最後に訪れたのは寺町坂で最も麓にある長昌寺。
ここには2つの市指定有形文化財がある。
ひとつは元禄時代の作「当麻曼荼羅」。
能見松平家二代重栄公のころ、殿中で幽霊騒動が起こった。
そこで奈良の極楽院にある当麻曼荼羅を縮小のうえ模作。
これを長昌寺に奉納して幽霊供養に供したと伝わっている。
もうひとつも元禄時代の作「弥陀三尊仏」。
二代重栄公が両親の冥福を祈って長昌寺に寄進…というが。
実は先述の幽霊騒動の際、鎮魂のため寄進したものとも伝わっている。
逗子外箱の裏側に、こう記されている。
「この尊像は仏師浄慶が南都(奈良の)大仏遺材を以って作ったもの」
「納塔赤布は久能山東照宮御帳の余裔で造ったもの」
奈良の大仏と東照大権現のダブルパワー、よほどの御利益があるのか?
ただし残念ながら、いずれも拝観することは叶わなかった。
長昌寺は能見松平家奥方の菩提寺でもある。
墓所には正室や実母の、結構な数の墓が並んでいる。
鬱蒼とした木々の緑に包まれた藩主の墓に比べ、奥方たちの墓は見晴らしの良い高台にあり開放的な印象を受ける。
長昌寺もうひとつの見所は市指定名勝の庭園。
江戸時代初期の作庭で面積は約1650平方m。
九州における枯山水庭園の白眉と評され、水前寺成趣園と並び称される名園。
ツツジの刈込に巨石を組み合わせた築山の前面に砂を敷き、池泉を表しているそうだ。
長昌寺の境内を通り抜けると裏側を通る細い坂道に出た。
坂の上に鳥居が見え、行って社号を見れば「貴布称神社」とある。
小さな社殿の横に併設された集会所から、小母さんたちの嬌声が聞こえる。
その声色に宗教っぽさは感じられない。
たぶん地域の趣味の集まりか何かだろう。
貴布称神社横の坂を越え、再び谷間の商人の町へ。
きつき衆楽観の前から鍵形交差点へと至る天神坂を登る。
坂の入り口に「天満橋」という小さな木の橋が架かっている。
昔、商人の町に流れていた谷川に架かっていた土橋を偲ぶモニュメント。
現在では区画整理のため谷川は姿を消してしまった。
しかし、暗渠化されて今でも地面の下を流れているのだそう。
谷間を通る細い道と脇を流れる細い川。
その両脇に連なる昔ながらの商店街。
都市計画で消滅する前に生で一度、この目で見たかったものだ。
天神坂の途中に名前の由来となった「天満社」が鎮座している。
申すまでもなく“天神様”菅原道真公を祀った神社だが、由来は少し複雑だ。
元和年間(1615-24)、安住寺の諸富某が四国へ向かう途中で暴風雨に遭遇。
近くの岩山に見えた天満宮に祈願したところ無事に帰国できた。
そこでに杵築にも天神様を祀ったのが起源の由。
その後は歴代藩主に篤く信仰され、町方総町の氏神として奉祀されてきた。
毎年7月24・25日の両日は300年以上の歴史を誇る「杵築天神祭り」が開催される。
25日の大祭では幾つもの山車が町中を練り歩き、美しい神輿が川を渡る。
ちなみにこの神輿、本来は杵築大社…つまり出雲大社に送られるはずのものだった。
それがどう間違ったのか、杵築の天満社に運ばれてきたのだそう。
以来、ここ杵築の地に据え置かれている。
幕府ですら木付と杵築を間違えるのだ。
杵築大社と杵築天満社の間違いぐらい可愛いものだろう。
[旅行日:2016年4月12日]