キャッスル&ボールパーク

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 九

神阪編R091

ゲームが終わり、京セラドーム大阪を出て阪神ドーム前駅へ。

しかし時間が多少あったので電車には乗らず、夜の大阪をブラブラ散策することにした。

市立西中学校の前から千代崎方面へ向かい、スーパー玉出の前を通り、茨住吉神社の裏手へ。

すると、いつしか松島新地という「御伽の国」に迷い込んでいた。

ここは戦前「松島遊廓」として隆盛を極めた色街。

戦後も赤線「松島新地」として営業していたが、昭和33(1958)年の売春防止法施行により廃止された。

…はずなのだが、なぜか現在でも軒先に紅灯を掲げている店がチラホラ。

街には古風な遊郭造りの建物が散見され、昔の建物が好きな向きには興味深い一角ではあるのだが。

それに「御伽の国」にしては灯りも少な目で概ね薄暗く、寂し気ではある。

こうした昔ながらの“伝統性産業”は時代遅れで、廃れる傾向にあるのだろうか。

そんな「御伽の国」に深入りすることもなく、スッと通り過ぎた。

神阪編R092

地下鉄で梅田に出、深夜の喧騒を横目に毎日放送とホテル阪急の隙間をスリ抜けてバスターミナルへ。

23時40分発、満員の乗客を乗せた夜行高速バスは梅田茶屋町のターミナルを出発した。

京セラドーム大阪を訪れることができ、ひとまず心残りは晴れたものの。

心のどこかに積み残した荷物が引っかかっているような気がして仕方がない。

オリックス・ブルーウェーブの本拠地だったグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)にも行ってないし、中日ドラゴンズの本拠地ナゴヤドームとナゴヤ球場も気になる。

東京スカイツリーを発ってから約24時間後の翌朝6時50分、バスは新宿の東京都庁前に到着した。

しかし、これで旅が終わったわけではない。

まだまだ日本中に“プロ野球遺産”は残っているのだ。

次はどこへ行こうか? そんなことを思いながら、通勤ラッシュが始まりかけた新宿の雑踏へ足を向けた。

神阪編R093

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 八

神阪編R081

ブルーウェーブとバファローズの両チームから優秀な選手を最初に確保できるという、あからさまにオリックスに有利な制度。

だが、チームが発足した平成17(2005)年以降、オリックス・バファローズが優勝したことは1度もない。

一方、新参者ゆえ“残り物”を押し付けられた格好の東北楽天は初年度、プロ野球史上に残る歴史的惨状で最下位に沈没。

その後も暫くは低空飛行を続けるもチーム発足9年目の平成25(2013)年、初めてパ・リーグを制覇。

初出場した日本シリーズでも巨人を4勝3敗で退け、分配ドラフトで優先的に選手を確保したオリックスに先んじ、初めて日本一の座に就く。

2つのチームから優良選手を集めて一つのチームにしたところで必ずしも強くなるわけではなく。

机上の計算が現場での成績に直結するわけでもないことを、オリックスは証明した格好になったわけだ。

そのオリックスは今季好調で、合併以降初の優勝も狙える位置にいる。

西宮球場で見た阪急ブレーブスと、日生&藤井寺球場で見た近鉄バファローズ、それぞれの幻影。

しかし、両チームが統合されたオリックス・バファローズに、阪急も近鉄も残影はどこにもない。

今季オリックスが日本一になることができれば、ここ京セラドーム大阪に新たな“幻影”が浮かび上がることができるのだろうか?

試合は結局、東北楽天の投手陣がオリックスをそのまま零点に抑え、2対0で勝利。

しかも甲子園のヒーローにしてルーキー松井裕樹のプロ入り初勝利というオマケ付きだった。

神阪編R082

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 七

神阪編R071

話を京セラドーム大阪に戻そう。

今日の試合は「オリックス・バファローズvs東北楽天ゴールデンイーグルス」第10回戦。

チケットは予め金券ショップで購入済み。

というのもバファローズには「アドバンスチケット」という非常に優れた入場券が存在する。

これがあれば低廉な料金で優等シートを、当日席が空いていれば指定することができる。

この日は幸い3塁側のS指定席をゲットできた。

中に入ってスタンドからスタンドをグルリと見回してみる。

今季のバファローズは好調で上位に位置しているが、その割に観客動員数は芳しくないように見える。

阪神タイガースの圧倒的な存在感の前に、どうしてもバファローズは影が薄くなりがち。

だが京セラドーム大阪の設備は他のドーム球場、例えば東京ドームや札幌ドーム、ナゴヤドームに劣っているわけではない。

指定席に着くと前の席に小さな送風口が設えてある。

最初見た時は何のために存在するのか不思議だったが、暫くして納得。

ここから吹いてくる風が意外と心地よいのだ。

特に暑さの厳しい日は、いかに屋内とはいえ扇子や団扇でパタパタしたくなるもの。

その点この“背もたれ送風口”、なかなかのグッドアイデアだ。

しかし風が前方から吹き付け続くので、喉が乾く。

そうなるとスタンド下にある売店に足繁く通い、ビールの杯を重ねることとなる。

座席送風システムはビールの売り上げにも若干は貢献しているのかも知れない。

試合は4回表、東北楽天が外国人選手ザック・ラッツのホームランで2点を先制。

平成16(2004)年、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併騒動が産み落とした新興球団、それが東北楽天ゴールデンイーグルスだった。

合併オリックスと新興東北楽天が発足する際、選手は「分配ドラフト」によって両チームに振り分けられた。

分配ドラフトとはオリックスと大阪近鉄の全選手をふるいに掛けること。

当然ながら優先権は大阪近鉄を吸収するオリックスにあった。

まずオリックスが全選手の中から25選手を確保し、次に東北楽天が20選手を選定。

それからオリックスと東北楽天が順番に20選手ずつ選び、最後まで残った選手はオリックスが引き取った。

神阪編R072

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 六

神阪編R061

阪神本線から尼崎駅で阪神なんば線に乗り換え、降り立った駅の名は、ドーム前。

そう、ひとつだけあった「どうしても晴らしたい心残り」とは、京セラドーム大阪を訪ねること。

西宮、日生、藤井寺、そして大阪スタジアムと野球場の跡地を巡る旅の終着点である。

京セラドーム大阪こと大阪ドームは平成9(1997)年に開場。

東京ドーム、福岡ドームに次いで日本で3番目に誕生したドーム球場である。

藤井寺球場に本拠地を置いていた近鉄バファローズが開場と同時に移転したのは第五章「大阪・後編」で詳述している。

しかしバファローズも大阪ドームも、その後は数奇な運命を辿る。

もともと大阪ドームは大阪市主体の第三セクターによって建造、運営されていた。

ところが役人主導の商いが上手く行くはずもなく、第三セクターは平成16(2004)年に破綻。

奇しくも同年、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズが合併し、新生球団オリックス・バファローズが誕生。

この合併はオリックスが近鉄を吸収したようなもので、近鉄はプロ野球経営から撤退してしまった。

オリックスの歴代記録に阪急ブレーブスは継承しているも近鉄バファローズは含まれていない。

第五章「大阪・後編」にも書いた通り、やはり近鉄にバファローズの歴史だけを展示したギャラリーを作って欲しいところだ。

さらには同18(2006)年にオリックスグループが大阪ドームの施設と第三セクターの株式を買収。

ここに球団とスタジアムが同一会社の経営下に置かれることとなった。

思えば阪急も南海も西宮球場に大阪球場と、自社所有のスタジアムを本拠地にしていた。

近鉄も藤井寺球場は自社所有だったが、日生球場と大阪ドームの“間借り”時代も長かった。

近鉄が球団を手放したのは大阪ドームに支払う高額の使用料が負担だったことも一因としてある。

ただでさえ阪神タイガースに人気が一極集中している関西で、球団と球場の経営が分かれているのは明らかにマイナス。

球団と球場を一体的に運営できれば球団経営が楽なのは間違いない。

親会社の関連企業が管理・運営するため、施設改修やサービスがスムーズに図られ、使用料もグループ内の資金移動で収まるため。 

だが、これが現在できているのは12球団中5チーム(埼玉西武、中日、オリックス、阪神、福岡ソフトバンク)のみ。

あとは東京の2球場を除き、自治体が所有する球場に本拠地を置いている。

東京の2球場を保有しているのは東京都でもなければ読売新聞やヤクルト本社でもない。

東京ドームは株式会社東京ドームが、神宮球場は明治神宮が、その名の通り保有しているわけだ。

神阪編R062

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 五

神阪編R051

話を神戸空港に戻すと、ここはスカイマークの拠点空港だけに数多くの機材が駐機している。

成田/関空間でLCCを利用した場合、各空港までのアクセスに時間がかかるのがネック。

その点スカイマークは羽田発着だし、神戸から大阪市内までの時間は関空からのそれと大差なさそう。

運賃差がネックだがLCCも時期により運賃が変動するので、スカイマークのバーゲン価格と大差ない場合も出てくる。

時期と運賃を勘案すればLCCよりスカイマークのほうが低価格で利用できる可能性があるわけだ。

展望デッキを降りてポートライナーの駅へ向かう。

ターミナルビル内は時間帯のせいもあってか人影は疎らだ。

神戸空港は神戸港という優良国際港湾が近い地の利を活かし、旅客便より国際航空貨物の取扱に注力したほうがいいのではなかろうか?

伊丹や関空との“三位一体”ではなく神戸港との“湾空一体”で運営すれば、相乗効果も期待できるだろう。

そもそも空港島には土地が余っているのだから、いくらでも貨物ターミナルを建てられるはず。

さらにポートアイランドとの間に2本目の橋をかけて円滑な物流を促進させ“国際貨物港”としての地位を確立すればよい。

いずれにせよ、こんな優良“箱モノ”物件が巨大な躯体を海上に横たえている姿を見ると、もう少し何とかならないものかと思えてならないのだ。

ポートライナーで神戸空港駅から三宮駅まで18分しかかからない、実は非常に利便性の高い空港である。

しかも先述の通り「ベイ・シャトル&ポートライナーセット券」を利用したので、改めて乗車券を購入する必要はない。

ポートライナーは無人の新交通システムなので乗務員は不在。

この辺り、東京お台場を走る「ゆりかもめ」と共通しているが、だいぶポートライナーのほうが先輩。

スピードが遅いのも「ゆりかもめ」と共通しているが、この点は更に大先輩の東京モノレールとも大差ないように思える。

ポートライナーは特急を新設するなどして、三宮と空港が直結しているメリットを高めて欲しいところだ。

ガラガラのポートライナーは僅かばかりの乗客を乗せて神戸空港駅を出発。

車窓に広がる埋立地の荒涼とした風景をボーッと眺めていると、各駅に停まるたび乗客がドッと乗り込んで来る。

終点の三宮駅へ到着した時に車内はギュウギュウの満員状態と化していた。

三宮駅はポートライナー以外にもJR、阪急、阪神、地下鉄が乗り入れている一大ターミナル。

地上3階のポートライナー駅から地下2階の阪神駅へ。

同じ“三宮”駅とはいえ乗り換えは結構ハードだ。

神阪編R052

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 四

神阪編R041

12時31分、神戸空港海上アクセスターミナル桟橋に到着。

ここから神戸空港ターミナルビルまで、また無料アクセスバスに乗車する。

ただ、歩いても5分程度の距離なので荷物がなければ歩いたほうが早いかも知れない。

それ以前にベイ・シャトルは関空から神戸三宮へのアクセス手段としては、あまり利便性が高いとは言えまい。

関空と神戸空港をダイレクトで連絡する必要でもなければ、さほど意味のある手段ではなかったように思える。

関空のポートターミナルをホテル日航関西空港の前まで移動して、第1ターミナルから歩いて行けるようにすれば利用者数も増えると思うのだが。

愛称“マリンエア”こと神戸空港は、コンパクトでこじんまりとした空港だ。

神戸空港が建設されたとき、大阪国際(伊丹)空港や関空と重複することから“非効率的な公共事業”として世間から非難されていた記憶がある。

1階が到着階、2階が出発階に分かれ、3階がレストラン街、その上は屋上で展望デッキになっている。

レストラン街には洋食店、うどん屋、たこ焼き屋、牛すじ屋、上島珈琲店など神戸ならではの飲食店が軒を連ねている。

神戸発祥の上島珈琲株式会社は一般に「UCC」という略称のほうが知られている。

上島珈琲店はUCCが運営する喫茶店舗で東京にも多数出店しており、その数は神戸の店舗数より圧倒的に多い。

また、今回は立ち寄ることがなかったが牛すじ屋「壱成」は、飛行機に乗る用事がなくても来たいと思える店。

旅客機を眺めながら牛すじ煮込み豆腐や豚モッチーズなどを肴にキリンビールの「ハートランド」やバーボンハイボールを味わえるとは、なかなかのもの。

次に関西から帰京する時は伊丹でも関空でもなく神戸空港まで来て、「壱成」で一杯やってから帰ろう…そう心に決めてみる。

展望デッキに上がってエプロンを眺める。
 
成田第1ターミナルに続き本日二港目だ。

飛行機マニアはもとより、若いカップルや小さい子供を連れたファミリーなどが思い思いに時を過ごしている。

展望デッキには鮨屋が出店しており、抜群の眺望を楽しみながら寿司を堪能できそう。

しかし懐具合との兼ね合いもあり、牛すじ屋ほどまで食指は動かない。

そういえば関空では展望デッキに上らなかった。

関空の展望デッキは第1ターミナルにはなく、少し離れた関空展望ホールスカイビューというビルにあり、ここでも無料シャトルバスのお世話になる必要がある。

ちょうどベイ・シャトルのポートターミナルと道路を挟んだ反対側にあるので、ここで出港まで時間を潰しても良かったかもしれない。

ただしスカイビューから直接ポートターミナルへ歩いては行けないので、一旦ターミナルに戻る必要があったりと非常に面倒くさい。

それにしても関空島内の移動は無料シャトルバスがないと話にならないようだ。 
 
神阪編R042

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 三

神阪編R031

今回、第1ターミナルから先は鉄道でもリムジンバスでもなく、神戸空港まで高速船「ベイ・シャトル」を利用してみた。

ターミナルビルの片隅にあるチケット売り場へ行き、自動販売機の前で運賃を確認していると係員が中から出てきた。

「神戸まで行かれるなら高速バスのほうが早くて安いですよ」

なんと商売っ気のない会社なのだろう。

とはいえベイ・シャトルに乗ること自体も目的のひとつ。

「いえ、船で行きます」
「三宮まで行かれますか?」
「ええ」

そうと答えると係員は自動販売機の「ポートライナーセット券」ボタンを勝手に押して手渡してくれた。

1850円のセット券にはベイ・シャトルの片道乗船券代とポートライナーの片道運賃が含まれている。

通常運賃なら乗船券代だけで1850円だけに、ポートライナー代330円が丸々オトクになる計算。

とはいえ約30分の船旅と謳ってはいるが、それは“正味”の乗船時間。

運航間隔は約1時間に1本、しかも乗船場まで無料シャトルバスに乗る必要もある。

さらには、既に連絡バスを待つ長い行列ができているではないか。

車体の大きさは普通の路線バスのそれなのだが、なにせ船1便につきバス1便しかないので大混雑。

荷物が一杯あるお金持ちはタクシーで行ったほうが無難、たぶんワンメーターで済むはずだ。

バスがポートターミナルに到着すると即乗り換え。

正午、ベイ・シャトル「かぜ」号は間を置かずに関空を出港した。

天候も良く、海も荒れることなく、スムーズな航海。

車内にはフェリーによくある桟敷はなく椅子席のみ。

船内に売店はないが、ちょうど昼時でもあり昼食にする。

関空の第1ターミナルをウロウロしていた時、551蓬莱の豚まんとサッポロ黒ラベルを調達していたのだ。

前回なんばパークスを訪れた際、行こうと思つつ結局足を運ばなかった551蓬莱への“仇”を、ようやく神戸への船内で討つ(?)ことができた。

豚まんにかぶりつくと中から肉汁がジュワッと溢れ出し、それをビールで喉の奥へグビッと流し込む。

蓬莱の豚まんは美味しいのだが、いつまでも後味が残るところがいまひとつ。

そこが関東の人間には違和感を覚えるところかも知れない。
 
神阪編R032
 
[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 二

神阪編R021

今後、国際路線の羽田移転が続出する事態になれば、成田は眼前のA滑走路だけで発着枠を充足できるようになるのではないか?

だとしたら第2ターミナルやB滑走路を全て取り壊し、東京ビッグサイトや幕張メッセよりも大規模な国際コンベンションセンターを建てたほうが、よほど日本経済にとってメリットがある気がする。

世界はおろかアジア諸国と較べても、日本国内のコンベンションセンターは小規模で数も少ないのだ。

世界に冠たる経済大国を自認する“ものづくり国家”の割に、その成果を内外に顕示する施設が余りにも貧弱なのだ。

その点、成田空港は国際航空路線が直接乗り入れ、都心から鉄道路線や高速道路が通じ、周辺にはホテルも数多い。

これほどコンベンションセンターの立地に最適な場所は他にない。

それに空港反対派が所有する土地も、周囲がコンベンションセンターの敷地になれば存在意義を失うことになる。

さらに横風用のC滑走路も建設を中止して跡地に新ターミナルを建設すれば空港のスポット数も増やせるだろう。

A滑走路の対岸に見える燃料タンクの群れを眺めながら、不完全なままで運用され続ける成田空港の未来を、そんな感じで案じてみた。

午前9時5分、ピーチ・アビエーションMM112便は成田空港を定刻通り出発。

今回ピーチを選んだのは先日搭乗したジェットスター・ジャパンと比較するため。

使用機材は同じエアバスA320を使用しているが、内装は個人的にジェットスターのほうが好み。

ピンクが基調のピーチには、どことなく野暮ったさを感じてしまう。

あえて事前に座席を予約せずどこにアサインされるか試してみたところ、機体後方の通路側を指定された。

前方を見渡すと座席が結構埋まっている。ざっと見て搭乗率は8~9割程度といったところか。

隣の2席には関西の中年夫婦が座っている。やはり関西人の利用者が多いのだろうか。

約1時間半のフライトを経て午前10時35分に関西国際空港へ到着し、LCC専用の第2ターミナルへ。

ボーディングブリッジこそなかったものの、ランプバスを使うこともなく徒歩でターミナルビル内に入れた。

第2ターミナルはLCC用だけに作りは簡素で、まるで巨大な倉庫の中にいる気分。

ここへは現在ピーチしか就航しておらず、広い施設を持て余している感じだ。

第1ターミナルにはエアロプラザ行き無料シャトルバスで移動する。

同じLCCでもジェットスターは日本航空とのコードシェア便ということもあって第1ターミナルから出発していた。

ターミナルの利便性だけに限ればピーチはジェットスターより見劣りするかも知れない。
 
神阪編R022

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑥特別編 一

神阪編R011

早朝6時半、東京スカイツリー。

この下にある京成押上駅から成田空港線アクセス特急で成田空港へ向かう。

通勤時間帯の前、しかも都心から郊外への電車とあって車内は閑散としている。

福岡から広島、関西の御城と球場を巡ってから早10日が過ぎた。

しかし、どうしても晴らしたい心残りがひとつだけある。

それを成就すべく再び大阪へ向かうことにした。

ただし時間的な猶予は24時間。明朝までには東京へ戻って来なければならない。

早朝7時半、成田空港駅に到着した。

改札を出て第1ターミナルへ向かうと、昔ながらの身元チェックみたいな愚行を相変わらずやっている。

空港建設に反対する過激派のテロ対策なのだろうが、羽田が本格的に国際化している現在では成田の存在意義は希薄になってしまった。

そのため成田は格安航空会社(LCC)の就航に活路を見出そうとしているのに、その一方で多額の予算を組んで身元チェックを続け、その経費を空港使用料として利用者に負担させている。

こんな馬鹿げた矛盾が相変わらず続いているのは、一度構築したシステムを決して手放そうとしない醜悪な官僚主義の為せる業としか思えない。

まぁ、この身元チェックも平成27(2015)年の春で取り止めになるそうだが。

周囲を取り巻く社会的な環境の変化に迅速な対応ができない組織のお粗末さに、日本の空港がアジア諸国から遅れを取った理由が透けて見えるようだ。

出発時刻まで間があるので展望デッキで飛行機でも眺めようかと、南ウイングでチェックインを済ませた後エスカレーターを伝って階上へ向かう。

羽田空港に代わる日本の空の玄関口として華々しく開港した成田も、開港から30年以上が経過した今となってはレトロな雰囲気すら漂うほど古ぼけてしまった。

それはNAA(成田国際空港株式会社)も認識しているのか、ところどころで改装工事が行われている。

4階のフードコードへ行くと早朝にもかかわらず結構な数の利用者で席が埋まっていた。

みな国際線でも機内食の出ないLCCの利用者なのだろうか?

成田が「日本の玄関口」から「格安航空旅行の窓口」へ、体質の改善に迫られた証かも知れない。

5階へ上がり展望デッキに出る。

駐機場に横たわる旅客機は数多いが、時間帯的に早いせいか離着陸する機影は見当たらない。

それでも幸い好天に恵まれたせいか“スポッター”と呼ばれる飛行機マニアの姿もチラホラ散見される。

神阪編R012

[旅行日:2014年7月2日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 二十

過去にプロ野球を題材にした漫画劇画は星の数ほどあったが、南海ホークスがテーマの作品は「あぶさん」ぐらい。

しかも連載の初期は南海が低迷していた地味な時代だけに、野球漫画というより野球を下敷きにしたヒューマンストーリーみたいなもの。

それでも門田や山本が「あぶさん」に実名で登場したからこそ、全国的に知名度が高かったという面もある。

スポーツ新聞の紙面では片隅のベタ記事でも、月2回発行される「ビッグコミックオリジナル」では堂々の主役を飾る。

「あぶさん」がホークスを世に広めた功績は計り知れない。

それでも昭和末期の大阪球場に閑古鳥が鳴いていたのは、南海ホークスが漫画の世界にしか存在しない架空の球団だと多くの読者が勘違いしていたせいか。

大阪後R201

9階から屋外の階段を降りて8階へ。

そこには円形の劇場が設えてある。

すり鉢状に配置されたベンチは大阪球場のスタンドを彷彿とさせる。

すり鉢の底に当たるステージ部分にはホームベース型のモニュメントが埋め込まれている。

大阪球場のスタンドは傾斜が急なことで有名だった。

もともと狭い敷地に建てた上、スタンドの下にテナントを誘致するために傾斜角度を上げ、なんと37度にも達していた。

おかげでフィールド全体を眼下に収めることができ観戦しやすかった。

反面、階段も恐ろしく急角度で、酔っぱらいが転げ落ちるという事件がよくあったそうだ。

屋外の階段をブラブラしながら降り、2階のキャニオンストリートへ。

ここには大阪球場でホームベースとマウンドプレートが存在した場所と全く同じ位置に、ホームベースとマウンドプレートのモニュメントが埋め込まれている。

阪急西宮ガーデンズと同様、ここにも南海のホークスと大阪球場に対する愛が垣間見えるようだ。

大阪後R202

なんばパークスを後にし、南海なんば駅へ向かう。

先ほど見た551蓬莱が脳裏を一瞬よぎったが、立ち寄ることなく関西国際空港行きの電車に乗り込んだ。

新宿を立ち、福岡から広島を経て、西宮から大阪へと巡ってきた4泊4日の旅も、そろそろフィナーレ。

関空20時45分発、成田行のジェットスター・ジャパンGK210便に搭乗。

かと思いきや、ダイヤが乱れて20分のディレイ。

初めてLCCを利用したのだが、この程度のことは我慢の範囲内なのだろうか?

21時05分、ジェットスターのエアバスA320はようやく関空を離陸。

機窓に輝く大阪の夜景を眺めながら4日間にわたる旅の思い出を、ひとり噛み締めたのだった。

大阪後R203
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十九

大阪後R191

日本シリーズでは巨人相手に1勝4敗で敗退。

ちなみに巨人は9連覇最後の年である。

この年の日本シリーズ、ひょっとしたら10年ぶりに阪神が対戦相手になるところだった。

セ・リーグは8月まで6チームが3ゲーム差の中にある大混戦。

シーズン終盤に突入すると阪神が残り2試合で1勝すればリーグ優勝というところまで漕ぎ着けた。

しかし残り2試合目で中日に逆転負けを喰らい、優勝決定は翌日の最終戦に持ち越される。

そしてシーズン最後の試合となった甲子園での巨人戦は、勝ったほうがリーグ優勝という“決定戦”に。

そんなシチュエーションに緊張でガチガチの阪神は、優勝慣れした巨人の前に大惨敗。

一方の巨人は大どんでん返しの末にセ・リーグ9連覇を達成。

川上哲治監督歓喜の胴上げが始まるか…と思いきや。

怒り狂った阪神ファンが大挙してグランドになだれ込み、巨人ナインは一斉に逃走。

それを追いかける阪神ファンはダグアウトに殺到して巨人の選手たちを襲撃。

世界のホームランキング王貞治までもが阪神ファンから下駄で殴られるという散々な有り様で、これでは胴上げどころの話ではない。

巨人が日本シリーズでこの時の鬱憤を南海にぶつけたおかげで圧勝…したのかどうかは定かではない。

時代は下って平成15(2003)年の日本シリーズもまた、阪神タイガース対ホークスの組み合わせとなった。

ただホークスといっても南海ではなく、福岡に移転したダイエーではあったが。

南海と阪神が対戦した1964年から約40年、再び相まみえたホークスとタイガースは4勝3敗で、またしてもホークスに軍配が上がった。

この時、福岡ダイエーを率いていたのは奇しくも王貞治監督。

30年前に阪神ファンから下駄で殴られた怨恨を、ここで晴らしたおかげで日本一になれた…かどうかは定かではない。

いずれにせよ阪神との因縁はホークスが南海から福岡ダイエーへと変わっても渋太く続いている様子。

果たして福岡ソフトバンクのホークスと日本シリーズで対戦する日は来るのだろうか?

大阪後R192

メモリアルギャラリーを出ると、あぶさんの手形が展示してあった。

水島新司の「あぶさん」は昭和48(1973)年から平成26(2014)年まで「ビッグコミックオリジナル」に40年以上にわたって連載された最長不倒の野球漫画。

主人公の景浦安武は南海ホークスがパ・リーグで最後に優勝した昭和48(1973)年に入団。

平成21(2009)年オフに現役を引退するまで、ダイエーからソフトバンクへホークス一筋37年。

背番号「90」は現実の福岡ソフトバンクホークスでも永久欠番扱いで、誰も付けていない。

大阪後R193

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十八

大阪後R181

残る定岡智秋は昭和46(1971)年にドラフト3位で入団し、昭和50年代の南海内野陣を支えた遊撃手。

…というより、個人的には“定岡三兄弟”の長兄という記憶しかない。

というのも次男の正二は甲子園のスーパーアイドルにして長嶋巨人のドラフト1位投手という、まさにキラ星のごときスター選手だった。

当時のマスコミは右を向いても左を見ても「巨人巨人巨人」と、今でいう「偏向報道」状態。

なので南海以外のプロ野球ファンは「正二の兄もプロ野球選手」という、今にして思えば非常に無礼なスタンスで書かれた記事しか目にしていなかったのではなかろうか?

しかも当時の南海で二遊間を組んでいた河埜敬幸もまた、巨人の遊撃手だった河埜和正の弟。

これまた記事のニュアンスは自ずと「南海の二遊間は巨人にいる選手の兄弟同士」というものになりがちだった。

それもこれも当時のプロ野球界が「巨人と取り巻きの5球団と番外地の6球団」だった時代ゆえのこと。

そもそも南海を扱った記事そのものを目にする機会が少なかったわけだから、そうした傾向になるのも止むを得なかったように思う。

それはともかく、後に三男の徹久も広島に外野手として入団し、三兄弟そろってプロ野球選手となった。

三選手とも顕著な働きを見せて球史に名を刻んだというわけではないが。

それでもこうして今だに名前が上がるのは引退後にタレントとしても活躍した正二のお陰なのかもしれない。

ただ、智秋には2人の弟と決定的に異なる点がある。

それは智秋の次男、卓摩もまたプロ野球選手になったことだ。

兄弟選手は普通に見かけるが、プラス親子二代に亘ってというのは、なかなか珍しい。

それにしても、なぜ定岡のバットが門田や山本と並んで展示されているのか、その根拠がいまひとつ分かりにくい。

だが定岡三兄弟を通じてプロ野球の歴史をこうして俯瞰できるわけだから、地味ながらも堅実な守備でチームを支えていた現役時代と同じような役割を果たしていると言えよう。

ユニフォームとサインバットの下には表彰状が2枚、並べて展示されている。

一枚は昭和41(1966)年、パ・リーグで優勝した時のもの。

日本シリーズでは巨人相手に2勝4敗で敗退。
 
ちなみに巨人は9連覇の2年目である。

もう一枚は昭和48(1973)年、当時行われていたプレイオフを制しパ・リーグで優勝した時のもの。

南海ホークスとしては最後の優勝となったこの年、監督は野村克也プレイングマネジャー。

野村監督関係の記念品で展示されているのは、この賞状1枚だけと言えるかもしれない。

大阪後R182

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十七

大阪後R171

そんな中で迎えた9月30日、シーズン最後の試合、故郷福岡ドームでの福岡ダイエー戦。

このシーズンで山本は初めて1軍に登録された。

本人が引退を決意していない以上、引退試合ではない。

これはチームを去る山本に近鉄が用意した餞別に等しき舞台だった。

既に福岡ダイエーのリーグ優勝決定後の消化試合ではあったが、山本の近鉄退団を知っているファンでスタンドは埋まっている。

9回表で4対4の同点という場面で迎えた山本の最終打席。

対戦投手は14勝無敗という驚異的な成績を挙げた篠原貴行。

ここで山本は3ボールナッシングというカウントから、篠原が投げ込んだ速球を打ち返す。

打球は一閃、外野スタンドに吸い込まれて勝ち越しホームランとなり、試合はそのまま近鉄が勝利。

試合終了後は福岡ダイエーの優勝祝賀セレモニーが予定されていたが、その前に山本はファンの声援に応えて場内を一周。

古巣である福岡ダイエーのファンから大歓声を浴びた山本は「これ以上の感動を与えるプレーは今後、もう作り出せないだろうな」との感慨を覚え、バットを置く決意を固めたという。

最後の最後で地獄の釜の蓋が全開し、再び天国に召還された。

なかなか神様も粋な幕切れを用意したものである。

山本のプロ初ヒットは入団4年目の1980(昭和55)年5月10日、西武戦で松沼雅之から放ったホームラン。

ホームランで始まりホームランで締めくくったプロ野球人生だった。

現在は「カズ山本」という芸名で芸能活動を行う傍らホークスジュニアチームのコーチや、故郷の「北九州市立子どもの館」で館長を務めている。

初安打も最後の安打も近鉄の選手として放ったものだし、19年間のプロ野球人生で大阪球場でプレーしたのは僅か6年間でしかない。

それでも山本は「大阪球場が最高の球場」と言い放ち、「ホークスファンこそ最高の野球ファン」と公言して憚らない。

大阪から福岡へ、2つのホークスを舞台に絶望と希望という二幕を演じた稀代のプレーヤーだった。

ここにサインバットが並べられるのも当然の帰結だろう。

大阪後R172

そのサインバットから、ずいぶんと長話になってしまった。

それぐらい門田と山本のプロ野球人生は強烈だったのだ。

数多いた名選手の中から両者のサインバットを選んだところに、南海電鉄がホークスに対して抱く思いが透けて見えるようだ。

2人が所属した球団も南海(→福岡ダイエー)、近鉄、オリックス(元阪急)とパ・リーグの在阪球団ばかり。

狭いエリアの中で練り上げられた濃密な人間関係があったからこそ、2人とも波瀾万丈の現役生活を乗り越えることができたのだろうか。

フランチャイズが日本中に散らばってしまった現在のパ・リーグに、第2の門田や山本の登場を期待するのは難しいことかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十六

大阪後R161

転機が訪れたのは平成6(1994)年。

それまで山本はドラキュラに似た風貌から「ドラ」というニックネームで呼ばれていた。

しかし「ドラじゃ子どもがいじめられる」と、シーズン途中にもかかわらず選手登録名をカズ山本に変更した。

改名効果もあってかシーズン打率は自己最高の3割1分7厘を記録し、パ・リーグの打撃成績で2位に輝く。

ちなみに首位打者はオリックスのイチローで打率は当時のパ・リーグ新記録となる3割8分5厘。

イチローが鈴木一朗から改名したのも同じ1994年だが、彼は開幕から使用していた。さすが改名の先輩だけある。

それはともかく、近鉄をクビになって10余年。

カズ山本は年俸2億円を突破し、球界の頂上へと上り詰めた。

しかし「好事魔多し」とは、よく言ったもの。

ところが翌7(1995)年の開幕早々、試合中に右肩を亜脱臼する怪我を負い、ホークス移籍後最低の成績でシーズンを終える。

しかも頂上に立ったはずの2億円という高額年俸が逆に仇となり、38歳という高齢と相俟って、なんと山本は生涯2度目に自由契約に。

2年間のうちに天国と地国の両方を味わうという、神も仏もビックリな体験である。

ところが「拾う神あれば捨てる神あり」とは、よく言ったもの。

翌8(1996)年、山本を拾ったのは14年前にクビを斬った近鉄バファローズだった。

再び大阪に戻ってきた山本は“天国”福岡時代を封印すべく、登録名を元の山本和範に戻す。

生まれ故郷の川へ成長して帰えって来た鮭の如く、古巣へ復帰した山本を近鉄ファンも暖かく迎え入れた。

福岡ダイエーのファンと新たな近鉄のファンの熱意が融合したのか、この年のオールスターゲームに初めてファン投票で出場。

これに応えるかのごとく山本は故郷の福岡ドームで行われた第1戦に代打で登場、決勝ホームランを放ちMVPに輝く。

地獄の釜の蓋が少し開き、その隙間から天国が垣間見えた瞬間だった。

なかなか神様も粋な計らいをしてくれるものである。

とはいえ高齢で移籍してきた山本にとって、シーズン通じてのフル出場は難しいところ。

平成11(1999)年オフ、当季1度も1軍に上がることのなかった山本に、近鉄は生涯3度目となる戦力外通告を行う。

まだまだ現役続行への意欲を見せていた山本だったが、42歳という年齢がネックとなってか今度は獲得の意志を示す球団は現れなかった。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十五

大阪後R151

昭和51(1976)年、福岡県北九州市の高校からドラフト5位で近鉄バファローズに入団。

投手として獲得されるも酔っ払った仰木彬監督から失格を言い渡され、入団一週間目にして野手に転向する。

2軍では通用しても1軍では結果に結びつかない時期が長く続いた挙句、昭和57(1982)年に自由契約となり退団。

他に行くアテもなく北九州に帰ろうと思っていた矢先、同僚からバッティングセンターのアルバイトを紹介される。

住み込みの仕事で寝泊まりと食事は無料だが、給料はナシ。

それでも閉店後に打ち込みを重ね、練習しながらお呼びがかかるのを待っていた。

そんなある日のこと、南海の穴吹義雄監督から声がかかった。

昭和58(1983)年に南海へ入団し、晴れてプロに復帰する。

それも入団テストなどない即契約で。

穴吹は2軍監督時代、対戦相手だった山本の実力を高く評価していたという。

それが獲得につながったのだ。人間、どこか誰が見ているか分からないものである。

南海の一員となった山本は、自分に見切りを付けたプロ野球界を見返してやろうと決意。

もともと難聴というハンデを抱えていたこともあり、自由契約と難聴の二重苦を克服するために猛特訓に次ぐ猛特訓を重ねる。

あまりに重ね過ぎて、急性肝炎で一か月間も入院したほど。 

その甲斐あってか翌59(1984)年に外野のレギュラーに定着。

翌60(1985)年には初めて全試合フル出場。

翌61(1986)年にはオールスターゲームに監督推薦で初出場、そして初のゴールデングラブ賞を受賞する。

外野守備で聴覚は打球の行方を追うためになくてはならないもの。

その点、難聴というハンデを抱える山本の外野守備が評価されたのは、それだけ守備のクオリティが他の受賞者と比べても遜色がなかった証であり、画期的なことだった。

山本はトントン拍子に出世し、南海のレギュラー外野手として不動の地位を築く。

さらに平成元(1989)年、南海がダイエーに買収され、ホークスは山本の故郷である福岡県に移転することとなった。

チームに福岡県出身の選手は少なく、山本は地元出身の選手として人気ナンバーワン選手に。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十四

大阪後R141

ただ野村の忠告が持つ意味は、それだけではなかった。

プロの選手として門田の体格はさほど大きくなく、一発狙いの打撃フォームが肉体に与える負荷が大きい。

このようなバッティングを続けていれば、いつか大きな怪我につながる懸念もあったろう。

その懸念は的中し、昭和54(1979)年2月のキャンプ中に右足のアキレス腱を断裂。

3ヶ月間の入院と半年間のリハビリで1年を棒に振る羽目に。

翌55(1980)年には1軍に復帰するも、足を怪我したため俊足と堅守は影を潜めてしまった。

やむなく指名代打専業になるも、そこは門田。

「ホームランなら足に負担がかからないから全打席で狙うよ」

負けず嫌いか天邪鬼か? いずれにせよ長打狙いの打撃に、ますます磨きをかけていく。

この結果、昭和56(1981)、同58(1983)、同63(1988)年と3度も本塁打王に輝くことに。

特に63年は打点王との二冠王、しかも“不惑”の40歳で獲得したもの。

当時は40歳を超えての本塁打王など前代未聞の出来事。

チームが優勝していないにもかかわらずパ・リーグの最優秀選手(MVP)を獲得した。

ヘソ曲がりっぷりは翌年のホークス売却でも遺憾なく発揮された。

福岡への“移転”を拒否し、これまた同年に阪急の身売りで誕生したオリックス・ブレーブスへ志願のトレード。

ただ、このトレードでオリックス側に放出を余儀なくされる選手も出てくるため、門田に対して“身勝手”との批判も一部にあった。

平成3(1991)年、門田は福岡の地に渡り、再びホークスに復帰する。

今度はトレードではなく、オリックスを自由契約(解雇)になった上での移籍である。

翌年のシーズン終了後、門田は現役を引退する。

現役時代に積み重ねたホームランの数は567本。

在りし日に門田を2人がかりで説得した王(868本)と野村(657本)に続く歴代3位の記録に達していた。

それにしても、ここまで波瀾万丈なプロ野球人生を送った選手など他にいないだろう。

そう思って右側に並ぶサインバットを見たら、ここにいた。

山本和範。またの名をカズ山本。

彼のプロ野球人生は波瀾万丈に加えて劇的という要素も多分に加わっている。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十三

ところが親会社は変わっても杉浦が解任されることはなく、そのまま福岡ダイエーホークスの初代監督として留任。

昭和が終わり平成が始まった1989年、シーズン終了を以って杉浦は監督を退任する。

同時代を生きた長嶋茂雄や野村克也らと比べれば地味な引き際のようにも見えるが。

アッサリとした引き際はデカダンスの香り漂うインテリゲンチア的ピッチャーだった杉浦にとって、この上なく相応しいようにも思える。

激動の20世紀が終わり、新世紀を迎えた平成13(2001)年11月11日。

杉浦は札幌市内のホテルで急性心筋梗塞により急逝する。66歳という若さだった。

昭和の終焉とともにグランドを去り、20世紀の終焉ともに現世を去った杉浦。

その記憶の痕跡は福岡ドームではなく、かつて大阪球場が存在した地の片隅に、ひっそりと佇んでいるのだ。

大阪後R131

杉浦監督のユニフォームの右側には、スラッガー3人のサインバットが並んでいる

左から門田博光、定岡智秋、山本和範それぞれのサインバット。

門田のバットは昭和62(1987)年に2000本安打を記録した時のもの。

同年8月26日の西武ライオンズ戦で記録した史上24人目の偉業だった。

門田もまた南海ホークスを語る上で欠かせない存在である。

昭和44(1969)年のドラフトで南海から2位指名を受け、社会人からプロ入り。

巧打・俊足・堅守の外野手だった門田の運命を狂わせたのは、王貞治の一本足打法。

王のバッティングを見て自分もホームラン打者になろうと決意した門田は打撃フォームを改造。

ところが、そんなにプロの世界は甘くなく、案の定ホームランより三振の数ばかりが増えていく有り様。

当時の野村克也兼任監督が注意するも、頑として聞き入れない門田。

あきれた野村はオープン戦で巨人と対戦した際に門田を巨人ベンチへ連れて行き、王に頼み込んで一緒に説得したという。

「ホームランはヒットの延長」と諭す王。

「ホームランは前提にコンパクトな打撃ありき」と諭す野村。

こうして三冠王が2人がかりで説得したにもかかわらず、門田は「ホームランの当たり損ないがヒットなんです」 と一顧だにせず。

自分の信念を貫き通す…と評すればカッコいが、実際は単なる頑固なヘソ曲がり。

その頑迷さを野村は自署『野村ボヤキ語録』の中で「南海の三悪人」と評するほど。

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ちなみに他の2人は江夏豊と江本孟紀。

ただ、江夏と江本は他球団からのトレード組なのに対し、門田は生粋の生え抜き。

その意味では南海の“三”ではなく“一”悪人じゃないかと思えるのだが。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十二

大阪後R121

杉浦は同時代に活躍した西鉄ライオンズのエース稲尾和久とよく比較された。

子供の頃から小船に乗って家業の漁師を手伝い、高卒で西鉄に入団。
ゴツい躯体に優しい目から、付いたニックネームが動物の“サイ”。

昭和33(1958)年の日本シリーズで巨人相手に大車輪の活躍で3連敗から4連勝で奇跡の日本一に輝いた時、メディアが救世主に命名したのは「神様、仏様、稲尾様」。

一方は東京六大学で活躍し、プロ入り前から大スター。
細身の長身に黒縁のメガネという、いかにも“大卒”という風貌。

昭和34年の日本シリーズで巨人相手に4連投4連勝で日本一に輝いた時、メディアが報じた杉浦の言葉は「ひとりになって泣きたい」 。

「神様、仏様」と「ひとりになって泣きたい」である。

ここまで両極端に対照的なライバルが、過去にも今でも他にいるだろうか?

現役引退後、両者の運命もまた極端に分かれていく。

稲尾は現役を引退した翌年の昭和45(1970)年に32歳の若さで西鉄の監督に就任。

昭和53(1978)年には中日の投手コーチ、同59(1984)年にはロッテの監督と指導者として履歴を残す。

一方、昭和45年に現役を引退した杉浦は同49(1974)年に近鉄の投手コーチに就いたぐらいで、主にマスメディアでの解説を主な活躍の場にしていた。

そんな杉浦に南海の監督として白羽の矢が立ったのは昭和60(1985)年のこと。

ちなみに「白羽の矢が立つ」という言葉には「人身御供に選ばれる」という意味合いもある。

昭和48(1973)年に野村克也兼任監督でパ・リーグを制して以来一度も優勝がなく、下位に低迷し続ける南海には毎年のように身売り話が持ち上がっていた。

そんなチームの監督になりたがる向きは他におらず、いわば杉浦は“最後の切り札”に等しき存在だった。

ところがチーム状態が少しずつ上向きかけていた矢先の昭和63(1988)年。

南海ホークス誕生50周年というメモリアルイヤーに川勝傅オーナーが逝去。

南海グループのドンにしてチーム最大の後ろ盾を失ったホークスは、その年のオフ、まるで事前からシナリオが用意されていたかの如くアッサリと売却された。

買収したスーパーのダイエーはホークスの本拠地を大阪から福岡に移転。

半世紀に亘って大阪市内に本拠地を構え続けた唯一のプロ野球チームが、ここに姿を消した。

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[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十一

大阪後R111

その最終戦が行われたのは昭和39(1964)年10月10日、つまり東京オリンピックの開会式が行われた日の夜のこと。

甲子園球場で始まった試合は18時59分のプレイボールから2時間7分後の21時6分、南海の勝利でゲームセットを迎えた。

この試合の公式入場者数は1万5172人。

日本一が決定するシリーズ最終戦の観客動員数としては史上最低の数字である。

阪神ファンで溢れかえる現在の甲子園からは想像もつかない話だ。

とはいえ試合が行われた時代背景を考慮してみると、この数字の持つ凄みが逆に伝わっている。

今なお語り継がれている東京五輪の開会式が終わって興奮冷めやらぬ中を、1万5千人もの観客が甲子園に訪れたのだ。

もちろん南海や阪神のファンが多数を占めていたのだろうが。

五輪なんて国家的プロジェクトと喧伝しているが、所詮は東京で行われている大きな運動会。

その程度にしか考えていない“反中央”的な感情を抱いた人々も大勢詰めかけたのではなかろうか。

それを思えば甲子園に集った1万5172人もの観客は、東京一極主義に抗う真の反逆者たちであったのではないか。

その“司祭”たる鶴岡親分が、こうして大阪ミナミのド真ん中に祀られているのも至極当然のことと思われる。

鶴岡親分は昭和43(1968)年に監督を勇退。

NHKで解説者を長らく務めた後、平成12(2000)年3月7日に83年の生涯を閉じた。

南海は昭和42(1966)年にパ・リーグで優勝した後、同48(1973)年に1度優勝したきりで福岡に移転している。

いかに鶴岡監督時代の南海が強いチームだったか、こうして過去の記録を眺めているだけでも如実に伝わってくる。

大阪後R112

右側のボックスには南海ホークス最後の、そして福岡ダイエー最初の監督である杉浦忠のユニフォームが飾られている。

杉浦は入口のペナントのところでも触れた南海の大エース。

立教大学で長嶋茂雄と同期生で、2人は在学中から大学の先輩で南海の選手だった大沢昌芳に南海への入団を口説かれる。

大沢昌芳とは後に「喝!」でお馴染みになる故・大沢啓示親分のこと。

もちろん大沢“子分”は鶴岡“親分”の指示の元に動いていたのだが。

南海行きを示唆していた長嶋は直前に翻意して巨人へ入団。

それに対して杉浦は“忠義”を守り、親分との約束通り南海へ入団する。

昭和45(1970)年に現役を引退。実働13年間で577試合に登板し、187勝106敗。

あと13勝で200勝投手になれたところ。記録より記憶に残る投手と呼ぶに相応しいのかも知れない。

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[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 十

大阪後R101

ガラスウォールの前には透明な展示ボックスが3台並んでいる。

左側のボックスは真ん中に南海ホークスの代名詞的存在、鶴岡監督の愛用したスタジアムジャンパーが。

鶴岡親分は戦争から帰還直後の昭和21(1946)年にプレイングマネジャーに就任。

昭和27(1952)年からは専任監督になり、同43(1968)年のオフに退任。

通算23年間に及ぶ監督生活で挙げた勝利数1773は日本プロ野球史上最多。

プロ野球がセ・パ両リーグに分裂した同22(1947)年以降ではリーグ優勝9回、うち日本一2回。

大阪後R102

中央のボックスには鶴岡監督の1500勝メモリアルと昭和39(1964)年の日本シリーズを制覇した、それぞれの記念品。

奥の壁には上からペナントとシリーズ優勝の賞状、監督の肖像を描いたエッチング銅版画の順に掲げられている。

その前には左から1500勝を記念した木彫の鷹の置物とウィニングボール、シリーズ優勝トロフィーが並ぶ。

昭和39(1964)年の日本シリーズ、相手は阪神タイガースだった。

昭和25(1950)年に日本野球連盟がセとパの両リーグに分裂して日本シリーズが始まって以来、かれこれ64回行われている。

しかし関西に本拠地を置くチーム同士が対戦した“関西ダービー”シリーズ、実はこの年1回だけなのだ。

先出した「近鉄対広島」(1979、80)、あるいは「阪神対福岡ダイエー」(2003)のように、関西と以西のチーム同士の対戦というのはある。

もともと関西にセのチームは阪神しかないので、“関西ダービー”シリーズになる機会は限られるのだが。

それでもパには阪急、南海、近鉄、オリックスと結構な数のチームが存在してきたわけで、もっと機会が多くても不思議ではないように思えるのだが。

しかも、この記念すべき“関西ダービー”、実は史上最も不幸な日本選手権として歴史に刻まれているのだ。

なぜなら、この年は同時期に国家的な一大プロジェクトが実施されていたからである。

それは…東京オリンピック。

アジアで初めて開催されるオリンピックに世間の話題は集中。

しかも当時は「巨人・大鵬・玉子焼き」と謳われた、まさにプロ野球界が「巨人ファンに非ずんば人に非ず」と歪曲していた時代。

そんな中、関西圏だけで行われる日本シリーズに関心を向ける人など、関西以外では稀ではなかったかと思われる。

こうした二重の逆境にもかかわらず“関西ダービー”は激闘が続き、3勝3敗で第7戦にまでもつれこんだ。

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[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 九

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投手のところには杉浦以外にも皆川睦雄や宅和本司、スタンカといった伝説の名選手たちの姿が。

日本人初のメジャーリーガー村上雅則や、一迅の風のように東映フライヤーズからやって来て阪神タイガースへ去って行った江本孟紀の名もある。

一方、阪神から江本とのトレードで南海に来た江夏豊の姿は見当たらない。

たった1年しか在籍していなかったから不自然ではないが、少々寂しいところではある。

打者のパートには鶴岡“親分”一人をはじめ、飯田徳治、岡本伊三美、広瀬叔功、杉山光平ら往年のスラッガーたち。

新しいところだと藤原満、門田博光、香川伸行、カズ山本らの名も。

“世界のイチロー”を生んだ名コーチ、新井宏昌も名を連ねている。

だがしかし、よく見ると違和感を覚える。

そう、南海ホークスといえばこの人、野村克也の名前がどこにもない。

その事情に関しては巷間いろいろ言われているので、ここでは何も語りはしないが。

大阪後R092

中央上部には映像モニターが設置され、過去の名選手や名場面が上映されている。

画面に映っている人物は戦中戦後にかけてエースの看板を背負った別所毅彦投手。

後に巨人との間で引き抜き騒動が起こり、モヤモヤのうちに巨人へ移籍するのだが。

その横には大阪スタヂアムの歴史一覧が掲示されている。

繁華街なんばに隣接していることから、野球以外にも様々なイベントが行われていたことが分かる。

例えば昭和49(1974)年から西城秀樹が10年連続でスタジアムコンサートやったり。

野球場でのコンサートって、これが先鞭だったのではなかろうか?

昭和57(1982)年にサイモン&ガーファンクルが外タレとして初めてコンサートを開催して以降、マイケル・ジャクソンやマドンナもステージに立っている。

また、プロサッカー時代の到来を見越して球場を改築し、サッカー場との併用も狙っていたという。

例えば昭和52(1977)年には「サッカーフェスティバルさよならペレ」を開催。

Jリーグの誕生は平成5(1993)年…時代が少し早すぎたか。

大阪後R093

突き当りはエレベーターホール。

エスカレーターを乗り継がなくても、ここまで一気に来ることができる。

エレベーターホールの前にも屋外への出入口が設えてある。

先ほどの出入口と合わせて都合2ヶ所あるわけだ。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 八

大阪スタジアムは昭和25(1950)年、南海電鉄がプロ野球チーム「南海ホークス」の本拠地球場として専売局(現JT)の工場跡地に建設したもの。

それから約40年が過ぎた昭和と平成の端境期。

平成元(1989)年に南海電鉄はホークスをスーパーマーケットのダイエーに売却。

球団は福岡へ移転し、大阪球場は“空き家”となった。

平成6(1994)年の関西国際空港開港に伴う難波地区再開発計画に伴い、大阪球場は同2(1990)年を以って閉鎖される。

ところが折からのバブル崩壊で再開発計画は“塩漬け”となり、大阪球場は解体されず住宅展示場などに利用されて延命。

建物が解体されたのはホークスが去ってから10年近くたった平成10(1998)年のことだった。
大阪後R081

南海なんば駅から、なんばパークスへと続く階段を登る。

なんばパークスは平成15(2003)年に第1期、同19(2007)年に第2期がオープン。

ショッピング&レストラン街とオフィスタワーに分かれている。

ショッピング&レストラン街は地上10階、地下3階建て。

地上部分は地上9階まで段丘状に建てられ、植栽された多種多様の植物に鳥類や昆虫が集う。

建物を上から眺めると、そのユニークな形状に興味を惹かれる。

館内エスカレーターを乗り継ぎながら最上階の9階へ。

ここに「南海ホークス メモリアルギャラリー」がある。

大阪後R082

ホークスが結成されたのは昭和13(1938)年のこと。

それから50年後、昭和63(1988)年に球団が譲渡されるまでの半世紀にも及ぶ歴史が記録されている。

外壁は一面ガラス張りで日差しが内部に差し込み、チームカラーの緑とミクスチャーされて心休まる雰囲気を醸し出している。

中へ入ると正面左側にペナントやトロフィーが整然と陳列されている。

ペナントは昭和34(1959)年の日本シリーズを制して日本一に輝いた時のもの。

このシーズン、エースの杉浦忠はリーグ戦で38勝4敗という驚異的な成績を挙げ、チームも優勝。

日本シリーズでも4連投4連勝という快挙とともに巨人を4タテに斬って捨て、日本一に輝いた。

今に至るまで4連投4連勝を達成した投手は他におらず、まさに空前絶後の大記録である。

大阪後R083

奥へ進むと左側の壁面は南海ホークスの歴史が刻まれた年表。

左に投手、中央下部に打者、右に野手という構成で配列されている。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 七

とはいえ合併そのものが覆ることはなく、オリックスに吸収合併された近鉄球団は平成17(2005)年を以って消滅。

近鉄バファローズは結局、日本シリーズを1度も制することができないまま、プロ野球の歴史から去って行くこととなった。

一方のオリックスはチーム名をバファローズに改称し、ここに合併球団「オリックス・バファローズ」が誕生した。

ただし、あくまでもオリックスは阪急ブレーブスの流れを汲む球団であり、吸収した近鉄球団の歴史については有って無いような扱われ方である。

現在のドイツにおける西ドイツに吸収合併された東ドイツの歴史と、どこか似ているような気もする。

というわけで阪急西宮ギャラリーのような、近鉄バファローズの歴史だけを記した施設は、あべのハルカスにも藤井寺駅近辺にもない。

オリックス・バファローズの本拠地である京セラドーム大阪には、前身だった阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブの各チーム歴史を展示したエリア「Bs SQUAR」があるにはあるのだが。

大阪後R071

藤井寺駅に戻ると跨線橋にオリックス・バファローズのポスターが掲示してある。

それを眺めながら、24年前に訪れた時の試合を思い出す。

近鉄の先発投手は2年目の野茂英雄だった。

あのトルネード投法を生で観戦したのは、後にも先にもこれっきり。

その後、野茂は近鉄とケンカ別れのような形で日本球界を後にし、平成7(1995)年に米大リーグのロサンゼルス・ドジャースへ。

その後の活躍は周知の通り。

現在メジャーリーグで日本人選手が大活躍しているが、それも野茂が先鞭を付けなければ道が開けなかったことは間違いない。

ただ、野茂の名を耳にするたびにメジャーでの華々しい活躍ぶりとセットで、藤井寺球場の閑散としたスタンドと駅までの少し薄暗い帰り道が思い起こされる。

あべのハルカスの余ったスペースでいいから、やはり近鉄グループに近鉄バファローズの歴史だけを展示したギャラリーを作って欲しい。

藤井寺駅から大阪阿部野橋駅へと戻る近鉄電車の中で、そんなことを切に思った。

大阪後R072

大阪阿部野橋駅から地下鉄天王寺駅を経て御堂筋線に乗り換え、なんば駅へ。

ミナミの象徴、高島屋正面から右手へ回り込み、阪神高速の下、通称“パークス通り”を南側へと向かう。

すると道の向こう側に“豚まん”でおなじみの551蓬莱を発見!

朝にホテルで食事して以来、何も食べていないという事実を前に暫し思案するも、この場は取り敢えず先を急ぐ。

難波中交差点から眺める「なんばパークス」。

かつてこの場所に「大阪球場」こと大阪スタヂアムが存在していた。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 六

大阪後R061

しかし、変わらなかったのは近鉄バファローズが背負っていた運命的な脆弱さ。

圧倒的な破壊力でパ・リーグを制した“いてまえ打線”も、ヤクルトのキャッチャー古田敦也に封じ込まれて沈黙。

結局1勝4敗で敗退し、またしても日本シリーズの制覇は成就ならなかった。

モニュメント以外の痕跡を探して周囲をウロついてみる。

だが、すぐに時間の無駄だと悟った。

訪れたのが夕方で、ちょうど小学生たちの下校時間。

カメラを抱えたオッサンがウロウロするには、あまり相応しいシチュエーションではない。

何かがあるとか、何にもないとか、そういった次元を超越した障壁が存在したのだ。

「さようなら~」

校門には学校の警備員が立ち、手を振りながら下校する小学生たちを送り出している。

「こんにちわ~」

警備員に怪しまれる前に、あえてこちらから挨拶してみた。

「あの銅像以外に何か藤井寺球場の痕跡って遺っていませんかね?」

「いやー、特にないですねぇ」

そう言うと警備員はプイッと踵を返し、帰宅する小学生たちへ再び挨拶を始めた。

単なる球場跡地の訪問者であり、子供たちに危害を及ぼすような不審者ではないと思わせることができたのだろう。

一見冷たい対応にも見えるが、取り敢えずは不信感の払拭には成功できたようで、そそくさと学校を後にする。

もし周辺をウロウロしたいのなら、学校が休みの日祝日にすべきか。

ただし最近では日祝日でも部活なんかで学校を開けている場合もあるので、変な行動は慎むべきなのは間違いないのだが。

平成16(2004)年、近鉄グループは採算上の問題からバファローズをオリックスに譲渡し、ブルーウェーブと合併させる旨を発表した。

これには近鉄ファンのみならずプロ野球ファンが猛反発。

日本プロ野球選手会も雇用機会の喪失につながることから、労働組合として初めてストライキを決行。

一種の“労働争議”の観を呈し、プロ野球業界の枠を超えた社会問題として大騒動になった。

その時のプロ野球選手会会長が、2001年の日本シリーズで近鉄の日本一を阻止した古田敦也だったところに歴史的な皮肉を感じる。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 五

大阪後R051

「巨人はロッテより弱い」発言はプロ野球の歴史を彩った“迷言”として、たまに今でも蒸し返されたりしている。

そう本人が言ったわけでもないのに勝手に独り歩きし、日本シリーズの趨勢まで左右してしまったこの言葉。

思えば前に日本一へ最も近づいた昭和54年の日本シリーズも「江夏の21球」で広島にうっちゃられた。

この「江夏の21球」も後世になってノンフィクション作家の故・山際淳司氏の著作から広まったもの。

肝心の試合内容そのものではなく、作家の著書名や新聞記者の捏造記事によって、その敗戦が記憶されるという悲劇。

このあたりにも、近鉄バファローズというチームが背負った運命的な脆弱さというものを感じさせる。

平成9(1997)年、大阪ドームが完成すると近鉄は本拠地を移転。

藤井寺球場は平成17(2005)年に閉鎖、翌年解体された。

跡地は北(ホームベース)側が四天王寺学園に売却され学校用地に。

南(外野)側には現在、大規模なマンションが立っている。

大阪ドームへ移転した近鉄は平成11(1999)年にチーム名を「大阪近鉄バファローズ」と改称。

地元大阪への密着ぶりをアピールすることで盛り上げていこうという戦略を採った。

ところが改称してからというもの2年連続で最下位に。

地元密着が絵に描いた餅になりかけた矢先の平成13(2001)年、大阪近鉄はパ・リーグを12年ぶりに制覇。

しかも北川博敏が日本プロ野球史上初の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」で締めくくるという、これ以上ない幕切れ。

前年からチームを率いた梨田昌孝監督は、最下位からの優勝という快挙を達成。

同じ監督で最下位の翌年に優勝したのはパ・リーグ史上初。

日本プロ野球史を見渡しても、昭和50(1975)年の最下位から翌年優勝した巨人の長嶋茂雄監督以来2人目。

そして78勝(60敗2分)という勝利数もまた、球団新記録だった。

これで一時は離れかけた“地元”が再び“密着”するかと思いきや…。

日本シリーズの舞台は、もちろん初開催となる大阪ドーム。

対戦相手は東京が本拠地のヤクルトスワローズで、まさに“東西対決”。

巨人が相手だった前回の日本シリーズも“東西対決”ではあったのだが。

平成最初の年に行われた前回は、近鉄が屋外の藤井寺球場で相手の巨人が屋内の東京ドーム。

21世紀最初の年に行われた今回は、近鉄が屋内の大阪ドームで相手のヤクルトが屋外の神宮球場。

時代が遷ろうにつれ、試合が行われた環境も劇的に変わったものだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 四

大阪後R041

ようやくナイター設備が完成したのは昭和59(1984)年、工事着工から10年後のことだった。

ナイター設備完成以前の藤井寺球場は、鉄塔は完成しているものの上部に照明設備が乗っかってない状態が長く続いた。

現在、西武ドームに行くと外周に西武ライオンズ球場時代に使用されていた照明灯の支柱だけが残されている。

その姿は、どこか藤井寺の鉄塔を彷彿とさせる。決して似ているわけではないのだが。

出番が来る日を長らく待ち続けた照明灯と、役目を終えて放置された照明灯。

両者の存在意義は全く逆にもかかわらず、どこか「もののあはれ」的な相通じるものを感じる。

近鉄3度目のパ・リーグ優勝は平成元(1989)年。

仰木彬監督がエース阿波野秀幸を駆使し、オリックス・ブレーブスと西武ライオンズとのデットヒートを制してのもの。

藤井寺球場にナイター施設は既に完備済み。

今度は堂々と日本シリーズを開催できることになった。

対戦相手は日本一の座に過去16回も就いている巨人。

一方の近鉄は12球団の中で過去1度も日本一になったのことのないチーム。

ところが近鉄は一気に3連勝し、あと1勝すれば悲願の日本一というところまで漕ぎ着ける。

第3戦で先発した近鉄の加藤哲郎投手は試合後のインタビューで「シーズン中のほうがキツかった」とコメント。

さらに記者からの「ロッテのほうが怖かったですか?」という質問に「まぁそうですね」と返答したという。

加藤本人にしてみれば単なる相槌程度のもので、適当に答えただけだったのだろうが。

このやりとりが翌朝のスポーツ紙には、こう姿を変えて出現した。

「巨人はロッテより弱い」

この年のロッテはパ・リーグで最下位に沈んだチーム。

それより弱いと言われた巨人が発奮しないわけがない。

土俵際まで追い詰められていた巨人は一気に近鉄を押し戻し、星を3勝3敗の五分に戻す。

そして雌雄を決する第7戦の舞台は、藤井寺球場。

近鉄の先発投手もまた、世間から“舌禍事件”の首謀者と目されている加藤哲郎投手だった。

近鉄はリードする巨人に一度も追いつくこと無く5対8というスコアで敗戦。

一度は掴みかけた初の日本一が、指の間から砂のようにサラサラとこぼれ落ちていった。

80年近い歴史を誇る藤井寺球場で行われた日本シリーズは結局、この1回きりに終わった。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 三

大阪後R031

改めて彫像「白球の夢」を眺めてみる。
 
作家は大阪出身の彫刻家、玉野勢三氏。

他の作品には、南海本線堺駅西口前に立つ与謝野晶子像などがある。

台座の上には藤井寺球場を模した円盤が乗り、横には大阪近鉄時代の「Buffaloes」のロゴが刻まれている。

円盤上には野球のボールが乗り、両手で頬杖をついた少年が膝をそろえて腰掛けている。

野球帽をかぶっているが、靴は履いておらず裸足だ。

台座前面のホームベース型銘板には「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005」と刻まれている。

近鉄は結成当初から藤井寺に本拠地を置いていたが、実は大きな問題を抱えていた。

甲子園球場と違って周囲に民家が立て込んでおり、反対運動のため長らくナイター設備を設置できなかったのだ。

このため大阪市内の日生球場で試合を主催していたことは「キャッスル&ボールパーク④大阪編・前」でも触れた通り。

近鉄は昭和24(1949)年に誕生してから平成16(2004)年に消滅するまでの55年間で4回優勝している。

初優勝は球団創設から30年目の昭和54(1979)年。

昭和49(1974)年に就任した名将西本幸雄監督が、5年かけてチームを育て上げた成果だった。

「キャッスル&ボールパーク③西宮編」で述べた通り、西本監督はパ・リーグのお荷物球団だった阪急ブレーブスを鍛え上げ、常勝球団に変貌させた闘将。

それと同じことを近鉄球団でもやってのけたのである。

バファローズは翌55(1980)年も優勝し、2連覇を果たした。

日本シリーズの相手は奇しくも両年とも広島東洋カープ。

だが、いずれも日本一の座を逃したことは「キャッスル&ボールパーク②広島編」で触れた。

日本シリーズの近鉄主催試合は両年とも藤井寺球場ではなく、大阪球場で開催された。

理由はナイター設備がなかったためで、近鉄は南海電鉄から大阪球場を借り受けたのだ。

昭和54年の日本シリーズで、今も語り草になっている「江夏の21球」。

これもまた藤井寺球場ではなく、大阪球場での出来事である。

西本監督は近鉄時代2度の日本シリーズを制することが叶わなかった。

大毎時代1度、阪急時代5度の日本シリーズと合わせ、通算20年に及ぶ監督人生で日本シリーズを8度戦い、一度も日本一になれなかった。

“悲運の闘将”と呼ばれる所以である。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 二

大阪後R021

駅を出て進行方向と反対側へ戻るような形で線路沿いを歩く。

四半世紀前に訪れた際は遠方に煌々とした光彩が見え、近づくにつれて次第に明度が増し、5分ほど歩くと光源にたどり着いた。

球場に着いて最も驚いたのは、周囲が何の変哲もない住宅街だったこと。

これではナイター反対運動が起こるのもやむを得ないかと内心思えたものだ。

しかし現在では眼前に真新しくモダンで巨大な建造物が聳え立っている。

四天王寺学園小学校。

こここそ、かつて近鉄バファローズの本拠地である藤井寺球場が存在した場所だ。

この地に近鉄が藤井寺球場を開場したのは昭和3(1928)年。

それにしても、なぜこんな都心から離れたところに球場を建てたのか?

阪神が甲子園で開催していた中等野球大会(今の全国高校野球大会)が大人気だったので、ならうちも…ということだったそうだ。

当時の藤井寺球場はフィールドの広さで甲子園を凌ぎ、収容観客人員数も7万人を誇る日本一の大スタジアムだったとか。

しかし太平洋戦争の金属供出令で建物の規模はショボンと縮小。

しかも敵国の運動ということで野球自体ままならなくなり、単なる練兵場となってしまった。

校舎の前、歩道沿いに一基のモニュメントが立っている。

この「白球の夢」というモニュメントだけが、ここに藤井寺球場が存在した唯一の証だ。

藤井寺球場が復活したのは戦後、日本にプロ野球が復活したのがきっかけ。

このムーヴメントに乗じ、近鉄も昭和24(1949)年に球団「パールス」を構える。

パールスとは近鉄の金城湯池、鳥羽の真珠にあやかったものだ。

ところがパールスは下位が指定席となり「パ・リーグのお荷物」と揶揄される有り様。

そこで昭和33(1958)年に巨人の大人気選手だった千葉茂を監督に招聘。

ちなみに千葉は長嶋茂雄の前に背番号3を背負っていた選手である。

千葉の愛称「猛牛」にあやかり、チーム名も「バファロー」に改称。

同時に、岡本太郎が猛牛を意匠化したシンボルマークを採用した。

千葉が親友の岡本にデザイン料10万円で依頼したのだそうだ。

このシンボルマークは平成17(2005)年に球団が消滅するまで 半世紀近くにわたって使われ続けた。

昭和37(1962)年にチーム名を「バファローズ」に再改称。

この名称は紆余曲折を経て、現在のオリックス・バファローズにまで引き継がれている。

大阪後R022

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク⑤大阪編・後 一

大阪環状線南部の大駅、JR天王寺駅。

その駅前風景が最近になって一変した。

道の向かい側に超巨大な構造物が出現し、空へ向かって尖端をニョキッと突き出している。

大阪後R011

新たなる大阪のランドマーク「あべのハルカス」。

平成26(2014)年3月7日に全面開業したばかりだ。

地上60階建て、高さ300メートルと日本で最も高い超高層ビル。

国内では東京スカイツリーの634メートル、東京タワーの333メートルに次ぐ高さ。

しかし、どちらもビルではないので「あべのハルカス」が日本一のノッポビルということになる。

「ハルカス300、今ならお待ちにならずに登れま~す!」

入口の前を通りかかると展望台のスタッフが道行く人を盛んに勧誘している。

ちょうど平日の夕方とあって客足の少ないアイドルタイムなのだろう。

だとしたら展望台へ登るには、閑散としている今が狙い目かもしれない。

だが、ここで立ち寄ると次の目的地が日没の中へ埋もれてしまう可能性がある。

それにまだ出来たばかりだし、そう簡単に閉鎖することもなかろう、と。

ハルカス300は来るべき次の機会へ回し、階段を地下へ向かって降りる。

大阪後R012

近鉄の南のターミナル大阪阿部野橋駅は、あべのハルカスの地下にある。

あべのハルカスが出来る以前、ここには近鉄百貨店阿倍野本店があった。

現在の「あべのハルカス近鉄本店」は売場面積10万平方メートル、単独百貨店として日本一の広さを誇る。

ただ、大阪では各百貨店がリニューアルや増床を競い合い、凄まじい競争を繰り広げていた。

そんな中、果たして近鉄本店が勝ち抜けるのだろうか?

近鉄はもとより大阪の百貨店を利用したことがない自分には、皆目見当もつかない。

それはともかく、大阪阿部野橋駅から近鉄東大阪線に乗車する。

以前この路線に乗ったのは1990(平成2)年8月11日のことだから、約四半世紀ぶりになる。

もちろん目的は藤井寺球場で近鉄バファローズ戦を観戦するため。

準急に揺られること10分余、近鉄藤井寺駅に到着。

郊外にある普通の小さな私鉄駅だ。

藤井寺の駅前は地方の小都市というより、典型的なベッドタウンのような印象を受ける。

その印象は24年前とあまり変わらない。

ただ当時は日が暮れてから到着したので、寂しさは今よりひとしおだった気がする。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 十二

大阪前R121

大阪砲兵工廠は明治3(1870)年に創設された官営の兵器製造工場だった。

日清、日露、第一次世界大戦と戦争を経るごとに規模が拡大。

明治時代末期に敷地は大阪城東側全域、玉造門のあたりまで広がった。

従業員数も6万人強に膨れ上がり、アジアでも最大規模の軍需工場に。

太平洋戦争が始まり大阪市内も空襲を受けるものの、大阪砲兵工廠の被害は軽微。

しかし終戦前日の昭和20(1945)年8月14日、大阪砲兵工廠を狙い撃ちにした大規模な空襲を受け、設備の90%が破壊された。

それでも幾つか建造物は残り、歴史的建造物として保存運動が起こったり、文化庁が戦争遺跡として調査を指示したりしていた矢先の昭和56(1981)年。

大阪市は突如こうした保存に向けての動きを無視し、象徴的な建造物だった旧本館の解体に踏み切った。

廃墟同然の建物群がいつまでも都心部に放置されている状況に、治安上も風致上も問題があったのは確かに理解できる。

とはいえ、こうした時代物の建造物は一旦取り壊すと復元は二度とは不可能。

建物群を保存しながら一帯を再開発することはできなかったのだろうか?

先出の大阪市立博物館もそうなのだが、こうした“戦争遺構”を大阪市は抹消していきたいのではないか? そんな指向性を感じる。

大阪前R122

大阪城ホールと太陽の広場の間を通り抜けると、大きな噴水の向こう側に水上バス乗り場があった。

ここ大阪城港から観光水上バス「アクアライナー」が発着する。

眼前を流れる第二寝屋川を出発した「アクアライナー」は天満橋、淀屋橋、大阪アメニティパーク(OAP)を周航するコースをたどる。

とはいえ乗船することもなく、ベンチに腰掛け、対岸に林立する大阪ビジネスパーク(OBP)の高層ビル群をボンヤリと眺める。

現在OBPが立地している場所もまた、終戦までは大阪砲兵工廠の敷地だった。

歴史の継承という“過去”と経済の振興という“現在”。

両者のバランスを取りながら都市を発展させていくことは難しいことなのだろうか?

そんなことを考えていたら、不意に背後から子供たちの歓声が聞こえてきた。

「おじいちゃん、こっちこっち!」
「ほらほら、危ないで!」

振り向けば、大坂城港ターミナルへ向かう老夫婦と若夫婦、それに小さな姉弟の三世代一家の姿。

これから“舟遊び”にでも興じるのだろうか?  子供たちはハシャぎ、若夫婦は声を荒らげ、その光景を老夫婦はニコニコと見守っている。

この一家のように、大阪の街も上手く歴史を継承してくれたらいいだが。

大阪前R123

ベンチから腰を上げ、噴水から一直線に伸びる広い道を歩く。

奥には大阪城公園駅。

隣の森ノ宮駅から約1時間半かけて遠回りした、大阪城の彷徨だった。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 十一

内堀越しに壮大な石垣を眺めながら青屋門に向かう。

大坂城の石垣は他所に比べて規模が桁違いにデカい。

積み上げられた個々の石そのものからして巨大なのだ。

大阪前R111

天守閣前の「残念石」でも触れたが、瀬戸内から運ばれた堅牢かつ良質な大量の花崗岩が大坂城の壮大な惣構を支えていたわけだ。

石垣の構築は幕府が西国と北陸の諸大名64家に命じ、それぞれの石高に応じて分担する石垣の長さを割り当てた。

黒田家と細川家の「残念石」が天守閣前に据えられていたのも、両家が幕府から石垣の構築を命じられたためだろう。

諸大名は組み分けされ、「丁場」と呼ばれた担当区域ごとに出来栄えを競わされ、その優劣に連帯責任と個別責任を負わされた。

このため諸大名は自ら担当した丁場を誇示するかのように、積み上げる石に家紋などの刻印を丁寧に彫り込んだという。

こうして幕府は諸大名の競争心を煽る一方、普請総奉行に“築城の名手”と謳われた藤堂高虎を起用。

当時、完成の域にあった築城技術を以って再築されたため、大坂城の石垣は高度に洗練されているのだという。

そう言われて眺めてみれば、単なる石垣の域を超えた、どこか芸術作品のようにも見えてくるから不思議だ。

大阪前R112

お堀端を歩くうち、青屋門の前に来た。

改修工事中の門を通りぬけ、外堀の外側に出る。

青屋門の建立は徳川幕府の大阪城再築第1期工事が始まった元和6(1620)年ごろと推定。

桜門と同様、明治維新時の火災で焼失し、陸軍によって再建された。

しかし昭和20(1945)の空襲で再び焼失し、今度は大阪市が昭和44(1969)に残材を用いて再建した。

改修工事中の青屋門は外側がグレーのシートで覆われている一方、内側は木材の構造が剥き出しになっている。

工事を担当しているのは国宝や重要文化財に指定されている建築物の修理を専門に扱う「鳥羽瀬社寺建築」という会社。

社名から伊勢か鳥羽の社寺の関連会社かと思いきや、宮大工の棟梁である社長の名前から来たものだった。

大阪前R113

青屋門を出ると正面には大阪城ホール、右に折れると「太陽の広場」が広がる。

その入口に「砲兵工廠跡」と刻まれた石碑が立っている。

旧大阪市立博物館のところで少しだけ触れた、大阪砲兵工廠の旧本館があった場所である。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 十

仕切門の後を北側へ抜けると山里口出枡形に出る。

北側に広がる山里丸と天守台の途中に設えられた枡形だったが、やはり維新の大火で焼滅し、現在では単なる四角い広場に。

大阪前R101

ここで、天守閣の写真を撮影している若い女性の姿を見かけた。

それも明らかに日本人ではない、アジア系の女性である。

先ほどアジア系観光客は団体が多いと書いたが、一方で若い女性の一人旅姿もチラホラ見受けられる。

大坂城のどこに惹かれて遠路遥々やってきたのだろう? 

機会があったら一度ぜひ聞いてみたいものだ。

出枡形から石段を降りて山里丸の曲輪へ。

ここには市内から出土したさまざまな刻印石が集められ、「刻印石広場」として整備されている。

「刻印」とは石垣に刻み込まれた多種多様の文様や記号のこと。

特に大名の家紋が刻まれた石は、徳川幕府による大坂城改修の際に石垣を築いた大名の持場を示したもの。

ほかにも石の産地や奉行の姓名など様々な“情報”が刻まれており、ひとつひとつ眺めているだけでも意味は分からずとも楽しい。

刻印石広場を西へ突っ切り、内堀の前あたりまで来たあたりの片隅に一基の碑がひっそりと立っていた。

その表面には「秀頼・淀殿ら自刃の地」と刻まれている。

大阪前R102

大坂夏の陣で天守閣が炎上し、山里丸へ逃れてきた秀頼と淀殿の母子だが、徳川軍に包囲され万事休す。

潜んでいた櫓の中で、秀頼は淀殿らと共に自害したと伝えられている。

その事実を後世に伝えるべく、この碑は大阪市が平成9(1997)年に建立したもの。

だが千客万来だった天守閣に比べ、この碑には訪れる人影も疎ら。

秀頼は享年23(満21)歳…とはいえ秀頼も淀殿も亡骸が確認されたわけではなく。

このため秀頼は家臣に護られ、どこかに落ち延びたという“生存説”が幾つも生まれた。

それはそれで面白そうな話ではあるのだが。

ここで秀頼が亡くなったとは限らないから、誰も訪れようとしないのか?

大阪前R103

山里丸から極楽橋を渡って内堀の外側へ出る。

内堀の石垣は寛永元(1624)年から始まった徳川幕府の大坂城再築第2期工事で、豊臣時代の“遺構”に盛り土を施して築造された。

内堀に面した石垣の角を中心に三層の櫓が11棟、二層の櫓が2棟そびえていたが、すべて明治維新の大火により焼失している。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 九

カップルにカメラを返して天守閣の入口へ向かうと、その横に据えられた二つの巨石が目に止まった。

元和6(1620)年の大坂城改修で、天領の小豆島から多数の用材石が運ばれてきた。

ところが加工されたものの改修に使われなかった結構な数の巨石が、そのまま島中いたるところに放置されているという。

それらの石を島では「残念石」と呼んでいるそうだ。

大阪前R91

天守閣前の両石は筑前福岡藩黒田長政と豊前小倉藩細川忠興、それぞれ小豆島の石切場で発見されたもの。

昭和56(1981)年に大阪と小豆島の両青年会議所が共同で企画し、ここに安置したと説明板には記されている。

重機もない400年も前に人力だけで加工された巨大な石。

その存在を通して豊臣と徳川の端境期、両家に使えた大名家の心境などに思いを馳せているうち、天守閣の中に入ろうという気持ちが失せてしまった。

天守閣の西側をグルリと回りこむように下っていくと「天守台下仕切門跡」に出る。

北から侵入する敵を防ぐため石壁が築かれていた場所だ。

それも単純な一枚壁ではなく二枚の壁を行き違いに配置し、壁を挟んだ南北間の往来を「仕切門」で管理するという念の入れようである。

だが、これも慶応4(1868)年に明治維新の大火で焼失している。

大阪前R92

ここを訪れた時から頻出し続ける、この「明治維新の大火」とは何だろう?

大坂城で薩長戦争の陣頭指揮を執っていた十五代将軍徳川慶喜。

だが、鳥羽・伏見の戦いの敗報に接するや城を密かに抜け出し、軍艦開陽丸で江戸へ“逃亡”した。

この過程は歴史ドラマなどで過去に幾度も描かれているので、よく知られた話である。

慶喜は城に残した幕軍の兵に「最後の一兵になっても決して退くな!」と厳命してあった。

迫り来る薩長軍を前に、指揮系統が急に消えてなくなった幕府軍は当然ながら大混乱。

その最中に本丸から出た火災で城内の建造物は軒並み焼失…これが「明治維新の大火」である。

大阪前R93

それにしても、戦に巻き込まれて散々な目に遭った当時の大坂市民にしてみたら、たまったものではなかったろう。

大坂城にあった十四代将軍家茂が病で急逝したため、慶喜は急遽その後を継いだ。

慶喜は歴代徳川将軍の中で、初めて大坂で即位した征夷大将軍なのである。

が、大阪市民の口から慶喜に対する愛着の言葉など、ついぞ耳にしたことはない。

大坂の陣で愛しき豊臣家を討ち滅した家康と、大坂を薩長戦争に巻き込んだまま江戸へ逃げ帰った慶喜。

大阪人の徳川嫌いは家康だけでなく、慶喜の“大坂を見捨てた”行動にも要因があるのではないかと思えてならない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 八

大阪城一帯には軍事施設が集中していたため、昭和20(1945)年の大阪大空襲で集中的に狙い撃ちされた。

このため櫓など多くの建物を焼失したものの、天守閣は幸いにも無傷のまま終戦を迎える。

大阪前R81

それから時代が下ること半世紀余、コンクリ製の復興天守閣にもかかわらず平成9(1997)年には国の登録有形文化財に指定された。

確かに戦前、大阪城の天守閣が再建されなかったら、戦後になって全国の城址に天守閣が競うように建てられるという現象は起こり得なかったかも知れない。

ひいては明治維新以降、全国で“二束三文”状態で放置されていた城跡を、新たな観光資源として“再生”させるための“お手本”ともなった。

その意味では有形文化財としての価値は十二分に備えているように思える。

大阪前R83

天守閣の南側は「本丸御殿跡」という名の広場。

天守閣は江戸時代を通じて存在しなかったため、ここにあった本丸御殿で政務は執行されていた。

幕末には十四代将軍徳川家茂が長州征伐の指揮を執るなど、まさに幕政の中枢として機能していた。

しかし、やはり慶応4(1868)年に明治維新の大火で全焼。

明治18(1885)年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移築されたものの、これまた昭和22(1947)年に焼失。

以来ここに御殿が再建されることはなく、広場として整備され今に至っている。

広場の端に立ち天守閣の中に入ろうか悩んでいたとき、西洋人の女性から声をかけられた。

大阪前R82

振り返ると旅行者らしきカップルが微笑んでいる。

手にしているカメラのシャッターを押して欲しいとのこと。

耳に馴染む英語で語りかけてきたので、たぶんアメリカ人だろう。

首からカメラをぶら下げ一人でボーッと突っ立っていたので、いいカモだと思われたのかも知れない。

2人が天守閣を背景に並んだところで、はいポーズ!

こうした観光地でシャッターを頼まれることはままあるが、すべて日本人か西洋人のいずれか。

東洋系の外国人から頼まれたことは一度もない。

彼らは集団で行動しているから、赤の他人にシャッターを頼む必要性を感じないのかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 七

現在立っている天守閣は三代目に当たる。

初代は天正13(1585)年に豊臣秀吉が建立し、慶長20(1615)年に大坂夏の陣で焼失した。

戦後の学術調査によると太閤天守は今より東側、現在配水池のある場所に立っていたことが判明している。

大阪前R71

二代目は寛永3(1626)年に徳川幕府が現在の場所に建立。

この折、幕府は天守閣だけでなく、秀吉が築いた城郭に土を盛ってこれを埋め、その上に新たな城郭を築いた。

つまり世間一般では徳川が建てた城を見て「さすが秀吉は大層な城を作ったものだ」と“錯覚”しているわけだ。

ところが、これがどうにも大阪人には我慢ならない様子と見える。

そこで現在の城郭を掘り起こし、秀吉時代の石垣を発掘する作業が進行中。

大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してから400年を迎える2015年、その一部が公開されるそうだ。

徳川幕府が建てた二代目天守閣も、寛文5(1665)年に落雷を受けて焼失。

その後、長きに亘って天守閣が再建されることはなかった。

大阪前R72

三代目が建立されたのは先述の通り昭和6(1931)年。

昭和3(1928)年に当時の関一(せきはじめ)市長が復興を提案し、議会の賛同を得て推進委員会が発足。

すると市民からの寄付の申し込みが殺到、わずか半年で目標額150万円に達したそうだ。

当時の大阪城址には陸軍の司令部や大阪砲兵工廠など軍事施設が密集していた。

このため戦争を毛嫌いする大阪市民の気持ちが、天守閣再建を熱狂的に後押しした一面もあったのではないか。

三代目は恒久的建造物にするため木造ではなく、当時の最新建築工法だった鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用。

今でこそ超高層ビルは珍しくもなんともないが、地上55メートルというスケールは当時としては空前絶後の超高層建築だった。

大阪前R73

モデルとなったのは徳川幕府が建立した二代目ではなく、豊臣時代の大天守。

しかし豊臣時代の資料は殆ど残されていなかったため「大坂夏の陣図屏風」を根拠にデザイン。

その裏付けのため全国に残る桃山時代の建物などを調べ歩き、細かい部分に関する資料を集め歩いたのだとか。

デザインにせよ設計にせよ幾多の困難を乗り越えた甲斐あってか、工事のほうは順調に進捗。

こうして完成した天守閣は、近代建築による初めての復興天守閣となった。

しかも開城当初から内部は郷土歴史博物館として利用されている。

このコンクリート製の博物館というコンセプトは戦後、日本中にポコポコ建てられた復興・復元天守閣のモデルにもなっているのだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 六

枡形を過ぎると目の前にあるのは旧大阪市立博物館。

昭和6(1931)年、旧陸軍第四師団の司令部庁舎として落成した建物だ。

同年に天守閣が再建された際、城址内に散在していた司令部の機能を統合すべく併せて建てられた。

大阪前R61

幸い戦災にも遭わず、戦後は連合軍接収後、大阪府警本部庁舎に。

昭和33(1958)年に府警が大手門前へ移転すると建物は大阪市の管轄下に。

内部の改装などを経て2年後の昭和35(1960)年、市立博物館として開館した。

展示内容を大阪の地域文化に特化し、当時としては珍しかったリージョナルな博物館として大きな役割を果たした。

平成13(2001)年、大阪府警の隣に開館した大阪歴史博物館に後を任せるかのように閉館。

その後は取り壊されるわけでもなく、ある意味“放ったらかし”である。

大阪前R62

時々イベントに使われる程度で、特に決まった活用法があるでもない。

軍事施設として頑丈に作られているため、普通のビルより取り壊しに経費が必要だから放置されているのだろうか?

そもそも頑丈ならば耐震強度は問題ないはず。

東京駅丸の内側駅舎のようにホテルとして再生すればいいのに。

でも、それはそれで泊まったら何か出そうで怖そうだ。

やはり元々が軍事施設だけに、大阪市としては解体して更地にでもしたいところなのだろう。

一方で、帝国陸軍が存在した証を今に伝える数少ない歴史的建造物でもある。

解体に踏み切らないのは、取り壊しを強行して批判を浴びた大阪砲兵工廠旧本館の二の舞いを怖れているからだろうか?

大阪前R63

旧市立博物館の前を通り過ぎると、いよいよ大阪城天守閣のお目見えだ。

天守閣一帯には国内外の観光客が続々と押し寄せている。

聞き耳を立てると、日本語より外国語での会話が圧倒的に多い印象。宮本茶屋のところで見た通りだ。

もはや大阪城は日本人が訪れる観光名所の域を脱し、外国人、特にアジア人観光客にとってのディスティネーションへ変貌したのだろう。

そんなことを思いつつ、天守閣を正面から眺めてみる。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 五

宮本茶屋の前を通る道を左へ折れると、突き当りには大手門が聳えている。

ただ、大手門方面へ抜けると天守閣へ行くのが非常に面倒。

なのでここは大手門を後回しにし、目の前にある桜門から天守台へと入る。

大阪前R51

内堀にかかる橋を渡ると両側は空堀になっている。

内堀のうち空堀なのは、この箇所だけなのだとか。

ここは豊臣時代から空堀で、大阪の陣で徳川方が水を抜いたわけでもない由。

その後、寛永元(1624)年に徳川幕府が大坂城を再築した際も空堀にしたそうだ。

その理由は不明。
先例に倣ったのだろうか。

橋を渡ると、そこは本丸の正門に当たる桜門。
 
現在では国の重要文化財に指定されている。

寛永3(1626)年、徳川幕府によって創建された。

慶応4(1868)年に明治維新の大火で焼失したものの、明治20(1887)年に陸軍が再建し、今に至っている。

大阪前R52

門を中に入ると内側には「枡形」と呼ばれる一角がある。

本丸の正面入口を護るため、巨大な石垣で四角く囲んだスペースだ。

枡形は寛永元(1624)年、備前岡山藩主池田忠雄が手がけたもの。

石材はすべて瀬戸内海の島々から切り出された花崗岩を使用している。

大阪前R53

真ん中の石は「蛸石」と呼ばれる城内第一位の巨石。

左側は「振袖石」という巨石で、こちらは城内第三位。

創建当時、上には「多聞櫓」が設けられたが、やはり慶応4(1868)年の大火で焼失している。

この火災で巨石もダメージを受け、しかも戦時中に陸軍が地下に防空壕を掘ったりしたため、枡形は崩壊の危機に。

戦後になって枡形は修復されることとなり、損傷した石は原型に忠実な形へと加工された瀬戸内産の花崗岩に置き換えられた。

これほどまでに巨大な石材を瀬戸内海から遥々と運ばせ、石垣として累々と積み上げさせた権力の強大さときたら。

石垣の壮大さとは即ち、権力の強大さを象徴している証だと如実に思う。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 四

内堀を左側へ回りこむように先へ進むと、左側に豊国(ほうこく)神社が鎮座している。

ちなみに京都の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と読む。

大阪前R41

こちらの京都が本社で大阪は別院として明治12(1879)年、最初は中之島に建立された。

その後、別院から独立した神社となり、昭和36(1961)年に現在地へ遷座したものだ。

もちろん主祭神は秀吉公だが、秀頼公と秀長卿も合わせて祀られている。

一の鳥居と二の鳥居の間には豊臣秀吉像が、陣羽織姿のキリッとした出で立ちで聳立している。

秀吉像は中之島時代から存在したが、昭和18(1943)年に金属供出令により滅失。

現在の像は平成19(2007)年に完成した二代目で、彫刻家の中村晋也氏の手によるものだ。

像から一の鳥居へ向かう途中、狭い林の中に立つ小さな看板に目が止まった。

そこには「信州上田 幸村桜」と書いてある。

幸村とは無論、真田幸村のことだ。

大阪前R42

史実上の名は、真田信繁。大坂の陣で「真田丸」と呼ばれる砦を作り、徳川家康相手に激闘を繰り広げた。

その獅子奮迅ぶりは「日本一の兵(つわもの)」と絶賛され、今も大阪市民をはじめ多くの人に親しまれている…とある。

幸村が取り持つ縁で大阪城は平成18(2006)年10月、真田の御城である信州上田城と友好城郭提携を締結。

その後、上田市の有志から豊国神社にオオヤマザクラが奉納され、ここに花を咲かせているという次第だ。

その「真田丸」は2016年のNHK大河ドラマのタイトルにもなった。

そして今2014年は大阪冬の陣、来2015年は大阪夏の陣から、それぞれ400年という節目を迎える。

日生球場跡地から真南にある真田山公園は、かつて真田丸があった場所。

ここで2014年から2015年にかけて「真田幸村博」が開催される。

さらに2016年の大河ドラマへ、大阪、ひいては全国へ、没後400年を迎える真田幸村のブームが到来するに違いない。

大阪前R43

境内を出ると一の鳥居の横に「宮本茶屋」という売店がある。

大きな神社仏閣の門前によくある茶店で、焼そばや大判焼きなどを売っている。

その前に設えられた露天のテーブルで、大勢の観光客が休息している。

だが、よく見ると日本人の姿は皆無で、ほとんど外国人観光客の様子。

それも西洋人だけでなく東洋人、しかも東南アジアからの観光客も結構いる。

日本に観光旅行へ来ることのできる外国人は、以前なら経済的に余裕のある欧米人だけだったろう。

その経済的繁栄が昨今ではアジアにまで波及してきたことの証だと言えようか。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 三

森ノ宮駅の方角に向かうと、そこは大阪城公園の入り口。

中に入ると一直線に伸びる噴水の周囲では、好天に恵まれたせいか家族連れやカップルが思い思いに寛いでいる。

木立の中を通り抜け、大阪城音楽堂の前を過ぎ、東外堀と南外堀の間にある玉造口へ向かう。

大阪前R31

南外堀を挟んだ向かい側には一番櫓(いちばんやぐら)が見える。

二の丸南面の石垣の上には隅櫓が東から西へ7棟立っていた。

そのうち最も東側に位置しているので「一番櫓」の名が付いたそうだ。

ちなみに7つあった櫓のうち現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

玉造門は江戸時代、石垣造りの枡形が作られ、その上には多門櫓が立っていたという。

しかし幕末の動乱で多聞櫓は焼失し、維新後に大阪城を管理下に置いた陸軍の手で玉造門そのものと枡形が撤去された。

このため現在でも残っているのは入口両脇の石組みだけという。

玉造口から中に入り左折すると、城壁には鉄砲狭間が横一列に穿たれている。

外国人観光客が面白がって銃眼を覗いているが、「loophole(銃眼)」だと分かっているのだろうか?

内堀に向かって直進すると、突き当った右側に巨大な石碑が聳立している。

「蓮如上人碑」

かつてこの地に石山本願寺が存在したことを記したものだ。

大阪前R32

天文元(1532)年に京都の山科から移ってきた本願寺は、大坂の地を一大宗教都市に仕立て上げた。

しかし織田信長との間に対立が深まり、元亀元(1570)年から11年間に亘って「石山合戦」を繰り広げることに。

天正8(1580)年、両者は勅により和議に至るが、本願寺は大坂からの退去を余儀なくされて京都に移転。

天正11(1583)年、その本願寺と寺内町の跡地に豊臣秀吉は大阪城を築いた。

大阪の今に至る繁華は太閤殿下の築城に端を発するように思われがちだが、それより前に本願寺の門前町として繁栄していた“下地”があったことは意外と忘れられているようだ。

その石山本願寺の遺構は地中に埋まったままで、未だ確認されていない。

大阪前R33

石碑の前に小さな木の根っこが、コンクリートブロックに囲まれてヒッソリ保存されている。

この「蓮如上人袈裟懸の松」と伝わる木の根っ子だけが、石山本願寺が存在した唯一の証と言えるのかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 二

近鉄が準本拠地として利用を始めてから四半世紀が過ぎた昭和59(1984)年。

藤井寺球場にナイター設備が完成し、近鉄は日生球場から実質的に撤退する。

プロ野球の興業という最大の収入源を失ったことに加え、戦後すぐに建てられた施設の老朽化と相まって、日生球場は平成9(1997)に閉鎖、解体された。

大阪前R21

その後、跡地は暫く放置されていたのだが、ようやく平成25(2013)年に用途が決定。

フェンスに掲げられた告示板によると、ここにはスーパー、家電量販店、スポーツジムなどができるそうだ。

一塁側スタンドと右翼スタンドの境目だったあたりに来た。

ここから外野スタンドがあった場所を、往時でいえば右翼から左翼へ向けて歩いてみる。

個人商店と民家が立ち並び、周囲に華やかさを演出するような要素は何もない。

道を挟んだ向かい側は何の変哲もない普通の住宅街だ。

ちょうどバックスクリーンとスコアボードのあった裏側あたりまで来た。

十字路を挟んだ反対側には小奇麗な公園が広がっている。

そこから右翼スタンドと三塁側スタンドの境目があったあたりへ。

その来る途中、外壁が黄色に塗られた劇場があった。

その劇場、名を「森ノ宮ピロティホール」という。

大阪前R22

球場が解体された理由のひとつとして、一帯に森ノ宮遺跡が存在していることもあった。

森ノ宮ピロティホールの地下には、森ノ宮遺跡からの出土品を展示した遺跡展示室がある。

ただし、一般に公開されるのは年に数日間だけとのことだ。

右翼スタンドと三塁側スタンドの境目があったあたりに着く。

ここは来るときに通り過ぎた場所で、件の歩道橋のあるあたりまでが三塁側スタンドが存在した場所、ということになる。

阪神高速の高架下を、再び歩道橋まで歩く。

日生球場の跡地には現在、ここに球場が存在したことを示すものは何もない。

ただ、歩道には野球場がデザインされたタイルが敷き詰められている。

このタイルだけが、昔ここに野球場に存在したことを主張しているかのようだ。

大阪前R23

再び歩道橋を登り、阪神高速の下をくぐって反対側へ渡る。
 
[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 一

JR大阪駅から大阪環状線に乗る。

大阪環状線は低い家並みや中低層の小さなビルが立ち並ぶ市街地の狭間を走る。

同じ“環状線”である東京の山手線と比較しても、車窓の風景はローカル色が濃い。

大阪前R11

そんな電車に揺られること約12分、森ノ宮駅に到着した。

駅を出ると、まだ6月だというのに真夏のような暑さが身体に纏わりついてくる。

目の前を通る阪神高速道の高架下を西に向かって歩くこと数分。

白いフェンスが延々と続く一角が眼前に現れた。

この大阪城を間近に望む絶好の場所に、平成9(1997)年まで野球場があった。

日本生命野球場、略して“日生球場”。

大阪におけるアマチュア野球の“聖地”にして、近鉄バファローズが長きに亘り本拠地を置いていたスタジアムである。

その名の通り、日生球場は日本生命が自社の野球部用に戦後間もなく建造した球場。

このため戦後しばらくはアマチュア野球専用として使われていた。

しかし地理的に絶好の場所にあるこの球場を、プロが見逃すはずもなく。

郊外の藤井寺市に本拠地を置いていた近鉄球団が日本生命に対し、ナイター設備の設置を条件に球場の使用を提案。

これを日本生命も了承し、近鉄は本拠地を藤井寺球場に置いたまま昭和34(1959)年から日生球場を実質的な本拠地球場として試合を主催していく。

大阪前R12

格好の位置に歩道橋が立っていたので、そこに登ってフェンス内部の様子を見てみる。

敷地は新たな主となる施設の建設に向けて地割りされ、球場だった頃の面影はすっかり失われていた。

フェンスの中では大勢の作業員が忙しそうに動き回っている。

巨大なクレーンが立ち並び、重機が唸りを上げ、地面に掘られた穴にはコンクリートがドクドクと注ぎ込まれている。

ここにプロ野球チームが興業を打っていたスタジアムの存在した記憶など、既に歴史の彼方へ埋没しているかのようだ。

歩道橋を降り、フェンス沿いに球場跡を一周してみる。

歩道橋のある場所は昔、ちょうどメインスタンドがあった場所の前に位置している。

そこから一塁側スタンドから右翼スタンドの方面へ向かって歩いてみる。

大阪前R13

周囲は小規模な雑居ビルや個人商店、マンションなどが立て込んでいる。

あまり都心にいることを感じさせない、下町っぽい雑然とした雰囲気の中に球場はあったわけだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 十

西宮101西宮R16

映像装置にはブレーブス関係以外の資料も閲覧できる。

例えば「箕面有馬電気軌道創業」からたどる阪急電鉄関係の歴史。

西宮球場で開催されていた西宮競輪やアメフト「阪急西宮ボウル」などのイベントも。

出色なのは西宮球場で行われた「宝塚歌劇大運動会」の映像。

大運動会は10年に1度、歌劇団創設を記念して開催される。

ここでの映像には80周年とあるから、1994年に開催された大会か。

なお西宮球場の解体後は大坂城ホールに会場を移転。

ちなみに今2014年は創立100周年に当たるので、10月7日に開催されるそうだ。

西宮102西宮R19

西宮ギャラリーを後にして、屋上庭園「スカイガーデン」へ。

家族連れが憩い、小さな子供たちの歓声が響き渡っている。

オッサン共の野次や怒声から子供たちの歓声へ…どちらが好ましいかは人それぞれだろうけど。

設置されているスタンドは、どこか野球場を彷彿とさせる。

それもそのはず、西宮球場のスタンドをイメージして設計されているのだ。

スカイガーデン内にあるイベントガーデンの「緑の観覧席」は、まさに野球場のスタンド。

その左端下部の地面にはホームベースがあしらわれている。

かつて西宮球場でホームベースがあった場所を今に伝えているのだ。

阪急電鉄にとって西宮球場と阪急ブレーブスが、いかに大切な存在だったかアピールしているかのよう。

既に“阪急ブレーブス”の名は過去のものではあるが、その遺産は今もここに息づいている。

西宮103西宮R20

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 九

西宮91西宮K09

ジオラマとガラスケースの更に奥、突き当りの壁一面には阪急電鉄の歴史を記した年表が掲げられている。

阪急電鉄の歴史を遡ると、ざっとこんな感じ。

明治43(1910)年1月15日に前身の箕面有馬電気軌道が宝塚本線と箕面支線を開業。

大正7(1918)年に阪神急行電鉄と改称。

戦時中の昭和18(1943)年、国策で京阪電鉄と合併し京阪神急行電鉄へ改称。

同48(1973)年に現社名の阪急電鉄に改称し、現在に至る、と。

同24(1949)年に京阪電鉄を分離しているにもかかわらず、京阪神急行電鉄という社名を四半世紀近く使い続けてきたところが面白い。

西宮92西宮K09

年表の横には阪急グループの歴史を映像で紹介する装置が設置されている。

特に「プロ野球の誕生」や「初の日本一」「高知キャンプ」といったブレーブス関係の歴史映像が興味深い。

阪急ブレーブスの歴史は昭和10(1935)年、小林一三翁が職業野球団の結成と、専用野球場の建設を指示したところから始まる。

ライバル会社の阪神電鉄にも球団設立の動きがあり、これに対抗する意味合いもあった。

翌11年、大阪阪急野球協会が誕生し、全7球団で日本職業野球連盟が設立された。

阪急軍以外の球団は東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、セネタース、大東京、名古屋金鯱(きんこ)軍。

翌12年には阪急西宮球場が完成。

設計にあたってはMLBシカゴ・カブスの本拠地リグレー・フィールドと同クリーブランド・インディアンスの本拠地ミュニシパル・スタジアムを参考にしたそうだ。

第二次世界大戦後の昭和22(1947)年、阪急軍はベアーズと改称し、再開したプロ野球リーグに参戦。

しかし、なかなか勝てなかったのでチーム名を公募してブレーブスに変更、ここに阪急ブレーブスが誕生した。

西宮93西宮K04

昭和25(1950)年に日本野球連盟はセントラルとパシフィックの2リーグに分裂。

ブレーブスは同じ在阪私鉄を親会社に持つ近鉄バファローズ、南海ホークスとともにパ・リーグに所属することとなった。

とはいえ1950年代は南海と西鉄ライオンズの“2強時代”であり、ブレーブスは長らく優勝とは無縁のシーズンを繰り返していた。

転機となったのは昭和38(1963)年、西本幸雄の監督就任だった。

その後ブレーブスが迎えた黄金時代については、野球殿堂のレリーフのところで詳述している。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 八

その後を受けたのは上田利治ヘッドコーチ。

上田阪急が初めて日本シリーズに出場したのは昭和50(1975)年、相手は初出場の広島東洋カープ。

広島は上田の古巣で、根本陸夫監督(当時)と衝突した挙句に退団した“因縁”の相手でもある。

ちなみに宿敵巨人は監督が川上から長嶋茂雄に代わった1年目で、球団史上初の最下位に沈んだ年でもある。

この年、阪急は広島に1勝も許さず、4勝2分で初の日本一に輝いた。

西宮81

上田阪急は昭和53(1978)年までパ・リーグを4年連続で制覇。

しかも昭和51~52年の日本シリーズは長嶋巨人相手に2連覇を達成し、かつて何度立ち向かっても歯が立たなかった恥辱をようやく濯ぐことができた。

昭和53年の日本シリーズは、これまたセ・リーグで初優勝した広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズが相手。

上田阪急が戦った4度の日本シリーズの対戦相手は2回が巨人、2回が初出場のチームだったことになる。

ちなみにこの年の日本シリーズ、セ・リーグ側の球場はヤクルトの本拠地神宮ではなく、後楽園を間借りして行われた。

当時の神宮球場はプロ野球より東京六大学野球のスケジュールが優先。

平日の昼間に開催される日本シリーズは大学野球の試合とバッティングしたため、プロのほうが身を引かざるを得なかったのだ。

第7戦、ヤクルト大杉勝男選手が放ったレフトポール際のホームラン判定を巡って上田監督が1時間19分にも及ぶ猛抗議。

結局このゲームを落とした阪急が3勝4敗で惜敗し、上田阪急が初めて一敗地に塗れた日本シリーズとなった。

西宮82

上田監督は猛抗議の責任を取って勇退するも、3年後の昭和56(1981)年に再び復帰。

その後、球団がオリックスに譲渡された後の平成2(1990)まで10年間にわたって監督を務めた。

その間パ・リーグで優勝したのは昭和59(1984)年の1度きりだが、一方で2位が5度もあり決して弱いチームではない。

1980年代は西武ライオンズの黄金時代で、その牙城を阪急が切り崩すことができなかっただけの話である。

ただ、予算をかけて戦力を補強しても2位止まりなうえ、観客動員数が激増するわけでもない。

阪急電鉄がブレーブスを手放そうと判断しても不思議ではなかったように思える。

昭和59年、上田阪急が日本シリーズで最後に戦った相手もまた、広島カープだった。

上田監督と広島の古葉竹識監督は同学年で、しかも広島時代のチームメイトと、なかなか因縁めいたものがある。

結局この年の日本シリーズは広島が4勝3敗で阪急を下し、古葉監督が昭和50年の雪辱を果たすことに。

平成3(1991)年、本拠地が西宮球場からグリーンスタジアム神戸に移転し、チーム名もブレーブスからブルーウェーブに代わったのを機に、上田監督はオリックスから身を引く。

その後、日本ハムファイターズの監督に就任するが、日本シリーズはおろかパ・リーグで優勝することもなく。

21世紀を目前に控えた1999年のオフを以ってプロ野球の現場から身を引いている。

西宮83

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 七

西宮72西宮R17

ギャラリーには野球だけでなく、鉄道やイベントなどの資料も展示されている。

ガラスケースの中には昭和9(1934)年に梅田/神戸間25分特急運転を実現したことを誇示するレトロなポスター。

その手前には特急運転に投入された920型車両の1/20スケール模型が展示されている。

その右には昭和25(1950)年に西宮球場近辺で開催された「アメリカ博」のポスター。

手前にはアメリカ博の宣伝用に塗装された800型車両の1/20スケール模型の姿が。

西宮73西宮K07

左側エリアから右側エリアへ移動すると、その真中に“野球殿堂”こと野球体育博物館(東京ドーム内)に掲げられているレリーフのうち、阪急ブレーブスに貢献した13人のレプリカが掲げられている。

先出の福本、山田両選手のほか、阪急黄金期の礎を築いた西本幸雄監督、1975~77年に日本シリーズ3連覇を達成した上田利治監督らの肖像が印象的。

その中でもとりわけ偉大なのは大阪急を築いた不世出の経済人、小林一三翁その人だろう。

西宮74西宮R14

もちろん野球競技者としてではなく、プロ野球の発展そのものに貢献した特別表彰での栄誉だが。

西本監督は昭和40年代、西暦にすると1965~74年の辺り、阪急を何度もパ・リーグで優勝させた名将。

だが、天下は川上哲治監督率いる読売巨人軍が日本シリーズ連覇街道を驀進していた∨9時代。

西本阪急はパ・リーグで昭和42~44(1967~69)年に3連覇、昭和46~47(1971~72)年に2連覇と計5回優勝している。

ところが日本シリーズでは5回とも巨人相手に苦杯を舐めさせられた。

西本監督は昭和48(1973)年に阪急を退団し、翌年から近鉄バファローズの監督に就任した。

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[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 六

西宮ガーデンズの建物へ入る前に、阪急百貨店の南側出入口にある南駐車場へ。

その側壁に設えられた植え込みの中に、二つの記念物がある。

ひとつは「ブレーブスこども会記念碑」。

西宮61西宮R09

西宮球場が存在した時代から敷地内に立っていたもの。

球場解体の際に撤去されたが、西宮ガーデンズ建設に際して再び戻ってきた。

もうひとつは「ブレーブス後援会記念樹」。

記念碑には「愛する阪急ブレーブスと野球への思いをこめてバットの木アオダモを寄贈します。」と記されている。

目立たない場所ではあるが、こうして歴史的記念物を保存してあるところに阪急の律儀さを感じる。

次に西宮ガーデンズの中へ。まだ6月だというのに非常に暑い外気に比べて建物の内部は涼しく、まさに天国。

フェスティバルガーデンにあるエレベーターで5階へ登り、TOHOシネマズ西宮OSへ。

西宮63西宮R12

その隣にあるのが「阪急西宮ギャラリー」。

西宮球場や阪急ブレーブスだけでなく、阪急電鉄や阪急百貨店の歩みに関する資料が展示されている。

中央の入口を入ると、ギャラリーは左右のエリアに分かれる。

右側エリアへは主に阪急百貨店など阪急グループに関する内容が展示されている。

鉄道系百貨店の草分け阪急百貨店も、創業時の阪急マーケット時代は店員が元鉄道マンの素人ばかりだったとか。

左側エリアの中央には1983年当時の西宮北口駅周辺を再現した1/150のジオラマがドーンと鎮座。

もちろん駅構内のダイヤモンドクロスも再現されている。

西宮62西宮R13

阪急ブレーブスの本拠地として長きにわたり務めを果たしてきた西宮球場。

その模型は手が込んでいて当時の雰囲気を彷彿とさせてくれる。

1983年当時のパ・リーグといえば暗黒時代もいいところで、観客数は絶望的な少なさ。

しかも西宮球場では競輪も開催されていたため、スタジアム周辺は一種「男の世界」的な荒んだ雰囲気が横溢していた。

1989年、阪急電鉄はブレーブスをオリックスに売却。

1991年には本拠地をグリーンスタジアム神戸に移転し、西宮球場は「空き家」に。

2002年には競輪の開催も廃止され、スタジアムの建物は解体されることが決定。

そして現在、西日本最大級のショッピングモールとして賑わいを見せているわけだ。

ジオラマの隣にはガラスケースの中に、いにしえのユニフォームや日本シリーズで優勝した時のペナントやトロフィーなど、ブレーブスの栄光を象徴する品々の数々が所狭しと陳列されている。

特に黄金時代を築いた"花の44年組"山田久志、福本豊、加藤英司の3選手については、個人所蔵のバットやトロフィーを借り受けて展示するという熱の入れよう。

今でも福本氏や加藤氏は阪神戦やオリックス戦のメディア中継で解説を務め、そのトボけた味わいが話題になったりする。

今の姿しか知らない若い人たちには、どれだけ両者が偉大な選手だったか知ることのできる稀少な場所だ。

西宮71西宮R15

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 五

翌朝、阪急梅田駅から特急列車に乗車する。

頭端式ホームにマルーンカラーの電車がズラリと並んでいる様は、まさに阪急そのもの。

車内は大学生、特に女子大生が目立つ。

両隣も、向かいの席も、目の前に立っているコも、みんな女子大生っぽい感じだ。

西宮51西宮R02

梅田から10分余りで西宮北口駅に到着。

女子大生の皆さんもゾロゾロ降車していく。

たぶん隣駅にある関西学院大学か神戸女学院の学生さんたちだろう。

後ろを付いて行きたいところではあるが、ここはグッと我慢(?)

南口方面の出口から伸びるペデストリアンデッキを歩くこと5分ほど。

そこには巨大な複合商業施設「阪急西宮ガーデンズ」がある。

敷地面積7万平方メートルにも及ぶ西日本最大級のショッピングモール。

阪急百貨店、スーパーイズミヤ、TOHOシネマズをはじめ、大小様々な店舗が軒を連ねている。

その中へ入る前、道を挟んだ向かい側にある広場へ足を運ぶ。

西宮52西宮R04

ここには「西宮北口ものがたり」という3つの逸話が紹介されている。

一つ目は「高畑町遺跡」。

西宮市で初めて出土した奈良時代の遺構について解説している。

二つ目は「阪急西宮球場」。

西宮ガーデンズが2008年にオープンする以前、ここに聳立していた阪急西宮スタジアム、通称「西宮球場」を紹介。

今回ここを訪れた目的は、西宮球場の痕跡をたどることにある。

三つ目は「ダイヤモンドクロス」。

かつて神戸本線と今津線は西宮北口駅構内で線路が平面で交差していた。

「ダイヤモンドクロス」とは、この平面軌道交差のことをいう。

西宮53西宮R06

鉄道の平面軌道交差はダイヤを組む上で非常に厄介な存在。

全国の高速鉄道でも唯一ここにしかなかったものだ。

それゆえ西宮北口駅名物として、鉄道ファンのみならず西宮市民にも愛されていたという。

西宮球場とダイヤモンドクロスは西宮北口駅のランドマークだったわけだ。

しかし1970年代から80年代にかけ、旅客輸送量が年々激増。

そんな状況下でダイヤモンドクロスは安全保安上のネックとなり、昭和59(1984)年に撤去された。

このため阪急今津線は西宮北口駅で南北に分断されることになったが、おかげで神戸本線のホームを延伸することができ、輸送力の増強に成功。

神戸本線は高架化されたが今津線の線路は今なお地上を通っている。

撤去されたダイヤモンドクロスの一部をここに埋め込み、保存しているわけだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 四

西宮41大阪駅3

梅田の地下街をブラブラ歩いていると一軒のおでん屋を見かけた。

暖簾に大きく「たこ梅」と染め抜かれている。

道頓堀にある「たこ梅」の本店は弘化元(1844)年創業という170年もの歴史を持つ老舗。

正確には「おでん屋」ではなく「関東煮(かんとだき)屋」と言うべきか。

関東の「おでん」は関西で「関東煮」と呼ばれる…よくこう言われる。

だが、おでんと 関東煮は似ていて非なる料理ではないかという気がする。

「たこ梅」に行ったことはなかったが、その名は聞いたことがあり、これ幸いとばかりに入ってみた。

西宮42大阪駅2

梅田地下街に支店が3店舗あり、ここはホワイティうめだの地下にある東店。

もうすぐラストオーダーの時間でタネも尽きかけている。

1500円の晩酌セットを注文し、タネは有り物から適当に見繕ってもらった。

ドリンクはビールと日本酒から選べるが、ここは燗をつけてもらう。

目の前に錫製のコップがスッと出てきた。

コップといっても10センチほどの高さがある円筒状のもの。

内側は漏斗のような形状をしていて、外側との間が空洞になっており、酒が冷めるのを防ぐ構造になっている。

手に持つとズシリと重く、それでいて掌にシックリとくる。

まず、突き出しの小鉢と、たこ梅の代名詞ともいえるたこの甘露煮が一串。

たこは柔らかく、そのほんのりとした味わいが日本酒と絶妙に絡み合う。

続いて関東煮が皿に盛られて出てきた。

玉子、大根、蒟蒻、それにひろうすの4品。

ひろうすとは、おでんでいうところのがんもどき。

まずは大根を箸でサクッと割り、口に運ぶ。

苦味のない大根に出汁が染みわたり、うっすらとした甘みが口腔いっぱいに広がる。

味わいは思った以上に濃い目だ。

よく関東は濃い味、関西は薄味といわれるが、濃さだけなら東京のおでん屋とさほど変わらないようにも思える。

それぞれのタネに箸をつけたところで酒が尽きたので、もう一杯追加で注文。

皿の上からネタが消え、グラスの中から酒が尽きたちょうどその頃、閉店時間に。

今度はもっと早い時間に来て名物の鯨料理、例えばさえずり (ひげ鯨の舌)、ころ(皮)、すじ肉などを味わってみたい。

いや、次に行くのならここではなく、道頓堀の本店にしよう。

そんなことを思いながら、たこ梅の東店を後にした。

西宮43大阪駅2

[旅行日:2014年6月22日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 三

そろそろ試合開始時間が迫ってきたので、スタンドの中へ。

既に客席は7割方埋まっており、まだまだ試合は始まらないのに、この気合の入りようたるや。

西宮31甲子園K06

席は3塁側アルプススタンドの、フィールドに近い場所。

本来3塁側は楽天サイドなのだが、ほとんどがタイガースファンで占められ、その中に楽天ファンの紅いユニフォームがポツリポツリと散見される程度だ。

隣席は熱狂的なタイガースファンの一家。

黄色いレプリカユニフォームを着た若い父ちゃんを筆頭に母ちゃん、小さな子供が2人、それに爺ちゃんという構成。

父ちゃんは既に出来上がっていてエキサイトしているが、子供たちはそれほど熱狂的でもなさそうだ。

西宮32甲子園R08

各ポジションでタイガースガールズが小さな子供たちと一緒に、選手たちが守備位置に就くのを待つ。

始球式はWBC世界バンタム級チャンピオン山中慎介。

ワンバウンドでの投球でも場内は拍手喝采の嵐。

というわけで、いよいよプレイボール!

ところが…阪神の先発能見が大乱調。

隣の父ちゃんも最初こそ普通に応援していたが、能見の不甲斐ない投球に立腹したのか次第に“叱咤激励”という名の野次を飛ばしまくるように。

5回終了までに5対0と阪神が劣勢。だんだん場内の雰囲気が険悪に…。

隣の父ちゃんも怒りがマックスに達したのか、細身のメガホンで子供の頭を小突いたりしている。

メガホンは、そんなんするためにあるわけちゃうで!

6回裏ようやく1点を返し、7回表終了時で4点のリードを許している阪神。

勝利を信じて360度あまねく方向から無数のジェット風船が打ち上げられるが…結局5対1のまま阪神は敗戦と相成った。

終盤、雨が落ちてきたので最後まで見ずに席を立ったため、どのような形で隣の熱狂タイガース一家が敗戦を迎えたのかは、知らない。

ただ、今回の観戦には少し物足りなさが残る。

いつか高校野球を観戦しに、甲子園歴史館とセットで訪れてみようか。

西宮33甲子園R13

その夜は梅田まで戻り、大阪駅近くのホテルに宿泊。

それにしても久しぶりに来た大阪駅は、まるで別の駅のようだ。

[旅行日:2014年6月22日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 二

球場を取り巻いている阪神ファンの方々は既に出来上がっている感じ。

いつ試合が始まっても準備万端ってところだろうか。

ヤフオク!ドームを除く他のフランチャイズ10球場すべてで観戦したことがあるが、甲子園に集うファンの質は、どの球場とも異なる。

裾まで届こうかというダランとした法被を着、頭に被るキャップには球団旗の小旗を立て、馬鹿でかいメガホンを手にしてのし歩くファンの姿は、野球観戦というより宗教施設に集う信者という趣だ。

阪神ファンにとって甲子園球場とは単なる野球場ではなく、巨大な祝祭場なのだろう。

西宮21

ちょうど半周し、スコアボードの裏側付近まで来た。

ここに「野球塔」というオベリスクのようなものが立っている。

これはタイガースとは関係なく、高校野球を記念して立てられたものだ。

初代は昭和9(1934)年に行われた第20回全国中等学校優勝野球大会を記念し、朝日新聞が建立。

しかし太平洋戦争の空襲により跡形もなくなってしまった。

二代目は昭和33(1958)年に行われた第30回選抜高等学校野球大会を記念し、毎日新聞が建立。

しかし老朽化により、甲子園球場のリニューアル工事とともに平成18(2006)年に撤去。

そして現在の三代目は平成20(2008)年、春と夏の高校野球大会がそれぞれ80回と90回という節目を迎えたことを記念したもの。

高野連と朝日新聞、毎日新聞の三者により、リニューアル工事の完了に合わせて平成22(2010)年3月に落成した。

真下まで行って野球塔を見上げてみる。

やはり塔というよりもオベリスク、どこか宗教的建造物っぽさが伺える。

西宮22甲子園K04

野球塔のすぐ近く、レフトスタンドの下に「甲子園歴史館」がある。

ここには甲子園球場、高校野球、タイガースの歴史が一堂に展示されているという。

だが、下手に入ってしまうとと試合開始に間に合わなくなる可能性があるので、ここはスルー。

歴史館の隣にあるタイガースショップも人で溢れている。

ちなみにタイガースショップは東京にもある。

それも地下鉄銀座線外苑前駅と神宮球場を結ぶ神宮スタジアム通りのド真ん中。

東京ヤクルトスワローズの“本丸”の目と鼻の先に、まさに出丸を築いたようなものか。

ただ、神宮球場も阪神戦だとタイガースの本拠地みたいな様相を呈するので、あまり違和感ないのだが。

しかも最近になってヤクルトも後を追うかのように、タイガースショップの近くにオフィシャルショップを出店。

おしゃれタウン青山で勃発した虎と燕の代理戦争。

ヤクルトも甲子園の近くにオフィシャルショップを出店して決着を付ければいいのだろうけど、需要が見込めないのは何となく分かる。

西宮23甲子園K05

[旅行日:2014年6月22日]
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