④大阪編・前

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 一

JR大阪駅から大阪環状線に乗る。

大阪環状線は低い家並みや中低層の小さなビルが立ち並ぶ市街地の狭間を走る。

同じ“環状線”である東京の山手線と比較しても、車窓の風景はローカル色が濃い。

大阪前R11

そんな電車に揺られること約12分、森ノ宮駅に到着した。

駅を出ると、まだ6月だというのに真夏のような暑さが身体に纏わりついてくる。

目の前を通る阪神高速道の高架下を西に向かって歩くこと数分。

白いフェンスが延々と続く一角が眼前に現れた。

この大阪城を間近に望む絶好の場所に、平成9(1997)年まで野球場があった。

日本生命野球場、略して“日生球場”。

大阪におけるアマチュア野球の“聖地”にして、近鉄バファローズが長きに亘り本拠地を置いていたスタジアムである。

その名の通り、日生球場は日本生命が自社の野球部用に戦後間もなく建造した球場。

このため戦後しばらくはアマチュア野球専用として使われていた。

しかし地理的に絶好の場所にあるこの球場を、プロが見逃すはずもなく。

郊外の藤井寺市に本拠地を置いていた近鉄球団が日本生命に対し、ナイター設備の設置を条件に球場の使用を提案。

これを日本生命も了承し、近鉄は本拠地を藤井寺球場に置いたまま昭和34(1959)年から日生球場を実質的な本拠地球場として試合を主催していく。

大阪前R12

格好の位置に歩道橋が立っていたので、そこに登ってフェンス内部の様子を見てみる。

敷地は新たな主となる施設の建設に向けて地割りされ、球場だった頃の面影はすっかり失われていた。

フェンスの中では大勢の作業員が忙しそうに動き回っている。

巨大なクレーンが立ち並び、重機が唸りを上げ、地面に掘られた穴にはコンクリートがドクドクと注ぎ込まれている。

ここにプロ野球チームが興業を打っていたスタジアムの存在した記憶など、既に歴史の彼方へ埋没しているかのようだ。

歩道橋を降り、フェンス沿いに球場跡を一周してみる。

歩道橋のある場所は昔、ちょうどメインスタンドがあった場所の前に位置している。

そこから一塁側スタンドから右翼スタンドの方面へ向かって歩いてみる。

大阪前R13

周囲は小規模な雑居ビルや個人商店、マンションなどが立て込んでいる。

あまり都心にいることを感じさせない、下町っぽい雑然とした雰囲気の中に球場はあったわけだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 二

近鉄が準本拠地として利用を始めてから四半世紀が過ぎた昭和59(1984)年。

藤井寺球場にナイター設備が完成し、近鉄は日生球場から実質的に撤退する。

プロ野球の興業という最大の収入源を失ったことに加え、戦後すぐに建てられた施設の老朽化と相まって、日生球場は平成9(1997)に閉鎖、解体された。

大阪前R21

その後、跡地は暫く放置されていたのだが、ようやく平成25(2013)年に用途が決定。

フェンスに掲げられた告示板によると、ここにはスーパー、家電量販店、スポーツジムなどができるそうだ。

一塁側スタンドと右翼スタンドの境目だったあたりに来た。

ここから外野スタンドがあった場所を、往時でいえば右翼から左翼へ向けて歩いてみる。

個人商店と民家が立ち並び、周囲に華やかさを演出するような要素は何もない。

道を挟んだ向かい側は何の変哲もない普通の住宅街だ。

ちょうどバックスクリーンとスコアボードのあった裏側あたりまで来た。

十字路を挟んだ反対側には小奇麗な公園が広がっている。

そこから右翼スタンドと三塁側スタンドの境目があったあたりへ。

その来る途中、外壁が黄色に塗られた劇場があった。

その劇場、名を「森ノ宮ピロティホール」という。

大阪前R22

球場が解体された理由のひとつとして、一帯に森ノ宮遺跡が存在していることもあった。

森ノ宮ピロティホールの地下には、森ノ宮遺跡からの出土品を展示した遺跡展示室がある。

ただし、一般に公開されるのは年に数日間だけとのことだ。

右翼スタンドと三塁側スタンドの境目があったあたりに着く。

ここは来るときに通り過ぎた場所で、件の歩道橋のあるあたりまでが三塁側スタンドが存在した場所、ということになる。

阪神高速の高架下を、再び歩道橋まで歩く。

日生球場の跡地には現在、ここに球場が存在したことを示すものは何もない。

ただ、歩道には野球場がデザインされたタイルが敷き詰められている。

このタイルだけが、昔ここに野球場に存在したことを主張しているかのようだ。

大阪前R23

再び歩道橋を登り、阪神高速の下をくぐって反対側へ渡る。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 三

森ノ宮駅の方角に向かうと、そこは大阪城公園の入り口。

中に入ると一直線に伸びる噴水の周囲では、好天に恵まれたせいか家族連れやカップルが思い思いに寛いでいる。

木立の中を通り抜け、大阪城音楽堂の前を過ぎ、東外堀と南外堀の間にある玉造口へ向かう。

大阪前R31

南外堀を挟んだ向かい側には一番櫓(いちばんやぐら)が見える。

二の丸南面の石垣の上には隅櫓が東から西へ7棟立っていた。

そのうち最も東側に位置しているので「一番櫓」の名が付いたそうだ。

ちなみに7つあった櫓のうち現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

玉造門は江戸時代、石垣造りの枡形が作られ、その上には多門櫓が立っていたという。

しかし幕末の動乱で多聞櫓は焼失し、維新後に大阪城を管理下に置いた陸軍の手で玉造門そのものと枡形が撤去された。

このため現在でも残っているのは入口両脇の石組みだけという。

玉造口から中に入り左折すると、城壁には鉄砲狭間が横一列に穿たれている。

外国人観光客が面白がって銃眼を覗いているが、「loophole(銃眼)」だと分かっているのだろうか?

内堀に向かって直進すると、突き当った右側に巨大な石碑が聳立している。

「蓮如上人碑」

かつてこの地に石山本願寺が存在したことを記したものだ。

大阪前R32

天文元(1532)年に京都の山科から移ってきた本願寺は、大坂の地を一大宗教都市に仕立て上げた。

しかし織田信長との間に対立が深まり、元亀元(1570)年から11年間に亘って「石山合戦」を繰り広げることに。

天正8(1580)年、両者は勅により和議に至るが、本願寺は大坂からの退去を余儀なくされて京都に移転。

天正11(1583)年、その本願寺と寺内町の跡地に豊臣秀吉は大阪城を築いた。

大阪の今に至る繁華は太閤殿下の築城に端を発するように思われがちだが、それより前に本願寺の門前町として繁栄していた“下地”があったことは意外と忘れられているようだ。

その石山本願寺の遺構は地中に埋まったままで、未だ確認されていない。

大阪前R33

石碑の前に小さな木の根っこが、コンクリートブロックに囲まれてヒッソリ保存されている。

この「蓮如上人袈裟懸の松」と伝わる木の根っ子だけが、石山本願寺が存在した唯一の証と言えるのかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 四

内堀を左側へ回りこむように先へ進むと、左側に豊国(ほうこく)神社が鎮座している。

ちなみに京都の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と読む。

大阪前R41

こちらの京都が本社で大阪は別院として明治12(1879)年、最初は中之島に建立された。

その後、別院から独立した神社となり、昭和36(1961)年に現在地へ遷座したものだ。

もちろん主祭神は秀吉公だが、秀頼公と秀長卿も合わせて祀られている。

一の鳥居と二の鳥居の間には豊臣秀吉像が、陣羽織姿のキリッとした出で立ちで聳立している。

秀吉像は中之島時代から存在したが、昭和18(1943)年に金属供出令により滅失。

現在の像は平成19(2007)年に完成した二代目で、彫刻家の中村晋也氏の手によるものだ。

像から一の鳥居へ向かう途中、狭い林の中に立つ小さな看板に目が止まった。

そこには「信州上田 幸村桜」と書いてある。

幸村とは無論、真田幸村のことだ。

大阪前R42

史実上の名は、真田信繁。大坂の陣で「真田丸」と呼ばれる砦を作り、徳川家康相手に激闘を繰り広げた。

その獅子奮迅ぶりは「日本一の兵(つわもの)」と絶賛され、今も大阪市民をはじめ多くの人に親しまれている…とある。

幸村が取り持つ縁で大阪城は平成18(2006)年10月、真田の御城である信州上田城と友好城郭提携を締結。

その後、上田市の有志から豊国神社にオオヤマザクラが奉納され、ここに花を咲かせているという次第だ。

その「真田丸」は2016年のNHK大河ドラマのタイトルにもなった。

そして今2014年は大阪冬の陣、来2015年は大阪夏の陣から、それぞれ400年という節目を迎える。

日生球場跡地から真南にある真田山公園は、かつて真田丸があった場所。

ここで2014年から2015年にかけて「真田幸村博」が開催される。

さらに2016年の大河ドラマへ、大阪、ひいては全国へ、没後400年を迎える真田幸村のブームが到来するに違いない。

大阪前R43

境内を出ると一の鳥居の横に「宮本茶屋」という売店がある。

大きな神社仏閣の門前によくある茶店で、焼そばや大判焼きなどを売っている。

その前に設えられた露天のテーブルで、大勢の観光客が休息している。

だが、よく見ると日本人の姿は皆無で、ほとんど外国人観光客の様子。

それも西洋人だけでなく東洋人、しかも東南アジアからの観光客も結構いる。

日本に観光旅行へ来ることのできる外国人は、以前なら経済的に余裕のある欧米人だけだったろう。

その経済的繁栄が昨今ではアジアにまで波及してきたことの証だと言えようか。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 五

宮本茶屋の前を通る道を左へ折れると、突き当りには大手門が聳えている。

ただ、大手門方面へ抜けると天守閣へ行くのが非常に面倒。

なのでここは大手門を後回しにし、目の前にある桜門から天守台へと入る。

大阪前R51

内堀にかかる橋を渡ると両側は空堀になっている。

内堀のうち空堀なのは、この箇所だけなのだとか。

ここは豊臣時代から空堀で、大阪の陣で徳川方が水を抜いたわけでもない由。

その後、寛永元(1624)年に徳川幕府が大坂城を再築した際も空堀にしたそうだ。

その理由は不明。
先例に倣ったのだろうか。

橋を渡ると、そこは本丸の正門に当たる桜門。
 
現在では国の重要文化財に指定されている。

寛永3(1626)年、徳川幕府によって創建された。

慶応4(1868)年に明治維新の大火で焼失したものの、明治20(1887)年に陸軍が再建し、今に至っている。

大阪前R52

門を中に入ると内側には「枡形」と呼ばれる一角がある。

本丸の正面入口を護るため、巨大な石垣で四角く囲んだスペースだ。

枡形は寛永元(1624)年、備前岡山藩主池田忠雄が手がけたもの。

石材はすべて瀬戸内海の島々から切り出された花崗岩を使用している。

大阪前R53

真ん中の石は「蛸石」と呼ばれる城内第一位の巨石。

左側は「振袖石」という巨石で、こちらは城内第三位。

創建当時、上には「多聞櫓」が設けられたが、やはり慶応4(1868)年の大火で焼失している。

この火災で巨石もダメージを受け、しかも戦時中に陸軍が地下に防空壕を掘ったりしたため、枡形は崩壊の危機に。

戦後になって枡形は修復されることとなり、損傷した石は原型に忠実な形へと加工された瀬戸内産の花崗岩に置き換えられた。

これほどまでに巨大な石材を瀬戸内海から遥々と運ばせ、石垣として累々と積み上げさせた権力の強大さときたら。

石垣の壮大さとは即ち、権力の強大さを象徴している証だと如実に思う。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 六

枡形を過ぎると目の前にあるのは旧大阪市立博物館。

昭和6(1931)年、旧陸軍第四師団の司令部庁舎として落成した建物だ。

同年に天守閣が再建された際、城址内に散在していた司令部の機能を統合すべく併せて建てられた。

大阪前R61

幸い戦災にも遭わず、戦後は連合軍接収後、大阪府警本部庁舎に。

昭和33(1958)年に府警が大手門前へ移転すると建物は大阪市の管轄下に。

内部の改装などを経て2年後の昭和35(1960)年、市立博物館として開館した。

展示内容を大阪の地域文化に特化し、当時としては珍しかったリージョナルな博物館として大きな役割を果たした。

平成13(2001)年、大阪府警の隣に開館した大阪歴史博物館に後を任せるかのように閉館。

その後は取り壊されるわけでもなく、ある意味“放ったらかし”である。

大阪前R62

時々イベントに使われる程度で、特に決まった活用法があるでもない。

軍事施設として頑丈に作られているため、普通のビルより取り壊しに経費が必要だから放置されているのだろうか?

そもそも頑丈ならば耐震強度は問題ないはず。

東京駅丸の内側駅舎のようにホテルとして再生すればいいのに。

でも、それはそれで泊まったら何か出そうで怖そうだ。

やはり元々が軍事施設だけに、大阪市としては解体して更地にでもしたいところなのだろう。

一方で、帝国陸軍が存在した証を今に伝える数少ない歴史的建造物でもある。

解体に踏み切らないのは、取り壊しを強行して批判を浴びた大阪砲兵工廠旧本館の二の舞いを怖れているからだろうか?

大阪前R63

旧市立博物館の前を通り過ぎると、いよいよ大阪城天守閣のお目見えだ。

天守閣一帯には国内外の観光客が続々と押し寄せている。

聞き耳を立てると、日本語より外国語での会話が圧倒的に多い印象。宮本茶屋のところで見た通りだ。

もはや大阪城は日本人が訪れる観光名所の域を脱し、外国人、特にアジア人観光客にとってのディスティネーションへ変貌したのだろう。

そんなことを思いつつ、天守閣を正面から眺めてみる。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 七

現在立っている天守閣は三代目に当たる。

初代は天正13(1585)年に豊臣秀吉が建立し、慶長20(1615)年に大坂夏の陣で焼失した。

戦後の学術調査によると太閤天守は今より東側、現在配水池のある場所に立っていたことが判明している。

大阪前R71

二代目は寛永3(1626)年に徳川幕府が現在の場所に建立。

この折、幕府は天守閣だけでなく、秀吉が築いた城郭に土を盛ってこれを埋め、その上に新たな城郭を築いた。

つまり世間一般では徳川が建てた城を見て「さすが秀吉は大層な城を作ったものだ」と“錯覚”しているわけだ。

ところが、これがどうにも大阪人には我慢ならない様子と見える。

そこで現在の城郭を掘り起こし、秀吉時代の石垣を発掘する作業が進行中。

大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してから400年を迎える2015年、その一部が公開されるそうだ。

徳川幕府が建てた二代目天守閣も、寛文5(1665)年に落雷を受けて焼失。

その後、長きに亘って天守閣が再建されることはなかった。

大阪前R72

三代目が建立されたのは先述の通り昭和6(1931)年。

昭和3(1928)年に当時の関一(せきはじめ)市長が復興を提案し、議会の賛同を得て推進委員会が発足。

すると市民からの寄付の申し込みが殺到、わずか半年で目標額150万円に達したそうだ。

当時の大阪城址には陸軍の司令部や大阪砲兵工廠など軍事施設が密集していた。

このため戦争を毛嫌いする大阪市民の気持ちが、天守閣再建を熱狂的に後押しした一面もあったのではないか。

三代目は恒久的建造物にするため木造ではなく、当時の最新建築工法だった鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用。

今でこそ超高層ビルは珍しくもなんともないが、地上55メートルというスケールは当時としては空前絶後の超高層建築だった。

大阪前R73

モデルとなったのは徳川幕府が建立した二代目ではなく、豊臣時代の大天守。

しかし豊臣時代の資料は殆ど残されていなかったため「大坂夏の陣図屏風」を根拠にデザイン。

その裏付けのため全国に残る桃山時代の建物などを調べ歩き、細かい部分に関する資料を集め歩いたのだとか。

デザインにせよ設計にせよ幾多の困難を乗り越えた甲斐あってか、工事のほうは順調に進捗。

こうして完成した天守閣は、近代建築による初めての復興天守閣となった。

しかも開城当初から内部は郷土歴史博物館として利用されている。

このコンクリート製の博物館というコンセプトは戦後、日本中にポコポコ建てられた復興・復元天守閣のモデルにもなっているのだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 八

大阪城一帯には軍事施設が集中していたため、昭和20(1945)年の大阪大空襲で集中的に狙い撃ちされた。

このため櫓など多くの建物を焼失したものの、天守閣は幸いにも無傷のまま終戦を迎える。

大阪前R81

それから時代が下ること半世紀余、コンクリ製の復興天守閣にもかかわらず平成9(1997)年には国の登録有形文化財に指定された。

確かに戦前、大阪城の天守閣が再建されなかったら、戦後になって全国の城址に天守閣が競うように建てられるという現象は起こり得なかったかも知れない。

ひいては明治維新以降、全国で“二束三文”状態で放置されていた城跡を、新たな観光資源として“再生”させるための“お手本”ともなった。

その意味では有形文化財としての価値は十二分に備えているように思える。

大阪前R83

天守閣の南側は「本丸御殿跡」という名の広場。

天守閣は江戸時代を通じて存在しなかったため、ここにあった本丸御殿で政務は執行されていた。

幕末には十四代将軍徳川家茂が長州征伐の指揮を執るなど、まさに幕政の中枢として機能していた。

しかし、やはり慶応4(1868)年に明治維新の大火で全焼。

明治18(1885)年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移築されたものの、これまた昭和22(1947)年に焼失。

以来ここに御殿が再建されることはなく、広場として整備され今に至っている。

広場の端に立ち天守閣の中に入ろうか悩んでいたとき、西洋人の女性から声をかけられた。

大阪前R82

振り返ると旅行者らしきカップルが微笑んでいる。

手にしているカメラのシャッターを押して欲しいとのこと。

耳に馴染む英語で語りかけてきたので、たぶんアメリカ人だろう。

首からカメラをぶら下げ一人でボーッと突っ立っていたので、いいカモだと思われたのかも知れない。

2人が天守閣を背景に並んだところで、はいポーズ!

こうした観光地でシャッターを頼まれることはままあるが、すべて日本人か西洋人のいずれか。

東洋系の外国人から頼まれたことは一度もない。

彼らは集団で行動しているから、赤の他人にシャッターを頼む必要性を感じないのかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 九

カップルにカメラを返して天守閣の入口へ向かうと、その横に据えられた二つの巨石が目に止まった。

元和6(1620)年の大坂城改修で、天領の小豆島から多数の用材石が運ばれてきた。

ところが加工されたものの改修に使われなかった結構な数の巨石が、そのまま島中いたるところに放置されているという。

それらの石を島では「残念石」と呼んでいるそうだ。

大阪前R91

天守閣前の両石は筑前福岡藩黒田長政と豊前小倉藩細川忠興、それぞれ小豆島の石切場で発見されたもの。

昭和56(1981)年に大阪と小豆島の両青年会議所が共同で企画し、ここに安置したと説明板には記されている。

重機もない400年も前に人力だけで加工された巨大な石。

その存在を通して豊臣と徳川の端境期、両家に使えた大名家の心境などに思いを馳せているうち、天守閣の中に入ろうという気持ちが失せてしまった。

天守閣の西側をグルリと回りこむように下っていくと「天守台下仕切門跡」に出る。

北から侵入する敵を防ぐため石壁が築かれていた場所だ。

それも単純な一枚壁ではなく二枚の壁を行き違いに配置し、壁を挟んだ南北間の往来を「仕切門」で管理するという念の入れようである。

だが、これも慶応4(1868)年に明治維新の大火で焼失している。

大阪前R92

ここを訪れた時から頻出し続ける、この「明治維新の大火」とは何だろう?

大坂城で薩長戦争の陣頭指揮を執っていた十五代将軍徳川慶喜。

だが、鳥羽・伏見の戦いの敗報に接するや城を密かに抜け出し、軍艦開陽丸で江戸へ“逃亡”した。

この過程は歴史ドラマなどで過去に幾度も描かれているので、よく知られた話である。

慶喜は城に残した幕軍の兵に「最後の一兵になっても決して退くな!」と厳命してあった。

迫り来る薩長軍を前に、指揮系統が急に消えてなくなった幕府軍は当然ながら大混乱。

その最中に本丸から出た火災で城内の建造物は軒並み焼失…これが「明治維新の大火」である。

大阪前R93

それにしても、戦に巻き込まれて散々な目に遭った当時の大坂市民にしてみたら、たまったものではなかったろう。

大坂城にあった十四代将軍家茂が病で急逝したため、慶喜は急遽その後を継いだ。

慶喜は歴代徳川将軍の中で、初めて大坂で即位した征夷大将軍なのである。

が、大阪市民の口から慶喜に対する愛着の言葉など、ついぞ耳にしたことはない。

大坂の陣で愛しき豊臣家を討ち滅した家康と、大坂を薩長戦争に巻き込んだまま江戸へ逃げ帰った慶喜。

大阪人の徳川嫌いは家康だけでなく、慶喜の“大坂を見捨てた”行動にも要因があるのではないかと思えてならない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 十

仕切門の後を北側へ抜けると山里口出枡形に出る。

北側に広がる山里丸と天守台の途中に設えられた枡形だったが、やはり維新の大火で焼滅し、現在では単なる四角い広場に。

大阪前R101

ここで、天守閣の写真を撮影している若い女性の姿を見かけた。

それも明らかに日本人ではない、アジア系の女性である。

先ほどアジア系観光客は団体が多いと書いたが、一方で若い女性の一人旅姿もチラホラ見受けられる。

大坂城のどこに惹かれて遠路遥々やってきたのだろう? 

機会があったら一度ぜひ聞いてみたいものだ。

出枡形から石段を降りて山里丸の曲輪へ。

ここには市内から出土したさまざまな刻印石が集められ、「刻印石広場」として整備されている。

「刻印」とは石垣に刻み込まれた多種多様の文様や記号のこと。

特に大名の家紋が刻まれた石は、徳川幕府による大坂城改修の際に石垣を築いた大名の持場を示したもの。

ほかにも石の産地や奉行の姓名など様々な“情報”が刻まれており、ひとつひとつ眺めているだけでも意味は分からずとも楽しい。

刻印石広場を西へ突っ切り、内堀の前あたりまで来たあたりの片隅に一基の碑がひっそりと立っていた。

その表面には「秀頼・淀殿ら自刃の地」と刻まれている。

大阪前R102

大坂夏の陣で天守閣が炎上し、山里丸へ逃れてきた秀頼と淀殿の母子だが、徳川軍に包囲され万事休す。

潜んでいた櫓の中で、秀頼は淀殿らと共に自害したと伝えられている。

その事実を後世に伝えるべく、この碑は大阪市が平成9(1997)年に建立したもの。

だが千客万来だった天守閣に比べ、この碑には訪れる人影も疎ら。

秀頼は享年23(満21)歳…とはいえ秀頼も淀殿も亡骸が確認されたわけではなく。

このため秀頼は家臣に護られ、どこかに落ち延びたという“生存説”が幾つも生まれた。

それはそれで面白そうな話ではあるのだが。

ここで秀頼が亡くなったとは限らないから、誰も訪れようとしないのか?

大阪前R103

山里丸から極楽橋を渡って内堀の外側へ出る。

内堀の石垣は寛永元(1624)年から始まった徳川幕府の大坂城再築第2期工事で、豊臣時代の“遺構”に盛り土を施して築造された。

内堀に面した石垣の角を中心に三層の櫓が11棟、二層の櫓が2棟そびえていたが、すべて明治維新の大火により焼失している。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 十一

内堀越しに壮大な石垣を眺めながら青屋門に向かう。

大坂城の石垣は他所に比べて規模が桁違いにデカい。

積み上げられた個々の石そのものからして巨大なのだ。

大阪前R111

天守閣前の「残念石」でも触れたが、瀬戸内から運ばれた堅牢かつ良質な大量の花崗岩が大坂城の壮大な惣構を支えていたわけだ。

石垣の構築は幕府が西国と北陸の諸大名64家に命じ、それぞれの石高に応じて分担する石垣の長さを割り当てた。

黒田家と細川家の「残念石」が天守閣前に据えられていたのも、両家が幕府から石垣の構築を命じられたためだろう。

諸大名は組み分けされ、「丁場」と呼ばれた担当区域ごとに出来栄えを競わされ、その優劣に連帯責任と個別責任を負わされた。

このため諸大名は自ら担当した丁場を誇示するかのように、積み上げる石に家紋などの刻印を丁寧に彫り込んだという。

こうして幕府は諸大名の競争心を煽る一方、普請総奉行に“築城の名手”と謳われた藤堂高虎を起用。

当時、完成の域にあった築城技術を以って再築されたため、大坂城の石垣は高度に洗練されているのだという。

そう言われて眺めてみれば、単なる石垣の域を超えた、どこか芸術作品のようにも見えてくるから不思議だ。

大阪前R112

お堀端を歩くうち、青屋門の前に来た。

改修工事中の門を通りぬけ、外堀の外側に出る。

青屋門の建立は徳川幕府の大阪城再築第1期工事が始まった元和6(1620)年ごろと推定。

桜門と同様、明治維新時の火災で焼失し、陸軍によって再建された。

しかし昭和20(1945)の空襲で再び焼失し、今度は大阪市が昭和44(1969)に残材を用いて再建した。

改修工事中の青屋門は外側がグレーのシートで覆われている一方、内側は木材の構造が剥き出しになっている。

工事を担当しているのは国宝や重要文化財に指定されている建築物の修理を専門に扱う「鳥羽瀬社寺建築」という会社。

社名から伊勢か鳥羽の社寺の関連会社かと思いきや、宮大工の棟梁である社長の名前から来たものだった。

大阪前R113

青屋門を出ると正面には大阪城ホール、右に折れると「太陽の広場」が広がる。

その入口に「砲兵工廠跡」と刻まれた石碑が立っている。

旧大阪市立博物館のところで少しだけ触れた、大阪砲兵工廠の旧本館があった場所である。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 十二

大阪前R121

大阪砲兵工廠は明治3(1870)年に創設された官営の兵器製造工場だった。

日清、日露、第一次世界大戦と戦争を経るごとに規模が拡大。

明治時代末期に敷地は大阪城東側全域、玉造門のあたりまで広がった。

従業員数も6万人強に膨れ上がり、アジアでも最大規模の軍需工場に。

太平洋戦争が始まり大阪市内も空襲を受けるものの、大阪砲兵工廠の被害は軽微。

しかし終戦前日の昭和20(1945)年8月14日、大阪砲兵工廠を狙い撃ちにした大規模な空襲を受け、設備の90%が破壊された。

それでも幾つか建造物は残り、歴史的建造物として保存運動が起こったり、文化庁が戦争遺跡として調査を指示したりしていた矢先の昭和56(1981)年。

大阪市は突如こうした保存に向けての動きを無視し、象徴的な建造物だった旧本館の解体に踏み切った。

廃墟同然の建物群がいつまでも都心部に放置されている状況に、治安上も風致上も問題があったのは確かに理解できる。

とはいえ、こうした時代物の建造物は一旦取り壊すと復元は二度とは不可能。

建物群を保存しながら一帯を再開発することはできなかったのだろうか?

先出の大阪市立博物館もそうなのだが、こうした“戦争遺構”を大阪市は抹消していきたいのではないか? そんな指向性を感じる。

大阪前R122

大阪城ホールと太陽の広場の間を通り抜けると、大きな噴水の向こう側に水上バス乗り場があった。

ここ大阪城港から観光水上バス「アクアライナー」が発着する。

眼前を流れる第二寝屋川を出発した「アクアライナー」は天満橋、淀屋橋、大阪アメニティパーク(OAP)を周航するコースをたどる。

とはいえ乗船することもなく、ベンチに腰掛け、対岸に林立する大阪ビジネスパーク(OBP)の高層ビル群をボンヤリと眺める。

現在OBPが立地している場所もまた、終戦までは大阪砲兵工廠の敷地だった。

歴史の継承という“過去”と経済の振興という“現在”。

両者のバランスを取りながら都市を発展させていくことは難しいことなのだろうか?

そんなことを考えていたら、不意に背後から子供たちの歓声が聞こえてきた。

「おじいちゃん、こっちこっち!」
「ほらほら、危ないで!」

振り向けば、大坂城港ターミナルへ向かう老夫婦と若夫婦、それに小さな姉弟の三世代一家の姿。

これから“舟遊び”にでも興じるのだろうか?  子供たちはハシャぎ、若夫婦は声を荒らげ、その光景を老夫婦はニコニコと見守っている。

この一家のように、大阪の街も上手く歴史を継承してくれたらいいだが。

大阪前R123

ベンチから腰を上げ、噴水から一直線に伸びる広い道を歩く。

奥には大阪城公園駅。

隣の森ノ宮駅から約1時間半かけて遠回りした、大阪城の彷徨だった。

[旅行日:2014年6月23日]
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