②広島編

キャッスル&ボールパーク②広島編 一

広島1-1広福ライナーR01

広島と福岡を結ぶ高速路線バス「広福ライナー」はは1日に昼間9往復。

1往復だけ運行されいる深夜便のみ広島ではなく福山が発着地となる。

JR九州バスと中国バスが隔日で運行し、この日はJR九州バスの担当日だった。

広島に到着直前の早朝5時半ごろ、宮島サービスエリアで休憩。

お土産売り場にはもみじ饅頭が山ほど並び、広島カープのグッズも充実。

停車時間は僅かながら、眺めているだけでも楽しめる。

広島1-2原爆ドームK01

午前6時過ぎ、広島バスセンターに到着。

広島県庁などが立ち並ぶ市の中心部ながら、土曜の早朝だけに歩いている人の姿は疎ら。

曇天下で小雨がパラつく中を市街地へ向けてプラプラ歩き出す。

ひとまずサウナで旅の汗を流し、午前10時ごろ原爆ドームへ。

早朝から内外問わず大勢の観光客が訪れている。

原爆ドームが広島県物産陳列館として開館したのは大正4(1915)年4月のこと。

設計者のヤン・レツルは母国チェコと日本で主に活動し、彼の“作品”は主に両国にしか残されていない。

特に日本では聖心女子学院や上智大学、雙葉高等女学校など東京の名門クリスチャン学校の校舎をデザインしたが、すべて関東大震災や東京大空襲で滅失。

戦後まで残っていた宮城県営松島パークホテルと宮島ホテル(広島)も、火災で焼失した。

レツルが日本国内で設計した建物のうち現在まで残っているのは皮肉にも広島県物産陳列館、つまり原爆ドームしかない。

原爆ドームは残されるべくして残された建物では決してない。

戦後、広島市が高度経済成長期へと駆け上がる途上で原爆ドーム存続の是非が問われ続けていた。

被爆の悲惨な記憶を思い起こさせるという理由から取り壊すべしという意見も根強かったのだ。

それに対して広島の人々が下した決断は“保存”。

その後3度に及ぶ保存工事を経て今に至るのだが、今後も大気汚染や酸性雨など環境の激変に耐え得る保証はどこにもない。

いっそのこと東大寺大仏殿のような、原爆ドームそのものを保護する覆堂が必要なのではなかろうか。

来2015年は広島県物産陳列館が落成してから丁度100周年。

そして1945年の原爆投下から70周年というダブルで節目の年に当たる。

原爆ドームの役割は単に核兵器の恐ろしさを後世に伝えるだけに留まらない。

戦後日本が焦土の中から再出発した、まさに“原点”でもあるはず。

昨今の集団的自衛権行使や原発再稼働といった“愚行”と向き合う上でも、日本人は原爆ドームの存在意義を再認識してみるべきではないだろうか。

広島1-3原爆ドームK01

[旅行日:2014年6月21日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 二

広島2-3広島球場跡K05中

原爆ドームから相生通りを挟んだ向かい側に広大な空き地が広がっている。

広島東洋カープの本拠地として数々のドラマを生んできた旧広島市民球場の跡地だ。

平成21(2009)年、広島駅の近くにMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島がオープンするのと共に、半世紀以上に及ぶ歴史に幕を降ろした。

昭和25(1950)年に誕生したカープは当初、
広島港近くの広島総合球場(現・Coca-Cola West野球場)に本拠地を置いていた。

しかし市の中心部から遠く、観客の収容人員数も少なく、ナイター設備もないので、新しい球場を建設することに。

建設場所は紆余曲折を経て、ここ中央公園の一角に決定。

昭和32(1957)年7月24日、旧広島市民球場は「広島対阪神」戦でこけら落としを迎えた。

現在はフェンスに囲まれた敷地内に、昼間のみ足を踏み入れることができる。

ホームベースがあった場所は、朝に降り立った広島バスセンターからほど近いところにある。

マウンド(があったはずの場所)に立ち、周囲をグルリと見渡すと、カープの黄金期が脳裏に浮かんでくる。

新たな本拠地は出来たもののカープは結成以来、優勝とは無縁のチームだった。

特に昭和40年代は巨人が9年連続日本一を達成したこともあり、まさに“蚊帳の外”。
そんなカープが初めて優勝したのは球団結成から四半世紀後の昭和50(1975)年のこと。

優勝を決めたのは残念ながら広島市民球場ではなく、後楽園球場での巨人戦だった。

ちなみにカープのチームカラーが“赤”になったのは、この年から。

古葉竹識監督のもと、センター山本浩二、サード衣笠祥雄、エース外木場義郎ら“赤ヘル軍団”の戦いぶりが、広島のみならず日本中に“赤ヘル旋風”を巻き起こしたことを思い出す。

広島2-1広島球場跡KR01本

マウンド付近から今度はバックスクリーンがあった場所まで歩く。

三塁側からホームベース方向、そして一塁側へ、ゆっくりと視線を巡らせてみる。

広島が初めて日本シリーズを制したのは4年後の昭和54(1979)年。

日本一を決めたのもまた広島市民球場ではなく、大阪球場での近鉄戦だった。

第7戦、9回裏無死満塁という絶体絶命のピンチを奇跡的に抑え切った江夏豊のピッチングは「江夏の21球」として今も語り草だ。

広島は翌55(1980)年も日本シリーズを制して連覇を果たす。対戦相手は前年と同じ、近鉄だった。

日本一を決めた第7戦が開催されたのは、ここ広島市民球場。

開場から23年、広島市民球場に初めて日本一という“頂点”が齎されたのである。

センターからライト側へ歩いていくと、そこにライトスタンドが残されている。

平成24(2012)年、広島市民球場はライトスタンドを残して解体された。

今やプロ野球の応援では当たり前になっているトランペットの演奏やジェット風船は、すべてここ広島市民球場のライトスタンドから全国に広まったものだ。

こうした“日本初”の功績を伝える説明板がライトスタンドの近くにでも立ててもらえるといいのだが。

跡地の活用法については未だ先が見えない様相。

現在のところ緑地広場、文化芸術施設、スポーツ複合型施設などが候補に登っている。

ここに何を作るのかは広島市民が決めることであり、何が出来てもあまり感心はない。

だが、ここに新たな施設が建設されれば、広島市民球場の“フィールド”には二度と立てなくなる。

そうしたささやかな楽しみを味わえるのも今のうちかと思う。

広島2-2広島球場跡R01


[旅行日:2014年6月21日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 三

rj21広島城K01

広島市民球場跡から北へ向かい、広島グリーンアリーナの間を通り抜けて広島城へ。

広島城は天正17(1589)年、毛利輝元が築城を開始。

その前年に上洛して豊臣秀吉に謁見した輝元は、京の聚楽第や大坂城を目の当たりにして近代城郭の必要性を痛感した。

中国地方一帯を治めることができる城と城下町建設のために選んだ城地こそ、祖父元就が重視した瀬戸内海際の湾頭。

「広島」と命名されたのは、この時だったともいわれている。

グリーンアリーナを抜けて広い通りに出ると、広島城の天守閣が遠くにボウッと浮かんでいるように見える。

築城開始から2年後の天正19(1591)年、輝元は広島城へ入城。

ただ、完成していたのは本丸など主要部分だけで石垣や堀は未完成のまま。

その後も工事は進められ、ようやく慶長4(1599)に落成した。

翌5(1600)年に関ヶ原の戦いで西軍は破れ、総大将の輝元は「周防・長門」の二国に追いやられる羽目に。

中国120万石から防長37万石へ、徳川家康の手で毛利家は一介の田舎大名に“格下げ”と相成った。

取り潰しに遭っても不思議ではなかったが、名家好きだった家康の“お目こぼし”に与ったのだろう。

その“情け”が300年後に仇となるわけだから歴史とは面白いものだ。

rj22広島城R01

二の丸へと続く御門橋を渡り、表御門をくぐる。

平成元(1989)年、広島城築城400年を記念して二の丸の整備がスタートした。

戦前から残された写真や図面、発掘調査を基に、江戸時代の姿を現代に蘇らせる計画。

平成4(1992)年に御門橋と表御門が先行して完成し、同6(1994)年には残る平櫓、多聞櫓、太鼓櫓も完成。

内部は無料で見学できるので、さっそく上がり込む。ちなみに土足厳禁だ。

表御門に隣接する平櫓への階段を上がると、西へ向かって多聞櫓が続き、一番奥に太鼓櫓が立つという配置になっている。

さて、毛利家に代わって新たな広島城の主となったのは福島正則。

「賤ケ岳の七本鑓」一番鑓一番頸でおなじみ、豊臣恩顧大名の筆頭格。

秀吉の死後に石田三成と対立し、関ケ原の戦いでは東軍に属して勝利に貢献した。

合戦後、家康は論功行賞で旧毛利領の安芸・備後両国を正則に与える。

正則は城郭の整備を進めるとともに、町割りを改造して商業を勃興させるなど、現在の広島市の原型をほぼ確立させた。

とまぁ、広島市にとって正則は結構な恩人じゃないかと思えるのだが。

毛利家や後の浅野家に比べると、どうしても「豊臣を裏切り徳川に寝返った」ネガティブなイメージが付きまとうため、両氏の狭間で埋没しがちなのかも知れない。

多聞櫓に穿たれた三角形の鉄砲狭間から、外側の堀と石垣を覗きこんで見る。

rj23広島城R04

[旅行日:2014年6月21日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 四

rj31広島城R03

正則は元和4(1618)年に行った広島城の普請を幕府から咎められた。

元和元(1615)年制定の武家諸法度で定められた事前の届出が不整備だったことが、その理由。

二代将軍徳川秀忠は正則に対し、修復した石垣・櫓の原状回復など条件を呑めば赦罪すると告げる。

幕府の地盤が盤石ではない状況下、豊臣恩顧の筆頭大名である福島家を改易することが他の恩顧大名に影響を及ぼすことを懸念したのだろう。

ところが正則はことごとくサボタージュして更なる幕府の怒りを買い、結局お取り潰しと相成る。

豊臣恩顧の大名として矜持を捨てきれなかった正則のプライドに、豊臣恩顧の大名を一刻も早く一掃したかった家康の思惑が上手く嵌った成果かと思える。

多聞櫓を奥まで進み太鼓櫓へ。

その名の通り、往時はここから太鼓の音で時間を知らせていた。

太鼓楼には大きな太鼓が置かれ、誰でも自由に叩くことができるようになっている。

さて、福島正則に代わって新たな広島城の主となったのは、紀伊和歌山城主の浅野長晟(ながあきら)。

広島城に入城したのは元和5(1619)年のこと。

正則が整備した諸制度を踏襲し、さらに補強して藩の統治機構を完成させた。

その後、浅野家は十一代にわたって芸備42万石を支配し、明治維新を迎える。

というわけで広島城の主を最も長く務めたのは浅野家なのだが。

太鼓櫓の壁には毛利家の家紋「一文字三星」が大きく掲げられている。

どうやら広島市では広島城を“毛利の城”として推していきたいように見える。

二の丸を後にして本丸へ渡る。

枡形の中御門跡をクランク状に通り抜け、本丸の下段を突っ切り、石段を登って本丸上段へ。

正面には大本営前庭築山、その後ろ側に広島大本営跡が広がる。

rj32広島城R05

明治27(1894)年、ここに日清戦争を指揮する大本営が建造された。

明治天皇以下、諸大臣から帝国議会議員まで東京から一斉に移転し、戦時中は広島が一時的な首都に。

日清戦争終結後に大本営は解散するも建物は残され、戦前は国の史跡に指定されていた。

無論、現在では礎石だけが往時の面影を今に伝えている。

大本営跡の左上には広島城の天守閣が聳えている。

天守閣は毛利輝元により建造されたものが明治維新後も破却されずに残され、戦前には文化財として国宝にも指定されていた。

天守閣だけでなく城内に構造物は数多く遺されていたのだが、それらはすべて原爆により悉く破壊され、灰燼に帰してしまった。

現在のそれは昭和33(1958)年に再建された鉄筋鉄骨コンクリート製の復元天守閣。

コンクリの外壁を木材で覆い、なるべく往年の姿を彷彿とさせる努力が施されている。

内部は復元天守閣によくある博物館だが、展示内容に興味を惹かれなかったので中に入ることなく天守閣を後にした。

rj33広島城K02

[旅行日:2014年6月21日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 五

rj41MスタR06

広島城を後にして紙屋町の電停から広電に乗車。

土曜日の昼下がりということもあって車内は結構な混雑ぶりだ。

市電にゴトゴト揺られること約15分でJR広島駅に到着。

既に南口は赤いユニフォーム姿の人たちで一杯で、特に今話題の“カープ女子”の姿が目立つ。

“カープ女子”とはマスメディアの中にしか存在しないと思っていたので、実際に目の当たりにして少々オドロキ。

ここからJRの線路に沿って西ヘ向かって歩くこと15分ほど。

異様な形状をした巨大建造物が姿を見せ始める。

新広島市民球場、通称「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島」。

略してマツダスタジアム、広島東洋カープの本拠地だ。

今日はセ・パ交流戦「北海道日本ハムファイターズ対広島東洋カープ」を観戦しに来たという次第。

駅前から球場までの道は球場建設に合わせて整備されたわけではない。

このため近辺は球場の敷地が貨物駅だった時代からの雰囲気が漂っている。

ただマツダスタジアムの開場以降は訪れるファンに合わせた町並みに変貌し、今も球場の近辺は再開発工事の真っ最中。

あと何年かすれば周辺の街並みは一変しているかも知れない。

そのうちマツダスタジアムにつながる専用スロープの入口に到着した。

rj42MスタK02ゲートブリッジ


ここからスタンドまで階段もなく車椅子でもスムーズにアクセスでき、なかなかバリアフリーを考慮した設計。

「スタジアム」とは「観客席を備えた大規模な競技場」の意味だが、ここマツダ“スタジアム”は競技場というより、アメリカで野球場のことを指す「ボールパーク」という表現がピッタリ。

新球場建設に当たって担当者は国内外の野球場を徹底的に調べ上げ、その結果を元に斬新な野球場を設計。

近年のメジャーリーグ界は本拠地球場に採算性を重視した多目的型ドームを避ける傾向にある。

このトレンドに乗ってマツダスタジアムも屋根のない全面天然芝のオーソドックスな専用野球場に。

建設用地の都合上、左右非対称の設計にならざるを得なかったが、それを逆手に取り国内では他に類を見ないユニーク形状となった。

スロープから続くメインゲートを入ると、幅広で段差のないコンコースが客席の外側をグルリと取り囲んでいる

まずは自席に向かう前、コンコースを通ってスタンドの様子を観察してみる。

観客席は砂かぶり席や寝そべり席、パーティー席、テラス席、バーベキュー席などバラエティに富み、一人でも大人数でも用途に応じてチョイスできるのは秀逸。

野球を楽しむという目線から評価すれば、間違いなく日本一の“ボールパーク”ではないか。 

rj43MスタK06一右びっくり

[旅行日:2014年6月21日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 六

rj51MスタK03本一

自席へ着きスタンドを見渡すと一面カープファンで真っ赤っ赤!

日本ハムのファンはスタンドの片隅に追いやられ、まさに「カープ一色」という以外に言葉が見当たらない。

しかし、そんな場内のムードとは裏腹に3回、日本ハムが2点先制。

5回にも2点追加し、早くもカープ4点のビハインド。

これはこのまま押し切られちゃうかなぁ…と思った矢先の5回裏。

カープは長短計9安打のメッタ打ちで、何と一気に8点をゲットして逆転!

しかも5回裏が終わった途端に雨脚が強まり、1時間ほど中断の末そのままコールドゲームでカープの勝利!

中途半端な幕切れで終わった試合ではあったが、カープの猛攻を拝めた挙句の逆転勝利で球場の雰囲気も悪くなし。

初めて直接この目でマツダスタジアムを見ることが出来ただけでも、いい経験になった。
 

rj52

雨の中をJR広島駅まで戻り、再び広電で八丁堀電停へ。

ビル街を北へ抜けて裏通りに入り、向かったのは広島お好み焼きの原点ともいえる店「みっちゃん」総本店。

人気店なれど開店直後だったせいか行列が出来ているわけでもなく、カウンターに余裕で着席。

そば入りスペシャルを注文すると、店員が「鉄板か皿か?」とクエスチョン。

鉄板はコテで直接食べるスタイル、皿は乗っけられ運ばれるスタイルのこと。

食べ慣れている人なら鉄板でいいのだろうけど、不慣れな観光客の自分は皿で。

ビールを注文してグビグビ飲みつつ、目の前で焼き上がる過程をジッと凝視。

目の前で幾つもの具材が焼かれ、重ねられ、一つの料理へと変貌していく一連の流れは広島お好み焼きならでは。

焼きあがったお好み焼きが皿に盛られ、目の前に運ばれてきた。

確かに鉄板から直接コテで食べたほうが、アツアツを楽しめそうである。

おたふくソースのコッテリ味が効いたお好み焼きを、冷たいビールで流し込む…まさに至福の組み合わせ。

バランスの取れた味わいは老舗ならでは。

だが、まだそれほど他店のお好み焼きを食べたことがないので、ここが最高かどうかは分からない。

とはいえ広島お好み焼きの“基準”としては申し分ないかと思える。 

rj53みっちゃん06

[旅行日:2014年6月21日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 七

「みっちゃん」を出て、八丁堀から居酒屋を求めて流川へ。

夜の街をそぞろ歩く途中で「お花」という居酒屋を発見。

店構えに惹かれるようにフラフラと入るも、生憎と15分ほど待たされる。

ただ、それだけ人気店という証だろうし、飛び込みで入った割には待たされていないほうかも知れない。

カウンターに案内され、さっそく店の代名詞といえる穴子の活造りと、西条の地酒「亀齢」を注文。

活造りというだけあって刺身にされても穴子は頭をヒクヒクさせている。

その身は白くコリコリして味わいは淡白、淡麗な亀齢と良く合う。

rj61お花06

次は殻付き焼き牡蠣と、今度は竹原の地酒「竹鶴」。

焼いた牡蠣の香ばしく濃厚な風味が、これも濃厚な竹鶴にマッチする。

穴子の骨の部分を揚げて「せんべい」にしてもらい、呉の地酒「雨後の月」と共に。

素揚げした穴子の香ばしさを、雨後の月のフルーティーな味わいが洗い流していく。

広島の地酒と素材のマリアージュを存分に楽しめる点で理想的な居酒屋。

少々値は張ったものの、それ相応の価値を十分に楽しめたと思える。

店構えを見てピンと来た直感、まさにアタリだった。

「お花」を後にし、宿へ。今宵は流川のカプセルホテルを予約してある。

ここは良くも悪くも“昔ながら”のサウナ/カプセルホテル。

小奇麗なスーパー銭湯や健康ランドが至るところに存在する中、昭和の雰囲気を漂わせている。

チェックインは入口で下駄箱に靴を入れて鍵をフロントへ持って行き、代わりにロッカーの鍵を受け取るスタイル。

フロントの対応は親切かつ丁寧で、なかなか好印象だった。

浴室は大きいのだが、今どきのスーパー銭湯などに比べると古臭さは歴然。

だが、むしろ個人的にはバブル期のようなプチ懐かしさを思い起こさせる。

風呂から上がり、食堂で飲み直し。

ここにも20世紀の時間が流れている。

ロッカーキーの番号で会計し、チェックアウト時に精算するシステムは食券制よりしっくりくる。

定食のおかずのような料理を肴に酎ハイのグラスを重ねるうち、今が昭和なのか21世紀なのか、頭の中の時間軸が揺らいできた。

カプセルに入ると室内のテレビはブラウン管と、ここにも昭和の残照が。

ただ、コンセント完備なので携帯やパソコンが充電できるのは現代風だ。

スーパー銭湯や健康ランドといった昨今の入浴施設に比べれば、施設全体に漂う時代遅れっぽさは否めない。

しかし昭和末期から20世紀末にかけてサウナ/カプセルホテルを愛用した自分にとっては、過去へのプチ時間旅行すら提供してくれた。

ブラウン管のボヤけた映像を眺めつつ、タイムマシーンに乗ってる気分のまま眠りに落ちた。

rj62
 
[旅行日:2014年6月21日]
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