摂津國一之宮「坐摩神社」

一巡せしもの[坐摩神社]01

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南海難波駅に着いた時、既に陽は天頂から西へと傾いていた。

何か食べようかなぁと思ったものの、今は次の目的地へ行くのが先決。

地下街へ降りて御堂筋線に乗車し、凡そ3分ほどで本町駅に到着した。

直線距離にして約2km、歩いても30分ほどだろうか。

行政上の地名は本町だが、一般には広く「船場[せんば]」の名で知られている。

豊臣秀吉が大阪城を築城した折、家臣団をはじめ大勢の武士が大阪に移住してきた。

武器や武具、食料、生活用品といった物資の需要が必然的に拡大することとなる。

そこで秀吉は伏見や堺の商人を強制的に集め、商業地を人工的に形成した。

これが船場の始まりと伝わっている。

その後、周辺には船宿や料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々と誕生。

江戸時代は「天下の台所」として日本経済の中枢たる役割を担い、機能していた。

その折に形成された船場の都市基盤は現代まで受け継がれている。

例えば繊維街の本町、金融街の北浜、製薬会社の多い道修[どしょう]町などがそうだ。

駅から地上へ上がろうとすると通路が地下街へと続いている。

興味が湧いたので先へ進んでみると、そこにあったのは「船場センタービル」の表示。

市中心部のド真ん中を東西に貫く阪神高速の高架下に、1kmにも渡って連なるショッピングモールだった。

オープンしたのは、なんと大阪万博が開催された昭和45(1970)年。

既に40年以上も経過しており、やはり経年劣化は否めない。

船場センタービルは1号館から10号館まで分かれている。

ざっくり説明すると1~3号館はインポートマート中心の街。

4~9号館は繊維の卸問屋街、10号館は商店街といった構成。

また2~4号館と9~10号館の地下には飲食店が軒を連ねている。

市中心部の地下に長大なレストラン街が潜んでいるわけだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]02

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本町駅と直結しているのは10号館。

その1階商店街へ足を運んでみた。

立ち並ぶ店舗は悉く、いまひとつ垢抜けてない印象を受ける。

繊維問屋が密集しており、いわば船場は「ファッションの街」なのに。

このビルは「株式会社大阪市開発公社」という外郭団体が運営している。

そうした「殿様商売」が最先端で流行を牽引できるはずもない。

難波で我慢した昼食を船場で摂ることにした。

難波の仇を船場で取る…じゃないけど。

とっくにランチタイムは過ぎているが、開けている店が結構ある。

ここは巨大ビジネス街のド真ん中。

その活動時間帯に合わせて飲食店も昼休憩など取らないのだろう。

喫茶店や居酒屋から沖縄やインドの料理まで。

それにしても様々な飲食店が立ち並んでいる。

しかし、いまいちピンと来る店がなかったので、隣の9号館へ行ってみた。

するとここに、なぜかカレーの「自由軒」がある。

ルゥとライスをまぶした「インディアンカレー」でおなじみ、大阪の名物カレー屋さん。

しかし自由軒は確か難波千日前にあったはず。

それがなぜ船場にあるのか?

自分が船場と難波を勘違いしていたのか?

調べてみると難波と船場の自由軒、実は全く無関係の存在だった。

本家は難波のほうで、船場は支店ではなく暖簾分けで誕生した店。

センタービルの開業に合わせ、本家の許可を得て出店したという。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]03

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せんば自由軒は自店も「自由軒」の系譜を受け継いでいると主張しているが。

難波の本家「自由軒」は具体的な店の名前こそ出さないものの。

せんば自由軒は無関係と頑なに主張している。

このあたり関東の人間にとって、なかなか区別するのは難しい。

どこか「餃子の王将」と「大阪王将」の併存を思い起こさせる。

それにしても「難波」と「船場」の争いが実在したとは!

これじゃまるで「船場の仇を難波で取る」ではないか!

しかし、せんば自由軒には立ち寄らず、もっと船場っぽい食事を探求。

純喫茶、中華、蕎麦…いろいろ目移りしているうち、一軒の店が目に止まった。

「せんばかつら亭」

入口前のテーブル一杯にサンプルが並べられ、そのカラフルさに目を奪われる。

値段も総じて600円前後からとリーズナブル。

高くて量が少ないランチでは舌の肥えた船場のサラリーマンからソッポを向かれるのだろう。

サンプルの中で視線は自ずと「船場汁[せんばじる]定食」に吸い寄せられた。

船場汁はその名の通り、ここ船場で生まれた謂わば“郷土料理”。

塩鯖の身や頭、中骨などと、輪切りの大根を鍋で一緒に煮た澄まし汁だ。

元は忙しい問屋街で生まれた従業員の賄い食だったという。

材料に単価の安い塩漬を用い、アラまで使うのでムダがなく、食べるのに時間もかからない。

鯖の塩味で調味するので余計な調味料も不要。

この実質本位ぶりには「さすが大阪商人!」と感心させられる。

現在も作り方は概ね同じだが、大根は銀杏切りにし、仕上げに少量の薄口醤油を加えるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]04

rj04坐摩4t05

店に入ると中に客はほとんどいない。

ランチタイムというより、むしろ夕方からの営業へ向けて仕込みの真っ最中といった感じ。

それでも、こんな時間外れの客にも丁寧に接客してくれるから有り難い。

注文した船場汁定食が眼前に運ばれてきた。

椀ではなく丼で供され予想以上に量が多い。

中身も鯖と大根のほか人参も入り、大根も銀杏切りではなく乱切りで大ぶり。

初めて船場汁を食べたが、鯖の塩味に醤油味がホンノリと絡む上品な味わい。

賄いなのにこんな美味い物を食べていたとは、さすが食い倒れの街だけある。

しかも600円でこれだけのボリューム…まず東京のオフィス街ではお目にかかれないだろう。

船場センタービルを後にし、地上へ出る。

周囲は高層ビルが立ち並び、その間を高速道路が縫うように走る。

まるで20世紀中庸に少年雑誌で描かれた“未来都市”のようだ。

地名「船場」の由来は読んで字の如く「運河の船着き場」に由来している。

舟運が主流だった江戸時代の物流を象徴するかのような地名だ。

ちなみに江戸時代、船場を囲んでいた四方の運河名と現在の状態は次の通り。

  • 東:東横堀川=阪神高速1号環状線(南行き)の下を流れる現役の川
  • 西:西横堀川=埋め立てられて阪神高速1号環状線(北行き)の高架
  • 南:長堀川=埋め立てられ現在は長堀通り
  • 北:土佐堀川=中之島で南北に分岐している旧淀川の南側の流れ

現在でも商社、銀行、問屋などが密集する大阪経済の中心地なのだが。

江戸時代に栄華を極めた風情を偲ぶ縁は今では姿を消してしまった。

地下街から中央大通へ上がる。

ビルの間を縫うように歩いているうち、坐摩神社の正面に出た。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]05

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もっと小さい神社を想像していたのだが、意外と大きい。

同一国内に一之宮が二社ある場合、これまでのケースだと一方は大きく、片方は小さいのが常。

ここ摂津国一之宮でも住吉大社の規模とは比ぶべくもないのは確かだが。

それを織り込んで見ても、坐摩神社の大きさは予想外だった。

鳥居の右前に立つ社号標は小さくてシンプル。

坐摩と書いて「いかすり」と読む。

だが、なかなか読むのは難しい。

なので一般的に「ざまじんじゃ」と読まれるケースが多いそう。

地元では通称「ざまさん」と呼ばれ、船場の氏神的存在だ。

「いかすり」の語源は諸説ある中、坐摩神社では土地や居住地を守るという意味の「居所知[いかしり]」が転じた説が有力としている。

鳥居は大和国一之宮大神神社でも登場した「三ツ鳥居[みつとりい]」。

中央の大きな明神鳥居の左右に小さな脇鳥居が付属。

鳥居が3つ横に並んだ珍しい形状をしている。

三ツ鳥居は大神神社がオリジナルなので「三輪鳥居[みわとりい]」とも呼ばれている。

ただ、大神神社の三輪鳥居は拝殿の奥に厳かに鎮座しているので、原則として非公開。

それが坐摩神社では壁と壁の間に、まるで入り口のような扱われ方をして立っている。

この彼我の違い、なかなか興味深い。

鳥居をくぐると真正面に拝殿が鎮座している。

現在の社殿は昭和34(1959)年に建造された鉄筋コンクリート製の建物。

いかにも「都会の神社」といった風情を感じさせてくれる。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]06

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前の社殿は昭和11(1936)年に造営されたが、昭和20(1945)年の大阪大空襲で焼失。

戦後、往時の姿を再現したのが現在の社殿だ。

参道の横に由来書が掲げてあった。

祭神は以下の5柱で、総称して坐摩大神[いかすりのおおかみ]というそう。

  • 生井神[いくいのかみ]…井戸水の神
  • 福井神[さくいのかみ]…井戸水の神
  • 綱長井神[つながいのかみ]…井戸水の神
  • 阿須波神[あすはのかみ]…竃[かまど]神
  • 波比岐神[はひきのかみ]…竃[かまど]神

坐摩大神の起源は「古語拾遺」などによると神武天皇が即位された時まで遡る。

高皇産霊神と天照大神から御神勅を受け、内裏(宮中)に奉斎したのだそうだ。

5柱を見てみれば、すべて井戸水と竈の神様…つまり台所にまつわる神ばかり。

つまり坐摩大神とは皇居におけるキッチン関係を護る神様だったということか。

確かに昔の人々にとって“水”と“火”は日常生活の最低限の“生命線”だった。

水の入手が途絶えれば人は死に絶える。

火を粗略に扱えば火事で全てが灰になる。

水と火の神様を篤く祀ることは、最もプリミティブな祀り事だったに違いない。

その“水”で手を洗うための手水舎は、他の大きな神社と違って素っ気ない造作。

龍や兎や亀の口から水が流れ出るでもなく、前に立てば自動的に水が出てくる仕組みだ。

御神徳は「住居守護」「旅行安全」「安産守護」。

社号が土地や居住地を守る「いかしり」に由来するだけに「住居守護」のご利益は外せないものがある。

では他の2つについては、どのような経緯から御神徳になったのだろうか?

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]07

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中でも有力なのが神功皇后奉斎説。

神功皇后が新羅征伐から帰還した折、淀川南岸の田蓑島[たみののしま]に坐摩神を祀ったのが創祀という説だ。

この田蓑島が後に渡辺津となり、現在「行宮[あんぐう]」の鎮座する石町付近だと言われている。

この行宮には今でも「神功皇后の鎮座石」と伝わる巨石が祀られている。

つまり御神徳の「旅行安全」は神功皇后が無事の帰還を感謝し坐摩大神を祀ったところから来ているのだろう。

一方の「安産守護」は神功皇后が「安産の神様」として崇められていることに由来するのは間違いないところ。

古くは「万葉集」の中にも難波津から西国へ向かう防人が坐摩大社に行路の安全を祈願する歌が詠まれている。

にはなかの 阿須波のかみに こしばさし
あれはいははむ かへりくまでに
 [萬葉集4350]

最近では明治天皇ご生誕の砌に宮中から御祈願があったところ、秋季大祭当日(旧暦)に御降誕されたそうだ。

ちなみに御神紋の「鷺丸[さぎまる]」は、神功皇后が田蓑島の白鷺が群がる所を選んで奉斎されたことに由来するそうだ。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]08

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もともと坐摩神社は天満橋にほど近い石町[こくまち]に鎮座していた。

それが天正10(1582)年、豊臣秀吉の大阪築城に伴い替地を命ぜられる。

現在鎮座している住所は「大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号」。

この「渡辺」という地名は元の鎮座地石町から、そのまま移したものだ。

中世、石町近辺に「渡辺津」と呼ばれる港があり、地名として定着現在の鎮座地一帯も以前の町名は「渡辺町」だったのだが。

昭和63(1988)年の地名変更で消滅の危機に瀕する。

ところが全国の「渡辺さん」たちの間で、渡辺姓のルーツが消え去ることへの反対運動が勃発。

結局「久太郎町4丁目渡辺3号」と、なぜか番地に「渡辺」が残る不思議な住所となった。

一方、遷座前に鎮座していたと伝わる旧社地、石町には現在も行宮(御旅所)が鎮座している。

石町には摂津国の国府が置かれ、国府[こう]が訛って「こくまち」になったと言われている。

坐摩神社が一之宮になったのは摂津国府に近かったからなのだろうか?

ちなみに坐摩神社の神主家もまた、渡辺家というそうだ。

境内の北側に末社が横一列になって並んでいる。

手前には“拝殿”ともいうべき一つ屋根の細長い東屋。

前の玉垣を挟んだ向こう側に“本殿”が鎮座している。

一番左側、最奥に鎮座するひときわ大きいのが大江神社。

そこから繊維神社、大國主神社、天満神社、相殿神社と続く。

末社の周囲をグルリと巡ってみる。

大きな大江神社以外、本殿の形状は全て同じ。

鰹木はすべて3本、千木は内削ぎでも外削ぎでもない。

御朱印を賜るべく社務所へ向かうと、大きなビルディングの1階にあった。

境内の土地にオフィスビルを建て、賃貸収入を得ているのだろうか?

お手洗いを拝借しようと巫女さんに尋ねたところ。

ビルの中にあるので左側の入り口からどうぞ…とのこと。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]09

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入り口には左右に看板が掛けられている。

右側には「坐摩神社社務所」、左側には「大阪府神社庁」。

つまり、このビル自体が大阪府神社庁のビルということか。

坐摩神社、まさしく現在の「大阪府一之宮」だったわけだ。

ちなみにお手洗いは神社の施設のレベルを超え、オフィスビル仕様の快適なそれだった。

社務所正面から右手に向かうと、そこに小さな碑が立っている。

黒色の石碑に白色で「上方落語寄席発祥の地」と刻まれている。

これは「上方落語中興の祖」初代桂文治の功績を讃えたものだ。

噺家として初代文治の評判が高まったのは寛政6(1794)年ごろ。

船場の南西にある新町遊郭で落語を演じていた時代のことだ。

同10(1798)年ごろ、境内に大阪初の寄席を建てて移ってきた。

従来の大道芸然としていた落語を専用の建物で演じるように。

現在のような興行形式が始まったのが「寄席発祥」の由来となったわけだ。

初代文治は道具や鳴物を用いた「芝居噺」が“名人”と称されるほど上手かったそう。

上方落語の定番「芝居噺」とは、歌舞伎の雰囲気を取り入れた賑やかな落語のことだ。

「文治」の名跡は三代目の時、上方と江戸に分裂することとなった。

上方の文治は五代目で途絶するも、東京で襲名した七代目が一度大阪へ戻ってきた。

文治の名跡は八代目から再び東京へ戻るが、七代目の弟子たちが上方で桂派の流れを受け継ぐ
ことに。

桂派は現在、人間国宝の桂米朝や上方落語協会会会長の桂文枝ら、上方落語の一大勢力となっている。

一方、東京の文治は現在十一代目が健在だ。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]10

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碑の前から右手の裏口方面へ歩いて行く。

その先に青絵付けの有田焼で出来た大きな燈籠が立っていた。

その背後に朱紅の社殿が鎮座している。

摂社の陶器神社である。

燈籠の淡麗な青色と社殿の鮮烈な朱色が妙玄なコントラストを描いている。

燈籠が立つ角を折れ、陶器神社の拝殿正面に出る。

祭神は大陶祇神[おおすえつみのかみ]と迦具突智神[かぐつちのかみ]。

大陶祇神は和泉国に伝わるというローカルな神様だ。

もともと陶器神社は靭南通一丁目、現在の靱公園の近くに鎮座していた。

起源は嘉永年間(1624~1645)、現在の靭本町近辺で「灰喜」を営んでいた山田喜八という石灰商。

七月の地蔵盆の折、自宅に祀っていた愛宕山将軍地蔵を川岸に安置し、一般に公開したのが始まりと伝わる。

将軍地蔵は火防信仰の総本社である愛宕神社の本地仏。

当時は陶磁器の梱包に燃えやすい藁[わら]が用いられていた。

このため火事を除けるのに神様…というか仏様
が必要だったのだ。

陶器神社から外へ向かって細い参道が続いている。

そこから外に出てみると入り口が鳥居の形をしていた。

鳥居を神社への出入口と割り切ったデザインともいえる。

道を挟んだすぐ目の前に高速道路の高架が立ちふさがっている。

市電の敷設と高速道路の建設で何度も移転を繰り返してきた陶器神社。

もし次に移転する機会があるとすれば、一体どのような理由故になるのだろう。

愛宕山勝軍地蔵は明治元(1868)年、新政府の神仏分離令により廃止された。

それが
明治6(1873)年、信濃橋の西側に火防陶器神社として復活。

ところが
明治40(1907)年、市電を敷設するため移転を余儀なくされ、坐摩神社に合祀される。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]11

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時代は下って昭和20(1945)年、空襲で坐摩神社もろとも丸焼けとなる。

昭和26(1951)年6月、陶器神社は坐摩神社の境内から遷座。

西横堀川西側(現在の江戸堀~新町)の瀬戸物町[せともんちょう]近くに再建される。

ところが昭和46(1971)年、今度は阪神高速道路の建設用地となり再び立ち退く憂き目に。

しかし、文字通り「捨てる神あれば拾う神あり」。

西横堀問屋街の陶器商からの寄付や全国の陶芸作家から賛同が寄せられ。

同年11月に坐摩神社の境内へ再び遷宮鎮座されることと相成った。

この際に寄贈された豪華な陶器の皿が20枚ほど、本殿の天井に取り付けられているそうだ。

ちなみに本殿内は原則非公開なので、残念ながら参拝客の目に触れる機会はない。

裏門の向かいにある高速道路の下に入り口があったので、試しに中へ入ってみた。

そこは商店街のような造りになっている。

しかしそこにはコンビニと立喰うどん屋があるだけで、どこかガランとしている。

しかも、うどん屋は店を開けているのに店員がいない。

午後の昼下がりというアイドルタイムだけに止むを得ない気もするが、それにしても老婆心ながら不用心過ぎる。

高架下から出て本町駅へ向かうと、高速道路が交差する十字路の下に陶器神社への案内看板を見かけた。

大阪における陶磁器商のルーツは肥前鍋島家の上屋敷に送られてきた伊万里焼を捌いた商人に端を発する。

後に尾張産の“瀬戸物”を扱うようになると市場が拡大し、西横堀川沿いに問屋街が形成されることに。

遂には延宝8(1680)年、西横堀川西岸が先述の「瀬戸物町」と呼ばれるまでに急成長を遂げる。

幕末から明治期にかけて、この一帯は200以上の陶器商が軒を連ねていたそうだ。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]12

rj12坐摩4t24

その西横堀川は埋め立てられて高速道路が通り、すっかり「瀬戸物町」の面影は失われてしまった。

しかし阿波座から立売堀にかけての瀬戸物町筋には今も4軒の陶磁器問屋があり「瀬戸物町」の伝統を受け継いでいる。

阪神高速道の1号環状線と16号大阪港線が交差する十字路に出た。

船場は繊維の町として発展してきたのは、冒頭の「船場センタービル」のところでも触れた。

そのルーツは坐摩神社が大坂城築城を機に現在の西横堀川畔へ遷座してきたところまで遡る。

それに合わせて門前には参拝客目当ての物売りや見せ物小屋が立ち並ぶことに。

その中でも特に古着屋は「坐摩の前の古手屋」として名を馳せていたという。

中でも坐摩神社から程近い安堂寺橘通りに店を構えていた古手屋「大和屋」が有名だ。

天保元(1830)年、大和国の絹屋の息子である十合伊兵衛[そごういへえ]が創業した店。

明治5(1872)年に呉服店へ転換し、5年後に心斎橋筋へ移転、店名を「十合呉服店」と改称。

大正8(1919)年に業態を百貨店に転換、50年後の昭和44(1969)年に店名を「そごう」とした。

その後そごうは経営破綻を経て現在はセブン&アイ・ホールディングスの傘下に属している。

船場の繊維産業もアジア諸国からの格安な輸入品に押され、長いこと沈滞傾向が続いている。

しかし、船場の繊維産業も百貨店そごうも、まだ息の根が止まっているわけではない。

これもまた、縁[ゆかり]の深い坐摩神社の御神徳に与っている証なのだろうか。

夕陽を浴びてオレンジ色に染まった船場の高層ビル街を眺めつつ、そんなことを思った。

[旅行日:2014年3月19日]
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