武蔵國一之宮「氷川女體神社」

一巡せしもの[氷川女體神社]01

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埼玉県の県庁所在地、さいたま市。

その中央駅たる大宮駅前から国際興業バスの中川循環系統に乗車。

ここからさいたま市内にあるもう一つの武蔵國一之宮、氷川女體神社へと向かう。

ただ、その前に1カ所、訪ねておきたい場所がある。

バスは高島屋デパートと中央デパートの間を通る県道を東へ向かい、氷川神社の参道と交差して郊外へ抜けていく。

もともと大宮の中心地は中山道の宿場として栄えていた側の東口にあった。

駅前には百貨店が立ち並び、麓には網を張るように商店街が四方へ伸び、埼玉県随一の商業都市として繁華を極めていた。

しかし東北・上越新幹線の開業と歩調を合わせるか如く、西口に大型商業店舗が立ち並ぶようになると、どこか東口はくすんで見えるようになった。

西暦2000年にはさいたま新都心が街開きし、未来都市のピカピカな光彩を浴びた旧市街地は影の中へ呑み込まれる…かに思われた。

が、今なお大宮駅の東口から人並みが途切れることはない。

むしろ駅前から伸びる路地の如き飲食店街は夜ともなると、美味し酒肴を求めて集い来る酔客で盛況を呈している。

鉄道路線が結節する“交通の要衝”、氷川神社の門前町、そして中山道の宿場町という歴史的三大要素の前には都市のスプロール化現象も太刀打ちできなかったようだ。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]02

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このバスに乗るのは、かれこれ約30年ぶりになろうか。

当時は駅から離れるにつれて沿道に畑ばかり連なっていた記憶があるが、今ではいつまでも住宅地が途切れることはない。

繁華街から住宅街、そして田園地帯と移り変わる車窓の景色を眺めながら揺られること30分弱、中山神社バス停に到着した。

バス停は幹線の県道1号線沿いにあり、周囲は完全に“自動車社会”に適化している。

中山神社は、ここ「中川地区」一帯の鎮守。

大宮区高鼻「氷川神社」と緑区宮本(三室)「氷川女體神社」の両社とは古くから関係が深かったことから「中氷川神社」「氷(簸)王子社」とも呼ばれていた。

これら「氷川三社」の主祭神は、家族のような構成になっている。

氷川神社が須佐之男命(すさのおのみこと)で男体宮。

氷川女体神社が妻神の奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)で女体宮。

中山神社が両神の子である大己貴命(おほなむちのみこと)で氷(簸)王子宮。

この三社を一社と見做して「延喜式」神名帳にある「名神大社氷川神社」だったとする説もあるそうだ。

バス停から程近い小径との交差点に案内用の標柱が立っており、その先に中山神社が鎮座している。

だが、小径へ入る前に立ち寄らねばならない場所がある。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]03

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横断歩道を渡り、中山神社とは全くの逆方向へ足を向けた。

しばらく歩くと、小振りで真っ赤な両部鳥居が姿を現した。

中山神社、一の鳥居。

触ってみると金属製で、塗装も剥げたところがなく丁寧に手入れされている。

ここから中山神社の参道が始まるわけだ。

さっそく鳥居をくぐり、今来た道を引き返す。

先ほどの交差点を渡り、標柱の案内に添って小径の奥へ。

標柱には氷川神社の神紋「八雲」があしらわれている。

社号に“氷川”を名乗らずとも氷川神社との関係性は疑いようもない。

八雲たつ いづもやへがき つまごみに 八重垣つくる そのやへがきを

神紋八雲は氷川神社の主祭神、須佐之男命が「須賀の宮」を営まれた折、御殿の周囲に七重八重と立ち込めた瑞雲を形象したもの。

「須賀の宮」とは出雲國…現在の島根県雲南市に鎮座する須我神社のこと。

須佐之男命が八岐大蛇を退治した後に建立した宮殿が神社になったものと伝えられている。

七重八重の雲の彼方に在す物語が、この見沼田んぼのド真ん中に中山神社を鎮座せしめた。

これもまた、一種の“神話”なのだろうか。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]04

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参道は細く、両側は雑木林と住宅が入り組み、都会とも田舎ともつかない空間が広がる。

ランドセルを背負った小学生たちが互いにふざけ合いながら、目の前を駆けて行く。

まさに「村の鎮守の細道」そのままの光景だ。

大宮駅からバスで30分足らずなのに、駅前の喧騒からは想像できない長閑さだ。

思ったほど参道は長くなく、10分も歩かないうちに木製の明神鳥居が姿を見せた。

ここから先が中山神社の境内に当たる。

境内は玉垣で囲われておらず、外界と明確に区切られていない。

これはこれで、中山神社が地域社会に溶け込んでいる証なのだろう。

鳥居をくぐって境内に入ると、奥から一人の男性がこちらに向かって歩いて来る。

宮司さんかと思ったが、ここは不駐在のはず。

「こんにちわ!」

挨拶を交わして境内から出て行った彼に、小学生たちが駆け寄って行く。

子供たちの父兄か、それとも学校の先生か。

いずれにせよ、子どもたちから慕われていることは見るからに分かる。

社頭の解説板によると創建は人皇十代崇神天皇御代2年。

西暦に直せば紀元前96年、皇紀565年に当たる。

天正19(1591)年11月には、徳川家康から社領十五石の御朱印地を賜っている。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]05

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現在の社号は明治40(1907)年7月、付近一帯に祀られていた神社を合祀することとなり、従前の社号「氷川社」を「中山神社」と改称。

鎮座地中川の「中」と、江戸期の新田開発から氏子付き合いを続けてきた上山口新田の「山」を合わせたものだ。

参道を直進し、狛犬の間を抜けた辺りの右側に「御火塚」がある。

御火塚は毎年12月8日に行われる「鎮火祭」の重要な舞台。

鎮火祭は古くから伝わる重要な祭りで、御火塚の前に薪を積み火渡り神事が行われる。

素足で火渡りをすると火防けや無病息災などの御神徳に預かれると伝わり、祭日の境内は氏子をはじめ多くの参拝客で賑わうそう。

ちなみに鎮座地の「中川」という地名は旧社号「中氷川神社」の「氷」が「鎮火祭」の炎で溶けたもの…という説もある。

御火塚の横を通り、拝殿の前へと進む。

中山神社は氷川神社と氷川女體神社を結ぶ直線上の、ほぼ中間地点に位置していることは広く知られている。

中山神社から見て太陽は夏至に氷川神社方向の西北西に沈み、冬至には氷川女體神社方向の東南東から昇る。

氷川三社は、こうして太陽の公転を神社の配置に記録しておく「自然暦」でもあったのだ。

現代なら衛星写真を見れば一目で分かるが、航空機すら存在しない大昔よくそのような芸当ができたものだ。

いや、無いなら無いなりに知恵を絞り尽くし、あらゆる手段を駆使したのだろう。

なにしろ稲作にとって太陽の動きを把握することは必要不可欠。

しかし、誰が何時どのように三社の位置を決定したのか、その記録は詳らかでない。

大量の農民を動員して気の遠くなるような測量作業を地道に行ったのだろうか?

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]06

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現在の本殿は大正14(1925)年7月21日竣工と比較的新しい。

その裏手に、新造される以前の「旧社殿」が保存されている。

建造期は桃山時代と推定され、埼玉県内に現存する社殿でも古い型式に入る。

さいたま市内では最古で建築学上も貴重な資料だけに、同市からは文化財建造物に指定されている

旧社殿は細い角材を格子状に組んだ覆堂の中に鎮座している。

隙間から中を覗いてみると、悠遠の年月を経てきただけあって、さすがに建物そのものはガタガタ。

だが敢えて修繕せずそのままにしてあるところが、逆に歴史の重みを感じさせる。

覆堂の手前に説明板があり、設置者名が「大宮市教育委員会」になっている。

これもまた、歴史の重みを感じさせるための演出なのだろうか。

屋根は板葺きで、母屋前方部分の角度を変えて軒先より長くし反りを付した「流造(ながれづく)り」の二間社。

地上から階段を設えて板張り床の外陣に登れるようになっており、側面の床板には脇障子や欄干がついていた痕跡も見受けられるという。

ちなみに一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものは「見せ棚造り」といって社殿の基になる型。

この旧社殿は簡素な板葺きの「見せ棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物なのだとか。

そこが「建築学上も貴重な資料」たる由縁なのだろう。

豊臣秀吉の時代に建立された社殿が、21世紀の今こうして眼前に存在する不思議。

この世のすべては儚いようでいて、なかなかにシブトいようだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]07

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境内を出て再び中山神社前停留所へ戻る。

バスを待つ間、氷川三社の自然歴について考えた。

黄泉の国から戻った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が筑紫国で禊をした際、その体からから様々な神が生まれた。

最後に生まれたのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、そして須佐之男命の三柱。

伊邪那岐命は天照大御神に昼の国、月読命に夜の国、そして須佐之男命に海原を、それぞれ治めるよう命じた。

ここで注目したいのは須佐之男命が任された海原の支配という仕事について。

天照大御神の昼の国とは太陽を、月読命の夜の国とは月を、それぞれ意味していると解釈するとして。

須佐之男命が海原の支配を任された意味は、両天体の動きを基に暦を編み出すことだったのではないか?

だからこそ自然歴のメルクマールとして、須佐之男命を祀った神社が全国各地に建立されたのでは?

そんなことをボンヤリ考えていたら、バスが来た。

さいたま東営業所へ向かい、JR東浦和駅行きのバスに乗り換える。

日本国内でも埼玉は比較的、鉄道網が張り巡らされている県なのだが。

それでも、まだまだ鉄道網からこぼれている地域のほうが圧倒的に多い。

宅地開発のスピードが速すぎて、公共交通網はバスに頼らざるを得ないのが実情だろう。

これが首都圏でなければ、道路さえ整備しておけば住人が自家用車で勝手に移動してくれるのだろうが。

こうも人口が多いとマイカーだけでは交通網がパンクしてしまうのは必定。

かくして今日もまた埼玉県内を路線バスが網の目を縫うように走り続けているのだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]08

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さいたま東営業所からバスに揺られること20分ほどで、朝日坂上というバス停に着いた。

しかし、この場所がどこなのか実のところサッパリ分からない。

ここへと至るバスルートはインターネットで検索を重ねた末に導き出したもので、確定するまで相当な手間がかかった。

もしバスの営業所で時間とルートをいちいち確認していたら、たぶん一日では終わらなかったろう。

朝日坂上バス停から緩やかな坂道を下って新興住宅地を抜けると、木々の緑が色濃く繁るこんもりとした丘が見えてきた。

周囲を畑と真新しい住宅に囲まれたこの森は、氷川女體神社の裏手に位置する公園「ふるさとの森」。

氷川神社で言えば大宮公園、小野神社で言えば小野神社公園…神社と公園はどこでも表裏一体だ。

ちなみに「ふるさとの森」とは埼玉県が自然保護のため条例で指定した緑地のこと。

その外周を時計回りにグルリと巡ると、正面に小川と橋が現れた。

右折して川に沿って歩くと「見沼たんぼの見所案内」という案内板を発見。

「見沼たんぼ」とはさいたま市の南北中央を帯状に占める大規模緑地空間で、総面積は約1260haにも及ぶ。

何かに例えたら、東京ディズニーリゾート(約100ha)12個分といったところか。

案内板の少し先に朱塗りの神橋と長い石段、その上に鳥居が聳立している。

ようやく氷川女體神社の入り口にたどり着いた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]09

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朝から降り続く霧雨は止む気配がなく、濡れて滑りやすくなった石段を一段づつ注意深く昇ってゆく。

鳥居には「武蔵國一宮 氷川女體神社」と記された扁額が掲げられている。

「名神大社氷川神社」は高鼻の氷川男體社、中川の簸王子社、そしてここ三室の氷川女體社の三社で、ひとつの広大な神域(結界)を形成していたことは先に触れた。

ここもまた紛れもない「武蔵國一之宮」なのだ。

鳥居は神域の外で見かけなかったので、これが唯一無二の鳥居かと思われる。

境内の案内板によると、ここから北西約400メートルの住宅地に石造の鳥居が聳立しているそうだ。

この鳥居は安政2(1855)年、馬場地区から参詣する人たちの便を考えて大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものだという。

残念ながら実際に視認してはいないのだが、もし中山神社から歩いて来ていたら、ひょっとしたら見る機会があったかも知れない。

鳥居をくぐると正面に拝殿が鎮座している。

氷川神社の方角ではなく、日の出ずる東方を向いている。

氷川三社で自然暦を構成している証なのだろうか?

社伝「武州一ノ宮女體宮由緒書」によると、創建は今から2000年以上も昔。

第十代崇神天皇の御代に出雲杵築の大社を勧請したと記されている。

ただ、実際の建立時期は奈良時代(710~794)のようだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]10

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拝殿の扁額にはシンプルに「武蔵國一宮」とだけ記されている。

横には「東都鳳岡関思恭拝書」と揮毫の主の名が墨書されている。

関思恭は元禄時代を生きた水戸藩出身の書家。

“草聖”と称されるほど草書に優れ、門人は五千余人に至ったという。

主祭神は奇稲田姫命であることは既に触れた。

だが、さすがに女體宮だけあって須佐之男命は祀られていない。

御配神は大己貴命(おほなむちのみこと)と、三穂津姫命(みほつひめのみこと)。

氷川神社にも中山神社にも祀られていなかった三穂津姫命は大己貴命の后。

須佐之男命の子が大己貴命だとすれば、姑と嫁が同居していることになるのか。

嫁姑問題にある女性方は、ここでお祓いすれば悩みが晴れるかも知れない。

拝殿の裏手に回り、本殿を玉垣の隙間から垣間見る。

三間社の流造りで、全面に朱の漆が塗られている。

拝殿とは相の間で結ばれ、形式的には権現造りに近い建造物といえそう。

氷川女體神社もまた中世以来、武門の崇敬を集めてきた。

鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などに縁ある書物や宝物を数多く所蔵しており「武蔵野の正倉院」とも称されているそうだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]11

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徳川家康は五十石の社領を寄進し、現在の建物は寛文7(1667)年に第四代将軍徳川家綱が忍城主阿部忠秋に命じて造営させたもの。

つまり将軍直々の命で造営された社殿を擁する、由緒正しき神社なのだ。

しかし、その後は男體社に比べて庇護の度合いが薄く、明治2(1869)年に屋根が葺替えられた程度で老朽化が著しく進んでいた。

そこで文化財保護や参拝者の安全といった観点から、平成14(2002)年に修復事業がスタート。

同19(2007)年には埼玉県有形文化財にも指定され、同25(2013)年1月に修復工事が完了。

それから4年後の平成29(2017)年には家綱の造営から350周年と節目の年を迎えることになる。

せっかく「武蔵野の正倉院」と称されるほどの宝物があるのに、もったいない話。

宝物殿を建立して有料で公開し、入場料で社殿を維持すればいいように思うのだが。

境内を散策している途中、「女體宮道」と刻まれた道標を発見した。

長き年月を経て丸みを帯びた石と相俟って、どこかエロティシズムを感じさせる。

幕末の弘化2(1845)年、南にある大間木水深の赤山街道に面して建立された案内道標とのこと。

大間木の地名は東浦和駅の付近一帯に今も残っている。

幕末こうした道標が設置されたのは、それぐらい参詣客が多かった証なのだろう。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]12

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御朱印を賜りに社務所へ立ち寄った。

中には誰もいなかったが「不在の時は押して下さい」と書かれた呼び鈴があったので、押してみる。

すると、中から眼鏡をかけた小太りのお爺さんがノッソリと姿を現した。

その姿にジブリ映画「となりのトトロ」の主人公(?)トトロがオーバーラップする。

御朱印帳を渡すと社号を墨書ではなく、なんとスタンプで押している。

これまで数々の神社で御朱印を賜ってきたがスタンプとは初めてで、日付のところのみ唯一、墨書で記入していた。

とはいえ、スタンプを力いっぱい押し付ける姿が何とも言えずユーモラス。

日本の神話というより西洋のおとぎ話を思い起こさせてくれた。

しばらくすると、御内儀が犬の散歩から帰って来た。

この古社を老夫婦二人で守っているのだろうか。

帰り際、社務所の玄関横に巫女人形が並んでいるのを見かけた。

氷川女體神社の象徴ともいうべき存在で、人形に願を掛けると巫女人形が神様に取り次いでくれる。

そして願い事が叶えば、巫女人形に着物を着せてお礼参りするという。

昭和40(1965)年に御神木の手作りから始まった、この巫女人形。

現在この習俗は全国で唯一ここだけで行われており、多くの崇敬者から信仰を集めているそうだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]13

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本殿から更に裏手へ回り、「ふるさとの森」へと抜けてみる。

境内の摂末社は他の神社のように一つ所に合祀されているのではなく、個々が独立した小さな祠として、森の中に散在していた。

このような摂末社の祀られ方を見たのは初めてで、古神道本来の姿を見たような気がして、畏れにも似た感情が湧き上がってきた。

特にこの日は雨が降っていて周囲が薄暗かったため、どこか神秘的に見えたせいでもあるだろう。

晴天の日に改めて見たら、また違った印象を受けるのかも知れない。

ちなみに社叢「ふるさとの森」は暖地性植物が繁茂し、さいたま市から天然記念物に指定されている。

境内を離れて石段を降りる。

正面に架かる朱塗りの神橋を渡り、そのまま直進すると突き当りに「磐船祭祀跡遺跡」。

ここから遺跡までの一本道は「御幸道」と呼ばれている。

氷川三社の直線配列[高鼻男體社-中川簸王子社-三室女體社]は、自然歴として利用するためだと既に述べた。

しかし三社には、もうひとつ重大な役割が負わされていた。

それは灌漑用水であり、水害をもたらす元凶でもあった「見沼」の鎮護である。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]14

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氷川大神の祭神である須佐之男命といえば「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」伝説。

高天原を追われて出雲国肥川(こえかわ…現・斐伊川)上流の鳥髪(とりかみ…現・船通山)に下った須佐之男命。

八岐大蛇に食べられる定めという奇稲田姫命を妻にすることと引き換えに、この異形の怪物を成敗する神話だ。

この解釈として、八岐大蛇は水を支配する竜神、一方の奇稲田姫命はその名の通り“稲田”。

氾濫を繰り返す肥川に治水を施し、稲田を守ったことを伝承しているという見方がある。

見沼もまた氾濫を繰り返す“八岐大蛇”であり、それを鎮めるため中央部分を貫くように氷川三社が配置されたのではないか。

現に境内の社務所と参道を挟んだ向かい側には、竜伝説に因む竜神様を祀った摂社「見沼竜神社」が鎮座している。

橋を渡った先は見沼氷川公園として整備され、東側は「磐船祭祀跡遺跡」、西側は広大な原っぱ。

「御幸道」を突き当たると堀に小さな石橋が架かり、渡った先は鬱蒼とした木々が囲む円形の島。

外周には注連縄が巡らされ、中心には四本の木が植栽されている。

その昔、氷川女體神社では「御船祭」と呼ばれる、レーゾンデートルとも云うべき根本祭礼が行われていた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]15

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毎年あるいは隔年の9月8日、御座船に乗せられた神輿が見沼を渡り、下山口新田の御旅所に渡御するというもの。

神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、四本の竹を立て祭祀場とし、沼の主である竜神様を祀った。

その跡は「女體宮道」の道標が建てられた大間木に程近い、下山口新田字四本竹にある。

発掘調査では約400年分に相当する量の竹が地面に立てられた状態で出土したという。

享保12(1727)年、第八代将軍徳川吉宗の政策で見沼は干拓され、一大米産地「見沼田んぼ」に変貌。

しかし沼から水が干上がってしまったため、従来の「御船祭」を継続することが不可能に。

そこで新たに祭礼場を造成し、御船祭の代わりに「磐船祭」という祭礼が行われることとなった。

新たな祭礼場は氷川女體神社前の干拓地に柄鏡(えかがみ)型の池を掘り、中心に土を盛って造成。

その昔は高台の境内から石段を降りて見沼代用水を渡った場所から陸橋が設えられ、祭礼場へ通じていたという。

祭礼場は直径30メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲った斎場が設けられていた。

磐船祭は享保14(1729)年9月8日に初めて行われ、明治の初期頃まで行われていたそうだ。

その後、磐船祭は途絶えたものの祭礼場の跡はそのまま残されてきた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]16

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昭和57(1982)年、氷川女體神社と旧浦和市教育委員会により復元整備事業が行われ、現在の形になった。

衛星写真で上から見ると確かに遺跡は柄鏡の型をしていて、それが面白い。

平成13(2001)年には三市合併によるさいたま市発足を記念し、明治以来途絶えていた磐船祭が「祇園磐船竜神祭」として復活、毎年5月4日に祭礼が執り行われている。

四本の木の真ん中に立ち、空を見上げる。

朝から降り続いた小糠雨は結局、止みそうで一刻も止むことがなかった。

遺跡を後にし、バス通りまで歩きがてらツラツラと考える。

氷川女體神社は大宮の氷川神社に比べれば、その規模は比ぶべくもない。

だが、鬱蒼とした木々に囲まれた丘の上に佇む御社は、他のどの神社にもない独特な霊気を湛えている。

浦和や大宮といえば東京のベッドタウン的なイメージが強く、現に氷川女體神社の御神域も真新しい家々にグルリと取り囲まれていた。

しかし、金太郎飴の如き無個性な家が立ち並ぶ新興住宅街の中心に、古神道の雰囲気が横溢する古社が存在することこそ、まさに「現代の神話」に相応しい光景のように思われる。

夕暮れと雨天で一面がグレー一色に染まる中、ようやく停留所にたどり着いた。

そんな薄暮をヘッドライトの光彩で切り裂きながら到着したJR東浦和駅行きのバスに乗り込み、氷川女體神社に分かれを告げた。

[旅行日:2013年5月20日]
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