尾張國一之宮「真清田神社」

一巡せしもの[真清田神社]01

rj01真清田4T02

豊川稲荷駅を発車した急行電車は名鉄一宮駅へ向けて三河路を順調に疾走している。

朝方まで降っていた雨は止み、空も次第に明るくなってきたように見える。

それにしても三河と尾張の一宮を直結する急行電車を走らせるとは、さすが地元に密着した私鉄だけある。

この急行、まさに「三尾一宮エクスプレス」!
 
…個人的に勝手に命名しただけで、そのような正式名称どこにも付いてないけど。

折角の「三尾一宮エクスプレス」だが、車内は空いている。

それもそのはず、両駅間を乗り通すと2時間半以上もかかるのだ。

国府駅で接続する豊橋からの特急列車に乗り換えれば、もっと早く到着できるのだが。

しかし特急列車は混んでるし、それに乗り換えるのも面倒だったので、この急行電車に乗り通した。

後になって考えると、むしろこちらで正解だったように思える。

余裕の時間と空いた車内のおかげで三河一宮の復習と、尾張一宮について予習できたからだ。

それに下総一宮香取神宮や遠江一宮小國神社では徒歩移動だけでも同じぐらいの時間がかかったのだから、まだマシ。

これまで一之宮から一之宮へ転々とした中で、最も楽な移動だったように思えたほど。

まさに「三尾一宮エクスプレス」サマサマである。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]02

rj02真清田4T01

「三尾一宮エクスプレス」は名古屋の手前で神宮前駅を通過した。

駅名の「神宮」とは、もちろん熱田神宮のこと。

名古屋の熱田神宮、実は尾張国三之宮である。

尾張の一之宮は真清田神社、二之宮は犬山市の大縣神社(おおあがたじんじゃ)。

それがなぜ日本有数の神社である“熱田様”が三之宮で“真清田様”が一之宮なのか?

そもそも熱田神宮とは如何なる神社なのか?

広く知られている通り、熱田神宮のご神体は三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」。

鎮座の由来は古事記中巻「景行天皇」段と、日本書紀巻第七「景行天皇」に記されている。

日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)は第12代景行天皇から命を受け、西方の熊襲を平定した。

ところが凱旋した日本武尊命に景行天皇は間髪入れず、今度は東方の蝦夷を征伐せよと命じる。

命令を嫌々ながらも拝受した日本武尊命、東方へ向かう途中で伊勢神宮に立ち寄り、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)と面会。

号泣しながら「天皇は私を酷使して殺す気か!」と、現代のブラック企業もビックリの悲嘆さを訴えた。

そんな日本武尊命に倭姫命は餞(はなむけ)として一振りの太刀を授けた。

それが「草薙神剣」、別名「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)である。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]03

rj03真清田4T03

伊勢神宮を出立した日本武尊命は尾張国造の祖先である豪族、尾張氏の家に宿泊した。

その家の娘、宮簀媛命(ミヤズヒメノミコト)と夫婦になる約束を交わした日本武尊命は東国に向けて出発。

無事に平定して尾張氏のもとへ還ってきた日本武尊命は、宮簀媛命と契を交わして晴れて夫婦に。

日本武尊命は次に伊吹山(岐阜と滋賀の県境)の神を征伐するため、宮簀媛命に「草薙神剣」を預けて再び征旅へ。

なぜ「草薙神剣」を預けて出立したのかというと「そんな神など素手で十分」と侮っていたからだとか。

ところがそんな侮蔑が仇となり、伊吹山の神から思わぬ逆襲を喰らってしまう。

ダメージを受けた日本武尊命は美濃から伊勢へと歩を進めるも、足が浮腫んで三重の餅みたいな状態に。

なので、この地方を「三重」と呼ぶのだと「古事記」は記している。

やがて日本武尊命は能煩野(のぼの)という土地にたどり着いた。

現在の三重県亀山市、能褒野王塚古墳があるところ。

嬢子(をとめ)の 床の辺に
我が置きし つるきの太刀 その太刀はや

宮簀媛命と草薙神剣に最後まで思いを馳せた辞世の句を残し、この地で病没してしまう。

日本武尊命の薨去を深く嘆き悲しんだ宮簀媛命は“遺品”の草薙神剣を熱田の地に祀った。
  
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]04

rj04真清田4T31

つまり伊勢神宮を創建した倭姫命から下賜された草薙神剣を祀ったのが熱田神宮の“起源”。

伊勢神宮に準じた御神威が熱田神宮に存在する理由、これで理解できる。

伊勢神宮、実は伊勢國一之宮ではない。
その理由は日本國一之宮だから故。

その伝で言えば熱田神宮は日本國三之宮であり、尾張國一之宮の必要はないという理屈が成り立つ。

日本國の一之宮を皇大神宮(内宮)、二之宮を豊受大神宮(外宮)と仮定すればの話ではあるが。

しかし、これで「なぜ熱田神宮が尾張國三之宮なのか?」という謎が解けたわけではない。

その謎については真清田神社に到着してから、改めて考えてみよう。

「三尾一宮エクスプレス」は12時32分、名鉄一宮駅に到着した。

一宮駅は名鉄のそれと、JRの尾張一宮駅がある。

日本には「一宮」を名乗る駅は幾つかあるが、なかでもここ尾張一宮駅の巨大さは別格。

隣の三河一宮駅と比べれば、華美な尾州と質素な三州の気質の違いが如実に分かるような気もする。

そもそも地方自治体の名称からして「一宮市」。

町村を含めて一宮を名乗る自治体は愛知県一宮市と千葉県一宮町の二つしかない。

以前は全国各地に「一宮町」が幾つも存在していたが、相次ぐ「平成の大合併」で上総の一宮町以外すべて“消滅”してしまった。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]05

rj05真清田4T04

駅東口から伸びる伝馬通り(県道457号線)を進むとアーケード街との交差点に出た。

本町通り商店街。
フルアーケードで覆われた見事な商店街が真清田神社まで一直線に続いている。

表参道そのものが巨大な商店街なのだ。
さすが「一宮市」を名乗るだけあると感心。

真清田神社を中心に発展してきた町だけにスケールが違う。
本町通り商店街をブラブラしながら門前を目指す。

一宮市のメインストリートのはずだが、ここもご多分に漏れずシャッター通り化が進んでいる。

買い物は自家用車で郊外のショッピングモールへ…という傾向が全国的に普遍化している昨今。

江戸時代以来の歴史を持つ商店街や、旧来の駅前商店街が斜陽化している姿は全国共通。

しかし、こうした古寂びた商店街にこそ侘び寂びの味わいが潜んでいるものだと、個人的には確信している。

例えば途中で見かけた鰻屋の、年季の入った店構え。
店名は「寿司友」なのに、なぜか鰻専門店なのが愛おしい。

愛しさのあまり賞味していこうかと思ったが、時間と御足がないため断腸の思いで諦める。

商店街を先に進むと、右手に石造りのクラシカルな建物が見えてきた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]06

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近寄って名称を見ると「一宮市役所西分庁舎」とある。
元は銀行のビルだったという。

正面にはギリシアのパルテノン宮殿にあるようなギザギザで極太の柱が4本ほど立ち並んでいる。

専門用語で「ドーリア式オーダー」というこの様式、確かに戦前に建てられた銀行の建物でよく見かける。

看板の上にはからくり時計が設えてあり、ちょうど13時の鐘が鳴っている。

西分庁舎の裏手には市役所一宮庁舎があり、こちらのデザインもクラシカル。

無味乾燥なデザインの官庁舎が氾濫する今の世の中で、オーセンティックなデザインを貫く姿勢には好感が持てる。

商店街に延々と立ち並ぶ商店や家々は往年の雰囲気を漂わせている。

そんな中、建物そのものは古いのに店構えは妙にイマ風でオシャレなカフェを発見した。

伝統を温めつつ新しいトレンドを取り入れる…まさに温故知新そのもののようなお店である。

繊維産業で栄えた工業都市と宗教都市の両面が融合し、このような形で具現化されたのか?

一体どんな店なのか興味シンシンとばかりに歩み寄り、店頭の黒板を見ると…なんとガールズバー!

温故知新過ぎるだろ! これでは温故知アヴァンギャルドではないか? と、思わずツッコミを入れる。

昼間なので幸いにも(?)営業してなかったが、もし開いてたら迷わず入店していたところだ。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]07

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本町通り商店街は真清田神社に近付くにつれ、寂れ具合が高まっていく。

そして、いよいよ終わりが見えてきた。

といっても商店街の命脈が尽きるという意味ではなく、アーケード街の出口が近づいてきたということ。

そして出口の手前で一軒の閉鎖された店舗を見た時、寂れ具合がピークに達した。

正面には「横井百貨店」と記された銘板と、緑地に白字で「YOKOI」と描かれた店名の看板。

だがシャッターで出入口は固く閉ざされ、その上に掲げられた新作発表会の告知看板は朽ち果てて何の新作なのか分からない。まさに“亡骸”だ。

かつては一宮市を代表する老舗デパートだったのだろうが、商圏の郊外化という全国共通の宿痾によって命脈を断たれたに違いない。

こうした老舗デパートの亡骸は全国各地に転がっている。

しかも上屋が残っていると往時には繁盛したであろう姿が忍ばれるだけに切ない。

せめて解体し更地にでもしておいてもらったほうが、まだ切なさを感じずに済むのだが。

横井百貨店を見るまでもなく、やはり全体的に空き店舗が目立ち、シャッター商店街化が進んでいる。

モータリゼーション絶対主義の現代では、商圏の郊外化と中心部の衰退を覆すことは不可能だろう。

もっと観光資源を掘り起こして、クルマを当てにしない商店街作りをしていかないと、本当の意味で本町商店街に終わりが来てしまうのではなかろうか?

そんなことを思いつつ薄暗いアーケード街を抜け、光の差し込む方向へ歩み出る。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]08

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国道155号線、通称「岐阜街道」を挟んだ向こう側に尾張國一之宮、真清田神社(ますみだじんじゃ)の姿。

門前の手前にはちょっとした広場が広がり、鳥居と社号標は少し奥に引っ込んだところに立っている。

広場の前に立って左右を見渡すと、そこには小さな衣料品店が軒を連ねている。

昔から繊維の街として有名な一宮市の繁栄を今に伝える光景。

だが、この日は残念ながら開けている店が少なかった。

多分、人出の多い正月や祭りの時には全開バリバリなのだろう。

それにしても真清田神社は何故、鳥居をこんなに奥まったところへ建てたのだろうか?

大きな通りに面している神社なら、普通は鳥居を通り際の目立つ場所に建てるものなのに。

同市の博物館によると江戸時代、真清田神社の門前には「三八市」という公認市場が立っていたという。

享保12(1727)年に一宮村民の請願が認められ、最初は小さな物々交換の場として誕生したという三八市。

木曽川の水運に加え、名古屋と岐阜を結ぶ岐阜街道の宿場町という、水陸交通の要衝に位置している利便性が幸いして次第に規模が拡大。

市場開設から約100年後の天保13(1842)年には500以上もの店が軒を連ねるまでになったとか。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]09

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店の種類は古着や小道具を売買する古手屋が最多で、糸売買商、綿屋がそれに次いでいたそうだ。

こうした歴史的な経緯を踏まえて一宮市民から意見を募り、平成15(2003)年に整備されたのが、このちょっとした「宮前三八市広場」。

門前の両脇に衣料品店が軒を連ねているのも、400年も前に生まれた三八市の名残りなのだろう。

だが、そうした“歴史的遺産”といった風情は微塵も感じられず、時の流れに身を委ねて風化していくのを待っているようにも見える。

三八市の名残りではなく、武蔵國一之宮氷川神社で触れた「バラック通り」同様の扱われ方なのか?

そう考えると風前の灯火にも見える、この寂れた仲見世にも自ずと愛着が湧いてくる。

宮前三八市広場のド真ん中に立ち、真清田神社を眺める。

質素な石造りの明神鳥居と堂々とした社号標の向こう側に、黒々とした楼門が聳えている。

社号標の正面に刻字されているのは「真清田神社」の五文字のみ。

揮毫は名古屋生まれの書家、大島君川が数え年68歳の時に記したもの。

大島は愛知県の役人を長らく務め、県内にある碑文の揮毫を多く手掛けてきた。

社号標は昭和4(1929)年7月に倒壊したが翌年8月、篤志家が奉納して再建されたという。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]10

rj10真清田4Tttl

鳥居をくぐって境内に進む。

正月が近いせいか、黒々と「初詣 真清田神社」と墨書された幟が2本、風にそよいでいる。

奥の楼門には白の地に緑色の明朝体で「迎春」と大きく横書きされた横断幕。

さらに鳥居から楼門に向かって、酒の菰樽が2つづつ縦に置かれた形で一直線に並んでいる。

先頭に据えてある酒の銘は「真清田」と「金銀花」。

いずれも地元一宮唯一の蔵元、金銀花酒造の地酒だ。

「真清田」は真清田神社に奉納される御神酒で市販もされている。「金銀花」は酒蔵の看板酒だ。

金銀花酒造は江戸時代の享保年間に創業した老舗。

ここの酒は犬山から一宮へと流れる木曽川の伏流水を用い、女性の杜氏が仕込んでいるそう。

社号「真清田」の由来は、この一帯が木曽川の灌漑用水に恵まれ、その清く澄んだ水で水田を形成していたことから名付けられたと云われている。

真清田神社の御神酒として、尾張産の酒米を木曽川の伏流水で醸した酒ほど相応しいものはない。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]11

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楼門の前には石造りの神橋が架かっている。
 
それにしても橋と呼ぶには小さ過ぎる。

しかも「神橋不可渡」と刻まれた古い石標が立ち、鉄柱に繋がれたチェーンが不心得者の行く手を阻んでいる。

神様が渡るための橋なので、人様は渡ってはならぬのか。

そう思いきや、橋の横に「危険なので渡らないで下さい」との立て看板。

単に上を歩くと崩落する恐れがあるからのようだ。

石標と立て看板の指示に従い、橋の横を通って楼門の前に出る。

正面上部に掲げられた扁額には「真清田大神」と刻まれている。

人間国宝の故・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏が、聖武天皇の御宸筆と伝わる焼失前の旧扁額を模して彫刻したものだ。

扁額には「真清田大神」とあるが、主祭神は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)。

天照大御神の孫神で、本名は「天照国照彦天火明命」(あまてるくにてるひこ~)という。

天を照らし国を照らす天の火の明かり…つまり太陽エネルギーそのもののような名前だ。

全国各地のソーラー発電所は真清田神社の大麻をお祀りすれば、太陽光に不自由することはないかも知れない。

楼門をくぐって境内へ。

楼門といえば朱色が多い中、黒々とした色合いの中に白いアクセントが効いた外観は独特なインパクトがある。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]12

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真清田神社の社殿群は昭和20(1945)年7月28日、第二次世界大戦の空襲で悉く焼失したため、すべて戦後に再建された。

この楼門もまた昭和36(1961)年11月、一宮市民を中心に寄せられた浄財を以って再建されたもの。

焼失した戦前の楼門にも勝るほどの総桧造りで、戦後の木造建築の白眉とされているそうだ。

入ってすぐ左側の手水舎は、その空襲を奇跡的に免れたもの。

水を滔々と流し続ける“吐水龍”は寛永8(1631)年、尾張藩祖徳川義直公が社殿を全面的に修造した際、龍神を祈雨祈晴の象徴として奉納したもの。

それから300年以上が過ぎた平成8(1996)年、経年劣化のため初代は引退。

現在の二代目に跡を譲った。
 
もちろん二代目は初代の忠実なレプリカである。

正面を向くとスクエアな空間の向こう側に社殿群が聳えている。

手前から奥に向かって拝殿→祭文殿→渡殿→本殿の順に並び、それらが連接した「真清田造り」と呼ばれる独特の配列。

棟木(屋根の最高位に取り付けつけられる材木)の向きが、拝殿と渡殿は南北方向、祭文殿と本殿は東西方向と互い違いになっている。

上空から見ると十字の形に建っているはずで、まるでヨーロッパの巨大な教会のよう。

先述の通り社殿は戦災で灰燼に帰し、再興されたのは終戦から10年余りが過ぎた昭和32(1955)年のこと。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]13

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御用材は名古屋営林局から払い下げられた木曽檜が充てられ、本殿内の御扉や柱桁などは伊勢神宮から特別に下賜された古材を使用しているそうだ。

戦後の建築物にも関わらず、平成18(2006)年には本殿と渡殿が国の登録有形文化財に指定されている。

再建だからといってコンテンポラリーな様式にするのではなく、失われた往時の姿を丹念に再現したところが評価されたのだろうか。

その拝殿に向かって拝礼し、真清田大神と心を通わせる。

明け方の雨は既に上がり、天候は完全に回復。

頭上には青空が広がり、むしろ暑いぐらいだ。

社伝によると創建は神武天皇33(紀元前627)年。

先述した天火明命は、この地に「尾張」と命名した天香山命(あめのかぐやまのみこと)の父神。

大和国葛城から移住してきた尾張氏は、この一帯を開拓して土着の豪族になった。

天香山命の子孫を名乗っていた尾張氏は、祖神として父神の天火明命を祠った。

それが尾張国の総産土神、真清田神社の起源…とされている。

尾張氏はヤマト王権で軍事や祭祀を統べていた物部氏と深い関係にあった。

このことから、尾張氏が祖先と仰ぐ天火明命もまた、天孫に名を連ねるようになったと言われている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]14

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拝殿の前を離れ、社務所の前から社殿の全体像を眺めてみた。

雨で濡れた拝殿前の敷石に空の青さが映り込み、境内に清々しさを演出している。

拝殿の前にはお宮参りだろうか、幼子を連れた若夫婦が嬉々として写真撮影に勤しむ姿。

それらすべてを含めた真清田神社のランズケープに、日本人にとっての神社の在り方そのものが映し出されているような気がした。

視線を左側に向けると、小さな建物が目に止まった。

摂社末社でも手水舎でもなさそう。

近くに寄って看板を見れば「神水舎」と記されている。

承暦元(1077)年、眼病を患われた白川天皇の夢枕に、八ッ頭八ッ尾の大龍に乗って両手に松と桃の枝を携えた老翁が立たれた。

この夢について白川帝が占わせたところ、その老翁は真清田大神の霊夢であるとの奏申を得た。

さっそく白川帝が真清田神社の井戸水で眼を洗われたところ、たちまち病が癒えたという。

井戸水の中を覗きこむも暗くてよく見えないが、その水は今もコンコンと湧き続けている…はずである。

拝殿の前を横切って境内を東側へ向かい、本殿の右隣に建つ摂社の服織神社(はとりじんじゃ)へ。

社号の如く機織守護の神で、天火明命の母神である萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつりひめのみこと)を祀っている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]15

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繊維産業は古くから三河尾張地方の重要な産業。

トヨタ自動車も元をたどれば自動織機の製造会社が原点だったことは砥鹿神社のところで触れた通りだ。

天火明命は農業守護の神であり、母子の両神をセットにすることで衣食の充足の重要性を表現しているのだろうか。

社殿はコンクリート製で味気ない建物だが、中に入ると天井から白布が幾重にも垂れ下がっている。

その空間を一迅の風が吹き抜け、白布がパタパタと音を立てて一斉に揺らめいた。

お出迎えも幻想的で清々しいエロティシズムが漂い、さすが機織守護の女神だけあるとウットリ。

萬幡豊秋津師比賣命は別名「棚機姫神」(たなばたひめのかみ)とも呼ばれている。

読んで字の如く七夕祭りの織姫のことで、一宮市では毎年7月末に「一宮七夕まつり」が行われる。

仙台、平塚と並ぶ「日本三大七夕祭り」を標榜しているが、仙台も平塚も特に繊維産業が地場産業というわけではない。

織姫様を機織りの神様として奉るという意味合いでは、一宮の七夕が最も相応しい祭りかも知れない。

毎年この「一宮七夕まつり」では公募した女性からミス七夕とミス織物が選ばれ、祭りのハイライト「御衣(おんぞ)奉献大行列」に参列する。

「御衣奉献大行列」は特産品の毛織物を真清田神社に奉納する大行列で、その長さは延々500メートルにも及ぶという。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]16

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どこのお祭りにも付き物のパレードだが、この「御衣奉献大行列」は神事の色合いが比較的強い様子。

ミス七夕&織物も織姫様の装束を身につけ、パレードのトリとして最後尾を行進する。

ちなみに布地の女神の祭典だけに、布の使用量が少ない水着姿にはオーディションも含めて一切なることはないそうだ。

服織神社から更に東へ向かうと、境内の東端に位置する神池に出る。

室町時代後期の古絵図にも描かれているというから、かれこれこの地に500年も前から存在していることになる。

神池には「開運橋」が架かり、池の真ん中にある中島とを結んでいる。

「開運橋」は平成10(1998)年に完成したもので、中島には末社の八龍神社が鎮座している。

真清田神社には2つの龍神伝説がある。

ひとつは嵯峨天皇の時代、弘法大師が雨乞で大雨を得た際、祈願した龍神が真清田神社の森に鎮まったという伝承。

もうひとつは御祭神が鎮座される際に八頭八龍の大龍が下り、創建当初から境内に龍神が鎮まるとする伝承だ。

龍神は水を司る神だけに、木曽川の恵みで潤ってきた一帯の信仰とは切っても切り離せない存在であり続けたのだろう。

境内を横切って今度は反対側の西端に向かうと、拝殿の左側に神楽殿が建っている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]17

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真清田神社は鎌倉時代に順徳天皇から篤く崇敬され、多数の舞楽面を御奉納された。

それらは木彫りの技術が最も発達した時期に製作されたもの。

12面が重要文化財、7面が県文化財に指定され、現在でも真清田神社に保存されている。

「真清田神社縁起」によると、中世には大きな神事や仏事の度に舞楽が行われていたとある。

また、天皇即位の祭儀「大嘗祭(だいじょうさい)」など宮中の重要な儀式で奏されていた「久米舞」が、ここで蘇ったという。

建国神話に由来する「久米舞」は古典芸能の粋を現代に伝える貴重な演目なのだが、応仁の乱で断絶して以来、長らく廃絶していた。

江戸期になって真清田神社が保管していた烏帽子(えぼし)箱の中から「久米舞」の譜面が発見された。

それを基に文政元(1818)年11月、仁孝天皇の大嘗祭から再び演奏されることになった。

真清田神社では現在でも毎年4月29日を舞楽神事の日に定めて、数々の演目を奉納している。

徳川八代将軍吉宗の徹底した倹約を旨とする「享保の改革」に、尾張藩主徳川宗春がド派手な施策を打ち出し真っ向から対立するという有名なエピソードがある。

宗春が打ち出した施策の裏側には、真清田神社をはじめ尾張国に脈々と受け継がれてきた歌舞音曲の歴史が重要な役割を果たした側面があったのではなかろうか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]18

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つまりド派手は施策は宗春が突発的に思いついたわけではない。

尾張国に連綿と受け継がれてきた歌舞音曲好きの“民族性”が、宗春の存在を介在して現世に姿を現したのだ。

神楽殿の建物を眺めるうち、判官ならぬ“宗春”贔屓が嵩じたのか、そんなことを想った。

境内西端の出入口に建つ鳥居から境内の外に出で、外周道路を楼門の方面へグルリと回ってみる。

楼門の手前に立つ中央の白い建物は宝物館。

だが、その左隣りに、なぜか星条旗が掲げてある。

尾張国一之宮とアメリカ国旗……一体いかなる関係があるのか?

近づいて見ると何かの食べ物屋の様子。
 
看板を見ると「お茶漬け」と書いてある。

どうやらお茶漬け屋らしい。
 
店名は「ニューヨーク」。

入口には名古屋のローカル番組のステッカーや、掲載された雑誌の記事が所狭しと貼ってある。

地元では結構な有名店なのだろうか?

看板には「揚げ明太子」(油に入れたとき粒々が一斉に破裂しないのだろうか?)とか「フォアグラ」「フカヒレ」と列記してある。

更には「鯛 吉兆」や「瓢亭の朝粥」までも。

ここで京都屈指の老舗料亭の名物が食べられるのか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]19

rj19真清田4T29

しかし、これは間違いなく「当たりの店」だという予感が働く。

入ってみようと思ったが、残念ながらアイドルタイムで準備中だった。

再び宮前三八市広場に戻ってきた。

鳥居と楼門を眺めながら「なぜ熱田神宮が尾張國三之宮なのか?」という謎について考えてみる。

真清田神社で頂いた栞「東海五県一宮巡りのご案内」では、こう一之宮を説明している。

一宮とは、一の宮・一之宮とも書かれ、各地域の中で最も社格の高いとされる神社のことで、国司が任国に赴任した時などに巡拝する神社の順序とされています。

つまり一之宮の“一”という数字は格の高さではなく、国司が巡拝する神社の順番ということになる。

このことは武蔵国一之宮の小野神社と、三之宮だった氷川神社のところでも触れた。

尾張国の国衙(国府)は一宮市の隣、稲沢市松下に存在したと推測されている。

現在ここには総社の尾張大國霊神社があり、別名はズバリ「国府宮」。

総社とは国司が国内の神社を巡礼する手間を省くため、各社の祭神を勧請して一つ処に祀った神社のこと。

総社は国司が参拝し易いように国府の近くに建立されることが普通なので、ここに国府があったことは、まず間違いなさそう。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]20

rj20真清田4T11

国府の近くから参拝する順に番号を割り振っていったので、最も近い真清田神社が一之宮。

次いで犬山の大懸神社、そして熱田神宮という順で番号が割り振られた…と考えるのが最も合理的だろう。

そもそも熱田神宮が“神宮”になったのは明治維新の神仏分離令以降、それまでは熱田“神社”だった。

尾張国府が築かれた当時、ひょっとしたら国司側には真清田神社と熱田神社の間に現在ほどの宗教的“格差”意識などなかったのかも知れない。

しかし三種の神器“草薙剣”を祀る熱田神社のプライドは高く、それに辟易した国司サイドが三之宮に留め置いた…ということも考えられる。

神々の世界にしては妙に人間臭い話だが、こちらの説のほうが物語としては面白い。

江戸時代に東海道五十三次で門前に宿場町“宮”が整備されたおかげで、その名が旅人達によって全国的に喧伝された熱田様。

一方、尾張の首府が名古屋に移った後も、尾張発祥の地に足を着けて一帯の守護神を務め続けた真清田様。

両者の関係性に諸説あろうとも、尾張国だけに限れば、やはり筆頭の神社は真清田神社にこそ相応しいのではないか?

後ろを振り返り、本町商店街のアーケード街を眺めているうち、そんなことが頭に浮かんできた。
 
[旅行日:2012年12月22日]
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