広島と福岡を結ぶ高速路線バス「広福ライナー」はは1日に昼間9往復。
1往復だけ運行されいる深夜便のみ広島ではなく福山が発着地となる。
JR九州バスと中国バスが隔日で運行し、この日はJR九州バスの担当日だった。
広島に到着直前の早朝5時半ごろ、宮島サービスエリアで休憩。
お土産売り場にはもみじ饅頭が山ほど並び、広島カープのグッズも充実。
停車時間は僅かながら、眺めているだけでも楽しめる。
午前6時過ぎ、広島バスセンターに到着。
広島県庁などが立ち並ぶ市の中心部ながら、土曜の早朝だけに歩いている人の姿は疎ら。
曇天下で小雨がパラつく中を市街地へ向けてプラプラ歩き出す。
ひとまずサウナで旅の汗を流し、午前10時ごろ原爆ドームへ。
早朝から内外問わず大勢の観光客が訪れている。
原爆ドームが広島県物産陳列館として開館したのは大正4(1915)年4月のこと。
設計者のヤン・レツルは母国チェコと日本で主に活動し、彼の“作品”は主に両国にしか残されていない。
特に日本では聖心女子学院や上智大学、雙葉高等女学校など東京の名門クリスチャン学校の校舎をデザインしたが、すべて関東大震災や東京大空襲で滅失。
戦後まで残っていた宮城県営松島パークホテルと宮島ホテル(広島)も、火災で焼失した。
レツルが日本国内で設計した建物のうち現在まで残っているのは皮肉にも広島県物産陳列館、つまり原爆ドームしかない。
原爆ドームは残されるべくして残された建物では決してない。
戦後、広島市が高度経済成長期へと駆け上がる途上で原爆ドーム存続の是非が問われ続けていた。
被爆の悲惨な記憶を思い起こさせるという理由から取り壊すべしという意見も根強かったのだ。
それに対して広島の人々が下した決断は“保存”。
その後3度に及ぶ保存工事を経て今に至るのだが、今後も大気汚染や酸性雨など環境の激変に耐え得る保証はどこにもない。
いっそのこと東大寺大仏殿のような、原爆ドームそのものを保護する覆堂が必要なのではなかろうか。
来2015年は広島県物産陳列館が落成してから丁度100周年。
そして1945年の原爆投下から70周年というダブルで節目の年に当たる。
原爆ドームの役割は単に核兵器の恐ろしさを後世に伝えるだけに留まらない。
戦後日本が焦土の中から再出発した、まさに“原点”でもあるはず。
昨今の集団的自衛権行使や原発再稼働といった“愚行”と向き合う上でも、日本人は原爆ドームの存在意義を再認識してみるべきではないだろうか。
[旅行日:2014年6月21日]