遠江國一之宮「小國神社」

一巡せしもの[小國神社]01

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掛川駅は二つある。

ひとつはJRの、もうひとつは第三セクター天竜浜名湖鉄道(天浜線)の。

三角屋根が印象的な天浜線の掛川駅舎はJR駅北口の西側に、こぢんまりといった感じで佇んでいる。

とはいえ開業は昭和10(1935)年と古く、既に80年近い歴史を有している。

駅舎に入ると意外に狭く、しかも通学する高校生で混雑していた。

そんな落ち着かない状況下で、様々なルートを組み合わせて運賃を計算してみる。

今回は天浜線の全線完乗が目的ではなく、また、今まで乗ったことのない遠州鉄道に一度ぐらいは乗っておきたい。

その結果「遠州鉄道・天浜線共通1日フリーきっぷ」を使うことに決めた。

天浜線の掛川⇔西鹿島と遠鉄線の西鹿島⇔新浜松が1300円で乗り放題というオトクなきっぷ。

これで行きは遠州森まで、帰りは遠江一宮から西鹿島を経由して新浜松へ行くことにする。

しかし、発車時刻ギリギリまで運賃を計算していたため、乗車した時には既に席が埋まっていて座れなかった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]02

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12時58分、天竜二俣行き一両編成のディーゼルカーはブルルンと黒煙を吐き、掛川を出発した。

車内には男子高校生の団体がおり、その傍らには2つの大きな箱、中にはテニスボールがギッシリ詰まっている。

他には一般の男女高校生、サラリーマン、お年寄りなど客層は老若男女さまざま。

男子高校生軍団は掛川から数えて四つ目、いこいの広場で一斉に下車。

車内は一気に閑散となり、ようやく席に座ることができた。

車窓に目を向けると、沿線には昭和の懐かしい風景が広がる。

天浜線は大正11(1922)年、鐵道省「遠美線」として計画されたのが源流。

当初は掛川から金指で北に向かい、岐阜県大井…現在の中央西線恵那と結ぶ計画だった。

遠江と美濃を結ぶ路線なので「遠美線」なわけだが、計画は関東大震災で中止に。

しかし昭和7(1932)年に掛川⇔二俣、二俣⇔新所原にルートを変更して計画が復活。

東海道本線の迂回ルートという、戦争色の強い計画だった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]03

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掛川駅が開業した昭和10年、遠江森駅まで二俣東線として開通。

同15(1940)年に新所原まで線路がつながり、二俣線として全線開通した。

同19(1944)年の東南海地震で東海道本線が被災した際には実際に迂回ルートとして機能。

最先端の特急列車が鄙びた農村地帯を疾走する姿に沿線住民は驚き、今でも語り草になっているそうだ。

戦後は国鉄二俣線として営業していたが、戦争対策鉄道として敷設された宿命からか万年赤字状態。

同59(1984)年には国鉄改革により廃線が決定する。

しかし地元の熱心な存続運動の結果、同61(1986)年に第三セクター方式で存続が決定。

同62(1987)年に「天竜浜名湖鉄道」として生まれ変わり、現在に至っている。

ただし生まれ変わったとはいえ、国鉄二俣線が開業した当時の施設を継承し、現在でも使用している。

このため、駅舎や橋梁、転車台など36ヶ所もの鉄道施設が国の登録有形文化財に指定されている。

沿線の風景ではなく、天浜線そのものが懐かしい昭和の記憶そのものだったわけだ。

また改めて訪れ、ゆっくり途中下車の旅を楽しみたいと思う。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]04

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13時24分、遠州森駅に到着。
なんてことのない片田舎の小さな駅だ。

しかし開業は掛川駅と同じ昭和10(1935)年と沿線最古。

しかも当時の駅舎が殆ど改変されずに残されており、駅舎本屋とプラットホームが文化財に登録されているほど。

実はなんてことのないどころか、とんでもない偉大な駅だったわけだ。

構内には「森の石松」と彫られた木製の看板がデカデカと掲げられている。

遠州森とくれば、もちろん「森の石松」。
清水次郎長の子分として知られた侠客だ。

「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねぇ!」

広沢虎造の浪曲『石松三十石船』に出てくる、このセリフでもおなじみの石松。

この逸話は広沢の創作ではあるが、浪曲の題材になるぐらい庶民から絶大な人気を博していた証だともいえる。

ちなみに「森」という地名は周囲に森林が多いことに由来するようで、森の石松から来たわけではないそうだ。

さて、ここから小國神社まで約2キロの道のりをテクテク歩くことにする。

しかも山道をウネウネ登っていかなければならないのだが、残念ながらそれしか道はない。

半ばハイキング気分、半ばヤケクソ気分で出立する。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]05

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駅前から正面に真っ直ぐ伸びる道を進むと「大門」という交差点にぶつかる。

これから遠江国一之宮を参詣する身には、これ以上ない地名だ。

とはいえ、この「大門」が小國神社のものかどうか定かではない。

大門交差点を過ぎると、道は一気に山の中へ突入。

このあたりは「陣屋峠」と呼ばれており「峠越え」になるが、それほど険しい山道でもない。

目の前に現れたトンネルを抜けると、そこは様々な道が入り乱れた五叉路。

1本は森町役場により封鎖中、1本は道路が崩壊しているとの表示、残りの3本は自動車道。

そこに立てられている小國神社への案内看板には、あと2.4キロとある。

これは自動車用の距離で、歩いて行く場合は逆方向…これが崩壊した道を進まないといけない。

というわけで、その道に入ってみた。確かに道はデコボコしているが、歩いて歩けない状態ではない。

何の滞りもなく進むうち、催してきた。幸い通行人の姿はなく、誰かに見られる恐れもなさそう。

少し先に細い川が流れ、小さな橋が架かっていたので、渡る前に橋の袂で用を足す。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]06

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橋を渡り、野良道をひたすら歩いているうち、自動車が通れるような広い道に出た。

その角を左に折れたところで、なんと同様に徒歩で旅している男とすれ違った。

振り返ると、自分が歩いてきた道と逆のルートをたどっている様子。

あの崩落した道には驚くだろうなぁ…と、一人ニヤッとする。

ただし彼の来るのが10分早ければ、橋の袂で用を足している自分とバッタリ出くわしていたところ。

これは運がいいのか、悪いのか? 

さらに道を先に進むと、一風変わった建物を発見した。

門の前には茶房・ギャラリー「清右衛門」、欧風田舎料理の店「シェ・モーン」という小さな看板。

こんな場所で喫茶店やレストランの経営が成り立つのか? と思ったが。

門柱を見ると「しばらく休業しています」の張り紙。

人も車も殆ど往来のない道ゆえ、さもありなん。

そんなことを考えながら屋外に放置されたテーブルや椅子を眺めていた、その時。

店に隣接する家から、おばあちゃんに手を引かれながら小さな子供が出てきた。関係者だろうか?

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]07

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もし営業していたら一体どんな料理が供されたのだろう?

手をつないで歩く二人の後ろ姿を眺めているうち、そんな思いが脳裏に浮かんだ。

道の右側に「塩井神社」と記された標柱を見かけ、左側には広大なゴルフ場が広がる。

その横を延々と歩き続け、ようやく抜けたところで現れたのは小國神社の梅園。

まだまだ境内まで距離があるのに、このあたりまで小國神社の社域が広がっていることに驚く。

ひょっとしたらゴルフ場が立地する土地も、すべて小國神社の御神域だったのかも知れない。

そのうち小國神社専用の駐車場が目に付き始め、やがて右側から来た広い道路と合流。

ようやく小國神社の参道に着いたかと思いきや、それはゴルフ場への入口だった。

少々ガッカリしながら暫く歩くと、今度は連絡バスの発着場に行き着いた。

遠江一宮駅との間にマイクロバスが運行されているのだが、これが不便このうえない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]08

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運行日は毎月1日と15日、日祝日、1月7~15日、6月1~20日。

つまり正月も1~6日は運休となる。元日は祝日なので運休は矛盾しているのだが…。

たぶん松の内は参拝客でごった返すため、マイクロバス程度の輸送力では焼け石に水。

しかも交通渋滞のため運行に支障が生ずると見て、あえて運休にしているのだろう。

小國神社を囲む宮川を渡る朱塗りの橋が見え、いよいよ境内地に到着。

遠州森駅から徒歩で約1時間半…結構かかったほうか。

しかし、神社への参拝はレジャーではなく苦行であると思えば大したことはない。

ただ、雨に見舞われなかったのは運が良かったと実感。

もし雨だったらタクシーを利用したか、もしくは参拝そのものを中止していたかも知れない。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]09

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宮川に沿って表参道へ。
正面に立つと手前に祓橋、その向こうに一の鳥居が聳立している。

一の鳥居は昭和44(1969)年4月18日建立と比較的新しい。
扁額の揮毫は建立当時の伊勢神宮大宮司、坊城俊良氏によるものだ。

一の鳥居の右側には社号標。
ちなみに読み方は「おぐに」と濁らず「おくに」と澄ませる。

一の鳥居をくぐり、小さな神橋を渡って参道を進む。

延宝8(1680)年編纂の社記によると、創建は第二十九代欽明天皇の御代16(555)年2月18日。

ここから約6キロ北方の本宮峰(本宮山)に御神霊が降臨、鎮斎せられたのが、その起源という。

御神山ともいえる本宮山の山頂には現在、奥宮の奥磐戸神社が祀られている。

本宮山は山頂から遠江国が一望できるそうで、ハイキングコースとしても大人気なのだとか。

延喜7(907)年に第六十代醍醐天皇が勅使を差遣し、現在地に社殿を造営して本宮山から御神霊を遷し、同時に式内社へ列せられた。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]10

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表参道は両側に灯籠が一定間隔で立ち並び、その外側を無数の杉木立が取り囲むように立っている。

その右側に「勅使参道」という小径が通っている。

大宝元(701)年春、参向した勅使に十二段舞楽を奉奏して以来、奉幣のため毎年訪れる勅使に神社では舞楽を奉奏した。

解説板によると、参向の際に勅使が用いた参道の跡で、現在でも一般の参拝者は通行不可と。

勅使参道は端に立つ「駒止めの杉」で行き止まりとなり、斎館を挟んだ先に二の鳥居が聳立している。

二の鳥居の場所には以前、楼門が立っていたが明治15(1882)年の火災で焼失したそうだ。

鳥居をくぐって中に入ると、右手に舞殿と舞楽舎が並んで立っている。
社殿に近いほうが舞殿、遠いほうが舞楽舎。

舞殿では「勅使参道」で触れた「十二段舞楽」が、毎年4月18日の「例祭」にて奉奏される。

「十二段舞楽」は昭和57(1982)年1月23日に文化庁から「重要無形民俗文化財」に指定。

現在は「遠江国一宮小國神社古式舞楽保存会」が小國神社氏子青年会と協力し、保存伝承に努めているそうだ。

舞殿をステージだとすると、渡り廊下でつながった舞楽舎はいわば「控室」兼「オーケストラピット」。

ここで衣装替えや「十二段舞楽」の曲が奏楽されたりするそうだ。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]11

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表参道の突き当りには小國神社の社殿群が鎮座している。

二の鳥居のところでも触れたが、明治15(1882)年の大火で境内の建造物は尽く灰燼に帰した。

国幣社ゆえ官命により直ちに再建に着手、4年後の同19(1886)年に完成し、現在に至るという。

拝殿の上屋は入母屋造、屋根は檜皮(ひわだ)で葺かれている。

全体的に焦げ茶色のトーンでまとまり、明治時代建造の割には程よく古寂びている。

この奥に幣殿を挟んで本殿が鎮座している。透き塀で囲われ全体像を拝むことは叶わなかったが。

建屋は大社造、屋根は拝殿と同様に総檜皮葺で覆われている。

本殿が大社造なのは主祭神が大己貴命(おおなむちのみこと)ゆえ当然のことだろう。

大巳貴命、又の名を大国主命(おおくにぬしのみこと)。

一般には「だいこくさま」…大国様や大黒様として知られる縁起のいい神様。

拝殿正面の石灯籠左側には大黒様の象徴ともいうべき巨大な「大宝槌(打ち出の小槌)」も据えられている。

拝殿の右側に回廊で繋がれた古い建物がある。

神徳殿といって、拝殿が祭礼などで塞がっている場合、ここで祈祷を行うのだそう。

このため神徳殿にも御祭神の大己貴命が祀られているという。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]12

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大宝槌の手前に生える一本の細い松の根本に、白色と黄土色の2つの石が据えられた一角がある。

柵で囲われ、手前には賽銭箱まで設えてある。説明板には「金銀石(きんぎんせき)」とあった。

大己貴命が遠江の国造りをされた折、この石を金銀の印として授けたものだと云わっているそうだ。

以来、この両石は「金銀石」と称され、金運石、並石、引寄石、夫婦石とも呼ばれることに。

松の木は「願掛松(待つ)」と称され、石と松の幹の両方を撫でれば金運や良縁に恵まれるそうだ。

そもそも社名の「小国」とは出雲の「大国」に対する遠江国地方の「国褒め」(国司による美称)だった。

その一方で、大国主命の「おおくに」が転じて「おくに」になった可能性もあるような気もする。

小國神社は延喜7(907)年、延喜式内社に列せられた。
しかし延喜式には「小國神社」ではなく「事任神社」と記されている。

略記にも「古来より許当麻知<ことまち>神社(願い事を待つ意)、事任<ことのまま>神社(願い事のままに叶う意)とも称されてきた」とある。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]13

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「事任」とくれば、もうひとつの遠江国一之宮「事任八幡宮」が思い起こされる。

主祭神の己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は、天岩戸神話にも登場する天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母。

つまり「事任」の神様は天津神のはず。なのになぜ、そこへ国津神のドンである大巳貴命が祀られるようになったのか?

もともと己等乃麻知比売命を祀っていた「事任神社」を、平安時代に全国へ広がっていた大巳貴命の信仰が乗っ取ってしまった。

天児屋根命の末裔に当たる吉田神道が室町時代、国津神に乗っ取られた「事任神社」とは別の一之宮制度を遠江国に設け、入れ替えようとした。

それが遠江国に二つの一之宮…小國神社と事任八幡宮が併存している要因なのではなかろうか? と「事任八幡宮」のところで記したのだが。

再び拝殿の前に立ち、その造作を眺めながら思う。

自分は考古学も神道学も全く素人なので、あくまでも個人的な類推に過ぎないが、こうして自分だけで面白がっている分には、特に何の害もないだろう…と。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]14

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広大な御神域を持ち、無数の杉木立の中に堂々と聳立する社殿群。

真面目で、地域を代表するという意志をひしひしと感じる、まさに神社らしい神社。

だが、どこか面白味には欠けるような印象を受ける。やはり事任八幡宮とは悉く対照的だ。

二の鳥居を出てすぐ右側に、スツールほどの大きさの石が置いてある。

説明板には「家康公立あがり石」の文字。

徳川家康は元亀元(1570)年、三方原台地の東南端に浜松城を築城。

以来、天正15(1587)年までの17年間を浜松城で過ごした。

築城から2年後の元亀3(1572)年、家康は京に西進する武田信玄の軍勢を迎え撃つ。

世に云う「三方ヶ原の合戦」である。

徳川氏の目代(代官)武藤氏定が武田側に寝返り、甲斐の軍勢を遠江国へと招き入れた。

これを霊夢に見た神主の小國重勝は、徳川側に子息を人質として差し出して武藤の裏切りを直訴。

同年9月、家康は神主に命じて御神霊を別所に避難させ、願文と三条小鍛冶宗近作の太刀を奉り、開運を祈願した後、社頭に火を放って社殿群を焼失させた。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]15

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三方ヶ原では武田軍から散々な目に遭わされた家康。
だが、天正3(1575)年に長篠の戦いで武田家を撃破し、滅亡させた。

家康は家臣の本多重次に命じ、焼失した社殿群の再建に取り掛かった。

まずは本宮を造営し、避難させていた御神霊を遷宮。

次いで同11(1583)年に拝殿、回廊、末社を造営し、同13(1585)年には楼門を再建。

仕上げに慶長8(1603)年、社領として五百九十石の朱印を奉納。

その後も元禄10(1697)年には五代将軍綱吉が社殿を改修。

寛保元(1741)年には八代将軍吉宗が四百両の修復料を寄進。

このように江戸時代を通じて徳川将軍家が社殿の改造・修復料を寄進し続け、幕府の手篤い保護を受けていた。

この石は家康が天正2(1574)年4月に犬居城攻略の道すがら、参拝した際に腰かけて休息したという伝説を持つ。

「立あがり石」というネーミングは、三方ヶ原での惨敗を乗り越えた石という所縁から来たもの。

この石に、そして家康公にあやかりたいと、人生の再起を念じて石に腰かける人の姿は今も絶えないという。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]16

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かく言う自分も、試しに腰掛けてみた。

お世辞にも座り心地が良いはずもなく、すぐに立ち上がりたくなる。

悲境を乗り越えよ…というよりむしろ、ぬるま湯に浸かっている現況からサッサと抜け出せ…というメッセージが心に届いた心持ちである。

家康公立あがり石の隣に、巨木の根が安置されている。

御神木「大杉」の根株だ。

約400年前の慶長年間古図にも「大杉」と記されており、樹齢は1000年を超えるとも。

老木のため中は空洞状になっているが、残された縁の年輪だけでも優に500年を超えるそうだ。

しかし昭和47(1972)年の台風により倒壊したため、この場に奉安されたという。

その先には「全国一宮等合殿社」という摂社が、参道から奥まったところにひっそりと鎮座している。

延宝8(1680)年の社記などによると、小國神社には境内社として諸国一之宮等50余社、御祭神73柱が各所に祀られていたそうだ。

しかし経年劣化による腐朽や明治15年の大火などにより次々と合祀され、姿を消していった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]17

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それが平成元(1989)年12月、三間社流造りの社殿を新築して旧社領時代の末社を合祀し、氏子崇敬者の守護神として復活した。

これまで様々な一之宮を参詣してきたが、全国の一之宮から祭神を一堂に会して鎮祭した摂社は初めて見た。

その隣には柵で囲われた神聖なる空間が広がる。

「神幸所」といって、御祭神が神輿に乗って来る「神幸祭」が執り行われる場所。

「神幸祭」は年に一度、4月18日に最も近い日曜日に行われる。

その先には大きな御手洗池が広がる。
「事待(ことまち)池」というそうだ。

池中央の島には摂社の宗像社が、島から奥に架かる太鼓橋の先には八王子社が、それぞれ鎮座している。

その昔、小國神社に願掛けして成就すれば「事待池」に鯉を放つ風習があったそうだ。

小國神社の古称「許当麻知神社」「事任神社」は、この「ことまちいけ」の風習に由来するとも言われている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]18

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一の鳥居から境内の外へ出た。すぐ右側に門前町「小國ことまち横丁」がある。

門前町といってもそれほど規模は大きくなく、店舗はお茶屋、かりんとう屋、煎餅屋の3軒しかない。

ただ、それぞれ甘味処、ジェラート、うどん屋なども構えており、横丁全体で食べ物のメニューは意外と豊富。

富士山本宮浅間大社前のお宮横丁と比べると、こちらのほうが明るい印象を受ける。

お宮横丁が富士宮市街地のド真ん中に位置するのに対し、小國ことまち横丁は森林の中にあるせいか?

そのうちの1軒、茶寮宮川でお茶と団子で一休み。

深蒸し煎茶はティーバッグで供され、一杯100円。ただし、お湯のおかわりは自由だ。

この深蒸し煎茶がベラボウに旨い! 今まで飲んできたお茶は一体なんだったのかと思えたほど。

遠州森駅から遥々と歩いてきた疲労困憊の身躯に隅々まで染み渡る旨さだ。

それもそのはず、茶舗の鈴木長十商店は東京都優良茶品評会で農林水産大臣賞と東京都知事賞をダブル受賞しているほどの実力派なのだとか。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]19

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みたらし団子は焼きたてで香ばしく、煎茶との相性もバツグン。

余りに旨いので優煎茶あん団子を1本、追加で注文。

茶あんの団子とは珍しく、まさに静岡ならではの味だ。

店前の東屋に腰を落ち着け、一の鳥居を眺めつつ団子を齧り、お茶を啜る。

小國神社の門前で何百年も前から繰り返されてきた、昔ながらの風景ではなかろうか?

昔と違ってお茶はティーバッグとなり、団子はガスで焼いているのだろうけど。

ことまち横丁を後にし、宮川に架かる橋を渡って県道280号線、通称「明神通り」を南へ進む。

目的地は遠州森駅ではなく隣の遠江一宮駅。マイクロバスは運行していないので再び徒歩の旅だ。

遠州森駅からの道程と異なり「明神通り」はキチンと整備された道なので、面白味には欠けるが楽チンだ。

「明神通り」とは新東名高速道路の開通を機に、小國神社の門前を走る県道280号線に付けられた愛称。

沿道には10軒ほどの店が門を構えている。

ちなみにこの中には、ことまち横丁の「茶寮宮川」と「隠れ河原のかりん糖」も含まれているが、なぜか煎餅屋「寺子屋本舗」は含まれていない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]20

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まず出くわすのが宮前蕎麦「かんなび」。
小國神社の門前蕎麦といえば、ここになるのだろうか。

静岡市の名店「戸隠そば」のグループ店…と謳っている。
だだ、営業は16時までなので既に閉店。

機会があれば賞味してみたいものだが、小國神社に再訪することがあるかどうか…。

次に現れたのは洒落たレストラン。
名を「スリーツリーズゆう成」という。

たぶん三木ゆう成さんという方が店主なのだろう。
店構えもアットホームな雰囲気で満ちている。

こちらも営業時間は16時まで。
ただ、営業時間終了後でも予約すれば店を開けてくれるそうだ。

先ほどの茶房・ギャラリー「清右衛門」と欧風田舎料理の店「シェ・モーン」も、ここ明神通りに移転すればいいのに、と思う。

「ゆう成」の隣にあるのは宮前こんにゃくの店「久米吉」。

凝固剤に石灰ではなく木灰を用いるのが特徴で、安政年間には「森蒟蒻」として評判になったとか。

しかし営業時間は17時までとギリギリで間に合わず。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]21

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暫く歩いていると道の向かい側に巨大な赤い急須が現れた。店の名は「赤い急須の太田茶店」。

とはいえ単にお茶を販売しているだけでなく、屋外には喫茶スペースや和庭園まである。

ただし16時ラストオーダーということで、ここも残念ながら間に合わず。

というわけで明神通りの飲食店はこのあたりでおしまい。

朝に小國神社へ参拝した後、蕎麦から蒟蒻からカレーから茶菓から、一軒残らず立ち寄ってみる…って手もアリだろうか。

その後ひたすら田園地帯の中を歩いていると、途中から宮川が明神通り沿いに寄り添ってきた。見ると土手に細い道が通っている。

味気ない歩道を歩いているよりは田圃のド真ん中を歩くほうが旅の気分が出るなぁ…と思い、そちらを歩くことにした。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]22

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暫くすると目の前に新東名高速道路の高架が登場。その巨大さに圧倒される。

容量パンパンの東名高速道路に“複線”が必要なのは納得できるが、ここまでデカくする必要性はあったのか?

それとも経年劣化した東名道を閉鎖して新たに作り直すぐらいのことを目論んでいるのか? 

どっちにしても自分で車を運転して利用することは、まずなかろうけど。

明神通りから川沿いの道にスイッチして引き続き歩き続けるが、これが実は大失敗!

道にはキレイに手入れされている部分と全く手入れされていない部分があり、放置されているパートには背の高い雑草が生い茂っている。

その中を掻き分けて歩いていたら、植物のひっつき種が靴とジーンズにビッチリひっついていた。

既に日は傾き周囲は次第に暗くなり、一面の田園地帯に[よい子は早く帰りなさい]と促すチャイムが大音量で流れている。

すっかり日も落ちて辺り一面が暗闇に包まれた頃、ちょっと広めの道路に出たかと思ったら突き当りに遠江一宮駅があった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]23

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小國神社から2時間近くかかったろうか? 香取神社から佐原への徒歩紀行に匹敵するほどの難行だった。

でも、それは川べりの野良道を選択した自分の責任であり、普通に県道を歩いていたら特に難行でもなかったような気もする。

駅の入口ではゆるキャラ? の「だいこくちゃん」が迎えてくれた。

そういえば今まで参詣してきた一之宮の中で大巳貴命(大国主命)が主祭神なのは、ここが初めてではないか?

過去には武蔵国一之宮氷川神社と氷川女體神社の真ん中にある中山神社が大巳貴命を祀っていたが。

須佐之男命と櫛名田姫命の間に生まれた御子として祀っていたのであり、決して「国津神ありき」だったわけではない。

だいこくちゃんが連れている兎の頭を撫で、遠江一宮駅の構内に入る。

JR掛川駅と同様に駅舎は木造で、建築されたのも同じ1940(昭和15)年。

国鉄二俣線の全線開通に合わせて建設されたもので、国の登録有形文化財に登録されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]24

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駅舎の事務室だったスペースには今、蕎麦屋「百々や」が店を構えている。

製粉所を備え、その日使う分だけ国内産の玄蕎麦を石臼で挽いて打つという本格派。

日本酒も銘柄物を揃えており、蕎麦喰いにはもってこいの店だ。

営業時間は11~16時だが、休日には蕎麦が午前中で売り切れることもあるという。

それもそのはず、後から知ったのだが「百々や」は超有名な蕎麦店グループ「翁達磨」の一員だった。

「翁達磨」グループの長、高橋邦弘氏は日本屈指の蕎麦打ち名人として有名で、1年を通じて全国各所へ蕎麦打ち行脚に出向いている。

「百々や」の店主は高橋翁の弟子であり、それだけでも蕎麦のクオリティが伺い知れるというもの。

もちろん店は閉まっていて蕎麦にはありつけなかったが、お楽しみは再び訪れる時のためにとっておこう…そう思った。

暗闇を引き裂くかのようにホームへ入線してきた天浜線の列車に乗り込む。

隣の遠州森からたった一駅間の徒歩紀行ではあったものの、途方もない距離感を覚えたのもまた事実。

やはり聖地巡礼の旅はこうじゃないと…動き出した車窓に映る「百々や」の灯りを見ながら、そう思った。

[旅行日:2012年12月21日]
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