水無31-028

短い石段を上がると中央に楼門が立ち、左右に透塀が連なっている。

しかし入り口には大きな賽銭箱が立ちふさがり、立ち入れるのはここまで。

さて、新たに高山藩主となった金森長近は水無神社の御神威を崇敬。

慶長12(1607)年には近隣の農民に命じて普請を手伝わせるなどして再興を図ったという。

潮目が変わったのは元禄5(1692)年、六代頼峕[よりとき]の時。

金森家は出羽国上山[かみのやま]へ移封となり、飛騨は天領となった。

転封の理由は頼峕が何かしくじったというわけではもなく。

幕府が財政を安定させるため、飛騨の鉱山資源や山林資源に着目したからだと言われている。

飛騨代官の支配が続いていた安永2(1773)年、水無神社に大きな転機が訪れた。

それは門前に立っていた巨大石碑「大原騒動 一宮大集會之地」にある通り。

飛騨一円を巻き込む一大農民一揆「大原騒動」が勃発したのだ。

これに対して代官の大原彦四郎は武力を以って徹底的に鎮圧。

多数の農民が非業の死を遂げたり島流しに遭うなど、代官と農民の間に深い遺恨が刻まれる。

また、農民側に加担した水無神社への弾圧も例外ではなく。

山下和泉と森伊勢の両神職も騒動に連座した咎で処刑された。

この騒動によって古文書などの史料なども散逸したのだろう。

水無神社の存在は大原騒動によって一度、歴史上から抹殺されてしまったのだ。

安永7(1778)年、新たな神職として信州から梶原伊豆守家熊を招聘。

神仏混淆の両部神道を破棄して唯一神道に改め、阿弥陀堂や鐘堂、仁王門といった仏教的建造物を撤去。

併せて社殿の大改修を行い、祝や社司といった職名も宮司制へと改めた。

こうして面目を一新した水無神社は安永8(1778)年8月13〜15日の3日間。

飛騨国中の神々を招請して太々神楽を催し、新しい水無神社のスタートをアピール。

この太々神楽が今も続く「飛騨の大祭」のルーツだと言われているそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]