⑤大阪編・後

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 一

大阪環状線南部の大駅、JR天王寺駅。

その駅前風景が最近になって一変した。

道の向かい側に超巨大な構造物が出現し、空へ向かって尖端をニョキッと突き出している。

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新たなる大阪のランドマーク「あべのハルカス」。

平成26(2014)年3月7日に全面開業したばかりだ。

地上60階建て、高さ300メートルと日本で最も高い超高層ビル。

国内では東京スカイツリーの634メートル、東京タワーの333メートルに次ぐ高さ。

しかし、どちらもビルではないので「あべのハルカス」が日本一のノッポビルということになる。

「ハルカス300、今ならお待ちにならずに登れま~す!」

入口の前を通りかかると展望台のスタッフが道行く人を盛んに勧誘している。

ちょうど平日の夕方とあって客足の少ないアイドルタイムなのだろう。

だとしたら展望台へ登るには、閑散としている今が狙い目かもしれない。

だが、ここで立ち寄ると次の目的地が日没の中へ埋もれてしまう可能性がある。

それにまだ出来たばかりだし、そう簡単に閉鎖することもなかろう、と。

ハルカス300は来るべき次の機会へ回し、階段を地下へ向かって降りる。

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近鉄の南のターミナル大阪阿部野橋駅は、あべのハルカスの地下にある。

あべのハルカスが出来る以前、ここには近鉄百貨店阿倍野本店があった。

現在の「あべのハルカス近鉄本店」は売場面積10万平方メートル、単独百貨店として日本一の広さを誇る。

ただ、大阪では各百貨店がリニューアルや増床を競い合い、凄まじい競争を繰り広げていた。

そんな中、果たして近鉄本店が勝ち抜けるのだろうか?

近鉄はもとより大阪の百貨店を利用したことがない自分には、皆目見当もつかない。

それはともかく、大阪阿部野橋駅から近鉄東大阪線に乗車する。

以前この路線に乗ったのは1990(平成2)年8月11日のことだから、約四半世紀ぶりになる。

もちろん目的は藤井寺球場で近鉄バファローズ戦を観戦するため。

準急に揺られること10分余、近鉄藤井寺駅に到着。

郊外にある普通の小さな私鉄駅だ。

藤井寺の駅前は地方の小都市というより、典型的なベッドタウンのような印象を受ける。

その印象は24年前とあまり変わらない。

ただ当時は日が暮れてから到着したので、寂しさは今よりひとしおだった気がする。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 二

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駅を出て進行方向と反対側へ戻るような形で線路沿いを歩く。

四半世紀前に訪れた際は遠方に煌々とした光彩が見え、近づくにつれて次第に明度が増し、5分ほど歩くと光源にたどり着いた。

球場に着いて最も驚いたのは、周囲が何の変哲もない住宅街だったこと。

これではナイター反対運動が起こるのもやむを得ないかと内心思えたものだ。

しかし現在では眼前に真新しくモダンで巨大な建造物が聳え立っている。

四天王寺学園小学校。

こここそ、かつて近鉄バファローズの本拠地である藤井寺球場が存在した場所だ。

この地に近鉄が藤井寺球場を開場したのは昭和3(1928)年。

それにしても、なぜこんな都心から離れたところに球場を建てたのか?

阪神が甲子園で開催していた中等野球大会(今の全国高校野球大会)が大人気だったので、ならうちも…ということだったそうだ。

当時の藤井寺球場はフィールドの広さで甲子園を凌ぎ、収容観客人員数も7万人を誇る日本一の大スタジアムだったとか。

しかし太平洋戦争の金属供出令で建物の規模はショボンと縮小。

しかも敵国の運動ということで野球自体ままならなくなり、単なる練兵場となってしまった。

校舎の前、歩道沿いに一基のモニュメントが立っている。

この「白球の夢」というモニュメントだけが、ここに藤井寺球場が存在した唯一の証だ。

藤井寺球場が復活したのは戦後、日本にプロ野球が復活したのがきっかけ。

このムーヴメントに乗じ、近鉄も昭和24(1949)年に球団「パールス」を構える。

パールスとは近鉄の金城湯池、鳥羽の真珠にあやかったものだ。

ところがパールスは下位が指定席となり「パ・リーグのお荷物」と揶揄される有り様。

そこで昭和33(1958)年に巨人の大人気選手だった千葉茂を監督に招聘。

ちなみに千葉は長嶋茂雄の前に背番号3を背負っていた選手である。

千葉の愛称「猛牛」にあやかり、チーム名も「バファロー」に改称。

同時に、岡本太郎が猛牛を意匠化したシンボルマークを採用した。

千葉が親友の岡本にデザイン料10万円で依頼したのだそうだ。

このシンボルマークは平成17(2005)年に球団が消滅するまで 半世紀近くにわたって使われ続けた。

昭和37(1962)年にチーム名を「バファローズ」に再改称。

この名称は紆余曲折を経て、現在のオリックス・バファローズにまで引き継がれている。

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[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 三

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改めて彫像「白球の夢」を眺めてみる。
 
作家は大阪出身の彫刻家、玉野勢三氏。

他の作品には、南海本線堺駅西口前に立つ与謝野晶子像などがある。

台座の上には藤井寺球場を模した円盤が乗り、横には大阪近鉄時代の「Buffaloes」のロゴが刻まれている。

円盤上には野球のボールが乗り、両手で頬杖をついた少年が膝をそろえて腰掛けている。

野球帽をかぶっているが、靴は履いておらず裸足だ。

台座前面のホームベース型銘板には「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005」と刻まれている。

近鉄は結成当初から藤井寺に本拠地を置いていたが、実は大きな問題を抱えていた。

甲子園球場と違って周囲に民家が立て込んでおり、反対運動のため長らくナイター設備を設置できなかったのだ。

このため大阪市内の日生球場で試合を主催していたことは「キャッスル&ボールパーク④大阪編・前」でも触れた通り。

近鉄は昭和24(1949)年に誕生してから平成16(2004)年に消滅するまでの55年間で4回優勝している。

初優勝は球団創設から30年目の昭和54(1979)年。

昭和49(1974)年に就任した名将西本幸雄監督が、5年かけてチームを育て上げた成果だった。

「キャッスル&ボールパーク③西宮編」で述べた通り、西本監督はパ・リーグのお荷物球団だった阪急ブレーブスを鍛え上げ、常勝球団に変貌させた闘将。

それと同じことを近鉄球団でもやってのけたのである。

バファローズは翌55(1980)年も優勝し、2連覇を果たした。

日本シリーズの相手は奇しくも両年とも広島東洋カープ。

だが、いずれも日本一の座を逃したことは「キャッスル&ボールパーク②広島編」で触れた。

日本シリーズの近鉄主催試合は両年とも藤井寺球場ではなく、大阪球場で開催された。

理由はナイター設備がなかったためで、近鉄は南海電鉄から大阪球場を借り受けたのだ。

昭和54年の日本シリーズで、今も語り草になっている「江夏の21球」。

これもまた藤井寺球場ではなく、大阪球場での出来事である。

西本監督は近鉄時代2度の日本シリーズを制することが叶わなかった。

大毎時代1度、阪急時代5度の日本シリーズと合わせ、通算20年に及ぶ監督人生で日本シリーズを8度戦い、一度も日本一になれなかった。

“悲運の闘将”と呼ばれる所以である。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 四

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ようやくナイター設備が完成したのは昭和59(1984)年、工事着工から10年後のことだった。

ナイター設備完成以前の藤井寺球場は、鉄塔は完成しているものの上部に照明設備が乗っかってない状態が長く続いた。

現在、西武ドームに行くと外周に西武ライオンズ球場時代に使用されていた照明灯の支柱だけが残されている。

その姿は、どこか藤井寺の鉄塔を彷彿とさせる。決して似ているわけではないのだが。

出番が来る日を長らく待ち続けた照明灯と、役目を終えて放置された照明灯。

両者の存在意義は全く逆にもかかわらず、どこか「もののあはれ」的な相通じるものを感じる。

近鉄3度目のパ・リーグ優勝は平成元(1989)年。

仰木彬監督がエース阿波野秀幸を駆使し、オリックス・ブレーブスと西武ライオンズとのデットヒートを制してのもの。

藤井寺球場にナイター施設は既に完備済み。

今度は堂々と日本シリーズを開催できることになった。

対戦相手は日本一の座に過去16回も就いている巨人。

一方の近鉄は12球団の中で過去1度も日本一になったのことのないチーム。

ところが近鉄は一気に3連勝し、あと1勝すれば悲願の日本一というところまで漕ぎ着ける。

第3戦で先発した近鉄の加藤哲郎投手は試合後のインタビューで「シーズン中のほうがキツかった」とコメント。

さらに記者からの「ロッテのほうが怖かったですか?」という質問に「まぁそうですね」と返答したという。

加藤本人にしてみれば単なる相槌程度のもので、適当に答えただけだったのだろうが。

このやりとりが翌朝のスポーツ紙には、こう姿を変えて出現した。

「巨人はロッテより弱い」

この年のロッテはパ・リーグで最下位に沈んだチーム。

それより弱いと言われた巨人が発奮しないわけがない。

土俵際まで追い詰められていた巨人は一気に近鉄を押し戻し、星を3勝3敗の五分に戻す。

そして雌雄を決する第7戦の舞台は、藤井寺球場。

近鉄の先発投手もまた、世間から“舌禍事件”の首謀者と目されている加藤哲郎投手だった。

近鉄はリードする巨人に一度も追いつくこと無く5対8というスコアで敗戦。

一度は掴みかけた初の日本一が、指の間から砂のようにサラサラとこぼれ落ちていった。

80年近い歴史を誇る藤井寺球場で行われた日本シリーズは結局、この1回きりに終わった。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 五

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「巨人はロッテより弱い」発言はプロ野球の歴史を彩った“迷言”として、たまに今でも蒸し返されたりしている。

そう本人が言ったわけでもないのに勝手に独り歩きし、日本シリーズの趨勢まで左右してしまったこの言葉。

思えば前に日本一へ最も近づいた昭和54年の日本シリーズも「江夏の21球」で広島にうっちゃられた。

この「江夏の21球」も後世になってノンフィクション作家の故・山際淳司氏の著作から広まったもの。

肝心の試合内容そのものではなく、作家の著書名や新聞記者の捏造記事によって、その敗戦が記憶されるという悲劇。

このあたりにも、近鉄バファローズというチームが背負った運命的な脆弱さというものを感じさせる。

平成9(1997)年、大阪ドームが完成すると近鉄は本拠地を移転。

藤井寺球場は平成17(2005)年に閉鎖、翌年解体された。

跡地は北(ホームベース)側が四天王寺学園に売却され学校用地に。

南(外野)側には現在、大規模なマンションが立っている。

大阪ドームへ移転した近鉄は平成11(1999)年にチーム名を「大阪近鉄バファローズ」と改称。

地元大阪への密着ぶりをアピールすることで盛り上げていこうという戦略を採った。

ところが改称してからというもの2年連続で最下位に。

地元密着が絵に描いた餅になりかけた矢先の平成13(2001)年、大阪近鉄はパ・リーグを12年ぶりに制覇。

しかも北川博敏が日本プロ野球史上初の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」で締めくくるという、これ以上ない幕切れ。

前年からチームを率いた梨田昌孝監督は、最下位からの優勝という快挙を達成。

同じ監督で最下位の翌年に優勝したのはパ・リーグ史上初。

日本プロ野球史を見渡しても、昭和50(1975)年の最下位から翌年優勝した巨人の長嶋茂雄監督以来2人目。

そして78勝(60敗2分)という勝利数もまた、球団新記録だった。

これで一時は離れかけた“地元”が再び“密着”するかと思いきや…。

日本シリーズの舞台は、もちろん初開催となる大阪ドーム。

対戦相手は東京が本拠地のヤクルトスワローズで、まさに“東西対決”。

巨人が相手だった前回の日本シリーズも“東西対決”ではあったのだが。

平成最初の年に行われた前回は、近鉄が屋外の藤井寺球場で相手の巨人が屋内の東京ドーム。

21世紀最初の年に行われた今回は、近鉄が屋内の大阪ドームで相手のヤクルトが屋外の神宮球場。

時代が遷ろうにつれ、試合が行われた環境も劇的に変わったものだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 六

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しかし、変わらなかったのは近鉄バファローズが背負っていた運命的な脆弱さ。

圧倒的な破壊力でパ・リーグを制した“いてまえ打線”も、ヤクルトのキャッチャー古田敦也に封じ込まれて沈黙。

結局1勝4敗で敗退し、またしても日本シリーズの制覇は成就ならなかった。

モニュメント以外の痕跡を探して周囲をウロついてみる。

だが、すぐに時間の無駄だと悟った。

訪れたのが夕方で、ちょうど小学生たちの下校時間。

カメラを抱えたオッサンがウロウロするには、あまり相応しいシチュエーションではない。

何かがあるとか、何にもないとか、そういった次元を超越した障壁が存在したのだ。

「さようなら~」

校門には学校の警備員が立ち、手を振りながら下校する小学生たちを送り出している。

「こんにちわ~」

警備員に怪しまれる前に、あえてこちらから挨拶してみた。

「あの銅像以外に何か藤井寺球場の痕跡って遺っていませんかね?」

「いやー、特にないですねぇ」

そう言うと警備員はプイッと踵を返し、帰宅する小学生たちへ再び挨拶を始めた。

単なる球場跡地の訪問者であり、子供たちに危害を及ぼすような不審者ではないと思わせることができたのだろう。

一見冷たい対応にも見えるが、取り敢えずは不信感の払拭には成功できたようで、そそくさと学校を後にする。

もし周辺をウロウロしたいのなら、学校が休みの日祝日にすべきか。

ただし最近では日祝日でも部活なんかで学校を開けている場合もあるので、変な行動は慎むべきなのは間違いないのだが。

平成16(2004)年、近鉄グループは採算上の問題からバファローズをオリックスに譲渡し、ブルーウェーブと合併させる旨を発表した。

これには近鉄ファンのみならずプロ野球ファンが猛反発。

日本プロ野球選手会も雇用機会の喪失につながることから、労働組合として初めてストライキを決行。

一種の“労働争議”の観を呈し、プロ野球業界の枠を超えた社会問題として大騒動になった。

その時のプロ野球選手会会長が、2001年の日本シリーズで近鉄の日本一を阻止した古田敦也だったところに歴史的な皮肉を感じる。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 七

とはいえ合併そのものが覆ることはなく、オリックスに吸収合併された近鉄球団は平成17(2005)年を以って消滅。

近鉄バファローズは結局、日本シリーズを1度も制することができないまま、プロ野球の歴史から去って行くこととなった。

一方のオリックスはチーム名をバファローズに改称し、ここに合併球団「オリックス・バファローズ」が誕生した。

ただし、あくまでもオリックスは阪急ブレーブスの流れを汲む球団であり、吸収した近鉄球団の歴史については有って無いような扱われ方である。

現在のドイツにおける西ドイツに吸収合併された東ドイツの歴史と、どこか似ているような気もする。

というわけで阪急西宮ギャラリーのような、近鉄バファローズの歴史だけを記した施設は、あべのハルカスにも藤井寺駅近辺にもない。

オリックス・バファローズの本拠地である京セラドーム大阪には、前身だった阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブの各チーム歴史を展示したエリア「Bs SQUAR」があるにはあるのだが。

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藤井寺駅に戻ると跨線橋にオリックス・バファローズのポスターが掲示してある。

それを眺めながら、24年前に訪れた時の試合を思い出す。

近鉄の先発投手は2年目の野茂英雄だった。

あのトルネード投法を生で観戦したのは、後にも先にもこれっきり。

その後、野茂は近鉄とケンカ別れのような形で日本球界を後にし、平成7(1995)年に米大リーグのロサンゼルス・ドジャースへ。

その後の活躍は周知の通り。

現在メジャーリーグで日本人選手が大活躍しているが、それも野茂が先鞭を付けなければ道が開けなかったことは間違いない。

ただ、野茂の名を耳にするたびにメジャーでの華々しい活躍ぶりとセットで、藤井寺球場の閑散としたスタンドと駅までの少し薄暗い帰り道が思い起こされる。

あべのハルカスの余ったスペースでいいから、やはり近鉄グループに近鉄バファローズの歴史だけを展示したギャラリーを作って欲しい。

藤井寺駅から大阪阿部野橋駅へと戻る近鉄電車の中で、そんなことを切に思った。

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大阪阿部野橋駅から地下鉄天王寺駅を経て御堂筋線に乗り換え、なんば駅へ。

ミナミの象徴、高島屋正面から右手へ回り込み、阪神高速の下、通称“パークス通り”を南側へと向かう。

すると道の向こう側に“豚まん”でおなじみの551蓬莱を発見!

朝にホテルで食事して以来、何も食べていないという事実を前に暫し思案するも、この場は取り敢えず先を急ぐ。

難波中交差点から眺める「なんばパークス」。

かつてこの場所に「大阪球場」こと大阪スタヂアムが存在していた。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 八

大阪スタジアムは昭和25(1950)年、南海電鉄がプロ野球チーム「南海ホークス」の本拠地球場として専売局(現JT)の工場跡地に建設したもの。

それから約40年が過ぎた昭和と平成の端境期。

平成元(1989)年に南海電鉄はホークスをスーパーマーケットのダイエーに売却。

球団は福岡へ移転し、大阪球場は“空き家”となった。

平成6(1994)年の関西国際空港開港に伴う難波地区再開発計画に伴い、大阪球場は同2(1990)年を以って閉鎖される。

ところが折からのバブル崩壊で再開発計画は“塩漬け”となり、大阪球場は解体されず住宅展示場などに利用されて延命。

建物が解体されたのはホークスが去ってから10年近くたった平成10(1998)年のことだった。
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南海なんば駅から、なんばパークスへと続く階段を登る。

なんばパークスは平成15(2003)年に第1期、同19(2007)年に第2期がオープン。

ショッピング&レストラン街とオフィスタワーに分かれている。

ショッピング&レストラン街は地上10階、地下3階建て。

地上部分は地上9階まで段丘状に建てられ、植栽された多種多様の植物に鳥類や昆虫が集う。

建物を上から眺めると、そのユニークな形状に興味を惹かれる。

館内エスカレーターを乗り継ぎながら最上階の9階へ。

ここに「南海ホークス メモリアルギャラリー」がある。

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ホークスが結成されたのは昭和13(1938)年のこと。

それから50年後、昭和63(1988)年に球団が譲渡されるまでの半世紀にも及ぶ歴史が記録されている。

外壁は一面ガラス張りで日差しが内部に差し込み、チームカラーの緑とミクスチャーされて心休まる雰囲気を醸し出している。

中へ入ると正面左側にペナントやトロフィーが整然と陳列されている。

ペナントは昭和34(1959)年の日本シリーズを制して日本一に輝いた時のもの。

このシーズン、エースの杉浦忠はリーグ戦で38勝4敗という驚異的な成績を挙げ、チームも優勝。

日本シリーズでも4連投4連勝という快挙とともに巨人を4タテに斬って捨て、日本一に輝いた。

今に至るまで4連投4連勝を達成した投手は他におらず、まさに空前絶後の大記録である。

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奥へ進むと左側の壁面は南海ホークスの歴史が刻まれた年表。

左に投手、中央下部に打者、右に野手という構成で配列されている。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 九

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投手のところには杉浦以外にも皆川睦雄や宅和本司、スタンカといった伝説の名選手たちの姿が。

日本人初のメジャーリーガー村上雅則や、一迅の風のように東映フライヤーズからやって来て阪神タイガースへ去って行った江本孟紀の名もある。

一方、阪神から江本とのトレードで南海に来た江夏豊の姿は見当たらない。

たった1年しか在籍していなかったから不自然ではないが、少々寂しいところではある。

打者のパートには鶴岡“親分”一人をはじめ、飯田徳治、岡本伊三美、広瀬叔功、杉山光平ら往年のスラッガーたち。

新しいところだと藤原満、門田博光、香川伸行、カズ山本らの名も。

“世界のイチロー”を生んだ名コーチ、新井宏昌も名を連ねている。

だがしかし、よく見ると違和感を覚える。

そう、南海ホークスといえばこの人、野村克也の名前がどこにもない。

その事情に関しては巷間いろいろ言われているので、ここでは何も語りはしないが。

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中央上部には映像モニターが設置され、過去の名選手や名場面が上映されている。

画面に映っている人物は戦中戦後にかけてエースの看板を背負った別所毅彦投手。

後に巨人との間で引き抜き騒動が起こり、モヤモヤのうちに巨人へ移籍するのだが。

その横には大阪スタヂアムの歴史一覧が掲示されている。

繁華街なんばに隣接していることから、野球以外にも様々なイベントが行われていたことが分かる。

例えば昭和49(1974)年から西城秀樹が10年連続でスタジアムコンサートやったり。

野球場でのコンサートって、これが先鞭だったのではなかろうか?

昭和57(1982)年にサイモン&ガーファンクルが外タレとして初めてコンサートを開催して以降、マイケル・ジャクソンやマドンナもステージに立っている。

また、プロサッカー時代の到来を見越して球場を改築し、サッカー場との併用も狙っていたという。

例えば昭和52(1977)年には「サッカーフェスティバルさよならペレ」を開催。

Jリーグの誕生は平成5(1993)年…時代が少し早すぎたか。

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突き当りはエレベーターホール。

エスカレーターを乗り継がなくても、ここまで一気に来ることができる。

エレベーターホールの前にも屋外への出入口が設えてある。

先ほどの出入口と合わせて都合2ヶ所あるわけだ。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十

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ガラスウォールの前には透明な展示ボックスが3台並んでいる。

左側のボックスは真ん中に南海ホークスの代名詞的存在、鶴岡監督の愛用したスタジアムジャンパーが。

鶴岡親分は戦争から帰還直後の昭和21(1946)年にプレイングマネジャーに就任。

昭和27(1952)年からは専任監督になり、同43(1968)年のオフに退任。

通算23年間に及ぶ監督生活で挙げた勝利数1773は日本プロ野球史上最多。

プロ野球がセ・パ両リーグに分裂した同22(1947)年以降ではリーグ優勝9回、うち日本一2回。

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中央のボックスには鶴岡監督の1500勝メモリアルと昭和39(1964)年の日本シリーズを制覇した、それぞれの記念品。

奥の壁には上からペナントとシリーズ優勝の賞状、監督の肖像を描いたエッチング銅版画の順に掲げられている。

その前には左から1500勝を記念した木彫の鷹の置物とウィニングボール、シリーズ優勝トロフィーが並ぶ。

昭和39(1964)年の日本シリーズ、相手は阪神タイガースだった。

昭和25(1950)年に日本野球連盟がセとパの両リーグに分裂して日本シリーズが始まって以来、かれこれ64回行われている。

しかし関西に本拠地を置くチーム同士が対戦した“関西ダービー”シリーズ、実はこの年1回だけなのだ。

先出した「近鉄対広島」(1979、80)、あるいは「阪神対福岡ダイエー」(2003)のように、関西と以西のチーム同士の対戦というのはある。

もともと関西にセのチームは阪神しかないので、“関西ダービー”シリーズになる機会は限られるのだが。

それでもパには阪急、南海、近鉄、オリックスと結構な数のチームが存在してきたわけで、もっと機会が多くても不思議ではないように思えるのだが。

しかも、この記念すべき“関西ダービー”、実は史上最も不幸な日本選手権として歴史に刻まれているのだ。

なぜなら、この年は同時期に国家的な一大プロジェクトが実施されていたからである。

それは…東京オリンピック。

アジアで初めて開催されるオリンピックに世間の話題は集中。

しかも当時は「巨人・大鵬・玉子焼き」と謳われた、まさにプロ野球界が「巨人ファンに非ずんば人に非ず」と歪曲していた時代。

そんな中、関西圏だけで行われる日本シリーズに関心を向ける人など、関西以外では稀ではなかったかと思われる。

こうした二重の逆境にもかかわらず“関西ダービー”は激闘が続き、3勝3敗で第7戦にまでもつれこんだ。

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[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十一

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その最終戦が行われたのは昭和39(1964)年10月10日、つまり東京オリンピックの開会式が行われた日の夜のこと。

甲子園球場で始まった試合は18時59分のプレイボールから2時間7分後の21時6分、南海の勝利でゲームセットを迎えた。

この試合の公式入場者数は1万5172人。

日本一が決定するシリーズ最終戦の観客動員数としては史上最低の数字である。

阪神ファンで溢れかえる現在の甲子園からは想像もつかない話だ。

とはいえ試合が行われた時代背景を考慮してみると、この数字の持つ凄みが逆に伝わっている。

今なお語り継がれている東京五輪の開会式が終わって興奮冷めやらぬ中を、1万5千人もの観客が甲子園に訪れたのだ。

もちろん南海や阪神のファンが多数を占めていたのだろうが。

五輪なんて国家的プロジェクトと喧伝しているが、所詮は東京で行われている大きな運動会。

その程度にしか考えていない“反中央”的な感情を抱いた人々も大勢詰めかけたのではなかろうか。

それを思えば甲子園に集った1万5172人もの観客は、東京一極主義に抗う真の反逆者たちであったのではないか。

その“司祭”たる鶴岡親分が、こうして大阪ミナミのド真ん中に祀られているのも至極当然のことと思われる。

鶴岡親分は昭和43(1968)年に監督を勇退。

NHKで解説者を長らく務めた後、平成12(2000)年3月7日に83年の生涯を閉じた。

南海は昭和42(1966)年にパ・リーグで優勝した後、同48(1973)年に1度優勝したきりで福岡に移転している。

いかに鶴岡監督時代の南海が強いチームだったか、こうして過去の記録を眺めているだけでも如実に伝わってくる。

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右側のボックスには南海ホークス最後の、そして福岡ダイエー最初の監督である杉浦忠のユニフォームが飾られている。

杉浦は入口のペナントのところでも触れた南海の大エース。

立教大学で長嶋茂雄と同期生で、2人は在学中から大学の先輩で南海の選手だった大沢昌芳に南海への入団を口説かれる。

大沢昌芳とは後に「喝!」でお馴染みになる故・大沢啓示親分のこと。

もちろん大沢“子分”は鶴岡“親分”の指示の元に動いていたのだが。

南海行きを示唆していた長嶋は直前に翻意して巨人へ入団。

それに対して杉浦は“忠義”を守り、親分との約束通り南海へ入団する。

昭和45(1970)年に現役を引退。実働13年間で577試合に登板し、187勝106敗。

あと13勝で200勝投手になれたところ。記録より記憶に残る投手と呼ぶに相応しいのかも知れない。

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[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十二

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杉浦は同時代に活躍した西鉄ライオンズのエース稲尾和久とよく比較された。

子供の頃から小船に乗って家業の漁師を手伝い、高卒で西鉄に入団。
ゴツい躯体に優しい目から、付いたニックネームが動物の“サイ”。

昭和33(1958)年の日本シリーズで巨人相手に大車輪の活躍で3連敗から4連勝で奇跡の日本一に輝いた時、メディアが救世主に命名したのは「神様、仏様、稲尾様」。

一方は東京六大学で活躍し、プロ入り前から大スター。
細身の長身に黒縁のメガネという、いかにも“大卒”という風貌。

昭和34年の日本シリーズで巨人相手に4連投4連勝で日本一に輝いた時、メディアが報じた杉浦の言葉は「ひとりになって泣きたい」 。

「神様、仏様」と「ひとりになって泣きたい」である。

ここまで両極端に対照的なライバルが、過去にも今でも他にいるだろうか?

現役引退後、両者の運命もまた極端に分かれていく。

稲尾は現役を引退した翌年の昭和45(1970)年に32歳の若さで西鉄の監督に就任。

昭和53(1978)年には中日の投手コーチ、同59(1984)年にはロッテの監督と指導者として履歴を残す。

一方、昭和45年に現役を引退した杉浦は同49(1974)年に近鉄の投手コーチに就いたぐらいで、主にマスメディアでの解説を主な活躍の場にしていた。

そんな杉浦に南海の監督として白羽の矢が立ったのは昭和60(1985)年のこと。

ちなみに「白羽の矢が立つ」という言葉には「人身御供に選ばれる」という意味合いもある。

昭和48(1973)年に野村克也兼任監督でパ・リーグを制して以来一度も優勝がなく、下位に低迷し続ける南海には毎年のように身売り話が持ち上がっていた。

そんなチームの監督になりたがる向きは他におらず、いわば杉浦は“最後の切り札”に等しき存在だった。

ところがチーム状態が少しずつ上向きかけていた矢先の昭和63(1988)年。

南海ホークス誕生50周年というメモリアルイヤーに川勝傅オーナーが逝去。

南海グループのドンにしてチーム最大の後ろ盾を失ったホークスは、その年のオフ、まるで事前からシナリオが用意されていたかの如くアッサリと売却された。

買収したスーパーのダイエーはホークスの本拠地を大阪から福岡に移転。

半世紀に亘って大阪市内に本拠地を構え続けた唯一のプロ野球チームが、ここに姿を消した。

大阪後R122
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十三

ところが親会社は変わっても杉浦が解任されることはなく、そのまま福岡ダイエーホークスの初代監督として留任。

昭和が終わり平成が始まった1989年、シーズン終了を以って杉浦は監督を退任する。

同時代を生きた長嶋茂雄や野村克也らと比べれば地味な引き際のようにも見えるが。

アッサリとした引き際はデカダンスの香り漂うインテリゲンチア的ピッチャーだった杉浦にとって、この上なく相応しいようにも思える。

激動の20世紀が終わり、新世紀を迎えた平成13(2001)年11月11日。

杉浦は札幌市内のホテルで急性心筋梗塞により急逝する。66歳という若さだった。

昭和の終焉とともにグランドを去り、20世紀の終焉ともに現世を去った杉浦。

その記憶の痕跡は福岡ドームではなく、かつて大阪球場が存在した地の片隅に、ひっそりと佇んでいるのだ。

大阪後R131

杉浦監督のユニフォームの右側には、スラッガー3人のサインバットが並んでいる

左から門田博光、定岡智秋、山本和範それぞれのサインバット。

門田のバットは昭和62(1987)年に2000本安打を記録した時のもの。

同年8月26日の西武ライオンズ戦で記録した史上24人目の偉業だった。

門田もまた南海ホークスを語る上で欠かせない存在である。

昭和44(1969)年のドラフトで南海から2位指名を受け、社会人からプロ入り。

巧打・俊足・堅守の外野手だった門田の運命を狂わせたのは、王貞治の一本足打法。

王のバッティングを見て自分もホームラン打者になろうと決意した門田は打撃フォームを改造。

ところが、そんなにプロの世界は甘くなく、案の定ホームランより三振の数ばかりが増えていく有り様。

当時の野村克也兼任監督が注意するも、頑として聞き入れない門田。

あきれた野村はオープン戦で巨人と対戦した際に門田を巨人ベンチへ連れて行き、王に頼み込んで一緒に説得したという。

「ホームランはヒットの延長」と諭す王。

「ホームランは前提にコンパクトな打撃ありき」と諭す野村。

こうして三冠王が2人がかりで説得したにもかかわらず、門田は「ホームランの当たり損ないがヒットなんです」 と一顧だにせず。

自分の信念を貫き通す…と評すればカッコいが、実際は単なる頑固なヘソ曲がり。

その頑迷さを野村は自署『野村ボヤキ語録』の中で「南海の三悪人」と評するほど。

大阪後R132

ちなみに他の2人は江夏豊と江本孟紀。

ただ、江夏と江本は他球団からのトレード組なのに対し、門田は生粋の生え抜き。

その意味では南海の“三”ではなく“一”悪人じゃないかと思えるのだが。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十四

大阪後R141

ただ野村の忠告が持つ意味は、それだけではなかった。

プロの選手として門田の体格はさほど大きくなく、一発狙いの打撃フォームが肉体に与える負荷が大きい。

このようなバッティングを続けていれば、いつか大きな怪我につながる懸念もあったろう。

その懸念は的中し、昭和54(1979)年2月のキャンプ中に右足のアキレス腱を断裂。

3ヶ月間の入院と半年間のリハビリで1年を棒に振る羽目に。

翌55(1980)年には1軍に復帰するも、足を怪我したため俊足と堅守は影を潜めてしまった。

やむなく指名代打専業になるも、そこは門田。

「ホームランなら足に負担がかからないから全打席で狙うよ」

負けず嫌いか天邪鬼か? いずれにせよ長打狙いの打撃に、ますます磨きをかけていく。

この結果、昭和56(1981)、同58(1983)、同63(1988)年と3度も本塁打王に輝くことに。

特に63年は打点王との二冠王、しかも“不惑”の40歳で獲得したもの。

当時は40歳を超えての本塁打王など前代未聞の出来事。

チームが優勝していないにもかかわらずパ・リーグの最優秀選手(MVP)を獲得した。

ヘソ曲がりっぷりは翌年のホークス売却でも遺憾なく発揮された。

福岡への“移転”を拒否し、これまた同年に阪急の身売りで誕生したオリックス・ブレーブスへ志願のトレード。

ただ、このトレードでオリックス側に放出を余儀なくされる選手も出てくるため、門田に対して“身勝手”との批判も一部にあった。

平成3(1991)年、門田は福岡の地に渡り、再びホークスに復帰する。

今度はトレードではなく、オリックスを自由契約(解雇)になった上での移籍である。

翌年のシーズン終了後、門田は現役を引退する。

現役時代に積み重ねたホームランの数は567本。

在りし日に門田を2人がかりで説得した王(868本)と野村(657本)に続く歴代3位の記録に達していた。

それにしても、ここまで波瀾万丈なプロ野球人生を送った選手など他にいないだろう。

そう思って右側に並ぶサインバットを見たら、ここにいた。

山本和範。またの名をカズ山本。

彼のプロ野球人生は波瀾万丈に加えて劇的という要素も多分に加わっている。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十五

大阪後R151

昭和51(1976)年、福岡県北九州市の高校からドラフト5位で近鉄バファローズに入団。

投手として獲得されるも酔っ払った仰木彬監督から失格を言い渡され、入団一週間目にして野手に転向する。

2軍では通用しても1軍では結果に結びつかない時期が長く続いた挙句、昭和57(1982)年に自由契約となり退団。

他に行くアテもなく北九州に帰ろうと思っていた矢先、同僚からバッティングセンターのアルバイトを紹介される。

住み込みの仕事で寝泊まりと食事は無料だが、給料はナシ。

それでも閉店後に打ち込みを重ね、練習しながらお呼びがかかるのを待っていた。

そんなある日のこと、南海の穴吹義雄監督から声がかかった。

昭和58(1983)年に南海へ入団し、晴れてプロに復帰する。

それも入団テストなどない即契約で。

穴吹は2軍監督時代、対戦相手だった山本の実力を高く評価していたという。

それが獲得につながったのだ。人間、どこか誰が見ているか分からないものである。

南海の一員となった山本は、自分に見切りを付けたプロ野球界を見返してやろうと決意。

もともと難聴というハンデを抱えていたこともあり、自由契約と難聴の二重苦を克服するために猛特訓に次ぐ猛特訓を重ねる。

あまりに重ね過ぎて、急性肝炎で一か月間も入院したほど。 

その甲斐あってか翌59(1984)年に外野のレギュラーに定着。

翌60(1985)年には初めて全試合フル出場。

翌61(1986)年にはオールスターゲームに監督推薦で初出場、そして初のゴールデングラブ賞を受賞する。

外野守備で聴覚は打球の行方を追うためになくてはならないもの。

その点、難聴というハンデを抱える山本の外野守備が評価されたのは、それだけ守備のクオリティが他の受賞者と比べても遜色がなかった証であり、画期的なことだった。

山本はトントン拍子に出世し、南海のレギュラー外野手として不動の地位を築く。

さらに平成元(1989)年、南海がダイエーに買収され、ホークスは山本の故郷である福岡県に移転することとなった。

チームに福岡県出身の選手は少なく、山本は地元出身の選手として人気ナンバーワン選手に。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十六

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転機が訪れたのは平成6(1994)年。

それまで山本はドラキュラに似た風貌から「ドラ」というニックネームで呼ばれていた。

しかし「ドラじゃ子どもがいじめられる」と、シーズン途中にもかかわらず選手登録名をカズ山本に変更した。

改名効果もあってかシーズン打率は自己最高の3割1分7厘を記録し、パ・リーグの打撃成績で2位に輝く。

ちなみに首位打者はオリックスのイチローで打率は当時のパ・リーグ新記録となる3割8分5厘。

イチローが鈴木一朗から改名したのも同じ1994年だが、彼は開幕から使用していた。さすが改名の先輩だけある。

それはともかく、近鉄をクビになって10余年。

カズ山本は年俸2億円を突破し、球界の頂上へと上り詰めた。

しかし「好事魔多し」とは、よく言ったもの。

ところが翌7(1995)年の開幕早々、試合中に右肩を亜脱臼する怪我を負い、ホークス移籍後最低の成績でシーズンを終える。

しかも頂上に立ったはずの2億円という高額年俸が逆に仇となり、38歳という高齢と相俟って、なんと山本は生涯2度目に自由契約に。

2年間のうちに天国と地国の両方を味わうという、神も仏もビックリな体験である。

ところが「拾う神あれば捨てる神あり」とは、よく言ったもの。

翌8(1996)年、山本を拾ったのは14年前にクビを斬った近鉄バファローズだった。

再び大阪に戻ってきた山本は“天国”福岡時代を封印すべく、登録名を元の山本和範に戻す。

生まれ故郷の川へ成長して帰えって来た鮭の如く、古巣へ復帰した山本を近鉄ファンも暖かく迎え入れた。

福岡ダイエーのファンと新たな近鉄のファンの熱意が融合したのか、この年のオールスターゲームに初めてファン投票で出場。

これに応えるかのごとく山本は故郷の福岡ドームで行われた第1戦に代打で登場、決勝ホームランを放ちMVPに輝く。

地獄の釜の蓋が少し開き、その隙間から天国が垣間見えた瞬間だった。

なかなか神様も粋な計らいをしてくれるものである。

とはいえ高齢で移籍してきた山本にとって、シーズン通じてのフル出場は難しいところ。

平成11(1999)年オフ、当季1度も1軍に上がることのなかった山本に、近鉄は生涯3度目となる戦力外通告を行う。

まだまだ現役続行への意欲を見せていた山本だったが、42歳という年齢がネックとなってか今度は獲得の意志を示す球団は現れなかった。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十七

大阪後R171

そんな中で迎えた9月30日、シーズン最後の試合、故郷福岡ドームでの福岡ダイエー戦。

このシーズンで山本は初めて1軍に登録された。

本人が引退を決意していない以上、引退試合ではない。

これはチームを去る山本に近鉄が用意した餞別に等しき舞台だった。

既に福岡ダイエーのリーグ優勝決定後の消化試合ではあったが、山本の近鉄退団を知っているファンでスタンドは埋まっている。

9回表で4対4の同点という場面で迎えた山本の最終打席。

対戦投手は14勝無敗という驚異的な成績を挙げた篠原貴行。

ここで山本は3ボールナッシングというカウントから、篠原が投げ込んだ速球を打ち返す。

打球は一閃、外野スタンドに吸い込まれて勝ち越しホームランとなり、試合はそのまま近鉄が勝利。

試合終了後は福岡ダイエーの優勝祝賀セレモニーが予定されていたが、その前に山本はファンの声援に応えて場内を一周。

古巣である福岡ダイエーのファンから大歓声を浴びた山本は「これ以上の感動を与えるプレーは今後、もう作り出せないだろうな」との感慨を覚え、バットを置く決意を固めたという。

最後の最後で地獄の釜の蓋が全開し、再び天国に召還された。

なかなか神様も粋な幕切れを用意したものである。

山本のプロ初ヒットは入団4年目の1980(昭和55)年5月10日、西武戦で松沼雅之から放ったホームラン。

ホームランで始まりホームランで締めくくったプロ野球人生だった。

現在は「カズ山本」という芸名で芸能活動を行う傍らホークスジュニアチームのコーチや、故郷の「北九州市立子どもの館」で館長を務めている。

初安打も最後の安打も近鉄の選手として放ったものだし、19年間のプロ野球人生で大阪球場でプレーしたのは僅か6年間でしかない。

それでも山本は「大阪球場が最高の球場」と言い放ち、「ホークスファンこそ最高の野球ファン」と公言して憚らない。

大阪から福岡へ、2つのホークスを舞台に絶望と希望という二幕を演じた稀代のプレーヤーだった。

ここにサインバットが並べられるのも当然の帰結だろう。

大阪後R172

そのサインバットから、ずいぶんと長話になってしまった。

それぐらい門田と山本のプロ野球人生は強烈だったのだ。

数多いた名選手の中から両者のサインバットを選んだところに、南海電鉄がホークスに対して抱く思いが透けて見えるようだ。

2人が所属した球団も南海(→福岡ダイエー)、近鉄、オリックス(元阪急)とパ・リーグの在阪球団ばかり。

狭いエリアの中で練り上げられた濃密な人間関係があったからこそ、2人とも波瀾万丈の現役生活を乗り越えることができたのだろうか。

フランチャイズが日本中に散らばってしまった現在のパ・リーグに、第2の門田や山本の登場を期待するのは難しいことかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十八

大阪後R181

残る定岡智秋は昭和46(1971)年にドラフト3位で入団し、昭和50年代の南海内野陣を支えた遊撃手。

…というより、個人的には“定岡三兄弟”の長兄という記憶しかない。

というのも次男の正二は甲子園のスーパーアイドルにして長嶋巨人のドラフト1位投手という、まさにキラ星のごときスター選手だった。

当時のマスコミは右を向いても左を見ても「巨人巨人巨人」と、今でいう「偏向報道」状態。

なので南海以外のプロ野球ファンは「正二の兄もプロ野球選手」という、今にして思えば非常に無礼なスタンスで書かれた記事しか目にしていなかったのではなかろうか?

しかも当時の南海で二遊間を組んでいた河埜敬幸もまた、巨人の遊撃手だった河埜和正の弟。

これまた記事のニュアンスは自ずと「南海の二遊間は巨人にいる選手の兄弟同士」というものになりがちだった。

それもこれも当時のプロ野球界が「巨人と取り巻きの5球団と番外地の6球団」だった時代ゆえのこと。

そもそも南海を扱った記事そのものを目にする機会が少なかったわけだから、そうした傾向になるのも止むを得なかったように思う。

それはともかく、後に三男の徹久も広島に外野手として入団し、三兄弟そろってプロ野球選手となった。

三選手とも顕著な働きを見せて球史に名を刻んだというわけではないが。

それでもこうして今だに名前が上がるのは引退後にタレントとしても活躍した正二のお陰なのかもしれない。

ただ、智秋には2人の弟と決定的に異なる点がある。

それは智秋の次男、卓摩もまたプロ野球選手になったことだ。

兄弟選手は普通に見かけるが、プラス親子二代に亘ってというのは、なかなか珍しい。

それにしても、なぜ定岡のバットが門田や山本と並んで展示されているのか、その根拠がいまひとつ分かりにくい。

だが定岡三兄弟を通じてプロ野球の歴史をこうして俯瞰できるわけだから、地味ながらも堅実な守備でチームを支えていた現役時代と同じような役割を果たしていると言えよう。

ユニフォームとサインバットの下には表彰状が2枚、並べて展示されている。

一枚は昭和41(1966)年、パ・リーグで優勝した時のもの。

日本シリーズでは巨人相手に2勝4敗で敗退。
 
ちなみに巨人は9連覇の2年目である。

もう一枚は昭和48(1973)年、当時行われていたプレイオフを制しパ・リーグで優勝した時のもの。

南海ホークスとしては最後の優勝となったこの年、監督は野村克也プレイングマネジャー。

野村監督関係の記念品で展示されているのは、この賞状1枚だけと言えるかもしれない。

大阪後R182

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十九

大阪後R191

日本シリーズでは巨人相手に1勝4敗で敗退。

ちなみに巨人は9連覇最後の年である。

この年の日本シリーズ、ひょっとしたら10年ぶりに阪神が対戦相手になるところだった。

セ・リーグは8月まで6チームが3ゲーム差の中にある大混戦。

シーズン終盤に突入すると阪神が残り2試合で1勝すればリーグ優勝というところまで漕ぎ着けた。

しかし残り2試合目で中日に逆転負けを喰らい、優勝決定は翌日の最終戦に持ち越される。

そしてシーズン最後の試合となった甲子園での巨人戦は、勝ったほうがリーグ優勝という“決定戦”に。

そんなシチュエーションに緊張でガチガチの阪神は、優勝慣れした巨人の前に大惨敗。

一方の巨人は大どんでん返しの末にセ・リーグ9連覇を達成。

川上哲治監督歓喜の胴上げが始まるか…と思いきや。

怒り狂った阪神ファンが大挙してグランドになだれ込み、巨人ナインは一斉に逃走。

それを追いかける阪神ファンはダグアウトに殺到して巨人の選手たちを襲撃。

世界のホームランキング王貞治までもが阪神ファンから下駄で殴られるという散々な有り様で、これでは胴上げどころの話ではない。

巨人が日本シリーズでこの時の鬱憤を南海にぶつけたおかげで圧勝…したのかどうかは定かではない。

時代は下って平成15(2003)年の日本シリーズもまた、阪神タイガース対ホークスの組み合わせとなった。

ただホークスといっても南海ではなく、福岡に移転したダイエーではあったが。

南海と阪神が対戦した1964年から約40年、再び相まみえたホークスとタイガースは4勝3敗で、またしてもホークスに軍配が上がった。

この時、福岡ダイエーを率いていたのは奇しくも王貞治監督。

30年前に阪神ファンから下駄で殴られた怨恨を、ここで晴らしたおかげで日本一になれた…かどうかは定かではない。

いずれにせよ阪神との因縁はホークスが南海から福岡ダイエーへと変わっても渋太く続いている様子。

果たして福岡ソフトバンクのホークスと日本シリーズで対戦する日は来るのだろうか?

大阪後R192

メモリアルギャラリーを出ると、あぶさんの手形が展示してあった。

水島新司の「あぶさん」は昭和48(1973)年から平成26(2014)年まで「ビッグコミックオリジナル」に40年以上にわたって連載された最長不倒の野球漫画。

主人公の景浦安武は南海ホークスがパ・リーグで最後に優勝した昭和48(1973)年に入団。

平成21(2009)年オフに現役を引退するまで、ダイエーからソフトバンクへホークス一筋37年。

背番号「90」は現実の福岡ソフトバンクホークスでも永久欠番扱いで、誰も付けていない。

大阪後R193

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 二十

過去にプロ野球を題材にした漫画劇画は星の数ほどあったが、南海ホークスがテーマの作品は「あぶさん」ぐらい。

しかも連載の初期は南海が低迷していた地味な時代だけに、野球漫画というより野球を下敷きにしたヒューマンストーリーみたいなもの。

それでも門田や山本が「あぶさん」に実名で登場したからこそ、全国的に知名度が高かったという面もある。

スポーツ新聞の紙面では片隅のベタ記事でも、月2回発行される「ビッグコミックオリジナル」では堂々の主役を飾る。

「あぶさん」がホークスを世に広めた功績は計り知れない。

それでも昭和末期の大阪球場に閑古鳥が鳴いていたのは、南海ホークスが漫画の世界にしか存在しない架空の球団だと多くの読者が勘違いしていたせいか。

大阪後R201

9階から屋外の階段を降りて8階へ。

そこには円形の劇場が設えてある。

すり鉢状に配置されたベンチは大阪球場のスタンドを彷彿とさせる。

すり鉢の底に当たるステージ部分にはホームベース型のモニュメントが埋め込まれている。

大阪球場のスタンドは傾斜が急なことで有名だった。

もともと狭い敷地に建てた上、スタンドの下にテナントを誘致するために傾斜角度を上げ、なんと37度にも達していた。

おかげでフィールド全体を眼下に収めることができ観戦しやすかった。

反面、階段も恐ろしく急角度で、酔っぱらいが転げ落ちるという事件がよくあったそうだ。

屋外の階段をブラブラしながら降り、2階のキャニオンストリートへ。

ここには大阪球場でホームベースとマウンドプレートが存在した場所と全く同じ位置に、ホームベースとマウンドプレートのモニュメントが埋め込まれている。

阪急西宮ガーデンズと同様、ここにも南海のホークスと大阪球場に対する愛が垣間見えるようだ。

大阪後R202

なんばパークスを後にし、南海なんば駅へ向かう。

先ほど見た551蓬莱が脳裏を一瞬よぎったが、立ち寄ることなく関西国際空港行きの電車に乗り込んだ。

新宿を立ち、福岡から広島を経て、西宮から大阪へと巡ってきた4泊4日の旅も、そろそろフィナーレ。

関空20時45分発、成田行のジェットスター・ジャパンGK210便に搭乗。

かと思いきや、ダイヤが乱れて20分のディレイ。

初めてLCCを利用したのだが、この程度のことは我慢の範囲内なのだろうか?

21時05分、ジェットスターのエアバスA320はようやく関空を離陸。

機窓に輝く大阪の夜景を眺めながら4日間にわたる旅の思い出を、ひとり噛み締めたのだった。

大阪後R203
 
[旅行日:2014年6月23日]
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