三河國一之宮「砥鹿神社」

一巡せしもの[砥鹿神社]01

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天浜線西鹿島駅は、帰宅ラッシュの時間ド真ん中とあって通勤通学客でごった返している。

天浜線と遠州鉄道(遠鉄)線の各ホームと駅舎を結ぶ地下道も人の波。
そこを掻き分けて遠鉄線の電車に乗り込む。

結構な数の乗客は途中駅に着いても減ることはなく、終着駅の新浜松に到着するまで混雑したまま。

遠鉄線に初めて乗ったものの、既に日が落ちていたこともあって、沿線風景は何一つ記憶に残らないまま下車した。

JR浜松駅へ向かう道すがら、クリスマスを前に駅も周辺の繁華街もきらびやかにデコレーションされている。

まだまだ不況だなんだといっても金はあるところにゃあるもんだと感心しつつ、浜松駅に到着。

豊橋行き普通電車に乗るため中に入ると、構内が異様にごった返している。

さすが三連休の前だけあるなぁと関心したが、それにしては人が多すぎる。

そこにアナウンスが聞こえてきた。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]02

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「事故のため東海道線下り方面は全面的にストップしております」

おまけに「運転再開の見通しは立っておりません」とのこと。

好況だからでも何でもなく、単に事故の影響で人が溢れていただけだった。

しかし復旧すれば再度お知らせすると言っているので、それほど酷い事故ではなさそう。

だが、いつになるか分からない運転再開を、ここでボーッと待っているのもツマラナイ。

そこで駅前に出、一杯やれそうな店を色々と物色してみる。
 
腰を据えて飲みたいわけでもなく、ちょっと暇を潰せればそれでいい。

希望としては立ち飲み屋、若しくはカウンター主体の居酒屋、この際なので蕎麦屋でもいい。

しかし目に付くのは全国各地どこででも見かける全国チェーンの居酒屋ばかり。

ちょい飲みできる店、何処かにないものかと駅の隣のビルに入ったら一軒の蕎麦屋を発見。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]03

rj03砥鹿t4u000

昼は立食そば屋として営業しているが、夜は一杯飲み屋に変身するようだ。

ここで生ビールと板わさを注文すると、お通しに山葵の茎の漬け物が出てきた。

さすが静岡名産! と感心しつつ、生ビールをおかわりし、〆て千円強と理想的な金額。

しかも十分に時間も潰せて言うことなく、なんて素敵な店なのかと改めて調べたところ。

実は大手外食うどん会社のブランドショップで、東京にも支店が何軒もあった。

地元浜松の店でなかったのは残念だが、手頃なことは手頃。

今度、東京でも似たようなケースがあれば利用してみたいと思う。

いい心持ちで店を出、駅へ戻ると東海道線は復旧していたが、ダイヤは大幅に乱れたまま。

取り敢えず来た電車に乗り、豊橋駅で飯田線に乗り換え。

飯田線のダイヤは乱れていないものの、電車の本数そのものが少ない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]04

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豊橋と新城の間は電車の本数が比較的多いほうなのだが、それを含めても30分に1本の割合。

それに東海道線事故の影響か、飯田線のホームには結構な数の乗客が待たされている。

寒風吹きすさぶ中を耐え忍ぶうち、ようやく姿を表した20時41分発の水窪行き普通列車に乗車。

漆黒の闇に塗りつぶされた車窓をあてもなく眺め続けているうち、20時59分三河一宮駅に到着。

駅を出ると周辺には目立った商業施設が何も見当たらず、電車を降りても闇のまま。

商店のネオンサインなども当然なく、薄暗く細い道を国道へ向かってトボトボと歩く。

伊那街道(国道151号線)と合流しても食べ物屋はおろかコンビニすら1軒もない。

ただひたすら国道沿いを歩くうち、目の前に巨大な構造物が姿を現した。

東名高速道豊川インターチェンジ(IC)。

今宵の宿は、その手前にあるロードサイドホテルである。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]05

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ここは地理的に自動車での旅行者を念頭に置いているのが明白で、鉄道旅行者は眼中にない。

それはそうだろう、鉄道旅行者は隣の豊川駅近辺に泊まったほうが宿の数も多く便利に決まっている。

しかし一之宮巡礼者としては、どうしてもここに宿泊しなければならない理由があったのだ。

ホテルにチェックインし部屋で一服しつつ、改めて考える。

ホテル内の食堂は営業しておらず、食事は外へ行くしかない。

とはいえ、この近辺に目ぼしい店舗が皆無なのは駅からの道すがら見てきた通り。

それでも何かしらあるかと思い、三河一宮駅とは逆方向の豊川IC方面へ足を向けてみた。

インターチェンジを迂回する歩道をグルリと歩いていると、西洋の御城みたいなラブホテルが登場。

インターチェンジにラブホテルは付き物だが、ここは「ビジネス宿泊プラン」という看板をデカデカと掲げている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]06

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昨今ではカップル相手だけでは商売にならず、一人客も取り込もうという魂胆なのだろうか。

考えてれば一人で使うのならベッドは広いし、浴室もユッタリしているし。

狭いビジネスホテルの客室を鑑みれば、朝食込みで4980円なら格安だと言える。

しかしホテルの予約サイトなどにはリストアップされていないから、遠方から事前に予約するのは難しいだろう。

東名高速道の向こう側に出てみると、そこは別世界だった。

コンビニ、回転寿司、牛丼屋、ファミレスと何でもござれ。

こちらのほうが豊川市の中心部に近いのだから、こうした店舗がひしめいているのは当然といえば当然。

よりどりみどりで選ぶうち、24時間営業の定食屋チェーン店へ入ることにした。

ここはファミリー層よりトラック運転手をターゲットにしている様子。

気に入ったおかずをピックアップし、ご飯と味噌汁を注文して最後に会計するという、この手のチェーン店でお馴染みのスタイル。

鰯の煮付プラス小鉢4点、それにご飯と味噌汁で700円強というリーズナブルな値段だった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]07

rj07砥鹿t4u001

明けて土曜の朝。
 
目を覚ますと外は生憎の雨模様。

非常に憂鬱な気分の中、食堂でバイキングの朝食を摂る。

ご飯2杯(納豆+海苔)、味噌汁2杯、唐揚げ2個、鶏と馬鈴薯の煮物、焼き鮭、きんぴらごぼう。

クロワッサン2個、丸いパン2個、ブルーベリージャム、サラダ(レタス、キャベツ)、スクランブルエッグ、ハム、パスタ、オレンジジュース2杯、コーヒー、紅茶。

これだけ朝から食べて飲めば、憂鬱な気分が少しだけ晴れたような気もする。

ホテルをチェックアウトし、雨中の住宅街を北へ向かってテクテク歩く。

小糠雨に包まれた住宅街は物音ひとつせず、近くを通る伊奈街道を走る車の音が時折聞こえてくるぐらい。

途中、道を間違えたことに気付いて引き返すと、先ほどまで影も形もなかったバキュームカーが道を塞いでいる。

汚穢を汲み取っている横をすり抜けながら、これは何を暗示しているのか暫し考察。

砥鹿神社は私の体内に宿る穢れを取り除いてくれる予兆? と、都合のいいように解釈してみた。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]08

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やがて家並みが途切れ、木々の緑が濃度を増し、神域の雰囲気が感じられてきたかと思った頃。

前方に鳥居が見えてきた。
三河國一之宮、砥鹿神社の一の鳥居。

豊川駅ではなく豊川IC近くのホテルに宿泊した理由。

それは砥鹿神社まで歩いて10分ほどのところにあるからだ。

鳥居の奥には神門が構えている。
だが、どちらも思っていたほど大きくはない。

しかも楼門をくぐると即境内で、参道が見当たらず、拝殿までの距離がすごぶる短い。

この入口は自動車での参拝者のため、新たに設けられたのかと訝ったほど。

拝殿に向かって、ふと左側を見ると、参道が遙か先まで続き、社域が果てしなく広がっている。

さっき入った神門側は裏門で、こっちの参道の先が実は正門だったか…と少々後悔。

できれば正門から長い参道を抜け、表門から堂々と参拝したかった。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]09

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拝殿を正面に見て右側に太鼓楼と祓所、さざれ石が配置されている。

木製の太鼓楼は巨大で堂々としている。それ以前に、境内に独立して聳立している太鼓楼そのものを初めて見た。

拝殿の正面に立つ。華美な装飾を排し、質素ながらも剛毅な出で立ちは、三河風土を体現しているかのよう。

砥鹿神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。隣国、遠江國一之宮の小國神社と同じだ。

また、元は本宮山に祀られていた大己貴命を現在の鎮座地である里宮へ遷宮した経緯も同様である。

隣接する三河と遠江の両国で一之宮が似たような歴史を辿っているのは、なかなか興味深い。

ちなみに橘三喜の「一宮巡詣記」には「大己貴 砥鹿大明神 饒速日命四世 大木食神を祀る」と記されているそうだ。

橘は延宝3(1675)年から元禄10(1697)年にかけて全国の一之宮を巡礼している。

この時期は大己貴命と砥鹿大明神が別の神だったのかも知れない。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]10

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そもそも明治維新以前の神仏混交時代は「砥鹿大菩薩」と呼ばれて長く信仰されていた。

その間に主祭神が色々と錯綜し、神名が混乱していたのだろう。

明治維新時の廃仏毀釈で主祭神は大己貴命に統一され、現在に至っているものと思われる。

参拝を終えて顔を上げ、扁額に記された「砥鹿神社」という神号を眺める。

国土開拓のため諸国を巡幸されていた大己貴命は但馬国朝来郡赤淵宮に遷宮された後、さらに東方の三河国へ向かわれた(「但馬続風土記」より)。

やがて大己貴命は本宮山の「本茂山(ほのしげやま)」に留まり、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされた(「砥鹿神社社伝」より)。

これが砥鹿神社創建の由来なのだが、鎮座した正確な時期については不明の由。

だが、本宮山から里宮へ御祭神が鎮まるに至った経緯については、天正2(1574)年の「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」に記録されている。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]11

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大宝年間(701-704)、文武天皇の病を鎮めるために草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が勅使として「煙巌山」へ遣わされた。

公宣卿は三河の山中で道に迷うが、そこへ現れた謎の老翁に導かれて無事に祈願を果たし、天皇の病も平癒された。

老翁に礼を尽くすため天皇は再度この地に勅使を使わされる、三河国本茂山へ入った公宣卿は再び老翁と面会を果たす。

老翁は山麓に宮居を定めることを所望し、衣の袖を抜き取って宝川の清流に投じた。

これを追って山を下りた公宣卿は、山麓辰巳の方角の岸辺に滞留していた袖を発見。

そこへ七重の棚を作り七重の注連縄を引き巡らせ、袖を斎(いつ)き祀ったという。そこが今「里宮」のある場所ということになろうか。

以来、砥鹿神社は奥宮と里宮の二所一体で崇敬を集める形式になった。

神号「砥鹿神社」とは大己貴命に由来する「止所の地」と、草鹿砥卿の名が融合したものだろう。

ちなみに「煙巌山」は別名鳳来寺山、徳川将軍家と所縁の深い鳳来寺の山号だ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]12

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鳳来寺は利修仙人が文武天皇の病を祈祷で快癒させたことから、その御礼として大宝3(703)年に建立されたもの。

鳳来寺山は本宮山から北北東へ約17キロのところに位置しており、公宣卿も鳳来寺山と間違えて本宮山中へ分け入ったのだろうか。

鳳来寺は徳川家康の母・於代の方が参籠し、ここで家康を授ったという伝説のあるところ。

その縁起を知った三代将軍家光は祖父への報恩のため鳳来寺に数多の堂坊を再建、さらには新たに東照宮も設けたほど。

とまあ、このように三河といえば徳川家とは切っても切れない縁のある土地。

それだけに三河国一之宮の砥鹿神社は、もっと徳川家との関係をアピールしてもいいように思えるのだが。

公式ウェブサイトには「江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、また明治4(1871)年には国幣小社に列せられた」とだけあり「徳川」のトの字もない。

ただ、平安時代「従五位下」という最下層だった砥鹿神社の官位が、江戸時代にはトップの「正一位」にまで格上げされているから、決して徳川幕府と仲が悪いわけでもなかったようだ。

明治維新の際に徳川幕府との蜜月関係を断ち切るため、敢えて触れないようになったのだろうか?

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]13

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拝殿の正面左隣には摂社「三河えびす社」が鎮座している。

砥鹿神社の拝殿をひとまわりコンパクトにしたような形状で、違いは屋根に千鳥破風の有無ぐらいの、よく似た形状をしている。

御祭神は大己貴命の御子である事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)の二柱。

事代主命の別名は「えびす様」なので、「大黒様」こと大己貴命の隣に並んで祀られている姿はいかにも相応しい。

ただ、一般に「えびす様」が商売の神様として崇められている例に漏れず、ここも三河地方の商売繁盛の中心として信仰されている様子が伺える。

えびす社を離れて伊那街道方面へ。ここにも神門があり、大己貴命に別れを告げて通り抜けた。

その先右手の弓道場を眺めつつ、緑に包まれた参道を歩く。

砥鹿神社、実は「天の羽衣伝説」と密接な関係があるという。

「天の羽衣伝説」とは、天女が天の羽衣を脱いで水浴びしているところ、それを見かけた男が羽衣を隠して我が物にしようと企む。

男の小細工は成功し、天に帰れなくなった天女を嫁にするのだが後に天女は羽衣を見つけ、結局は天へ帰っていく…というお伽話。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]14

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まず「天の羽衣」と聞いて思い浮かぶのは世界文化遺産「富士山」の構成資産でもある「三保の松原」だろう。

だが羽衣伝説は日本各地に存在し、特に富士山の専売特許というわけではない。

元来「天の羽衣」とは天皇が即位する際に羽織る着物のことを指す言葉なのだ。

天皇は儀式で「天の羽衣」を着ることによって人間から神へと昇華するわけで、その意味でも羽衣の持つ精神的な存在感は著しく重い。

その「天の羽衣」、実は砥鹿神社近くの神社で作られていると云われている。

だが、その神社の場所は一般に公開されていないので残念ながら良く分からないらしい。

では何故、砥鹿神社と「天の羽衣」の間に密接な関係が生まれたのか?

まず、国津神のドン大己貴命は天津神の天皇家に従属の証として羽衣を贈る役割を担ってきた。

そもそも古代より三河地方は繊維産業が盛んで、それは数多の文献に垣間見える。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]15

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大宝律令の制定(701年)で成立した「租庸調」制度で、三河国は調(貢ぎ物)として羅・綾・絹白糸などを納めていたが、特に絹は上質のものとして珍重されていた。

天平勝宝2(750)年の「正倉院文書」には11ヵ国からの貢絹が記録されているが、わざわざ三河国産だけ「白絹布」と記してある。

精白な細糸で織られた「白絹布」は経糸・緯糸の密度が多く、他国産より15%ほど高値で引き取られていたそうだ。

また9世紀の「延喜式」にも三河産の「犬頭白糸」は最上の絹として、絹を治める国の中で納品量が他国の倍以上あったと記録されている。

「犬頭白糸」とは上絲(上質な絹糸)が雪のように白く光沢を帯びていたことから、こう呼ばれていたもの。 

やがて「犬頭白糸」は蔵人所(天皇直属の事務機関)に納められ、天皇の衣服を織るのに用いられるようになった。

このように三河国はヤマト王権にとって「天の羽衣」を作る場所として必要不可欠な地域だったのだ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]16

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弓道場を通り過ぎると正面に鳥居が見え、くぐると石灯籠と社号標が立っており、参道は一般道を挟んで更に先へと伸びている。

社号標は細長い円柱状で、よく高速道路などに設置してあるグニャグニャしたシリコン製の棒(正しくは「レックスポール」という)を想起させる。

道を渡って参道を先へ進みながら、続けて「天の羽衣」と三河の繊維産業について考えてみる。

三河に本社を構える世界最大級のグローバル企業トヨタ自動車も、そのルーツを辿れば織物機械の会社に行き着く。

豊田佐吉が大正13(1924)年に完成させた「無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G型)」を製造するため、同15(1926)年に設立した豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)が、そのルーツだ。

昭和8(1933)年9月、同社内に自動車部を開設し、同10(1935)年には織機の製作に用いていた鋳造や機械加工の技術など活かして自動車の製造をスタート。

同12(1937)年、「トヨタ自動車工業株式会社」として独立した。

「天の羽衣」が千数百年もの時を経て、世界の自動車産業を席巻した…と言うのは大袈裟だろうか?

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]17

rj17砥鹿t4u000

やがて、正面に伊奈街道が見えてきた。

出口の少し手前に、本宮山と里宮の由来を記した巨大な案内板が立てられている。

そこに衝撃的事実が記載されていた。

来社の際に最初くぐった門こそ「表神門」であり、目の前にある伊那街道側の入口は側門だという。

つまり、表参道のつもりで社殿の前から遥々と歩いてきた道は、実は裏参道だったということか。

神社にはそれぞれ個性があり、他がそうだからここもそうだと思い込む“標準化”的思考性は、あまり意味がない。

それを砥鹿の神様に教えてもらったようなものだ。

案内図には里宮と奥宮の位置関係も描かれているが、いまひとつ距離感が曖昧になっている。

本宮山は頂上を始め山中至る所に巨大な岩が横たわり、杉の巨木が林立している。

これらは磐座(いわくら)や磐境(いわさか)として崇められ、古神道の信仰形態を今に伝えている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]18

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本宮山は海抜789メートル。

現在では本宮山スカイラインが整備され、山頂まで自動車で簡単にアクセスできるようになった。

それでも三河一宮駅の隣、長山駅の登山口から徒歩で登拝する人は引きも切らず。

休日ともなると数百人もの登山者がハイキングを楽しんでいるそうだ。

“裏”参道を抜け、伊那街道に出る。

こちらの入り口にも大きな鳥居が聳立し、横には大きな社号標。

鳥居の右足には、こう刻まれている。
 
「本宮山正一位砥鹿大明神」

どう見ても、こちらの入り口のほうが正門に見えるのだが。

伊那街道を東名豊川インター方面へ行くと、三河一宮駅へ向かう道との交差点にぶつかる。

その角に砥鹿神社の大きな立て看板がドライバーの目に止まるように立っている。

看板の上部には独特な形状をした六角形の神紋「亀卜(きぼく)紋」があしらわれている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]19

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「亀卜」とは弥生時代に端を発する日本

古来の占術で、亀の甲羅や鹿の骨を焼き、罅(ひび)の形で吉凶を予想する神事。

「砥鹿」の「砥」は「ト」、つまり占いのこと。
「鹿」は占いに用いた骨のこと。

この両者を組み合わせたところにも、社名のルーツが潜んでいるのかも知れない。

その看板から駅と逆方向に行くと、末社の「荒羽々気神社(あらはばきじんじゃ)」が鎮座している。

祭神の荒羽々気は大己貴命の荒魂(あらみたま)で、健歩健脚の守護神として信仰されており、東海地方で祀られているのは唯一ここのみ。

「アラハバキ神」といえば一般に東北地方土着の神として知られているが、この「荒羽々気神」も何か関係があるのか? そこまでは分からない。

ただ「健脚の神」として有名なのは確かで、ひいては「交通安全の神」として三河では絶大な信頼が寄せられている。

実際、伊那街道を行き交う三河ナンバーや豊橋ナンバーの多くに、亀卜紋があしらわれた砥鹿神社の交通安全ステッカーが貼ってあるのを見かけた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]20

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道を引き返して交差点を渡り、住宅地を貫く小道を歩くこと10分ほどで三河一宮駅に到着した。

さすが「三河一宮」を名乗るだけあり、ここからだと砥鹿神社は非常に近く感じる。

半日前に来た時は辺りが真っ暗で駅舎や近辺の雰囲気は全く分からなかったが。

白日の下で見ると、砥鹿神社の拝殿を模した風の駅舎からは木造建築特有の落ち着きを感じる。

駅舎の規模としては天浜線遠州一宮駅とさほど変わらないが、遠州は駅務室を蕎麦屋にしていたのに対して三河は無人駅のまま。

そもそも砥鹿神社の周りには茶店や土産物屋など一軒もない。

神聖なる神を糧に商売などやらないという、頑固で実直な三河人気質の現れなのだろうか?

豊橋行き2両編成の電車に乗り、次の豊川駅で下車して名鉄線の豊川稲荷駅へ向かう。

せっかく来たのだから、やっぱり豊川稲荷に参拝しよう…と、乗り換えの途中に思う。

案内標識に従って駅前商店街に歩を向けると、彼方に巨大な宗教建造物が頭をのぞかせている。

そちらの方角に向かうと途中、銀行の店前に団子の屋台が出ている。

1本80円。
メチャクチャ美味そうに見える。

しかし、あれだけの量の朝食を摂った後だけに、さすが腹中に入る隙はない。

また次に来る機会があれば是非とも食べてみたいが、その時まで屋台は存在しているだろうか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]21

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豊川稲荷前の交差点を右折すると、少し先に総門が姿を現した。

その門前にはボランティアだろうか、白狐のように美しい女性の案内係が待機している。

案内してもらえばよかったが、ここで時間を取られるわけにもいかないので、あえて通り過ぎた。

豊川稲荷は伏見稲荷、祐徳稲荷と並ぶ「日本三大稲荷」のひとつとされている。

しかし豊川稲荷、実は神社ではなく「円福山妙厳寺」という曹洞宗のお寺。

なので神社としての「日本三大稲荷」は伏見稲荷と祐徳稲荷、そこに笠間稲荷が加わっているそうだ。

総門をくぐると先に山門が控え、さらにその奥には法堂が聳立している。

境内の建物は総門も山門も法堂も総じて古く、どれも歴史的な価値のあるものばかり。

しかし、法堂の左隣りに気になる構造物がある。

これは紛うことなき、石造りの立派な明神鳥居。

ハハン、境内の左側には稲荷神社が祀られているのか。

そう思いつつ法堂に向かって手を合わせ、今度は神社のほうへ足を運ぶ。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]22

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総門と山門の途中から左に折れる道を進むと、そこに一の鳥居。

その先に二の鳥居があり、突き当りには堂々とした拝殿が控えている。

参道を奥まで進むと、今まで拝殿だと思っていたこの建物こそ寺院の本堂。

つまり豊川稲荷には右も左もなく、境内すべてが寺院なのだ。

本堂へ続く参道に神社の鳥居が立っているわけで、境内には神仏混淆時代の空気が今なお濃密に漂っている。

新年を控え、本堂は正面に賽銭箱を設置する作業の真っ最中。

投ぜられる小銭を余すことなく吸い込もうと、巨大な投入口の周囲に板が張り巡らされている。

その板のお世話になることなく賽銭の投入に成功し、柏手を打つこともなく手を合わせた。

まだまだ奥には数々の伽藍が立ち並んでいるのだが、ここは本堂への参拝だけに留めて境内を後にする。

境内を後にし、往路とは別の、総門の前から伸びる門前町を通り抜けて駅に向かう。

門の前から一直線に伸びる道には「豊川いなり表参道」「なつかし青春商店街」と掲げられたアーチ。

入り口の両脇には稲荷寿司屋と饅頭屋が店を構え、参道沿いには鰻屋や食堂、喫茶店など古風な商店が立ち並んでいる。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]23

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その昭和30~40年代を彷彿とさせる佇まいは「なつかし青春商店街」の名に恥じない街並み。

参道から横へ入る路地沿いの店々もまた、昭和のノスタルジアを喚起させるような雰囲気。

道の細い町割りは車の往来も少なく、店舗個々の店構えや参道の雰囲気を存分に堪能できた。

豊川稲荷と門前町を30分ほど彷徨し、名鉄豊川稲荷駅へ戻ってきた。

10時55分発の名鉄一宮駅行き急行に乗車する。

砥鹿神社に豊川稲荷と、大きな神社と仏閣の双方に参拝した朝が終わった。

やはり神社より仏閣のほうが、人心の襞の部分へ細やかに入り込んでくる“霊力”が強いように感じる。

神道は山や石や木など自然界に元から存在した物を崇めるところから始まっただけに、積極的に布教する姿勢が薄かったのかも知れない。

一方、仏陀という教祖を崇める“一神教”の仏教は広範に布教する必要性があり、そのために様々な“仕掛け”が仕組まれていた。

先程の「なつかし青春商店街」もまた、こうした“仕掛け”のひとつだったのではなかろうか?

そんな狐につままれた心持ちのまま、豊川の町を後にした。
 
[旅行日:2012年12月22日]
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