甲斐國一之宮「浅間神社」

一巡せしもの[浅間神社]01

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早朝、御茶ノ水駅から乗り込んだ中央本線の下り各駅停車は、予想に反して結構な混み具合だった。

まだ朝の6時前にもかかわらずロングシートは埋め尽くされ、そのうえ結構な数の人が立っている。

今年も残すところ、あと10日。

年の瀬が押し迫っているのを実感する。

そのまま客足が途絶えることなく国分寺駅に到着。

そこで乗り換えた下りの特別快速も混雑している。

ようやく八王子駅で車内はガラガラになり、7時10分高尾駅に到着。

向かいのホームに停車していた1451M電車に乗り換えた1分後、すぐに発車。

車内の4人掛けクロスシートに旅情を感じる間もなく、電車は約10分ほどで相模湖駅に着いた。

相模湖は都心から気軽にアクセスできる観光地だけに、駅舎もそれっぽいデザインになっている。

とはいえ、こんな厳寒期の、しかも早朝に観光客の姿などあろうはずもなく、通勤通学客の姿がチラホラあるばかり。

ここから中央自動車道相模湖バス停まで歩く。

駅前のバスロータリーを通り抜けて線路沿いに歩き、跨線橋を北側へ渡る。

この橋、床が透けて下が丸見えなので非常に怖い。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]02

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渡り切ると正面は斜面になっており、右前方に上へ向かう細い階段を発見。

行ってみると扉が付いていて、そこに「関係者以外立ち入り禁止」と表示されている。

左右を見渡したものの、上へ昇る道はこれしか見当たらない。

しかも扉に鍵がかかっている様子はなく、開けて鉄製の階段を昇ってみた。

階段脇には民家が二軒あり、その玄関脇をモロにすり抜ける格好。

登り切ると、またも扉。

この階段、やはり私有地だったらしい。

扉を付けたのは、駅から高速バス停へ“近道”する輩が後を絶たないからか。

だが斯く言う自分も、紛れも無く“輩”の一人。

心の中で“謝罪”と“感謝”、それと「見つかりませんように」との“願い”を呟いた。

階段を上り切ったところで、来た方角を振り返ってみると、朝陽を浴びた山並みが神々しく輝いている。

「鉄道」から「私有道」を経由して「一般道」の坂を登り、バス停へと続く階段を登って「高速道」に出た。

鉄道から高速バスへ乗り換えるだけなのに、こうして4種類もの「道」が体験できるとは有難いことだ。

7時55分、数分遅れで京王バス東の甲府行き高速バスが到着した。

甲府へ行くのなら中央本線で行けばいいものを、なぜ高速バスに乗り換える必要があったのか?


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]03

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実は甲斐国一之宮の浅間神社は、鉄道を利用すると非常に行きにくい場所に存在しているのだ。

乗車して運賃を支払う際に「甲斐一宮まで」と言うと、運転手から「通りません」という返答。

あれ? と首を傾げたら、追って「一宮バス停には止まります」との注釈。

それそれ! と納得し、相模湖→一宮の運賃850円を支払う。

ここで逆に「高速バスを利用するのなら始発の新宿から乗車すればよかったのでは?」という疑問も湧こうというもの。

実は今回の巡礼には「青春18きっぷ」を利用したので、高速バスと最も効率的に併用するため、相模湖までJRを利用した次第だ。

師走という時期と早朝という時間帯の割に、バスの車内は閑散としている。

というより、この時期にしては高速道を走るクルマの通行量そのものが著しく少ない。

乗客を疎らに積んだバスは、スカスカの中央道を西へ向かって順調に走っている。

しかし、バスは大月インターで中央道を降り、一般道の国道20号線に入った。

その理由も、車内が閑散としていた訳も、クルマの通行量が少なかった原因も、すべてここにある。

平成24(2012)年12月2日、笹子トンネル内で発生した天井板落下事故。

トンネル内に吊り下げられていたコンクリート製の天井板が、突如100メートル以上に亘って崩落。

走行中の車両が巻き込まれ、9名もの犠牲者が出た史上最悪のトンネル事故である。

まだ事故の発生から日も浅く、復旧工事は緒についたばかり。

このため全ての車両が大月インターで降ろされ、一般道の走行を強いられているのだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]04

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おかげで国道20号線は大渋滞。

これまで高速道を使っていたトラックなどが一斉に一般道へ押し寄せてきたのだから、当然といえば当然の話。

ただでさえ時間のかかる一般道の走行が、さらに輪をかけてノロノロ運転になっている。

それでもまだノロノロ運転は我慢できるが、交通量が激増した国道沿いの民家にとってはいい迷惑に違いない。

バスの車内がガラガラなのも、甲府ならJRの特急で行ったほうが例え運賃は高くても、バスとは比べ物にならないほど早く到着するからだろう。

それでもこのバスを利用したのは、ひとえに浅間神社へのアクセスが圧倒的に楽だからに過ぎない。

笹子川を挟んだ反対側の中央本線を、特急列車がスイスイ走っていく。

もし甲斐国一之宮が鉄道駅の近くにあるのなら、迷わずJRを使うのだが。

なかなか進まないバスは晴天の日差しを浴び、車内は気温が上がって生温い空気が充満。

そんな暖かい車内で微睡んでいたせいか、それほど渋滞にイラつくこともなく。

やがてバスは笹子トンネルの左下に差し掛かった。

さすがに微睡みも霧散する。

右側上部の入口付近には夥しい数の工事車両が並び、作業員用のプレハブ小屋が林立している。

このトンネルの中には、まだ救出されていない犠牲者がいる…それを思うと、やりきれなさを感じる。

亡くなられた方々の冥福を祈り、トンネルに向かって手を合わせ黙祷した。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]05

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その先で国道20号線は新笹子トンネルに入る。

こちらは吊り天井がないので落ちてくる心配はない。

笹子峠をトンネルで抜けると中央道が今度は左手に現れ、その向こう側には白い冠雪を頂いた南アルプスの峰々が聳立している。

一方、手前は一面の葡萄畑で、甲斐国に来たという実感を味わっているうちに勝沼へ到着。

それから間もない9時20分、国道20号線沿いにある一宮バス停に到着した。

時刻表では8時40分着の予定だったので、約40分の遅延。

しかし、あれだけ激しい渋滞に遭遇した割には、意外と早く着いたような気もする。

バスを降りて停留所の周りを見渡すと、すぐ近くに掲げられていた案内板を発見。

左上には「日本一桃の里」、右下には「一宮町役場」と記されている。

山梨県一宮町は平成16(2004)年に平成の大合併で笛吹(ふえふき)市となり、現在では存在していない。

国道20号を跨ぐ歩道橋を渡る。

好天には恵まれたが、空気が冷たい。

歩道橋の上からは南アルプスに連なる雄大な峰々が一望できた。

吹き抜ける風が塵を飛ばして空気が澄んでいるせいか、遠くの景色までクリアに望め、冠雪もクッキリ見える。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]06

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国道から側道に入り、桃畑の中を浅間神社へ向かって歩く。

さすが「日本一の桃の里」だけあって、見渡す限り桃林が広がる。

まだ蕾すら見当たらない冬木だが、春になれば桃の花で一面ピンク一色に染まることだろう。

桃の花を愛でつつ浅間神社に参拝するのなら、4月上旬が最適かも知れない。

桃畑から国道20号線へ戻り「一宮浅間神社入口」交差点に立つ一の鳥居と社号標を眺める。

普通の明神鳥居で、扁額には「第一宮」とだけあり非常にシンプル。

塗りは鮮やかな朱色ではなく、少々くすんだ赤錆っぽい色をしている。

ちなみに鳥居は道路全体ではなく、歩道にのみ架かっている。

その一の鳥居を通り抜け、表参道を進む。

少し先に鳥居と同じ色合いをした「さくら橋」があり、渡った先に天神様が祀られている。

白い鳥居と小さな祠、右側には実をつけたままの柿の木、後背の遥か彼方には南アルプスの峰々。

それらが絶妙なバランスを取りながら一体となって、一幅の絵画のような風景を描いている。

道の奥に白い鳥居が見える。

だが、沿道の両側には大きな神社の参道に有りがちな食べ物屋や土産物屋などは一切ない。

あるのは煙草屋と銀行ぐらいで、道の左側には古びた石碑が立ち並ぶ、ある意味“ストイック”な参道だ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]07

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一の鳥居から10分ほどで浅間神社の正門に到着した。

そこには石造りの二の鳥居と、旧国幣中社時代の社号標。

揮毫は鹿島神宮や香取神宮と同様、東郷平八郎元帥によるものだ。

甲斐国一之宮の浅間神社は「あさまじんじゃ」と読む。

ここより遥か北の上信国境でフツフツと滾っている活火山「浅間山」と同じ「あさま」だ。

一方、駿河国一之宮の「富士山本宮浅間大社」は「せんげんたいしゃ」と読む。

「あさま」の語源は古語の「火山」に由来している…という見方が一般的だという。

肥後国一之宮「阿蘇神社」の「あそ」もまた、同じ語源にルーツを持つと言われている。

「あさま」も「あそ」も火を噴く山を意味し、それらを鎮めるために祀られたのが甲斐と肥後の一之宮なのかも知れない。

鳥居をくぐると随神門、通り抜けると左側に社務所と参集殿。

その奥にトイレがあり、ちょっと拝借。

用を足しながら目の前にある窓を覗くと、視線の先には浅間神社が経営する保育園が広がっていた。

随神門から参道を奥へ進むと、突き当りではなく途中左手へ折れたところに拝殿が鎮座している。

境内の案内図を見ながら考えてみると、北向きの参道に対して左側に位置しているわけだから、社殿の正面は東を向いていることになる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]08

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浅間神社は富士山から見て真北に位置している以上、富士の鎮という役割から南を向いていても不思議ではない。

しかも浅間神社の御祭神、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)は「富士山の精霊」。

なのに何故、富士山にソッポを向いているのだろうか?

ここから東南へ2キロほどのところに、垂仁天皇8(紀元前22)年創建と伝わる摂社の山宮神社がある。

山宮川の水源が湧く神山の麓に鎮座し、周囲を鬱蒼とした樹海で覆われた山間の古社だ。

甲斐国一之宮は本来こちらが本宮で、今の浅間神社は里宮だったという。

往時、山宮神社には木花咲耶姫命、大山祇命(オオヤマヅミノミコト)、瓊瓊杵命(ニニギノミコト)の神様三柱が祀られていた。

木花咲耶姫命は大山祇命の娘であり、瓊瓊杵命の后。

三柱が一緒に祀られていたのは至極当然の話といえる。

それが貞観7(865)年12月、木花咲耶姫命だけを里宮である今の浅間神社に遷座した。

このため山宮神社には今でも大山祇命と瓊瓊杵命の二柱しか祀られていない“やもめ”状態。

ならば、なぜ木花咲耶姫命だけが里宮に遷座されたのか? 

その原因は前(貞観6)年に発生した富士山の大噴火にある。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]09

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現在の鎮座地一体はヤマト王権における甲斐国“地方政府”の中心部だった。

ここより西方、石和温泉の近くには「国府」、山梨県立博物館の近くには「国衙」という地名がある。

また、ここから南西に向かえば甲斐国の国分寺と国分尼寺の跡が残る。

ヤマト王権から「富士の怒りを鎮めよ」との司令を受けた甲斐国司は、山宮神社から“富士山の精霊”木花咲耶姫命だけを“抜擢”して国衙の中枢に据えた。

しかし山宮神社は主祭神が“山の神”大山祇命であり、本来は富士山だけでなく“山”そのものを祀った神社。

地元の人たちは神社が分割されることに、どうしても納得がいかなかったに違いない。

その腹いせに新たな社殿を建立する際、正面を富士山ではなく山宮神社の方角へ向けたのではなかろうか?

そんなことを想像するうち、木花咲耶姫命と父・大山祇命、夫・瓊瓊杵命…役人に引き裂かれた家族の絆が、社殿の配置から透けて見えるような気がしてきた。

さて、お参りしようと足を向けかけた時、紫色の服を着たお姉さんがタッタッタッと駆けてきて、拝殿の前で深々とお辞儀をして参拝を始めた。

できれば参拝は一人で行いたい質だけに、出鼻を挫かれた気がして、仕方なく境内を散策することにした。

境内はこじんまりとしていて、ゴテゴテとした建造物もなくスッキリとした印象。

鹿島神宮や香取神宮のように森林で囲まれているわけではないが、周囲が果樹園だけに風の通りがいいようだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]10

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境内の東側には遊具が設えられ、ちょっとした公園のようになっている。

そこに並ぶ歌碑や詩碑の中に明治維新の元勲、三条実美の歌碑を見つけた。

NHK大河ドラマ「八重の桜」では長州派の公家として悪役っぽく描かれていた三条公。

この歌碑を建立した明治21(1888)年3月から約2年後の同24(1891)年2月18日に薨去した。

これは武田信玄が奉納した短歌を後世に残すことを目的に、三条公が建立したもの。

うつし植る初瀬の花のしらゆふを
かけてそ祈る神のまにまに

この短歌をしたためた信玄公自詠の短冊は、笛吹市の有形文化財書跡に指定されている。

また、ここには第百五代後奈良天皇の御宸翰「般若心経」一軸が収められている。

後奈良天皇から下賜された信玄公が直筆の包装紙を添えて奉納したもので、国の重要文化財に指定されている。

さらに、信玄公は起請文(嘘偽りのないことを神仏に誓う文書)にも「一宮」という文言を多用していたそうだ。

貞観大噴火で木花咲耶姫命を祀った神社を新たに建立することになった際、甲斐国内の各所に浅間社が幾つか誕生した。

甚大な天災だったことは想像に難くないし、鎮めのために神社を数多く建立することも不自然ではない。

このため、他にも「甲斐国一之宮」を名乗る浅間神社が幾つかあり、どこが真の一之宮なのか今でも議論が続いている。

とはいえ、ここまで信玄公から篤く崇拝されていたことを考えれば、ここの浅間神社が真の甲斐国一之宮のようにも思えてくる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]11

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境内をフラフラと彷徨っているうち、東南の隅まで行き着いてしまった。

そこには「陰陽石」が祀られていた。

「陰陽石」とは男女の生殖器の形をした石のことで、男根の形を陽石、女陰の形を陰石という。

全国各地に陰陽石は鎮座しているが、浅間神社のそれは小規模なほうだろうか。

安房国一之宮洲崎神社のところでも述べたが、西洋キリスト教文明に毒された昨今の日本は、「男根」「女陰」と目にすれば即座に「ポルノグラフィ」が連想される下衆な社会に堕してしまった。

しかし、陰陽道に支配された往古の日本社会に於いて「陰陽和合」は万物生成の源。

「男根」「女陰」の形状をした石が御神体として崇められるのは自然なことだった。

とりわけ木花咲耶姫命は民間信仰の「子安神」と直結し、子授けや安産、育児などの神として広く信仰されている。

いつまでたっても子供が産まれず、嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしている女性にとっては今も昔も頼りになる“女神”。

この陰陽石もまた、昔から子宝に恵まれる日を待ちわびる夫婦から篤く信仰されてきたに違いない。

10分近くウロウロしたろうか? 

拝殿に戻ってみると、先ほどの“紫の君”がまだ両手を合わせて深々と拝礼している。

(まったく、いつまで拝んでんだよ!)と、少々立腹したものの。

逆に(そこまで神様に頼み込む必要があるなんて並大抵の厄介事ではあるまい)とも思えてくる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]12

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一体それは如何なる厄介事なのか? 

興味が湧いた時“紫の君”は柏手を打ち、来た時と同様に随神門の方へツカツカと立ち去っていった。

その後ろ姿を眺めているうち、ふとあることを思い出した。

上総国一之宮の香取神宮で参拝しようとした丁度その時。

突然、どこからか作業服姿の兄ちゃん2人が現れ、同時に参拝することになった。

そして、ここ浅間神社では“紫の君”が現れた。

香取神宮の御祭神は“武門神”経津主命(フツヌシノミコト)。

浅間神社の御祭神は“子安神”木花咲耶姫命。

そうか、彼ら彼女は神が現世に遣わした使者だったのか! 

と思い至った途端、自分の行動が馬鹿げていたように思えてならなくなった。

今後は参拝しようとしたその時、不意に現れる人は神からの使者だと思って、一緒に素直に参拝することにしよう。

改めて、拝殿に正対する。

正面に掲げられた額面には「浅間神社」ではなく「第一宮」と記されている。

延寶2(1674)年、佐々木玄龍の筆によるものだ。

本殿に向かって頭を下げているとき、ふと“紫の君”のことが心に浮かんだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]13

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彼女も子宝に恵まれず、来る日も来る日も周囲から「赤ちゃんまだ?」なんて責められる毎日なのだろうか?

藁にもすがる思いで木花咲耶姫命にすがっていたのではなかったのか?

そこまで神様に頼み込む必要のある厄介事として、不妊は十分な理由になり得る。

そう思うと(いつまで拝んでんだよ!)などと立腹した自分が恥ずかしく思えてくる。

とは言っても「紫の君」が子授けを祈願していたのか否かは定かではないのだが。

“紫の君”の願掛けに必死さを感じたのは、木花咲耶姫命が「子授安産の霊徳神」ゆえに他ならない。

「古事記」によると、木花咲耶姫命は瓊瓊杵命との子を一夜にして孕んだとある。

しかし、瓊瓊杵命に「一夜で孕むなんて…本当に私の子なのか?」と怪しまれてしまった。

これに
憤怒した木花咲耶姫命は「天孫の御子ならば炎に焼かれても無事に生まれてくるでしょう!」。

そう言って産屋に入ると内から土で出口を塞ぎ、出産直前に自ら室内に火を放った。

猛火の中で木花咲耶姫命は三柱の御子…火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)を産んだ。

火遠理命は別名を日子火火出見命(ヒコホホデミノミコト)という。

上総国一之宮玉前神社にも登場した、日本の昔話「海彦山彦」の弟、山彦のこと。

ここで玉前神社と浅間神社が繋がった。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]14

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木花咲耶姫命は玉前神社の御祭神、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)が産んだ神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)の祖母に当たるわけだ。

神倭伊波礼毘古命とは初代天皇神武帝のこと。

分かりやすく書くと、こうなるか。

木花咲耶姫命
 →日子火火出見命
  →鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)
   →神倭伊波礼毘古命(=神武天皇)

木花咲耶姫命は炎に包まれる中で無事に御子を産んだことから、「子授安産の霊徳神」と見做されるようになった次第。

参拝を終えて拝殿の横を見やれば、奉献酒の一升瓶がズラリと並んでいる。

しかし、瓶の色やラベルのデザインが、どこか違う。

近寄ってよく見れば、それらは清酒ではなく、ほぼ全てワイン。

いや、ここはワインというより「葡萄酒」と呼んだほうが相応しいかも知れない。

さすが甲斐国。奉献酒も他の国とは一味違う様子。

ただ、御祭神の御神徳とは少しズレている気がしないでもないが。

木花咲耶姫命、実は「酒造の守護神」でもある。

瓊瓊杵命の御子を産んだ折、父の大山祇命が卜占で選んだ稲田から収穫した神聖な米で、酒を醸して祝福した。

瓊瓊杵命の“ニニギ”とは、稲穂が“にぎにぎしく”生育することを意味している。

つまり、瓊瓊杵命とは天から降臨して地に種籾をもたらした“穀霊”なのだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]15

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穀霊の子を産むことイコール「良い米を生産すること」に他ならない。

そこから大山祇命に「酒解神(サケトケノカミ)」、木花咲耶姫命に「酒解子神(サケトケコノカミ)」という別称が付き、父娘で酒造の神として崇められているわけだ。

しかし浅間神社に奉献されている酒の殆どは、米から作った日本酒ではなく葡萄から作ったワイン。

木花咲耶姫命、どのような顔をしてワイングラスを傾けているのだろう?

木花咲耶姫命を祀る浅間系の神社は全国に約1300社ほどあるそうだが、ここ甲斐国一之宮だけはローマ神話の酒神「バッカス」が一緒に祀られているのでは…そんな不思議な雰囲気を感じる。

拝殿の前から離れ、境内を北に向かう。

ちょうど参道の突き当りに位置するのが、貫禄のある神楽殿。

建立は明治36(1903)年というから、既に100年以上経過している。

とはいえ今でも現役で、舞台では年に数回神楽が奉納されるそうだ。

左隣りには神楽庫があり、神楽殿との間には「清め砂」がヒッソリと佇む。

神楽庫を更に奥へ進むと、くぐり抜ければ厄災が祓い落とされるという「祓門」。

その先には干支を象った「十二支石像」が立ち並ぶ。

案内板によれば、自分の干支と今年の干支にお参りした後、一番奥に位置する「成就石」で拝むと、運命は開き願いは叶う…そうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]16

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さっそく干支の像にお参りした後、成就石の上に立って本殿の方角を向く。

心の中で「祓へ給え、清め給え、守り給え、幸へ給え」と3回唱えながら、二拝二拍手一拝。

これで願いが叶うかどうかは分からないが、なんとなく木花咲耶姫命とお近づきになれたような気はする。

近くには富士山を象った「富士石」が据えられ、木花開耶姫命が富士山の精霊であることを説明している。

その近くに置かれたタコのような形をした石「太陽神」、さらにはキノコの石像など、いまひとつ意味が分からないものも。

天津神の天孫信仰というより、土着の民間信仰に相応しいアイコンではある。

それらを眺めつつ、本殿裏と護国社の間をグルリと回り込むルートを通って再び神楽殿の前へ。

そのまま突っ切ると境内の北側へ抜ける門に出た。

境内と外界の境界には両部鳥居が聳立している。

木製で、一の鳥居や二の鳥居より古そうに見える。

それもそのはず、元は現在の一の鳥居の場所に在ったものを、この場所に移築したものだ。

両部鳥居は神仏習合の名残りと云われているが、浅間神社も平安時代には山岳仏教と習合していた。

修験道の行者から「浅間大菩薩」と呼ばれ、富士登山による修行の道場として信仰を集めていたという。

こうした往時の信仰形態が両部鳥居の形を取り、現世にまで残っているのだろう。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]17

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ここから再び境内を通り抜け、随神門の方角へ。

すると突然、視界に「枕石」なる石が飛び込んできた。

地面から天空へ向けて太く長い石柱が伸び、先端には注連縄が張られ紙垂が差し込まれている。

根本には丸い石が二つ据えられ、その姿は男根そのもの。

先へ進むと、今度は拝殿と参道を挟んだ反対側に「子持石」なる石が鎮座していることに気がついた。

「紫の君」の参拝を待っていた時には、なぜか目に入らなかったが。

「枕石」と同様に男根の如き形状で根本の丸い石も一緒だが、こちらは紙垂の数が比べ物にならないほど多い。

どちらも長い歴史を経てきたと一目で分かるような威厳と風格を湛えている。

先に見た陰陽石と同様、子授け信仰に根差したモニュメントなのは間違いない。

昔は子供の出来ない嫁など、それだけで役立たず扱いで厄介払いされるような厳しい環境。

たとえ妊娠しても流産や死産、出産の失敗などで赤子が生まれなければ同じこと。

いつまでたっても子宝に恵まれない嫁にとって子授けや安産の神に対する信仰は、それ自体が自らの存在意義と直結していたと言える。

そうした信仰が子持石や枕石、陰陽石という“伝道者”に姿を変え、今の時代に“少子化”への危機感を伝えている。

騒ぎ立てる割には大して役に立たない政策しか打ち出せない政府の少子化対策担当者も浅間神社に来て、自らの存在意義を賭けて祈った嫁たちの“念”でも感じ取れば、少しはマシなアイデアが湧いてくるのではなかろうか。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]18

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二の鳥居から境内の外に出ると、道を挟んた向かい側に銀行が立っており、その前に「中銀一宮支店前」という名のバス停がある。

笛吹市が運行している市営一宮循環バス。

山梨交通が勝沼と甲府を結ぶバス路線を廃止したため、住民の交通の便を慮った笛吹市が走らせているもの。

そのため一応は路線バスなのだが、あくまでもルートや時刻は地元住民の都合に沿った形で決定されている。

一応、日曜以外は毎日運行されているのだが、日によってルートが異なるうえ、1日に数えるほどしか便がない。

この日は1日4本しか便がなく、うち2便は早朝で、昼と夕方に1便ずつ。

なので、この昼の便に乗らないと石和温泉駅へ上手くたどり着けない。

それぐらい浅間神社は鉄道から隔絶された地にある。

今回の浅間神社参拝で一番の鍵を握ったのは、実はこの市営バス。

香取神宮参拝での帰路の件もあり、同じ轍を踏むことのないよう入念に調査したのだ。

停留所の看板には、まだ「一宮町町内循環バス」と記されている。

平成の大合併で一宮町が笛吹市になったことは先に触れたが、まだ町内の表示は合併前のままのところが多いようだ。

予算がなくて表示の切り替えができないのか?

それとも、合併はしたものの今だに「一宮町民」を誇りに思う住民が切り替えを許さないのか?

どちらなのかは…分からない。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]19

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バス停で震えながら待っていると、一台のワゴン車が姿を現した。

11時16分発の石和温泉駅行き一宮循環バス、5分ほどの遅延。

マイクロバスを予想していたので少々面食らったが。

自分でドアを開ける必要があるのかと思った刹那、自動で開いた。

しかも中からステップまで降りてきた。

車内に入ったら、その設備の必要性に納得。

乗客はお婆さんが2人。

お年寄りが乗降しやすいようにステップを設置してあるのだ。

運賃は全区間100円。

募金箱のような筒に小銭を投入する。

100円玉以外の小銭でもOKで、その大きさによって内部で分別される仕組み。

ちなみに500円玉や紙幣の場合、フタをパカッを開けて中から小銭を取り出してお釣りを渡すシステムだ。

ドライバーは恰幅のよい中年女性。

ハキハキしているが接客は丁寧だ。

バスは桃畑が広がる正に“桃源郷”の中を暫く走った後、日帰り入浴施設「ももの里温泉」に立ち寄った。

ここは笛吹市営の日帰り入浴施設で、正式な名前は「一宮金沢温泉」という天然温泉。

市営循環バスとは別に、石和温泉駅との送迎バスを独自に運行している。

時間的に余裕があれば間違いなくひとっ風呂浴びていたところだが、それは贅沢というものだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]20

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2人のお婆さんは途中で1人降り、一宮温泉病院で残りの1人が降り、入れ替わりに老婆が3人乗ってきた。

車内は相変わらずお婆さんばかり。

乗降に時間がかかるため、バスが遅れるのもむべなるかな、である。

おまけに新たに乗ってきた3人のうち1人が、どうやら逆方向へ行きたい様子。

運転手に「ここで降ろしてもらえんかね」などと言っている。

とはいえ、この便が石和温泉駅で折り返して逆方向へ行くことになるので、ここで降りても意味は無い。

運転手も「駅で時間を潰して折り返しのバスに乗っても同じですよ」と言う。

「駅前の足湯に足でも突っ込んでれば1時間ぐらいアッという間」と言われ、そのまま乗り続けることにしたようだ。

それにしても、この“逆方向”婆さん、ひっきりなしにしゃべり続けている。

多分、誰かに話し相手になって欲しいのだろう。

とはいえ寝言に応答するのと一緒で、下手に相手をしたら際限なく話しかけられ続けるに違いない。

バスが笛吹川を渡ると車窓の情景は一変、大きな旅館やホテルが立ち並ぶ温泉街へ突入した。

石和温泉には旅館やホテルだけでなく、24時間営業のスパやクアハウスなども数軒あるそう。

浅間神社への参拝に石和温泉を組み合わせ、ここで丸1日使っても良かったかも知れない…と少し後悔。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]21

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間もなく石和温泉駅に着くというのに、またしても“逆方向”婆さんが「ここで降ろしてもらえんかね」。

近くに馴染みの床屋があり、どうやらそこへ行きたいらしい。

こうなると嫁にマイカーを運転させている姑と、なんら変わらない。

だがしかし、市営バスはマイカーではなく運転手も嫁ではないので、無情にもバスは止まることなく通過して行った。

浅間神社を出てから約30分ほど、11時47分にバスは石和温泉駅へ到着。

乗車時は遅延していたが、到着は定刻通りである。

それにしても“逆方向”婆さんのおかげで、とても愉快なバス旅になった。

やはり話し相手になってあげれば良かったかも…とまでは思わなかったが。

運転手が言っていた通り、駅前には足湯があった。

利用は無料で、湯船の上にあづま屋がかけてある。

ただ、お湯は掛け流しではなく溜め湯っぽく見える。

汚くはないのか…と不安を覚えるが、見れば学生っぽい女性3人が湯に足を浸けながら、おしゃべりに興じている。

いや、むしろこれなら溜め湯のほうがいいか…と邪念が湧くも。

間もなく乗車予定の電車が来るので、足湯はパスすることに。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]22

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石和温泉駅の改札へと向かう途中、駅舎に併設してある土産物店兼軽飲食店を覗く。

食事している時間がないので、ここで何か買って車内で食べようかと思ったのだ。

見ればワインのワンカップがあれば、B-1グランプリで優勝した甲府鳥もつ煮もある。

これらが店内でもテイクアウトでもOKなのだから、なかなか魅力な組み合わせ。

しかし、最も肝心なものがない。

店員さんがいないのだ。

外から店内を覗きこんでいたら、背後から声が掛かった。

「開いてますよ、どうぞどうぞ!」

振り返ると、こちらへ駆け寄って来る中年女性の姿が。

とはいえ、電車の時間まで既に残り10分を切っている。

「すいません、電車を待つ間、冷やかしてただけなので」

そう言って店内への誘いを謝絶し、土産店のみ見学させてもらった。

後で思えば、この時にワンカップの赤ワインと鳥もつ煮を購っておけばよかったのだが。

そんな直近の未来に訪れる苦悩など露知らず、店員さんに礼を言って石和温泉駅の改札口へ向かったのだった。


[旅行日:2012年12月21日]
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