一巡せしもの

一巡せしもの[小野神社]5

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改札を出て西口から外に出る。

真冬ならとっくに日が暮れているのだろうが、夏至も近い昨今、すっかり日も長くなって大助かり。

喜び勇んで大通りへ飛び出すも、どうやら喜んでばかりもいられないようだ。

どうにも雲行きが怪しく、いつ雨が降ってきてもおかしくない空模様である。

朝方は天気が良かったので、生憎と傘を持ちあわせていない。

長距離を歩く分は苦にならないのだが、雨だけは勘弁して欲しい。

御朱印帳や頂戴した資料が水に濡れて台無しになってしまう恐れがあるから。

いくら防水性を高めても水はどんな場所からでも進入してくるもの。100%大丈夫なんて保証、どこにもないのだ。

駅はデパートやショッピングセンター、高層マンションに囲まれ、どっちがどっちやら方向感覚が掴めない。

取り敢えず地図で当たりを付け、それらしき方角へ歩き出してみる。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]6

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ところが1分と歩かないうちに雨粒がハラハラと落ち始め、屋根のある場所へアタフタと戻る羽目に。

雲天を恨めしく見上げるも、雨が止みそうな気配はない。

幸い雨脚は弱く、無理すれば小野神社へ行けなくもなさそうではある。

かといって、向かう途中で本降りになったりでもしたら目も当てられない。

時刻は夕方、間もなく陽も落ちるだろう。

たとえ雨が止んだとしても日が暮れてしまっては元も子もない。

今日は参拝を諦め、また日を改めて訪れればいいではないか。

そう心に決めて聖蹟桜ヶ丘駅へ戻り、切符の自動販売機に小銭を入れてボタンを押しかけたその時、ふと我に返った。

せっかく小野神社が目の前にあるのに、なぜ帰る必要があるのか?

それに、ここで帰ってしまったら後々のスケジュールも狂うことにもなるし、電車賃も余計にかかる。

しかも、今日は日曜日。

普段は宮司さんが常駐していない小野神社でも、地域の行事でいるかも知れない。

ここは傘を買って是が非でも行くべきではないか?

そう思い返して自動販売機の返金ボタンをプッシュ。

聖蹟桜ヶ丘駅を再び離れ、安い傘を売っていそうな店を探すことにした。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]7

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とはいえ急場凌ぎ用の傘を一本買うには巨大過ぎる聖蹟桜ヶ丘のショッピングモール。

駅直結の京王百貨店と京王ストア、ファッションビルのOPA、ショッピングセンターのザ・スクエアと、こんなに。

それでいて視界にコンビニが一軒も見当たらない、とてもバランスを欠いた巨艦主義的な商業地域でもある。

百貨店やスーパー、ファッションビルに安価な傘を求めるのは期待薄と判断し、まずはザ・スクエアへ。

だが傘を置いている店は有るも安くなかったり女性用のみだったりと、なかなか要望が叶わない。

それに、あまり傘探しに時間を割き過ぎ、日が暮れてしまっては元も子もない。

焦る気持ちを抑えつつ一階から地下へ移動し、なおもフロアをウロウロしていると、捨てる神あれば拾う神あり。

100円ショップの店内を覗いてみたら、幸いなことに折りたたみ傘が何と105円(税込)で売っていた。

廉価の割にはキチンと作られており、急場凌ぎには十分過ぎる。

事ここに至るまで30分ほど、ようやく小野神社への第一歩を踏み出すことができた。

ザ・スクエアの裏手へ回り、西へ向かう。

霧雨に毛の生えた程度の雨だが、傘の存在感は絶大だ。

駅前から一歩裏側に入れば、そこは駐車場が点在するごく普通の住宅地。

間もなくX字型に交差した十字路に出た。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]8

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一角に三つ巴の紋章が刻まれた記念碑が立っている。

石柱には「一ノ宮渡し」の文字。その横には連理の御神木が聳立している。

普通の街角にニョキッと生えた、ありふれた街路樹のようにも見える。

だが、木々の間に渡された注連縄が、ここが御神域だと訴えかけているかのようだ。

この一角、それほど広くはない。それでも小野神社が武蔵国一之宮だと主張する声は十二分に聞こえてくる。

記念碑と道を挟んだ反対側に「神南せせらぎ通り」と記された石柱が立つ。

その先には石畳が敷き詰められた小奇麗な小道が伸びる。小野神社への参道に違いない。

道の傍らにはせせらぎ…というか側溝が流れ、道との間には石灯籠が設えてある。

日が落ちて周囲が闇に包まれれば、石灯籠の仄かな灯りが独特の雰囲気を醸し出すことだろう。

幸か不幸かまだ陽のある内だったので、そうしたファンタジックな光景はお目にかかれなかったが。

“聖蹟”とはいかにも武蔵国一之宮に相応しい地名だが、これは天皇行幸地の一般的な呼称のことで小野神社と直接の関係はない。

ちなみに、ここの“聖蹟”は明治天皇の行幸を記念して昭和五(1930)年十一月に作られた「旧多摩聖蹟記念館」に由来している。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]9

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また、聖蹟桜ヶ丘駅周辺はスタジオジブリのアニメ映画「耳をすませば」の舞台として描かれていることでも知られる。

いわば実写映画の“ロケ地”みたいなもので、駅前には案内板も設置されているそう。

だが小糠雨と日没のダブルダッチに右往左往していた身にとって、それに気付く余裕など有ろうはずもない。

「神南せせらぎ通り」の沿道は普通の一戸建て住宅や小さなアパートが立ち並んでいる。

その一方で鳥居や灯籠などは見当たらず、とても神社の参道には見えない。

駅から30分近く歩いたろうか? ようやく雨が上がった。

前方右手に小さな公園を発見。入口横の銘板には「多摩市立一ノ宮児童館 小野神社公園」と刻まれている。

小野神社公園は、公園というより児童館の前庭といったほうが相応しい風情。

ふと左側を見ると、灌木の向こう側に真紅の神殿建築物がこちらに背を向けて佇んでいる。

これは、どこから見ても小野神社の本殿に相違ない。

なんと唐突な登場の仕方!

まさか泥棒のように裏口からコソコソお邪魔するわけにもいかないので一旦公園を出、神社の玉垣に添って先へ進む。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]10

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小野神社の創建は安寧天皇18年というから皇紀130年、西暦に直せば紀元前531年。

いずれにせよムチャクチャ昔からある古社であることは間違いない。

境内には木々が疎らに立ち並び、下の空間を灌木が埋めている。

さらには平屋の町内集会所もあり、宗教的な聖地というより地域の社交場のような雰囲気。

やがて、鳥居と随神門が現れた。

事前にインターネットで入手した境内マップによると、こちらは正門ではなく南門であるらしい。

鳥居は石造りの真っ白な明神鳥居。見るからにまっさらで、最近建てられたとしか思えないほど。

対照的に左隣りの社号標は見るからに古く、側面には寄付者の名前が刻まれている。

南多摩郡図師町と豆州君澤郡三島町の地名があるから、たぶん江戸時代に造られたものだろう。

鳥居の奥には古寂びた随神門。欄干には技巧を凝らした彫刻が施され、いかにも歴史を感じさせる。

せせらぎ通りを先へ進むと、南門より一回り大きな鳥居と随神門、社号標が登場した。

こちらが正門なのは境内マップを見るまでもなく明らか。

なぜなら南門には狛犬が鎮座していない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]11

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正門の前に立ち、周囲を三六〇度グルリと見渡してみる。

参道は先ほど通ってきた神南せせらぎ通りぐらいなもの。

門前には牛乳屋ぐらいしかなく、それもシャッターをビシッと降ろして営業している気配はない。

その先に伸びる道も単なる住宅地の街路で、参道っぽさなど微塵も感じられない。

今日は鶴岡八幡宮や寒川神社といった立派な参道を歩いてきたので、ギャップがそう思わせるのだろう。

手前に立つ社号標と狛犬像は真新しく、ごく最近建立されたことが伺える。

その奥に立つ大鳥居を下から見上げる。

石造りで、朱塗りではなく笠木のみグレーの真っ白な明神鳥居。

なお、鳥居はここと先程の南門にしかなく、境内の外には一基も存在しない。

しかし、この立派な大鳥居を見れば、氏子から寄せられる信仰の篤さが分かる。

その内側に立つ随神門は、逆にいささか古寂びている。建立は昭和三十九(1964)年というから古いことは古い。

随神門内に鎮座している木像の随身倚像は都の有形文化財に指定されている。

小野神社は鎌倉時代末から戦国時代にかけて度重なる戦乱や多摩川の氾濫に見舞われてきた。

このため古来からの諸資料が散逸し、現在では殆ど残されていない状態。

そんな中で昭和四十九(1974)年、この随身倚像に墨書銘があることが発見された。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]12

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それによると二体あるうち古い方は元応元(1319)年、因幡法橋応円や権律師丞源らにより奉納されたもの。

その後、寛永五(1628)年に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって補修された際、新しい像が新調された。

昭和四十九(1974)年には随身倚像を同門内に安置し、現在に至っている。

随神門をくぐって境内に入る。想像していたより広い。

もちろん鹿島神宮や香取神宮に比べたら狭いのだが。

もっと小さな神社を想定していたので、いい意味で予想を裏切られた。

境内は清廉に掃き清められ、さすがに一之宮としての風格を感じさせる。

参道を直進すると、突き当りに拝殿が鎮座する。

戦乱や氾濫で荒れ果てた小野神社を造営再興したのは、徳川二代将軍秀忠だった。

その記録が棟札に残されている。

一宮正一位小野神社造営再興
慶長十四(1609)年十二月廿六日
当将軍源朝臣秀忠公

それから遥かに時代が下った大正十五(1926)年3月30日。

近隣の失火による貰い火事で御神体と一部の神宝、鳥居を除く神殿などをことごとく焼失。

しかし、早くも翌年には本殿と拝殿が再建されている。

戦後の昭和三十九(1964)年、今より随身門寄りにあった本殿と拝殿を後方に遷座し、境内を拡大して現在の姿に至る。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]13

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拝殿に向かって両手を合わせ、目を閉じて深く息を吸い込む。

一応、東京都内にある唯一の一之宮なのだが、境内の空間は静寂で満たされている。

繁華街から離れているせいか、あるいは日曜日の夕方だからかだろうか。

小野神社の主祭神は天乃下春命(あめのしたばるのみこと)と、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)の二柱。

寒川神社のように夫婦そろって御祭神になっているケースは結構多いが、両神にそのような“姻戚”はない。

もとは瀬織津姫命だけが祀られていたところへ天乃下春命が“降臨”した…とも伝わっている。

瀬織津姫命は滝や川の流れなど水流の穢れを清める治水女神で、祀られている神社は日本中に存在する。

往古の時代は暴れ川だった多摩川を鎮めるため、瀬織津姫命を祀ったのが小野神社の起源だったのか。

しかも、多摩川を挟んた反対側の府中市にも小野神社が存在する。

一之宮として認定されているのは多摩市側のみ、しかも府中市側の規模は小さいが御祭神などは全く同じ。

もともと一社だったものが多摩川の氾濫で遷座を繰り返すうち、両側に一社ずつ残ったのだそう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]14

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ではなぜ、ここに天乃下春命が“降臨”してきたのだろう?

天乃下春命は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)天孫降臨の際、警護した三十二神の一神…とある。

天岩戸神話や国譲り神話で活躍した知恵の神、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の御子神。

八意思兼命から数えて十世の孫である知知夫彦命が第十代崇神天皇の御代、知知夫(秩父)国の初代国造に任命された。

知知夫彦命が祖神を祀って創建したのが、知知夫国一之宮たる秩父神社。

このため八意思兼命と知知夫彦命の二柱は秩父神社の御祭神なのだが、昔は天ノ下春命も祀られていたという説もある。

天ノ下春命は八意思兼命の子だから秩父神社の御祭神でも何ら不思議じゃないが、現在は御祭神に名を連ねていない。

かつて知知夫国は一個の独立国として存在していたが、大化の改新の後に无邪志(むざし)国、胸刺(むなさし)国と合併して武蔵国に。

武蔵国府は今の東京都府中市に置かれたが、秩父神社を武蔵国一之宮にするには遠過ぎる。

そこで国府の近くに鎮座していた小野神社を武蔵国一之宮に仕立てようとしたが、御祭神が瀬織津姫命ではヤマト王権との関係が希薄過ぎる。

ならばと、秩父神社から天ノ下春命を小野神社に“遷座”させ、御祭神としたのではなかろうか?

秩父神社は一之宮ではなくなったものの、父の八意思兼命を御祭神に残したことで小野神社への優位性を保ち、バランスを取ったような印象も受ける。

とはいえ今から千年以上も前の出来事だし、憶測の域を出ない話だが。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]15

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拝殿から裏手に回り、本殿へ向かう。瑞垣に囲まれた小ぶりな流造で、屋根以外は朱一色に塗られている。

その小さな社殿からは一之宮という仰々しさより、地域の鎮守様がピッタリといった雰囲気を感じる。

ここへ来る途中、X字型の交差点で見かけた三つ巴の紋章が刻まれた記念碑。

手前の解説板には、こう記されていた。

一ノ宮の神楽は、近世後期以降、大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に渡御参加しており、道路事情により取りやめになる昭和三十四年まで続いていました。

大國魂神社は府中市にある東京都下最大の神社。

武蔵国も相模国と同様に古社が六社あり、大國魂神社は一之宮から六之宮までが祀られた総社である。

  • 一之宮 小野神社
  • 二之宮 小河神社(現・二宮神社)あきる野市
  • 三之宮 氷川神社(ひかわじんじゃ)さいたま市大宮区
  • 四之宮 秩父神社(ちちぶじんじゃ)埼玉県秩父市
  • 五之宮 金鑚神社(かなさなじんじゃ)埼玉県神川村
  • 六之宮 杉山神社(すぎやまじんじゃ)横浜市緑区
  • 総社 大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)府中市

寒川神社のところで、相模国で古社六社が集う「相模国府祭」なる祭礼を紹介した。

これに武蔵国で相当するのが毎年五月初頭に行われる「くらやみ祭り」。

武蔵国府が府中に存在した昔から今なお続く都下最大の祭礼だ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]16

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往時は「武蔵国府祭」と呼ばれていたというから、やはり「相模国府祭」に比肩する祭礼と思われる。

「くらやみ祭り」では大國魂神社の境内に祀られている一之宮から六之宮の神輿が出御する。

これは、かつて六つの神社が六所宮に集結した様子を今に残しているそうだ。

昭和三十四(1959)年に廃止されるまでは、小野神社の神輿も「一ノ宮渡御」の記念碑があった場所から多摩川を渡ったのだろう。

再び社殿の横を通り抜け、社務所の前を通りかかると室内に明かりが灯っている。

小野神社は宮司さん不駐在と聞いていたので半信半疑のまま訪ねてみた。

玄関の扉を開けて中に声をかけるが誰も出てこない。というか、人のいる気配がない。

5~6分ほど玄関近辺をウロウロしていたら、遠くから呼ばわる声が聞こえてきた。

どこからだろう? 

周囲を見渡すと本殿の方角に宮司さんの姿が。

どうやら社殿の戸締りに回っていたらしい。

今日は何やら祭事があったらしく、日曜日に訪れたのが幸いした格好。ズバリ勘が当たった。

これ幸いとばかりに御朱印を賜る。もし雨を前に参詣を諦めていたら、宮司さんに会えることもなかったろう。

これもまた、天ノ下春命の思し召しなのだろうか? いや、単なる牽強付会だろうけど。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]17

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「こんにちわ。今日は?」

見ればまだ若い宮司さんで三十代前半、ひょっとしたらまだ二十代かもしれない。

「御朱印を頂ければと思いまして」

「そうですか」

宮司さんは玄関の戸をカラリと開け、社務所の中に入っていった。

社務所の玄関脇には小さいながらも授与所があり、中には御守りや御札などが並んでいる。

そこへ宮司さんが再び姿を現し、ガラス戸を開けて顔を覗かせた。

朱印帳に御朱印を押印してもらい、初穂料を尋ねると「お気持ち」とだけ仰る。

五百円を渡して二百円のお釣りを待つが、宮司さんは済まし顔で座ったまま。

そう、あくまでも初穂料は「お気持ち」であり、金額など決まっていないのだ。

これまで訪れた神社は初穂料が全て三百円だったので、てっきり全国的に統一された料金だと勘違いしていたらしい。

こうした固定観念に囚われ過ぎていた自分に気付き、それを恥じる。

「ありがとうございました」

若い宮司さんに頭を垂れ、社務所を後にする。

普段は宮司さん不在の神社だけに、そもそも会えただけでも奇跡的なのだ。

日本の各神社は現在、神社本庁の下に全国的なネットワークを形成してはいる。

だが個々の神社は御祭神も違えば、しきたりも異なる。

巨大なスーパーマーケットやハンバーガーチェーンとは違うのだ。

それに、個々に違いでもないければ一之宮を巡る意味がないだろう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]18

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正門から境内を出、駅の方角へは戻らず、さらに外周道を先に進んでみる。

境内と域外を分ける玉垣が延々と続き、神域の広さを伺わせる。

明治十年代に描かれた古図を見ると玉垣はなく、域外との境は曖昧な様子。

というか周囲には田畑しかなく、無理に境内と分ける必要もなかったのだろう。

そのまま本殿の後ろ側へ回り、小野神社公園に出るはずだと思いつつ先へ進んだが行き止まりのドンツキになった。

アパートや一戸建て住宅が密集する一角の隙間から、朱色の本殿が垣間見える。

小野神社は昭和三十九(1964)年に風致林を整備して社殿を移し、境内を広げたと書いた。

この時もし広げていなければ風致林は宅地として開発され、境内は猫の額ほどのままだった可能性もある。

境内と域外を玉垣で厳然と仕切らなければならなかったのは、この“宅地開発”という名の恐ろしき怪物から身を護るためだったようにも思えてくる。

ドンツキから引き返し、正門の方には向かわず住宅街の中を散策しているうちに小野神社公園へ至った。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]19

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ベンチに腰掛け、背後から境内を見渡す。

来る時に降っていた雨はすっかり上がっていた。

西の空に広がる夕焼けのオレンジ色に、本殿の朱色が映える。

小野神社は現在の府中市にあった武蔵国府に近く、国司が参詣し易いことから一之宮になったものと思われる。

だが、二之宮以下の各神社は見事なまでに武蔵国の外周に位置している。

六社の位置は武蔵七党など武士団の分布に起因するもので、国司の参詣を考慮して配置されたわけではない。

一之宮から各社を順に巡るのは交通手段が発達した今でも大変なのだから、さぞ当時は苦労したに違いない。

その六社をまとめて祭祀し易いよう合祀した武蔵総社の六所宮が国府内に建立されたのも頷ける話だ。

これで国司はわざわざ多摩川を渡って小野神社まで参詣に行く必要がなくなったため大助かり。

一方、国司の参詣が途絶えた小野神社は名ばかりの“一之宮”となり、次第に衰微していった。

それに対し、もともと格上の式内大社だった氷川神社は武蔵国一帯に次々と分社を建立し勢力を拡大。

室町時代から戦国時代にかけて、氷川神社が名実ともに武蔵国一之宮として見做されるようになった。

鶴岡八幡宮が落下傘の如く降ってきても、一之宮の座が決して揺るがなかった寒川神社。

氷川神社に下から突き上げられ、実質的に一之宮の座を追われた小野神社。

会社から無茶な人事を押し付けられても人望の厚さから周囲の協力を得て難局を乗り切ったサラリーマン。

派閥のお陰で出世したものの派閥そのものが影響力を失ったため左遷させられたサラリーマン。

それぞれの会社員人生のように、両社のたどってきた歴史は対照的だ。

それでも小野神社は多摩川のほとりで一之宮としての矜持を保っている。

左遷させられたらされたで今度は派閥の力に頼ることなく、新たな職場で地味な仕事を自分の力だけで着実にこなしているサラリーマンのよう。

小さな本殿の背中を眺めながら、そんなことを想った。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]20

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帰路は再び神南せせらぎ通りを歩く。

“せせらぎ”とは名ばかりで単なる側溝だと思っていたのだが、幼い姉弟が中に入って小魚を追いかけている姿を見かけた。

想像以上に綺麗な“せせらぎ”のようだ。

途中、スナックを見かけた。

その名を「古里」という。

店前では巨大な狸の置物がお出迎え。

だとしたら「ふるさと」ではなく「こり」と読むのだろうか?

中に入れば狐や狸に化かされて…でも、楽しかったらそれも良しか。

フィルムを逆再生するかのように、往路を辿って聖蹟桜ヶ丘駅へ戻ってきた。

武蔵國一之宮として由緒正しき歴史を誇りながらも、時代の趨勢に翻弄され落魄の境遇に甘んじる小野神社。

その存在そのものが、人生の歩み方に何らかのサジェスチョンを与えてくれたようにも思える。

そんなことを考えながら改札口に足を向けた。

(武蔵國一之宮「小野神社」おわり)

[旅行日:2013年5月19日]

今年もお世話になりましたm(_ _ )m

こんにちわ。

ブログ「RAMBLE JAPAN」管理人の経堂薫です。

今年の10月から始めた旅行記「一巡せしもの」。

昨日で小野神社編が終わり、これまで計6社の参詣紀をアップいたしました。

ご愛読ありがとうございます。

m(_ _ )m

もちろん「一巡せしもの」には正月休みなどありません!

7社目「氷川神社」は2日午前1時からスタートします。

来年も本年同様、皆さんのご愛顧ご愛読を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

新年あけましておめでとうございます!

おはようございます。

ブログ「RAMBLE JAPAN」管理人の経堂薫です。

旅行記「一巡せしもの」7社目「氷川神社」の参詣紀は、明日午前1時の更新からスタートです。

本年も皆さんのご愛顧ご愛読を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。


一巡せしもの[氷川神社]1

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平日の朝、さいたま新都心駅の巨大な改札口を出て、オフィス街と結ぶペデストリアンデッキを歩く。

通勤時間帯とあってか、さいたま新都心の広大な人口地盤には大勢の通勤客が行き交い、周辺の高層ビルに続々と吸い込まれていく。

さすが『副都心』だけあると感心しつつ、そんな人の流れに抗うかのように、さいたまスーパーアリーナ方面へ向かう。

霧ともつかない中途半端な雨が、ずっと朝から降りしきっている。

まだ屋根のある部分は良かったが、屋根のない外周道路へ出た途端に四方八方から細かい水の粒が肌にまとわりつき、あまりいい気分ではない。

さいたまスーパーアリーナの外周を巡る歩道を通って北側へ出、跨線橋を渡ってJR線の向こう側に抜ける。

この跨線橋、名を「大宮ほこすぎ橋」という。

その秀逸なデザイン性ゆえ、よくテレビのロケに登場する“名勝”でもある。

最大の特徴は全国でも例がないJR営業線上での中木植栽。

確かに木を植えてある鉄道の跨線橋なんて、あまり見たことない。

ではなぜ、わざわざ手間のかかる植栽を施したのか?

さいたま新都心から氷川参道に至るまで“みどりの連続性”を感じさせるコンセプトに基いて設計されたから。

しかも人道橋なので車の往来を気にすることなく、線路の真上から鉄道を鑑賞できる貴重な空間でもあるのだ。

「ほこすぎ」の由来は、また後ほど改めて。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]2

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跨線橋を降りると、そこは県道164号線。というより旧中仙道といったほうが、この旅には相応しい。

その旧中山道を北に向かうと、右側に赤い鳥居が現れる。

ここが氷川神社名物、長い参道の入口。

氷川神社へは大宮駅から行ったほうが近いのだが、過去の例に漏れず、ここも一の鳥居からアプローチしたかった。

なので大宮駅の一つ隣にあるさいたま新都心駅から出発した次第。

氷川神社の一の鳥居を下から眺める。

台石、亀腹、藁座、台輪まで備えた“全部入り”の明神鳥居だ。

ここもまた、寒川神社と同様に一の鳥居の下を車道が通っている。

ただ寒川神社と決定的に異なる点は、ここが埼玉県の県庁所在地であり、県内最大の市街地であること。

参道の両脇には高いビルが立ち並び、樹木の育成に必要な空間が確保できていない。

枝が伸びればマンションの住人の依頼で剪定され、そこから腐敗菌が侵入して樹木そのものが立ち枯れてしまう。

参道は大宮のシンボルではあるのだが、同時に都市化への対応という相反する課題を抱えているのだ。

旧中仙道から参道が分岐する角に「武蔵國一宮」の石柱、その後ろにこじんまりとした広場。

大宮は氷川神社の門前町というより、中仙道の宿場町として発展してきた。

ここで左に中仙道、右に氷川参道と分岐するのだが、かつては右の参道が中仙道を兼ねていた。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]3

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大宮が宿場町に指定された16世紀末の中仙道は一の鳥居から参道を通り、二の鳥居の手前で左折するルートだった。

しかしこの道筋では遠回りなうえ、神域を通過するため不敬にも当たる。

そこで寛永五(1628)年に関東郡代伊奈忠治が指揮を執り、一の鳥居から当時まだ原野だった参道の西側に北進する街道を新設することとなった。

同時に新道の両側を地割りし、門前にあった農家屋敷42軒を移転させた。

こうして中仙道屈指の大宿場町、大宮の基礎が築かれたわけだ。

当時の地割りの大きさは間口7~8間、奥行き63~65間程度という宿場町独特の細長い形。

ちなみにこの細長い地割りの形は、今でも概ね変わっていない。

いよいよ、氷川神社に向かって歩を進める。

参道には距離の目安として一丁ごとに丁石が置かれている。

一丁をメートル法に換算すると109.09メートル。

参道は十八丁あるので1963.62メートルとなる。

ただ、あまり細かく測るのも野暮というもの。

ざっくり2キロ弱といったところか。

氷川神社参道の名物といえば、両側に立ち並ぶ欅並木。

木々の梢が霧雨の水滴に映え、参道を覆う新緑が鮮やかさを増している。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]4

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この大宮の象徴ともいうべき欅並木も、今の姿に至るまで紆余曲折を経てきた。

まだ都市化が進んでいなかった昭和初期には鬱蒼とした杉並木で覆われ「並木十八丁鉾杉つづき」と謳われていたという。

これが先に渡った跨線橋「大宮ほこすぎ橋」の由来となっている。

さらに前の江戸時代には沿道に松並木を描いた絵図もあるそうだ。

並木が欅に替わったのは、資材難から杉が伐採された戦中戦後のこと。

さらに高度経済成長期に入るとモータリゼーションの隆盛による振動や排ガスの影響、地下水脈の低下、歩行者による根元の踏み固めなど並木の育成にとって悪条件が重なり、樹勢は低下する一方だった。

参道の途中、洒落たカフェを見かける。まるでヨーロッパの街角のよう。ただし隣は釜飯&とんかつの店だが。

これらの店は例外的存在で、参道に面した飲食店は実は非常に少ない。

その昔、参道は氷川神社の敷地であり神聖な道なので、沿道の建物は基本的に参道に背を向けて建てねばならなかった。

その名残りが今でも残っているのだろう。

ただ、並木が伐採されることなく今も残されているのは、そのお陰でもあるのだが。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]5

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「氷川参道のまちづくり」(2010年刊)によると、氷川参道には現在約650本の高木が立ち並んでいるという。

内訳は欅が約65%、椎が約10%、このほか楠木、榎、桜など37種類の樹木から構成されているそうだ。

このうち20本が天然記念物として市から文化財の指定を受けている。

ただ、先述の通り参道は並木の育成に適した環境になく、育成力を失った樹木から立ち枯れているのが現状だ。

そこで、氷川神社では欅並木の保護運動を行っている。

賛同したいところではあるが、次いつ来るか分からないので、なかなか決断する勇気がない。

参道は大宮中央通りとの交差点に差し掛かった。

ここで左に曲がると奥で大宮駅に
突き当る

一の鳥居からここまでの道幅は江戸時代とそう変わらず狭いまま。

にもかかわらず高度経済成長期には対面通行で、しかも違法駐車の車両で更に狭くなる有様。

さらに中仙道の交通渋滞を避ける車が続々と流入してきたため、歩行者はまともに歩けないほどの危険に晒されていた。

そこで車道と歩道の分離工事を行い歩行者の安全を確保し、同時に車道を完全な一方通行化するとともに違法駐車を一掃。

こうして参道は歩行者が安心して散策できる道になった…はずなのだが。

最近では自転車が我が物顔で歩道を猛スピードで駆け抜けていく。

今度は自転車の歩道走行が禁止されるのではなかろうか。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]6

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大宮中央通りを渡った先から参道の道幅がグッと広くなる。

しかも入り口には「氷川参道 平成ひろば」と刻まれた石標が佇む。

わざわざ「平成ひろば」と命名されたのには、実はそれなりに深い意味がある。

終戦直後、大宮駅前には大規模な闇市が形成された。

闇市は人々の生活を支えた一方、復興計画の妨げにもなった。

そこで旧大宮市と同市警察、氷川神社の三者が、ここから二の鳥居がある場所まで闇市を1年間限定で移転させることで合意。

ところが、それから40年以上も闇市は同地に留まり続け、164戸の住居と店舗が残ることに。

あくまで時限建造物だけに居住者にしても永住に耐えられるような環境にはなく。

おまけに樹木もほとんど枯死して並木の景観も失われてしまった。

これでは市の中心部にスラムを抱えているようなもの。

そこで旧大宮市は昭和六十(1985)年から「氷川地区整備事業」を開始する。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]7

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半世紀近く(!)仮住まいだった居住者たちは、別に用意された住宅へ移転。

跡地は市が借り上げて約420メートル、面積1.4ヘクタールに及ぶ緑地に整備。

中央に御影石を敷き詰めて遊歩道にし、散策路なども設営。

両側の緑地帯には欅や榎などを植栽し、枯死した並木を復活。

その外側には一方通行の車道と片側歩道を配備。

こうして整備事業は平成元(1989)年7月に完成した。

わざわざ名称を「平成ひろば」にしたのは、昭和時代のスラムチックなイメージを払拭するためとも思える。

30年前、縁あって大宮の町に通ったことがある。

もちろんここ氷川参道は、まだバラック通りだった。

若かりし時分に見た暗澹たる風情は今も記憶に残る。

ただ、都内にも戦後の闇市が今だに残る一角はある。

例えば新宿西口思い出横丁、渋谷のんべい横丁、吉祥寺ハモニカ横丁、三軒茶屋三角地帯など。

こうした“昭和の残滓”のような一角に行くたび、よくぞ残っていたものだと思う。

大宮のバラック通りも壊さず残しておけば良かったのに…などと言う気はサラサラ無い。

ただ、こうして小奇麗にされたことと引き換えに無機質化された風景によって、いかにも人間臭い歴史が蓄積した風情が淘汰されたことに対し、いにしえの街角を愛する自分としては一抹の寂しさを覚えるのだ。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]8

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やがて参道は旧国道16号との「氷川神社入口」交差点へ。

旧国道を渡ると、そこには巨大な二の鳥居。

昭和五十一(1976)年に明治神宮から奉納されたもの。

木造で高さ13メートルは関東一の大きさを誇る。

雨の中、大勢の皆さんが鳥居の周囲を清掃していた。

市の職員だろうか、それともボランティアか。

丁寧に丁寧に、参道を掃き清めている。

二の鳥居の前には「官幣大社 氷川神社」の社号標。

「大宮」の地名は“大いなる宮居”氷川神社に由来することは言うまでもない。

平成十三(2001)年に浦和市と大宮市、与野市の3市が合併して新たな県都が誕生した。

新市名は一般公募され、最終候補の中から2位の「さいたま市」が選ばれた。

ちなみに1位は圧倒的多数で埼玉市、大宮市は3位、浦和市は6位だった。

人口50万人規模の大都市による対等合併は全国的にも例がなく、しかも両市は隣接している割にカラーが全く異なる。

県庁所在地の浦和は政治・文教都市、交通の要衝に位置する大宮は経済都市。

合併に際しては当然、両市の間に様々な確執があったように記憶している。

個人的には「氷川市」にすれば丸く収まるんじゃないかと思っていたが、19位で最終候補にすら入らなかった。

神社の名前を市に付けるのは不適当という「政教分離」の原則のせいか? 

揉め事の解決に神様の手を借りればよかったのに、と思う。


(つづく)

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]9

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二の鳥居から参道を半分ほど過ぎた辺りに石灯籠が立っている。

そこには「武藏國一宮 東國總鎮守 氷川両本宮」と刻字されている。

氷川神社と言えば普通この「武藏國一宮」を指すのだが、同時に旧武蔵国…埼玉県・東京都・神奈川県東部…を中心に280数社に登る氷川信仰の神社も意味している。

大宮の氷川神社は、これらの総本社に当たるわけだ。

そして旧武蔵国から一歩出ると途端に見かけなくなるという、実はとてもリージョナルな神様である。

なので埼玉県や東京都で氷川神社について話していると、話が噛み合わないことが出てくる。

「氷川神社の近くだよ」と言われ、こちらは大宮の総本社のことだと思ったら、相手の言う氷川神社は港区赤坂のそれだったりする。

それぐらい武蔵國の隅々にまで根を張っている「東國總鎮守」なのだ。

一の鳥居から歩くこと約2キロ、ようやく三の鳥居に到着した。

一の鳥居、二の鳥居に比べれば、だいぶこぢんまりとしている。

というより一の鳥居と二の鳥居の大きさが破格なだけで、三の鳥居の大きさが標準的なのだ。

それと不思議なことに、氷川神社には狛犬が鎮座していない。

そういえば一の鳥居でも二の鳥居でも見かけなかったが、なぜだろう?

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]10

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三の鳥居をくぐり御神域へ入る。

まずは右手前方の神楽殿が視界に目に飛び込んできた。

隣接する額殿には「太々御神楽」と記された古い扁額が幾つも掲げられている。

建物そのものは新しいが、神楽は太古の昔から舞われてきたものと思われる。

その左側には江戸時代後期に建造された額殿が隣接している。

関東大震災や東日本大震災を耐え抜いたものの、さすがに老朽化には勝てず。

倒壊を防ぐため、屋内に筋交いの柱が何本も設えてある。

内部に掲げられている扁額は、いずれも時代が古そうなものばかり。

文化財保護の観点からもキチンした保存策が施されるべきではなかろうか?

額殿は解体のうえ修理し、上からスッポリ覆いをして風雨が当たらないようにし、覆いの内壁には扁額を並べて掲げたうえで説明書を添付する。

敷地はタップリあるのだから、これぐらいの施設は簡単に作れるように思えるのだが。

参道を横切り反対側へ回ってみる。

社務所の前に並んでいたのは力石。

重機などという“文明の利器”が影も形もなかった昔。

物流を“人力”が支え、力あるものがチヤホヤされた時代の名残り。

力自慢の若者たちがこの石を担いで本殿の回りを一周し、見事に担ぎ通した者は姓名を刻んで神前に奉納、その栄誉を称えられたという。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]11

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その右隣りに位置するのは巫女神楽殿。毎月1日の月次祭と15日の献詠祭には神楽が奉納される。

往古から舞われていた「太々御神楽」の伝統は今も受け継がれているようだ。

さらに境内を奥に進むと、緑豊かな木立に囲まれた神池が広がる。

池の右から三分の二のあたりに神橋が架けられ、左側に浮かぶ島には宗像神社が祀られている。

ここ氷川神社の鎮座地は「さいたま市大宮区高鼻町」という。

この「高鼻」という地名は古来からのもの。

古地図によると縄文海進の名残であるとされる見沼(御沼)の縁に当たり、沼に突き出た台地だったそう。

その姿が「高い鼻」のように見えたのが由来とされている。

見沼の水害を鎮めるべく「高い鼻」に鎮座した氷川神社は古代、水と農耕の神として崇められていたのだ。

神橋を渡ると正面に聳えるのは朱も鮮やかな楼門。降り止まぬ霧雨の露に濡れ、朱の艷やかさが際立っている。

そこから左右に伸びる透塀の向こう側に社殿群が鎮まっている。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]12

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氷川神社の御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱。

稲田姫命は須佐之男命の御妃で、大己貴命は子。

江戸時代まで御祭神は須佐之男命のみで、稲田姫命は氷川女體神社に、大己貴命は簸王子社(氷王子社、中氷川神社)に、それそれ祀られていた。

ここへ他の二柱が祀られるようになったのは明治十五(1882)年のこと。

社記によると創立は今から約二千四百年以上も前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日。

この一帯に広がっていた巨大な沼「見沼」の水神を祀ったのが、その起源と伝われている。

第十二代景行天皇の御代には日本武尊(やまとたけるのみこと)が参詣し、東夷鎮定を祈願したという。

「氷川神社」という社号は第十三代成務天皇の御代、出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造に赴任してきたことに由来する。

この地に故郷出雲國の簸川(ひのかわ)上流にある出雲大社の分霊を移し祀ったところから「簸川神社」と命名し、後に転じて「氷川神社」となったと伝わっている。

「簸川」とは現在の島根県斐伊(ひい)川とされる。

須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した伝説で知られる出雲神話の川。

ただ、末社にはその逆もある。

例えば東京都文京区の「簸川神社」は大正時代、社号を「氷川神社」から元に戻したそうだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]13

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楼門をくぐり抜けると、まず目に飛び込んでくるのが舞殿。

元は例祭で雅楽の組曲「東游(あずまあそび)」を奉奏する建物だった。

現在は2月の節分祭「鳴弦(めいげん)の儀」、3月の郷神楽祭、4月の鎮花祭「花しづめの舞」、11月の新嘗祭などでの神楽奉奏に使用されているとのこと。

鶴岡八幡宮のように、ここで結婚式を行ったりしないのだろうか?

境内には雨の中、平日の午前中にも関わらず大勢の参拝客が訪れている。

やはり埼玉県きっての大神社だけに貫禄が違うといったところ。

小野神社のところでも触れたが、氷川神社は中世まで武蔵國三之宮だった。

中世に入り源頼朝が鎌倉幕府を開府すると、古代史のスーパーヒーロー須佐之男命を祀る氷川神社は武家政権から格別な扱いを受けた。

源氏の後も足利氏、後北条氏、そして徳川氏と尊仰の念は絶えることがなく、それに伴い氷川神社も“武蔵國一之宮”の地位を自ずと確立していくこととなる。

舞殿の横をクルリと回り込み、正面奥の拝殿へ向かう。

徳川幕府の消滅で武家政権の歴史は終焉したものの、氷川神社は明治維新を迎えて一層の発展を見せる。

明治天皇が御所を京都から江戸改め東京に遷されたことに伴い、明治元(1868)年10月28日に行幸され自ら祭儀を執り行い、武蔵国の鎮守勅祭の社に定められた。

更に同三(1871)年11月1日、再び行幸。

この時の行列は京都からの遷都と同様、非常に荘厳なものだったと伝わっている。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]14

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数度に及ぶ明治天皇の御親祭は、桓武天皇が平安遷都の折に山城國一之宮の賀茂社をお祀りした先例を踏まえたものと云われている。

その模様を謹写した山田衛居筆の氷川神社行幸絵巻物は、今も社宝として大切に保存されているそうだ。

拝殿の前に立って頭を垂れ、柏手を打って目を閉じ、手を合わせて深く息を吸い込む。

少しは須佐之男命の御魂と触れ合うことができただろうか?

氷川神社の社殿群は神話時代はさておき、現実的な歴史上でも幾度か造営が繰り返されてきた記録がある。

最も古い社殿造営の記録は治承四(1180)年、源頼朝が土肥次郎実平に命じて社殿を再建せしめたというもの。

文禄五(1595)年8月には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行に任じ、社頭一切を造営。

寛文七(1667)年3月にも阿部豊後守に命じて社頭の整備や社殿の建立などを行なっている。

明治時代にも「帝都守護の総鎮守」に相応しい偉容を整えるべく大規模に改築。

現在の社殿は昭和十五(1940)年6月に竣成したものだ。

参拝を終えてフッと横を見ると、第二指だけを立てて手を組み、頭を上げたまま拝んでいる女性を見かけた。

通常の「二拝二拍手一拝」とは明らかに異なる形式で、どうにも気になる。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]15

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後に改めて調べたところ「八度拝八開手」という、伊勢神宮独特の参拝形式だった。

それも一般の参拝者ではなく、神職が祭祀の時にのみ行う特殊な拝礼形式なのだとか。

特に無礼な振る舞いでなければ他人がどのような形式で参拝しようと、それはその人の信念に基づくものだから別に構わないとは思うが。

ただ、特定の修行を経た者だけが行える参拝形式を「自分は神道に深い知識がありますよ」的なアピールのために行うのは、むしろ逆効果なのでは?

それに神職でも何でもない一般人から、そのような形式で参詣されたところで須佐之男命は果たしてお喜びになろうか?

ご利益を賜りたいという心意気は伝わってくるが、かといって出過ぎた真似をするのは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」のような気もする。

拝殿を後にして神札授与所へ立ち寄る。

本来は社殿の右側にあるべきはずなのだが、工事中で全体が白いテントで覆われている。

拝殿の左側に設置されている仮設の授与所で御朱印を頂戴した後、拝殿の前に差し掛かると先の女性が依然として祈祷を続けていた。

ここまで熱心にお祈りすれば、須佐之男命の元へ気持ちが
少しは届くだろうか?

それとも参拝の形式が違うから、それこそ“門前払い”にされるのだろうか?

その姿が多少狂気じみているだけに、お祈りが報われるかどうか他人事ながら気になるところではある。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]16

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周囲をグルリと取り囲む透塀に添って歩いていると、氷川丸との由来を記した展示に行き当たった。

現在、横浜港に係留されている氷川丸。

船名は無論、ここ氷川神社に由来する。

日本郵船が昭和五(1930)年に米シアトル航路へ就航させた1万2000トン級の巨大貨客船。

船内の神棚には氷川神社の御祭神が祀られ、船内の装飾にもご神紋の八雲が随所にあしらわれている。

歴代の船長以下乗組員は毎年大宮氷川神社へ参拝するのが習わしだったそうだ。

同16年までの11年間で太平洋を146回横断し、約1万人が乗船したという。

戦中は軍に徴用され病院船に改装。3年半で戦地から3万人もの傷病兵を内地へ収容。

三度の触雷にも敵機からの機銃掃射にも敵潜水艦との遭遇にも沈むこともなく。

氷川大神のお陰か“強運の舟”として戦後まで生き残ることに。

戦後は復員船として復員兵や引き揚げ邦人ら2万8000人を日本へ輸送。

その後は北海道航路で物資輸送に使われ、食糧難の時代を支えることに。

同二十五(1950)年、管理権がGHQから日本郵船に返され、再び外航航路へ。

同二十八(1953)年にシアトル航路へ復帰した氷川丸は、7年間にわたって約1万6000人もの乗客を運び続ける。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]17

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航空機時代の到来を待っていたかのように、氷川丸は同三十五(1960)年8月の航海を以って引退。

解体されスクラップにされるところを、神奈川県知事や横浜市長からの要請で山下公園に“静態保存”されることに。

船内は幾度目かの大改修を施され、修学旅行生の宿泊施設、あるいは結婚式場として静かな余生を送る。

平成18(2006)年には老朽化のため一時閉鎖されたものの、現在でも観光施設として健在。

船舶は20年経てば長寿といわれる中、建造から80年以上過ぎた氷川丸は正に“神”の領域だろう。

埼玉県には海がないので、氷川丸は海上の「飛び地」みたいなものかも知れない。

再び楼門を抜けて神橋を渡り、境内に出る。

一見すると手狭に思えるが、その敷地は約3万坪と実に広大だ。

隣接する大宮公園も元は神領で、その面積からも御神威の強大さが伺える。

三の鳥居を出て境内を辞し、氷川参道を引き返すのではなく、左側へと続く緩やかな勾配を下っていく。

すると「そば・うどん」と記された巨大な行灯を発見。

そこは門前蕎麦屋の大村庵。

やはり参拝したからには蕎麦で締めよというお告げか。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]18

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こちらは参拝客で混雑する境内と違い、昼時でも先客が一人いるのみ。

平日で、しかも雨とあらば止むを得ないところか。

鴨汁蕎麦とグラスビールを注文。

蕎麦は国内産の蕎麦粉を石臼で挽き、手で捏ね、包丁切り…とある。

待つ間、店内を眺める。

窓から覗く和風の小庭越しに、氷川神社の緑が遠景に臨める。

静かに降り続く霧雨のせいか空気も澄み、緑の彩りが鮮やかだ。

その時、氷川神社の神職がお客さんを連れて店を訪ねてきた。

参詣客がお宮参りや七五三などの折に利用する機会は多かろうが、神社の関係者からも重宝されている模様。

神職は旅行業関係者と思しき数名と共に二階へ上がって行った。

やはり蕎麦だけに、神社とは長い付き合いなのだろう。

そうこうするうち、鴨汁蕎麦が目の前に来た。

挽きぐるみの黒い田舎蕎麦を予想していたが、意に反して更科系の白い蕎麦。

冷たい蕎麦と暖かいつけ汁の相性も絶妙で、これがまた冷えたビールによく合う。

蕎麦と鴨とビールのマリアージュを堪能し、大村庵を出て引き続き緩やかな勾配を下る。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]19

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その先では大宮公園の入口がお出迎え。

明治維新を迎えると太政官(新政府)は神社仏閣の領地の大部分を国有化。

その境内地など名所旧跡に公園を設定することを決定した。

そうした潮流の中で明治十八(1885)年、氷川神社の旧神領に「氷川公園」が誕生。

同三十一(1898)年からは埼玉県の管理下に置かれ、名称も「大宮公園」に変更された。

公園の広さは67.8ヘクタール。

1ha=1万平方メートル=約3000坪で換算すると…なんと約20万3400坪!

現在の氷川神社境内の約3万坪と比すと、約7倍もの広さを有することになる。

明治維新を迎えるまで、氷川神社の規模がどれほど大きかったことか。

さっそく大宮公園を散策してみる。

中に入ると姿を現したのは二つの巨大な競技場。

右側は「NACK5スタジアム大宮」こと、さいたま市大宮公園サッカー場。

昭和35(1960)年に開業した日本初のサッカー専用球技場で、現存するものとしては国内最古とか。

当時は野球一色だったので、専用サッカー場の建設そのものが非常に珍しかったと思える。

その後、全面的な改修を経て、現在はJリーグ大宮アルディージャがホームスタジアムに使用している。

もちろん今日は何の試合も行われていないが、近付いて閉ざされた鉄格子の隙間から中を覗き込む。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]20

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よく日本代表戦で使用される埼玉スタジアム2002に比べたら、その大きさは牛丼大盛り用丼と味噌汁用椀ほどの差があるだろうか。

しかし、大宮はアルディージャの町。

そのハートランドに位置するサッカー場としては、これぐらいの規模のほうがサポーターの求心力を高め得るのに適しているかと思える。

その左側には埼玉県営大宮公園野球場。

昭和九(1934)年開業というから、かれこれ80年の歴史を数える。

同年のこけら落とし興行では「日米野球」が開催され、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグもプレーした老舗(?)の野球場だ。

現在でも埼玉西武ライオンズが年に数回、公式戦を開催している。

こちらも今日は何も催されていないが、同様に鉄格子から中を見てみる。

西武ドームに比べたら施設面では確かに見劣りするだろうが「ここは歴史遺産だ」と割り切れば、それなりに味わい深い野球観戦が楽しめるのではなかろうか。

野球場の隣には小さな遊園地。

小さな飛行機の遊具塔が聳え、古ぼけたアトラクションが昭和の雰囲気を色濃く醸し出している。

その奥には小さな動物園。

だが残念ながら今日は休園日。

中から動物の鳴き声が聞こえるもの、どのような動物がいるのかまでは分からない。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]21

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その先には大きな池があり、畔には昔ながらの食堂が佇み、なかなか落ち着いた雰囲気。

晴天の休日などは、ここに数多くのボートが浮かび楽しく遊んでいるのだろう。

その風光明媚さは、公園そのものを目的に改めて来訪したい気持ちにさせられた。

池の隣には大きな建造物が立っている。昭和十四(1939)年に開場した「大宮公園陸上競技場兼双輪場」。

翌年開催予定だった東京五輪の自転車競技会場として建設されたが、五輪は第二次大戦のため中止。

それから10年後の同二十四(1949)年、「大宮競輪場」として東日本で最初に競輪の開催を始めた。

本日は競輪の開催日。どうりで公園内を多数の観客が歩いていたわけだ。

時間的に余裕はないものの折角ここまで来たのだから、運試しに立ち寄ってみることにした。

月曜の真っ昼間、しかもオールA級戦にもかかわらず場内なかなかの人出。

級戦といえば聞こえはいいが競輪は上位にS級があるので、野球に例えれば二軍戦みたいなもの。

しかし大宮は東日本で最初に競輪を始めた場だけに、その人出は伝統と格式(?)ならではといったところか。

時間がなかったこともあり、第7レースだけ車券を買ってみることにした。

競輪では本番レースの前に展示走行といって、出走する選手たちがバンクに出て顔見世代わりに走る。

その展示走行中、なんと選手同士が接触して2選手が落車!

そのままストレッチャーに乗せられ退場してしまった。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]22

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おまけに公正な競争を確保できなくなるとの理由から、第7レースそのものが中止される羽目に。

まだ車券を買う前だったので幸いなことに実害はなかったが。

しかし、次のレースを待っていられるほど時間に余裕はなく、残念ながら車券を買わず帰ることにした。

雨が降っていたため路面が滑りやすかったのは事実だが、A級といってもプロの選手なのだから展示走行中に落車とは有り得ない話だ。

結局、何しに来たのか分からないまま大宮競輪場を後にすることとなった。

それとも氷川神社の御祭神が「どうせ当たんないんだから止めとけ」と“啓示”してくれたのだろうか?

だとしたら、とても有難い話ではある。

競輪場のスタンドを出て、隣接する中学校をグルリと囲む道を歩いているうち、東武野田線大宮公園駅に着いた。

強いて言えば、ここが氷川神社の最寄り駅と言えなくもない。

少なくとも徒歩で来る場合の所要時間は大宮駅より断然短い。

駅舎は木造の平屋建て。こじんまりとした外観は、寒川神社の宮山駅や香取神宮の香取駅を思い起こさせる。

改札を抜けてホームのベンチに腰掛け、朝から雨が降り続く空を見上げる。

短い時間の中で様々な要素が凝縮された濃厚なひとときを過ごせたことを実感。

そのうち姿を見せた大宮駅行き電車に乗り込み、氷川大神に感謝を捧げつつ大宮公園を後にした。


(武蔵國一之宮「氷川神社」おわり)

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]01

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埼玉県の県庁所在地、さいたま市。

その中央駅たる大宮駅前から国際興業バスの中川循環系統に乗車。

ここからさいたま市内にあるもう一つの武蔵國一之宮、氷川女體神社へと向かう。

ただ、その前に1カ所、訪ねておきたい場所がある。

バスは高島屋デパートと中央デパートの間を通る県道を東へ向かい、氷川神社の参道と交差して郊外へ抜けていく。

もともと大宮の中心地は中山道の宿場として栄えていた側の東口にあった。

駅前には百貨店が立ち並び、麓には網を張るように商店街が四方へ伸び、埼玉県随一の商業都市として繁華を極めていた。

しかし東北・上越新幹線の開業と歩調を合わせるか如く、西口に大型商業店舗が立ち並ぶようになると、どこか東口はくすんで見えるようになった。

西暦2000年にはさいたま新都心が街開きし、未来都市のピカピカな光彩を浴びた旧市街地は影の中へ呑み込まれる…かに思われた。

が、今なお大宮駅の東口から人並みが途切れることはない。

むしろ駅前から伸びる路地の如き飲食店街は夜ともなると、美味し酒肴を求めて集い来る酔客で盛況を呈している。

鉄道路線が結節する“交通の要衝”、氷川神社の門前町、そして中山道の宿場町という歴史的三大要素の前には都市のスプロール化現象も太刀打ちできなかったようだ。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]02

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このバスに乗るのは、かれこれ約30年ぶりになろうか。

当時は駅から離れるにつれて沿道に畑ばかり連なっていた記憶があるが、今ではいつまでも住宅地が途切れることはない。

繁華街から住宅街、そして田園地帯と移り変わる車窓の景色を眺めながら揺られること30分弱、中山神社バス停に到着した。

バス停は幹線の県道1号線沿いにあり、周囲は完全に“自動車社会”に適化している。

中山神社は、ここ「中川地区」一帯の鎮守。

大宮区高鼻「氷川神社」と緑区宮本(三室)「氷川女體神社」の両社とは古くから関係が深かったことから「中氷川神社」「氷(簸)王子社」とも呼ばれていた。

これら「氷川三社」の主祭神は、家族のような構成になっている。

氷川神社が須佐之男命(すさのおのみこと)で男体宮。

氷川女体神社が妻神の奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)で女体宮。

中山神社が両神の子である大己貴命(おほなむちのみこと)で氷(簸)王子宮。

この三社を一社と見做して「延喜式」神名帳にある「名神大社氷川神社」だったとする説もあるそうだ。

バス停から程近い小径との交差点に案内用の標柱が立っており、その先に中山神社が鎮座している。

だが、小径へ入る前に立ち寄らねばならない場所がある。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]03

rj03氷女t4u04

横断歩道を渡り、中山神社とは全くの逆方向へ足を向けた。

しばらく歩くと、小振りで真っ赤な両部鳥居が姿を現した。

中山神社、一の鳥居。

触ってみると金属製で、塗装も剥げたところがなく丁寧に手入れされている。

ここから中山神社の参道が始まるわけだ。

さっそく鳥居をくぐり、今来た道を引き返す。

先ほどの交差点を渡り、標柱の案内に添って小径の奥へ。

標柱には氷川神社の神紋「八雲」があしらわれている。

社号に“氷川”を名乗らずとも氷川神社との関係性は疑いようもない。

八雲たつ いづもやへがき つまごみに 八重垣つくる そのやへがきを

神紋八雲は氷川神社の主祭神、須佐之男命が「須賀の宮」を営まれた折、御殿の周囲に七重八重と立ち込めた瑞雲を形象したもの。

「須賀の宮」とは出雲國…現在の島根県雲南市に鎮座する須我神社のこと。

須佐之男命が八岐大蛇を退治した後に建立した宮殿が神社になったものと伝えられている。

七重八重の雲の彼方に在す物語が、この見沼田んぼのド真ん中に中山神社を鎮座せしめた。

これもまた、一種の“神話”なのだろうか。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]04

rj04氷女t4u07

参道は細く、両側は雑木林と住宅が入り組み、都会とも田舎ともつかない空間が広がる。

ランドセルを背負った小学生たちが互いにふざけ合いながら、目の前を駆けて行く。

まさに「村の鎮守の細道」そのままの光景だ。

大宮駅からバスで30分足らずなのに、駅前の喧騒からは想像できない長閑さだ。

思ったほど参道は長くなく、10分も歩かないうちに木製の明神鳥居が姿を見せた。

ここから先が中山神社の境内に当たる。

境内は玉垣で囲われておらず、外界と明確に区切られていない。

これはこれで、中山神社が地域社会に溶け込んでいる証なのだろう。

鳥居をくぐって境内に入ると、奥から一人の男性がこちらに向かって歩いて来る。

宮司さんかと思ったが、ここは不駐在のはず。

「こんにちわ!」

挨拶を交わして境内から出て行った彼に、小学生たちが駆け寄って行く。

子供たちの父兄か、それとも学校の先生か。

いずれにせよ、子どもたちから慕われていることは見るからに分かる。

社頭の解説板によると創建は人皇十代崇神天皇御代2年。

西暦に直せば紀元前96年、皇紀565年に当たる。

天正19(1591)年11月には、徳川家康から社領十五石の御朱印地を賜っている。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]05

rj05氷女t4u11

現在の社号は明治40(1907)年7月、付近一帯に祀られていた神社を合祀することとなり、従前の社号「氷川社」を「中山神社」と改称。

鎮座地中川の「中」と、江戸期の新田開発から氏子付き合いを続けてきた上山口新田の「山」を合わせたものだ。

参道を直進し、狛犬の間を抜けた辺りの右側に「御火塚」がある。

御火塚は毎年12月8日に行われる「鎮火祭」の重要な舞台。

鎮火祭は古くから伝わる重要な祭りで、御火塚の前に薪を積み火渡り神事が行われる。

素足で火渡りをすると火防けや無病息災などの御神徳に預かれると伝わり、祭日の境内は氏子をはじめ多くの参拝客で賑わうそう。

ちなみに鎮座地の「中川」という地名は旧社号「中氷川神社」の「氷」が「鎮火祭」の炎で溶けたもの…という説もある。

御火塚の横を通り、拝殿の前へと進む。

中山神社は氷川神社と氷川女體神社を結ぶ直線上の、ほぼ中間地点に位置していることは広く知られている。

中山神社から見て太陽は夏至に氷川神社方向の西北西に沈み、冬至には氷川女體神社方向の東南東から昇る。

氷川三社は、こうして太陽の公転を神社の配置に記録しておく「自然暦」でもあったのだ。

現代なら衛星写真を見れば一目で分かるが、航空機すら存在しない大昔よくそのような芸当ができたものだ。

いや、無いなら無いなりに知恵を絞り尽くし、あらゆる手段を駆使したのだろう。

なにしろ稲作にとって太陽の動きを把握することは必要不可欠。

しかし、誰が何時どのように三社の位置を決定したのか、その記録は詳らかでない。

大量の農民を動員して気の遠くなるような測量作業を地道に行ったのだろうか?

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]06

rj06氷女t4u12

現在の本殿は大正14(1925)年7月21日竣工と比較的新しい。

その裏手に、新造される以前の「旧社殿」が保存されている。

建造期は桃山時代と推定され、埼玉県内に現存する社殿でも古い型式に入る。

さいたま市内では最古で建築学上も貴重な資料だけに、同市からは文化財建造物に指定されている

旧社殿は細い角材を格子状に組んだ覆堂の中に鎮座している。

隙間から中を覗いてみると、悠遠の年月を経てきただけあって、さすがに建物そのものはガタガタ。

だが敢えて修繕せずそのままにしてあるところが、逆に歴史の重みを感じさせる。

覆堂の手前に説明板があり、設置者名が「大宮市教育委員会」になっている。

これもまた、歴史の重みを感じさせるための演出なのだろうか。

屋根は板葺きで、母屋前方部分の角度を変えて軒先より長くし反りを付した「流造(ながれづく)り」の二間社。

地上から階段を設えて板張り床の外陣に登れるようになっており、側面の床板には脇障子や欄干がついていた痕跡も見受けられるという。

ちなみに一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものは「見せ棚造り」といって社殿の基になる型。

この旧社殿は簡素な板葺きの「見せ棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物なのだとか。

そこが「建築学上も貴重な資料」たる由縁なのだろう。

豊臣秀吉の時代に建立された社殿が、21世紀の今こうして眼前に存在する不思議。

この世のすべては儚いようでいて、なかなかにシブトいようだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]07

rj07氷女t4u15

境内を出て再び中山神社前停留所へ戻る。

バスを待つ間、氷川三社の自然歴について考えた。

黄泉の国から戻った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が筑紫国で禊をした際、その体からから様々な神が生まれた。

最後に生まれたのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、そして須佐之男命の三柱。

伊邪那岐命は天照大御神に昼の国、月読命に夜の国、そして須佐之男命に海原を、それぞれ治めるよう命じた。

ここで注目したいのは須佐之男命が任された海原の支配という仕事について。

天照大御神の昼の国とは太陽を、月読命の夜の国とは月を、それぞれ意味していると解釈するとして。

須佐之男命が海原の支配を任された意味は、両天体の動きを基に暦を編み出すことだったのではないか?

だからこそ自然歴のメルクマールとして、須佐之男命を祀った神社が全国各地に建立されたのでは?

そんなことをボンヤリ考えていたら、バスが来た。

さいたま東営業所へ向かい、JR東浦和駅行きのバスに乗り換える。

日本国内でも埼玉は比較的、鉄道網が張り巡らされている県なのだが。

それでも、まだまだ鉄道網からこぼれている地域のほうが圧倒的に多い。

宅地開発のスピードが速すぎて、公共交通網はバスに頼らざるを得ないのが実情だろう。

これが首都圏でなければ、道路さえ整備しておけば住人が自家用車で勝手に移動してくれるのだろうが。

こうも人口が多いとマイカーだけでは交通網がパンクしてしまうのは必定。

かくして今日もまた埼玉県内を路線バスが網の目を縫うように走り続けているのだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]08

rj08氷女t4u16

さいたま東営業所からバスに揺られること20分ほどで、朝日坂上というバス停に着いた。

しかし、この場所がどこなのか実のところサッパリ分からない。

ここへと至るバスルートはインターネットで検索を重ねた末に導き出したもので、確定するまで相当な手間がかかった。

もしバスの営業所で時間とルートをいちいち確認していたら、たぶん一日では終わらなかったろう。

朝日坂上バス停から緩やかな坂道を下って新興住宅地を抜けると、木々の緑が色濃く繁るこんもりとした丘が見えてきた。

周囲を畑と真新しい住宅に囲まれたこの森は、氷川女體神社の裏手に位置する公園「ふるさとの森」。

氷川神社で言えば大宮公園、小野神社で言えば小野神社公園…神社と公園はどこでも表裏一体だ。

ちなみに「ふるさとの森」とは埼玉県が自然保護のため条例で指定した緑地のこと。

その外周を時計回りにグルリと巡ると、正面に小川と橋が現れた。

右折して川に沿って歩くと「見沼たんぼの見所案内」という案内板を発見。

「見沼たんぼ」とはさいたま市の南北中央を帯状に占める大規模緑地空間で、総面積は約1260haにも及ぶ。

何かに例えたら、東京ディズニーリゾート(約100ha)12個分といったところか。

案内板の少し先に朱塗りの神橋と長い石段、その上に鳥居が聳立している。

ようやく氷川女體神社の入り口にたどり着いた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]09

rj09氷女t4u19

朝から降り続く霧雨は止む気配がなく、濡れて滑りやすくなった石段を一段づつ注意深く昇ってゆく。

鳥居には「武蔵國一宮 氷川女體神社」と記された扁額が掲げられている。

「名神大社氷川神社」は高鼻の氷川男體社、中川の簸王子社、そしてここ三室の氷川女體社の三社で、ひとつの広大な神域(結界)を形成していたことは先に触れた。

ここもまた紛れもない「武蔵國一之宮」なのだ。

鳥居は神域の外で見かけなかったので、これが唯一無二の鳥居かと思われる。

境内の案内板によると、ここから北西約400メートルの住宅地に石造の鳥居が聳立しているそうだ。

この鳥居は安政2(1855)年、馬場地区から参詣する人たちの便を考えて大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものだという。

残念ながら実際に視認してはいないのだが、もし中山神社から歩いて来ていたら、ひょっとしたら見る機会があったかも知れない。

鳥居をくぐると正面に拝殿が鎮座している。

氷川神社の方角ではなく、日の出ずる東方を向いている。

氷川三社で自然暦を構成している証なのだろうか?

社伝「武州一ノ宮女體宮由緒書」によると、創建は今から2000年以上も昔。

第十代崇神天皇の御代に出雲杵築の大社を勧請したと記されている。

ただ、実際の建立時期は奈良時代(710~794)のようだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]10

rj10氷女t4u21

拝殿の扁額にはシンプルに「武蔵國一宮」とだけ記されている。

横には「東都鳳岡関思恭拝書」と揮毫の主の名が墨書されている。

関思恭は元禄時代を生きた水戸藩出身の書家。

“草聖”と称されるほど草書に優れ、門人は五千余人に至ったという。

主祭神は奇稲田姫命であることは既に触れた。

だが、さすがに女體宮だけあって須佐之男命は祀られていない。

御配神は大己貴命(おほなむちのみこと)と、三穂津姫命(みほつひめのみこと)。

氷川神社にも中山神社にも祀られていなかった三穂津姫命は大己貴命の后。

須佐之男命の子が大己貴命だとすれば、姑と嫁が同居していることになるのか。

嫁姑問題にある女性方は、ここでお祓いすれば悩みが晴れるかも知れない。

拝殿の裏手に回り、本殿を玉垣の隙間から垣間見る。

三間社の流造りで、全面に朱の漆が塗られている。

拝殿とは相の間で結ばれ、形式的には権現造りに近い建造物といえそう。

氷川女體神社もまた中世以来、武門の崇敬を集めてきた。

鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などに縁ある書物や宝物を数多く所蔵しており「武蔵野の正倉院」とも称されているそうだ。

[旅行日:2013年5月20日]
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