それはさておき、付近の地名を「一之宮町」と呼ぶぐらい、水無神社の歴史は古い。
創建は神代と伝わっているが、太古の記録が散逸しており詳細な歴史は不明だ。
最古の記録は貞観9(867)年に従五位上の神位を授けられた…というもの。
元慶5(881)年には従四位上まで累進。
平安時代中期に編纂された格式『延喜式[えんぎしき]』でも小社に列せられている。
鎌倉時代に入ると神仏習合の影響を受けて「水無[みなし]大菩薩」を称するように。
神仏一体の両部神道を奉じ、本地堂一宇を建てて釈迦像も安置された。
高山駅から直線距離で北北東6。5kmのところにある真言宗の名刹千光寺。
ここは水無神社の別当寺で、社僧も置かれていたそうだ。
手水舎の前に蛙の石像が佇んでいる。
分水嶺に鎮座する水無神社に水棲動物の蛙とは、いかにも相応しい。
水を“支配”する神として祀られているのだろうか?
また、蛙は田んぼの害虫を食べてくれるので農民からも篤く信仰されてきた。
いずれにせよ、なぜここに蛙があるのか?
説明板が見当たらないので、本当の理由は分からない。
話を水無神社の歴史に戻そう。
室町時代の文明年間(1469~1486)頃、水無神社には祝部(はふりべ=古代の下級神職)が十二家あった。
うち棟梁家として山下と一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村3700余石に達していたという。
やがて各祝部が武士化して一宮党を名乗り、戦国時代に隆盛を迎えた。
ここに臥龍桜のところで登場した三木国綱が登場する。
天文~弘治年間(1532~1558)、宮司の一宮右衛門大輔国綱は飛騨松倉城主の三木(姉小路)[みつき(あねがこうじ)]自綱[よりつな]の妹を娶り姻戚関係に。
名を三木三澤国綱と改称し、神職を家臣の森某に譲り、山下城を築いて武将となった。
しかし三木三澤は金森家の軍勢に敗北。
先述の通り、臥龍桜の下へ埋められる羽目ことになったわけだ。
[旅行日:2016年12月11日]