相模國一之宮「鶴岡八幡宮」

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]1

rj01鶴岡t4u01

錦糸町駅発午前07時40分、JR横須賀線772F列車。

日曜の朝とあって車内は空いており、快適な列車旅が楽しめそうだ。

両国駅から地下へ潜った772Fは品川駅の手前で地上に顔を出す。

車窓から皐月晴れの陽光が差し込み、暗かった車内が一気にパッと明るくなった。

これから、鎌倉へ行こうと思う。目的は相模国一之宮の巡礼。

相模国に一之宮は二つある。

ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮。

もうひとつは相模西部の寒川神社。

しかし鶴岡八幡宮は元来の意味での“一之宮”ではない。

平安時代の法典、延喜式における相模国一之宮は寒川神社であり、鶴ヶ岡八幡宮の名は存在しない。

それもそのはず、延喜式が成立したのは延長五(927)年。

一方、鶴岡八幡宮が創建されたのは建久二(1191)年。

つまり鎌倉幕府のゴリ推しで一之宮になったようなものだ。

それでも寒川神社は一之宮の座を明け渡さず、その地位を今なおキープしているのだから凄い。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]2

rj02鶴岡t4u00

772Fは横浜駅を過ぎ、やがて武蔵国から相模国に入った。

車内は部活に向かう学生生徒や行楽客が目立ち、日曜日ならではの華やいだ雰囲気が漂う。

やはり海に向かう列車には、どこか心を浮足立たせるものがある。

08時44分、鎌倉駅に到着。

まだ朝早いのに駅の周辺は観光客で一杯。

さすがは国内屈指の観光地だ。

鶴岡八幡宮へ向かう前に、取り敢えず由比ヶ浜へ行ってみる。

西口を出て案内標識に従い、南の方角へ向かった。

途中、江ノ電の踏切で電車が通り過ぎるのを待つ。

この小さな車両を見ると、鎌倉に来た実感が湧く。

適当に歩いているうち、松並木が美しい幅広の道路に出た。

道は海に向かって一直線に伸び、その先には大きな鳥居がデンと構えている。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]3

rj03鶴岡t4u03

海岸から程近くに聳立している一の鳥居「浜の大鳥居」。

花崗岩製で高さは8.5メートル、柱の太さは92センチ。

最初の鳥居は源頼朝の時代、治承四(1180)年十二月に建造が始まり、寿永元(1182)年に完成した。

現存の鳥居は寛文八(1668)年に徳川四代将軍家綱が寄進したもの。

二代将軍秀忠の御台崇源院が世継の家光を懐妊した時、鶴岡八幡宮に安産を祈願し、無事に出産。

その霊験から鶴岡八幡宮への崇敬を篤くした崇源院に、八幡大神が夢の中で「備前国犬島の奇石で大鳥居を建立し給ふべし」というお告げを下した。

崇源院は家光に必ずお告げを実行するよう頼んで他界。

それが実現されたのは次の代である家綱の時代だったという話。

ちなみに一の鳥居が石造りになったのは、この時だとか。

その後は長らく国内で石鳥居が建立される際のモデルとなり、明治三十七(1904)年八月には国宝に指定される。

大鳥居の真下へ行き、空を見上げる。

石造りの巨大な明神鳥居で、支柱には折れた跡が残る。

手前の銘板によると、大正十二(1923)年に関東大震災で柱下部を残し崩落。

崩落前の姿を忠実に復元するため、新しい建築技術ではなく古法に則って再建に着手。

崩落した旧材を出来る限り使い、足りない部分は犬島まで石材を調達しに行ったそうだ。

両側の柱の上部や笠木の中央部など、ヒビの入っている部分が該当するのだろう。

かくして昭和十一(1936)年八月に浜の大鳥居は再興なり、美しき旧観を取り戻すに至る。

安易に新たな鳥居を建立することなく、壊れた鳥居を復元して後世に遺そうとする昭和人の意気に感服する。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]4

rj04鶴岡t4u00

大鳥居から海岸線に向けて再び歩く。

かれこれ五百メートルは有るだろうか。

そのうち左側に川が寄り添ってきた。

滑川といって、それほど幅は広くない。

突き当りを東西に走る国道134号線を超え、海に到着。

滑川から西側を由比ヶ浜、東側を材木座海岸と呼ぶ。

由比ヶ浜にはサーファー、犬と散歩する人、寄り添う恋人たちと、海辺で日曜の朝を満喫する人たちの姿が。

一方の材木座海岸にはステージが組まれ、テントが立ち、白いプラスティック樹脂製の椅子とテーブルが並んでいる。

川ひとつ挟んだだけなのに、それぞれの海岸が見せる表情の違いが興味深い。

鎌倉は海に面しているだけあり、往時は海上交易が盛んだった。

由比ヶ浜には数百隻の舟が行き来し“首都”の経済を支えたという。

貞永元(1232)年に和賀江嶋(わかえじま)の築港が完成し、鎌倉幕府の海上交易はピークを迎えた。

和賀江嶋は材木座海岸を東へ向かい、砂浜が途切れるあたりの沖合に浮かぶ小さな人工島。

現存する最古の港湾施設で国史跡にも指定されているが、満潮時には全島が海面下に水没する“幻の島”でもある。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]5

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再び若宮大路を一の鳥居方面へ引き返す。

途中で鎌倉女学院前の歩道橋に上り、鶴岡八幡宮方面を見やる。

どん突きに八幡宮の社殿が、緑に包まれた小高い丘を背に聳立している。

若宮大路は寿永元(1182)年、頼朝が妻政子の安産を祈願して鶴岡八幡宮の社頭から由比ヶ浜まで建設した参道。

当時の若宮大路は両側溝と路肩を含めた総幅が36.6メートル、道路幅員は約30メートルと伝わっている。

現在の全幅も約30メートルあり、頼朝は八百年前から既に今ある規模の道路を造成していたことになるわけだ。

頼朝の幕府開府以来、若宮大路は神聖な道であり、武家屋敷は基本的に大路に背を向けて造られていた。

大路は側溝と武家屋敷の塀で囲われた格好となり、戦の際は防衛線の役割を担っていたとも言われている。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]6

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歩道橋を降り、横須賀線のガードをくぐり、鎌倉駅前を横切り、鎌倉警察署の前を過ぎると、二の鳥居が姿を現した。

鳥居横には社号標。

揮毫は東郷平八郎元帥の筆によるもの。

それにしても東郷元帥、日本中の社号標で健筆を振るっておられる。

ちなみに鶴岡八幡宮で社号標があるのはここ、二の鳥居の前のみ。

二の鳥居から若宮大路の中央は、車道より一段高い土盛りの歩道となる。

世に名高い「段葛(だんかずら)」だ。

頼朝が幕府を開くと多くの武将たちも鎌倉に住むようになった。

しかし、もともと鎌倉は平地が少なく、山を削って屋敷地を造成した。

このため山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に水や土砂が流入。

それでは道が泥濘んで歩きにくいため、平地から一段高い道を建設した。

それが「段葛」の起源である。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]7

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大正七(1918)年に鎌倉町青年会が建立した石碑には、こうある。

其の土石は北條時政を始め源家の諸将の是が運搬に従える所のものなり。

農民や町民を徴用したのではなく、武士たちが自らの手で造成したわけだ。

明治の初年に至り二ノ鳥居以南其の形を失えリ。

つまり江戸時代には二の鳥居と一の鳥居の間にも段葛があったということか。

さっそく段葛を歩いてみる。

道幅は思ったほど狭くなく、両側は奥行きのある花壇と植栽された並木により車道から隔離されているため、自動車を気にせず歩くことができる。

ただ、段葛は二の鳥居から鶴岡八幡宮に向けて道幅が徐々に狭くなるよう作られている。

このため遠近法が作用し、実際の距離よりも長く見えるよう工夫されているそうだ。

二の鳥居から少し北進した左側に、白亜の殿堂の如き立派な建物が立っている。

鎌倉銘菓「鳩サブレー」でおなじみ豊島屋本店。

この「鳩サブレー」もまた、鶴岡八幡宮とは縁が深い洋菓子だ。

更に段葛を北進すると今度は右側に、十字架をテッペンに乗せた尖塔が目に止まった。

名を「カトリック雪ノ下教会」という、とても大きな教会。

それにしても源氏の守護たる八幡神の門前に南蛮寺とは!

と、鎌倉武士が見たら憤慨するのではなかろうか?

いや、まだ鎌倉時代にキリスト教は伝来していないか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】デジタル写真の色を極める!』桐生 彩希

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]8

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というわけで段葛にも終わりが見え、代わって三の鳥居が姿を現してきた。

二と三の鳥居も一の鳥居と同様、寛文八(1668)年に四代将軍家綱が寄進したもの。

しかし関東大震災は一の鳥居だけでなく、すべての鳥居を倒壊させた。

一の鳥居は先述の通り一部新材を補って復旧されたが、二と三の鳥居は朱塗りの鉄筋コンクリート製に新造された。

スクランブル交差点を渡って境内へ。
既に日も高く、周囲は内外の観光客で混雑している

三の鳥居をくぐると目の前には神橋が架かっている。
しかし封鎖され渡ることはできない。

神橋を渡るなど畏れ多いからか?
それとも古くて危険だからだろうか?

神橋の脇を通り過ぎようとしたとき、該社の由緒書が目に止まった。

それによると鶴岡八幡宮は「源頼義が前九年の役平定後、康平六(1063)年に奉賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる」という。

鎌倉幕府が開府する百年以上も前、この地には既に八幡様が鎮座していたことになる


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]9

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参道を進むと、まず突き当たるのが舞殿。

又の名を「下拝殿」ともいう。

日曜日でもありお日柄も良いせいか、舞殿では結婚式が執り行われていた。

こうした衆人環視の中で行われる結婚式というのも、なかなかシビアなものだと思う。

永遠の愛を誓う相手は八幡様ではなく、グルリと取り囲んで見物している“参拝客”という名の赤の他人なのかも知れない。

いるかいないか分からない存在の神様より、赤の他人(それも女性)の熱視線のほうが、よほど新郎に「新婦を裏切れないなぁ」と思わせる効果があるのではなかろうか。

この舞殿で有名なのが源義経の愛妾、静御前の“伝説の演舞”だ。

追われる身だった静御前が囚われ、頼朝の前へと引き出された。

そこで頼朝と北条政子に所望され、やむなく静は「白拍子」を演舞。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

追討の発令者たる自分の前ですら義経を慕う歌を詠む静御前に、頼朝は烈火のごとく激怒。

刀に手をかける頼朝を政子は「主を思う女心は女にしか分からないもの」と諌め、静は命を救われることに。

静御前が白拍子を舞った「若宮廻廊」の跡に、この舞殿は建立されている。

ここで祝言を挙げる夫婦が愛を誓う真の相手は八幡神でも参拝客でもなく、本当は北条政子と静御前なのかも知れない。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]10

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結婚式が厳かに続く舞殿を回り込むと、本殿へと続く大石段が続き、その左側には大銀杏…の跡。

昭和三十(1955)年に神奈川県天然記念物に指定された、鶴岡八幡宮の象徴ともいうべき大銀杏。

建保七年(1219)一月二十七日、鎌倉二代将軍頼家の猶子で八幡宮別当の僧侶公暁(くぎょう)が、この大銀杏に隠れて三代将軍実朝を待ち伏せ暗殺したという。

この歴史の教科書にも載っている、源氏将軍家三代の息の根を止めた「隠れ銀杏」事件の舞台にもなったところだ。

その大銀杏が雪混じりの強風によって倒伏したのは、平成二十二(2010)年三月十日未明のこと。

樹齢千年ともいわれており、「いいくにつくろう鎌倉幕府」の1192年よりも前から、この地に根を張っていたことになる。

高さは推定30メートル、幹の太さは約7メートル。燃え上がるような黄色い葉を身に纏った大銀杏は、朱塗りの社殿と絶妙なコントラストを描いていた。

石段の途中で足を止め、大銀杏の根本を見下ろす。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]11

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同年4月、倒伏した場所から蘖(ひこばえ=根元から生えてくる若芽)が芽吹き、現在では約2メートル程までに成長している。

また、倒伏した樹幹は再生可能な高さ4メートルに切断し、その横に据え置かれた。

蘖の「子イチョウ」は生育状態の良いものを選び「後継樹」として育成。

横に移された「親イチョウ」は再び大地に根を張ることが期待されている。

そして現在では双方とも「御神木」としてお祀りされている。

そのまま視線を上げ、若宮大路を由比ガ浜方面に望む。

朱塗りの鳥居が二つと、その先に白い鳥居が一つ。

空気の澄んだ快晴の日には水平線や、更には伊豆大島まで眺めることが出来るそうだ。

さて、先出の由緒書の続き。

治承四(1180)年、源氏再興の旗を挙げた源頼朝は父祖由縁の地鎌倉へ入ると、由比郷の八幡宮を『祖宗を崇めんが為』に小林郷北山(現在地)へ奉遷し、京に於ける内裏(京都御所)に相当する位置に据えて諸整備に努めた

もともと由比ヶ浜から近い場所にあった八幡宮を『祖宗を崇めんが為』ここへ移した。

そして鎌倉の街を京の都に比肩する規模に構築し、若宮大路を平安京の朱雀大路に模して整備したということか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]12

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建久二(1191)年、大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた

「いいくにつくろう」の通り、学校では長きにわたり鎌倉幕府の開府を建久三(1192)年と教えてきた。

しかし、それより前に堂舎が数多く存在したということは、既に鶴岡八幡宮が源氏政権の中枢施設として機能していたことを意味する

あくまでも1192年は源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年であり、最近では鎌倉幕府が実質的に成立したのは1185年だと教えているそうだ。

これからは「いいはこつくろう鎌倉幕府」とでも覚えるようになるのだろうか?

石段を登り切ると、そこには威風堂々たる社殿が偉容を呈している。

建物は文政十一(1828)年に徳川十一代将軍家斉が造営した流権現造り。

鎌倉時代というより江戸時代を代表する建築様式だ。

随神門の前に立ち、上を見上げる。掲げられた扁額は単に「八幡宮」としか記されていないシンプルさ。

しかも“八”の字は、二羽の鳩が向き合った絵で描かれている。

鳩サブレーの形状、この“八”の字の鳩から着想を得たのだそうだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]13

rj13鶴岡t4uttl

随神門をくぐり、回廊に囲まれた内側へ。

なお、拝殿や本殿など回廊内の建物は写真の撮影が禁止されている。

随神門から拝殿までの距離はほとんどなく、すぐ目の前に立ちふさがる感覚。

二礼二拍手、手を合わせて目を閉じ、息をスゥーッと吸い込み、八幡神と意識をシンクロさせる…ように試みる。

鶴岡八幡宮の祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三柱。

第十五代応神天皇は歴史的に実在した最初の天皇と目され、神道上は応神天皇イコール八幡神とされている。

なお、応神は諡号(しごう)であり、諱(いみな)の誉田別命(ほむだわけのみこと)のほうが一般的だ。

誉田別命は父の仲哀天皇が崩御した後、筑紫国(福岡県)にて生誕。

母は鶴岡八幡宮に一緒に祀られている“聖母神”神功皇后(じんぐうこうごう)。

その後、大和国(奈良県)に戻り、母の摂政のもとで皇太子に。

大和国軽島(奈良県橿原市大軽町)に明の宮を造営し、神功皇后の死後、第十五代天皇に即位。

四十一年に及ぶ治世下では百済(くだら)から受け入れた帰化人によって経典や典籍がもたらされたり、当時の中国から文芸や工芸などを積極的に導入したり、この時代に日本文化の基礎が築かれたと学問的にも評価されている。

その“人皇”応神が何故、死後に八幡神として崇められるようになったのか?

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]14

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拝殿から左側へ回り込み、幣殿を挟んで本殿へとつながる社殿のフォルムを眺める。

八幡信仰は日本に大陸文化が最初に流入してきた北九州で生まれ、土着の信仰や外来の仏教を巻き込みながら拡大。

やがて源氏の氏神となり国家的宗教に発展、武家の守護神として各地に浸透していった。

現在でも八幡神を祀る神社は全国に三万社は下らず、分祀の数ではお稲荷様に次ぐ二位。

今や「八幡様」は日本全国津々浦々、どこでも見かけるお馴染みの神様である。

楼門を出、大石段を降りながら考える。

鶴岡八幡宮は一般に「三大八幡宮」のひとつに数えられている。

三大八幡とは、まず総本社の宇佐神宮(豊前国一之宮)と、京都府八幡市の石清水八幡宮。

それに筥崎宮(筑前国一之宮)か、鶴岡八幡宮のいずれかが入るという組み合わせ。

そのうち筥崎宮にも宇佐神宮にも参詣する機会があるだろう。

それまでに八幡神と応神天皇の関係について勉強しておきたいと思う。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]15

rj15鶴岡t4u22

大石段を降りて左に折れると若宮(下宮)の社殿が姿を現した。

鶴岡八幡宮には本宮と若宮があり、どちらの社殿も国の重要文化財に指定されている。

若宮の祭神は応神天皇の御子、仁徳天皇ほか三柱の神様。

若宮の横には控室が併設されており、舞殿で式を挙げる御両家の親族が待機している。

現在行われている式が終わると「次の方どうぞ」といった具合に舞殿へと案内される次第。

若宮と道を挟んだ反対側には「由比若宮遥拝所」がある。

由比若宮とは先出の由緒書に登場した、材木座に鎮座している由比郷の八幡宮のこと。

つまり頼義が勧請し、頼朝が現地に奉遷した由比郷の八幡宮は、現在でも存在していることになる。

参道を三の鳥居へ向かうと、鳥居の手前の両側に大きな池が広がっている。

…はずなのだが、現在工事中で残念ながら水が干上がっていた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]16

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「源平池」といって、北条政子が寿永元(1182)年に平氏滅亡を祈願して掘らせたもの。

三の鳥居から本殿に向かって右(東)側が源氏池、左(西)側が平家池。

源氏池には島が三つ浮かび、最も大きな島には「旗上弁天社」が鎮座している。

明治政府の神仏分離令で一度は破却されたのだが、戦後の昭和三十二(1956)年に再興。

さらに昭和五十五(1980)年、鶴岡八幡宮創建八百年を記念して江戸末期文政年間の古図に基づき、現在の社殿が復元された。

ちなみに弁天様は女神なので、カップルで参拝すると弁天様が嫉妬して二人を別れさせるとか、しないとか…。

源氏池に島が三つある理由は「三は産なり」で、源氏の繁栄が末永く続くことを祈って。

一方、平家池には島が四つ。

もちろん理由は「四は死なり」で、平家が一日も早く滅亡するように。

この故事からも北条政子、相当な女傑だったと見受けられる。

源氏が滅んでも北条家が執権として幕政を担えたわけだ。

鶴岡八幡宮の境内を出、若宮大路を再び由比ヶ浜方面に向かう。

既に時刻は正午近く、日曜日の鎌倉は観光客の群れで溢れかえり真っ直ぐ歩けないほど。

そんな喧騒を避けるかのように、横須賀線のガードに行き当たると左に折れる。

そのまま線路伝いに歩き、滑川に架かる橋を渡り、踏切を渡り、細い道を縫うように歩く。

かれこれ二十分ほど歩いたろうか。このあたりまで来ると何の変哲もない住宅地で、観光客らしき姿は露ほども見かけない。

住宅街の間をバスが行き交う通りに添って歩いているうち、古ぼけた小さな石柱に行き着いた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]17

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そこに刻まれた文字は「元鶴岡八幡宮」。

鶴岡八幡宮に遥拝所のあった由比若宮、その参道入口である。

ただ、石畳が敷かれて参道っぽい感じに見えるが、この社号標がなければ何ら変哲のない道で、気づかず通りすぎてしまうかもしれない。

どっちにしても、本当に目立たない場所にヒッソリ佇んでいたことには違いない。

奥に進むと、ほどなくして木々の緑に囲まれた社殿が姿を現した。

住宅街の真ん中に開いたエアポケットに、とても小ぶりな社殿がこじんまりと佇んでいる観。

鶴岡八幡宮の境内と比較すれば、こちらの広さは旗上弁天社が鎮座する島程度といったところか。

とはいえ境内は綺麗に掃き清められ、氏子の信奉の篤さが伝わってくる。

鶴岡八幡宮が日本を代表する神社なのに対し、こちらは材木座の氏神様…といった趣きだ。

一の鳥居の手前に「文学案内板」が立っている。

大正時代、先の参道から北側一帯は別荘地で、ここで芥川龍之介も暮らしたことがあるそうだ。

その頃の様子は「或阿呆の一生-十五『彼等』」に描写されているという。

彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。
――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]18

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鳥居は二つあり、一の鳥居と二の鳥居の間隔は二十~三十メートルといったところ。

二の鳥居をくぐって社殿の前へ。周囲を覆う木々の緑の中に、朱色の玉垣で囲まれた流造の社殿が映える。

鶴岡八幡宮の由緒書にあったように、由比若宮の起源は頼朝の五代前、源頼義(よりよし)まで遡る。

康平六(1063)年、相模守だった頼義が奥羽(東北地方)での「前九年の役」に勝利し、帰京の途中で鎌倉に立ち寄った。

その節、頼義は源氏の守護神たる石清水八幡宮の祭神を勧請し、ここに祀った。

鎌倉と源氏が初めて縁を持った瞬間である。

それから二十年後の永保三(1083)年、またも奥州で戦乱「後三年の役」が勃発。

頼義の息子である源“八幡太郎”義家が進軍し、ここで野営した際に社殿を修復したという。

その折、義家が源氏の旗を立てかけたとされる松の木の遺構が境内にある。

高札風の看板には「旗立の松」と墨書されている。

一メートルほどの高さに切られた松の幹で、円周の長さは大人が両手を広げて二抱えほどもあるか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]19

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義家は関東武者から絶大な信頼を勝ち取り、後々それが頼朝の幕府創建につながっていった。

一方、奥州の一大勢力だった清原氏が滅び、代わって奥州藤原氏の時代が幕を開けた。

どちらも「後三年の役」で挙げた源氏の功績である。

それから時が下ること百年余の文治三(1187)年、頼朝に負われた源義経が逃げ延びた先は奥州藤原氏だった。

その藤原氏も義経隠匿の咎を責められ、文治五(1189)年に頼朝の征伐を受け、滅亡した。

鎌倉幕府と奥州藤原氏、いずれも“八幡太郎”義家の功績で生まれたようなものなのに、皮肉な話だ。

由比若宮の境内を後にし、社号標が立っていたバス通りまで戻る。

鶴岡八幡宮と由比若宮、実は“自然暦”の関係にあるという。

太陽は由比若宮の方角から昇り、鶴岡八幡宮の方角に沈む。

日の出=始まり、出産であり、日の入=終わり、入滅である。

それゆえに元鶴岡八幡宮は“若宮”と呼ばれているのだろう。

今でこそ周囲を住宅やビルで覆われているため、どこから日が昇るのか分かりにくい。

だが周囲が田畑だった大昔、農民にとって両宮の位置関係が太陽の動きを察知するための重要なランドマークになっていたに違いない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]20

rj10鶴岡t4u33

石柱の近くに京急バスの停留所があり、お年寄りが何人か待っている。

自家用車など移動手段を持たない交通弱者にとって、一帯を走る路線バスは貴重な存在なのだ。

バスはここから鎌倉駅に向かうのだが、逆に鎌倉駅から直接ここに来る路線はない。

どこかで一度以上の乗り換えが必要なようだ。

もちろん自分はバスに乗らず鎌倉駅まで歩く。

由比若宮から再び住宅街の路地を通り、横須賀線の線路に沿った猫の通路のような道を抜け、約二十分ほどで鎌倉駅に到着。

ここから江ノ電に乗る。小さな電車は既に観光客でパンパンだ。

満員の車内に身を潜ませ、ジッと待つうちに発車。

日曜日で天気も晴朗とあって、国内外から訪れた老若男女の観光客でごった返す駅前を眺めながら鎌倉の町を後にした。


(相模國一之宮「鶴岡八幡宮」おわり)

[旅行日:2013年5月19日]
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