諏訪下春043*

「児湯」の先に下諏訪宿の旧本陣が遺っている。

大名が宿泊する本陣の岩波家は江戸時代、ここに約1800坪の敷地に300坪の建物を構えていた。

当時の下諏訪宿は中山道最大級の宿場町であり、本陣の庭園は中山道随一とも謳われたほど。

現在では建物こそ半分程度になったが、庭園は江戸時代の優雅な景観を今なお披露し続けている。

また文久元(1861)年11月、皇女和宮が徳川将軍家へ御降嫁のため江戸へ向かう際ここに宿泊され、寝所となった上段の間もまた保存されている。

これらの諸施設は入館料を払えば見学できる、全てとはいかないが。

その本陣宿の系譜を継ぐ老舗旅館「聴泉閣かめや」の前に一本の縦に細長い石碑が立っている。

「甲州街道 中山道合流之地碑」

…ここは中仙道と甲州街道の「街道分されの地」。

下諏訪宿は中山道六十九次のうち、お江戸日本橋から数えて29番目の宿場町であると同時に甲州街道の終点でもある。

甲州街道は甲府で終わりだとばかり思っていたが、実はここまで延びていたのだ。

日本橋から甲府までは慶長7(1602)年に開通し、下諏訪までは同15(1610)年に延長された区間。

そのため甲府と下諏訪の間は甲州街道としての印象が薄いのだろう。

諏訪下春042*


分されの碑の奥に「綿の湯」と刻まれた石碑が立っている。

揮毫は永六輔。

八坂刀売神が諏訪大社上社付近で沸いた温泉を化粧用に使おうと、真綿に浸して桶に入れ小舟で諏訪湖を渡りここまで運んで来た。

ところが温泉は桶から諏訪湖へポタポタと漏れ続け、ここへ到着する頃には一滴もなくなっていた。

しかし漏れた温泉のおかげで諏訪湖近辺から温泉が豊富に湧き出し、それが今日の上諏訪温泉郷の基となったという。

一方、下諏訪に着いた八坂刀売神は「これじゃ化粧なんて…」と真綿を捨てたところ、そこから温泉が湧き出した。

それが「綿の湯」の起源であり、下諏訪温泉郷の基となったそう。

なお「綿の湯」は現役の公衆浴場ではない。

現在、源泉には上屋が建てられ大切に保存されている。

諏訪下春43*

両街道合流の碑から駅方面に「八幡坂」という細い下り坂が伸びている。

入口右側に立つ「まるや」は江戸時代の元禄年間創業で往時は脇本陣を務めていた老舗。

反対の左側に立つ「桔梗屋」も元禄3(1690)年創業という、これまた老舗の旅館だ。

少し先の左側には下諏訪町立歴史民俗資料館。

明治時代に建てられた商家を改修し、1階を無料休憩所として解放、2階は下諏訪宿に関する展示室になっている。

[旅行日:2016年12月12日]