駿河國一之宮「富士山本宮」

一巡せしもの[富士山本宮]01

rj01富士t4u02

石和温泉駅から中央本線に乗り、約10分ほどで甲府駅に着いた。

南口から駅前に出ると、甲斐国のシンボルともいえる武田信玄公の銅像が聳立している。

顔を覗きこむと、信玄公もカッ! と目を見開き、こちらを睨みつけてきた。

何も悪いことはしていないのに、ドキッとするのは何故だろう?

次の列車の時間が迫っていることもあり、ひと眺めしただけで駅ビル「エクラン」に引き返す。

昼食になりそうなものを物色しようと、まずはカップ葡萄酒を探しに2階のワインセラーへ。

しかし手頃な代物が見当たらず、残念ながら手ぶらで店を出ることに。

同じフロアにあった御当地ショップ「甲斐の味くらべ」を覗いてみる。

もちろん目当ては“B級グルメ”王者の甲府鳥もつ煮。

これを肴にして、身延線の車中でワンカップ甲州産赤ワインで一杯…というのが当方のササヤカな目論見である。

甲府鳥もつ煮、当然あるにはあったが、それらはお土産用のバカデカいものばかりで、こちらが欲しいタイプは皆無。

何の成果も得られないまま「エクラン」を後にし、取りあえず改札の中へ入る。

思い起こすのは石和温泉駅で見かけたカップ葡萄酒と甲府鳥もつ煮。

あー、あそこで買っておけば…と後悔至極、まさか甲斐の国府で入手できないとは想像もできなかった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]02

rj02富士t4u03

ダメもとで構内の駅弁屋を覗いてみると、500円のワンコインワインを発見!

これ幸いとばかりに手に取り、ついでに鳥もつ煮を探すも、こちらの姿はなかった。

仕方なく目についたワッフルを選び、ワインと一緒に会計しつつ思い出した。

先の「甲斐の味くらべ」に「鳥もつ煮ドロップ」なる代物があったことを。

このドロップを舐めながらワインを飲めば丁度いいかも…と考えたが、止めた。

先にワインがなくなり、大量のもつ煮込み味の飴だけが手元に残るという、あまり芳しくない状況が予想された。

甲州ワインで味わう鳥もつ煮は、また別の機会に…そんなことを思いながらホームへ向かった。

12時58分、富士駅行き普通電車は定刻通り甲府駅を出発した。

昼時とあってか車内は結構な混雑ぶりで、空いている座席も見当たらない。

テスト期間のせいか高校生が目立つ一方、老人たちの姿も多い。

市川大門駅で高校生たちが大挙して降り、鰍沢口駅で大半の乗客が下車し、下部温泉駅に老人たちが吸い込まれていった。

さらに身延駅を過ぎると、あれだけの賑いがウソのように車内はガラガラになった。

ようやくボックス席も空き、窓際に陣取って冬枯れた甲斐路の風景を眺めつつ、ワッフルを齧りながらワインを啜る。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]03

rj03富士t4u04

パンは肉、ワインは血…まるでキリスト教徒のようだ、日本の一ノ宮巡りをしている身なのに。

ワインは少々お高めだったがコップ付きで、しかもプレミアムワインを謳っている。

ワンコインの割に味わいもソコソコ、結果的にいい買い物ができた気がする。

車窓に映る富士川の流れを肴にワインを堪能するが、酔っ払うというより頭痛がしてきた。

十島駅で列車行き違いにより小休止し、次の稲子駅との間で甲斐と駿河の国境を超える。

富士川の水量は乏しく、茫漠と広がる河原の石礫が寂寥感を掻き立てる。

だが、寂しげな風景もこのあたりまで。

芝川駅から沼久保駅にかけて、富士山が車窓いっぱいに姿を現した。

ことに今日は天気が良いので非常にクリアに見える。

裾野の西側を通っている身延線の、しかも進行方向に向かって右(西)側の席に座っていたので本来なら見えるはずがない。

なのになぜ、富士山は車窓に姿を見せたのか?

身延線は芝川駅を過ぎると線路がグルリと180度向きを変え、南から北へ進む。

このため西富士宮駅の手前まで車窓から富士山が拝めることができた次第。。

15時03分、西富士宮駅に到着。

ここから西町商店街を東へ向かう。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]04

rj04富士t4u06

駅前には低層階のビルが立ち並んでいるが、寂れているというか廃れてるというか。

歩行者はおろか車道を通り過ぎる自動車すら稀という、あまり活気は感じられない静謐さだ。

西町商店街も歩道にアーケードがかかった立派な商店街ではあるが、紛うことなきシャッター通りと化している。

洋品店、酒屋、蕎麦屋…壁のようにシャッターが連なる間に、営業している商店がポツリポツリと“生きて”いる。

西町商店街が富士山本宮とともに発展してきたのは想像に難くない。

だが、今でも日曜日や祝日などは参拝客で賑わうのだろうか?

参拝客は社前へ車で直接乗り付けるのが一般的だろうし、このあたりで買い物することはなかろう。

鹿島神宮もそうだったが、門前町に依存していた商店街がモータリゼーションによって“殺されて”しまうのは全国共通の“宿痾”かも知れない。

だが、こういう商店街には、そこはかとない愛着が湧く。

アメリカのビジネスモデルを丸ごと移植した郊外型のショッピングモールに比べれば、よほど人間の匂いがする。

それに、地元の人々のため長きに亘って役立ってきた歴史を感じさせる姿に胸を打たれるのだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]05

rj05富士t4u07

西町商店街は県道414号線との交差点から、大社通り宮町と名を変える。

とはいえ、富士山本宮に近づいたからといって西町商店街より繁盛しているというわけでもない。

ただ、こちらはシャッター通りというより、むしろ空き地が目立つ。

営業を止めた商店が上屋を取り壊し、跡地を駐車場に転用しているのだ。

その空き地の上方に、富士の山頂がポッカリと顔を覗かせている。

商店街を取り巻く人の世の移り変わりなど、悠久の歴史を刻んできた霊峰富士から見れば“些細な出来事”同然に違いない。

やがて商店街の前方に小さな橋が見え、その手前左側に朱色も鮮やかな大燈籠が現れた。

そこから伸びる参道の奥を覗きこむと、朱色の巨大な鳥居が聳立している。

参道を進むと左手に観光案内所と物産品店が並んで立っていた。

向かって左側が観光案内所「寄って宮」、右側が物産品店「ここずらよ」。

店頭を覗くと、ここには富士宮の特産品がズラリと勢揃いしている。

「ここにズラリ」と、静岡の方言「ずら」を掛けあわせたのが店名の由来とのこと。

平日の夕刻とあってそれほど混んでおらず、興味も惹かれたが、参拝を優先して境内に向かった。

先ほど見た巨大な鳥居の前まで来る。

富士山本宮浅間大社の二ノ鳥居だ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]06


rj06富士t4uttl

純白の冠雪を頂く富士山と真紅の巨大な鳥居のコンビネーションが、日の本一の絶景であることは疑いない。

二ノ鳥居の右隣りには社号標が立っている。さらにその右隣りには、これまた巨大な「富士山大金剛杖」のレプリカ。

ちなみに同じ「浅間」でも甲斐一宮浅間神社は「あさまじんじゃ」、駿河一宮浅間大社は「せんげんたいしゃ」と読む。

社伝「富士本宮浅間社記」によると、創建は第11代垂仁天皇3(紀元前27)年。

第7代孝霊天皇の御代、富士山の大噴火で住民が逃げ去り、周囲は荒れ果てたまま放置されていた。

これを憂いた垂仁天皇は浅間大神を「山足の地」に祀り、富士の精霊を鎮魂。

これが富士山本宮浅間大社の起源だという。

また、富士山を鎮めるために初めて浅間大神を祀ったことから、全国に約1300社を数える浅間神社の総本山ともなっているそうだ。

二の鳥居をくぐると車道を一本はさんで参道が続き、突き当りには石造りの三の鳥居。

手前に大きな石灯籠、両脇には巨大な狛犬を従え、その間を通って先へ進む。

浅間大神が最初に祀られた「山足の地」とは特定の地名を指すものではなく、富士山麓の適した場所を選んで行なわれた“祭祀”そのものを示すと考えられている。

特定の場所へ祀られるようになったのは、ここから北北東約6キロにある山宮浅間神社へ鎮座して以降のことだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]07

rj07富士t4u10

山宮は社殿がなく古木や磐境(いわさか)を通して富士山を直接お祀りする、古代祭祀の原初形態を残す神社だ。

社記によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐で駿河国を通過した折、賊徒が放った野火(野原で四方から火攻めに遭うこと)に襲われた。

そこで尊は富士浅間大神を祈念して窮地を脱して、賊徒を征伐。

その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝わっている。

これと似たような話は相模国一ノ宮、寒川神社のところでも出てきた。

古事記における景行天皇の御代、東国征伐に赴いた倭武命(やまとたけるのみこと)の話。

相武国造が倭武命を罠に嵌めて野原の中に追い込み、火を放って暗殺しようとした。

燃え盛る炎に取り囲まれた倭武命は絶体絶命のピンチ!

そのとき、腰に帯びていた草薙剣(くさなぎのつるぎ)がひとりでに鞘から抜け、周囲の草を刈り払った。

そして、叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から授かった火打ち石で内側から火を付けた。

外側から迫り来る炎は内側からの向火と相対して勢いが弱まり、やがて鎮火。

すんでのところで難を逃れた倭武命は相武国造一族を成敗し、この一帯を焼き払った。

そこで一帯のことを「焼遺(やきづ)」と言うようになり、それが現在の焼津市という地名の由来になったという。

もちろん草薙剣で刈り払った場所は現在の静岡市清水区「草薙」だろう。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]08

rj08富士t4u13

古事記には襲われた場所が相武国(さがむのくに)と記されている。

しかし
相武国は今の神奈川県に当たり、草薙も焼津も駿河国にある。

1000年以上も昔のこと、ヤマト王権にとって遠い東国の地理状況がアヤフヤだったのか?

それに現在の草薙と焼津は20キロ近く離れており、とても同一視できる距離ではない。

それとも長い年月の中で地名だけがひとり歩きし、何の関係のない土地で定着するようになったのか?

その実相、今となっては見当も付かない。

ただ、滅ぼされた側の相武国造こそ寒川神社の御祭神ではないか? という説の存在を相模国一之宮のところで紹介した。

それも本当かどうかは分からないが、倭武命と敵対者の双方が富士山を挟んで東西に分かれ、今も睨み合っているかのような図式は甚だ興味深い。

三の鳥居を通り過ぎると池が左右に広がり、その中央を太鼓橋が跨いでいる。

名称は「鏡池」、メガネのような形状をしているので「眼鏡池」とも呼ばれているそうだ。

橋の右手前には巨大な馬の銅像が聳立している。

近寄って見ると「流鏑馬(やぶさめ)」の像とある。

橋を渡ると目の前に一直線の道が横たわり、左右両端には鳥居が立っている。

5月5日に神事「流鏑馬」式が行われる馬場で、春には桜の名所として大いに賑わうそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]09

rj09富士t4u15

それで橋の手前に流鏑馬の像があったのかと納得。

流鏑馬の起源は建久4(1193)年、源頼朝が富士山麓で行った巻狩り。

その折に参拝した際、奉納した流鏑馬が現在に伝えられているという。

馬場を渡ると短い石段があり、その真ん中に自然石が祀られている。

この石は「鉾立石」といって、明治初年まで行われていた「山宮御神幸」の際に神鉾を休め奉った場所だという。

「山宮御神幸」とは今を遡ること約1200年前に行われた故事に由来する神事のこと。

大同元(806)年、蝦夷征伐で有名な征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が平城(へいぜい)天皇より奉勅。

現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座した。史実か否かは定かではないが、この遷宮が「山宮御神幸」のルーツになっているそうだ。

石段を登り切ると、そこには2階立ての壮麗な楼門。

慶長9(1604)年に徳川家康が寄造営したものだ。

資料には間口4間(約7.25m)、奥行2間半(約4.5m)、高さ6間半(約12m)の入母屋造り…とある。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]10

rj10富士t4u14

左右に随身像が安置されているので「随神門」じゃないかと思うのだが、あくまでも「楼門」と呼ばれている。

随身像の背銘には「慶長19年」と年号が記されている。

西暦に換算すると1614年、大阪冬の陣があった年である。

「富士山本宮」と記された扁額は文政2(1819)年製作で、揮毫は聖護院入道盈仁親王の御筆によるもの。

延喜元(901)年に醍醐天皇の勅願で、現在の静岡市内に浅間神社が分祀されて「富士新宮」が創建された。

それに対応する形で、こちらの浅間神社は「富士山本宮」と呼ばれるようになったそうだ。

なお、浅間“大社”となったのは昭和57(1982)年と比較的最近のことである。

楼門を抜けると正面には豪壮な社殿。

こちらもまた家康が寄造営したものだ。

というか家康は関ヶ原の戦勝御礼として社殿や楼門など30余棟を造営し、境内一円を整備。

駿河とは切っても切れない縁で結ばれただけあって、相当な寄進を行ったものである。

ただ、江戸時代の度重なる大地震により、往時の建物で現存するのは本殿、幣殿、拝殿、楼門だけという。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]11

rj11富士t4u16

拝殿の屋根は瓦ではなく檜皮で葺かれ、外壁は丹塗一色。

その中で向拝の下にある蟇股だけが極彩色を放っている。

建屋は入母屋造で、間口と奥行は共に5間(約9m)。

入口横から左右に向けて濡縁がグルリと巡らせてある。

拝殿の前に立ち、掲げられてた扁額を見る。

「浅間大社」とだけ記されたシンプルなもの。

御祭神は甲斐国一ノ宮の浅間神社と同じ「木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)」で、由緒も一緒。

ただ甲斐国一ノ宮と異なり、こちらは相殿神として瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と大山祇神(おおやまづみのかみ)も一緒に祀られている。

御神名「木花」から桜が御神木とされ、境内には500本もの桜樹が奉納されている。

春に桜の名所として賑わうことは流鏑馬のところで述べた通り。

木花之佐久夜毘売命は別称「浅間大神(あさまのおおかみ)」とも呼ばれている。

甲斐国一ノ宮のところで「あさま」は「火山」の古語に由来していると触れたように、もとは富士山大噴火により荒廃した世の中を鎮撫するために創建された神社だった。

それが鎌倉時代になると修験道と融合し、仏教風に「浅間大菩薩」と呼ばれるように。

その後、室町時代に木花之佐久夜毘売命が“富士の精霊”と見なされるようになり、江戸時代後期の寛政年間(1789~1801)頃に定着。

さらに明治政府の神仏分離令により仏教色が廃され、再び「浅間大神」に戻され現在に至っている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]12

rj12富士t4u00

本殿を鑑賞するため、拝殿から右側を通って裏手に回り込む。

すると、そこに枝垂れ桜が一本、冬枯れた姿で佇んでいる。

傍に立つ石碑には「信玄櫻」と刻まれている。

その名の通り武田信玄が自らの手で植栽した桜。

だが初代は既に滅失し、現在あるのは二代目とのこと。

武田信玄と勝頼の親子も浅間大神を篤く崇敬しており、神領の寄進や社殿の修造などを奉納したという。

ほかにも信玄の願状など武田家ゆかりの品が数多く遺され、崇敬の篤さを今に伝えているそうだ。

拝殿の横を奥へ進むと、本殿との間に幣殿が設けられている。

間口5間、奥行3間の両下造で、元は石畳だったが現在は床に改装されているそうだ。

幣殿から横に透塀が伸び、本殿の真横まで行き着くことができないため、斜め前から本殿の建屋を眺める。

丹塗りがオレンジ色の夕日を浴び、社殿全体が燃え上がるような朱一色に染まっている。

本殿もまた楼門や拝殿と同じ慶長9(1604)年、徳川家康によって造営された。

本殿は明治40(1907)年5月27日に古社寺保存法により特別保護建造物に指定。

本殿は国から、拝殿と楼門は県から、それぞれ重要文化財の指定を受けて特別に保護されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]13

rj13富士t4u00

その構造は「浅間造り」という独特のもので、確かに他の神社では見たことのない形をしている。

一階の屋根の上に小さな楼閣が乗った二重の楼閣造りで、棟高は45尺(約13.6メートル)もあるそう。

一階は5間(約9メートル)四面葺卸(ふきおろし)の宝殿造り。

二階は間口3間(約5.5メートル)奥行2間(約3.6メートル)の流れ造り。

屋根は共に桧皮で葺かれていて、上にチョコンと突き出た楼閣の姿はとてもユーモラス。

富士山の雄大かつ壮麗なシルエットにも引けをとらないよう、あえて家康は重層にしたのだろうか?

と同時に、ここへ上がって霊峰富士を眺めることが、家康にとって特別な意味を持っていたことも想像に難くない。

ただ、気になるのは楼閣の屋根に据えられた千木。

主祭神の木花之佐久夜毘売命は言うまでもなく女神。

なのに千木の形状は男神を示す外削になっている。

一方の鰹木は四本の陰数で、女神であることをキチンと示している。

この違いに何か意味があるのか色々と調べてみたのだが、これといった理由は見つからなかった。

本殿の右側、つまり今いる場所から透塀を挟んだ向こう正面に小さな祠が立っている。

摂社「七之宮」で、祭神は「浅間第七御子神」。

これは富士山本宮に付随する十八摂社「浅間御子明神」の七番目という意味。

ヤマト王権下の一宮制度における七之宮というわけではないそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]14

rj14富士t4u21

本殿を離れて社務所横の門から境内を東側に出ると、その先に広大な池が広がっている。

名を「湧玉池(わくたまいけ)」といい、国の特別天然記念物にも指定されている名所。

ここを坂上田村麿呂が遷座先に選んだのは、富士山の神水が湧くこの地こそ御神徳を宣揚するのに相応しいと判断したためではないかと考えられている。

そのバックボーンには「噴火を水によって鎮める」という観念が存在することも見逃せない。

富士山の雪解け水が幾重にも積層した溶岩の間を浸透して湧出するため、水質はミネラル分が豊富。

温度は13℃、湧水量は毎秒3.6リットルで、年間を通してほとんど変化がないとか。

ちなみに水汲み場が完備されているので、湧水はテイクアウトOKだ。

水汲み場には蛇口などなく、何本もの細い竹の筒から水がジャージャーと流れ落ちるがまま。

これだけでも富士山から湧玉池へ流れ出る雪解け水の量の膨大さが想像できそうだ。

昔は富士山へ向かう前にここの禊所で身を清め、六根清浄を唱えながら登るのが習わしだったという。

最近では富士登山もポピュラーになり、昔ながらのクライマーだけでなくカジュアルな観光気分で山頂へ向かう人も随分と増えた。

特に昨今では「弾丸登山」なる所業が隆盛を極めているそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]15

rj15富士t4u00

山小屋には泊まらず夜間に五合目から出発し、山頂を目指し夜を徹して歩き通す。

山頂に着いたら即座に下山するため、別名「日帰り登山」とも言われている。

昨夏など下山者の約3割が弾丸登山だった…というデータすらある。

今や富士登山も温泉並みの扱いになったものだ。

しかし、それでもやはり富士山は日本の最高峰である。

一気の登山は身体が順応する余裕がないため、高山病にかかりやすく体調不良に陥りやすい。

また、夜間の登山は落石などのアクシデントに気づきにくく、事故に遭う危険性も高い。

高尾山にでも登るような気積りで富士登山に臨めば、痛い目に遭う確率は相当高いのは間違いない。

そもそも富士登山は平安時代末期、山岳仏教の影響から生まれたもの。

富士山頂には仏様がいるという教えに基づき、登山して修行するという考えが広まった。

それまでは火山を鎮めるために存在した神社が、ここで神仏習合による富士登山信仰へと変容。

室町時代になると修験者が押し寄せ、これが庶民の間に信仰登山を広める契機に。

決定的になったのが江戸時代半ば、江戸を中心に東国を中心に組まれた富士山信仰のための「富士講」。

「講」とは資金を集めて代表者を選び、皆の祈願を託して富士山へ送り出す仕組みのことだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]16

rj16富士t4u22

江戸時代には江戸から富士吉田まで健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日。

好天に恵まれても最低8日間は必要で、車で五合目まで簡単に行ける現在からは想像もできない程の苦行だった。

こうした苦難の旅を助け、富士講の発展に大きく寄与したのは浅間神社に属する御師(おし)の存在だった。

御師は宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷、各種の取次業務など、富士信仰全般の世話役ともいえる。

年に一度は中部地方から東北地方にかけて各地を巡礼し、御札を配っては浅間信仰の布教に努めた。

例えば富士登山の拠点だった富士吉田には御師町が整備され、現在でも上吉田に存在している。

富士急富士山駅の東側、御師町の入口には境界を示す「金鳥居(かなどりい)」が聳立。

ここから南へ約1.5キロメートルの北口本宮富士浅間大社までの間に御師町は広がっている。

町並みの基本的な骨格は今も変わらず、現在も往時の面影を偲べるそうだ。

とはいえ御師として実際に富士講を迎えて活動している家は、今では僅か2軒だけになったとか。

それでも今なお古来の教えを継承し、祭典では御焚上や塩加持などの神事を、夏期には登拝行事を行っている。

こうした宗教的、歴史的な背景を全てカットし、単なるレジャー感覚だけで登って帰ってくるとは勿体無い話。

まだ富士山に登頂したことはないが、もし機会が来るのなら、こうした古(いにしえ)より伝わる作法を噛み締めながら登りたいものだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]17

rj17富士t4u18

湧玉池の畔を北へ向かって歩いていくと、水源の岩上に水屋神社が鎮座している。

さらにその奥には天神社が祀られ、道なりに進むと本殿の真裏に出た。

後ろ側から眺める本殿の楼閣もまた、なかなかに味わい深い。

二階の楼閣の遥か上空には、下弦の月がポッカリと浮かんでいる。

月といえば、かぐや姫の「竹取物語」。

実は富士山本宮浅間大社と「竹取物語」の間には深い関わりが存在するのだ。

かぐや姫は満月の夜、迎えにきた使者とともに月へ去っていく…というのが一般に知られるラストシーン。

そのクライマックスで帝からの求婚を断ったかぐや姫は、代わりに「不死の薬壷」を差し出す。

姫がいないのに不死になっても仕方ないと、帝は「不死の薬壷」を駿河国の山の頂で焼くよう部下に命じる。

士(つはもの)ども数多(あまた)具して山へのぼりけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づける

数多の士が山頂に登ったから「士に富む」が故に「富士山」という名に…これが「竹取物語」による由来。

しかし本当は月ではなく、富士山の火口に去ったという説話もある。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]18

rj20富士t4u17

これは神仏に関する説話を集めた南北朝時代の神話集「神道集」に拾遺された「富士浅間大菩薩事」に記された話。

雄略天皇の御代、駿河国富士郡に住む老夫婦が竹林で光る竹を発見した。

切ると中から見目麗しい女の子が出てきたので「赫野(かくや)姫」と名付けて大切に育てた。

美しい娘に成長した赫野姫は地元の国司から寵愛を受け、求婚を受ける。

ところが赫野姫は突然「私は富士山の仙女です」と宣言し、月ではなく仙宮(富士山頂)へ帰ってしまった。

別れの際、姫は国司に焚けば死者の姿が見える「反魂香(はんごんこう)」を与える。

だが、それでは我慢できない国司は姫を追って富士山の頂上へ向かう。

そこには池があり、中から立ちのぼる煙の中に姫の姿を見た国司は反魂香を懐に池へと飛び込んた。

その時、一面に立ち上った煙が今なお湧き続いているため、仙宮のことを「不死の煙」といった。

これをそのまま山に名付けて「富士の煙」と呼んだのが「富士山」という名の由来…これが「富士浅間大菩薩事」の説。

それから長い年月が過ぎた後、姫は富士浅間大菩薩となって山裾の人里に現れた。

人々からは「恋に悩む人は大菩薩を拝めば願いが叶う」と篤く信仰されたという。

「竹取物語」と「富士浅間大菩薩事」…富士山の由来として、どちらが正解なのかは分からない。

ただ、燃え盛る炎の中で御子を出産した“猛母”木花之佐久夜毘売命の神話とは別に、もうひとつの「物語」がある。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]19

rj18富士t4u19

「竹取物語」の成立時期は定かではないが、概ね平安時代初期の10世紀半ばまでと推測される。

「富士浅間大菩薩事」が収録された「神道集」の成立は南北朝時代の14世紀ごろ。

木花之佐久夜毘売命が“富士の精霊”として定着したのは江戸時代後期というから18~19世紀ごろの話か。

つまり富士浅間大菩薩事が先で、木花之佐久夜毘売命が後と言えるのかも知れない。

本殿の左側には三之宮の小さな祠が、こじんまりと佇んでいる。

こちらも先出の七之宮と同様、一宮制のそれではなく十八摂社「浅間御子明神」の三宮に当たる。

祠の左側には円錐形の小さな砂山。

手前の看板には「富士山の浄砂(きよめすな)」と記されている。

三之宮の前にある西門を出、社殿の西に位置する祈祷殿の方へブラブラ歩く。

放し飼いにされた御神鶏が数羽、地中に嘴を差し込み餌を啄んでいる。

古事記によると高天原から降臨した天孫瓊瓊杵命が木花之佐久夜毘売命を見初めたのは「笠沙(かささ)の岬」でのこと。

「笠沙の岬」とは鹿児島県南さつま市笠沙町にある岬だと考察さられている。

薩摩川内市から薩摩半島を海岸沿いに南下していくと、南シナ海に向かって西にピョコンと飛び出た小さな岬だ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]20

rj19富士t4u00

瓊瓊杵命は木花之佐久夜毘売命に求婚するも、その前に父の大山祇命から許しを得てくれと言われる。

さっそく瓊々杵命は使いを出して結婚を申し込んだところ、大山祇命は大喜び。

木花之佐久夜毘売命に山のような結納品を持たせ、ついでに姉の石長比売命(いはながひめのみこと)も一緒に添えて献上した。

ところが石長比売命は岩石の霊の化身であり、妹とは対照的な醜女(しこめ)…今で言うブス。

一目見るなり怖気づいた瓊瓊杵命は石長比売命だけを大山祇命のもとへ送り返し、妹とのみ寝床を共にした。

美女は優遇され、醜女は冷たくあしらわれる…神話の世界も今の世の中も変わらない“不変の真理”なのだろうか。

しかし、これを大山祇命は大いに恥じ、瓊々杵命に対して嘆き悲しんだ。

私が石長比売命を差し上げたのは岩石の精霊であるように、御子の命が雨が降ろうと風が吹こうと永久に盤石であるのを願ってのこと。

また、木花之佐久夜毘売命が木花の精霊であるように、桜花が咲き乱れるように栄えるのを願い、そう誓いを立てて差し上げたもの。

なのに姉だけ返されたのでは、天神の御子のお命といえども桜の花が散るごとく脆く儚くなるでしょう。

このため歴代天皇の寿命は長くないのだと、古事記は述べている。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]21

rj21富士t4u09*

また、日本書紀では大山祇命ではなく磐長姫(石長比売)自身が直接語っている。

唾を吐きながら泣いて悲しみ、呪いの言葉を紡ぎ出す。

この世に生きとし生ける人間たちは、木に咲く花のように移ろいやすく、すぐに散ってしまうことでしょう。

瓊瓊杵命は長寿の神より短命の神を選んだ。

それ故に人間の寿命は短いのだという。

この神話に如何なる教訓が含まれているのか…。

それは「死の起源」をも解き明かす崇高な教え。

しかし自分のような思慮の足りない者には「醜女を粗略に扱うな」。

ひいては「人を見かけで判断するな」程度の教訓しか導き出せないのが残念だ。

桜の馬場を西から東へ通り抜け、参道の東側へ。

そこは「ふれあい広場」という公園になっていて、その右隣りを神田川と県道が並んで通っている。

このため視界を遮るものがなく、富士山の勇姿を丸ごとを眺めることができる。

山の頂に白雪が神々しく輝き、山肌を白い雲が取り巻いている。

その山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮が鎮座している。

奥宮の起源は12世紀中頃に末代上人が建立した「大日寺」。

後に「大日堂」と名を改め、明治政府の神仏分離令により奥宮とされた。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]22

rj22富士t4u00

現在の奥宮社殿は明治35(1902)年に造営されたもの。

富士山内で強力(ごうりき)によって担ぎ上げられた建造物は現在この奥宮のみ。

それだけに非常に文化的価値の高い貴重な建造物なのだそうだ。

しかし、平成23(2011)年3月15日に発生した静岡県東部を震源とする震度6強の地震により著しく損壊。

そこで翌年から改築工事に着手したものの、なにせ富士山頂での作業だけに資材の運搬費など莫大な経費が必要なのだとか。

重機でラクラク運べる現在に比べて人力でコツコツ運ばなければならない往時のほうが、確かに運搬作業そのものは大変だったろう。

だが運搬作業を金銭で丸ごと賄える現在より、それだけの重労働を苦にしないほど信仰心が篤かった往時の建造物だからこそ、奥宮の文化的価値が伝わってくる。

といっても奥宮の改築工事に税金が投入されるわけではなく、すべて奉賛者からの協賛金によって賄われる。

頂戴したパンフレット「霊峰富士」には500弱に及ぶ個人と法人の名が列挙されている。

それも地元静岡県だけでなく、北は札幌から南は九州まで全国各地から満遍なく。

日本人にとって富士山の存在感が、いかに重きを為しているか分かるようだ。

慶長14(1609)年、徳川家康は富士山本宮浅間大社に富士山頂の支配を認めた。

さらに安永8(1779)年、寺社奉行の裁定により八合目以上が境内地として寄進された。

その面積は約120万坪(400万平方メートル)にも達するという。

敷地内には噴火口の大内院(幽宮)を含め、幾つもの霊場行場が存在しているそうだ。

山頂まで行ったことがないから良く分からないが。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]23

rj23富士t4u11

ふれあい広場を通りぬけ、再び二ノ鳥居の前へ。

門前の「寄って宮」と「ここずらよ」は既に店じまいしていた。

既に影は長く伸び、間もなく日が暮れることを知らせてくれる。

その前にもう一度、富士の山容を目に焼き付けておこうと二ノ鳥居越しに眺めてみた。

明治政府は太政官布告などによって、浅間大社の境内地だった八合目以上の土地を国有地に編入。

しかし明治時代の国家神道下では、国有化されても浅間大社の境内地に変わりはなかった。

ところが第二次世界大戦が終わり、政教分離を明記した新憲法が昭和22(1947)年5月3日に施行。

それに伴い昭和27(1952)年に突然、境内地だった八合目以上の土地が国に召し上げられた。

宗教活動に必要な土地のみ無償で譲与されたものの、あくまでも一部に過ぎなかったため、大社側は同32(1957)年に名古屋地裁へ提訴。

それから争うこと17年、一審・二審とも大社側の勝訴で迎えた同49(1974)年、最高裁で大社側の勝訴が確定した。

無償譲与されたのは山頂の土地約400万平方メートルのうち、富士山測候所跡や登山道などを除いた約385万平方メートル。

ところが財務省から大社側に土地を譲与する通知書が交付されたのは、更に30年後の平成16(2004)年のことだった。

これほど譲渡に時間がかかったのは、実は大きな問題の存在がある。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]24

rj24富士t4u25

富士山頂の土地は大社の所有にはなったものの、静岡県と山梨県の県境が未確定のため土地表示がなく未だに登記できていないのだ。

このため大社側の要請を優先し、先に譲与手続きを済ませたのだという。

裁判では「日本のシンボルを私有地化するのは国民感情に反する」との議論もあったそうだが。

国か浅間大社か土地の所有権を決めるより、静岡県と山梨県の県境を策定する作業のほうが余程の難題と見える。

二ノ鳥居と富士山に背を向け、浅間大社に別れを告げる。

参道入口と道を挟んだ南側に、こじんまりとした門前町が佇んでいる。

その名は「お宮横丁」。

猫の額ほどのスペースに富士宮の名産品を扱う店舗が9軒ほど庇を連ねている。

一番手前にはB級グルメの王「富士宮やきそば」の総本山、富士宮やきそば学会のアンテナショップ。

奥へ伸びる中央の細い参道を挟んで団子やぜんざい、富士宮溶岩焼き、静岡おでん、ジェラートなどの店が並ぶ。

その中に「お~それ宮」という、特産のニジマスを使用したハンバーガーや漬け丼を出す店がある。

富士宮市のニジマス年間生産量は約1500トンと全国トップ。

ちなみに全国合計の生産量は約1万1000トンなので、その1割以上が富士宮産ということになる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]25

rj25富士t4u26

平日の夕方だったので客の姿は少なかったが、休日には大いに賑わうのではなかろうか。

ここで遅めの夕食を取ることにした。

しかし「富士宮やきそば学会」は少々混雑気味だったので、ここは「すぎ本」を選択。

「すぎ本」は昭和23(1948)年創業という、富士宮やきそばを出す店では最古の老舗「鉄板焼すぎ本」の出張店。

その本店は西富士宮駅からここへ来る途中、西町商店街の裏手にあった。

ここ出張店の営業時間は17時30分までなので既に店じまいモード。

店内に席はなく、横丁の中央に設えられたテーブルで食べる。要はフードコートのスタイルだ。

やきそばを受け取りテーブル席に就くと、なぜか目の前に小学生の男の子が一人座ってゲームをしていた。

ゲームの手を止め、やきそばの皿を珍しそうに見ている。

いくら「Bー1グランプリ」絶対王者とはいえ、地元の人たちは日常的に食べているわけではないのだろうか?

かと言って何か話しかけてくるわけでもないので、放っといて目の前のやきそばを眺める。

黒々としたソースをまとった太い麺に魚粉が振りかけられ、紅しょうがの赤い色と鮮やかなコントラストを描いている。

さっそく麺を口へ運ぶ。

よくある中華料理店の焼きそばに比べてコシがあり、その歯ごたえが楽しい。

この独特な麺のコシこそ富士宮やきそばの特徴。

麺を蒸した後に茹でず、冷やした後で表面を油で覆うというユニークな製法によるもの。

このため麺に水分が少なく、それが独特のコシを生んでいるそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]26

rj26富士t4u27

「富士宮やきそば」を名乗るためには、概ね次の条件を満たすことが必要とのこと。
  1. 富士宮市内の4製麺業者の蒸し麺を使用
  2. 炒め油はラード(中には植物油を使う店も)
  3. ラードを絞った後の「肉かす」を加える
  4. イワシの「削り粉(だし粉)」を振りかける
  5. 富士宮の高原キャベツを使用
  6. 水は富士山の湧水を使用
  7. 調理には厚くて大きい鉄板を使用
ソースには特に決まりがなく、各店が独自にブレンドして個性を競っている。

3の「肉かす」とはラードを搾った後に残った豚の脂身を油で揚げたもの。

単に「かす」とも呼ばれ、麺と並ぶ特徴となっている。

エコといえばエコだが、ヘルシーとも言えない。

ただ、こうした「下衆い」食材を用いるが故に「B級」なのであり、「かす」抜きだと富士宮やきそばになり得ない。

ただ「すぎ本」のやきそばの具材は「かす」ではなくイカだったけど。

東京にも富士宮やきそばを提供する店は何軒かあるので、今回初めて食べたわけではない。

しかし、こうしたご当地名物は現地で食してこそ真価が計られるのではないか。

やはり浅間大社の門前で食べるだけでも東京での味わいとは違っているように思えたりする。

甲府の鳥もつ煮を食べそびれたのは惜しかったと改めて痛感したりする。

やきそばは量が多いわけでもなく意外に早く平らげてしまい、目の前にいた少年も気が付けば既に姿を消していた。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]27

rj27富士t4u24

お宮横丁を浅間大社とは反対側に通り抜けて神田川沿いに進むと、駐車場が居並ぶ広いスペースに出た。

その奥に大きな鳥居が聳立している。

これこそ浅間大社の一の鳥居だった。

こちらの扁額には「富士山本宮」と記されている。

鳥居の横には「せせらぎ広場」と刻まれた石碑が立っている。

広場という言葉から公園のような印象を受けるが、実質的には無料の駐車場だ。

夕暮れの中に浮かび上がる一の鳥居の黒いシルエット。

その中に、どこかの工場からだろうか白い煙が立ち上っている。

まさに赫野姫が仙宮に残した「富士の煙」の伝説に相応しい風景が見送ってくれた。

浅間大社を後にし、アーケード商店街「マイロード本町」を通って富士宮駅へ。

ただ、マイロード本町もまた衰退の気配が著しく、あまり通行人を見かけない。

地元の人たちは車で駅の向こう側にあるショッピングモールにでも行くのだろう。

車でのアクセスが面倒な旧市街地の商店街が衰退の道を辿るのは全国共通の現象。

もはや地元の消費者をアテにした商売は難しいのではないだろうか。

浅間大社の参拝客相手に特化するなど営業形態に特徴を持たせないと、商店街の生き残りは難しいようにも思える。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]28

rj28富士t4u30

マイロード本町から駅前通り商店街を抜けて富士宮駅へ。

駅前にはペデストリアンデッキが巡らされ、駅舎の全景を眺めることはできない。

近くまで寄って見ると駅舎自体は、こじまんりとしているのだが、そこから伸びるホームが不釣合いなほど大きい。

いや、既にホームとしての役割は終えて現在では駐車場になっている。

それでも昔は実際に使われていたことを考えれば、やはり大き過ぎるように思える。

身延線西富士宮駅と東海道線富士駅の間は、都市近郊ということもあってか運行本数が圧倒的に多い。

ホームに降りて富士駅行きの各駅停車を待つ間、先ほど見た駐車場の方角を見る。

今いる2番線ホームとの間にもう一本、明かり一つ灯っていないプラットホームが凍りついたように横たわっていた。

島式ホームの真ん中を金網で仕切り、手前側が1番線、向こう側が駐車場になっている。

1番線は団体列車専用のホームで、日蓮正宗大本山大石寺へ参拝する信徒教団のために設えられたもの。

しかし大本山と教団が決別した今となっては滅多に使われることもない様子で、乗り換え用の跨線橋は金網で封鎖されていた。

そんなガランとした空間に横溢する暗闇を切り裂くように、富士行きの電車が入線してきた。

富士山の持つ霊力は古来より、その裾野に様々な宗教団体を引き寄せ続けてきたし、今も続いている。

一方、レジャー感覚で気軽に山頂へ向かう富士登山もポピュラーになりつつある。

この先、日本人にとって富士山の価値は何処へ向かうのだろうか?

そんなことをボンヤリ考えつつ、明るい光に満ちた電車へと乗り込んだ。

[旅行日:2012年12月21日]
プロフィール

ramblejapan

カテゴリー
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
QRコード
QRコード











発刊!電子書籍

東海道諸国を巡礼したブログを電子書籍にまとめました。

下記リンクより一部500円にて販売中! ぜひご一読下さい!



一巡せしもの―
東海道・東国編

by 経堂 薫
forkN


一巡せしもの―
東海道・西国編

by 経堂 薫
forkN

福岡から大阪へ…御城と野球場を巡ったブログを電子書籍化!

下記リンクより一部500円にて販売中!  ぜひご一読下さい!



キャッスル&ボールパーク

by 経堂 薫
forkN



CLICK↓お願いします!















オーディオブック

耳で読むドラマ!


人気演劇集団キャラメルボックスとコラボした、舞台と同一キャストでのオーディオドラマ!


ドラマ化・映画化された書籍のオーディオブック。映像とは一味違った演出が魅力的!


耳で読む吉川英治の名作「三国志」!

  • ライブドアブログ