武蔵國一之宮「小野神社」

一巡せしもの[小野神社]1

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宮山駅14時30分発の相模線1481F電車は日曜の昼下がりとあってか、椅子は埋まっているが立ってる人もチラホラという適度な混み具合。

相模線は相模川に沿って走っている筈なのだが、その間に高速道路が立ち塞がり姿は見えない。

結構大規模な道路で、後で調べたら「首都圏連絡中央自動車道」というそう。

この名称だと耳に馴染みがなく「ん?」となるが、略称の「圏央道」だと聞き覚えがあるので「おー!」となる。

東北方面と東海方面を結ぶ長距離トラックは首都高を経由していたが、圏央道が完成すると都心を通る必要がなくなるため渋滞の緩和が期待されている。

その一方で大規模な建設工事による環境破壊の問題も喚起されたりして、必ずしもいいことばかりではない。

それにしても高速道路の高架橋はバカでかく威圧的で、すぐ下の地べたを走る相模線の地味で控え目な単線の線路とは対照的だ。

車窓に流れる郊外の風景を見ているうち、天気晴朗で暖かくもあり、ついウトウト。

相模線沿線には東名高速道路のサービスエリアで有名な海老名や、米軍基地のある厚木や座間といったおなじみの場所があるのだが、全く気が付くことなく通過していた。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]2

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テレビの情報番組にしょっちゅう登場する海老名サービスエリアは相模線から遠く離れた場所にあるため無縁の存在。

というかクルマじゃないと行けない場所なので、そもそも相模線とは無縁というより無関係だ。

米軍座間キャンプは相武台下駅から目と鼻の先だが、勝手に立ち入るとトンデモないことになるので観光には不向き。

クルマ社会の陰に埋もれて日の当たらない相模線。だが、旅人自身が沿線を掘り起こせば、意外な観光資源に掘り当らるかも知れない。

終点の橋本駅で横浜線に乗り換え、10分強で八王子駅に到着。

久しぶりに来た八王子の駅舎は、別にSLが走っているわけでもないのに、どこか煤けて見えた。

駅ビルに入っていたそごう百貨店が撤退したから、そう見えるのだろうか。

かつては絹繊維産業の集積地として、甲州街道の宿場町として、栄華を極めた八王子。

三多摩地区の中心都市として商業施設が栄えていたのも今は昔。

数駅隣りの立川駅周辺に林立する大型店舗に客足を奪われ、八王子駅近辺の大型店は次々に撤退していった。

北口から外に出る。もっと駅前が寂れているかと思いきや、意外とそうでもない。

そごう撤退のネガティヴなイメージに囚われ過ぎたのか?

大型店の撤退は単なるマーケティング上の戦略によるもので、八王子市の活力そのものは衰えていないのだろう。

ここから北東五百メートル程の京王八王子駅…略して「京八」まで歩く。

余りに離れ過ぎているので“乗り換え”とは言い難いが。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]3

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この道を前に歩いたのは何時だったやら? まだ京八は地上にあり、その上には大空が広がっていた時代のことである。

ちなみに駅から駅へ市街地を斜めに貫くこの通り、名を「アイロード」と呼ぶ。

日曜日の夕方だからか結構な人出で賑わっている。

中でも学生っぽい若年層が多いように見える。

八王子はバブル期の前後に都心から大学が大挙移転し、大勢の学生が闊歩する学園都市。

ただ、少子化による学生数の減少で都心部のキャンパスに余裕が出来たため、どちらかというと現在では都心への回帰傾向にある模様。

それと、キャンパスは「八王子」より「都心」と謳ったほうが、受験生に対する印象が良いという事情もある様子。

少子化で減り続ける受験生の奪い合いに「八王子」という看板が邪魔になってきたということか。

それでも街角に若い人の姿が多いということは、まだ学生の数が目に見えて減っているというわけでもなさそうだ。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]4

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アイロードを歩いている途中、雨粒がパラパラと落ちてきた。

まだ本降りではないものの、イヤな予感がする。

歩いて10分ほど過ぎた頃、右手前方に大きなビルが見えてきた。

京王八王子ショッピングセンター、これも略称は「K-8」。

京八駅は、その地下にある。利用するのは初めてだ。

地下化されたのは平成元(1989)年だから、前に訪れたのは昭和の時代になるのか。

エスカレーターを乗継ぎ地下ホームへ。

島式で1面2線しかなく意外と小ぶり。

頭端式なのがターミナルっぽいが江ノ電藤沢駅ほどの旅情感はなく、むしろ通勤駅としての使命感に溢れている。

15時54分発の新宿行き特急列車に乗る。日曜日の夕方に新宿まで行こうと考える人は少ないようで、乗客は疎ら。

ただ今日は東京競馬場の開催日なので、この時間だと府中駅から競馬帰りの客が大挙乗り込んで来るものと思われる。

京八を出た電車は北野、高幡不動と停車し、乗車時間わずか10分余り、16時06分に聖蹟桜ヶ丘駅へ到着した。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]5

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改札を出て西口から外に出る。

真冬ならとっくに日が暮れているのだろうが、夏至も近い昨今、すっかり日も長くなって大助かり。

喜び勇んで大通りへ飛び出すも、どうやら喜んでばかりもいられないようだ。

どうにも雲行きが怪しく、いつ雨が降ってきてもおかしくない空模様である。

朝方は天気が良かったので、生憎と傘を持ちあわせていない。

長距離を歩く分は苦にならないのだが、雨だけは勘弁して欲しい。

御朱印帳や頂戴した資料が水に濡れて台無しになってしまう恐れがあるから。

いくら防水性を高めても水はどんな場所からでも進入してくるもの。100%大丈夫なんて保証、どこにもないのだ。

駅はデパートやショッピングセンター、高層マンションに囲まれ、どっちがどっちやら方向感覚が掴めない。

取り敢えず地図で当たりを付け、それらしき方角へ歩き出してみる。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]6

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ところが1分と歩かないうちに雨粒がハラハラと落ち始め、屋根のある場所へアタフタと戻る羽目に。

雲天を恨めしく見上げるも、雨が止みそうな気配はない。

幸い雨脚は弱く、無理すれば小野神社へ行けなくもなさそうではある。

かといって、向かう途中で本降りになったりでもしたら目も当てられない。

時刻は夕方、間もなく陽も落ちるだろう。

たとえ雨が止んだとしても日が暮れてしまっては元も子もない。

今日は参拝を諦め、また日を改めて訪れればいいではないか。

そう心に決めて聖蹟桜ヶ丘駅へ戻り、切符の自動販売機に小銭を入れてボタンを押しかけたその時、ふと我に返った。

せっかく小野神社が目の前にあるのに、なぜ帰る必要があるのか?

それに、ここで帰ってしまったら後々のスケジュールも狂うことにもなるし、電車賃も余計にかかる。

しかも、今日は日曜日。

普段は宮司さんが常駐していない小野神社でも、地域の行事でいるかも知れない。

ここは傘を買って是が非でも行くべきではないか?

そう思い返して自動販売機の返金ボタンをプッシュ。

聖蹟桜ヶ丘駅を再び離れ、安い傘を売っていそうな店を探すことにした。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]7

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とはいえ急場凌ぎ用の傘を一本買うには巨大過ぎる聖蹟桜ヶ丘のショッピングモール。

駅直結の京王百貨店と京王ストア、ファッションビルのOPA、ショッピングセンターのザ・スクエアと、こんなに。

それでいて視界にコンビニが一軒も見当たらない、とてもバランスを欠いた巨艦主義的な商業地域でもある。

百貨店やスーパー、ファッションビルに安価な傘を求めるのは期待薄と判断し、まずはザ・スクエアへ。

だが傘を置いている店は有るも安くなかったり女性用のみだったりと、なかなか要望が叶わない。

それに、あまり傘探しに時間を割き過ぎ、日が暮れてしまっては元も子もない。

焦る気持ちを抑えつつ一階から地下へ移動し、なおもフロアをウロウロしていると、捨てる神あれば拾う神あり。

100円ショップの店内を覗いてみたら、幸いなことに折りたたみ傘が何と105円(税込)で売っていた。

廉価の割にはキチンと作られており、急場凌ぎには十分過ぎる。

事ここに至るまで30分ほど、ようやく小野神社への第一歩を踏み出すことができた。

ザ・スクエアの裏手へ回り、西へ向かう。

霧雨に毛の生えた程度の雨だが、傘の存在感は絶大だ。

駅前から一歩裏側に入れば、そこは駐車場が点在するごく普通の住宅地。

間もなくX字型に交差した十字路に出た。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]8

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一角に三つ巴の紋章が刻まれた記念碑が立っている。

石柱には「一ノ宮渡し」の文字。その横には連理の御神木が聳立している。

普通の街角にニョキッと生えた、ありふれた街路樹のようにも見える。

だが、木々の間に渡された注連縄が、ここが御神域だと訴えかけているかのようだ。

この一角、それほど広くはない。それでも小野神社が武蔵国一之宮だと主張する声は十二分に聞こえてくる。

記念碑と道を挟んだ反対側に「神南せせらぎ通り」と記された石柱が立つ。

その先には石畳が敷き詰められた小奇麗な小道が伸びる。小野神社への参道に違いない。

道の傍らにはせせらぎ…というか側溝が流れ、道との間には石灯籠が設えてある。

日が落ちて周囲が闇に包まれれば、石灯籠の仄かな灯りが独特の雰囲気を醸し出すことだろう。

幸か不幸かまだ陽のある内だったので、そうしたファンタジックな光景はお目にかかれなかったが。

“聖蹟”とはいかにも武蔵国一之宮に相応しい地名だが、これは天皇行幸地の一般的な呼称のことで小野神社と直接の関係はない。

ちなみに、ここの“聖蹟”は明治天皇の行幸を記念して昭和五(1930)年十一月に作られた「旧多摩聖蹟記念館」に由来している。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]9

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また、聖蹟桜ヶ丘駅周辺はスタジオジブリのアニメ映画「耳をすませば」の舞台として描かれていることでも知られる。

いわば実写映画の“ロケ地”みたいなもので、駅前には案内板も設置されているそう。

だが小糠雨と日没のダブルダッチに右往左往していた身にとって、それに気付く余裕など有ろうはずもない。

「神南せせらぎ通り」の沿道は普通の一戸建て住宅や小さなアパートが立ち並んでいる。

その一方で鳥居や灯籠などは見当たらず、とても神社の参道には見えない。

駅から30分近く歩いたろうか? ようやく雨が上がった。

前方右手に小さな公園を発見。入口横の銘板には「多摩市立一ノ宮児童館 小野神社公園」と刻まれている。

小野神社公園は、公園というより児童館の前庭といったほうが相応しい風情。

ふと左側を見ると、灌木の向こう側に真紅の神殿建築物がこちらに背を向けて佇んでいる。

これは、どこから見ても小野神社の本殿に相違ない。

なんと唐突な登場の仕方!

まさか泥棒のように裏口からコソコソお邪魔するわけにもいかないので一旦公園を出、神社の玉垣に添って先へ進む。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]10

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小野神社の創建は安寧天皇18年というから皇紀130年、西暦に直せば紀元前531年。

いずれにせよムチャクチャ昔からある古社であることは間違いない。

境内には木々が疎らに立ち並び、下の空間を灌木が埋めている。

さらには平屋の町内集会所もあり、宗教的な聖地というより地域の社交場のような雰囲気。

やがて、鳥居と随神門が現れた。

事前にインターネットで入手した境内マップによると、こちらは正門ではなく南門であるらしい。

鳥居は石造りの真っ白な明神鳥居。見るからにまっさらで、最近建てられたとしか思えないほど。

対照的に左隣りの社号標は見るからに古く、側面には寄付者の名前が刻まれている。

南多摩郡図師町と豆州君澤郡三島町の地名があるから、たぶん江戸時代に造られたものだろう。

鳥居の奥には古寂びた随神門。欄干には技巧を凝らした彫刻が施され、いかにも歴史を感じさせる。

せせらぎ通りを先へ進むと、南門より一回り大きな鳥居と随神門、社号標が登場した。

こちらが正門なのは境内マップを見るまでもなく明らか。

なぜなら南門には狛犬が鎮座していない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]11

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正門の前に立ち、周囲を三六〇度グルリと見渡してみる。

参道は先ほど通ってきた神南せせらぎ通りぐらいなもの。

門前には牛乳屋ぐらいしかなく、それもシャッターをビシッと降ろして営業している気配はない。

その先に伸びる道も単なる住宅地の街路で、参道っぽさなど微塵も感じられない。

今日は鶴岡八幡宮や寒川神社といった立派な参道を歩いてきたので、ギャップがそう思わせるのだろう。

手前に立つ社号標と狛犬像は真新しく、ごく最近建立されたことが伺える。

その奥に立つ大鳥居を下から見上げる。

石造りで、朱塗りではなく笠木のみグレーの真っ白な明神鳥居。

なお、鳥居はここと先程の南門にしかなく、境内の外には一基も存在しない。

しかし、この立派な大鳥居を見れば、氏子から寄せられる信仰の篤さが分かる。

その内側に立つ随神門は、逆にいささか古寂びている。建立は昭和三十九(1964)年というから古いことは古い。

随神門内に鎮座している木像の随身倚像は都の有形文化財に指定されている。

小野神社は鎌倉時代末から戦国時代にかけて度重なる戦乱や多摩川の氾濫に見舞われてきた。

このため古来からの諸資料が散逸し、現在では殆ど残されていない状態。

そんな中で昭和四十九(1974)年、この随身倚像に墨書銘があることが発見された。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]12

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それによると二体あるうち古い方は元応元(1319)年、因幡法橋応円や権律師丞源らにより奉納されたもの。

その後、寛永五(1628)年に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって補修された際、新しい像が新調された。

昭和四十九(1974)年には随身倚像を同門内に安置し、現在に至っている。

随神門をくぐって境内に入る。想像していたより広い。

もちろん鹿島神宮や香取神宮に比べたら狭いのだが。

もっと小さな神社を想定していたので、いい意味で予想を裏切られた。

境内は清廉に掃き清められ、さすがに一之宮としての風格を感じさせる。

参道を直進すると、突き当りに拝殿が鎮座する。

戦乱や氾濫で荒れ果てた小野神社を造営再興したのは、徳川二代将軍秀忠だった。

その記録が棟札に残されている。

一宮正一位小野神社造営再興
慶長十四(1609)年十二月廿六日
当将軍源朝臣秀忠公

それから遥かに時代が下った大正十五(1926)年3月30日。

近隣の失火による貰い火事で御神体と一部の神宝、鳥居を除く神殿などをことごとく焼失。

しかし、早くも翌年には本殿と拝殿が再建されている。

戦後の昭和三十九(1964)年、今より随身門寄りにあった本殿と拝殿を後方に遷座し、境内を拡大して現在の姿に至る。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]13

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拝殿に向かって両手を合わせ、目を閉じて深く息を吸い込む。

一応、東京都内にある唯一の一之宮なのだが、境内の空間は静寂で満たされている。

繁華街から離れているせいか、あるいは日曜日の夕方だからかだろうか。

小野神社の主祭神は天乃下春命(あめのしたばるのみこと)と、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)の二柱。

寒川神社のように夫婦そろって御祭神になっているケースは結構多いが、両神にそのような“姻戚”はない。

もとは瀬織津姫命だけが祀られていたところへ天乃下春命が“降臨”した…とも伝わっている。

瀬織津姫命は滝や川の流れなど水流の穢れを清める治水女神で、祀られている神社は日本中に存在する。

往古の時代は暴れ川だった多摩川を鎮めるため、瀬織津姫命を祀ったのが小野神社の起源だったのか。

しかも、多摩川を挟んた反対側の府中市にも小野神社が存在する。

一之宮として認定されているのは多摩市側のみ、しかも府中市側の規模は小さいが御祭神などは全く同じ。

もともと一社だったものが多摩川の氾濫で遷座を繰り返すうち、両側に一社ずつ残ったのだそう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]14

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ではなぜ、ここに天乃下春命が“降臨”してきたのだろう?

天乃下春命は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)天孫降臨の際、警護した三十二神の一神…とある。

天岩戸神話や国譲り神話で活躍した知恵の神、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の御子神。

八意思兼命から数えて十世の孫である知知夫彦命が第十代崇神天皇の御代、知知夫(秩父)国の初代国造に任命された。

知知夫彦命が祖神を祀って創建したのが、知知夫国一之宮たる秩父神社。

このため八意思兼命と知知夫彦命の二柱は秩父神社の御祭神なのだが、昔は天ノ下春命も祀られていたという説もある。

天ノ下春命は八意思兼命の子だから秩父神社の御祭神でも何ら不思議じゃないが、現在は御祭神に名を連ねていない。

かつて知知夫国は一個の独立国として存在していたが、大化の改新の後に无邪志(むざし)国、胸刺(むなさし)国と合併して武蔵国に。

武蔵国府は今の東京都府中市に置かれたが、秩父神社を武蔵国一之宮にするには遠過ぎる。

そこで国府の近くに鎮座していた小野神社を武蔵国一之宮に仕立てようとしたが、御祭神が瀬織津姫命ではヤマト王権との関係が希薄過ぎる。

ならばと、秩父神社から天ノ下春命を小野神社に“遷座”させ、御祭神としたのではなかろうか?

秩父神社は一之宮ではなくなったものの、父の八意思兼命を御祭神に残したことで小野神社への優位性を保ち、バランスを取ったような印象も受ける。

とはいえ今から千年以上も前の出来事だし、憶測の域を出ない話だが。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]15

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拝殿から裏手に回り、本殿へ向かう。瑞垣に囲まれた小ぶりな流造で、屋根以外は朱一色に塗られている。

その小さな社殿からは一之宮という仰々しさより、地域の鎮守様がピッタリといった雰囲気を感じる。

ここへ来る途中、X字型の交差点で見かけた三つ巴の紋章が刻まれた記念碑。

手前の解説板には、こう記されていた。

一ノ宮の神楽は、近世後期以降、大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に渡御参加しており、道路事情により取りやめになる昭和三十四年まで続いていました。

大國魂神社は府中市にある東京都下最大の神社。

武蔵国も相模国と同様に古社が六社あり、大國魂神社は一之宮から六之宮までが祀られた総社である。

  • 一之宮 小野神社
  • 二之宮 小河神社(現・二宮神社)あきる野市
  • 三之宮 氷川神社(ひかわじんじゃ)さいたま市大宮区
  • 四之宮 秩父神社(ちちぶじんじゃ)埼玉県秩父市
  • 五之宮 金鑚神社(かなさなじんじゃ)埼玉県神川村
  • 六之宮 杉山神社(すぎやまじんじゃ)横浜市緑区
  • 総社 大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)府中市

寒川神社のところで、相模国で古社六社が集う「相模国府祭」なる祭礼を紹介した。

これに武蔵国で相当するのが毎年五月初頭に行われる「くらやみ祭り」。

武蔵国府が府中に存在した昔から今なお続く都下最大の祭礼だ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]16

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往時は「武蔵国府祭」と呼ばれていたというから、やはり「相模国府祭」に比肩する祭礼と思われる。

「くらやみ祭り」では大國魂神社の境内に祀られている一之宮から六之宮の神輿が出御する。

これは、かつて六つの神社が六所宮に集結した様子を今に残しているそうだ。

昭和三十四(1959)年に廃止されるまでは、小野神社の神輿も「一ノ宮渡御」の記念碑があった場所から多摩川を渡ったのだろう。

再び社殿の横を通り抜け、社務所の前を通りかかると室内に明かりが灯っている。

小野神社は宮司さん不駐在と聞いていたので半信半疑のまま訪ねてみた。

玄関の扉を開けて中に声をかけるが誰も出てこない。というか、人のいる気配がない。

5~6分ほど玄関近辺をウロウロしていたら、遠くから呼ばわる声が聞こえてきた。

どこからだろう? 

周囲を見渡すと本殿の方角に宮司さんの姿が。

どうやら社殿の戸締りに回っていたらしい。

今日は何やら祭事があったらしく、日曜日に訪れたのが幸いした格好。ズバリ勘が当たった。

これ幸いとばかりに御朱印を賜る。もし雨を前に参詣を諦めていたら、宮司さんに会えることもなかったろう。

これもまた、天ノ下春命の思し召しなのだろうか? いや、単なる牽強付会だろうけど。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]17

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「こんにちわ。今日は?」

見ればまだ若い宮司さんで三十代前半、ひょっとしたらまだ二十代かもしれない。

「御朱印を頂ければと思いまして」

「そうですか」

宮司さんは玄関の戸をカラリと開け、社務所の中に入っていった。

社務所の玄関脇には小さいながらも授与所があり、中には御守りや御札などが並んでいる。

そこへ宮司さんが再び姿を現し、ガラス戸を開けて顔を覗かせた。

朱印帳に御朱印を押印してもらい、初穂料を尋ねると「お気持ち」とだけ仰る。

五百円を渡して二百円のお釣りを待つが、宮司さんは済まし顔で座ったまま。

そう、あくまでも初穂料は「お気持ち」であり、金額など決まっていないのだ。

これまで訪れた神社は初穂料が全て三百円だったので、てっきり全国的に統一された料金だと勘違いしていたらしい。

こうした固定観念に囚われ過ぎていた自分に気付き、それを恥じる。

「ありがとうございました」

若い宮司さんに頭を垂れ、社務所を後にする。

普段は宮司さん不在の神社だけに、そもそも会えただけでも奇跡的なのだ。

日本の各神社は現在、神社本庁の下に全国的なネットワークを形成してはいる。

だが個々の神社は御祭神も違えば、しきたりも異なる。

巨大なスーパーマーケットやハンバーガーチェーンとは違うのだ。

それに、個々に違いでもないければ一之宮を巡る意味がないだろう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]18

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正門から境内を出、駅の方角へは戻らず、さらに外周道を先に進んでみる。

境内と域外を分ける玉垣が延々と続き、神域の広さを伺わせる。

明治十年代に描かれた古図を見ると玉垣はなく、域外との境は曖昧な様子。

というか周囲には田畑しかなく、無理に境内と分ける必要もなかったのだろう。

そのまま本殿の後ろ側へ回り、小野神社公園に出るはずだと思いつつ先へ進んだが行き止まりのドンツキになった。

アパートや一戸建て住宅が密集する一角の隙間から、朱色の本殿が垣間見える。

小野神社は昭和三十九(1964)年に風致林を整備して社殿を移し、境内を広げたと書いた。

この時もし広げていなければ風致林は宅地として開発され、境内は猫の額ほどのままだった可能性もある。

境内と域外を玉垣で厳然と仕切らなければならなかったのは、この“宅地開発”という名の恐ろしき怪物から身を護るためだったようにも思えてくる。

ドンツキから引き返し、正門の方には向かわず住宅街の中を散策しているうちに小野神社公園へ至った。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]19

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ベンチに腰掛け、背後から境内を見渡す。

来る時に降っていた雨はすっかり上がっていた。

西の空に広がる夕焼けのオレンジ色に、本殿の朱色が映える。

小野神社は現在の府中市にあった武蔵国府に近く、国司が参詣し易いことから一之宮になったものと思われる。

だが、二之宮以下の各神社は見事なまでに武蔵国の外周に位置している。

六社の位置は武蔵七党など武士団の分布に起因するもので、国司の参詣を考慮して配置されたわけではない。

一之宮から各社を順に巡るのは交通手段が発達した今でも大変なのだから、さぞ当時は苦労したに違いない。

その六社をまとめて祭祀し易いよう合祀した武蔵総社の六所宮が国府内に建立されたのも頷ける話だ。

これで国司はわざわざ多摩川を渡って小野神社まで参詣に行く必要がなくなったため大助かり。

一方、国司の参詣が途絶えた小野神社は名ばかりの“一之宮”となり、次第に衰微していった。

それに対し、もともと格上の式内大社だった氷川神社は武蔵国一帯に次々と分社を建立し勢力を拡大。

室町時代から戦国時代にかけて、氷川神社が名実ともに武蔵国一之宮として見做されるようになった。

鶴岡八幡宮が落下傘の如く降ってきても、一之宮の座が決して揺るがなかった寒川神社。

氷川神社に下から突き上げられ、実質的に一之宮の座を追われた小野神社。

会社から無茶な人事を押し付けられても人望の厚さから周囲の協力を得て難局を乗り切ったサラリーマン。

派閥のお陰で出世したものの派閥そのものが影響力を失ったため左遷させられたサラリーマン。

それぞれの会社員人生のように、両社のたどってきた歴史は対照的だ。

それでも小野神社は多摩川のほとりで一之宮としての矜持を保っている。

左遷させられたらされたで今度は派閥の力に頼ることなく、新たな職場で地味な仕事を自分の力だけで着実にこなしているサラリーマンのよう。

小さな本殿の背中を眺めながら、そんなことを想った。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]20

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帰路は再び神南せせらぎ通りを歩く。

“せせらぎ”とは名ばかりで単なる側溝だと思っていたのだが、幼い姉弟が中に入って小魚を追いかけている姿を見かけた。

想像以上に綺麗な“せせらぎ”のようだ。

途中、スナックを見かけた。

その名を「古里」という。

店前では巨大な狸の置物がお出迎え。

だとしたら「ふるさと」ではなく「こり」と読むのだろうか?

中に入れば狐や狸に化かされて…でも、楽しかったらそれも良しか。

フィルムを逆再生するかのように、往路を辿って聖蹟桜ヶ丘駅へ戻ってきた。

武蔵國一之宮として由緒正しき歴史を誇りながらも、時代の趨勢に翻弄され落魄の境遇に甘んじる小野神社。

その存在そのものが、人生の歩み方に何らかのサジェスチョンを与えてくれたようにも思える。

そんなことを考えながら改札口に足を向けた。

(武蔵國一之宮「小野神社」おわり)

[旅行日:2013年5月19日]
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