伊豆國一之宮「三嶋大社」

一巡せしもの[三嶋大社]01

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富士宮駅から乗車した身延線の電車は17時55分、富士駅に到着した。

18時1分発の東海道線448M電車に乗り換え、同29分に三島駅へ。

外に出ると既に日はトップリと暮れ、駅内外は通勤通学客の群れでごった返している。

駅前に出ればアフターファイブへの期待感が喧騒となって渦巻いている。

そうした人混みに抗うように、駅前から続く緩やかな下り坂のアーケード商店街を急ぐ。

勾配の尽きた辺りから横道に入ると、その先で川に行き当たった。

名を桜川というが、川というよりせせらぎと呼ぶのが相応しい小ささ。

向こう側には大きな公園が広がり、夜陰に風光明媚な光景が浮かび上がっている。

やがて川沿いの歩道が行き止まりとなり、小さな橋を渡って対岸へ。

対岸には民家が並び、コンクリート製の小さな橋が川を跨いで歩道と結んでいる。

家一軒につき橋一本といった感じで、無数の橋が川面に架かる風景は圧巻だ。

歩道と車道の境目には「三島 水辺の文学碑」という石碑が点々と立ち並んでいる。

とはいえ周囲は既に暗く、しかも先を急ぐ身なので、じっくり鑑賞することなく通り過ぎる。

20分ほど歩いた頃、桜川が尽きて暗渠になったところで左側から来た道と合流して一本の道になった。

その先に小さな鳥居と社号標。

三嶋大社に到着した。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]02

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既に時刻は19時前だが社務所の開いている可能性は高いと踏み、駄目で元々の覚悟で来た次第。

閉じられた拝殿に向かって参拝した後、社務所へ向かった。

軒先の外灯は消えていたが、部屋の奥から明かりが漏れている。

扉を開けて中に入り、奥に向かって声を掛けてみた。

「ごめんくださーい」

応答がないので、もう一度声を掛けた。

「はーい」

返事がし、奥から神職さんが姿を現した。

「御朱印お願いしたいんですけど」

「いいですよ、どうぞどうぞ」

御朱印帳を手渡して待つこと暫し。

奥に引っ込んでいた神職が戻ってきた。

「すいません、こんな遅くに」

「いえいえ、ご参拝頂きありがとうございました」

社務所を出ると、既に辺りは真っ暗。

夜の神社というのも、なかなかに不気味だ。

こんな遅くに…とは言うものの、まだ午後7時を回ったぐらい。

これが夏なら、まだ日も暮れてすらいない時間だろう。

とはいえ、ここまで日が暮れてしまっては境内の散策も単なる肝試し的なものに終わってしまう。

とりあえず三嶋大社を後にし、来た道を駅へ向かって戻る。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]03

rj03三島t4u00

今ぐらいの時間なら新幹線はおろか在来線ですら余裕で帰京できるだろう。

しかし明朝早く出立する予定だったので、新幹線で帰京するより三島で一泊したほうがベターかと判断。

駅から歩いて2~3分のところにあるビジネスホテルに宿泊することにした。

素泊まりながらネット予約限定の特別価格で、新幹線を利用するより安上がりで済む。

チェックインして客室に入ると、ビジネスホテルとして可もなく不可もないといった印象。

思えば夕刻、富士山本宮浅間大社門前のお宮横丁で富士宮やきそば一皿を食べたきり。

なにか食べようかと思いホテルから外へ出ようとしたところ、ロビーの隅にある地下への階段が目に止まった。

なんだろう? と興味が湧き、階段を降りて短い地下道を抜け、再び階段を登ると、そこには全く別の世界が。

ホテルの隣に別の建物が立っており、そこと地下道でつながっていた。

こちらの建物は本館の旅館棟とある。

元々このホテルは旅館だったようで、ホテル棟のビルは後に建て増しされた別館になっている。

旅館棟にもフロントの痕跡などが見受けられる。ホテル棟が建つ前は、こちらだけで営業していたのだろう。

また、旅館棟の最上階(5階)には大浴場があり、ホテルの宿泊客も利用できるそう。

とはいえ、いったん別館から出て本館に移動し、さらにエレベーターで上がる必要がある。

客室にはユニットバスが完備されているし、移動するのも面倒臭いので利用することは結局なかったが。

[旅行日:2012年12月20日]

一巡せしもの[三嶋大社]04

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旅館棟にも玄関があり、外へ出ると前は駐車場になっている。

ホテル棟のできる以前はこちらが表玄関だったのだろうが、今では裏口のような寂れた印象しかない。

ホテルから裏道を通り抜け、ネオンがキラキラ輝く駅の方角へプラプラと歩く。

ホテルで貰った食べ処☆呑み処MAPを見ると、なかなか美味そうな店が点在している。

繁華街を歩きながら食べ処や呑み処を物色するも、なかなか食指が動かない。

なにせ今朝は出立が早かっただけに致し方ないところだし、明朝も動き出しは早い。

ここはコンビニで適当に酒肴を誂え、ホテルに戻ることに決定。部屋で一杯ひっかけ、早々に床に入った。

翌朝6時、ホテルをチェックアウトして昨夜たどった道をなぞるように歩く。

昨夜、三嶋大社を訪れたものの既に日が暮れていたため、神社そのものの姿は全く分からず仕舞。

このままでは単に御朱印を蒐集しに来ただけに終わってしまう。

そこで早朝、改めて三嶋大社へ参拝に行くことにしたものだ。

ホテルの表玄関を出ると目の前には、昨日も通った駅前から続く緩やかな坂道が横たわっている。

ホテルで貰った地図「みしまっぷ」によると、この坂は名を「愛染坂」というそうだ。

[旅行日:2012年12月20~21日]

一巡せしもの[三嶋大社]05

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道を挟んだ向かい側には三角形の緑地があり、大きな木が数本、空に向かって伸びている。

その真ん中に「愛染(あいぜん)の滝」という名の滝が流れている。

名称の由来は昔ここにあった「愛染院」という伊豆随一の大寺院から。

三嶋大社の別当で真言宗高野山派に属し、10数カ所に末寺を抱えていたほどの規模だった。

ところが愛染院は明治政府が発した神仏分離令によって跡形もなく消えてしまった。

現在では駅前から続く坂と、この滝だけが、その名を留めている。

昨夜通った道を今朝も同じように辿っていく。

まだ陽は登り切っておらず周囲は暗闇に包まれてはいるが、それでも次第に明るくなっていく気配は感じる。

歩くこと20分強、桜川が尽きて暗渠になる辺りでようやく陽が登ってきた。

昨夜はここの小さな鳥居から境内に入ったが、こちらは脇参道らしい。

道理で鳥居も社号標も小さかったはずだ。

今朝は境内に入らず道を直進し、大社町西という交差点で左に曲がる。

その先に姿を現したのは立派な大鳥居と社号標。

こちらが正門であることを疑う余地を差し挟ませないほどの大きさだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]06

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社号標に刻まれた「三嶋大社」の文字。

ちなみに社号の「三嶋」が先に存在し、それが地名「三島」の由来になったそうな。

創建時期は不明なれど、奈良時代の古書にも記録が残るほど昔からある由。

ではその「三嶋」という神号は一体どこから来たのか?

「三嶋」の語源は「御島」ではないかと推測されている。

その「御島」とは即ち伊豆大島や三宅島、八丈島など伊豆諸島のことに他ならない。

伊豆諸島は火山の噴火によって生まれた島嶼で、最近でも平成12(2000)年7月の三宅島大噴火は記憶に新しい。

この噴火で三宅島の全住民が島から脱出し、4年以上にわたる避難生活を余儀なくされた。

このように科学技術の進化した現代ですら火山の噴火は市民生活に重大な支障を及ぼすわけで。

気象観測もへったくれもなかった昔、山の神の怒りを鎮めるには神仏にすがるしかなかったのも頷ける。

伝承によると三嶋大社は最初、三宅島の富賀(とが)神社に祀られていたそうだ。

その後、伊豆半島下田の伊豆白浜海岸へ分祀されて白浜神社、別名「伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)」へ。

さらに大仁町(伊豆の国市)の広瀬神社を経て、伊豆国府のある現在地に鎮座したと伝わっている。

歴史的な事実か否かは判然としないが、あくまでも伝承ということで心に留めておきたい。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]07

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社号標に隣接する大鳥居の建立は文久3(1863)年。

瀬戸内海の小豆島から切り出した御影石で作られているそうだ。

鳥居と社号標をボンヤリ眺めていると、境内から大勢のお年寄りがワラワラと出てきた。

敬老会の皆さんが三嶋大社の清掃奉仕にでも従事されているのだろうか?

鳥居をくぐって境内へ入ると、すぐ右側に「たたり石」なる大きな岩が据えてある。

何か古来よりの怨念にまつわる代物かと多少ドキドキしながら説明板を読めば、それほどオドロオドロしくもない。

先ほど鳥居と社号標を眺めるために立っていた道路こそ、旧東海道。

たたり石は道の中央に置かれ、行き交う通行人の流れを整理する役割を担っていたのだとか。

石の名にある「たたり」とは「絡」という糸のもつれを防ぐ道具のこと。

それが転じて「整理」を意味するようになった。

やがて東海道を行き交う人の数が増えるとともに絡石が邪魔な存在に。

そこで絡石をどかそうと試みるも、そのたび災難に見舞われる。

やがて「絡」は「祟り」に置き換えられ、ダブルミーニングで「たたり石」と呼ばれるようになったとか。

その向かい側には若山牧水の歌碑が立っている。
 
のずえなる 三島のまちの あげ花火
月夜のそらに 消えて散るなり

牧水は宮崎県出身ながら長じて西隣りの沼津市に住み、伊豆の文豪として名声を馳せることに。

昨夜「三島 水辺の文学碑」を見かけたように、三島は牧水のみならず大勢の文士と深い関わりのある町なのだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]08

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歌碑の裏手から奥の総門に向かって神池が広がり、その真ん中を参道が突っ切っている。

その途中、社殿に向かって左側の池上に厳島神社が浮かんでいる。

北条政子が勧請し、ことのほか篤く信仰したそうだ。

神池を抜けると正面に総門が聳立している。

張られた大注連縄の総重量は400kgにも及ぶという。

竣工は昭和6(1931)年3月と比較的新しいが、建設中の前年には北伊豆地震に被災している。

総工費は当時の金額で約7万円とか。

昭和5(1930)年当時の大卒初任給は平均50円ぐらい。

一方、平成24(2012)年3月のそれは約20万7500円ほど。

単純に除すれば昭和5年の1円は現在の4150円に相当する。

さらにこれまた単純に乗ずれば、7万円は2億9050万円となる。

時代背景が違うから単純計算による比較は無意味かも知れない。

とはいえ昭和の神社建築を代表的する建造物とも評価されている総門。

現代なら3億円の予算をかけても、ここまで見事な木造建築物を作れるかどうか。

それを考えるとコストパフォーマンスは意外と高いようにも思える。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]09

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総門をくぐり抜けると参道沿いに桜の木が立ち並んでいる。

右側に宝物館と芸能殿、左側には昨夜お世話になった社務所。

しかし、桜並木の後ろ側には初詣用に準備された大型テントが並び、その裏にある建物の姿は見えない。

なお、芸能殿は現在の総門が完成するまで使用されていた以前の総門である。

旧総門は幕末の安政東海地震で破損し、慶応4(1868)年2月11日に復旧工事が完了。

昭和5年に現在の総門が落成すると他の場所へ移築された。

戦後、再び戻って来ると一部改造された上で芸能殿として保存されることになったものだ。

芸能殿と参道を挟んで線対称の位置にに一体の銅像が立っている。

幕末から明治にかけて神主(宮司)を務めていた矢田部盛治(やたべもりはる)の像。

文化勲章を受賞した彫刻家、沢田晴広(せいこう)の手によるものだ。

嘉永7(1854)年11月4日に発生した安政東海地震で、境内の建造物はほとんどが倒壊。

それを矢田部宮司は10年の歳月と1万6677両という巨費を投じて復興させた。

先述の旧総門(現芸能殿)を再建したのも矢田部宮司である。

とまあ、三嶋大社は矢田部宮司の尽力なくしては現在の姿が想像できないと言っても過言ではない。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[三嶋大社]10

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また、戊辰戦争の折に矢田部宮司は伊豆伊吹隊を結成し、三嶋大社は新政府側に加担。

東征大総督宮(有栖川宮)の先導警護や明治天皇の御通行警護などを奉じ、新政府に積極的に協力した。

この銅像は維新の功績を讃えて明治天皇から下賜されたもの…ではない。

矢田部宮司は社殿の再興だけでなく、大場川の治水工事や祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力。

こうした功績に対する市民からの感謝と敬慕の証しとして、昭和29(1954)年に建造されたのだ。

桜並木の参道を抜けると、今度は正面に神門が待ち構えている。

竣工は幕末の慶応3(1867)年8月10日で、総門に比べると小ぶりで非常にシンプルな建物。

だが、ここを抜けると先は境内の中でも特に神聖な第一清浄区域となる。

神門の右手前に神馬舎があり、壁には無数の絵馬がぶらさがっている。

その前に大小二つの石が並べて置かれている。

源頼朝と北条政子の腰掛石というそうだ。

左の大に頼朝、右の小に政子が、それぞれ腰掛けたという。

源頼朝といえば安房国一宮洲崎神社や相模国一宮鶴岡八幡宮など、関東一円の一宮と縁の深い御仁。

しかし頼朝にとって、ここ三嶋大社ほど運命を一転させた一宮は他にない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]11

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平安時代末期、平治元(1159)年に起こった平治の乱で源義朝は平清盛に敗れ、源氏は京の都から一掃された。

義朝は斬首、子の頼朝は伊豆に幽閉され、源氏は存亡の淵に立たされる。

それから時が下ること20年余の治承4(1180)年。

後白河天皇の第二皇子、以仁王(もちひとおう)が諸国の源氏に平氏追討の令旨を発した。

ところが平氏に令旨の存在がバレてしまい、以仁王は平知盛・重衡の追撃に遭い宇治の平等院で戦死してしまう。

令旨を受けた源氏を逆に平氏が追討していることを知った頼朝は、このままでは自分の身が危ないと挙兵を決意する。

同年8月17日、頼朝は三嶋大社に立ち寄り挙兵の成功と源氏の復興を祈願。

翌18日未明、頼朝はわずか30人ばかりの手勢を率いて韮山(現伊豆の国市)へ。

伊豆国の目代(代官)屋敷を奇襲し、山木判官平兼隆(たいらのかねたか)の首級を挙げた。

17日の夜は三嶋大社で祭礼が行われており、目代屋敷の警備が手薄だったのも計算の内と伝わっている。

頼朝は奇襲の成功がよほど嬉しかったのか、二日後に感謝の証しとして土地を寄進、その書状が今でも残っているそうだ。

一方の三嶋大社も旗揚げと初勝利を記念し、毎年8月16日に「頼朝公旗挙出陣奉告祭」を執り行っている。

その後、頼朝は平氏を駆逐し、鎌倉に幕府を開いて日本史上初めて武家による政権を樹立するに至った。

武家政権の端緒を開いた三島大社は、武門武将にとって縁起の良い神社ということで篤く崇敬されたという。

このように旗揚げに験のある神社として、事業を興そうとする人がご利益を求めて祈願に訪れることが多いそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]12

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神門から中に入ると参道の中央に舞殿が立ち、その先に社殿群が聳立する構図。

舞殿は舞を奉納するだけでなく、神事や祈祷、結婚式なども行われる。

舞殿の「欄間」と、その上の「小壁」には中国の「二十四孝」という親孝行の話を題材にした彫刻が巡らされている。

「二十四孝」とは今から約700年前、元の時代に郭居業(かくきょぎょう)という人物がまとめた物語。

壁が縦三つに分割され、それぞれ「欄間」「小壁」と上下に分かれているので、1面につきスペースが6ヶ所。

「欄間」「小壁」に1話ずつ計2話、それが3つ並んでいるので壁1面につき3組×2話の計6話。

それが東西南北それぞれの壁にあるので全部で24話が刻まれている。

ところで、その親孝行話がどんな内容なのかは、余りに昔の話過ぎて実は良く分からない。

舞殿をグルリと回り込み、境内の最も奥に鎮座している社殿へ。

三嶋大社では拝殿、幣殿、本殿を総称して「御殿」と呼んでいるそうだ。

御殿は手前に拝殿、奥に本殿、両者の間に幣殿という構図で並んでいる。

先述の通り嘉永7年の安政東海地震で全て倒壊。

だが、矢田部宮司の指揮下で慶応2(1866)年9月9日に復興。

これら御殿は現在、国の重要文化財に指定されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]13

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拝殿の前に立って柏手を打ち、目を閉じて手を合わせる。

参拝を終えてフッと頭を上げると、拝殿正面のいたるところに見事な彫刻が数多く設えられているのに気付いた。

これらの彫刻は矢田部宮司が新たな社殿を造営するに際し、彫工を雇って弟子らと作業に当たらせたもの。

雇った彫工は安政4(1857)年10月16日に後藤芳治良、同5(1858)年2月14日に小沢半兵衛・希道親子の3人。

彫刻は天岩屋戸伝説や神功皇后伝説、上総国一之宮玉前神社でも詳述した山幸彦伝説など、様々な題材を取り上げている。

本殿を見るため一旦、境内右側に聳える巨大な金木犀の横から第一清浄区域を出る。

この金木犀は樹齢1200年を越えると推定され、現存する木犀としては最古にして最大なのだとか。

戦前の昭和9(1934)年5月1日には、文部省から国の天然記念物に指定された由緒正しき“ご神木”である。

本殿と拝殿の横まで行き、境内と隔てる壁越しに屋根を眺める。

拝殿と比して本殿は小さい神社が総じて多いのだが、ここは拝殿と本殿が同じぐらい大きい。

なにせ本殿は高さ23メートル、鬼瓦の大きさ4メートルと、出雲大社と並び国内最大級というから大きいはずだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]14

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再び金木犀の横を通って第一清浄区域に戻り、拝殿の前へ。

三嶋大社の御祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)。

二柱の神を総じて「三嶋大明神」と呼称している。

一柱の大山祇命は日本における「山の神の総元締」ともいえる存在。

また甲斐国と駿河国の一之宮でも祭神、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)の父として登場した。

富士山の火山活動を鎮めるために祀られた甲斐と駿河の一之宮が、富士山の精霊を祭神にするのは当然といえば当然。

一方、伊豆の火山活動を鎮めるために祀られた三嶋大社の祭神が富士の精霊ではなく、その父にして山の神の総元締なのも納得のいくところ。

伊豆国一之宮三嶋大社は全国に1万社を超える三嶋系神社の総本社。

だがもうひとつ、三嶋系神社の総本社と目されている神社がある。

伊予國一之宮大山祗神社(おおやまづみじんじゃ)。

こちらの御祭神は大山積神(おほやまつみのかみ)と書くが、大山祇命と同じ神様である。

ただし同じ“三島明神”ながら、どちらが本社か分社か諸説あって未だに判然としていない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]15

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通説では伊予が本流で伊豆が分流だと目されている。

三嶋大社に遺されている、伊豆の大山祇命は伊予から迎えたという伝承がその根拠。

また、江戸期の儒学者林羅山は著書「本朝神社考」に、伊豆は伊予から移ってきたと記している。

三島系神社の総本社は三嶋大社ではなく、大山祗神社なのだろうか?

御殿の西側、客殿の廊下に石造りの扁額が安置してあった。

巨大な石板には大きく「三嶋神社」と彫り込まれている。

ここで祭神の「三嶋大明神」について考えてみた。

三嶋大明神とは大山祇命と積羽八重事代主神の“二柱”を総称した神号である。

大山祇命は伊予から来たとして、ならば事代主神はどこから来たのだろうか?

「三嶋」の語源は「御島」、つまり火山によって生まれた伊豆諸島のこと。

そして三嶋大社は三宅島の富賀神社から遷移してきたことは先述した。

この富賀神社の御祭神こそ事代主神なのだ。

事代主神は大国主命(大黒様)の子で、七福神の恵比寿様としても知られている。

日本書紀には「出雲国の三穂の崎で魚釣りを生業としている神様」とあり、このため漁業の神として信仰されている。

ヱビスビールのラベルに描かれている、釣り竿を手に鯛を小脇に抱えた恵比寿様の姿は、この神話が基になっているわけだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]16

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また、国譲りを迫る武甕槌命と経津主命に対し「父(大国主命)は必ず応じるでしょう」と答え、その通りになっている。

事代主神の“事(コト)”とは神の言葉の“言”で、“代(シロ)”とは代理の意味。

つまり事代主神とは神の言葉を代行して発する「ご宣託の神」でもあるわけだ。

富賀神社の伝承によると、事代主神は父の大国主命とともに出雲国島根半島から紀伊国を経て三宅島に渡ってきた。

富賀神社付近に居を構え、本殿の地下は事代主神の御陵だと言い伝えられている。

実際、地下からは古墳時代の土器や勾玉、奈良時代初期の古鏡などが発掘された。

江戸期の国学者平田篤胤は著書「二十二社本縁」で祭神は事代主神だと主張。

これを受けて明治6(1873)年、祭神は事代主神だけになってしまった。

とはいえ大山祇命の存在も無視し難いものがあったのか、時代が下ること約80年後の昭和27(1952)年。

大山祇命も祭神に復帰し、現在のように二柱を以って「三嶋大明寺」と称されるようになったそうだ。

大山祗神社は四国ではなく、瀬戸内に浮かぶ芸予諸島最大の島、大三島(おおみしま)に鎮座している。

瀬戸内といえば源平合戦の舞台であり、大山祗神社は「日本総鎮守」の称号を下賜されるほどの「軍神」でもある。

先に三宅島から遷移していた事代主命のところへ、源氏と縁のある大山祗神社から大山祇命を後に分社した…。

そんな歴史的な空想を脳裏に描きながら、第一清浄区域を後にした。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]17

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総門を出て右に曲がり、細い道を進む。

昨夜、参拝に訪れたルートだ。

道の右側に祓所神社という、池の中にある島に鎮座した摂社を見かける。

鬱蒼とした樹木に囲まれ、木陰の中にひっそりと佇んでいる。

昨夜通った時には全く気づかなかったが、朝陽の中でさえ目立たないのだから然もありなん。

昨日くぐった小さな鳥居を通り抜け、西門から境内の外へ出る。

それにしても早朝の参拝は気持ちの良いものだ。

昨夜、無数の橋に絶句した、三嶋大社から白滝公園へ桜川沿いに続く道をブラブラ歩く。

歩道と車道の境に「水辺の文学碑」が立ち並んでいた、この道は名称を「水上通り」という。

今朝は多少の時間があるので、ひとつひとつ丹念に鑑賞していく。

正岡子規や太宰治、井上靖や大岡信など、三島に縁のある文学者の句碑が10基ほど並んでいる。

中でも最古の文学者は弥次喜多でおなじみ「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九だろうか。

ここ三島は三嶋大社の門前町であると同時に、東海道五十三次11番目の宿場町でもある。

隣は“天下の険”箱根であり、これから江戸へ向かう旅人は山道と関所に相対してグッと気を引き締める。

逆に江戸から来る旅人は難所の箱根を無事に越え、安堵の胸を撫で下ろしたことだろう。

いずれにせよ、東海道を行き交う旅人たちで大いに賑わっていた三島の町の姿が思い浮かぶようだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]18

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居並ぶ句碑の中から司馬遼太郎のそれが目に止まった。

「裾野の水、三島一泊二日の記」より、とある。

昭和61年の小説新潮に掲載とあるから、1986年…今から四半世紀ほど前の文章だ。

なぜ三島が富士の湧水に恵まれ、大小数多の川が市内を網の目のように流れているのか?

まさに三島が“水都”たる所以が、簡潔かつ明瞭に説明されている。

川幅が広くなった辺りで、向こう岸に「白滝公園」という小奇麗な公園が姿を現した。

昨日、桜川の向こう側に風光明媚な光景が浮かび上がらせていたあの公園である。

園内一面に生い茂る冬木立が、朝陽を一杯に浴びてオレンジ色に輝いている。

富士の湧水が流れ込んでいる桜川の川面からはユラユラと水蒸気が立ち上っている。

まさに“水都”三島を象徴するような美しい風景。

これは早朝、まさにこの時間にしか見ることができないに違いない。

白滝公園が尽きると水上通りは愛染坂とぶつかり、T字路を描く。

だが愛染坂の向こう側に細い道が続いき、しかも入口には社号標らしきものが立っている。

近寄って見ると、そこには「式内二宮浅間神社」と記されており、社号標の陰には説明板も設置されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]19

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それによると「古くは三嶋大社の別宮」で、祭神は「木花開耶姫命、波布比売命の二柱」。

元は「三嶋大社につぐ名社」で「かつては富士登山をするもの必ずこの神社に詣でるを常とした」とある。

社号から富士山本宮浅間大社の分社であることは間違いないだろう。

ただ、元々こちらの浅間神社は三宮で、本当の二宮は二宮八幡宮だった。

しかし二宮八幡宮は現存していないため、後に浅間神社が二宮として扱われるようになったそうだ。

参詣して甲斐と駿河の浅間社と比べてみようかとも思ったが、これは一宮巡礼の旅。

敢えて立ち寄らず、先を急ぐことにする。

三島駅に向かって愛染坂の緩やかな勾配を登りながら、つらつら考える。

それにしても不思議なのは、三嶋大社の由緒書に徳川幕府との関係が一言も述べられていないことだ。

伊豆国は幕府の直轄領だったし、西の駿河国は大御所家康所縁の地。

しかも徳川家は源氏の流れを汲むだけに、三嶋大社を粗略に扱う理由が見当たらない。

これは矢田部宮司が幕末に新政府側へ加担したため、宮司が歴史から徳川幕府との関わりを抹消したのでは?

そんな歴史的記録、どこにもないのだが。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]20

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大地震で建造物のほとんどが倒壊した際、矢田部宮司は徳川幕府に救援を要請したのではなかろうか。

それまで篤く崇敬してきた徳川将軍家だけに、今回も当然のごとく援助の手を差し伸べてくれるだろう、と。

ところが時代は風雲急を告げる幕末の乱世。

京の天子様の守護や西国大藩との戦争の準備、諸外国とのお付き合いなど、幕府には金食い虫の課題が山積み。

もちろん現金が潤沢にあるはずもなく、優先順位を付ければ三嶋大社の再建など下から数えほうが早かったはず。

援助を申し入れたものの幕府から冷たくあしらわれたに相違ない。

ならばと矢田部宮司は私財を投じて社殿群を再建する一方、幕府に怨嗟の念を抱いたのは想像に難くない。

それが伊豆伊吹隊の結成、ひいては薩長側への加担につながっていったような気がしてならない。

繰り返しになるが、矢田部宮司の行動を裏付ける歴史的根拠などどこにもない。

ただ薩長側からすれば、武門武将から崇敬の篤い三嶋大社の宮司が味方に加わったことで、逆に心強く感じたのではないかと思える。

結局、徳川幕府は消滅し、薩長側の明治政府が国家権力を掌握することとなった。

“武神”三嶋大社の霊験あらたかといったところか。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]21

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そんな“空想”を脳裏に描きながら歩いているうち、駅前の交差点で赤信号につかまった。

道の向こうに見える三島駅は残念ながら改装工事中。

富士山と三嶋大社をイメージしたという外観は残念ながら白いヴェールに覆われている。

やがて信号が青に変わり、通勤通学客の群集が駅に向かって一斉に動き出す。

その時、どこか懐かしいメロディーが歩行者信号から聞こえてきた。

♪あたまを雲の~上に出し~

文部省唱歌の「富士の山」だ。

♪四方の山を~見おろ~し~て~
 
小学生の時、音楽の授業で習った時の記憶が呼び起こされる。

♪かみなりさまを~下に~聞く~

歌詞が今でもスラスラと口を突く。

♪富~士~は~日本一の~山~

通勤通学客の群集に混じり、懐かしい歌を口ずさみながら、三島駅の改札へと向かった。

[旅行日:2012年12月21日]
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