摂津国一之宮「住吉大社」

一巡せしもの[住吉大社]01

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羽衣駅から乗車した南海電車は20分ほどで住吉大社駅に到着した。

改札を出ると正面に大きな案内図が掲げてある。

太鼓橋の写真を中央に右側が境内図、左側が周辺図。

内容が懇切丁寧で非常に分かりやすい。

初めて来た参拝者にも、これなら迷いようがないだろう。

境内は駅の東側だが、まずは西側に広がる住吉公園に行ってみた。

駅前に「真住吉し 住吉の国」という碑が立っている。

この「住吉」という地名は神功皇后が得た「真住吉」という託宣に由来する。

文字通り「住むのに吉し」という意味、神様が「真に住み吉い」土地ということだ。

古事記の「墨江[すみのえ]」という神名は“よい”を“ええ”と言う関西弁が由来。

つまり「すみいい」が「すみええ」となり「すみのえ」に変化していった。

古事記が編纂された時代に「いい」を「ええ」と言う関西弁が存在したかどうかは知らない。

とはいえ鎮座地住吉区の隣は住之江区、「すみよし」と「すみええ」が隣り合っている。

決して古事記時代の昔話ではないのだ。

公園内を広い道が西へ向かって一直線に延びている。

傍らに立つ碑「汐掛道の記」の説明板には、こうある。

『ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所』

明治4(1871)年に国の所有となり、同6年8月に大阪府へ移管された府下最古の公園なのだそうだ。

『社前から松原が続き、すぐに井見[いでみ]の浜に出る名勝の地』

往時は松原を過ぎれば遠浅の海岸が開けていたが、今の海岸線は遥か10km近くも先。

浜辺は遠くまで埋め立てられ、ここからは当然ながら海岸線は見えない。

歩いていると左側に選挙の候補者掲示板が立っていた。

時は折しも大阪市長選挙戦の真っ只中。

とはいえ12ある枠のうち埋まっているのは右上のひと枠のみ。

前職のポスターだけがポツネンと貼られていた。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]02

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「汐掛道の記」の碑文を続ける。

『松原を東西に貫く道は大社の参道』

この道こそ住吉大社の表参道。

海岸線は至近から消滅しても、参道が埋もれることはなかった。

『浜で浄めた神輿が通る為「汐掛道」と称され』

ここでの「浜で浄めた神楽」とは「神輿洗神事」で洗い浄められたみこしのこと。

「神輿洗神事」とは大阪夏の風物詩「住吉祭」に先立って行われる神事。

まだ浜辺が近かった頃は社前から神輿を担ぎ出し、そのまま出見の浜へ入って行ったそうだ。

「汐掛道」は井見の浜で浄められた神輿が通る、250mにも及ぶ道。

海岸線が遠ざかった今では沖合で汲んだ海水を運び込み、ここ住吉公園で行われている。

参道の両側に灯籠が延々立ち並んでいる。

住友家の当主が代々寄進したものとか。

汐掛道を突き当たると、そこに古めかしくも巨大な燈台が立っていた。

創建は鎌倉時代とも伝わる、日本初の燈台「住吉の高燈籠」。

江戸時代“天下の台所”大坂は昼夜問わず船が行き来するようになった。

本来は住吉大社への奉納物だった燈籠が、夜間航行の船から目印にされるように。

そのうち神社の施設より航路標識としての役割が大きくなっていったそうだ。

幸い空襲にも遭わず戦後を迎えた高燈籠。

たが、昭和25(1950)年のジェーン台風で上部の木造部分が破損し解体。

残された下部の石垣部分も同47(1972)年に道路拡張のため撤去された。

2年後の同49(1974)年12月、元あった場所から200mほど東に移動。

現在地に外形は元のまま、鉄筋コンクリート造りで再建された。

平成17(2005)年8月には内部を改装し、史料館としてオープン。

ただし開館は第1・第3日曜日の10時から16時までの月2回。

もちろん、この日は開いていなかった。

200mほど西といえば、ちょうど阪神高速堺線が通っているあたり。

江戸時代は、そのあたりまで海岸線が入り込んでいたわけか。

さらに時代を遡れば、住吉大社の前まで遠浅の海だったかも知れない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]03

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高燈籠から汐掛道を引き返し住吉大社駅まで戻る。

ここ住吉大社は紫式部「源氏物語」の第14帖「澪標[みおつくし]」の舞台でもある。

主人公の明石君[あかしのきみ]は光源氏の明石時代の愛人で、源氏の一人娘を出産。

身分が低く田舎育ちの明石君は引け目を感じ、源氏や娘と離れて暮らしていた。

そんなある日、住吉大社へ参った明石君は同じ日に偶然、源氏の盛大な参詣に出くわす。

きらびやかな様子に気圧された明石君は改めて身分の差を思い知らされた。

そして源氏に会うこともなくその場から静かに立ち去った。

その事実を後に知った源氏は明石君を憐れみ、使いを出して歌を贈った。

『みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける えには深しな


(身を尽くして恋い慕っていた甲斐のあるここで めぐり逢えたとは縁は深いのですね)

これに明石君は歌を返す。

『数ならで 難波のことも かひなきに などみをつくし 思ひそめけむ』

(とるに足らない身の上で 何もかもあきらめておりましたのに どうして身を尽くしてまで お慕い申し上げることになったのでしょう)

返歌に登場する「みをつくし[身を尽くし]」とは昔、大阪湾の浅瀬に立てられていた水路標識「澪標[みおつくし]」と掛けたもの。

この標識のデザインは明治27(1894)年4月に大阪市の市章となり、現在に至っている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]04

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南海線の高架をくぐり、住吉大社の参道を進む。

大きな神社の門前ながら参道の町並みはありふれた感じ。

立ち並ぶ石灯籠が他の一之宮と雰囲気を大きく変えている。

ところで平成25(2013)年秋、伊勢神宮で式年遷宮が行われ大きな話題を呼んだ。

ここ住吉大社もまた、20年ごとに本殿を新しく建て替える遷宮を行っているという。

ただ伊勢神宮のように完全に建て替えるのではなく、本殿を修繕・改修する程度に留まっているそうだ。

本殿の改修では国宝社殿の丹による塗替えや、ヒノキの樹皮を加工した桧皮[ひはだ]による屋根の葺替えが行われる。

平成20~21(2008~09)年にかけて斎行された第49回式年遷宮が至近のものだそうだ。

短い商店街が尽き、住吉大社の参道正面に出た。

門前には立浪部屋の幟がはためいている。

境内に春場所用の部屋を構えているせいだろう。

実は住吉大社と大相撲は切っても切れない縁で結ばれている。

特に横綱の起源説話は住吉大社と深い関わりがある。

弘仁年間(810~823)の相撲会[すもうえ]で近江国(滋賀県)の力士「ハジカミ」が最強を誇っていた。

その強さは半端なく相手になる者が誰一人いなかったため、行司の志賀清林が一興を案じる。

神前の注連縄を外し、ハジカミの腰にグルリと纏わせたのだ。

そして注連縄に手を掛けることができた者が勝ち、ハジカミの負けとする「ローカルルール」を実施。

それでも、やはり誰も注連縄に触わることすらできなかったという。

これが横綱の起源だと今に伝わっているが、史実かどうかは不明の由。

ただこの故事に因み、今でも横綱が注連縄を第一本宮前の御神木に奉納しているそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]05

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参道入口の右側に聳立する巨大な標柱に、深々と刻まれた「住吉大社」の社号。

津々浦々に鎮座する住吉神社の総本社に相応しい堂々たる社号標だ。

全国各地に分布する住吉神社の数は優に2300社を超えるそうだ。

中でも代表格が摂津国の住吉大社、長門国と筑前国の住吉神社。

これら「三大住吉」は、すべて各国の一之宮。

壱岐国の住吉神社と合わせた4社は、すべて神功皇后[じんぐうこうごう]の三韓征伐に由来している。

また4社は互いに独立しており、本社と分社の関係にはない。

そして全国の住吉神社のほとんどは、これら4社いずれかの分霊を祀ったものだという。

一ノ鳥居は石造りの明神鳥居。

ただし柱は円柱で、四角い柱が特徴的な住吉鳥居ではない。

住吉大社の由緒は古事記にキッパリと明記されており甚だ明快だ。

第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后は、新羅(三韓)征伐に乗り出すよう神からの教示を得た。

その神とは底筒男命[そこつつのおのみこと]、中筒男命[なかつつのおのみこと]、表筒男命[うわつつのおのみこと]の三神。

伊邪那岐命[いざなぎのみこと]が黄泉の国から戻り「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはぎはら]」で穢れを禊いだ時に生まれた神々。

ちなみに「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」とは筑前一宮住吉神社のことではないかとの推測もあるそうだ。

新羅を平定して帰還した神功皇后は三神から教示を受け、住吉の地に「住吉大神」として祀ったことが起源とされている。

皇后摂政十一辛卯[かのとうの]年、今から約1800年も前の話と由緒書には記されている。

鳥居をくぐって境内に入ると、住吉公園から列を為しているかのように夥しい数の石灯籠が立ち並んでいる。

霊験あらたかな“海神”として航海関係者や漁民の間で古くから崇敬されてきた証。

遡れば奈良時代、遣唐使は出港の前に必ず立ち寄り、海上の無事を祈願したという。

「住吉に 斎く祝[はふり]が神言と 行くとも来とも 船は早けん」

(住吉にお仕えする神官のお告げでは行きも帰りも船は速かろうとのこと)

万葉集に収められたこの歌は、遣唐使に無事の帰還を約束した住吉大神のお告げを伝えたものだという。

江戸時代に入り大坂を中心とする海上輸送が隆盛を迎えると、廻船業社から航海安全への信仰もピークに。

境内に存在する約600基もの石燈籠の多くは、当時の廻船業者関係から奉納されたものだそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]06

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一ノ鳥居と太鼓橋の中間あたり、両側に絵馬堂が立っている。

堂内には巨大な絵がいくつも掲げられている。

昔から神社には馬がつきもの。

現に“神馬”として境内に生きた馬を繋留している神社もある。

しかし馬の世話は大変な作業、なかなか出来るものではない。

なので馬の像を立てたり、馬の絵を描いた額を御堂に納めたり。

こうして絵馬は生きた馬の代役を務めているわけだ。

絵馬堂から参道を先へ進むと目の前に巨大な太鼓橋が聳え立つ。

住吉大社の象徴「反橋[そりはし]」。

長さ約20m、幅約5.8m。

石製の橋脚は慶長年間に淀君が奉納したと伝わっている。

「さらに時代を遡れば、住吉大社の前まで海だったのかも知れない」

高灯籠史料館のところで呈した疑問は、やはり本当だった。

架橋当時この近くまで海岸線が迫り、本来の目的は本殿と対岸の入り江を結ぶためだったとか。

橋の下に広がる池は入り江の名残とも言われている。

それにしても神社に太鼓橋は付き物とはいえ、ここまで反り返っている橋はなかなかお目にかからない。

橋中央部の高さは4.4m、最大傾斜角度は約48度もある。

高角度アーチの理由は地上の人の国と天上の神の国をつなぐ掛け橋として虹をイメージしたからとのこと。

また、神と触れ合う前にアーチ橋を渡ることで罪や穢[けが]れを祓[はら]い清める目的もあるそうだ。

この太鼓橋の名を世に広めたのは川端康成の小説『反橋』(1948年)。

「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです」

この一節が刻まれた文学碑が、橋の南東に設えてある。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]07

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反橋は午後9時までライトアップされ、夜景の名所としても名が知られているところ。

そのせいかどうかは分からないが、それにしても外国人観光客の数が多い。

特に白人の西洋系が目立ち、あまり東洋系外国人の姿は目立たない。

いつものことなのか? それとも、この日たまたま多いだけなのか?

そんなことを考えていたら、ブロンドの美女に声を掛けられた。

「エクスキューズ・ミー!」

そう言うとカメラを手渡され、撮影を頼まれる。

サングラスをかけ、長身でダイナミックなプロポーション。

そんなファッションモデルのような彼女が反橋の前でポーズをとる。

秀麗な橋のデザインと肉感的な彼女のボディが魅せる絶妙の調和。

ひょっとしたら神功皇后も彼女のようにダイナミックな女性だったのだろうか。

反橋を渡ると左側に手水舎が立っている。

水の注ぎ口は
石像のウサギ

神功皇后を祀った日が卯歳[うのとし]、卯月[うづき]、卯日[うのひ]だったことに因んだもの。

ウサギといえば大国主命の神話「因幡の白兎」で見るように国津神にまつわる動物かと思っていたら。

天津神の世界でも愛玩されていたわけだ。

石段を登ると四角い柱が特徴的な鳥居が立っている。

「角鳥居[かくとりい]」とも呼ばれ、四角い柱は古い様式で大変珍しいもの。

本殿と拝殿の間に建つ木造朱塗りの鳥居が原形という。

扁額は陶製で、揮毫は有栖川宮幟仁親王の筆による。

鳥居を通りぬけて幸寿門をくぐり境内に入る。

中には同じ大きさ、同じ形状の社殿が4棟。

手前に2棟が左右並列で並び、左側の社殿の後方に2棟が縦列で配置されている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]08

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また、社殿は「拝殿-幣殿-本殿」で構成されている。

大きな神社だと本殿は玉垣で囲われ近づくことはできないが。

ここ住吉大社は本殿が剥き出しで容易に近づくことができる。

住吉大社に昔から慣れ親しんでいる地元の方々にとっては、ごく当たり前の光景かも知れない。

だが諸国の一之宮を巡礼して来た者の目には初めて見る社殿の配置と形状がどこか異様に映る。

これら本殿はすべて西…つまり大阪湾の方角を向いている。

この配置は航海する船団をイメージしたとも、兵法「三社の縦に進むは魚鱗の備え 一社のひらくは鶴翼の構えあり よって八陣の法をあらわす」に基づくとも伝えられている。

手前に横列で並ぶ社殿は右が第四本宮、左が第三本宮。

第四本宮には神功皇后が祀られている。

神功皇后、古事記では息長足姫命[おきながたらしひめのみこと]。

第十四代仲哀天皇の妃であるとともに第十五代応神天皇の母でもある。

応神天皇、又の名を誉田別命[ほんだわけのみこと]は八幡神として知られる。

なので誉田別命と神功皇后を母子セットで祀っている八幡神社が多い。

古事記と日本書紀には神功皇后の伝説が結構なスペースを割いて詳述されている。

三韓征伐に乗り出して新羅を平定した“武神”としての姿。

遠征中に産気づいたものの征伐が終わるまで出産を抑えた魔力。

筑紫へ帰還後に出産した御子(応神天皇)が八幡神へと成長していく過程など。

神功皇后は戦前こうした伝説を基に実在の人物として国家神道の喧伝に利用されていた。

戦後になると研究が進み、現在では実在の人物をモデルにした伝説上の人物との説が定着している。

ただ一之宮の住吉神社は長門国にもあるので、神功皇后についてはそちらで勉強することとしよう。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]09

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左側にある第三本宮の前に立つ。

主祭神は表筒男命[うわつつのおのみこと]。

水面の上に出て身体を濯いだ時に生まれたので“表”筒男命の名が付いた。

参拝を終え、社殿の構造をジロジロ観察する。

社殿の構造は「住吉造」と呼ばれ、伊勢神宮の神明造り、出雲大社の大社造りと並ぶ神社建築史上最古の特殊な様式。

手前に拝殿があり本殿との間を幣殿がつないでいる。

拝殿の奥には木造で朱塗りの住吉鳥居が聳立しているのが見える。

本殿内部は2室に分かれ、正面から見て前部が外陣。

一段高くなっている後部の内陣に神座が設えてある。

また、本殿の周囲を巡る迴廊がない。

その代わりなのかどうか本殿の周囲は板玉垣で覆われ、更にその外側を荒忌垣が囲んでいる。

屋根には置千木と5本の堅魚木が据えてある。

千木は女神の神功皇后を祀った第四本宮のみ内削ぎで、あとはすべて外削ぎ。

堅魚木はよく見かける円筒状のものではなく、珍しい四角い形状。

第四本宮の堅魚木も他の社殿と同様5本である。

第三本殿の裏へ回り第二本宮へ。

ここは中筒男命[なかつつのおのみこと]を祀っている。

水の中で身体を濯いだ時に生まれたので“中”筒男命という。

そういえば伊勢一宮の都波岐奈加等神社には、なぜか中筒男命だけが祀られていた。

住吉三神をバラして一神のみ祀った神社は他にもあるのだろうか?

だとしても、なぜ表筒男命でも底筒男命でもなく中筒男命なのだろう?

その理由は…よく分からない。

話を住吉造の本殿に戻そう。

ここにある4つの本殿は昭和28(1953)年11月14日、国宝に指定されている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]10

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建造されたのは全て文化7(1810)年というから、それほど古いものではない。

国宝指定は、代々にわたる遷宮を通じて住吉造の様式を後世へ忠実に伝えたことに対する評価だろう。

その住吉造は3つの特徴から構成されている。

1つ目は朱(丹)と白と黒の三色を中心に彩られた色彩。

柱、垂木、破風板は朱塗り、羽目板壁は白色の胡粉[ごふん]塗り。

そこへ黄金の金具を用いることでゴージャス感を演出している。

2つ目は檜皮葺(ひわだぶき=ヒノキの皮を敷き詰めたもの)の屋根。

切妻(屋根の端を切り揃えた形)が直線的な力強さを感じさせる。

3つ目は直線型妻入り式の出入り口。

屋根の両端(つま)が正面に向いているのが特徴的。

まるで開いた本を上からかぶせたようだ。

最後に最も奥に鎮座する第一本宮に参拝する。

祀られているのは底筒男命[そこつつのおのみこと]。

もちろん川の底で身体を濯いだ時に生まれたので“底”筒男命だ。

さすが第一本宮だけあって、拝殿前のスペースは他に比べて広め。

拝殿の大きさも他に比べると大きいように見える。

ここで、とある注意書きが目に入った。

「参拝は第一本宮から第四本宮へ向けて参拝すること」

にもかかわらす、第四本宮から参拝してしまったのだ。

予め知らなかったとはいえ、これは大失態!

ここから第四本宮へ向けて再度参拝したのは言うまでもない。

手前からではなく、真っ先に最奥の第一本宮へ!

住吉大社へ参ったら、この鉄則をお忘れなきよう。

ちなみに「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」とは筑前一宮住吉神社のことではないかとの推測もあるそう。

なので、住吉三神については筑前一宮住吉神社を参拝する折に改めて勉強したいと思う。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]11

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社殿群の西側に「住吉文華館」がある。

所蔵する宝物や文化財を保護し、一般公開を通じて住吉大社の歴史や文化財への認識を深めるための施設。

しかし開館は毎週日曜日の午前10時~午後3時と“狭き門”なので見学することは叶わない。

ここで住吉三神に共通する“筒”という文字について考えてみた。

意味するところは諸説あるが有力な説は「津」…船が出入りする港湾を意味する。

三重県の県庁所在地「津」の由来が、まさにそう。

古事記では伊邪那岐命から生まれてきた住吉三神を「墨江之三前大神[すみのえのみまえのおおかみ]」と呼んでいる。

この神様、もとは「住吉津[すみのえつ]」の守護神として祀られていたと考えられている。

祀っていたのは住吉津を守る職務を以ってヤマト王権に仕えていた摂津の名族、津守氏。

天火明命[あめのほあかりのみこと]の子孫と伝わり、住吉大社の神主職を連綿と努めてきた。

日本書紀には遣唐使として派遣された旨の記録が残り、明治維新では男爵位を授与され華族となった。

それほどの長きにわたって家系が継承されてきたことに驚かされる。

また、津守氏第39代当主の国基[くにもと]が和歌の天才として名を馳せていた。

このことから住吉大社は「和歌の神」としての崇敬も集めるようになったという。

瑞垣に囲まれたエリアを裏口から出ると摂社末社が数多く鎮座している。

ひとつひとつお参りするが、沢山あり過ぎて個々に覚えてはいない。

由緒書によると摂社が4社(大海神社/船玉神社/若宮八幡宮/志賀神社)。

このうち大海神社は重要文化財に指定されている。

また、志賀神社には住吉三神と同時に生まれた三柱の海神「綿津見神」が祭神。

綿津見神とは次の三神の総称だ。
  • 底津少童命[そこつわだつみのみこと]
  • 中津少童命[なかつわだつみのみこと]
  • 表津少童命[うわつわだつみのみこと]

綿津見三神は住吉三神と一緒に生まれた神々なのだが、住吉三神のように後に古事記に再び現れることはない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]12

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一方、末社は次の6社。
  • 侍者社[おもとしゃ]
  • 楠■(■=王偏+君)社[なんくんしゃ]
  • 種貸社
  • 大歳神社
  • 浅沢神社
  • 市戎大国社

うち、第一本宮の裏手にある楠■社に参拝した。

境内奥の樹齢千年を超える楠[くすのき]の大木を御神木とした稲荷社。

江戸時代、神秘的な霊力があるとされる楠に人々は祈りを捧げていた。

その後、根元に設けられていた社に稲荷神を祀るようになったのが創始という。

商売繁盛のご利益があり、現在では大阪はおろか全国の商人から篤く信仰を集めるているそう。

ちなみに、この楠は大阪市から保存樹に指定されている。

楠■社から再び住吉大社の社殿群へ戻る。

第一本宮の裏手に広がる木立の中に、二棟の建物が立っている。

板校倉造[いたあぜくらづくり]という工法を用いた「高庫」で、かつては御神宝が納められていた。

室町時代の建物と伝わり、現在では大阪府から文化財に指定されている。

板校倉造は地面から建物を持ち上げ、板を組み合わせて壁面を構成する工法。

保管に万全の注意を払うため、高床や板校倉を採用することで風雨や湿気からの被害を避けたものと思われる。

高庫から境内をグルリと回りこむと、第一本宮と若宮八幡宮の間に「五所御前」という場所がある。

石でできた玉垣の中に杉の木が立っている。

その昔、神功皇后が住吉大神を祀る土地を探していたら、この杉に3羽の白鷺が止まった。

住吉大神の御思召と感じた神宮皇后は、ここを鎮座地に定めたと伝わっているそうだ。

別名「高天原[たかまがはら]」とも呼ばれ、神霊を迎える御生[みあれ]所(神の来臨する場所)でもある。

玉垣内にある砂利の中に「五・大・力」と書かれた小石があり、これを探して集めてお守りにすると心願成就のご利益があるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]13

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五所御前から各社殿の右側を通り抜け第四本宮の前に出た。

ここに翡翠[ひすい]で出来た撫でウサギの像が立っている。

手水舎のところで記した通り、ウサギは住吉大神のお使い。

像の五体を撫でれば無病息災の御利益に与れるそう。

ここぞとばかりに翡翠のウサギを撫で回した。

ウサギ像から視線を右側に向けると風格のある大きな門が目に入った。

近づいて見ると看板に「神館」と墨書されている。

神館[しんかん]は大正4(1945)年に建立された歴史的建造物。

中には南向きの玉座(天皇陛下がお控えになる部屋)が設えられている。

その造形美は木造建築の粋を極め、国から登録有形文化財に指定されているほど。

現在は小規模な宴会場として用いられている。

ただ、その姿は白壁に阻まれて伺うことは叶わない。

池の前に出、傍の小径を通って南側から北側へ向かう。

その小径には巨大な燈籠がズラリと立ち並んでいる。

優雅で大きな形をしたものが多く「池大雅灯籠」と呼ばれている。

燈籠は全国の様々な業者から海上守護の祈願を込めて奉納されたもので、その数は約600基。

広告塔としての意味合いも強く、題字は名筆家に刻字してもらったという。

社殿群の北側に巨大な和風建築群が立ち並んでいる。

祈祷殿、社務所、そして参集所だ。

住吉大神は伊邪那岐命が禊祓[みそぎはらい]をした際に現れた神様。

なので住吉大神は神道で最も大切な「祓[はらえ]」を司っている。

夏祭りの「住吉祭」が単に「おはらい」と呼ばれていることこそ、その証。

その御神威には摂河泉はもとより日本中を禊祓するだけの力があるわけだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]14

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祈祷殿の前には自動車のお祓い所がある。

そこに立つ電話ボックスの屋根にも千木と鰹木が据えられている。

まるで社殿群の一部のように。

千木は外削ぎ、鰹木は三本。

どうやら“祭神”の公衆電話は男神のようだ。

そこから少し離れたところに「丸に十字」の提灯がぶら下がった一角を見つける。

石製の低い玉垣に囲まれたスペースの中央には、ラグビーボール大の石が幾つか寄せ集まっている。

正面入口の横にある標識には「誕生石」の文字。

「丸に十字」は薩摩藩島津家の紋所、なにか関わりがあるのだろうか?

入り口の門は固く閉ざされていて中に入れず、外から覗き込むしかない。

住吉大社の由緒に説明があった。

ここは源頼朝の寵愛を受けた丹後局[たんごのつぼね]が出産した場所という。

懐妊した丹後局は嫉妬深い北条政子に捕えられ、殺害されることになった。

家臣の本田次郎親経[ほんだじろうちかつね]に危ういところを救われ、逃亡。

摂津住吉の辺りまで来た時に日が暮れ、不幸にも雷雨に遭い前後不覚に陥った。

そこで不思議な出来事が起こる。数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原まで導いて行ったのだ。

一行が住吉大社の社頭へ至った時、局が産気づいた。

本田次郎が住吉三神に安産を祈る中、局は傍らの大石を抱きながら男児を出産した。

このことを知った頼朝は本田次郎を褒賞。

男児は若君に成長した暁に薩摩と大隅の二か国を充てられた。

その子こそ薩摩藩島津家の始祖、島津忠久公だと伝えられている。

この故事から力石が存在する場所は島津氏発祥の地とされた。

島津氏は聖地「誕生石」を垣で囲み、代々にわたって篤く護持してきた。

現在でも「安産」にご利益があると、祈願する向きが絶えないそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]15

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誕生石を後にし、神馬舎の前を通り過ぎ、御神苑へ。

木立を貫く小径の両側にも巨大な石灯籠が延々と続いている。

ひとつづつ、礎石に刻まれた奉納主を眺めていく。

刻まれた名は海運業者や廻船問屋だけでない。

荷主である様々な業種が奉納していることが分かる。

レーダーやGPSといった航法装置など存在しなかった昔。

神や仏からの御加護こそ、現代科学技術の役割を担わされていたのだろう。

御神苑から鳥居をくぐり、境内から外に出る。

目の前を通り過ぎる阪堺電軌の路面電車を見遣りながら住吉大社駅へ。

高架橋の隣に「驛園公吉住」と掲げた小さな建物がある。

ここが阪堺電軌上町線の始発駅、住吉公園駅なのか。

駅名が右から左へ表記されているということは、戦前からこのままなのだろう。

小さな入口から中へ入ってみる。

狭い通路は左側にコインロッカーと、南海線住吉大社駅への連絡口。

右側は居酒屋と串揚げ屋が営業している。

真っ昼間から営業しているところが、なかなか大阪っぽい。

シャッターを降ろしている店が一軒ある。

夜ともなれば営業を始めるのだろうか?

それら店の前を突っ切って奥のプラットホームへ向かう。

このあたりの雰囲気、どこかで見たことがある。

東京に残る唯一の都電、荒川線の三ノ輪橋駅の雰囲気と似ているのだ。

三ノ輪橋駅もまた、梅沢写真会館という超レトロなビルの中を鳥居のようにくぐり、三ノ輪橋商店街を通り抜ける。

だが、三ノ輪橋の駅前のほうが規模は大きい。

むしろ駅の規模でいえば、同じ東京にあるもう一つの路面電車、東急世田谷線三軒茶屋駅。

その改装する前の駅舎のほうが似ているかもしれない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]16

rj16住吉4t37

路面電車なので改札口は当然ながら存在しないのだが。

無いのは改札だけではなく利用者の姿も見当たらない。

そもそもホームの照明が落とされて周囲は真っ暗闇だ。

ホームの入り口に、人の進入を阻むかのように立つ時刻表に張り紙がしてある。

「上記時刻以外 住吉鳥居前から ご乗車願います」

見れば電車が発着するのは朝7時台と8時台しかない。

しかも8時台は3本、7時台は平日2本で土休日1本。

これでは駅としての機能を殆ど果たしてないではないか!?

住吉公園駅は100年以上も前の大正2(1913)年に開業した。

最盛期だった昭和30年代には最短1分間隔で列車が発着。

当時は1日に約200本もの電車が運行されていたそうだ。

それが今では日に4~5本という体たらくである。

いつ廃止されても不思議ではなさそう。

だが、実は無くならない。

毎年正月三が日は住吉大社に参拝客を送迎する臨時列車のために大活躍しているのだ。

年に一度、スポットライトを浴びる古老の駅…なかなかロマンティックな話ではないか。

できれば駅全体を普段はチンチン電車の博物館みたいに活用して欲しい。

そして正月だけは参拝列車のため“生きている”駅として命を吹き込む。

これぞ住吉大社のために存在する駅らしい生き方のような気がする。

そんなことを考えながら、住吉大社駅の高架ホームへ続く階段を登っていった。

[旅行日:2014年3月19日]
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