諏訪下秋14

しかし、湖底に泥やヘドロが分厚く堆積し調査は難航。

結局、窪みの正体を突き止めるまでには至らなかった。

今から400年以上も前、湖底に大穴を掘るような土木技術を武田家が持っていたのか?

遺骸を湖に沈めることは可能でも、湖底に墓を築く作業までは不可能な気がするのだが。

そんな歴史ミステリーの存在など我関せずとでも言いたげに、諏訪湖の湖面はキラキラと輝いている。

山王閣の玄関を出ると、前庭に一体の銅像が立っていた。

手塚別当金刺光盛の像。

「山王台」と呼ばれているこの土地は、手塚光盛の居城「霞ヶ城」があった場所だ。

光盛は平安時代後期の武将で、源“木曾”義仲に付き従い、寿永2(1183)年に倶利伽羅峠の合戦に源氏方として参戦。

加賀国篠原の戦いで光盛は敗走する平氏勢の中で踏みとどまった武将の斎藤別当実盛[さねもり]と一騎打ちになり、見事に首級を挙げた。

その実盛、実は「駒王丸」こと幼き日の義仲の命を救った恩人であり、その死に際し義仲は号泣したという。

古式に則った一騎打ちは武士道の鏡とされ、能「実盛」の題材となって現在まで伝わっている。

その光盛は後に源頼朝の軍と戦い、寿永3(1184)年1月に近江国で敗死した。

諏訪下秋15-1

前庭を抜けて道路に出ると、通勤通学の時間帯ということもあってか、ひっきりなしに車が行き交う。

その間隙を縫うように歩いていくと下社秋宮の正面に出た。

丘陵の麓から幅広の道路が緩やかな勾配を描いて伸び、その突き当たりに諏訪大社が鎮座している。

だが、その道路に神社の参道という雰囲気は薄い。

さて、正面向かって札側には「諏訪大社」と大きく刻まれた巨石の社号標が聳立している。

ここは全国各地に約2万5000社あるという、社名に「諏訪」を冠する神社の総本社。

「諏訪」という地名の由来には諸説あるが、沢[さわ]が転訛して「すわ」になったという説が有力なのだとか。

ちなみに「すわ一大事!」の「すわ」とは関係なさそうだ。

諏訪下秋15

[旅行日:2016年12月12日]