河内國一之宮「枚岡神社」

一巡せしもの[枚岡神社]01

rj01枚岡4t02

12時19分、桜井駅から近鉄大阪線に乗る。

ホームで電車を待っていた時、Suicaを落としてしまった。

気付かず電車に乗ろうとしたところ背後から声を掛けられた。

「落ちましたよ」

振り向くと、ベンチに座っていた男子高校生。

「ありがとう!」

これも大国主大神のご神徳だろうか?

さすが縁結びの神様だけある。

それにしても注意力が散漫になっている。

大神神社の御神威に触れて朝から体力を消耗したのだろうか?

長い道中、まだ始まったばかり。

気を引き締めないといけない。

大阪線から大和八木駅で橿原線へ乗り換え。

構内のコンビニ売店でお茶とティッシュを買う。

朝から鼻がグズグズしているが花粉症だろうか?

それにしても最近、駅構内の売店がコンビニの支店に次々と衣替えしている。

鉄道会社が売店を直接運営するよりコンビニのフランチャイズにしたほうが、商品の仕入れから管理、販売に至るまで、あらゆる面で楽チンなのは傍から見ていても分かる。

橿原線から大和西大寺で奈良線に乗り継ぎ、生駒山を超えて枚岡駅に降り立った。

もっと山の中の鄙びた駅を想像していたのだが、駅の周囲は予想以上に開発されている。

枚岡神社の参道は線路を挟んだ反対側、すぐ目の前にある。

だが、その前に一ノ鳥居を見ておかなければならない。

一ノ鳥居は駅から西に向かって800メートルほどのところにあるという。

神社に背を向けて市街地方面へ歩き出す。

小雨が降ったりやんだりする中を10分ほど歩いたろうか。

その名もズバリ「鳥居町」という地名に出くわした。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]02

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これほど分かりやすい地名はない。

これ幸いとばかりに一帯を探索する。

だが一ノ鳥居など、どこにも見当たらない。

やはり事前に場所を調べておらず、行き当たりばったり的に行ったのがマズかったか。

30分ほどウロウロしたが一ノ鳥居を発見すること叶わなかった。

後から調べたところ一ノ鳥居は鳥居町交差点よりもっと南にあることが分かった。

東高野街道に面していると聞いていたので道路沿いを中心に探していたのが仇になった格好。

面していたのは同じ東高野街道でも旧道のほうだった。

鳥居町自治会のホームページによると一ノ鳥居の建立は享和2(1802)年。

現在の本殿より古くから聳立しており、ここからが正式な参道との由。

建立から200年近くが経過して経ち劣化が見られていたところ。

追い打ちをかけるかのように平成7(1995)年、阪神淡路大震災に遭い被災。

平成10(1998)年6月、鳥居町をはじめ氏子の奉加により解体、組み直されることに。

鳥居には注連縄が掛かっている。

「牛蒡(ごぼう)型」といって全神社の2割程にしかない少数派の注連縄だ。

地元鳥居町氏子の手で作られ、毎年1月3日午前8時ごろ掛け替えられるという。

結局、トボトボと枚岡駅へ舞い戻ることに。

駅周辺は宅地開発が進み、新築の建売住宅が立て込んでいる。

門前町といった風情は微塵もない完全な新興住宅地。

枚岡駅から大阪難波まで区間快速なら30分弱で到着する。

一帯が大阪のベッドタウンになるのも当然だろう。

踏切を渡って駅の東側へ出る。

東口改札の前は、すぐ参道だ。

おそらく日本で最も駅から近い一之宮ではなかろうか。


[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]03

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改札口から緩やかな勾配を上り、階段を上がる。

階段の手前には旧社号標が立っていた。

そこには「元春日平岡大社」と刻字されている。

枚岡神社は春日大社の勧請元のため、元春日の別称がある。

このため神紋は春日大社と同じ「下がり藤」。

「平岡」とは古代の有力氏族だった中臣氏の支族である平岡氏が祖先を祀ったことに由来している。

階段を上がると注連縄掛柱が立っている。

大正11(1922)年に奉納されたもので、見るからに歴史を感じる。

両側の石柱には枚岡神社の御神徳を表す「神事宗源」「天孫輔弼」の文字が刻まれている。

それぞれの意味は主祭神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の由緒と密接に関わっている。

階段を登り切り注連縄掛柱をくぐると、すぐそこが枚岡神社の門前。

中央の二ノ鳥居は両脇に石灯籠を従え、右手前に社号標が聳立している。

創建は神武天皇即位の3年前。

神武東征の折、勅命を奉じた天種子命(あめのたねこのみこと)が天児屋根命と后神の比売御神(ひめみかみ)を祀ったのが起源とされている。

ただし祀った場所はここではなく、南東にある霊地神津嶽(かみつだけ)。

その山頂に巨大な磐境(いわさか=磐座を中心とした祭祀場)を設けたのが始まりという。

二ノ鳥居の竣工は昭和54(1979)年で扁額は大正4(1915)年に奉納されたもの。

木製の渋い色合いをした明神鳥居だが、それゆえ島木に輝く三つの菊紋が映える。

これは勅使が参向する社の証。

現に扁額が奉納された大正4年の大嘗祭奉告祭に勅使が遣わされている。

「ひらおか」という読みの起源には二つの説がある。

ひとつは「山嶺平夷の所に創建せられたるより平岡と称せし」。

さんれいへいい…つまり平らでなだらかな山の峰に創建されたからという説。


[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]04

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二ノ鳥居の右手前に立つ社号標、揮毫は維新の元勲三条実美公。

枚岡神社、古くは「枚岡社」「枚岡大明神」「平岡社」「平岡大明神」などと呼ばれた時代もあったそうだ。

もうひとつの起源は「社地より南方は概ね平坦にして小高き岡なりしが故称せし」。

つまりここから南は平地で、鎮座地が小高い岡みたいだからという説。

この「平」が「枚」に読み違えられ「一枚(ひとひら)の岡」が地名として定着。

そのまま社名になったと伝わっている。

二ノ鳥居をくぐって参道を奥へ進む。

両脇に高い木々がなく、明るく見通しのいい参道だ。

霊地神津嶽に長らく祀られてきた主祭神が山麓の現地へ奉遷されたのは、孝徳天皇御世の白雉(はくち)元(650)年9月16日のこと。

それから百年と少し後の神護景雲(じんごけいうん)2(768)年、主祭神の天児屋根命と比売御神が遥か大和国へ来臨し、春日神社に祀られた。

これが枚岡神社を「元春日(もとかすが)」と呼ぶ由縁。

さらに宝亀(ほうき)9(778)年、今度は春日神社から枚岡神社へ武甕槌命と斎主命が来臨し、配祀して主祭神は四殿に。

参道を突き当たると右側に手水所がある。

ただし手水舎のような屋根はない。

金網に囲まれた噴水口から剥き出しの岩の上へ三条の水が流れ落ちている。

金網の中を覗き込むと、そこには立派な青銅製の神鹿像。

立派な角を生やした神鹿の口から左右に水が流れている。

それを受け止める竹樋に空いた3つの穴から水が滴り落ちる仕組み。

柄杓に受けた水を左手に受け口に含むと、口腔が清冽な刺激で満たされた。

手水所の前は「参道広場」という楕円形の広いスペースになっている。

手水所から右を向くと、参集所と斎館が並んで立っている。

左側の参集所は昭和11(1936)年に改築、右側の斎館は昭和10(1935)年に竣工した建物。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]05

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枚岡神社の社家は水走(みずはや)と鳥居(とりい)の二家。

東大阪市内、神社の西方に有名な花園ラグビー場が立っているのだが、その北側にある地名「水走(みずはい)」は水走家に由来しているそうだ。

ならば鳥居家のほうは一ノ鳥居のところで登場した鳥居町と関係しているのか?

両家の祖先は神武天皇東征軍の一部が当地に留まった者。

天児屋根命を祖とする者が代々祀職に就き、祭祀を司ってきた。

この一族は「平岡連(ひらおかむらじ)」と呼ばれた。

後に中臣氏、ひいては藤原氏へと続いていく。

参道広場では毎年12月25日に有名な神事「注連縄掛神事」が行われる。

別名「お笑い神事」とも呼ばれる、東大阪市の無形民俗文化財だ。

まず早朝、新調された注連縄が注連縄掛柱に張り渡される。

それが終わると今度は注連縄掛柱の前に宮司、神職、総代、氏子が勢揃い。

そして一斉に「ワッハッハ」と高笑して新春を迎える、前祝い。

その様は天照大御神の「天の岩屋神話」を思い起こさせるという。

注連縄掛柱をくぐると目の前に御祓川(夏見川)が流れ、行き合い橋が掛かっている。

その手前両側に神鹿の石像が鎮座している。

他の神社でいうところの「狛犬」に当たるものか。

元春日だけに神使(しんし)が鹿なのも頷ける。

石段を登ると拝殿が姿を見せる。

現在の拝殿は明治12(1879)年に新築されたもの。

屋根は平成の修造で檜皮葺きから銅板葺きに葺き替えられている。

扁額の揮毫は社号標と同じ三條實美公の手によるものだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]06

rj06枚岡4t16

主祭神は先述の通り天児屋根命。

天兒屋命、天之子八根命、天子屋根命とも表記される。

言霊の神である居々登魂命(こごとむすびのみこと)の子。

卜占(ぼくせん)を司る祝詞(のりと)の神である。

天照大御神が引き篭もった天岩屋戸の前で、天児屋根命は太玉命(ふとだまのみこと)とともに祭事を執り行った。

閉ざされた岩戸の前で天太玉命が勾玉と鏡と幣を付けた太玉串を捧げ持ち、天児屋根命が太祝詞を朗々と唱える。

これが歴史上初の神事であることから、天児屋根命は「神事宗源(しんじそうげん)」の神と称えられている。

また、天孫降臨の際には瓊々杵尊(ににぎのみこと)に従事した神々の中で特に重責を担った。

天照大御神からは天孫の防護を、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)からは降り立った地に神を斎(いわ)ひ祀るよう、それぞれ命じられる。

その重責を果たしたことから「天孫輔弼(てんそんほひつ)」の神とも称えられている。

枚岡神社の入り口に立つ注連縄掛柱に刻まれていた「神事宗源」「天孫輔弼」は、ここに由来するわけだ。

拝殿と本殿の間は中門で隔てられ、そこから左右に透き塀が延びている。

中門は明治12(1879)年の改築後、同38(1905)年に現在の場所へ移設された。

戦後、昭和26(1951)年と平成3(1991)年に修復され、現在に至っている。

透き塀から中を覗くと、同じ形をした本殿が4棟、横に並んでいる。

極彩色の社殿が並列に配置された建築様式は「枚岡造(王子造)」。

春日造りとも似ているが枚岡神社独自の様式で、東大阪市文化財に指定されている。

本殿が4棟あるということは祭神が4柱あることを意味している。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]07

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第1殿は天児屋根命、第2殿は比売御神(ひめみかみ)。

ただ比売御神とは特定の神様を指す名称ではなく、主祭神の妻や娘、関係の深い女神を指す一般的な名称。

枚岡神社に祀られている比売御神については諸説あるそうだが、実際の后神である天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)と伝わっている。

現在の本殿は文政9(1826)年、氏子の奉納により造営されたもの。

それ以前の記録となると天喜4(1056)年と宝治元(1247)年に焼亡し、その都度再建。

文明9(1477)年にも氏子の奉納で造営されたと「御神徳記」に記されている。

戦国時代に入ると天正7(1579)年9月に織田信長の兵火で本殿以下の社殿群が焼失したものの、慶長7(1602)年に豊臣秀頼が社殿を造営して再建。

ところが江戸時代に入ると徳川幕府からの崇敬が薄れて衰退を余儀なくされる。

本殿を秀頼が造営したことから豊臣家と懇意にあるとでも睨まれたのだろうか?

新たに造営されたのは時代が200年以上も下った文政9年、徳川十一代将軍家斉の御世のことだった。

直近では平成元(1989)年から3年間に亘る「平成の大修造」を経て現在の姿に。

さて本殿の第3殿と第4殿には、それぞれ経津主命(ふつぬしのみこと)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られている。

経津主命は下総一宮香取神宮、武甕槌命は常陸一宮鹿島神宮それぞれの祭神で、両神宮を参詣した折に触れた。

下総国から常陸国にかけての“常総地方”は大化の改新でおなじみ中臣鎌足の出生地と伝わっている。

中臣鎌足が後に藤原鎌足になったと歴史の教科書で学んだことから、中臣氏がそっくりそのまま藤原氏に移行したような印象がある。

しかし藤原氏は中臣氏の中における一氏族に過ぎず、しかも都から遠く離れた常陸国から勃興した傍流と言われている。

蘇我氏と物部氏の争いに中臣氏の嫡流が巻き込まれて没落し、そこへ鎌足の祖父が入り込み嫡流の座を奪取。

さらに鎌足の代になって藤原姓を名乗り、大化の改新を共に成就した中大兄皇子こと天智天皇の側近としての立場を足がかりに朝廷内で確固たる地位を構築していくわけだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]08

rj08枚岡4t18

拝殿に向かって左側へ足を運び、廊下越しに拝殿の奥を覗いてみる。

そこには御神木と神饌所(御釜殿)があるはずなのだが、その姿を覗うことは出来ない。

神饌所は文字通り「神饌」、つまり神様にお供えする食事を調理する建物のこと。

ここでは毎年1月11日に神事「粥占神事(かゆうらしんじ)」が行われる。

粥占神事とは古式ゆかしき伝統的な作法に則り調理された小豆粥で、作物の豊凶や一年の天候を占うもので、大阪府無形民族文化財にも指定されている。

まず火鑚杵(ひきりきね)で竈の火を起こし、大釜で小豆3升と米5升の小豆粥を炊く。

その際、竈の火の中へ入れた占木12本の焼け具合により一年の各月の天候を占う。

一方、粥の中には長さ15㎝の占竹(竹筒)53本を束にして沈めて、竹筒に詰まった粥の量で53種類の農作物の豊凶を占う。

粥占神事は非公開で結果は15日の小正月に行われる「粥占奉賽祭」に占記として頒布されるそうだ。

左側の突き当りには「鶏鳴殿」という社務所が立っている。

ここで御朱印を賜るのだが、社務所以外にも祈祷や結婚式の控室、会食会場としても利用されている。

「だから拝殿と廊下でつながっていたのか」と納得した。

「鶏鳴殿」に背を向け、今度は拝殿に向かって右へと続く細い道の奥に行く。

手前に注連縄で囲まれた細い連理の榊が生えている。

ここは創祀の地、霊地神津嶽本宮を仰ぎ見る遥拝所。

本宮は古くから柵で囲まれた禁足地だった。

その禁が解かれたのは昭和56(1981)年の石碑建立。

平成5(1993)年には石造りの社殿が築かれている。

神津嶽の周囲には数多の古代祭祀跡と思われる遺跡が存在している。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]09

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遥拝所の右側には摂社の若宮社が鎮座している。

祭神は天児屋根命と比売御神の間に生まれた御子、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)。

天児屋根命に命じられて「天の二上」(奈良県と大阪府の境にある二上山のこと)に登り、皇御孫尊(すめみまのみこと=天孫瓊々杵命のこと)に捧げる御膳水(みけつみず)を汲んできた神と伝わる。

水と関係のある神様ゆえ、社殿の左奥には古くから神聖な水が湧き続ける井戸「出雲井」(いずもい)がある。

枚岡神社の鎮座地名「出雲井町」は出雲大社と関係なく、この井戸の名称に由来するものと考えられている。

社家のひとつ「水走」姓には「水利権の管理人」という意味があるそうだ。

霊地神津嶽の遷宮先が、なぜこの場所だったのか?

それは出雲井が存在したからであり、古来からの霊泉信仰と密接な関わりがあるものと思われる。

若宮社の右隣りには天神地祇社が鎮座している。

文字通り天津神と国津神が祀られた末社。

もともと境内にあった19の末社と近郷で氏神として祀られていた10数の神社が、明治5(1872)年に合祀されたものだ。

遥拝所から摂社末社を経て奥へ延びるこの細道は、石橋を渡ると左手に折れて「巽参道」と名を変える。

巽参道は梅林「枚岡梅園」を南北に貫通し、神津嶽山頂の本宮へと至っている。

神仏混淆時代ここには数多くの神宮寺が存在したそう。

しかし、明治政府の神仏分離令により、すべて廃寺に。

その跡地に梅の木を少しずつ植えたのが枚岡梅林の始まり。

参道の東側は「宝基の森」と称される「神の坐(います)森」。

人が神と出会い、心を映し、祈りを捧げる神聖な場所という。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]10

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枚岡梅園から再び拝殿の前へ戻ると、往路の参道とは別に、左下へ細い階段が続いている。

降りて行くと、その先に禊場があった。

手前に白木の板で建てられた小さな小屋が立ち、奥には注連縄が設えられた白木の高い塀。

塀の上からはうず高く積まれた石垣が覗け、てっぺんから水が濤々と流れ落ちている。

ここは参拝前に心身を清めるためのお滝場なのだ。

小屋にはドアがあり、ここからお滝場へ向かうのだろう。

ノブを回してみると施錠されておらず、誰でも自由に入れる様子。

この小屋はお滝場へ入る前の脱衣所だった。

衣服を脱ぐことナシで、お滝場の中へ入ってみる。

10メートルは軽くあるだろうか。

スベスベした石の床に向かって、大量の水が相当な高さから落ちている。

中門と透き塀の向こう側、本殿の前に「照沢池(てるさわのいけ)」という神池がある。

神の坐森から湧出する聖水が伏流水として出雲井や照沢池へ湧き出し、その水を禊場へ引いているわけだ。

水道の蛇口を開けっ放しにしているわけではなかろうから、それぐらい自然水が豊富だということか。

照沢池の水面は日光を鏡のように反射し、透き塀の内側すみずみに至るまでキラキラと照らし出しているという。

第2殿に祀られている后神の名「あめのみづたまてるひめのみこと」は、天から差す日の光が水面に照り映えている様子に由来しているという説もあるほどだ。

禊場から参道広場へ戻り、今度は社殿を背にして表参道の方角を眺めてみる。

枚岡神社は神武東征の折、天種子命が霊地神津嶽に天児屋根命と比売御神を祀ったのが起源だと述べた。

高千穂の宮にいた神武天皇は今いる場所が西に偏り過ぎているからと東方へ遠征する。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]11

rj11枚岡4t09

日本書紀によると即位3年前の2月11日、神武天皇は吉備国を出立して海路を東進。

陸地が近づくと潮の流れが速かったので、この地を「浪速(なみはや)」と命名。

浪速は浪花(なみはな)とも呼ばれ、やがて「難波(なにわ)」へと変化していった。

東征軍は川を遡り、草香(くさか)村にある白肩(しらかた)の港に上陸。

草香村とはここから北へ2キロほどのところにある東大阪市日下町の辺りか。

当初は生駒山南の竜田を超えて大和国へ入ろうとしたものの地形が険しく断念。

草香村に戻った東征軍、今度は生駒山越えを目論むことに。

それを察知した登美の豪族、長髄彦(ながすねひこ)は侵入を阻止しようと動く。

生駒山を挟んだ奈良側には登美ケ丘や富雄(とみお)という地名がある。

この一帯が長髄彦の縄張りだったのだろう。

長髄彦は大軍を組織して孔舎衛(くさえ)の坂に布陣し、東征軍に襲いかかった。

孔舎衛という地名は存在しないが、孔舎衙(くさか)を冠した学校なら日下町内に存在する。

この僅かな違いには日本書紀の編者が孔舎衙を孔舎衛と誤記した説もあるそうだ。

両軍の戦闘は激烈を極め、兄君五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢で負傷するなど東征軍は大打撃を食らった。

「天照大御神の子孫なのに東へ向かい太陽に面して敵を討つのは天の道に外れている」

そう悟った神武天皇は草香村から撤退し、敗走するとカムフラージュする作戦を取る。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]12

rj12枚岡4t28

そして紀州路熊野から吉野を抜け、日輪を背負って大和国へ進むことを決意。

この時、作戦の成功を祈願して祀られたのが霊地神津嶽の二神だったわけだ。

東征軍は盾をズラリと並べて雄叫びを挙げつつ、敵に悟られないよう撤退していった。

そこで、この地が「盾津」と呼ばれるようになったとある。

現在この地名は存在しないが、日下町の西側に「盾津」を冠した中学校が2校ある。

この「盾津」神話に基づいた校名なのだろうか?

ただ日本書紀や古事記に記載されている地名が、現在ある地名に直結しているとは毛頭思ってはいないが。

二ノ鳥居を出て右手の方角を見れば奥に大きな鳥居が立っている。

昭和15(1940)年、皇紀2600年を記念して新築された石鳥居だ。

皇紀とは神武天皇が即位した年を基準とした日本独自の暦。

鳥居自体は何の変哲もないごく普通の明神鳥居なのだが。

枚岡神社と神武天皇の関わりを考えると存在の重さが伝わってくる。

石段を降りて注連縄掛柱の間を通ると目の前に近鉄枚岡駅がある。

これまで訪れた中で駅から最も近い一之宮なのは間違いない。

周囲は市街地化が進んでいるが、社域は侵食されることなく昔ながらの姿を留めている。

背後に広がる生駒山という自然と、眼前に広がる大阪のベッドタウン。

その端間で息づく太古からの神域。

この先、生駒山が都市化に侵食されていっても、枚岡神社は今の姿を保ち続けて欲しい。

そんなことを祈りつつ難波行きの近鉄電車に乗り込んだ。

[旅行日:2014年3月18日]
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