遠江國一之宮「事任八幡宮」

一巡せしもの[事任八幡宮]01

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三島駅のホームに滑りこんできた電車へギリギリ飛び乗るような格好で乗車。

車窓から覗く富士山は今日もまた、その秀麗な山容を誇らしげに呈している。

山梨側より静岡側のほうが綺麗に見えるような気がする…あくまでも個人的な感想だけど。

沼津駅で下車し、地下道を通り抜けて静岡行きの電車に乗り換え。

朝の通勤通学時間帯のピークとあってか、地下道は乗り換えの乗客であふれて返っている。

もちろん乗車した電車も大混雑。
静岡の2つ手前、草薙駅でようやく座ることができた。

静岡駅で今度は浜松行きに乗り換える。
電車は降りた向かいのホームに停車して、客を待っていた。

車内はソコソコ混んではいたが、風邪の重篤患者のフリをして優先席に座る。

大きな音を立てて鼻をかんだら両隣の乗客が嫌な顔をした。
鼻かみ作戦、効果テキメンの様子である。

三島駅から東海道線で2時間ほどで掛川駅に到着。
ちなみに駅舎は木造…新幹線が停まる駅なのに!

昭和8(1933)年の建築で、同15(1940)年に改築されたもの。
初めて見る人はビックリするのでは?

ちなみに自分も10数年前、ビックリした。
「よくぞ残してくれた」という、喜びの驚きだけど。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]02

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ここから事任八幡宮へ向かうために利用するのは掛川バスサービス。
静鉄バスが地域サービスのために設立した関連会社だ。

バスが来るまで暫く時間があったので、駅前のコンビニでお茶とおにぎりの朝食を調達する。

お茶は地場産のオリジナルブランドがあればと思ったが、どこにも見当たらない。

やむなく全国どこででも見かけるありきたりなお茶を購う。
掛川市の周囲は茶畑で埋め尽くされているのに。

9時40分、駅北口7番バス乗り場から東山線に乗車。
マイクロバスで乗客は自分のほかにお婆さんが一人きり。

バスは掛川城を左手に見ながら旧市街を通り抜けて郊外へ。
ここも中心街は全国的傾向の例に漏れず、シャッター商店街化している。

その割には途中の停留所から客がドンドン乗車してきたが。
駅から約20分ほどで八幡宮前バス亭に到着。

東海道沿いに位置し、江戸側から25番目の宿場町日坂(にっさか)の入口にある。

東海道は切り通しになっていて、バス亭からは朱塗りの歩道橋を渡る。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]03

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街道の境目に架かる小さな太鼓橋を渡って境内へ。

左側に立つ社号標は小振りながらスッキリとした印象。
昭和42(1965)年奉納というから、最近といえば最近だ。

創建年代は不詳ながら、成務天皇年間(131~190年頃)には既に鎮座されていたとの記録もある。

坂上田村麻呂東征の折に桓武天皇の勅を奉じ、本宮山から現在地に遷宮されたと伝わっている。

主祭神は「己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)」。
玉主命(たまぬしのみこと)の娘神様だ。

枚岡神社や春日大社の祭神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母神様でもある。

「ことのまち」の「こと」とは「事」「言」、「まち」とは「真知」の意味を持つ。

真を知る神、言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる神。
言の葉を通して人々に加護を賜う神。

つまり、願い事がそのまま叶うという有難い“言霊の社”として、京の都でも有名だったという。

平安時代の清少納言「枕草子」にも「ことのまま明神いとたのもし」という項があるほどだ。

御配神は誉田別命(ほむだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)。

三柱を合わせて「八幡大神」と称している。

誉田別命は八幡神と同義で、応神天皇のこと。
息長帯比売命は応神天皇の母である神功皇后。

玉依比売命は初代天皇神武帝の母。
上総国一之宮玉前神社の御祭神として過去に紹介した。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]04

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さっそく石段を登って拝殿へ向かうと、案の定というか、やはり一人の女性がスッと横に現れた。

参拝直前に現れた彼女は上総国香取神宮でも甲斐国浅間神社でも現れた“神の使い”なのか?

とりあえず彼女を先に参拝させてやり過ごし、その間、拝殿の結構をジックリと鑑賞する。

虚飾を排した素朴な建物からは己等乃麻知比売命の御神徳である「言の葉」によって天・地・人を結ぶ「結節点」としての存在感が感じられる。

それにしても「八幡宮」を名乗っていながら、なぜ主祭神が八幡神と異なる己等乃麻知比売命なのか?

それは康平5(1062)年、源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請したことから始まる。

鎌倉幕府が成立し八幡神が武家の守り神として広まったのを契機に「八幡宮」を称するように。

「八幡神に非ずば神に非ず」の世の中、異なる神を祀っていたため廃止に追い込まれた神社も多々あったとか。

そんな中「己等乃麻知比売命」を守るため、敢えて名称を「八幡宮」に変更したという。

江戸時代には「誉田八幡宮」と呼ばれ、明治維新後は単なる「八幡神社」に。

再び「己等乃麻知比売命」が主祭神として認められたのは実は平成11(1999)年8月と、ごく最近のことなのだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]05

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暫くして女性が去ると、拝殿に正対して参拝。
終えると裏へグルリと回りこんで瑞垣越しに本殿を眺める。

本殿の建築様式は八幡造ではなく、なぜか流造。
(本当は八幡宮ではない)というサインなのか?

本殿は慶長13(1608)年、徳川家康が大壇那として造営した。

八幡神を武家の守護神として崇めていた家康により、徳川幕府は御朱印百石余を寄進。

また、二代将軍秀忠も寛永5(1628)年、拝殿と本殿を結ぶ中門を造営している。

このように事任八幡宮は徳川幕府との結び付きが強く、その証に本殿の扉の金具には菊と葵の両方の紋が刻まれているそうだ。

社殿の右側には御神木の大杉が聳立している。
一説によると坂上田村麻呂お手植えとも伝わる。

高さ36.5メートル、目通り(目の高さでの直径)6.3メートル、根回り11.2メートルという巨木だ。

樹齢1000年余と言われるが、今も樹勢は衰えておらず、現在では掛川市の天然記念物にも指定されている。

社殿の左側には摂社・末社が並んでいて、下に降りることなく直接行けるようになっている。

社殿に最も近いのが五社神社。

祭神は天照大御神、八意思兼神、大国主命、火之迦具土神、東照大権現の五柱。

アマテラスと大黒様と徳川家康が一つ屋根の下に同居しているとは、なんとも大らかな神社である。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]06

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その左隣りには上へと続く石段があり、登ってみると鎮座していたのは稲荷神社。
石段を降りて左隣りへ行くと、今度は金刀比羅神社が鎮座している。

更に左側には何故か祠ではなく、丸い石が据えてある。
境内の案内板によると、これは「くじら石」なる代物。

神社の南側にあった「くじら山」が平成6(1994)年に無くなるとき、くじらの長年の働きを労い、御霊を遷したもの。

その「くじら山」伝説とは一体いかなるものか、知りたい方は社務所までどうぞ、とのことだ。

ここで境内が尽き、来社の際にくぐった一の鳥居が間近に見える。
その鳥居の手前に「本宮遥拝所」と書かれた小さな看板がチョコンと立っている。

看板の奥から丘の上に向かって小さな坂道が続き、登り切ったところに瑞垣に囲まれた「本宮遥拝所」があった。

遥拝所といっても何か建屋があるわけはなく、植えられたばかりの若木が一本、天に向かって伸びているのみ。

近くに聳立する巨木の根元に空いた樹洞の中に、小さな朱鳥居と祠がこじんまりと佇んでいる。

その祠に向かって手を合わせていたら、今度はトレンチコートを着た中年男性が後を追うように登ってきた。

先の女性が己等乃麻知比売命の化身なら、今度のオッサンは八幡大神の化身なのか?

しかしオッサンはオッサンに興味が湧かないものなので彼には目もくれず、今度は本宮の方向に目を向ける。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]07

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事任八幡宮の本宮は東海道を挟んだ向かい側の山の上にある。
その山頂まで登ることなく本宮を遥拝できるよう整備されたものだ。

本宮は「ことのままの御神」が古来より鎮座されていたところ。

大同2(807)年に現在の「里宮」へ遷宮されたおかげで、誰でも気軽に参拝できるようになった。

遥拝所から降りて境内を横切り、社殿を背にする格好で南口から外へ出る。

南口の鳥居は自動車での参拝が増えたことに伴う駐車場の整備と相俟って新設されたもので、平成21(2009)年建立と非常に新しい。

鳥居を出て左に折れ、境内をグルリと取り囲む道を先へ進む。
途中にトイレがあり、その脇に「ことどひの里 入口」と書かれた看板が立っている。

左へ続く細い道に入り社務所の裏手を通り抜けると、社家・誉田家の前に出る。
さらに緩やかな小径を登っていくと、突き当りには奥津城(おくつき)なる一角。

豪族の城跡かと思いきや、実は墓地である。
しかしこの墓地、タダモノではない。

宮司の誉田家代々の墓所となっているのだが、なにせ歴史のある神社だけに昔の墓は相当に古い。

時の流れが刻み込まれた墓石の表情を眺めつつ、この社が辿ってきた悠久の歴史に思いを馳せてみる。

奥津城を左側に回りこみ更に奥へ向かうと、そこには新しく造成された社域があった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]08

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「ことどいの里」は平成24(2012)年、社域の北東を流れる逆川の河畔に造成された真新しい神域。

「ことどい」とは語らいを意味する古語で、祭神には「龍神様」を祀っている。

造成されたばかりの境内は真新しく、河畔の梢と相俟って清冽とした空気に包まれている。

その中心に鎮座する小さな社殿もまた、できたばかりでピカピカの新品だ。

逆川に向かって伸びる一本の石段を降りてみる。
谷底を流れる小川のほとりが事任八幡宮の禊所。

そこに立って周囲を見渡すと、冬木立のくすんだ色合いの間に楓の鮮やかな紅色や竹林の渋い緑色が映える。

川面は陽光にキラキラと輝き、頭上からは鳥のさえずりが聞こえる。
いかにも禊を行うに相応しいと感じられる場所だ。

「ことどいの里」を後にし、茶畑に囲まれた道を辿って境内まで戻る。
その道すがら、遠江国の一之宮について考えた。

遠江国には一之宮が二社ある。
一社は、ここ事任八幡宮。

もう一社は森町にある小国神社。
しかも、それぞれに二之宮がある。

事任八幡宮は湖西市新居町の二宮(大神)神社。
小国神社は磐田市二之宮の鹿苑神社。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]09

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元は三之宮だった氷川神社が一之宮を称し、小野神社と併存する格好になった武蔵国のケースではなく。

元は寒川神社があったところへ、源氏が鶴岡八幡宮を建立して併存する格好になった相模国のケースでもない。

遠江国の場合は一之宮を、元々あった小国神社から事任八幡宮に入れ替えようとしたケース。

一之宮の神社だけを挿げ替えるにとどまらず、一之宮制度というシステムそのものを入れ替えようとする大胆な策動だ。

室町時代に成立した一之宮一覧「大日本国一宮記」に事任八幡宮は紹介されているが、小国神社は掲載されていない。

本書の編纂には吉田神道宗家の関係者が係わっていると推測されている。

つまり京都における神道の勢力争いが遠江国にまで波及したことが、一之宮が二社ある要因になったようなのだ。

そんなことを考えているうち、再び社家・誉田家の前に出た。

八幡神とは第十五代応神天皇、別名誉田別命のことと先に触れた。
ここが八幡宮である以上、宮司が誉田姓なのも非常に納得のいくところ。

とはいえ、八幡神全盛の時代に本来の御祭神である己等乃麻知比売命を隠さざるを得なかったり。

小国神社と一之宮の座を争ったのも京都の勢力争いに巻き込まれた結果だったり。

社家にとっても不本意だったろうと同情のひとつも寄せたくはなるが、そこは塞翁が馬、今が良ければ全て良しか。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]10

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再び南口鳥居の前まで戻る。鳥居と道を挟んだ向かい側に一軒の蕎麦屋がある。

手打ち蕎麦とお茶処「陽の坂(ひのさか)」。
店名は近隣の宿場町「日坂」に因んだものか。

事任八幡宮近辺には他に食べ物屋や土産物屋は見当たらず、ここしかない。
軒下にはパリッとした暖簾が下がり、営業中であることを謳っている。

その暖簾をくぐって木戸をカラリと開け、店内に入った。
「いらっしゃいませ~」

元気な声に迎えられて中に入ると、店内は木目調のデザインで統一され、温かみのある空間が広がっている。

テーブル席に就き、とりあえずNA(ノンアルコール)ビールを注文し、メニューを眺めながら何を頼むか考える。

ざる蕎麦は二八と十割の二種。
鴨せいろや天ぷら蕎麦などの種物もある。

蕎麦はつなぎの入った二八のほうが喉越しがよくて旨いと言われるが、ここは折角なので十割を注文。

「お蕎麦が出来るまで、こちらをどうぞ」

そう言って大女将らしき刀自が、お茶菓子を手渡してくれた。
表に『ことのままおこし』と記してある。

「事任の神様にちなんだお茶菓子なんですよ」
「あたり一面ぜんぶ茶畑ですもんね、さすが静岡」
「昼は蕎麦、午後からは静岡茶と和菓子のセットを楽しんで頂いてます」

『ことのままおこし』を眺めながら、突き出しの揚げ蕎麦をポリポリ齧り、NAビールを飲みつつ待つこと暫し、蕎麦が目の前に届いた。

まず、蕎麦だけを何もつけず口に含む。
口当たりが滑らかで、蕎麦の風味が口腔に広がる。

つゆは猪口に濃い目が少々という江戸前流。山葵も付けず薬味の葱も入れず、つゆだけで味わってみる。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]11

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濃厚な出汁と濃口醤油の組み合わせが蕎麦の野趣をキチンと受け止め、飲み込めば喉越しも滑らかだ。

つゆに刻み葱を入れ、蕎麦に山葵を乗せ、昆布塩と七味をかけて…と、幾通りにも亘って様々な味わいを楽しむ。

蕎麦の合間に挟む
ビールがノンアルコールなのが残念。
ここは吟醸酒のぐい呑を手に味わいたいところだった。

蕎麦を食べ終えNAビールの残りを飲み干していると、先出の大女将が話しかけてきた。

大女将といっても威風堂々とした観はなく、気さくな刀自といった印象。
他に客がいなかったせいか、色々と話し相手になってくれる。

「どちらからいらしたんですか?」
「東京です」
「遠い所わざわざ。観光ですか?」
「いえ、事任の神様を拝みに」
「はー、それはそれは」

なんと奇特な御仁なの!? という驚きのニュアンスが透けて聞こえた「はー」である。

「お蕎麦は如何でした?」
「とても美味しかったですよ。十割の割にボソボソしてないし、つゆも濃厚で少量。見事な江戸前の蕎麦でした」
「ありがとうございます。あ、いらっしゃいませー!」

大女将が礼を述べたところで新たな客が来店し、そこで蕎麦談義はプツン! といった感で途切れた。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]12

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「陽の坂」を出て、東海道(旧国道1号線)を跨ぐ朱塗りの歩道橋を来宮時と逆に渡り、本宮の鎮座する山へ。

もともと本宮と里宮は一続きの山だったが、戦後になって東海道を拡張整備するため切り通しが設けられ、両宮は道を挟んで離れ離れになってしまった。

このため江戸時代に切り通しは存在せず、街道と境内は直接繋がっていた。

現在では事任八幡宮の南側を通る日坂バイパスが国道1号線となり、こちらは県道415号線に“格下げ”されてしまったが。

来社時に降車したバス停の道を挟んだ向かい側に「奥社入口」と書かれた標識が立つ。

かつての本宮は「奥社」と名を変え、今も山頂に鎮座している。

標識の裏手からは階段というか足場というか、段々が山上に向かって伸びている。

その急勾配を登るのは結構キツいのだが、途中に石段などがキレイに整備されているため足元が悪いわけではない。

むしろ社域護持への社家の精励ぶりが、こうしたところからも忍ばれる。

階段とも山道ともつかない参道を20分ほど歩くと、前方に「ことだまの杜」という標識が現れ、ようやく奥宮に到着した。

境内は狭いながらも、木製の鳥居とこじんまりとした御社からは、歴史ある神社としての風格が感じられる。

また、その雰囲気はどこか「ことどいの里」と似ている。
御社の後背地が森林か河川かという違いはあるが。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]13

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山頂の奥宮から麓の里宮を通り、ことどいの里を抜けて谷底の禊場へと続く一本の線。

その“道”が持つ「精霊線」的な意味を、ここ奥宮へ来て改めて認識した。

ちょっとした登山で疲れたため、ベンチに腰を下ろして小休止。

このベンチも太い丸太を縦半分に切ったもので、さも無造作っぽく置いてあるところが「手造り感」を感じさせる。

道理で「ことだまの杜」の雰囲気が「ことどいの里」と似ているはずだ。

参拝を終えて急な参道を下る途中、これから奥宮に向かう家族連れとすれ違った。

老齢の夫婦と中年の女性という3人組。
親子だろうか? 尋ねたわけではないが。

参道には途中、歩道橋と東海道への分岐点がある。
今度は境内に戻らず、東海道へ直接降りてみた。

参道の入口には立派な鳥居が設えてあり、横には「本宮山」と墨書された大きな看板、手前には「本宮入口」記された棒状の標識。

この鳥居と道を挟んだ向かい側が来社時に利用したバス停で、ここから左手に向けて東海道の旧道が延びている。

掛川行きのバスまで時間が少々あったので、旧街道を散策してみた。

暫く普通の住宅街が続くが、次第に古錆びた古街道の雰囲気が漂い始める。

そのうち先述の逆川が見え、橋を渡ると宿場町の象徴、高札場が見えた。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]14

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高札場とは幕府や領主が決めた法度や掟書などを、「高札」と呼ばれる木の札に記して掲示しておく場所のこと。

注目を引きつけるため人通りの多い場所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂の敷地内にあった。

掲示された内容は日坂宿が天領だったことから公儀御法度(幕府による法令)が中心だった。

左手へと続く緩やかな勾配を登り切ると、そこが東海道五十三次25番目の宿場町、日坂宿である。

天保14(1843)年の記録によると、日坂宿には本陣1軒、旅籠屋33軒、民家168軒、750人が住んでいたという。

静岡県内22宿の中でも規模と人口の両面において、由比や丸子と並んで最も小さい宿場町のひとつだった。

日坂宿の家々はわらび餅を売り、足いたみの薬や足豆散・足癒散などを売る者も多かった…。

江戸時代きっての文人、蜀山人こと大田南畝の著した「改元紀行」には、そう記されている。

ただ残念なことに現在の日坂宿は東海道の関宿や中仙道の妻籠宿のように、街道沿いが往時の古い建物で埋め尽くされているわけではない。

現代の住宅の間に古い木造建築物が幾つか保存されているといった程度。
それでも各建築物の保存状態は良好で、見ていて飽きることがない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]15

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例えば高札場から坂を少し上がったところにある旅籠「川坂屋」の上屋。

江戸時代中期に建てられたもので、往時の面影を今に伝える貴重な建物のひとつ。現在の建物は嘉永5(1852)年の日坂宿大火の後に建てられたものだ。

江戸から招いた棟梁が作り上げた精巧な木組みと細やかな格子が特徴的。
身分の高い武士や公家などが宿泊した、脇本陣の格を持つ旅籠だったという。

旅館としては明治初頭に廃業したものの、平成5(1993)年までは一般住宅として使用されていたそうだ。

同12(2000)年に修理工事が施され、現在では掛川市有形文化財建造物に指定されている。

その向かい側に立つ萬屋は、逆に庶民が利用した旅籠だった。

建屋は川坂屋と同様に日坂宿大火の後で再建されたもので、その時期は安政年間(1854~59)と思われる。

1階が「みせ」や「帳場」、2階が宿泊用の「座敷」という普通の店構えで、幕末としては中規模の旅篭だった。

1階正面は蔀戸(しとみど)で、昼は障子戸、夜は板戸という様式は当時の一般的な店構え。

この様式は日坂宿で、昭和20年代まで数多く見られたという。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]16

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萬屋の並びに「藤文」という看板を掲げた古い建物が立っている。
ここは日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七翁の自宅で「藤文」とは屋号だ。

伊藤翁は安政3(1856)年に年寄役となり、万延元(1860)年から慶応3(1867)年にかけて問屋役を務めた。
時あたかも幕末の激動期。

幕府の長州征討に50両を献金する一方、後の戊辰戦争では官軍に進発費として200両を寄付している。

明治4(1871)年に郵便制度が発足するのと同時に郵便取扱書を自宅「藤文」に開設し、取扱役(局長)に就任。

この「藤文」は日本最初の郵便局のひとつと云われているそうだ。
その前にある下町停留所から掛川行きのバスに乗ることにした。

どうやらバスは少々遅れ気味。
同じようにバスを待っている初老のオジサンが話しかけてきた。

「遅れる時は、どうしようもないな」

そう言ってオジサンが立ち去ろうとした丁度その時、緩やかな下り勾配の先にある曲がり角から、掛川駅行きのバスが姿を現した。

もう少し見ていたいという思いに後ろ髪を引かれつつ日坂宿、そして事任八幡宮を後にした。

[旅行日:2012年12月21日]
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