水無55-052

現在、三町には6つの造り酒屋が軒を連ねている。

そのいずれもが現役の酒蔵として、古ぼけた重伝建の街並みに生命の息吹を与えている。

ただ、扱う酒は清酒がほとんどで、あってもにごり酒かおり酒、水無神社の特区にあった濁酒はない。

それにしても決して米どころではない飛騨で、なぜ酒造りが盛んになったのだろうか?

酒造りには寒冷地が適していること、飛騨山脈=北アルプスの良質な水に恵まれたこと。

商業が産業の基軸だけに近隣の米どころから余剰米の調達も可能だったろう。

それでも米は貴重品に違いなく、酒にして保存する技術が発達したと思われる。

こうした条件が都合良くマッチし、良質で独特な地酒を生み出すことができたのではなかろうか。

水無56-053

三町重伝建地区の南端に風格のある和風建築が立っている。

明治28(1895)年から昭和43(1968)年まで町役場〜市役所として使用されていた「高山市政記念館」という公共施設。

当時の名工坂下甚吉が棟梁として最上級の官材を相手に腕を振るった総檜造りの建物というから豪奢な代物だ。

市役所としての役割を終えた後は公民館として利用されていたものをリニューアルし、昭和61(1986)年に高山市政記念館としてオープンした。

館内では明治期以降の高山地域の歴史と、平成17(2005)年に平成の大合併で誕生した面積日本一の大都市、新高山市誕生の経緯を紹介している。

悪代官大原親子の時代を例に紐解くまでもなく、江戸から明治にかけて飛騨地方の村々は概ね貧しかった。

そんな中、政治経済の中心地として大いに賑わっていた高山は明治時代初期、人口1万4000人を擁する岐阜県下最大の都市だったという。

その一方、なかなか交通網が整備されなかったため、都市の近代化は県内の他地区より大幅に遅れた。

高山が近代化に着手するのは昭和9(1934)年の高山本線全線開通と高山駅開業まで待たねばならなかったのである。

[旅行日:2016年12月11日]