和泉国一之宮「大鳥大社」

一巡せしもの[大鳥大社]01

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枚岡駅から乗車した近鉄電車は布施駅から大阪線に入り、難波線を経て大阪難波駅に到着。

ビジネスパーソンとショッピング客でごった返すミナミの地下街を南海難波駅まで歩く。

乗車した高野線の準急電車は、まだ帰宅ラッシュの時間までは間があるせいか閑散としていた。

三国ヶ丘駅で下車すると駅舎は工事中で出口が良く分からない。

当てずっぽうで出てみたら逆方向の出口だったらしく、反対側へグルリと周り込む。

国道310号線(高野街道)を歩いてJR阪和線を跨ぎ、少し進むと左側に突然その入口が現れた。

こんもりとした森に沿う形で、細い路地が左手の奥へと続いている。

標識も看板もないこの路地に向かって歩を進めた。

道の右側は黒い柵で仕切られ、内側には灌木が生い茂り、その奥では堀が水を湛えている。

更にその向こう側には、どこまで続くのか端が見えないほど巨大な森が果てしなく横たわっている。

ここは「大仙陵古墳」、個人的には「仁徳(にんとく)天皇陵」のほうが耳に馴染む。

宮内庁による正式な名称は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」。

北側の反正(はんぜい)天皇陵古墳、南側の履中(りちゅう)天皇陵古墳とともに「百舌鳥耳原三陵」を形成している。

御陵名の由来が日本書紀に記してある。

仁徳天皇67年の冬10月5日、河内国の石津原に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を開始。

そんなある日、野原から走ってきた一頭の鹿が工事現場に乱入しパタンと倒れた。

人夫たちが鹿を調べたところ、その耳の中から一羽の百舌鳥が飛び去って行った。

見てみると内部が百舌鳥に食い散らかされていたという。

それが「百舌鳥耳原」と呼ばれるようになった由縁だそうだ。

それから20年後の87年に仁徳天皇は崩御し、ここに葬られた。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]02

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路地は左側から来た車道と合流し、車がすれ違えるほどの広さになった。

大仙陵の外周は2.8kmの周遊路として整備されている。

今歩いている東側の道、路面は石畳だが車道と歩道が未分離の一般道。

南側前方部と西側には遊歩道、南側の車道には桜並木が設えられている。

途中、車道側から内部へ入るのを妨げるべく築かれた壁を発見。

内部への立ち入りは禁止されているが、巨大さは堀の外からでも存分に味わえる。

ちょうど南東の角まで来た。

大仙陵を南北に長い長方形に見立てれば、東側の長辺を歩ききったことになるわけだ。

今から1700年ほど前の西暦3世紀から7世紀にかけての約400年間は「古墳時代」と呼ばれている。

大王や豪族が亡くなると土と石を高く盛った大きな墓「古墳」が造られていたからだが。

全国に20万基以上あるとされるそれら古墳の中でも大仙陵は日本最大。

日本どころかクフ王のピラミッドや秦の始皇帝陵よりも大きく、両者とともに世界三大墳墓の一つに数えられている。

その昔、学習雑誌に「ピサの斜塔」や「万里の長城」などとともに「世界三大不思議建築物」と紹介されていたことを思い出す。

角を曲がって南側の遊歩道を歩く。

大仙陵は5世紀の中ごろ、約20年をかけて築造されたと推定されている。

上空から見ると円と四角を合体させた「前方後円墳」という日本独自の形をしている。

また、合体部分の左右のくびれには造出(つくりだ)しという壇状の施設がある。

三段に築造された墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9m。

周囲には水を湛えた濠が三重に巡らされ、陵域は濠を含めて47万平方mと甲子園球場が12個も入る広さ。

ちなみに現在の外濠は明治時代に掘り直されたものだという。

墳丘に並べる葺石(ふきいし)の運搬、2万個以上に及ぶという埴輪の調達など、造営には莫大な労力が費やされた。

毎日2000人が働いても15年以上かかる計算というから驚きだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]03

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堀の内側にある森の中には、未だ見たことのない「お宝」の数々が潜んでいる。

実は大仙陵、江戸時代の中頃まで十分な管理が施されていなかったという。

そうした惨状を憂いた時の堺奉行川村修就(ながたか)が嘉永6(1853)年、整備に乗り出す。

まず後円部上にあった勤番所を裏門へ移設し、天皇を埋葬したと伝わる後円部200坪に高さ3尺(約9m強)の石柵を設置した。

明治5(1872)年9月には前方部部正面第2段の上が崩れ、竪穴式の石室に収められた長持形石棺が露出。

また、石室面の間から金銅製の刀剣や甲冑の断片20個、ガラス製の壺と皿が出土した。

これらは埋め戻されたと伝わるが、石棺や甲冑は精密に写した絵図が残っているそうだ。

米ボストン美術館には出土品と伝わる「細線文獣帯鏡」や「単鳳環頭太刀」などが所蔵されている。

どういう経緯で流出したのかは良く分からない。

そもそも大仙陵から出土したものかどうかも不確かなのだとか。

一方、昭和30年代と最近の調査では須恵器の甕が出土。

古墳が造られた年代を知る貴重な資料として話題になった。

大仙陵は日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚(ばいちょう)と考えられる古墳が10基以上ある。

だが塚廻古墳を除き、主体部の構造や副葬品が分かっている古墳はほとんどない。

ここ大仙陵も4世紀前半に没したという「古事記」の記述と、5世紀後半の建造時期が合致していない。

山川出版社の日本史教科書にも、学術的には「大仙陵古墳」と呼び「仁徳天皇陵」は使われない…と記載されている。

では一体誰の墓なのだろう?

今のところ、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれている。

倭の五王とは中国の六朝時代の史書「宋書」「南斉書」「梁書」などに記された、倭国の讃・珍・済・興・武の5人の王を指す。

だが、具体的に誰のことを意味しているのかは諸説あり特定されていない。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]04

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三国ヶ丘駅から1km以上歩き、ようやく正面に到着。

ここには清廉かつ厳粛な雰囲気に包まれた遥拝所がある。

その近くに人影が見えた。

中年女性のボランティアガイドさん。

話しかけてきたので暫し立ち話をする。

「仁徳天皇陵にはね、ときどき出るんですよ…狸が!」

これほど大きな森なら狸や狐の一匹や二匹姿を見せても不思議じゃないですよね…と答える。

それより、ガイドさんが大仙陵古墳ではなく仁徳天皇陵と言い続けていることが気になった。

たとえ学術的には「大仙陵古墳」となっても、堺の市民感覚では依然「仁徳天皇陵」なのだ。

正面にある鳥居の前に立つ。

「堀が三重に掘られていますが、入れるのは一番外の堤までです」

自然災害による損傷の調査などで中に立ち入ることはあるという。

「しかし2番目の堀から中へは入れません。今上陛下でもです」

天皇陛下が参詣される際も、全ての堀を超えて奥深くまで入ることはない。

それはそうだろう、何百年も手が入っていない原生林なのだ。

どんな動物が棲息しているか分かったものではなく、危険極まりない。

「現在、堺市では仁徳天皇陵を世界遺産に登録するよう申請してるんですよ」

しかし、誰が埋葬されているのか分からない陵墓が世界遺産に認められるものだろうか。

宮内庁が大仙陵の発掘調査を一切認めていない以上、難しいような気もする。

それより、世界自然遺産として申請したほうが、より可能性が高いかもしれない。

つまり。世界文化遺産として認められた富士山とは真逆の手法で。

そろそろ業務時間が終了とのこと。

ガイドさんも大仙公園内にある観光案内所へ戻るという。

そこで彼女と一緒に付いて行くことにした。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]05

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「堺は大阪の陣で焼け野原になったので、秀吉時代の町並みは残っていないんです」

案内書に着くと中では数名の職員が勤務中で、堺の歴史について色々と教えてくれた。

「堺は天領で家康が碁盤の目のように町割りしたんです。今の堺は家康が作ったんですよ」

どうやら家康は相当な堺贔屓だったようだ。

家康嫌いの大阪とは対照的に、堺は家康好きの町に見える。

「南宗寺(なんしゅうじ)には家康の墓まであるんですよ、ぜひご覧になって下さい」

その話は歴史のミステリーとして小耳に挟んだことがある。

今から丁度400年前の慶長20(1615)年、大阪夏の陣で家康は真田幸村から強烈な痛手を喰らった。

『南宗寺史』には、
こう記されているそうだ。

家康が大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠で逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれた。
辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れていた。
遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した。


後藤又兵衛は黒田如水の家臣で、如水の死後に当主の長政と対立して黒田家から出奔。

長政の手配によりどこの家からも召し抱えられることのないまま、大阪夏の陣で真田幸村の元に馳せ参じたという。

また、家康は本能寺の変の折にも堺に滞在していた。

決死の脱出劇を敢行し、伊賀の地を抜けて三河へと戻ったのは有名な逸話。

この折に家康、実は明智光秀の刺客に討ち取られていたのでは? との説もある。

死は極秘に処され、伊賀を抜ける間に影武者とすり替わった…という内容。

もしこれが本当だとしたら家康は堺で2度死に、2度生き返った(?)ことになる。

イエス・キリストですら1度しか“復活”していないのに。

家康はイエスをも凌駕したのだろうか?

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]06

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「自由都市時代の遺構では、掘割が今でも残ってます」

堺は西側が海に面し、東南北が堀で囲まれた環濠都市。

この堀は土居川(どいがわ)と呼ばれているそうだ。

「穴場スポットは市役所21階にある無料展望ロビーですね」

夜9時まで開いており、工業地帯の夜景がキレイとのこと。

こうした情報は地元に足を運ばないと、なかなか耳に入らないものだ。

ガイドさんに礼を述べ、職員の皆さんに見送られつつ観光案内所を後にする。

大仙公園を突っ切り、履中天皇陵古墳へ。

大仙公園は「日本の歴史公園100選」のひとつ。

公園内には堺市博物館、日本庭園、堺市茶室(伸庵/黄梅庵)などがある。

茶室といっても市営なので気軽に抹茶を楽しめる施設とのこと。

しかし日も暮れかけて全て閉館しており、いずれにも寄らずに通り抜ける。

大仙公園を出ると履中天皇陵の後円墳部分の先端が姿を見せた。

履中陵は前方部を南に向けた巨大な前方後円墳。

円の先端から右へ曲がり、外周をなぞるように南側へと進む。

すると陵墓と道を挟んだ向かい側に大層立派な和風建築の民家を発見。

玄関に大きな表札が掲げられている。

どんな人が住んでいるのか興味を惹かれて見たところ、表札ではなく「シマノ記念館」という看板。

ここはシマノ創業者、島野庄三郎の生家を記念館として保存している。

しかし記念館といっても博物館ではなく、原則として非公開。

あくまでも文字通り“記念”館として保存してあるだけの様子だ。

その代わりというか、大仙公園の北西部に「自転車博物館サイクルセンター」が隣接している。

堺の自転車産業の歴史を展示した日本唯一の自転車博物館である。

堺は戦国時代から鉄砲の一大生産地。

そこで蓄積された鍛冶の技術が後に自転車製造に生かされることとなった。

シマノ記念館の左隣りから西へ一直線に延びる道を進めばシマノの本社に至る。

シマノは自転車部品や釣具のリールなどを製造している精密機械会社。

特に自転車のパーツメーカーとしては世界最大の企業である。

「ツール・ド・フランス」など耐久レースの中継を見ていると、ほとんどの競技用自転車に「SHIMANO」のロゴが垣間見える。


[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]07

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西側の堀端を歩くうち、南西の角に到達。

陵丘の周囲には一重の盾形周濠と堤が巡らされている。

大仙陵と異なり歩道と陵丘の間に木立がなく、とても見晴らしが良い。

平成6(1994)年には幅10mほどのニ重目の周濠が発見されたそうだ。

しかし水を湛えているわけではなく、歩道からは一重の堀にしか見えない。

履中陵は大仙陵に比べてひとまわり小さく、なんとなく身近な感じがする。

それでも大きさでは日本第3位の規模。

なにぶん大仙陵が大き過ぎるから、比べれば小さく見えるのだろう。

墳丘の規模は全長約365m、後円部径205m、高さ約27.6m、前方部幅約235m、高さ約25.3m。

大仙陵と同じ3段築成で、造出しは西側のくびれ部だけに存在している。

履中陵の南側の縁は民有地で遊歩道になっておらず、堀の脇を歩くことは出来ない。

両側を民家で挟まれた細い路地を歩きつつ、正面遥拝所に向かう。

履中陵の遥拝所は大仙陵より小規模だが、鳥居から陵丘までの距離が近いのでインティメートな雰囲気がする。

主体部の構造や副葬品などは不明だが、葺石と埴輪の存在は確認されている。

江戸時代の記録には後円部中央に大きな窪みの存在が伝わっており、既に盗掘を受けた可能性もあるそうだ。

かつては10基ほどの陪塚を従えていたが、現在は七観音古墳と寺山南山古墳の2基が残るのみ。

陵丘の形状や出土した埴輪、陪塚の出土品などから、5世紀前半頃に築造されたことが判明。

築造時期は5世紀後半の大仙陵より古く、仁徳天皇の後が履中天皇という在位順とも矛盾していることに。

実際に誰が葬られているのかより、ここが誰の陵墓かという「看板」を護ることが大切なのだろう。


[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]08

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遥拝所を辞し、JR阪和線上野芝駅へ10分ほどブラブラ歩く。

そして歩きながら改めて考えてみる。

巨大歴史的建造物と隣合って暮らす気分、いかほどのものだろう。

水木しげるの漫画の影響からか、墓場と聞けば反射的に恐怖感しか浮かばない。

しかし、ここまで墓も巨大だと恐怖より畏怖の念しか湧いてこなくなる。

そもそも墓と祟りは、あまり関係ないらしい。

多くの人々から念を集める神を粗略に扱うと荒御魂が暴れ出して祟りが起こる。

人間の関係性が一対多の神社だからこそ、祟りとして多くの人々に災いをもたらすのだ。

一方、墓陵と人間の関係性は個対個であり、祟りなど起きようもない。

霊感商法の方々の常套句は「祖先を粗末に扱ったから祟られている」とか。

「今の禍いは何代前の誰それが祟っているせい」などと言う。

今現在生きている子孫に祖先が祟って災禍に引き込むことなど、現実に起こり得るのだろうか?

確かに現実社会では親が子を殺したり、子が親を、孫が祖父母を殺める事件が起こってはいる。

でもそれは、あくまでも特殊な例に過ぎない。

死んだ後まで生きている子孫にわざわざ災禍を及ぼす祖先など、いるわけがない。

霊感商法の戯言に惑わされる人のほうが、よほど祖先を冒涜しているように思える。

上野芝は都市近郊型の通勤通学駅で、百舌鳥古墳巡りの玄関口っぽさはない。

和歌山方面行きの電車に乗っていると、鳳駅の手前で車窓から「大鳥大社」と大書きされた看板を見かけた。

その鳳駅で電車を降りる。

和泉国一之宮大鳥大社の最寄り駅は文字通り、ここ鳳駅なのだ。

しかし既に日が暮れかけているので参拝は明日にする。

阪和線支線、通称“羽衣線”に乗り換え終点の東羽衣駅へ。

たったひと駅間の運行距離は1.7kmで、所要時間は僅か3分。

これはJR旅客6社の中で運転区間が最も短いうちのひとつ。

東羽衣駅から歩いて数分の南海本線羽衣駅までトコトコ歩く。

南海線は高架化の工事中で、羽衣駅も新駅舎を建設中だった。

線路沿いの路地然とした小径には小さな商店が軒を連ね、味わい深い風情を醸している。

羽衣駅から電車に乗り、11分ほどで堺駅に到着。

この夜は駅に隣接するホテルに投宿した。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]09

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宿泊したホテルで災難に近いほど不愉快な目に遭ったので、験直しに堺の町へ飲みに出た。

堺市の繁華街は堺駅近辺ではなく南海高野線堺東駅近辺。

堺市と堺東駅は「大小路(おおしょうじ)」という通りで結ばれている。

自由都市時代から存在し、当時は大小路を境に北が摂津国、南が和泉国に分かれていた。

文字通り「堺」の町の由来ともなった歴史的に由緒ある道である。

堺東駅前の商店街にある立ち飲み屋に入ったところまでは覚えているのだが。

その後どんな店で飲んだのか、生憎と記憶がない。

覚えていたら飲み食いした店の記録を書き綴るのだが。

何軒かハシゴした覚えはあるものの、なにせ痛飲の度が過ぎた。

酔いに任せて堺東駅近辺から、家康の手による碁盤の目の街をフラフラ彷徨い歩く。

そのうち「天神センター街」という狭くて怪しげなアーケード街に行き当たった。

一軒のバーに入った記憶は朧げに残っているが、なにぶん詳細は不明。

たまたま写真を撮影していたので後から思い出せたほどの酩酊ぶり。

ようやくホテルにたどり着いたのは午前3時近かった。

翌朝、起床して即オレンジジュースを一気飲み。

さすがに二日酔いで食欲が湧かないが、それでもラウンジで新聞を読みながら朝食。

つい5~6時間前まで飲み続けていた割には、それほど二日酔いは酷くなさそうだ。

ホテルを出て堺駅から南海電車に乗り、昨日のルートを逆にたどる。

羽衣駅で下車して再びテクテク歩き、JR東羽衣駅で“羽衣線”に乗り換え。

昨日見た風景を巻き戻すかのように鳳駅へ到着。

ちなみに駅名のアナウンスは昔いた漫才師の故・鳳啓助の「お→お→と→り→」ではなく。

今いる漫才コンビのオードリーみたいな「お↑お→と→り↓」っぽいイントネーション。

中学校の卒業式なのだろうか、ホームでは母娘連れの姿を数多く見かけた。

年度末ならではの光景というべきか。

[旅行日:2014年3月18~19日]

一巡せしもの[大鳥大社]10

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西口から出て小径を北へ向かう。

駅前なのに、どこか町並みが地味。

たぶん繁華街と反対側に出たからだろう。

途中、小学校から賑やかなアナウンスが聞こえてきた。

どうやら運動会をしているらしい。

春に運動会とは珍しいと思う一方、今日が快晴で良かったと思う。

その先に大鳥大社の境内が見えてきた。

ちょうど角に当たる部所に社号標が立っていた。

そこには「官幣大社大鳥神社」と刻まれている。

実は「大鳥神社」こそ正式な名称で、「大鳥大社」とは摂社を合わせた総称との説もある。

瑞垣越しに緑あふれる境内を右手に見つつ、先へ進むうち正門に到着した。

そこへ一台の車が寄ってきて鳥居の前に駐車。

一人の男が降りてきて境内に消えていった。

ナンバープレートを見れば「所沢」と記されている。

自家用車で一之宮巡りをしているのだろうか?

というか自家用車で巡礼するほうが一般的なんだろうけど。

個人的には、自家用車で一之宮を巡るのは営業車で得意先を回ると何ら変わらないように思える。

ある程度の“束縛”がないと、巡礼に有り難みは生まれてこないのではなかろうか?

まぁ、他人がどのようなスタイルで巡礼しようと、それはその人の自由には違いないが。

大鳥大社の主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。

日本武尊とは日本書紀の呼称で、古事記だと倭建命とある。

ここは由緒略記に従い日本武尊で通すことにしよう。

大鳥大社は元来、日本武尊の魂が白鳥となって飛来したという伝説に基いて創建された神社。

その時期は天武天皇から元明天皇の時代と推測されている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]11

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一ノ鳥居は笠木に僅かな反りがあり、柱の内側への傾き(転び)がない。

木目をそのまま生かした形の春日鳥居。

もう一柱の主祭神、大鳥連祖神(おほとりむらじのみおやのかみ)は中臣氏→藤原氏と祖先を同じくする部族、大鳥連の先祖。

春日鳥居は最初に大鳥連が祀ったのが中臣氏の氏神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)だったことの証か。

さらに遡れば、元々は大鳥連が信仰していた農耕神だったという説もある。

明治9(1876)年の官社祭神考証で大鳥大社の主祭神は大鳥連祖神だとされ、日本武尊は外されてしまった。

一方、日本武尊は地方の様々な伝承を、一人の皇族将軍の名の下に集約したのが定説となっている。

国家神道としては日本武尊の“武神”ぶりも魅力的だろうが、やはり存在がハッキリしている神を主祭神に据えるべきと判断したのだろう。

だが、これに歴代宮司は反発し、粘り強く抗議するも覆ることはなく。

明治19(1886)年に内務省社寺局長から発せられた通達で祭神の変更は確定した。

時代は下って昭和32(1957)年、ようやく日本武尊増祀の許可が降り。

同36(1961)年に日本武尊が復活し、以来二柱が並立して祀られることとなった。

鳥居をくぐって参道を奥へ進む。

境内には様々な樹叢が繁殖し、別名「千種の森」と呼ばれている。

由来は白鳥が飛来した際、一夜にして種々の樹木が繁ったという伝説から。

染井吉野や天の川といった桜や平戸つつじ、花菖蒲など、一年を通じて様々な花が咲く様子を楽しめるそうだ。

参道の突き当りに境内案内用の標識が立っている。

右は参集殿と崇敬会館、左は御本殿に祈祷書。

右に折れると絵馬堂があった。

といっても受験や恋愛事など即物的な願望の絵馬を掛ける場所ではなく。

太神楽など戦前に奉納された巨大な額が数多く掲げられている。

ここが和泉国一帯の産土神だったことを強く感じさせてくれる空間だ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]12

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突き当りに参集殿と崇敬会館があり、左側が社殿へ続く参道だ。

途中、左側に瑞垣で囲まれた祓所を見かける。

その隣には我らがスーパーヒーロー、日本武尊命の像が聳立していた。

日本武尊は第十二代景行天皇の御子で、幼少時の名は小碓命(をうすのみこと)。

古事記によると、齢15~16にして兄の大碓命(おほうすのみこと)を格別の恨みもないのに八つ裂きにするほどの粗暴さを見せていた。

そんな小碓命に景行天皇は西国に跋扈する逆賊の征伐を命じる。

サイコパスっぽい性格を怖れたのか、都から追い払う意味もあったかも知れない。

しかも部隊を付けることもなく、与えた戦力はごくわずかな一団。

これでは小碓命を見殺しにするための命令と思われても仕方ない。

ところが、この絶望的な状況が逆に“戦術家”としての才能を目覚めさせることに。

日本武尊は熊曾建(くまそたける)兄弟を女装して騙し討つ奇策に出る。

そして目論見通り討ち果たすと、熊曾建は死ぬ直前こう小碓命に言った。

「あなたはヤマトの国で並ぶ者のない勇者だからヤマトタケルの名を捧げよう」

というわけで、この時から「ヤマトタケル」と呼ばれるようになったのだそうだ。

日本武尊は大和へ帰る途中、出雲国の出雲建(いずもたける)を討伐した。

それも互いに親友の誓いを立てた上、出雲建の刀を木刀とすり替えて斬殺。

こうした騙し討ちの手口に“卑怯”さを覚えないわけでもないが。

部族同士が丸ごと激突して大勢の死人が出ていた時代が終わりを告げ。

偉い人同士が戦って犠牲者が少なく済む時代に移行したと思えば。

日本武尊の“卑怯”さは逆に“知略”だと思えてくる。

源義経の“鵯越”や織田信長の“桶狭間”など小が大を制する戦術。

その原型は日本武尊に求められるのではないかと思えるほどだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]13

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そうして地方の反乱分子を鎮圧し、ようやく大和へ戻った日本武尊。

だがしかし休む間もなく、今度は東国征伐を命じられる。

自分が父から嫌われていると悟った日本武尊は東国へ向かう前に伊勢神宮へ立ち寄った。

そこで斎宮を務める叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に号泣しながら窮状を直訴。

黙って聞いていた倭姫命は日本武尊が出立する直前、餞に草薙剣と謎の小袋を手渡す。

「窮地に陥った時、この小袋を開けなさい」

相武国で国造の騙し討ちに遭ったが、小袋に入っていた火打ち石のおかげで九死に一生を得。

返す刀で相武国造を成敗した…という逸話は相模国一之宮寒川神社のところでも触れた。

東国を平定して大和へ戻る途中、日本武尊は尾張国造の祖先である美夜受比売(みやずひめ)を娶る。

そして今度は伊服岐(いぶき)の山に跋扈する神を討ちに向かった。

伊服岐の山とは滋賀と岐阜の境にある伊吹山のこと。

この程度の相手なら素手で十分と、美夜受比売に草薙剣を預けたまま出立したのが命取り。

日本武尊は山の麓で牛ほども大きな白い猪と出くわす。

「こいつは山の神の使者だろうから、帰りがけに退治してやろう」

こう言って伊吹山に登った日本武尊を巨大な雹(ひょう)が直撃。

実はその猪こそ、伊吹山に跋扈する神そのものだったのだ。

激甚なダメージを喰らった日本武尊は、ほうほうの体で下山。

麓に湧く玉倉部の清水を口にし、ようやく正気を取り戻した。

故郷へ帰ろうと大和に向かう途中、美濃と伊勢の国境近辺まで来た時。

「普段から空を飛んで行きたい気持ちなのに、今じゃたぎたぎしくて足が前に進まない」

たぎたぎしいとは道がデコボコしているといった意味。

それでこの土地は「当芸(たぎ)」と呼ばれるようになったそうだ。

現在の岐阜県大垣市南部から養老町にかけてのあたりだろうか?

昔あった地名「多芸郡」とは、その名残だろう。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]14

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今の三重県四日市市采女町あたりまで来た時、急な坂に遭遇。

非常に疲れたので杖を突きながら歩いたので、この坂の名が「杖衝坂(つえつきざか)」に。

さらに歩を進めるも足が浮腫んで三重にくびれた鏡餅みたいな状態になった。

なので、この地方は「三重」と呼ばれるようになり県名の由来になったという。

参道を直進した奥に鳥居と社殿が鎮座している。

しかし一之宮のそれにしては、ちょっと小さ目。

奥へ歩を進めると途中の左側に、大き目の鳥居が立っている。

こちらが大鳥神社の二ノ鳥居と社殿だった。

なお、奥に鎮座するのは摂社の大鳥美波比神社。

このように大鳥神社の境内は他所の一之宮の配置が当てはまらず、非常に分かりづらい。

二ノ鳥居も一ノ鳥居と同様の春日鳥居。

ところが、この二ノ鳥居の前まで乗用車が入り込み、堂々と駐車している。

ここは無法地帯か? と思いきや。

中からドライバーが出てきてブーンと去っていった。

単にお祓いを受けに来ただけの車らしい。

大きな神社には自動車専用の祓い所が設えてあるものだが、ここにはない。

それもあってか、なんとなく境内の雰囲気が全体的にユルい印象を受けた。

二ノ鳥居をくぐって拝殿へ。

屋根は瓦ではなく茅で葺かれており、千木と鰹木が据えられている。

その前に立ち、手を合わせ、日本武尊の生涯に思いを馳せてみる。

日本武尊は鈴鹿山脈の東側にある「能褒野(のぼの)」という土地まで来た時。

遠い故郷を偲んで歌を詠んだ。

嬢子の 床の辺に
(をとめの とこのべに)
我が置きし つるきの太刀 その太刀はや
(わがおきし つるきのたち そのたちはや)

美夜受比売と草薙剣に最後まで思いを馳せた辞世の句を残し、日本武尊は病没した。

その場所は現在の三重県亀山市、能褒野王塚古墳とされている。

隣に鎮座する加佐登神社は日本武尊の笠と杖を祀ってあるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]15

rj15大鳥4t034

さっそく使いの早馬が仕立てられ、その訃報は都へと伝えられた。

后や御子らは都から能褒野へ赴き、その周囲で泣きに泣いたという。

そして日本武尊は八尋もある白鳥に姿を変え、大空へ羽ばたき海の方角へ飛んでいった。

古事記によると、白鳥は河内国の志幾に舞い降りたとある。

その土地に陵(はか)を造営して魂を祀り「白鳥の御陵(しらとりのみささぎ)」と名づけた。

現在、大阪府羽曳野市の古市古墳群にある「白鳥陵」だと比定されている。

ただ、日本書紀だと能褒野と河内国旧市(ふるいち)村の間にある大和国琴弾の原に立ち寄っている。

奈良県御所市富田の辺りで、JR和歌山線玉手駅から県道116号線を真南へ1kmほど行ったところ。

そして今から1850余年ほど前、最後に飛来したのがここ大鳥大社の鎮座地だったと由緒略記にはある。

その後、日本武尊の生まれ変わりである白鳥は全国各地に飛来した。

「大鳥」「鳳」「鷲」「白鳥」などの名を冠した神社は日本武尊が祭神。

こうした「大鳥信仰」の総本社がここ、大鳥大社だと言われている。

日本武尊の魂は稲の守り神、つまり「穀霊」として全国に広まっていったのだろう。

拝殿の裏手に回り、外から本殿を覗く。

だが、見えそうでいて意外と見えない。

玉垣の上から飛び出た屋根が覗ける程度だ。

本殿は拝殿に対して垂直に立ち、奥に長い。

図形で例えれば手前に長方形の短辺が向いている格好だ。

切妻造の妻入りで正面に昇殿用の階段が右側に設置された様式は「大鳥造」という。

出雲の大社造に酷似し、それに次ぐ古い形式を受け継いでいるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]16

rj16大鳥4t031

社殿は戦国時代の兵乱で炎上、荒廃した。

世の中が落ち着きを取り戻した慶長7(1602)年、豊臣秀頼によって再興される。

ところが慶長19~20(1614~15)年の大阪の陣に巻き込まれて再び炎上し、またしても荒廃する憂き目に。

再再建されたのは時代が下ること約半世紀後の寛文2(1662)年。

徳川四代将軍家綱の命を受け、堺町奉行石河土佐守利政の手によるものだった。

社殿は江戸期を恙無く過ごし、明治35(1902)年には建造物の国宝たる「特別保護建造物」に指定された。

これでもう戦に巻き込まれて焼失することはない…と思った矢先、まさに好事魔多し!

同38(1905)年に落雷のため3度目の炎上。

しかしさすが特別保護建造物、4年後の同42(1909)年には従来の様式通りに再建されている。

第二次大戦末期の堺大空襲でも市街地の外れに位置していたせいか幸い被害も少なく。

昭和36(1961)年には日本武尊命御増祀のため、原型解体に近い大修理が行われた。

同時に内部の模様替えも行われ、現在に至っている。

境内には堺市出身の女流歌人、与謝野晶子の歌碑が立っている。

研究者やファンによる市民団体「与謝野晶子倶楽部」の設立10周年を記念して建立されたもの。

除幕された平成18(2006)年12月7日は晶子の誕生日という。

「和泉なる わがうぶすなの大鳥の 宮居の杉の 青き一むら」

大鳥大社が晶子の産土神だった縁から、この句が碑に刻まれている。

揮毫は同倶楽部の名誉会長を務めていた故・田辺聖子。

「おせいどん」の愛称で親しまれた彼女は大阪を体現していた女流作家だった。

また、境内には平清盛と重盛父子の歌碑も立っている。

「かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」

平治元(1159)年12月、熊野参詣の途中で立ち寄った際に詠んだもの。

これ以外に清盛の和歌は歴史上存在しないので非常に貴重なのだそうだ。

揮毫は明治時代初期に大宮司を務めていた“最後の文人”富岡鉄斎の手による。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]17

rj17大鳥4t035

鳥居を出て左に曲がると、正面に摂社の大鳥美波比神社が鎮座している。

主祭神は天照大御神で、なぜか相殿は菅原道真公。

もとは北王子村に鎮座していたのを、明治12(1879)年に当地へ遷宮したのだそうだ。

北王子村とは境内の東側に広がる、現在の鳳東町一帯。

この際、境内社の摂社末社七神を合祀したという。

北王子村時代は天神様だったのが、遷座に伴い首座を天津神に取って代わられたのだろうか。
それはともかく。

鳥居の前で真っ昼間からバナナを肴にカップ酒を飲んでいるオヤジがいる。

まだカップ酒は分かる(というのもヘンだ)が、なぜ肴がバナナなのか?

カップ酒とバナナのマリアージュは試したことはないが、マッチするのか?

やはり大鳥大社は無法地帯なのだろうか?

大鳥大社には大鳥美波比神社以外にも摂社が4つある。

他の3社は堺市内に散在しており、それぞれ日本武尊の“三妃”を祀っている。

  • 大鳥北濱神社=吉備穴戸武媛命(きびあなとのたけひめ)
  • 大鳥濱神社=両道入媛命(ふたじのいりひめ)
  • 大鳥井瀬神社=弟橘媛命(おとたちばなひめ)

斉衡2(855)年の「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」には、こう記されている。

慶雲三丙午(706)年「始めて三妃を祭り神宮造営、大鳥五社大明神と名付け奉る」

これが旧社号標の件で触れた「大鳥大社」総称の説の根拠である。

「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」の神鳳寺とは、和銅元(708)年に行基が創建した神宮寺のこと。

正式には大鳥山勧學院神鳳寺という。

堺出身の行基は諸国を布教して巡りながら、民衆と共に道路や堤防、橋や寺院をを建設。

ところが朝廷からの資格を得ていない“モグリ”だったため、僧としての活動を禁止された。

しかし民衆からの人気が高かったことから、後に聖武天皇の帰依を受ける。

そして東大寺や国分寺の建立に協力し、日本で初めて大僧正の位を授けられた。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]18

rj18大鳥4t037

行基が生涯のうちに建てた寺は生家の家原寺(えばらじ)を含めて49もある。

この家原寺と並び、神鳳寺は大伽藍を設えた大寺院だったと伝わっている。

だが神仏分離令により本堂・不動堂・五重塔・方丈・経蔵・中門など悉く破却。

梵鐘が大鳥大社の北隣りにある専光寺、本尊が堺市百舌鳥の光明院に、辛うじて現存している。

大鳥美波比神社の社殿横には割と広めのスペースが広がっている。

金網で仕切られた中には鳥居こそ立っているが社殿は存在しない。

立ち入りも許されておらず、まるで禁足地のようだ。

ここに今でも神鳳寺の跡を保全しているのだろうか?

大鳥美波比神社の鳥居を出て、右手に折れる。

方角としては北に向う形になる。

真っ直ぐ進むと突き当りで参道が左右に分かれている。

右手は境内の外側への出口へ。

左手には石鳥居が立ち、さらに奥へと誘っている。

鳥居の隣に掲げられた粗末な説明板には「歯の神社」と記されている。

鳥居をくぐって先へ向かうと、そこに小さな祠が立っていた。

小さな屋根の付いた玉垣の中には、石柱で囲まれた巨石が鎮座している。

しかし由緒略記の境内神社に、その名は影も形もない。

玉垣には扁額もなく、何という名の神社なのか分からない。

それどころか、本当に歯の神様なのかも定かではない。

歯の神社を出て参道を直進し、境内の外へ向かった。

全体の印象としては、境内そのものがくたびれた感じを受ける。

ここは「大鳥」という社号から、近隣の関西国際空港からパイロットやキャビンアテンダントが参拝に訪れるそう。

ならば各航空会社は大鳥大社に幾許かの寄進を施し、境内の整備や新調に一役買ってもよかろうに…と思う。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]19

rj19大鳥4t039

裏手の石鳥居から境内を出、日本武尊に分かれを告げた。

大鳥大社境内の敷地面積は現在1万5千余坪(約14万9500平方m)と広大。

だが古図を見れば往時は現在の比ではなく、鎮座地一帯の丘陵すべてが敷地だったかのよう。

境内には「大鳥大社全景図」という巨大な案内板が立っているのだが。

なにぶん古ぼけているうえ、手前の灌木に邪魔されて全く用を為していない。

元禄時代の古図と比較して見れば、社殿と南側に広がる心字池の位置は今と変わらないように見える。

両者の位置が元禄時代から動いていないと仮定すれば、神鳳寺があったのは現在の大鳥美波比神社から東側一帯だったことになる。

いや、神鳳寺の本堂と五重塔の跡に大鳥美波比神社を移建したことになるのか。

それにしても古図に描かれた神鳳寺の寺領は相当に広大だ。

それが失われてから、たかだか100年程度しか経っていないことに驚かされる。

廃仏毀釈のムーブメントが、それほど凄まじいものだった証かも知れない。

裏口から出た格好になるので、境内の外側ををグルリと回り込む形で一ノ鳥居へ向かう。

一ノ鳥居から海に向かって一直線に延びる参道を行き当たると南海本線浜寺公園駅がある。

明治40年(1907)6月に建てられた駅舎は東京駅の設計で知られる、辰野金吾博士が所属した辰野・片岡建築事務所によるもの。

平成10年(1998)9月には大手私鉄の駅では初めて国の登録文化財に指定された。

1.5km程度と歩いて歩けない距離ではなかったのだが、いかんせん宿酔で体調悪しき状態。

止む無く鳳駅へ戻り、羽衣線で南海線羽衣駅という往路を逆に辿ることにした。

昨日から羽衣線を都合一往復半したことになる。

石鳥居を出て駅への道を歩いていると、昨日電車の中から見かけた看板があった。

祀った側の人間の都合で祭神が替わったり、境内がくたびれたり。

日本武尊よ、ごめんな…そう心の中でつぶやいたのだった。

[旅行日:2014年3月19日]
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