一巡せしもの
錦糸町駅4番ホーム。
空は薄く曇り空気は肌寒いが、雨の心配はなさそうだ。
11時24分発の総武本線快速電車「エアポート」に乗り込む。
平日のお昼時とあって適度に空いている車内には、大きなスーツケースを携えた海外旅行客が目立つ。
これから諸国一之宮を巡礼する旅に出ようと思う。
しかも公共交通機関だけを使って。鉄道、バス、船舶、航空機、そして自分の足。
タクシーも一応は公共交通機関だが、あまり使いたくない。
というか、余程のことがない限り使うことはないだろうけど。
一之宮巡礼…略して“一巡”の幕開けは房総半島の先端に位置する安房國一之宮、洲崎神社。
館山駅まで行き、さらにバスに乗り換える必要がある。
12時ちょうど、千葉駅に到着。
内房線に乗り換えるため地下の連絡通路へ向かうと工事中で、元から分かりにくかった駅舎の構造が更に難解さを増している。
案内板を見ては先行く人の後を追ったりして、ようやくホームにたどり着いた。
12時05分発、安房鴨川行き普通列車は先ほどの総武本線とは一転、大層な混み具合。
いくつか車両を覗くが、どれも同じぐらい混んでいる。
そんな中、なぜかポッカリ小さなスペースが空いている車両を発見。
不思議に思いつつもコレ幸いと、そのスペースに身を滑り込ませた。
車中に身を置き初めてナットク。
そこには携帯電話で大声で話をしているイカツいオッサンが大股オッ広げて座っていた。
(旅行日:2012年12月17日)
頭髪は皆無で、緑のジャンパーに黒の作業ズボン。
その容貌たるや東京湾から引き上げられたタコ坊主。
いや、坊主にしては身躯がデカ過ぎる。
タコ入道と呼んだほうが相応しいか。
浦安や幕張を闊歩するオシャレな“千葉”県民ではなく、富津や木更津で鳴らした荒くれ漁師の末裔が如き“房総”族である。
タコ入道は電話を切ると、そのうち近くの乗客に悪態をつきはじめた。
「何見てんだタココラァ!」
そんなタコ入道に周囲の乗客は白い目を向け、ヒソヒソ。
「オイそこ! コソコソ喋ってねえで、かかってこいやゴルァ!」
気がついたら、とっくに電車は千葉駅を発車していた。
駅へ着くたび降車客は足早に駆け去り、乗車客はタコ入道を見て目を白黒させている。
「おぃおぃ、誰もオレのこと注意しに来ねぇのかよぉ、情けねぇ奴ばっかしだなぁ~」
もちろん、誰も注意しない。
車内で暴れているとか痴漢を働いているのなら話は別だが、ただ大声で下品なことを喚いているだけなので、放っておいたところで何の差し障りもない。
「あ~あ、ヤクザ屋さんでも喧嘩売ってこないかなぁ~」
電車の中でこうした阿呆をたしなめるヤクザ屋さんなど見たことがない。
もし一緒に警察に連行されでもしたら、下手すると共犯扱いされるのだから当然の話だ。
(旅行日:2012年12月17日)
「まったく、俺みたいな奴に注意ひとつできる大人が一人もいないんだから、ロクな世の中にならないわけだ」
よく言うゼ…とは思うが、タコ入道は悪態をついてはいるのものの、言ってる内容は他愛もない子供じみた戯言。
周囲の乗客は不愉快だろうが、黙って聞いてる分にはユーモアが絶望的に欠落した笑い話に過ぎないのだが。
すると、隣に立っていた高校生ぐらいの男の子がスッと離れ、タコ入道の隣席にサッと座った。
「おじさん、どこまで行くの?」
「俺か!? 八幡宿」
不意を突かれたせいか、タコ入道は意外なほど素直に返答した。
「坊主、高校生か?」
「そう、木更津から千葉まで通ってるんだ」
「千葉までじゃ結構な距離あるなぁ、大変だろ」
「そうでもないよ、慣れてしまえばね」
「偉いなお前。俺みたいな大人になるんじゃねえぞ」
先ほどまでの悪態はどこへやら。
どうやらタコ入道、単に話し相手が欲しかっただけらしい。
それを看破してタコ入道の懐にスッと飛び込んで行った高校生の才覚と度胸に感服した。
八幡宿に着くとタコ入道はスンナリ下車して行った。
「おい、さっきオレを見てコソコソ言ってた2人組! お前ら覚えてろよ!」
そう言い残すのを忘れずに。
12時51分、君津に着くと車内はガラガラになった
上総湊の辺りで車窓に内房の海が開けてくる。
海水浴場が近くペンションや別荘が立ち並んでいるが、冬なので人影は少ない。
保田に着くと列車行き違いのため9分停車。
車内の乗客は高校生だらけである。
(旅行日:2012年12月17日)
14時ちょうど、館山に到着。
今や都心との連絡は利便性の高い高速バスに席巻され、東京駅と結ぶ特急列車も、ほぼ消滅に近い状況だ。
駅前に出ると平日の昼下がりとあってかマッタリとした空気が淀んでいた。
ロータリーでは客待ちのタクシーが所在無さ気にたむろし、真冬にしては熱を帯びた陽光に発汗さえ覚える。
JRバスに乗り換えるため、ロータリーを左手へ回り込みバス停へ。
半島の先端をこまめに廻る路線と、内陸部を横断して外房に出る路線がある。
洲崎神社へは前者に乗車するのだが、それほど本数が多くないので時刻を事前に調べておくのは必須だ。
半島の先端行きは3番乗り場。
停留所では数人の老婆たちが世間話を交わしながらバスが来るのを待ち侘びている。
いや、そんなに焦れるほど待っている風でもない。
待ち寂びてるといったほうか相応しいか。
14時20分、JRバス関東の路線バスは3番乗り場から出発した。
鄙びた駅前通りを抜け、館山城址のある城山公園を経て館山小学校前のバス停へ。
ここで下校する小学生たちが大挙して乗り込んできた。
「◯◯君は次の停留所ね」
「さっ、次で降りるよ」
年長者の女の子が年下の子どもたちを仕切っている。
この世代、やはり女の子のほうが大人だ。
男のガキなんて遊ぶことしか考えていない… もちろん自分を鑑みての話だが。
豊津橋バス停で全員下車していった。
近くに海上自衛隊館山航空基地があるので、そこの子どもたちかも知れない。
(旅行日:2012年12月17日)
海沿いを走っていたバスは加賀名バス停から山間部に向けてハンドルを切った。
西岬小学校前バス停で、またも大勢の小学生が乗車してくる。
この路線バスはスクールバスの役割も兼ねている様子。
こうした実情は時刻表の無機質な数字からは、なかなか見えてこない。
時刻表によると、このバスは途中の伊戸止まり。
しかし、なぜか伊戸に到着してもストップすることはなく、その先へと進む。
時刻表が適当なのか、運行がいい加減なのか。
いずれにせよ伊戸から洲崎神社まで歩行での行軍を覚悟していた身には嬉しい誤算だった。
15時ごろ、館山駅から40分ほどで洲の崎神社前バス停に到着した。
バス停には子どもを迎えにきたお母さんたちで賑わっている。
客の中で洲崎神社を参拝に来たのは自分一人のみ、あとはすべて帰宅児童だった。
停留所の時刻表を見ると、バスの便は2時間に1本程度。
ここへ路線バスで来るのは余程の酔狂者ということだろう。
バスに揺られてきた県道257号線は通称「房総フラワーライン」という。
菜の花やポピー、マリーゴールドなど、沿道には四季を通じて季節の花々が咲き誇る。
さすがに今は真冬だけに花の姿は見かけないが、沿道の草木は青々としている。
それだけ温暖な気候が植物の育成に適しているのだろう。
(旅行日:2012年12月17日)
バス停から徒歩2~3分ほどで「洲崎神社」と大書きされた標柱に出くわす。
アクリル板で出来たそれは、神社の案内標というよりスナックの看板のようだ。
標柱の矢印に従って進むと参道が見えてきた。
入り口に立つ社号標は黒い石に掘られた真新しい巨大な柱と、古い柱の二種類ある。
古い柱には「一宮洲崎大明神」と刻字されている。
社号標が作られたのは安政3(1856)年。
明治維新の神仏分離までは「明神」だったわけだ。
真ん中にポッキリと折れた跡が残る。
安政の大地震か、関東大震災か、それとも先の東日本大震災か。
いずれの爪痕かは定かではない。
入り口脇にある解説板によると「洲崎神社」と書いて「すのさきじんじゃ」と読むそうだ。
バス停の名は「洲の崎神社前」だったが、正式名称にひらがなの「の」は入っていない。
創建は神武天皇元年、西暦にすると紀元前660年。
御祭神は天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)。
安房国にはもう一つ「安房神社」という一之宮があり、こちらの御祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)。
その后神が天比理刀咩命なのだ。
参道を進むと正面に大きな神明鳥居、その左右に石灯籠。
鳥居の前に金属製のポールが設置され、そこに注連縄用が張られている。
鳥居が大き過ぎ、貫まで容易に届かないので、あえて注連縄用に誂えたのだろう。
(旅行日:2012年12月17日)
鳥居をくぐって先へ進むと、コンクリート製の堅牢な「随身門」が聳立している。
その左側にあるキャビネットの中に、半紙に記入された御朱印が用意されている。
洲崎神社には神職が常駐していないため、御朱印を賜るには宮司が兼務している富浦の愛宕神社まで足を運ぶ必要がある。
そこで「事前に用意された御朱印でもいい」向き用に、引き出しに空いた小さな穴に初穂料300円を納め、一枚拝受するシステムが用意されている。
そのシステムに従い300円を奉納し、御朱印を賜る。
日付欄の数字の部分だけ空白になっており、キャビネの棚に並ぶ筆ペンで自ら書き入れる仕組み。
ここだけ書体が違うのはご愛嬌か。
随身門を潜ると、次に迎えてくれるのは長い石段。
標高110メートルの御手洗山(みたらしやま)の中腹に鎮座している社殿まで全148段。
とはいえ登るのに必死で数えるどころではなく、館山市教育委員会のサイトに掲載されていた数字を拝借。
やっとのことで石段を登り切ると、そこに広がるこじんまりとした境内。
小学校の体育館ほどの面積はあるだろうか。
その正面中央に古色蒼然とした質素な拝殿が佇む。
拝殿の前で柏手を打ち、頭を垂れる。
そしてスーッと息を吸い、境内に満ち溢れる神意の気を身躯の隅々にまで行き渡らせる。
社殿の背後に広がる森の梢が醸し出す清冽な空気と相俟って、気持ちが落ち着く。
この森は神域であり氏子の信仰対象なので、過去に伐採されることなく保護されてきた。
昭和47(1972)年9月29日には「洲崎神社自然林」として県指定天然記念物に指定され、現在に至っている。
(旅行日:2012年12月17日)
フッと顔を上げると、正面に掲げられていた「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額が目に飛び込んできた。
揮毫は奥州白河藩主にして「寛政の改革」を断行した江戸幕府老中、松平定信の筆によるもの。
文化9(1797)年、房総の沿岸警備を巡視した際に参詣、奉納したという。
拝殿脇から奥へ回りこむと、そこには本殿が鎮座している。
三間社流造で屋根は銅板葺き、千木は外削ぎ、鰹木は5本。
昭和42(1967)年2月21日、館山市指定有形文化財に指定されている。
社伝によると延宝年間(1673~81)に造営された由。
だが、支輪や紅梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多いことから、造営後に大規模な修理が加えられた可能性が高いという。
本殿の右脇には航海安全の神として信仰を集める金比羅神社が、こじんまりと鎮座している。
境内から鳥居の方角を望むと、眼下には一面の大海原。
洲崎神社が海上安全や豊漁の守護神として深く信仰されたのも頷ける。
今から800以上年も昔、この海を超えて源頼朝は安房国にやって来た。
治承4(1180)年8月、伊豆で挙兵した頼朝は相州石橋山の合戦で平家に敗北。
同28日に真名鶴岬(現在の真鶴岬)から小船で脱出した。
翌29日、頼朝は僅かな供回りだけを伴い、下総國初代守護である千葉常胤を頼って安房国へ逃れ、平北郡猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸。
頼朝は雌伏の時を過ごす中、源氏再興と平家打倒を祈願し洲崎神社へ参籠したという。
また、2年後の寿永元(1182)年には北条政子の安産を祈願したこともあり、現在も安産の神様として御神徳を集めているそうだ。
(旅行日:2012年12月17日)
急峻な石段を下りつつ、遥かな海原を見やる。
海からの冷たい潮風が人気のない境内を吹き抜け、木々の梢がザワザワと音を立てる。
年の瀬も押し迫り、あと半月ほどで年が開ける。
世の大半の神社は新年を迎える準備で大わらわ。
だが、そうした慌ただしさが洲崎神社には微塵もない。
何か願い事があり、それを叶えてもらうために足を運ぶのであれば、これほど無愛想な神社はあるまい。
だが、他に参拝客が誰もいない状況下で、神の囁きに耳を傾け、心を通わせようと願うのなら、これほど適した神社もない。
石段を下りて再び海抜レベルに降り立つ。
大鳥居からフラワーラインの方向に目を向けると、海へ向かって細い道が伸びていることに気付いた。
その小道を海へ向かうと、突き当りにもうひとつ鳥居が見えた。
海から舟で参詣する氏子を迎え入れるための浜鳥居のようにも見える。
こちらが一の鳥居で、石段の下に立っていたのが二の鳥居ということになるか。
空気が澄んでいれば鳥居の中から富士山が望めるというが、生憎この日は大気が霞み霊峰の勇姿を拝むことは叶わなかった。
一の鳥居近くの説明板によると、この先に「御神石(ごしんせき)」なる“聖跡”が鎮座している…とある。
長さは2.5メートルで石質は付近の岩石と異なるそうだ。
御神石は竜宮から洲崎大明神に奉納された2つの石のひとつ。
もう1つは対岸の三浦半島に飛んで行き、現在は浦賀の西にある安房口神社に安置されている。
(旅行日:2012年12月17日)
安房口神社の石は先端に丸い窪みがあることから「阿形」。
洲崎神社の石は口を閉じたような裂け目があることから「吽形」。
これら両者で東京湾の入り口を守る狛犬のように祀られているそうだ。
小径を海へ向かって歩いていくと、瑞垣に囲まれた御神石が鎮座していた。
夕陽を浴びて金色に染まった御神石の形状は、どこか男根を想起させる。
ということは、対岸の横須賀安房口神社に鎮座している御神石は女陰の形状をしているということか。
安房口の御神石を目視したわけではないが、洲崎が「吽形」、安房口が「阿形」というのなら、その可能性は十分ある。
一度、確認しに行かねばなるまい。
すっかり西洋キリスト教文明に毒された昨今の日本は、「男根」「女陰」と目にすれば即座に「ポルノグラフィ」を連想させるような、そんな下衆た社会になってしまった。
しかし、陰陽道に支配された往古の日本社会に於いて「陰陽和合」は万物生成の源であり、「男根」「女陰」の形状をした石が御神体として崇められるのはごく自然なことだった。
御神石から海岸線へと向かう。
海は遠浅、海岸線は岩礁で砂浜ではない。
ところどころ海面から岩が頭をのぞかせ、まるで船舶の接岸を拒んでいるかのようだ。
ここ房総半島の先端から、夕日を浴びて金色に輝く東京湾を眺める。
今から800年以上も昔、平家との戦いに敗れた源頼朝もまた、この海を渡って伊豆から逃れてきたのかと思うと、なかなかに歴史ロマンを感じさせてくれる。
(旅行日:2012年12月17日)
海岸線から神社へ引き返そうとした時、左側へ緩やかに下っていく小路を見つけた。
興味をそそられ先に向かって歩いていくと、漁船や釣り船が数多く係留されている小さな漁港に出た。
ここ「洲崎漁港」から更に先へと延びる細い道を進めば、そこには小さな旅館が数軒立ち並んでいる。
釣り客相手に営業しているのだろうか。
そこに「明神荘」という名の旅館を見つけた。
名は無論、洲崎神社に因んだものかと思われる。
玄関から寅さんがひょっこり現れそう…そんな佇まいだ。
両脇を竹藪で覆われた「笹のトンネル」のような小路を抜け、フラワーラインを歩く。
やがて、洲崎神社に隣接している「洲崎観音養老寺」前のバス停にたどり着いた。
洲崎観音養老寺、正式には妙法山観音寺という。
次のバスまで時間があったので境内を散策することにした。
創建は養老元(717)年で、開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)。
神仏分離までは洲崎大明神の社僧を勤めていたという。
また、ここは曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台にもなった。
こちらはこちらで、なかなかに興味深い歴史を刻んでいる。
(旅行日:2012年12月17日)
細い参道を入ると正面に朱塗りの仁王門が聳立している。
境内にある保育園の出入口も兼ねており、ちょうど夕刻とあってか、ひっきりなしに母親たちが我が子を迎えに来ていた。
名称は「子育保育園」。
保育園の名称としてはありきたりのような印象を受けるが、その由来は境内に鎮座する「子育て地蔵」に因んだもの。
地蔵の建立は寛政9(1797)年というから、200年余に亘って地域の子どもたちを見守り続けてきたことになるのか。
夕闇が迫る中、母子が連れ立って家路を急ぐ寺の境内に、得体の知れぬ怪しき男が一人。
我が身を客観的に鑑みれば、こんなところで観音様を拝んでいていいのかとも思うが。
園舎と参道を挟んだ向かい側にはススキが群生しており、それが状況を一層おどろおどろしく演出している。
といっても、これらは「一本ススキ」と呼ばれる由緒正しき代物。
源頼朝が洲崎神社へ参詣した際、昼食で箸の代わりに使ったススキを「我が武運強ければここに根付けよ」と言いつつ地に挿したところ、本当に根付いたという伝承が残っているそうだ。
園舎の前を通り過ぎ、石段を昇ると正面には朱塗りの観音堂。
堂内には本尊で洲崎神社の本地仏でもある十一面観世音菩薩が鎮座している。
(旅行日:2012年12月17日)
境内にある保育園の出入口も兼ねており、ちょうど夕刻とあってか、ひっきりなしに母親たちが我が子を迎えに来ていた。
名称は「子育保育園」。
保育園の名称としてはありきたりのような印象を受けるが、その由来は境内に鎮座する「子育て地蔵」に因んだもの。
地蔵の建立は寛政9(1797)年というから、200年余に亘って地域の子どもたちを見守り続けてきたことになるのか。
夕闇が迫る中、母子が連れ立って家路を急ぐ寺の境内に、得体の知れぬ怪しき男が一人。
我が身を客観的に鑑みれば、こんなところで観音様を拝んでいていいのかとも思うが。
園舎と参道を挟んだ向かい側にはススキが群生しており、それが状況を一層おどろおどろしく演出している。
といっても、これらは「一本ススキ」と呼ばれる由緒正しき代物。
源頼朝が洲崎神社へ参詣した際、昼食で箸の代わりに使ったススキを「我が武運強ければここに根付けよ」と言いつつ地に挿したところ、本当に根付いたという伝承が残っているそうだ。
園舎の前を通り過ぎ、石段を昇ると正面には朱塗りの観音堂。
堂内には本尊で洲崎神社の本地仏でもある十一面観世音菩薩が鎮座している。
(旅行日:2012年12月17日)
観音堂から右手に回ると先出の子育て地蔵があり、その裏手には剥き出しの岩肌に石段が築かれている。
上へ登っていくと、そこには広目の岩窟が穿たれ、奥の真ん中に役行者の石像が祀られていた。
中には灯りもなく、日も傾いた逢魔が時に出くわすシチュエーションとしては、このうえなく刺激的である。
役行者、又の名を役小角。
言うまでもなく修験道の開祖であり、それこそ日本中に“聖蹟”が散りばめられている。
洲崎神社の社伝によると、養老元(717)年に発生した大地変で境内の鐘ヶ池が埋没。
鐘を守っていた大蛇が災いをおこしたとき、祈祷して退治したのが役行者とのこと。
海上歩行や空中歩行などの神通力を有する役行者は、古くから足の守護神として崇められてきた。
このため岩屋には多くの履物が奉納されているのだが、このシチュエーションで見る履物の群れは余りにも異様に過ぎる。
境内には他にも様々な石仏や石碑が立ち並んでおり、洲崎神社よりも興味深い空間ではあった。
とはいえ黄昏時とあって宵闇が次第に濃度を増し、境内の雰囲気は既に黄泉の様相を呈している。
それに保育園の周りを無意味にウロつき不審者と間違われるのも嫌だったので、バスが来るまで多少の間はあったが、そそくさと養老寺を後にした。
(旅行日:2012年12月17日)
16時53分、洲の崎神社前からバスに乗る。
車内には高校生が3人ほど。
みんな途中で降車し、最後は自分一人っきりになってしまった。
すっかり日も落ちたフラワーラインをバスに揺られること10分余。
17時05分、南房パラダイスに到着した。
ここは道の駅なので様々な施設が揃っているのだが、残念ながら16時30分にてクローズ。
灯りが点いているのは公衆トイレぐらいなもの。折角なので用を足した。
南房パラダイス…略して「ナンパラ」。
千葉県最大の動物園にして植物園。…のハズだが、それにしては何もない。
本日、ここを発着するバスも先ほどの便にてオシマイ。
休日の昼間には大勢の観光客で賑わうのだろうか?
結局、自家用車で明るいうちに来ないと何の意味もない施設だということが如実に分かった。
空と海がひとつになり、群青色に包まれた水平線を眺めつつ、ひとつの決断を迫られる。
まだバスの便がある相の浜バス停まで歩くこと。
南房パラダイスから約2キロ弱、徒歩約40分といったところか。
寄せては返す波の音をBGMに、フラワーラインを北に向かって歩き出す。
(旅行日:2012年12月17日)
歩道は整備されているものの、海岸線に近いため海砂でところどころ埋もれている。
すれ違う人もおらず、滅多に車も通らない。
たまに通りかかる車のヘッドライトが唯一の光明といっていい。
館山から乗車したJRバスの終点(のハズ)だった伊戸と、この徒歩行の目的地である相浜。
全長約46キロにも及ぶフラワーラインのうち、伊戸と相浜の間約6キロは「日本の道百選」にも認定されている国内屈指の風光明媚な道路。
道路の海側には砂防用のクロマツ林が広がり、さらにその先には美しい砂浜で有名な平砂浦海岸が続いている。
平砂浦海岸の松林と砂浜が織りなす絶妙の美しさは「白砂青松100選」に選ばれているほど。
とはいえ、それらはすべて昼間、しかも好天時の話。
とっぷり日も暮れ、街灯もなく、車も通らず、もちろん歩行者もいない。
たまに通りかかる車のヘッドライトが唯一の光明といっていいぐらい。
そんな道をひたすら歩き続ける。
空気の澄んだ日には富士山や伊豆諸島が望めるという。
しかし、薄ぼんやりとした視界には左側に大規模な温室群、右側には大海原と防砂林しか目に入らない。
上空に浮かぶ三日月が唯一の“証明”である。
(旅行日:2012年12月17日)
※写真は後日撮影したものです。
そんな道をトボトボ歩いていると突然、目の前に動く影が現れた。
追い剥ぎ? それとも熊?
ハッとして身構えると、それはジョギングしていた単なる小柄なオッサンだった。
無言のうちにすれ違いざま、とある想いがフッと脳裏をよぎる。
まだ時刻は18時前だというのに、こんなに心細い思いをするとは!
ここは東京からほど近い、一応は首都圏。
だが、クルマを持たざる人間にとって、特にシーズンオフの時期は、紛れもなく最果ての地であると。
17時30分過ぎ、ようやく相の浜に到着した。
バス停の位置が分からなかったのでガソリンスタンドで尋ねがてら時計を見ると17時38分…まだ間に合う!
バスを待つ間に周囲を見渡すと、安房神社への案内看板が目に止まった。
ここから至近距離に鎮座している。 だが、今回は立ち寄らず帰ることにした。
本来なら洲崎神社の後、安房神社と玉前神社を参詣の予定だったが、見通しが甘かった。
バス停にはコンクリートブロック製の小屋が設置され、待つ間に雨風を凌げるようになっている。
その小屋から若いのか中年なのか判然としない一人の男性が飛び出してきた。
上下ジャージ姿で背中にリュックサックを背負っている。
明らかにビジネスマンではない。
バスマニアだろうか?
(旅行日:2012年12月17日)
※写真は後日撮影したものです。
17時40分、白浜行きのJRバスがやって来た。
車内には乗客が数名。先のバスマニア氏も乗り込んできた。
薄暗い闇の中を走ること20分ほどでJRバス関東の安房白浜駅に到着。
ここで18時発の館山日東バス千倉行きに即乗り換え。
車内では先のバスマニア氏が運転手と会話を交わしている。
バスマニアでも何でもなく、単なる馴染み客だったのか。
塩浦バス停で先の馴染み氏が降車すると、車内に乗客は自分一人になった。
車窓が次第に繁華な町並みで彩られていくうち18時25分、JR千倉駅に到着した。
思えば錦糸町駅を出立してから何も食べていない。
しかし、駅前にはこれといった飲食店が見当たらない。
商業施設はロードサイドに集中し、駅近辺はモヌケのカラというのが地方共通の光景。
それでも駅前から延びる通りを入ってすぐのところに一軒の食堂を見かけた。
名を「菊川食堂」という。
中に入ると店内に「牛もつ煮込み定食はじめました」の貼り紙があったので注文してみる。
メインの牛もつ煮、小鉢の蓮根のきんぴら、それに蜆の味噌汁とご飯。
牛もつをつつきながら、ひとしきり考える。
千倉から東京へ戻るには内房と外房、いずれかを選択する必要がある。
時間的にもさほど差はない。
ならばここは当初の予定を尊重し、外房を経由して帰京することに決めた。
(旅行日:2012年12月17日)
※写真は後日撮影したものです。
19時04分、安房鴨川行き普通列車に乗車。
いい加減この時間の車内はガラガラ。
人口が少ないのではなく、みんな自家用車で移動しているからだろう。
19時32分、安房鴨川着。
同36分発の特急わかしお30号に乗車。
といっても勝浦までは普通列車として運行されるため、特急券なしで特急用車両で寛げる。
内房線に特急はほとんど走っていないので、外房線を選択して正解だった。
これも洲崎神社の御利益だろうか?
20時05分、勝浦着。
特急わかしお30号を後にして同11分発の普通列車に乗り換える。
特急料金を払ってまで先を急ぐアテもない。
20時54分、上総一ノ宮に到着。
駅名が示す如く、程近くに上総國一之宮の玉前神社が鎮座している。
今回は惜しくも参拝は叶わなかったが、またいずれ訪れる時のための予行演習だと思えばいい。
いずれまた改めて訪れることにしよう…ホームの駅名標を眺めながら、決意を新たにした。
21時04分、茂原着。
ここで同07分発の横須賀線久里浜行き快速に乗り換える。
先の普通列車はここで6分間停車し、快速が発車した後の同10分に出発する。
特急は別料金が必要だが、快速は不要なので乗り換える。
なかなかバラエティに富んだ鉄道旅行だ。
22時17分、錦糸町に到着。
既に出発から約11時間が過ぎている。
しかし、とても11時間とは思えないほど様々な出来事が凝縮された半日間だった。
(安房國一之宮「洲崎神社」おわり)
[旅行日:2012年12月17日]
通勤する人、上京した人、これから旅立つ人…往く人来る人でごった返す朝の東京駅。
八重洲口の高速バスターミナルから鹿島神宮駅行き高速バス「かしま号」に乗り込む。
今日は到着地そのままに鹿島神宮、そこから程近い香取神宮を巡礼する予定だ。
09時00分発のJRバスに乗車するつもりで来たのだが、既に車内は鹿島臨海工業地帯へ向かうビジネスマンで座席の半分以上が埋まっている。
こんな人だらけのバスは嫌なので、1本遅らせることにした。
そのおかげで行列の前方4番目ぐらいに並ぶことができ、乗車したら助手席サイドの先頭、しかも窓側の席に運良く座れた。
9時ちょうどのバスに比べると、それほど混雑していない。
乗客はスーツ姿のビジネスマンが大半…というか、スーツ姿でない乗客はどうやら自分一人だけの様子。
そこへ、大きな荷物を2つも抱えたスーツ姿の初老の親爺が隣席にやって来た。
しかも荷物を頭上の網棚に載せるでもなく、そのうえ足元に置いたアタッシュケースをこちらへグイグイ押し付けてくる。
[旅行日:2012年12月18日]
「なんだこのジジイ?」
そう小声で呟いたら、後方の席へ移動していった。
別に“追っ払おう”という気持ちから出た言葉ではない。
どんな荷物を持ち込もうと知ったことではないが、せめて網棚に載せるぐらいの気配りは見せなさいよ! という“心の叫び”が本当に口を突いただけ。
その後、別のビジネスマンがやって来て隣席に座った。
今度の乗客は荷物をキチンと網棚に乗せ、足元グイグイはない。
これが正しいバスの乗り方(のハズ)である。
09時20分、京成バス「かしま号」は東京駅を出発した。
かつてJRは東京駅と鹿島神宮駅の間に特急列車を運行していたが、現在ではすっかり「かしま号」に取って替わられた格好。
ピーク時には10分に1本の割合で発着する高速バスの利便性に、とても鉄道は太刀打ちできない。
それもそのはず1日80往復を超えるかしま号は、今や東京駅発の高速バスの中で最多便数を誇るドル箱路線なのだ。
[旅行日:2012年12月18日]
かしま号は宝町ランプから首都高都心環状線に入り、6号向島線を経由して7号小松川線へ。
隅田川から両国の辺りで分かれ、真東に流れる竪川。
その上にフタをするように延びる7号小松川線。
両国、錦糸町、亀戸…見覚えのある街角の風景が車窓に広がる。
荒川に差し掛かると、左手には楽器のハープにも似た姿が美しい「かつしかハープ橋」が遠くに望める。
首都高は一之江ランプから「京葉道路」に名を変え、かしま号は江戸川を渡って千葉県に入った。
空は所々に雲が浮かぶぐらいで、スッキリと青く晴れ渡っている。
それにしても高速バスというのは自家用車と違って有難い存在だ。
車内で居眠りしようが酒を飲もうが、何の差支えもない。
ただ、本当に飲酒すると車酔いとの“ダブル酔い”に陥る怖れがあるので、まず飲むことはないけど。
この車内に流れるマッタリとした時間を利用して、これから詣でる鹿島神宮について少し予習をした。
[旅行日:2012年12月18日]
鹿島神宮が創建されたのは神武天皇元年…つまり皇紀元年。
西暦で言えば紀元前660年のこと。
鎮座地は常陸国…つまり陸と海の境界から常に陸の側にある国という意味。
もともと鹿島神宮は、このあたり一帯で陸と海との境界線を司る有力な土着神だった。
一の鳥居が神領の近辺ではなく、西へ2キロほど離れた北浦の畔にある点が象徴的。
そこに東征を図るヤマト王権が結びつき、鹿島神宮は国家的な武神になったという。
バスは宮野木ジャンクションから、今度は「東関東自動車道」へ。
佐倉、成田、佐原と、高速道路は東関東というより上総国を貫通して常陸国へと延びる。
ここ上総国~常陸国の“常総地方”は藤原氏の祖、中臣鎌足の出生地だと言われている。
後に藤原氏がヤマト王権の中枢で権勢を振るうようになったことで、鹿島神とヤマト王権が結着する。
かしま号は利根川を超えて茨城県に入り、潮来インターチェンジを降りて10時43分、水郷潮来バス亭に到着した。
[旅行日:2012年12月18日]
ここから一般道を神栖市の中心部にハンドルを切り、鹿島セントラルホテルへ。
国道124号線を経由して鹿嶋市内に入り、地域経済の中核である新日鉄住金鹿島製鉄所に到着。
フェンスの向こう側には巨大な工場群が立ち並んでいるはずだが、内側に植えられた林木で遮られ様子を伺うことは叶わない。
かしま号は隣の鹿島宇宙技術センターを経て11時16分、鹿島神宮駅のひとつ手前、鹿島神宮バス停に到着した。
ここまで東京駅から運賃は1780円。
この金額は高いのか? 安いのか?
先に洲崎神社へ参詣した折、館山駅から千倉駅まで乗ったJRバスと館山日東バスの運賃合計額は1750円だった。
確かにコストパフォーマンスで見れば、かしま号のほうが圧倒的に安い。
ただ、乗客らしい乗客のいない路線バスと、高速バス界のドル箱路線とでは比較にはなるまい。
JRバス関東はかしま号で稼いだ黒字で、南房総の先端を結ぶ路線バスの赤字を補填しているのだろう。
鹿島神宮バス停は国道50号線沿いにあり、参道の入り口から少し離れているため少しばかり歩く。
[旅行日:2012年12月18日]
停留所でバスから降りると目の前に広がる鄙びた風景にタイムスリップしたような錯覚を憶えた。
潮来で高速道路を下りてからこのかた、高層ホテルや超大型店舗などロードサイドならではの風景を見てきた。
その目の前に突然現れた古ぼけた商店や飲食店が立ち並ぶ街角は、まさに過去への時間旅行そのもの。
もともと神宮の門前町として栄えてきた町域が旧市街で、ここまでバスで通り過ぎてきたロードサイドが新市街。
モータライゼーション全盛の昨今、鉄道駅を中心とした旧市街は寂れ、自動車での移動を前提とした新市街へ繁華は移行…こうした傾向は全国共通だ。
空き店舗や空き地が居並ぶ門前の町域を歩く。
営業しているのも個人商店ばかりで、巨大な建造物が林立していたロードサイドとは規模の点で比べるべくもない。
だが、人には人の丈に見合ったサイズがある。
こうして歩きながら見て回るには最適な規模。
こうした昔ながらの商店街には、目的が“消費”しかないショッピングモールとは違う、もっと人間性に根差した“何か”を感じる。
それは商店街が長年ここで培ってきた「人対人」の商いに対する想いが、一種の“念”に姿を変えて漂っているからかも知れない。
[旅行日:2012年12月18日]
スナックの色褪せた看板の下をすり抜け、細い裏路地から出ると、不意に社号標が目の前に現れた。
そこが鹿島神宮の表参道入り口だった。
しかし、どこか違和感がある。
何かが違う。
正面から入り口の全景を隈なく見ていたら、ハタと気がついた。
大鳥居が見当たらないのだ。
ちなみにこの大鳥居は二の鳥居で、一の鳥居は先述の通り西へ2キロほど離れた北浦湖畔にある。
その大鳥居、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災で倒壊してしまった。
石造りの鳥居としては日本最大を誇っていたが、その大きさが逆に仇となった格好。
もしこれが木造の鳥居だったら、倒壊は免れたろうか?
誰もが同じことを考えるようで、本来の姿である木製鹿島鳥居型の大鳥居を境内のご神木を用いて再建し、2014年に完成予定という。
[旅行日:2012年12月18日]
本来あるはずの“エアー鳥居”をくぐり境内へ。
参道の両脇に立っている石灯籠約60基もまた大鳥居と同様、地震で倒壊。
無論、現在では元の姿に修復されている。
参道の正面には朱塗りの楼門が壮麗な姿で聳立している。
寛永11(1634)年に水戸藩初代藩主徳川頼房(よりふさ)が奉納したもので、現在は国の重要文化財に指定されている。
ちなみに頼房は「水戸黄門」こと徳川光圀の父親だ。
この楼門、筥崎宮(筑前国一宮)、阿蘇神社(肥後国一宮)とともに「日本三大楼門」に数えられている。
東郷平八郎元帥の揮毫による扁額の下を通り抜けると、右手に社殿が姿を現す。
現在の社殿は元和5(1615)年に徳川二代将軍秀忠が奉納されたもの。
本殿、拝殿、石間(いしのま)、幣殿の四棟で構成された権現造り。
これら社殿四棟もまた楼門と同様、国の重要文化財に指定されている。
拝殿の後ろにある本殿は補修工事中で、残念ながらその姿を拝むことは叶わなかった。
[旅行日:2012年12月18日]
鹿島神宮の御祭神は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。
伊邪那岐命(イザナギノミコト)が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)の首を切り落とした際、ほとばしる血から生まれた剣の神とされている。
国譲り戦略で大国主命(オオクニヌシノミコト)相手に失敗が続いていた天照大神(アマテラスオオミカミ)は、最後の切り札として“武神”武甕槌命を出雲に派遣。
出雲の伊那佐浜にやって来た武甕槌命は、長さが十握(とつかみ)もある「十掬剣(とつかつるぎ)」をスラリと引き抜くや、波涛の中に柄の部分をズボリと突き差し、天を向いた刃の切先の上に胡座(あぐら)をかいて座った。
そして大国主命に対し地上統治権の譲渡を上から目線で迫った挙句、それを承諾させたという。
楼門から社殿へは、参道を東に向かって歩いてきた。その自分から社殿が右手に見えるということは、本殿の正面が北を向いていることになる。
鹿島神宮は大和朝廷が北方(蝦夷)からの脅威に対する防衛拠点として築いたものであり、そのため本殿は北を向いているのだと伝えられている。
神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)-後に諡(おくりな)され神武天皇-が日向国高千穂から東国へ進軍した“神武東征”神話。
神武天皇は進軍の途上、紀伊国熊野で禍々しい霊力を持った悪神の権化である巨大な熊の毒気に当てられ正気を失ってしまった。
毒気で部下たちも次々と昏睡状態に陥り、東征軍は壊滅の大ピンチ!
そこへ地元熊野の高倉下(タカクラジ)なる者が、一振の剣を手に神武天皇の寝所へと現れた。
聞けば夢の中で、天照大神が神武天皇の窮地を救うために武甕槌命を派遣しようとしたところ、武甕槌命は大国主命を平伏させた剣を自らの代わりに降下させた…そんなやりとりを見たと言う。
高倉下が持参した霊剣の功徳によって神武天皇は「あーあ、よく寝た」と呟きながら正気を取り戻し、昏睡状態だった部下たちも続々と目を覚ました。
その神剣の名は「布都御魂剣」、別名「韴霊剣」。どちらも「ふつのみたまのつるぎ」と読む。
しかも剣を振るうまでもなく熊野の悪神は成敗され、神武東征軍は壊滅の危機を逃れることができた。
これに感謝した神武天皇は即位の年、常陸国に勅使を派遣して武甕槌命を祀ったのが鹿島神宮の始まりとも言われている。
[旅行日:2012年12月18日]
社殿と参道を挟んだ反対側には社務所と宝物館。
その宝物殿が所蔵する国宝に「直刀-金銅漆塗平文拵附刀唐櫃」がある。
出土品ではなく伝世品で、かつては御神体のひとつとして本殿内に祀られていたもの。
鍛刀(たんとう)されたのは今から約1300年前と推定されている。
現存する直刀の中では日本最大最古で、柄(つか)と鞘(さや)を含めた全長は2.71メートル、刃長は2.24メートルにも及ぶ。
この直刀は常陸国風土記には、慶雲元(704)年に常陸国の国司らが鹿島神宮の神山の砂鉄で鍛刀したと記されている。
また、直刀の名は神剣「布都御魂剣」「?霊剣」と伝わっていると「参拝のしおり」にある。
ただ、常陸国風土記が編纂されたのは奈良時代、国宝の長刀が鍛刀されたのは平安時代なので、両者は同一のものではない。
しかも「布都御魂剣」そのものは大和国石上神宮に祀られていると古事記にもある。
この直刀は石上神宮に伝わる「十掬剣」を模して鍛刀された、今で言う“レプリカ”なのかも知れない。
参詣を済ませて奥参道へ歩を進め、しばらくすると左手に鹿園が現れた。
「鹿島神宮」である以上、神の使いである鹿の存在は欠かせないところ。
では、なぜ鹿が神の使いなのか?
先述した天照大神の国譲り作戦で、武甕槌命に出雲派遣の打診を伝えたのが“鹿の神様”天迦久神(あめのかくのかみ)だった。
入り口の説明板によると三十数頭の鹿がいるはずだが、金網の中でマッタリまどろんでいるのは数頭だけ。
ふと目線を先に送ると、木の柵越しにエサをあげている参拝客の姿が。
鹿園にある売店でエサを購入した参拝客だけが、園内の鹿と直に触れ合えるそうな。
そこまでして触れ合いたいとも思わない自分は、金網の外から鹿たちと見つめ合えれば、それで十分。
奈良の春日大社なら金網越しなんかじゃなく、鹿の方から鹿せんべいを求めて擦り寄って来るのに。
その春日大社、鹿島神宮との間に深い関わりがある。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
その宝物殿が所蔵する国宝に「直刀-金銅漆塗平文拵附刀唐櫃」がある。
出土品ではなく伝世品で、かつては御神体のひとつとして本殿内に祀られていたもの。
鍛刀(たんとう)されたのは今から約1300年前と推定されている。
現存する直刀の中では日本最大最古で、柄(つか)と鞘(さや)を含めた全長は2.71メートル、刃長は2.24メートルにも及ぶ。
この直刀は常陸国風土記には、慶雲元(704)年に常陸国の国司らが鹿島神宮の神山の砂鉄で鍛刀したと記されている。
また、直刀の名は神剣「布都御魂剣」「?霊剣」と伝わっていると「参拝のしおり」にある。
ただ、常陸国風土記が編纂されたのは奈良時代、国宝の長刀が鍛刀されたのは平安時代なので、両者は同一のものではない。
しかも「布都御魂剣」そのものは大和国石上神宮に祀られていると古事記にもある。
この直刀は石上神宮に伝わる「十掬剣」を模して鍛刀された、今で言う“レプリカ”なのかも知れない。
参詣を済ませて奥参道へ歩を進め、しばらくすると左手に鹿園が現れた。
「鹿島神宮」である以上、神の使いである鹿の存在は欠かせないところ。
では、なぜ鹿が神の使いなのか?
先述した天照大神の国譲り作戦で、武甕槌命に出雲派遣の打診を伝えたのが“鹿の神様”天迦久神(あめのかくのかみ)だった。
入り口の説明板によると三十数頭の鹿がいるはずだが、金網の中でマッタリまどろんでいるのは数頭だけ。
ふと目線を先に送ると、木の柵越しにエサをあげている参拝客の姿が。
鹿園にある売店でエサを購入した参拝客だけが、園内の鹿と直に触れ合えるそうな。
そこまでして触れ合いたいとも思わない自分は、金網の外から鹿たちと見つめ合えれば、それで十分。
奈良の春日大社なら金網越しなんかじゃなく、鹿の方から鹿せんべいを求めて擦り寄って来るのに。
その春日大社、鹿島神宮との間に深い関わりがある。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
高速バス「かしま号」の中で「藤原氏がヤマト王権の中枢で権勢を振るうようになったことで鹿島神とヤマト王権が結着」したと学んだ。
奈良に平城京が造営された折、その藤原(中臣)氏が鹿島神宮から武甕槌命を勧請して創建したのが春日大社の始まり。
鹿が春日大社の象徴的存在なのもうなずける話だ。
そんな“神の使い”たちに見送られながら、参道を更に奥へと進む。
道の両側は高い木立が連なり、森の木々が齎すフレッシュな酸素を冬の寒気が包み込み、凛とした空気が周囲を包み込む。
奥参道の突き当たりに売店が見える。
しかし看板建築が景観的にミスマッチで残念。
できれば屋根を茅葺きか藁葺きにして欲しいところだが、それは贅沢というものか。
そこから道が左右に分かれ、左手は下りの石段。
右側には古寂びた社殿が佇んでいる。
こちらも国の重要文化財「奥宮(おくのみや)」。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した御礼として慶長10(1605)年に奉納したものだ。
当初は本殿として奉納されたが、現在の社殿が造営された元和5(1615)年に現在の場所へ引き移されたもの。
奥宮は安土桃山風の小ぶりな建物だ。江戸幕府の開府直後だけに、財政面からも社殿の小ささは止むを得なかったところ。
ひょっとしたら家康は仮普請のつもりで寄進し、秀忠に後で建て替えるよう申し送っていたのかも知れない。
奥宮から先へ延びる細い参道を進む。
聞こえるのは梢が擦れ合う音と鳥のさえずりぐらい。
まさに静謐の深淵だ。
途中、大鯰の碑を経て要石(かなめいし)に至った。
わずかに頭頂部だけが露出している霊石で、鹿島神が降臨した御座と伝わっている。
また、地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえている鎮石とも言われており、そのおかげで鹿島地方には大きな地震がないと言い伝えられてきた。
東日本大震災では大鳥居など石造りの構造物が被害を受けたが、国宝や重要文化財などは概ね無傷。
本殿も屋根の千木が外れる程度で、上屋そのものは大きな被害を免れている。
これらもまた、要石の御神徳なのだろうか?
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
奈良に平城京が造営された折、その藤原(中臣)氏が鹿島神宮から武甕槌命を勧請して創建したのが春日大社の始まり。
鹿が春日大社の象徴的存在なのもうなずける話だ。
そんな“神の使い”たちに見送られながら、参道を更に奥へと進む。
道の両側は高い木立が連なり、森の木々が齎すフレッシュな酸素を冬の寒気が包み込み、凛とした空気が周囲を包み込む。
奥参道の突き当たりに売店が見える。
しかし看板建築が景観的にミスマッチで残念。
できれば屋根を茅葺きか藁葺きにして欲しいところだが、それは贅沢というものか。
そこから道が左右に分かれ、左手は下りの石段。
右側には古寂びた社殿が佇んでいる。
こちらも国の重要文化財「奥宮(おくのみや)」。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した御礼として慶長10(1605)年に奉納したものだ。
当初は本殿として奉納されたが、現在の社殿が造営された元和5(1615)年に現在の場所へ引き移されたもの。
奥宮は安土桃山風の小ぶりな建物だ。江戸幕府の開府直後だけに、財政面からも社殿の小ささは止むを得なかったところ。
ひょっとしたら家康は仮普請のつもりで寄進し、秀忠に後で建て替えるよう申し送っていたのかも知れない。
奥宮から先へ延びる細い参道を進む。
聞こえるのは梢が擦れ合う音と鳥のさえずりぐらい。
まさに静謐の深淵だ。
途中、大鯰の碑を経て要石(かなめいし)に至った。
わずかに頭頂部だけが露出している霊石で、鹿島神が降臨した御座と伝わっている。
また、地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえている鎮石とも言われており、そのおかげで鹿島地方には大きな地震がないと言い伝えられてきた。
東日本大震災では大鳥居など石造りの構造物が被害を受けたが、国宝や重要文化財などは概ね無傷。
本殿も屋根の千木が外れる程度で、上屋そのものは大きな被害を免れている。
これらもまた、要石の御神徳なのだろうか?
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
要石は見かけこそ小さいものの実際は地中深くまで続いている巨岩で、地上の部分は氷山の一角。
その昔、水戸の黄門様が要石の大きさを確かめるため、七日七晩この石の周りを掘るよう命じたそうな。
ところが翌朝には掘った穴が元に戻ってしまい、確かめることできなかった。
しかもケガ人が続出したため、結局は掘ることを諦めた…という逸話が残っている。
要石から再び奥宮へ引き返し、社殿の前を通り抜け、茶屋の前から下りの石段を降る。
両側を木々で囲まれたウネウネと続く薄暗い細道を進んでいくと、パッと視界が開けた。
そこにあったのは御手洗池(みたらしのいけ)。
古来より神職や参拝者が潔斎するための池である。
大昔、鹿島神宮の参道は御手洗池が起点で、ここで身を清めてから参拝していたのが「御手洗」の由来。
神代の昔、鹿島神が天曲弓(アメノマガユミ)で穿ったとも、宮造りの折に一夜にして湧出したとも伝わっている。
端に近づき、池の中をのぞき込む。
エメラルドグリーンの池水は見るからに清廉。
今でもお茶を立てるときの水に使いたいと汲みに来る人が絶えないのも頷ける。
池の周囲をグルリと歩いてみる。
中央には鳥居が聳立し、その両脇から玉垣が伸びて池を横に二分している。
池そのものは人工的に造られたもので、そこへ湧水口から湧き出る霊泉を導いている。
森から枝と呼ぶには大きすぎる巨木が池の真上まで伸び、支える添え木の下に隠れるように湧水口がある。
その巨木に頭をぶつけないよう、湧水口に近づいてみる。
鹿島の古老によると神代より枯れたことがなく、旱魃(かんばつ)にも干上がることがなかった。
湧出量は1日400キロリットルを超え、今なおコンコンと湧き続けている。
池の周囲をグルリと回って、再び鳥居を正面に臨む位置に戻ってきた。
それほど水深があるようにも見えないが、実は誰が入っても同じ深さ。
つまり、大人が入っても子供が入っても水面は乳の高さを超えることがないそう。
池の深さが変わらない謎は「鹿島の七不思議」のひとつにも数えられている。
でも、これなら黄門様の要石掘り出しと違って、誰でも簡単に確認できそうだ。(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
その昔、水戸の黄門様が要石の大きさを確かめるため、七日七晩この石の周りを掘るよう命じたそうな。
ところが翌朝には掘った穴が元に戻ってしまい、確かめることできなかった。
しかもケガ人が続出したため、結局は掘ることを諦めた…という逸話が残っている。
要石から再び奥宮へ引き返し、社殿の前を通り抜け、茶屋の前から下りの石段を降る。
両側を木々で囲まれたウネウネと続く薄暗い細道を進んでいくと、パッと視界が開けた。
そこにあったのは御手洗池(みたらしのいけ)。
古来より神職や参拝者が潔斎するための池である。
大昔、鹿島神宮の参道は御手洗池が起点で、ここで身を清めてから参拝していたのが「御手洗」の由来。
神代の昔、鹿島神が天曲弓(アメノマガユミ)で穿ったとも、宮造りの折に一夜にして湧出したとも伝わっている。
端に近づき、池の中をのぞき込む。
エメラルドグリーンの池水は見るからに清廉。
今でもお茶を立てるときの水に使いたいと汲みに来る人が絶えないのも頷ける。
池の周囲をグルリと歩いてみる。
中央には鳥居が聳立し、その両脇から玉垣が伸びて池を横に二分している。
池そのものは人工的に造られたもので、そこへ湧水口から湧き出る霊泉を導いている。
森から枝と呼ぶには大きすぎる巨木が池の真上まで伸び、支える添え木の下に隠れるように湧水口がある。
その巨木に頭をぶつけないよう、湧水口に近づいてみる。
鹿島の古老によると神代より枯れたことがなく、旱魃(かんばつ)にも干上がることがなかった。
湧出量は1日400キロリットルを超え、今なおコンコンと湧き続けている。
池の周囲をグルリと回って、再び鳥居を正面に臨む位置に戻ってきた。
それほど水深があるようにも見えないが、実は誰が入っても同じ深さ。
つまり、大人が入っても子供が入っても水面は乳の高さを超えることがないそう。
池の深さが変わらない謎は「鹿島の七不思議」のひとつにも数えられている。
でも、これなら黄門様の要石掘り出しと違って、誰でも簡単に確認できそうだ。(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
神職はともかく、今では御手洗池で潔斎を済ませてから参詣する参拝者など皆無のはず。
そんな中、毎年1月に御手洗池で行われる大寒禊では、大勢の参加者が中に入って心身を清めているそうだ。
真冬の冷水に体を浸さないと「鹿島の七不思議」を確かめられないのなら、謎は謎のままにしておいたほうがいいのかも知れない。
御手洗池を北に向かうと先に公園が広がる。
名称は「みたらし公園」と、さすがにひらがな。
池から流れ出るせせらぎに沿って公園へ向かうと、反対側にも細い道が通っているのに気付いた。
「なんだろう?」
そう思って反対側に回り奥へ進むと、小さな祠があった。
頂戴した案内図で確認すると、そこはなんと「大黒社」。
武甕槌命の恫喝(?)に屈して国を譲った大国主命が、こんな目立たない片隅にヒッソリと祀られている。
この祠、いつからあるのだろう?
そして何のためにあるのだろう?
御手洗池側が表参道たった時代から存在していたのなら、武甕槌命をお参りに来た参拝客を大黒様が出迎え、そして見送ってきたことになる。
自分が従わせた神様に“グリーター”をさせるとは、なかなかに神世も辛辣だ。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
そんな中、毎年1月に御手洗池で行われる大寒禊では、大勢の参加者が中に入って心身を清めているそうだ。
真冬の冷水に体を浸さないと「鹿島の七不思議」を確かめられないのなら、謎は謎のままにしておいたほうがいいのかも知れない。
御手洗池を北に向かうと先に公園が広がる。
名称は「みたらし公園」と、さすがにひらがな。
池から流れ出るせせらぎに沿って公園へ向かうと、反対側にも細い道が通っているのに気付いた。
「なんだろう?」
そう思って反対側に回り奥へ進むと、小さな祠があった。
頂戴した案内図で確認すると、そこはなんと「大黒社」。
武甕槌命の恫喝(?)に屈して国を譲った大国主命が、こんな目立たない片隅にヒッソリと祀られている。
この祠、いつからあるのだろう?
そして何のためにあるのだろう?
御手洗池側が表参道たった時代から存在していたのなら、武甕槌命をお参りに来た参拝客を大黒様が出迎え、そして見送ってきたことになる。
自分が従わせた神様に“グリーター”をさせるとは、なかなかに神世も辛辣だ。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
園内を通り抜けて出入口へ。
案内図には記載されていないが、さしずめ“裏参道”に当たるのだろう。
入り口の両側に周囲を注連縄で囲われた立砂の円錐があるのを見かけた。
表参道大鳥居の跡にあったのと同じ形状をしている。
やはり大震災で石造りの鳥居が倒壊したため、その跡に盛られたものだ。
神道的な感覚からすれば、表裏両参道の入り口に立つ双方の鳥居が身を挺して地震から社殿を守ったかのように見える。
一方、物理学的な観点からすれば巨大な振動に木造建築物は強く、石造のそれは脆弱に過ぎなかっただけかもしれない。
しかし、神宮周辺でも倒壊した木造建築物は多々あった。
伝統の技巧を持った宮大工が腕によりをかけて作り上げた社殿群だからこそ、被害は軽微だったのではないか?
鳥居は大きいが故に尊からず。
適宜な規模の鳥居を木造で、地震に耐え得る“伝統の技巧”を用いて立てればよいのだ。
実際その方向で大鳥居が再建される方向にあるようで何より。
要石のご神徳による地震除けが鹿島神宮のご利益。
次は地震でも絶対!絶対に倒壊しない大鳥居を建立して欲しいと思う。
ここから帰路には就かず、来た道を表参道まで引き返す。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
案内図には記載されていないが、さしずめ“裏参道”に当たるのだろう。
入り口の両側に周囲を注連縄で囲われた立砂の円錐があるのを見かけた。
表参道大鳥居の跡にあったのと同じ形状をしている。
やはり大震災で石造りの鳥居が倒壊したため、その跡に盛られたものだ。
神道的な感覚からすれば、表裏両参道の入り口に立つ双方の鳥居が身を挺して地震から社殿を守ったかのように見える。
一方、物理学的な観点からすれば巨大な振動に木造建築物は強く、石造のそれは脆弱に過ぎなかっただけかもしれない。
しかし、神宮周辺でも倒壊した木造建築物は多々あった。
伝統の技巧を持った宮大工が腕によりをかけて作り上げた社殿群だからこそ、被害は軽微だったのではないか?
鳥居は大きいが故に尊からず。
適宜な規模の鳥居を木造で、地震に耐え得る“伝統の技巧”を用いて立てればよいのだ。
実際その方向で大鳥居が再建される方向にあるようで何より。
要石のご神徳による地震除けが鹿島神宮のご利益。
次は地震でも絶対!絶対に倒壊しない大鳥居を建立して欲しいと思う。
ここから帰路には就かず、来た道を表参道まで引き返す。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
御手洗池の前には藤棚があり、その向こう側に茶店が2軒。
うち一軒はシャッターを下ろし、営業しているのは「一休(ひとやすみ)」のみ。
ちょうど昼食時だったので店前を覗く。
名物は「元祖みたらし焼きだんご」に「手打ち蕎麦」、「湧水コーヒー」と水郷潮来の地酒。
鹿島神宮はみたらし団子発祥の地であり、その名称は御手洗池に由来する…とある。
ただ、世間では山城国一之宮「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の御手洗川に由来するという説が一般的。
大昔の関東地方で「みたらし団子」は、遠くの下鴨神社由縁ではなく、鹿島神宮発祥として広まっていったのかも知れない。
また、手打ちの「湧水そば」は茨城県産の蕎麦粉を湧水で打った二八蕎麦…とある。
地酒の猪口を傾けながら湧水そばをたぐり、締めにみたらし焼きだんご…これぞ旅の醍醐味!
とは思ったが、これはグルメツアーではなく諸国一之宮を参詣する巡礼の旅。
ここで美食の誘惑に負けるわけにはいかない! と、「一休」に入ることなく御手洗池を後にした。
逆回転の映像を見るかのように楼門のところまで戻り、境内を出たところで思わず空腹を覚えた。
鹿島到着から3時間ほど。そろそろ昼食でも…と思えども。
午後2時過ぎということもあって開いてる店がなかなか見当たらない。
さっきの「一休」で「湧水そば」を食べておけばよかった…と早速、後悔する。
門前から延びる大町商店街を行き来しつつ店を探しているうち、ふと一軒の蕎麦屋の前で足が止まった。
何気なくショーウィンドウを眺めていると、いきなり扉が開き、「いらっしゃいませ~!」の声とともに中へと引きずり込まれてしまった。
蕎麦屋の名は「よしのや」。
店前に「創業室町時代」という看板が掲げてある。
店内に入ると、よく街角で見かけるごく普通のお蕎麦屋さん。
天ざるを注文し、お茶を啜って一息ついたところで店内を見渡す。
平日の昼下がりということもあって、他に客はいない。
こうした状況下でショーウインドーを覗きこんでいる人間なんて、鴨以外の何者でもないな…と思う
どうせなら鴨南蛮でも頼めばよかったかも。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
うち一軒はシャッターを下ろし、営業しているのは「一休(ひとやすみ)」のみ。
ちょうど昼食時だったので店前を覗く。
名物は「元祖みたらし焼きだんご」に「手打ち蕎麦」、「湧水コーヒー」と水郷潮来の地酒。
鹿島神宮はみたらし団子発祥の地であり、その名称は御手洗池に由来する…とある。
ただ、世間では山城国一之宮「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の御手洗川に由来するという説が一般的。
大昔の関東地方で「みたらし団子」は、遠くの下鴨神社由縁ではなく、鹿島神宮発祥として広まっていったのかも知れない。
また、手打ちの「湧水そば」は茨城県産の蕎麦粉を湧水で打った二八蕎麦…とある。
地酒の猪口を傾けながら湧水そばをたぐり、締めにみたらし焼きだんご…これぞ旅の醍醐味!
とは思ったが、これはグルメツアーではなく諸国一之宮を参詣する巡礼の旅。
ここで美食の誘惑に負けるわけにはいかない! と、「一休」に入ることなく御手洗池を後にした。
逆回転の映像を見るかのように楼門のところまで戻り、境内を出たところで思わず空腹を覚えた。
鹿島到着から3時間ほど。そろそろ昼食でも…と思えども。
午後2時過ぎということもあって開いてる店がなかなか見当たらない。
さっきの「一休」で「湧水そば」を食べておけばよかった…と早速、後悔する。
門前から延びる大町商店街を行き来しつつ店を探しているうち、ふと一軒の蕎麦屋の前で足が止まった。
何気なくショーウィンドウを眺めていると、いきなり扉が開き、「いらっしゃいませ~!」の声とともに中へと引きずり込まれてしまった。
蕎麦屋の名は「よしのや」。
店前に「創業室町時代」という看板が掲げてある。
店内に入ると、よく街角で見かけるごく普通のお蕎麦屋さん。
天ざるを注文し、お茶を啜って一息ついたところで店内を見渡す。
平日の昼下がりということもあって、他に客はいない。
こうした状況下でショーウインドーを覗きこんでいる人間なんて、鴨以外の何者でもないな…と思う
どうせなら鴨南蛮でも頼めばよかったかも。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
壁の目立つところに大きな一枚板を切り抜いて描いた「流鏑馬(やぶさめ)」の板絵が掲げてある。
毎年5月1日に行われる神事で、説明書には約150年前に拝領したとある。
別の説明書きには、江戸時代までは「宿長」という名の旅籠だったそうで、蕎麦屋に転じたのは明治以降のこと。
往時には鹿島神宮に参拝する講中(参拝者の団体)の本陣として大いに賑わったそう。
件の板絵も旅籠時代に鹿島神宮から下賜されたものなのだろうか。
そんなことをボンヤリ考えているうち、天ざるが来た。
とびきり美味いわけではないが、手打ちの九割蕎麦と謳ってるだけあって、さほど不味くもない
そんな中庸な味わいの蕎麦をズルズルすすりながら顔を上げると、今度は幕末の「天狗党事件」縁の店と手書きされた由緒書きが目に入った。
天狗党とは幕末の水戸藩で藩主徳川“烈公”斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷の急進派のこと。
天狗党は元治元(1864)年、幕府に攘夷の実行を促すため筑波山で挙兵。
しかし藩内保守派との内戦に破れ、京都にいた一橋慶喜を頼り上洛。
その途中、諸藩の討伐軍に敗れ、越前で加賀藩に降伏。
諸幹部をはじめ党員の大半が処刑され、残りは遠島・追放などの処分を受け、天狗党は消滅した。
もう少し蜂起が遅ければ薩長の維新勢とタイミングが合い、新政府への参画もあり得たのだろうか?
そうなれば天狗党が一橋慶喜と薩長の橋渡し役となり、慶喜が新政府の一員にもなり得たのだろうか?
そもそも、天狗党は徳川幕府を倒して朝廷中心の国家を打ち立てるビジョンを持っていたのだろうか?
それ以前に、天狗党は何をしたかったのだろうか?
蕎麦猪口に蕎麦湯を満たしてズズッとすすりながら、食後のひとときを天狗党への思索に費やした。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
毎年5月1日に行われる神事で、説明書には約150年前に拝領したとある。
別の説明書きには、江戸時代までは「宿長」という名の旅籠だったそうで、蕎麦屋に転じたのは明治以降のこと。
往時には鹿島神宮に参拝する講中(参拝者の団体)の本陣として大いに賑わったそう。
件の板絵も旅籠時代に鹿島神宮から下賜されたものなのだろうか。
そんなことをボンヤリ考えているうち、天ざるが来た。
とびきり美味いわけではないが、手打ちの九割蕎麦と謳ってるだけあって、さほど不味くもない
そんな中庸な味わいの蕎麦をズルズルすすりながら顔を上げると、今度は幕末の「天狗党事件」縁の店と手書きされた由緒書きが目に入った。
天狗党とは幕末の水戸藩で藩主徳川“烈公”斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷の急進派のこと。
天狗党は元治元(1864)年、幕府に攘夷の実行を促すため筑波山で挙兵。
しかし藩内保守派との内戦に破れ、京都にいた一橋慶喜を頼り上洛。
その途中、諸藩の討伐軍に敗れ、越前で加賀藩に降伏。
諸幹部をはじめ党員の大半が処刑され、残りは遠島・追放などの処分を受け、天狗党は消滅した。
もう少し蜂起が遅ければ薩長の維新勢とタイミングが合い、新政府への参画もあり得たのだろうか?
そうなれば天狗党が一橋慶喜と薩長の橋渡し役となり、慶喜が新政府の一員にもなり得たのだろうか?
そもそも、天狗党は徳川幕府を倒して朝廷中心の国家を打ち立てるビジョンを持っていたのだろうか?
それ以前に、天狗党は何をしたかったのだろうか?
蕎麦猪口に蕎麦湯を満たしてズズッとすすりながら、食後のひとときを天狗党への思索に費やした。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
「よしのや」を出て大町通りを鹿島神宮駅の方角へ向かって歩く。
駅に下る坂との交差点に、サッカーJリーグ鹿島アントラーズのモニュメントが立っていた。
サッカーボールの意匠を象った円形の石造りで、正面にアントラーズのエンブレムが刻まれている。
「アントラー(antler)」とは英語で「鹿の角」という意味で、チーム名も鹿島神宮に由来しているわけだ。
併設されている「栄光の碑」には、アントラーズの歴史が刻まれている。
ただ、設置された時期が古いので、最近の“栄光”までには記述が及んでいないのだが。
ちなみにアントラーズはJ1リーグで最も多く優勝し、2000年に国内3大タイトル(リーグ戦・カップ戦・天皇杯)を全て制覇する“三冠”を達成し、一度もJ2に降格していない唯一のチームでもある。
このあたりも“武神”鹿島神宮の御神徳なのだろうか?
交差点から駅へと続く緩やかな坂道を下っていく途中、左手に大きな看板が目に止まった。
「塚原卜伝生誕之地」
そう大書きされている。
看板の裏手は大きな広場で、奥では駅の方角を向いた大きな銅像が周囲を睥睨している。
塚原卜伝は鹿島が生んだ剣聖。
戦国時代の延徳元(1489)年生まれで、この銅像は生誕五百年を記念して建立されたもの。
卜伝は鹿島神宮とも縁が深い。
父親は神官「祝部(はふりべ)」を務めた卜部覚賢(うらべあきたか)。
塚原姓は幼少時に養子へ出た先の家の姓だ。
卜伝は幼少から鹿島中古流の太刀を学び、16歳の時に最初の廻国修行の旅へ。
この武者修行は約15年の長きに及び、数多の真剣勝負や合戦に臨み、かつ一度も負傷しなかったという伝説を残している。
ただ、この修行は戦乱真っ只中の京都で積み重ねられたもの。
数多の人死を目の当たりにし、世の虚しさに心を病み、故郷の鹿島へ戻ってきたという。
そこで卜伝は荒れた心を落ち着かせ、自己の剣に磨きをかけるため、鹿島神宮で一千日の参籠祈願を行うことに。
3年にも及ぶ修行の末、ついに鹿島大神から「心新たにして事に当たれ」との神示を授かることに。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
駅に下る坂との交差点に、サッカーJリーグ鹿島アントラーズのモニュメントが立っていた。
サッカーボールの意匠を象った円形の石造りで、正面にアントラーズのエンブレムが刻まれている。
「アントラー(antler)」とは英語で「鹿の角」という意味で、チーム名も鹿島神宮に由来しているわけだ。
併設されている「栄光の碑」には、アントラーズの歴史が刻まれている。
ただ、設置された時期が古いので、最近の“栄光”までには記述が及んでいないのだが。
ちなみにアントラーズはJ1リーグで最も多く優勝し、2000年に国内3大タイトル(リーグ戦・カップ戦・天皇杯)を全て制覇する“三冠”を達成し、一度もJ2に降格していない唯一のチームでもある。
このあたりも“武神”鹿島神宮の御神徳なのだろうか?
交差点から駅へと続く緩やかな坂道を下っていく途中、左手に大きな看板が目に止まった。
「塚原卜伝生誕之地」
そう大書きされている。
看板の裏手は大きな広場で、奥では駅の方角を向いた大きな銅像が周囲を睥睨している。
塚原卜伝は鹿島が生んだ剣聖。
戦国時代の延徳元(1489)年生まれで、この銅像は生誕五百年を記念して建立されたもの。
卜伝は鹿島神宮とも縁が深い。
父親は神官「祝部(はふりべ)」を務めた卜部覚賢(うらべあきたか)。
塚原姓は幼少時に養子へ出た先の家の姓だ。
卜伝は幼少から鹿島中古流の太刀を学び、16歳の時に最初の廻国修行の旅へ。
この武者修行は約15年の長きに及び、数多の真剣勝負や合戦に臨み、かつ一度も負傷しなかったという伝説を残している。
ただ、この修行は戦乱真っ只中の京都で積み重ねられたもの。
数多の人死を目の当たりにし、世の虚しさに心を病み、故郷の鹿島へ戻ってきたという。
そこで卜伝は荒れた心を落ち着かせ、自己の剣に磨きをかけるため、鹿島神宮で一千日の参籠祈願を行うことに。
3年にも及ぶ修行の末、ついに鹿島大神から「心新たにして事に当たれ」との神示を授かることに。
(つづく)
[旅行日:2012年12月18日]
「鹿島の太刀」の極意を悟った卜伝は、流派名を神示に沿った「鹿島新当流」と改める。
その後、卜伝は2度の廻国修行に出、足利将軍家や伊勢北畠家、甲斐武田家などに剣術を指導。
その足跡は全国各地に及び、今でも日本中に卜伝の“聖蹟”が散在しているという。
旅を終えて鹿島の地に帰ってきた卜伝は元亀二(1571)年、ト伝は83歳の生涯を閉じる。
といった卜伝の生涯を、折しもNHKが堺雅人主演でドラマ化。
ちょうどオンエア中ということもあって、鹿島の街中がドラマのPRだらけだった。
卜伝像に別れを告げ、再び坂を下る。
やがて、正面にオレンジ色の外壁も鮮やかなJR鹿島神宮駅が姿を現した。
かつては東京駅との間に特急列車が走るなど鹿島の交通の拠点で、駅舎の規模からもその重要性が伺える。
しかし高速バスが主流となった現在では、各駅停車が1時間に1~2本程度発着するだけのローカル駅になってしまった。
とはいえ、クルマがひしめき合い排ガスが充満する国道124号線沿いに比べたら、閑散としている駅舎周辺のほうがよほど心が落ち着き、神宮に相応しい空間だとも思える。
14時36分、香取行き普通列車は鹿島神宮駅を出発した。
車内にはパラパラと高校生がいるだけで、鹿島工業地帯から帰京する出張族など匂いすら感じられない。
やがて車窓には潮来水郷の風景が広がった。
それを眺めているうち、心の底から思えてきた。
一宮巡礼の旅には自動車ではなく、やはり鉄道が似合っているなぁと。
(常陸國一之宮「鹿島神宮」おわり)
[旅行日:2012年12月18日]
鹿島神宮駅を発ったJR成田線536M列車は、潮来の水郷地帯を突っ切って行く。
長大な利根川の鉄橋を渡り、常陸(ひたち)国から下総(しもうさ)国へ。
千葉県の旧国名は北から南へ下総国、上総(かずさ)国、安房国の順で並んでいる。
なので地図を見ると下総国が“上”に、上総国が“下”に、それぞれ位置する形。
これではアベコベではないか?
実はこの「上下」、「南北」の意味ではない。
五畿七道が制定された古代、都から位置的に近いほうに「上」、遠い方に「下」と名付けられた。
例えば京都から近い群馬県は「上野(こうずけ)国」、遠い栃木県は「下野(しもつけ)国」といった具合。
当時、畿内から房総半島へは海路を船で渡っており、上陸する南側に位置するほうが都に近いため「上総国」になったという次第。
536Mは14時53分、香取駅に定刻通り到着した。
鹿島神宮駅から香取駅まで実は4駅しか離れておらず、乗車時間にして20分弱といったところ。
香取駅は小さな無人駅で、朱色を基調とした外観の意匠は香取神宮をモチーフにしているのが一目瞭然。
かといって、ここが香取市の中央駅かといえばそうではなく、香取神宮まで路線バスの便もなければ駅前でタクシーが待っているわけでもない。
香取神宮の公式サイトでも「香取駅からはタクシー・バスなど出ておりませんので、佐原駅をご利用いただいた方が便利です」と、ご丁寧に注意を喚起しているほどだ。
こじんまりとした駅舎を通り抜け、駅前に出る。
特にこれといって何があるでもなく、ごく普通の住宅街といった印象。
[旅行日:2012年12月18日]
道を確認しようと駅前の案内板を見れば「香取神宮まで徒歩約30分」と表示されている。
鹿島神宮駅から香取駅より、香取駅から香取神宮までの所用時間のほうが長かったわけだ。
駅舎を左手に回りこみ、成田線の踏切を越え、内陸に向けて歩き出す。
小川を渡り、住宅と田圃が混在する長閑な風景の中を進む。
高層建築物がないので遠くまで見晴らしがいい。
しばらく歩くとT字路に行き当たった。
正面には鳥居の連なる小道が小高い丘の上へと続いている。
先の案内板によると、この丘は神道山古墳。
その頂きには桝原稲荷神社が鎮座している。
ただ、入り口から境内までは「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されており、参拝も命がけ。
古墳とあっても香取神宮には関係を記した古文書などの類は残されておらず、直接的な関係はなさそうだ。
神道山古墳のT字路を左折し、田圃の中をテクテク歩く。
もし、このT字路を逆方向の右へ曲がると、どこに道はつながっているのか?
道は利根川に向かって一直線に続いている。
行き着く先は利根川とぶつかる河畔。
そこには津宮浜鳥居(つのみやはまとりい)が聳立している。
香取神宮の御祭神、経津主命(ふつぬしのみこと)が海路ここから上陸したと伝わる場所で、往時の表参道口に当たる。
つまり津宮浜鳥居から続いている、今歩いているこの道こそ太古の昔は表参道だったわけだ。
[旅行日:2012年12月18日]
鹿島神宮駅から香取駅より、香取駅から香取神宮までの所用時間のほうが長かったわけだ。
駅舎を左手に回りこみ、成田線の踏切を越え、内陸に向けて歩き出す。
小川を渡り、住宅と田圃が混在する長閑な風景の中を進む。
高層建築物がないので遠くまで見晴らしがいい。
しばらく歩くとT字路に行き当たった。
正面には鳥居の連なる小道が小高い丘の上へと続いている。
先の案内板によると、この丘は神道山古墳。
その頂きには桝原稲荷神社が鎮座している。
ただ、入り口から境内までは「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されており、参拝も命がけ。
古墳とあっても香取神宮には関係を記した古文書などの類は残されておらず、直接的な関係はなさそうだ。
神道山古墳のT字路を左折し、田圃の中をテクテク歩く。
もし、このT字路を逆方向の右へ曲がると、どこに道はつながっているのか?
道は利根川に向かって一直線に続いている。
行き着く先は利根川とぶつかる河畔。
そこには津宮浜鳥居(つのみやはまとりい)が聳立している。
香取神宮の御祭神、経津主命(ふつぬしのみこと)が海路ここから上陸したと伝わる場所で、往時の表参道口に当たる。
つまり津宮浜鳥居から続いている、今歩いているこの道こそ太古の昔は表参道だったわけだ。
[旅行日:2012年12月18日]
12年に一度、午年の4月15~16日に行われる「式年神幸祭」では津宮浜鳥居から御神輿をのせた御座船が大利根を遡っていく。
香取神宮でも創建からしばらくは伊勢神宮と同様、20年に一度「式年遷宮大祭」が行われていた。
しかし戦国時代以降は途絶えてしまい、その代わり行われるようになったのが式年神幸祭。
同時に利根川の対岸、北浦湖畔にある鹿島神宮の一の鳥居からも神楽を乗せた御座船が出航。
航行の途上、佐原の沖合で鹿島神宮の出迎え船が待ち構え、河上で御迎祭が行われる。
15日に佐原の河口で上陸し、市街にある御旅所で御駐泊。
翌16日は市内を巡幸した後、今度は陸路を通って香取神宮まで還御するそうだ。
一方の鹿島神宮でも同様に12年に一度、午年の9月1~2日に「式年大祭御船祭」が行われる。
1日は皇室勅使の参向例大祭が斎行され、翌2日早朝は御神輿が一の鳥居の大船津河岸へ。
そこから御神輿を奉戴した御座船が数多の供奉船を従えて佐原市の加藤洲に渡る。
そこで香取神宮の御迎祭を受けた後、再び同じ水路をたどって戻るという。
[旅行日:2012年12月18日]
香取神宮でも創建からしばらくは伊勢神宮と同様、20年に一度「式年遷宮大祭」が行われていた。
しかし戦国時代以降は途絶えてしまい、その代わり行われるようになったのが式年神幸祭。
同時に利根川の対岸、北浦湖畔にある鹿島神宮の一の鳥居からも神楽を乗せた御座船が出航。
航行の途上、佐原の沖合で鹿島神宮の出迎え船が待ち構え、河上で御迎祭が行われる。
15日に佐原の河口で上陸し、市街にある御旅所で御駐泊。
翌16日は市内を巡幸した後、今度は陸路を通って香取神宮まで還御するそうだ。
一方の鹿島神宮でも同様に12年に一度、午年の9月1~2日に「式年大祭御船祭」が行われる。
1日は皇室勅使の参向例大祭が斎行され、翌2日早朝は御神輿が一の鳥居の大船津河岸へ。
そこから御神輿を奉戴した御座船が数多の供奉船を従えて佐原市の加藤洲に渡る。
そこで香取神宮の御迎祭を受けた後、再び同じ水路をたどって戻るという。
[旅行日:2012年12月18日]
鹿島と香取の両神宮は古代ヤマト王権の対蝦夷戦略で、共に最重要前線基地として機能していた。
平安中期の律令施行細則「延喜式」でも、伊勢神宮に準じて「神宮」を称することが許されたのは両神宮だけだったことからも、その重要性が伺える。
2000年近くも昔の政治的なパラダイムが今なお盛大な祭りの中で息づいていることに、歴史のロマンを感じる。
再び香取神宮方面への道程へと戻る。
途中、刈り入れの終わった田圃で稲干しを見かけた。
なぜか稲穂が赤い。
近づいてよく見ると、米ではなく唐辛子だった。
それにしても案内板にあった「日本の原風景に出逢えるまち」そのままの景色。
都心から電車でわずか2時間程度で、このような原風景に出逢えるとは千葉県も懐が深い。
香取交差点を渡って県道253線を過ぎると、道が二手に分かれる。
直進は太い道、左折すると細い道。徒歩旅行者としては細い道を進むのが正解ではないかと直感。
迷わず左折すると道は更に細くなり、両側に密生する木々の梢が頭上を覆い、まるで緑のトンネルのよう。
人里と神の領域を結ぶ一筋の坂道をウネウネと登っていく。
途中、茅葺き屋根の大きな屋敷を見かける。
このあたりから神領の雰囲気が濃厚に漂う。
[旅行日:2012年12月18日]
平安中期の律令施行細則「延喜式」でも、伊勢神宮に準じて「神宮」を称することが許されたのは両神宮だけだったことからも、その重要性が伺える。
2000年近くも昔の政治的なパラダイムが今なお盛大な祭りの中で息づいていることに、歴史のロマンを感じる。
再び香取神宮方面への道程へと戻る。
途中、刈り入れの終わった田圃で稲干しを見かけた。
なぜか稲穂が赤い。
近づいてよく見ると、米ではなく唐辛子だった。
それにしても案内板にあった「日本の原風景に出逢えるまち」そのままの景色。
都心から電車でわずか2時間程度で、このような原風景に出逢えるとは千葉県も懐が深い。
香取交差点を渡って県道253線を過ぎると、道が二手に分かれる。
直進は太い道、左折すると細い道。徒歩旅行者としては細い道を進むのが正解ではないかと直感。
迷わず左折すると道は更に細くなり、両側に密生する木々の梢が頭上を覆い、まるで緑のトンネルのよう。
人里と神の領域を結ぶ一筋の坂道をウネウネと登っていく。
途中、茅葺き屋根の大きな屋敷を見かける。
このあたりから神領の雰囲気が濃厚に漂う。
[旅行日:2012年12月18日]
香取神宮の境内に入る少し手前で、小さな池の中に立つ小さな鳥居に出合う。
背後の山から流れ落ちる伏水を祀ったのだろうか。
池を包む木々の緑と、渋く赤錆びた鳥居の織りなすコントラストが美しい。
香取交差点から30分は優に歩いたろうか。
坂を登り切ると大きな道に行き当たった。
交差点の中央に「雨乞塚」が佇んでいる。
それを見ながら左折して直進すると、唐突に境内へ出た。
裏道から来た格好なので社号標のある二の鳥居をくぐらず、いきなり社殿の前に出てしまった格好。
それでは具合が悪いので、正面からキチンと参拝するため境内を右側へと回りこむ。
やがて巨大な鳥居が姿を現し、総門の前に出た。
石造りの巨大な鳥居で、後々調べたところでは三の鳥居に当たるらしい。
しかし裏からヒョイと出てきた身には、何番目の鳥居かは知る由もない。
[旅行日:2012年12月18日]
背後の山から流れ落ちる伏水を祀ったのだろうか。
池を包む木々の緑と、渋く赤錆びた鳥居の織りなすコントラストが美しい。
香取交差点から30分は優に歩いたろうか。
坂を登り切ると大きな道に行き当たった。
交差点の中央に「雨乞塚」が佇んでいる。
それを見ながら左折して直進すると、唐突に境内へ出た。
裏道から来た格好なので社号標のある二の鳥居をくぐらず、いきなり社殿の前に出てしまった格好。
それでは具合が悪いので、正面からキチンと参拝するため境内を右側へと回りこむ。
やがて巨大な鳥居が姿を現し、総門の前に出た。
石造りの巨大な鳥居で、後々調べたところでは三の鳥居に当たるらしい。
しかし裏からヒョイと出てきた身には、何番目の鳥居かは知る由もない。
[旅行日:2012年12月18日]
その鳥居をくぐり、横に長い石段を上がり総門を通り抜け、クランク状になった参道を右に進むと、左側に朱塗りの壮麗な楼門が姿を見せた。
造営は元禄13(1700)年というから、徳川五代将軍綱吉の治世下。
昭和58(1983)年には国の重要文化財に指定されている。
楼門を通る前に顔を上げ、扁額を見やる。
香取神宮の扁額もまた鹿島神宮と同様、東郷平八郎元帥の揮毫によるものだ。
楼門を抜けると重厚な社殿がドンと待ち構えている…と思いきや。
こちらも鹿島神宮と同様、ただいま「平成の大修理」真っ最中。
拝殿のファザードだけが顔を出し、後方の幣殿と本殿は薄いヴェールと作業用の足場で覆われている。
社殿の全体像を拝見できないのは残念だが、こうした不断の手入れが重要文化財を後世に伝えることにつながるのだ、我慢しよう。
[旅行日:2012年12月18日]
造営は元禄13(1700)年というから、徳川五代将軍綱吉の治世下。
昭和58(1983)年には国の重要文化財に指定されている。
楼門を通る前に顔を上げ、扁額を見やる。
香取神宮の扁額もまた鹿島神宮と同様、東郷平八郎元帥の揮毫によるものだ。
楼門を抜けると重厚な社殿がドンと待ち構えている…と思いきや。
こちらも鹿島神宮と同様、ただいま「平成の大修理」真っ最中。
拝殿のファザードだけが顔を出し、後方の幣殿と本殿は薄いヴェールと作業用の足場で覆われている。
社殿の全体像を拝見できないのは残念だが、こうした不断の手入れが重要文化財を後世に伝えることにつながるのだ、我慢しよう。
[旅行日:2012年12月18日]
現在の拝殿は昭和15(1940)年に造営されたもので、檜皮葺き屋根の権現造り。
全体に渋い黒漆塗りで、鮮やかな朱色の楼門とのコントラストが対照的だ。
庇の下を左右に貫く長押(なげし)の上には極彩色の蟇股(かえるまた)が据えられている。
蟇股とはカエルが足を広げた形に似た装飾材。
股の間に設えられた禽獣花鳥の彫刻が美しい。
拝殿の前で頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打ち両胸の前で手を合わせる。
香取神宮が創建されたのは神武天皇18年、西暦にすると紀元前643年のこと。
御祭神の経津主命は別名「伊波比主命(いはひぬしのみこと)」又は「斎主神(いはひぬしのかみ)」とも。
つまり伊波比主とは斎主、すなわち祭祀者のことを指しているという説もあるそうだ。
果たして何を祭祀している者だったのか?
経津主命もまた鹿島神宮の御祭神である武甕槌命と同様の“武神”。
しかも伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を切り落とした際、剣から滴る血が固まって生まれた剣の神という“誕生譚”も一緒。
さらには天照大神の国譲り戦略でも、武甕槌命と共に大国主命から地上統治権を奪取する功績を挙げたと伝わている。
[旅行日:2012年12月18日]
全体に渋い黒漆塗りで、鮮やかな朱色の楼門とのコントラストが対照的だ。
庇の下を左右に貫く長押(なげし)の上には極彩色の蟇股(かえるまた)が据えられている。
蟇股とはカエルが足を広げた形に似た装飾材。
股の間に設えられた禽獣花鳥の彫刻が美しい。
拝殿の前で頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打ち両胸の前で手を合わせる。
香取神宮が創建されたのは神武天皇18年、西暦にすると紀元前643年のこと。
御祭神の経津主命は別名「伊波比主命(いはひぬしのみこと)」又は「斎主神(いはひぬしのかみ)」とも。
つまり伊波比主とは斎主、すなわち祭祀者のことを指しているという説もあるそうだ。
果たして何を祭祀している者だったのか?
経津主命もまた鹿島神宮の御祭神である武甕槌命と同様の“武神”。
しかも伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を切り落とした際、剣から滴る血が固まって生まれた剣の神という“誕生譚”も一緒。
さらには天照大神の国譲り戦略でも、武甕槌命と共に大国主命から地上統治権を奪取する功績を挙げたと伝わている。
[旅行日:2012年12月18日]
そういえば神武天皇が熊野で悪神の毒気で大ピンチに陥った際、武甕槌命が自らの代わりに送った神剣の名は「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)。
この「ふつ」という音は古代、刀剣が物を切り裂くことを意味していた。
「ふつぬしのみこと」が神剣「ふつのみたまのつるぎ」を神格化したのは間違いないところだろう。
こうした事柄を合わせて考えるに「武甕槌命と経津主命は同じ神だったのではなかろうか?」なる思いが湧いてくる。
拝殿を正面にして右側を向けば、そこには祈祷殿が構えている。
以前は拝殿だった建物で、今の拝殿が昭和15(1940)年に建造されたのを機に移築されたもの。
現在の拝殿より小ぶりだが端正で落ち着いた佇まいからは、古社への信仰を長らく受け止め続けてきた矜持が感じられる。
祈祷殿と拝殿の間に、見るからに霊験あらたかな巨木が聳立している。
樹齢約1000年とも伝わる御神木で、両腕を広げて取り囲んだなら5人は必要だろうと思われる太さ。
幹の周径は10メートルを超えているものと思われる。
もちろん抱擁できるまで近づくことはできないが。
[旅行日:2012年12月18日]
この「ふつ」という音は古代、刀剣が物を切り裂くことを意味していた。
「ふつぬしのみこと」が神剣「ふつのみたまのつるぎ」を神格化したのは間違いないところだろう。
こうした事柄を合わせて考えるに「武甕槌命と経津主命は同じ神だったのではなかろうか?」なる思いが湧いてくる。
拝殿を正面にして右側を向けば、そこには祈祷殿が構えている。
以前は拝殿だった建物で、今の拝殿が昭和15(1940)年に建造されたのを機に移築されたもの。
現在の拝殿より小ぶりだが端正で落ち着いた佇まいからは、古社への信仰を長らく受け止め続けてきた矜持が感じられる。
祈祷殿と拝殿の間に、見るからに霊験あらたかな巨木が聳立している。
樹齢約1000年とも伝わる御神木で、両腕を広げて取り囲んだなら5人は必要だろうと思われる太さ。
幹の周径は10メートルを超えているものと思われる。
もちろん抱擁できるまで近づくことはできないが。
[旅行日:2012年12月18日]
御神木を見やりつつ拝殿の右側から裏手に回り、空高く組まれた足場の隙間から本殿を眺める。
本殿も楼門と同様に元禄13(1700)年の造営で、現存する三間社流造の中では最も大きい。
こちらは昭和52(1977)年に国の重要文化財に指定されている。
現在の工事は平成25(2013)年4月に斎行される式年大祭へ向けた屋根の葺き替えと漆塗りの補修とのこと。
本殿の裏手から更に奥へ。
樹齢を幾年も重ねてきた大木の森を抜けると、そこにあるのは茶店「寒香亭」。
店先にはこまごまとした土産物が並び、奥にはストーブが赤々と燃え、品書きには、おでんに団子と甘酒にところてん。
まさに神社の茶店を絵に書いたような佇まい。
こういう茶店が好きで堪らない。
だが今回は日没が迫っており、立ち寄ることなく再び境内へと引き返す。
今度は「参拝の栞」の境内見取り図を見ながら、来た道とは反対側へグルリと回ってみる。
[旅行日:2012年12月18日]
本殿も楼門と同様に元禄13(1700)年の造営で、現存する三間社流造の中では最も大きい。
こちらは昭和52(1977)年に国の重要文化財に指定されている。
現在の工事は平成25(2013)年4月に斎行される式年大祭へ向けた屋根の葺き替えと漆塗りの補修とのこと。
本殿の裏手から更に奥へ。
樹齢を幾年も重ねてきた大木の森を抜けると、そこにあるのは茶店「寒香亭」。
店先にはこまごまとした土産物が並び、奥にはストーブが赤々と燃え、品書きには、おでんに団子と甘酒にところてん。
まさに神社の茶店を絵に書いたような佇まい。
こういう茶店が好きで堪らない。
だが今回は日没が迫っており、立ち寄ることなく再び境内へと引き返す。
今度は「参拝の栞」の境内見取り図を見ながら、来た道とは反対側へグルリと回ってみる。
[旅行日:2012年12月18日]
本殿と末社の桜大刀自神社の間を通り、白いベールに覆われた本殿の後ろ側を眺めつつ進むと、正面には摂社の匝瑳神社。
隣に神饌殿、向かい側に三本杉。その中心に円錐形の砂山が盛られ、周囲に注連縄が張られ、紙垂が下がっている。
この盛砂は「立砂(たてすな)」と呼ばれる一種の神籬(かもろぎ)、つまり神様が降りられる憑代(よりしろ)だ。
立砂を眺めつつ、武甕槌命と経津主命の関係について再び考えてみた。
両命は由来が酷似していることから、元は同じ神が時代の経過とともに二分したかのように見える。
しかし、奈良時代の養老5(721)年に成立した「常陸国風土記」では鹿島と香取それぞれに記述がある。
「普都(ふつ)大神と名乗る神が降りて」という記述から、もともと香取神は常総地方土着の守護神だったものと思われる。
一方では鹿島神が船で陸と海を自在に往来し、同神を祀る社に武具が奉納されたと記述されている。
武甕槌命と経津主命は、それぞれ全く別の神々だったのは確かな模様。
なのになぜ、鹿島と香取の両神は同一神と見做されるほど親しい関係にあるのだろう?
[旅行日:2012年12月18日]
隣に神饌殿、向かい側に三本杉。その中心に円錐形の砂山が盛られ、周囲に注連縄が張られ、紙垂が下がっている。
この盛砂は「立砂(たてすな)」と呼ばれる一種の神籬(かもろぎ)、つまり神様が降りられる憑代(よりしろ)だ。
立砂を眺めつつ、武甕槌命と経津主命の関係について再び考えてみた。
両命は由来が酷似していることから、元は同じ神が時代の経過とともに二分したかのように見える。
しかし、奈良時代の養老5(721)年に成立した「常陸国風土記」では鹿島と香取それぞれに記述がある。
「普都(ふつ)大神と名乗る神が降りて」という記述から、もともと香取神は常総地方土着の守護神だったものと思われる。
一方では鹿島神が船で陸と海を自在に往来し、同神を祀る社に武具が奉納されたと記述されている。
武甕槌命と経津主命は、それぞれ全く別の神々だったのは確かな模様。
なのになぜ、鹿島と香取の両神は同一神と見做されるほど親しい関係にあるのだろう?
[旅行日:2012年12月18日]
それは「布都御魂剣」の神霊を、別々の有力氏族が守護神として崇め祀っていたからだという。
常総地方は中臣鎌足の出身地で、中臣氏=後の藤原氏が氏神様として祀っていたのが鹿島神。
一方の経津主命は、それ以前に物部氏との関わりが深かった。
しかし、物部氏は用明天皇2(西暦587)年に蘇我氏との抗争に破れて没落。
その後、物部氏は姓を石上氏(いそのかみうじ)に改め、こちらが宗家となった。
大和国石上神宮に「布都御魂剣」が祀られていると古事記に記されているのも、物部氏と石上氏の関係を知れば納得できる。
大国主命に対する国譲り神話で、本来なら経津主命が主役になってもおかしくないはずなのに。
例えば「出雲国風土記」に経津主命は「布都怒志命」として登場するが、武甕槌命は登場しない。
日本書紀には経津主命と武甕槌命の二神が揃って登場。
だが、古事記では武甕槌命しか登場せず、経津主命は出てこない。
なぜ、どれも同時代に編纂された歴史書なのに、両神の扱いが不統一なのか?
たぶん、オリジナルの神話では経津主命だけが天降って大国主命と国譲りを折衝したのだろう。
ところがヤマト王権が神話を再構成する段になると、王権内では藤原氏の勢力が著しく拡大していた。
藤原氏に気を使った編纂者は国譲り神話の主役を経津主命から、藤原氏の氏神様である武甕槌命に挿げ替えた。
このため、経津主命ではなく武甕槌命が前面に押し出されるようになった…という筋書きのようだ。
歴史上、敗者の弁は勝者の美談に押しやられ、深淵なる時の狭間に埋もれ、なかなか陽の目を見ることはない。
だからこそ、こうして想像力を逞しく働かせ、様々な推論を楽しむことができるというもの。
これはこれで有難い話だ。
[旅行日:2012年12月18日]
常総地方は中臣鎌足の出身地で、中臣氏=後の藤原氏が氏神様として祀っていたのが鹿島神。
一方の経津主命は、それ以前に物部氏との関わりが深かった。
しかし、物部氏は用明天皇2(西暦587)年に蘇我氏との抗争に破れて没落。
その後、物部氏は姓を石上氏(いそのかみうじ)に改め、こちらが宗家となった。
大和国石上神宮に「布都御魂剣」が祀られていると古事記に記されているのも、物部氏と石上氏の関係を知れば納得できる。
大国主命に対する国譲り神話で、本来なら経津主命が主役になってもおかしくないはずなのに。
例えば「出雲国風土記」に経津主命は「布都怒志命」として登場するが、武甕槌命は登場しない。
日本書紀には経津主命と武甕槌命の二神が揃って登場。
だが、古事記では武甕槌命しか登場せず、経津主命は出てこない。
なぜ、どれも同時代に編纂された歴史書なのに、両神の扱いが不統一なのか?
たぶん、オリジナルの神話では経津主命だけが天降って大国主命と国譲りを折衝したのだろう。
ところがヤマト王権が神話を再構成する段になると、王権内では藤原氏の勢力が著しく拡大していた。
藤原氏に気を使った編纂者は国譲り神話の主役を経津主命から、藤原氏の氏神様である武甕槌命に挿げ替えた。
このため、経津主命ではなく武甕槌命が前面に押し出されるようになった…という筋書きのようだ。
歴史上、敗者の弁は勝者の美談に押しやられ、深淵なる時の狭間に埋もれ、なかなか陽の目を見ることはない。
だからこそ、こうして想像力を逞しく働かせ、様々な推論を楽しむことができるというもの。
これはこれで有難い話だ。
[旅行日:2012年12月18日]
拝殿の前に戻り、楼門と総門をくぐって再び表参道前へ。
総門を出ると右手にある古風な木造建築が目に入った。
道場「神徳館」。
“武神”香取神宮の“魂”とも言うべき建物。
門は閉ざされ中の様子は伺えないが、木造の門塀からは長きにわたって風雪に耐えてきた様子が伺える。
時代劇を見ていると、道場の床の間には必ずといっていいほど「香取大明神」の掛け軸が吊るされている。
「布都御魂剣」の神霊を祀る香取神宮が武道場の象徴として崇拝されるのは当然の理。
また、ここ香取神宮は飯篠長威斎家直(いいざさ ちょういさい いえなお)が創始した現存最古の武術流儀「天真正伝 香取神道流(てんしんしょうでん かとりしんとうりゅう)」が生まれたところ。
600年にわたって伝承されてきた香取神道流は念流、陰流と並ぶ兵法三大源流のひとつ神道流の元祖。
香取神宮が武道の象徴として崇拝されているのは布都御魂剣だけでなく、香取神道流の存在も大きいのだ。
それまで決まった「型」のなかった武術の世界に、長威斎は太刀、小太刀、長刀、居合抜刀、二刀流、棒術、薙刀、槍、鎖鎌、柔術、築城術など百般にも及ぶ武道の原型を作り上げた。
それらの「型」は昭和35(1960)年に千葉県無形文化財に指定され、その大半は「蜻蛉(とんぼ)伝書」と呼ばれる極意書とともに、長威斎の子孫である宗家二十代目の飯篠快貞氏によって確実に継承されている。
[旅行日:2012年12月18日]
総門を出ると右手にある古風な木造建築が目に入った。
道場「神徳館」。
“武神”香取神宮の“魂”とも言うべき建物。
門は閉ざされ中の様子は伺えないが、木造の門塀からは長きにわたって風雪に耐えてきた様子が伺える。
時代劇を見ていると、道場の床の間には必ずといっていいほど「香取大明神」の掛け軸が吊るされている。
「布都御魂剣」の神霊を祀る香取神宮が武道場の象徴として崇拝されるのは当然の理。
また、ここ香取神宮は飯篠長威斎家直(いいざさ ちょういさい いえなお)が創始した現存最古の武術流儀「天真正伝 香取神道流(てんしんしょうでん かとりしんとうりゅう)」が生まれたところ。
600年にわたって伝承されてきた香取神道流は念流、陰流と並ぶ兵法三大源流のひとつ神道流の元祖。
香取神宮が武道の象徴として崇拝されているのは布都御魂剣だけでなく、香取神道流の存在も大きいのだ。
それまで決まった「型」のなかった武術の世界に、長威斎は太刀、小太刀、長刀、居合抜刀、二刀流、棒術、薙刀、槍、鎖鎌、柔術、築城術など百般にも及ぶ武道の原型を作り上げた。
それらの「型」は昭和35(1960)年に千葉県無形文化財に指定され、その大半は「蜻蛉(とんぼ)伝書」と呼ばれる極意書とともに、長威斎の子孫である宗家二十代目の飯篠快貞氏によって確実に継承されている。
[旅行日:2012年12月18日]
表参道を通って二の鳥居へ。
両側には石灯籠が整然と並んでいる。
東日本大震災で崩落の被害を受けたそうだが、現在ほぼ現状復帰しているように見える。
石灯籠の後ろ側は木々が鬱蒼と生い茂り、ただでさえ日没で薄暗い参道の闇を更に濃くしている。
公式サイトには「桜や楓が植えられており春の桜花・秋の紅葉は見事」とある。
だが、その光景は昼間の晴天時のものだろう。
今は真冬で、しかも逢う魔が時。
タイミングが“見事”なほどに真逆だ。
参道の途中で小路を右折し、経津主命の荒御魂を祀る奥宮に参詣する。
現在の社殿は昭和48(1973)年、伊勢神宮式年遷宮の折の古材を以って造営されたもの。
社殿は玉垣で覆われ全体像を拝むことはできないのだが、隙間から覗き見た御姿からは小さいながらも霊力を湛えた力強さを感じる。
[旅行日:2012年12月18日]
両側には石灯籠が整然と並んでいる。
東日本大震災で崩落の被害を受けたそうだが、現在ほぼ現状復帰しているように見える。
石灯籠の後ろ側は木々が鬱蒼と生い茂り、ただでさえ日没で薄暗い参道の闇を更に濃くしている。
公式サイトには「桜や楓が植えられており春の桜花・秋の紅葉は見事」とある。
だが、その光景は昼間の晴天時のものだろう。
今は真冬で、しかも逢う魔が時。
タイミングが“見事”なほどに真逆だ。
参道の途中で小路を右折し、経津主命の荒御魂を祀る奥宮に参詣する。
現在の社殿は昭和48(1973)年、伊勢神宮式年遷宮の折の古材を以って造営されたもの。
社殿は玉垣で覆われ全体像を拝むことはできないのだが、隙間から覗き見た御姿からは小さいながらも霊力を湛えた力強さを感じる。
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