南宮034b

奉納された刃物が軒下に据えられた木造の大きな建物は神輿社。

先述した5月5日の例大祭で活躍する神輿が安置されている。

この神輿は寛永19(1642)年に社殿が再建された際に家光が寄進したもの。

欅造りで金具には三葉葵の御紋があしらわれているそうだ。

それにしても、なぜ家光は多額の寄進を費して社殿を再建したのだろうか?

彼自身は江戸生まれの江戸育ちで、美濃国とは縁もゆかりもない。

実は寄進の裏にNHK大河ドラマにもなった超有名な乳母、春日局の存在があった。

春日局…幼名お福は天正7(1579)年、斎藤利三[としみつ]の子に生まれた。

利三は斎藤義竜、稲葉一鉄、織田信長と、美濃国に縁の深い武将に長らく仕えてきた。

お福として幼少時を過ごした美濃国は、かけがえのない土地だったに違いない。

春日局が没したのは寛永20(1643)年、南宮大社の再建が成った翌年のことだった。

南宮035

楼門から築地塀の外に出、南端の橋を渡る。

右手前は自動車用の祓所、左手側には「南宮山ハイキングコース」と刻まれた案内札。

南宮大社の背後にある南宮山は標高400m超と、ハイキングにはピッタリの低山だ。

拝殿の前で「安国寺恵瓊が陣を構えるため焼き払った」と述べたが、南宮大社だけでなくこの南宮山自体が毛利の陣営だった。

毛利家当主の輝元は西軍の総大将だったため大阪城に詰めており、関ヶ原の戦場には出陣せず。

代わって輝元の従兄弟である毛利秀元、家臣の吉川広家、それに恵瓊が毛利の軍勢として参戦していた。

毛利軍は南宮山に秀元、南宮大社に恵瓊、そして南宮大社の西、現在は岐阜県立不破高校のある場所に広家が陣を構えた。

このほか豊臣家五奉行の一人である長束正家と、土佐の長宗我部盛親も南宮山に布陣している。

[旅行日:2016年12月10日]