔓草を束ねた冠)を外して投げ付けた。

すると地に落ちた鬘は葡萄葛[えびかずら]に変わり、その果実を醜女神らが端から食べ始めた。

その間に伊邪那岐命は何とか遠くまで逃げることができた…という話。

葡萄葛は野生の葡萄のことで、平安時代には薬草として用いられていたそうだ。

この欄間に掘られた葡萄棚の紋様は西洋にない日本独自のデザイン。

古事記の故事から、欄間の下をくぐれば御祓を受けるのと同じ意味があるのだとか。

拝観料は払わずに唐門だけをコッソリくぐらせてもらおうかとも思ったが。

あまりにセコいと思い返し、唐門を後にした。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]38

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中門から再び外に出ると、舞殿の左側に小石で囲まれた小さな正方形の一角が目に入った。

四隅に細い柱が立てられ、上部には注連縄が巡らされている。

どこの神社にもある禁足地のようでありながら、その面積は著しく狭い。

解説板には「解除所[げじょのところ]」と記されている。

賀茂社は「鳴くよウグイス平安京」以前の奈良時代から朝廷の崇敬が篤かった神社。

平安遷都の際に桓武天皇が行幸して以降、歴代天皇ご親斎の神社として朝廷と密接に関わってきた。

このため天皇をはじめ皇族が行幸などで頻繁に訪れるのだが、その際に解除(お祓い)を受ける場所である。

解除所が常設されている神社は他になく、賀茂社が朝廷にとって特別な神社だった証と言えるかもしれない。

解除所の横に、見るからに“神殿”という大きな社殿が建っている。

「神服殿[しんぷくでん]」という。

寛永5年の式年遷宮で造替され、21年ごとの解体修理もまた舞殿と同じ。

入母屋造で屋根は檜皮葺きなのも同様だが、桁行5間、梁間4間と少し広い。

読んで字のごとく元は御神服を奉製する御殿だが、時代が下ると勅使殿や着到殿(勅使が着到の儀を行う建物)に。

天皇行幸の際は玉座に使用されたそうで、その一室は「開けずの間」として伝わっている。

また、京都御所が災害に遭った時は臨時の御座所にするよう定められていたそうだ。

それにしても、なぜ本殿から遠く離れたこの神服殿に玉座を置いたのだろう?

それでいて下鴨神社には、後述するが本殿が二棟もあるのだ。

せめてどちらかに玉座を設えたらよかったのにと思うのだが。

なにか、やんごとなき事由でもあったのだろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]39

4t下鴨046

神服殿から西参道へ向かうと、本殿の隣に鎮座している三井神社に目が止まった。

三井神社は摂社ながら拝殿や棟門など全てが重要文化財に指定されている歴史的遺産。

というのも山城国風土記逸文に「蓼倉里三身社[たでくらのさとみつみのやしろ]、延喜式に「三井ノ神社」と、それぞれ記されてるほどの古社なのだ。

「蓼倉里」とは、この一帯が奈良時代から平安時代にかけて「蓼倉郷」と呼ばれていたことに由来する。

「三身社」とは、賀茂建角身命と妻の伊可古夜日売命[いかこやひめのみこと]、娘の玉依姫命のこと。

現在でも同じ三神を主祭神に、境内の奥に独立した社殿が横に並ぶ形で祀られている。

また、境内の西側には末社が3社祀られている。

これらは平安時代の社頭絵図「鴨社古図」に描かれており、しかも各社の位置は現在と変わらないそうだ。

下鴨神社は上賀茂神社を分割する形で創建されたという説が有力である。

ひょっとしたら先に三井神社が鎮座していて、その隣に下鴨神社が後から建立されたのだろうか?

そんな想像を掻き立てるほど、その佇まいは古の風情を湛えている。

棟門の横に一本の木が立っている。

堂々とした大木で周囲が木の柵で囲まれている。

由緒ありそうな木だと思っていると、近くに説明板があった。

名を「擬雪[ぎせつ]」という、やはり由緒正しき椿である。

寛政5(1793)年3月に光格天皇が親拝された折、御遺愛の白玉椿を奉献された。

花は中輪で半八重咲き、色の白さは別格で雪にも見紛う美しさから「擬雪」と命名されたという。

しかし経年劣化には勝てず、いつしか枯れ果ててしまった。

それから悠久の時を経た平成27(2015)年の式年遷宮で三井神社の修繕工事が完成。

それを記念して三井物産、三井住友銀行、三井不動産が“三井”のよしみで同種の椿を奉納。

それが目の前にある椿の大木というわけだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]40

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擬雪と参道を挟んだ向かい側に、長方形の建物が立っている。

「供御所[くごしょ]」といい、この建物もまた重要文化財だ。

他の社殿群と同様、寛永5年の式年遷宮で造替された後、21年ごとに解体修理が行われている。

説明板によると内部は東・中・西の三間に分かれている。

東の間が供御所で、神饌を調理する間。

中の間は贄殿で、魚介鳥類を調理する間。

西の間は侍所で、神官らが集まり直会[なおらい]や勧盃[かんぱい]の儀を行う間。

下鴨神社の食堂的な役割を果たす社殿といっていいか。

供御所の隣に、また別の摂社が鎮座している。

建速須佐乃男命を祀る「出雲井於神社[いずもいのへのじんじゃ]」。

スサノヲ命と出雲には深い関わりがあるも、社号との関係は間接的だ。

創設したのは古代山代国北部を拠点としていた葛野主殿県主部[かどのとのもりあがたぬしべ]という、
鴨氏と同じ祖先を持つ氏族。

県主部の拠点である山代国葛野郡は大宝令の制定・施行により4分割され、鴨川の西岸が出雲郷となった。

「井於[いのへ]」とは鴨川のほとりのこと。

すなわち「出雲井於神社」とは「出雲号の鴨川のほとりにある神社」という意味なのだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]41

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現在の社殿は寛永6(1629)年度の式年遷宮で、先の天正9(1561)年の式年遷宮で造替された本宮本殿が移築されたもの。

つまり下鴨神社にある社殿群の中で最も古い社殿なのだ。

また、ここ「出雲井於神社」は通称「比良木[ひらぎ]神社」と呼ばれている。

厄年の御祈願として周囲に植えられた木は、どんな葉も柊[ひいらぎ]のようなギザギザになって願いが叶うため「何んでも柊」と呼ばれ、京の七不思議になっているそうだ。

社殿の周囲には潅木が疎らに植えてある。

それらすべての葉の形状がギザギザかどうか歩きながら眺めてみたが、どうにも微妙なのだった。

再び供御所と擬雪の間を通り、鳥居をくぐって外に出ると右手に大炊殿があった。

もちろんここからは入れない、幣殿前の唐門を通って拝観料を払わないことには。

大炊殿については唐門のところで浅く触れたが、改めて深く掘り下げてみたい。

大炊殿は神饌の御料を調理する社殿で、別名大炊所とも呼ばれている。

その昔ここでは御飯、餅、ぶと、まがりなどの穀物類が調理されたという。

「ぶと(餢飳)」も「まがり(糫)」も、唐から輸入された油を用いる製法で餅を調理した米菓だ。

実際に拝観しているわけではないので、内部の構造は説明板によるのだが。

[旅行日:2014年3月20日]

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入口の土間に竈[おくどさん]が設えてある。

「おくどさん」とは竈[かまど]そのものではなく、正式には竈の神様を指す言葉。

しかも畿内でのみ用いられている“方言”のようなもの。

陰陽道[おんみょうどう]で土を司る神「土公神[どくじん]」に由来すると思われる。

入口を先へ進むと、お供えの材料や用具を洗ったりする中の間。

その先の台所奥の間は調理して盛り付けるスペース。

さらに奥には神前へお供えする順に並べておく配膳棚が設けてある。

また、御酒は酒殿で醸され、魚貝鳥類は贄殿で料理されていたそう。

こうして賀茂社の胃袋を満たしてきた大炊殿だが、文明2(1470)年6月10日に兵火のため焼失。

その後、大炊殿は酒殿を除いて現在地に再興された。

神社建築の中でも、この種の社殿が現存するのは非常に希で貴重なのだそうだ。

それにしても、先に見た供御所との違いは何だろう?

大炊殿は内部にお供え物のレプリカなどを展示した資料館的な存在なのに対し、供御所は今も使用されている現役の“台所”ということだろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]43

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大炊殿の扉が開いていたので中を覗いてみる。

唐門が入口で、ここが出口なのだろう。

大炊殿の解説版の隣に「賀茂斎院御所旧跡」のそれが立っている。

賀茂斎院については御手洗池のところで触れた。

賀茂斎院御所は斎王が葵祭などの年中行事に参向された折、期間中に滞在する御所のこと。

建暦2(1212)年9月4日に第35代礼子内親王が退位するまでの約400年間にわたり御座場所となっていた。

しかしが15世紀後半、文明の乱の兵火により焼失。

その後、宮域内の殿舎のうち大炊殿と御井[みい]だけが再興され、現在に至るわけだ。

御井は神饌や若水神事[わかみずしんじ]など御水の祭事が行われる井戸で、国の重要文化財に指定されている。

井戸のうち井筒[いづつ]を井戸屋形[いどやかた]、上屋[うわや]を井戸屋と呼び、両者全体を総じて「御井」と称している。

重要文化財の井戸というのは、日本広しといえどもここぐらいなものだとか。

大炊殿の周辺には御神紋の双葉葵が自生する「葵の庭」がある。

大炊殿の酒殿では薬酒なども調整されていたので、この庭ではカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなどの薬草も栽培されていた。

特にカリンの古木が有名で、別名「カリンの庭」とも呼ばれているそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

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西参道から境内を出る手前に小さな末社が二つ並んでいる。

右側に「印納社」、世界文化遺産の石碑を間に挟んで左側に「愛宕社」。

印納社の御祭神は印璽大神[おしでのおおかみ]。

印璽とは読んで字のごとく、印[しるし]や印形のこと。

いわば「ハンコの神様」、しいては「契約の神様」。

大事な契約の前や成功祈願など、ここに参拝すると御利益がありそうだ。

印納社の向かい側に手水舎が立っている。

崇神天皇が賜ったと伝わる瑞垣のレプリカに囲まれた船形磐座を、細やかな霧雨が舞うように優しく包んでいた。

印納車との間を通る西参道を抜け、境内の外に出る。

雨雲が低く垂れ込める中、下鴨本通を北へ向かって歩く。

下鴨神社に来たからには、どうしても立ち寄りたい店がある。

その名は「加茂みたらし茶屋」。

下鴨神社は「みたらし団子」発祥の地なのだ。

常陸国一之宮鹿島神宮も発祥の地と謳っているが、どうも本家はこちらの様子である。

やがて左手先に二階建ての店舗が見えてきた。

[旅行日:2014年3月20日]

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観光地にありがちな仰々しい大店ではなく、ごく小ぶりな店構えは清しく、元祖の名に相応しい。

カラリと戸を開け店内に入る。

まだ昼時前のせいか先客の姿はない。

席に着き、さっそく「みたらし団子」を注文した。

みたらし団子のルーツは、先ほど訪れた御手洗川や御手洗池。

土用になると池や川の底から清水がブクブク湧き出るといい、これもまた「鴨の七不思議」に数えられている。

その湧き上がる水の泡を象ったのがみたらし団子なのだそうだ。

小糠雨に映える下鴨本通の街路樹を眺めているうち、団子を乗せた皿が運ばれてきた。

焼いた小白玉5個を貫いた串が3本、それにみたらしの餡がかけてある。

団子屋やスーパーの甘味処で団子といえば普通、一串に白玉4個が基本。

20世紀末にNHK「みんなのうた」で「だんご3兄弟」が大ヒットしてからは、一串3玉の団子も増えた。

それを踏まえても、一串5玉は異形だ。

ここの団子は滋賀県産の上新粉で作った白玉を串に刺して焼いたもの。

餡は醬油に葛粉と黒糖を加えたものという。

皿には木匙が添えられ、餡を余すところなく賞味できる。

また、一串にさした団子5個のうち、先端のひとつが他の団子と離してある。

これは人間の頭部と四肢を抽象的に表現しているというが、本当だろうか?

しかも内一串の“頭部”団子には、爪楊枝がブッスリと突き刺さっている。

その姿が余りにもグロテスクで、どこか“京都の深い闇”みたいな、なんとも言えない恐怖感が胸の内に湧こうというもの。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]46

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爪楊枝の刺さった団子を木匙を使って串から抜き、パクリと口に放り込む。

焼きたての小ぶりな団子と、醬油の香ばしさと黒糖の甘いコクが絡み合う。

あまり大口を開けずに食べられる団子のサイズ感が絶妙で、スーパーなどで普通に売られている一般的な団子が野暮で無骨に思えてくるから不思議だ。

加茂みたらし団子は味そのものを云々するより、その形状が表現する形而上的な意味合いこそが真の味わいなのかも知れない。

団子を賞味している途中、明らかに客ではない一団が店内にドヤドヤと入ってきた。

マイク、照明、そしてカメラ…テレビ番組の撮影クルーである。

カメラに放送局名が記されていないから、どこかの番組制作会社だろうか。

クルーは厨房の中に入り込み、職人さんの説明を受けながら団子が焼きあがる様子を撮影している。

騒々しくもなく物静かに淡々と仕事を進めるクルーからは、あまり濫用したくない言葉だが“はんなり”とした空気が漂う。

もし東京で同様のケースに遭遇したなら、こうはいかないだろう。

下手したら店を追い出されるかも知れない。

クルーが取材している途中、コッソリ会計を済ませて店を後にした。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]47

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あの取材が終わるまで店に居座っていたなら、どうなっていただろう?

お客さんのご感想を…などとインタビューを受けていたかもしれない。

そんな馬鹿げた妄想を膨らませながらバス停へ向かって歩いていると、目の前に現れた教会風の建物に現実世界へ引き戻された。

近寄って表札を見ると“風”ではなく、れっきとした教会である。

「末日聖徒イエス・キリスト教会」下鴨ワード、とある。

アメリカにあるキリスト教宗派モルモン教会の集会所だ。

どのような宗教かは知らないし興味もないので、特に何も言わない。

それにしても日本の大きな寺社の近くでキリスト教会をよく見かける。

教会は無くても、黒地の琺瑯板に白と黄の文字で聖書の言葉を綴った「キリスト看板」を見かけることもよくある。

神社への参拝客にキリスト教の優位性を説き、入信へ誘おうという魂胆なのか?

[旅行日:2014年3月20日]

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教会からほど近い下鴨神社前バス停で市バスが来るのを待つ。

雨は依然として弱く降り続き、止みそうな気配は微塵もない。

あの教会が立っている場所も、かつては糺の森の域内だった。

そう考えてみれば日本の神社は心が広いものだと改めて思う。

キリスト教は一神教であり、宗派は多々あっても神はキリストしかいない。

しかし、さっきまで見てきた下鴨神社ときたら。

本殿だけで賀茂建角身命に玉依姫命と二神が鎮座している。

他にも河合神社、相生社、井上社、三井神社、出雲井於神社、印納社と、これだけ多様な神様が御坐すのだ。

イエス・キリストに何でもかんでもお願いするのをアメリカ流のスーパーマーケット方式だとすれば、幾つもの神社にひとつひとつお願いしていくのは日本流の商店街方式と言えるかもしれない。

教会の尖塔を眺めつつボンヤリそんなことを考えていたら、上賀茂神社行きのバスが姿を現した。

[旅行日:2014年3月20日]
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