壬申の乱から900年近く時代が下った慶長5 (1600)年、今度は天下分け目の関ヶ原合戦が起こる。
主戦場は現在の不破関跡から北に直線距離で約1km程という至近距離。
南宮大社も無論のこと戦乱に巻き込まれ、兵火で社殿群は焼失した。
というより、西軍の主戦力たる毛利家の総参謀である安国寺恵瓊が、ここへ陣を構えるため焼き払ったからなのだが。
関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わり、徳川の幕政も安定してきた寛永19(1642)年。
三代将軍家光は七千両(現在の貨幣価値に換算すると…約21億円!)もの大金を寄進。
美濃国代官の岡田将監善政を造営奉行に任じ、南宮大社を再建させた。
国重要文化財に指定されている社殿群15棟のほか、2つの石橋と中山道垂井本町に立つ石鳥居の計18棟を建立。
石橋と石鳥居もまた同様、国の重要文化財に指定されている。
拝殿の横から伸びる廻廊越しに本殿を覗き込む。
本殿と弊殿は素木造り。
朱塗りも鮮やかな他の社殿群とは対照的なコントラストを描いている。
南宮大社にも屋根を葺き替える式年遷宮があるそう。
周期は51年と定められ、最近では昭和48(1973)年に行われた。
この時は文化庁の指揮下で2年余りの歳月をかけて社殿が修復されている。
本殿の右隣に摂社が立っている。
境内の案内図によると、これは樹下社だ。
南宮大社の摂末社は廻廊の向こう側にあり、築地塀の内側で参拝客が入れるエリアには一社もない。
境内がガランとして殺風景だったのは、ひとつも摂末社がないせいでもあろうか。
ちなみに廻廊の向こう側には本殿を中心に右側には樹下社と隼人社、左側には高山社と南大神社、本殿の奥には七王子社と5つの摂末社が鎮座している。
参拝できない場所にあるのは、なんか理由があるのだろうか?
[旅行日:2016年12月10日]